52パン職人の修造 江川と修造シリーズflowers in my heart

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今日は鴨似田フーズの創立30周年のパーティーだった。

NNホテルの豪華な会場に所狭しと鴨似田フーズの商品で作られた料理の数々が並べられ、招待客達は舌鼓を打っていた。

藤岡は兼ねてからの鴨似田夫人の念願だった『立食パーティーのサンドイッチコーナーで給仕をする』為に立っていた。客の希望のサンドイッチやタルティーヌなどを皿に取り分け渡す、その時笑顔がご希望だそうなのでニコッと笑って商品の説明を加えてから渡す決まりだ。

本来なら絶対やらないが、前回鴨似田夫人に助けて貰ったので今度はお礼に笑顔を振り撒きに来たのだ。

振り返ってみれば過去には俺ももっと爽やかな笑顔を自然にしてたものだ。パンロンドに就職した頃、立花さんを探す為に探偵に頼んだら結局見つからず料金だけ取られて頭に来て自分で探す事にしてパン屋巡りを始めた。自分でもその頃から険のある表情になって来たと気がついていた。

交際中の由梨の優しさと明るさのおかげで最近は笑顔が元に戻りつつあると思う。

会場で写真を撮って回っている歩田がさっきから藤岡の写真をバンバンに撮っている。きっと鴨似田夫人の命令だろう。

同じ会場にリーベンアンドブロートの大坂がいた。修造に頼まれて、周年記念の祝いの品を持って来たのだ。

「この度はおめでとうございます」受付で祝いの品を渡して帰ろうとすると、世話係の兵山に呼び止められる。

「リーブロの大坂さん、折角来られたのですからゆっくりして行って下さい」

「え、俺を知ってるんですか?」

「はい、江川さんの助手としてテレビに出てましたよね。見てましたよ」

「ありがとうございます。じゃあ折角だから少しだけ」

さあどうぞどうぞと会場に案内される。

普段着で着ているし居心地悪かったが、美味しそうな料理を見ているうちに気が変わり、ローストビーフや伊勢海老のグラタンを食べながらまだ何か食べようかななどと会場を見回していると、凄いイケメンがサンドイッチコーナーにいて、マダムがその周りを囲んでいる。

イケメンは皿を渡す時にいちいちマダムに言葉を掛けて笑顔を向けていた。

「あっ!あいつはあの時の、、」

大坂は思い出した。

笹目駅前のカフェで立花と話していて店から出て来た奴だ。

「超絶イケメンがなんでこんな所に」

大坂はコーナーの後ろから藤岡に声をかけた。

「あの、ちょっと話があるんだけど」

藤岡はまったく知らないこの男が自分の事を知ってる風だったので驚いたが、何故か話を聞かなければならない気がして少し離れた窓際にいざなった。

「君は誰?俺の事を知ってるの」

「俺は修造さんの店で立花さんと働いてる者だ」

「え」藤岡は立花の名前を聞いて身体が硬直した様になった。そして思い出した。江川の助手として先日テレビに出ていた男だ。江川となら分かるがあえて立花と言ってきたのは何故なんだろう。

「それで?」

「あんたと笹目駅のカフェで別れた後、あの人泣いてたんだよ、あの人はあんたの事を愛してる様だった」

「なんでその事を知ってるの」

「偶然店から出て来たところを見て」

藤丸パンの事、結婚の事、新生活の事、今はやる事が沢山ありすぎて毎日が目まぐるしく過ぎていく、過去の事はドンドン後ろの方に流れて行って正直分からなくなって来ている。

「俺は今いっぱいいっぱいで」

「だからあの人の事を思い出さないってのか」

「本当に申し訳ないけど、俺はもうあの人を忘れなくちゃならない、それに」

何故この男はこんなにムキになってるんだ。

「今は君がいるだろう」

付き合ってるわけでも無いのにそう言われて大坂は憤りと恥ずかしさが混同して顔が真っ赤になった。

「俺にはわかるんだ、あの人の孤独が透けて見える」

「原因は俺なのか、だったら何故消えたんだ」

「それは」

「知ってるなら教えてくれないか、本当の事を。あの人が消えてからあちこち探した。そうこうしてるうちに俺は顔つきまで変わってしまった。今思えばあの時の俺は心がカスカスしていた」

「そうだったのか」目の前にいるイケメンが立花をなおざりにして来たとずっと思っていたので急に大坂は黙り込んだ。

それに本当の事は自分にも分からない。

その時、サンドイッチコーナーから並んでいたマダム達が呼ぶ声がした。

「ごめん、もう戻らなくちゃ。教えてくれと言ったのは忘れてくれ。あの人を頼んだよ」

大坂は帰る為にエレベーターに乗り下に降りた。

「なんだ頼んだよって、お前に言われなくても俺に任せろってんだ、俺がいるってんだ」自分でそう思いながら虚しい。

大坂の足取りは重かった。

気温が上がり、リーベンアンドブロートのテラス席の横の花々は色採りどりに咲き乱れている。

リーベンアンドブロートに2度目の夏が来ようとしていた。

江川は2階に上がって経理でパン職人の塚田と一緒に1周年記念の計画を練っていた。

「特別メニューをカフェで食べられるとか記念品を作るとかどうかな?」

「良いですね、江川さん」

「特別メニューは世界大会のパンの中から選んだら?」

「どんなのが良いでしょう、みんな食べてみたいと思います。それとカフェでなくても買って帰られるものもあったら嬉しいな」

2人で候補を紙に書き出してあれが良いとかこれが良いとか話してると修造が入って来た。

「修造さんこれ」と言ってパンのメニューを書き出したものを見せようとしたが修造はコックコートと靴を脱ぎ、ソファの真ん中にドスっと座って頭を端に反対側に足を乗せて「うぅ」と呻いて横になった。

その様子を慣れた感じで2人は見ていた。限界まで工房にいて疲れて耐えられなくなったらここで横になって休むのだ。

「お腹が冷えちゃいますよ」もういびきを書いている修造に毛布をかけてやり、ポンポンと軽くお腹を叩いた。

その様子を見ながら

「もうそろそろ年中無休はやめて週一回でも休んだらどうでしょう」と塚田が言った。

「そうだね、でもいつお客様が来ても良い様にしたいんだって」

「長い事家に帰ってないみたいだし、大丈夫なんですかね?独身じゃないんだし、そのう、奥さんが怒ってないのかな」

「どうなんだろう?怖くて家に帰れないのかしら」

「まさか」

2人は顔を見合わせてフフフと笑った。

修造が目が覚めた後、江川は岡田に頼んでアボカドとエビのタルティーヌとコーヒーを持って来て貰い修造に渡した。

食事中の修造に向かって「明日から少し休んで下さい」と言った。

「え?なんで?」

「たまには帰らないと」

「今忙しいからなあ」

「いつも忙しいじゃないですか。それに1周年記念の頃にはもっと忙しくなるかもしれないんだし、今しかないですよ」

「そうかなあ」

「それと、1周年記念のパンですが、Chrysanthemen-Campagne(菊のカンパーニュ)とdreifach geflochtenes Brot(三連編み込みパン)にしようと思っています」

「わかった、じゃあ俺の休暇が終わる頃だからみんなで頑張ろう。俺の居ない間に菊のステンシルを頼んだよ」
「はい」

ーーーー

そんなこんなで心配しながらも修造は1週間休む事にした。

帰りの車の中で色々考えた。

それはこんな風だった。

今出来るだけ頑張って貯えておかないと俺が抜けた後困るだろう。最近は江川がパン職人決定戦の番組で2位になってから江川に会いに来るお客さんも珍しくない。いつも店の中はパンでいっぱいにしておきたいけどあんな風に休んで良いって言われるなんて江川もしっかりして来たな。

店の近くの高速入り口から本線に合流して車を走らせる。

家では律子孝行に勤しんで、土日は久しぶりにみんなで長野にある律子の実家に帰るかな。お義父さんやお義母さんにも長い事会ってないし。そして途中遊園地に行くのはどうだろう。よし!俺はこの期間は家族に張り付いて離れないぞ!

高速を降りて最寄りのスーパーに立ち寄った。律子の好物を色々作る予定だ。おやきにあんかけ焼きそばにソースカツ丼に山賊焼、信州そばに牛乳パン。

「待てよ、これ全部作ったら多分叱られるな。とりあえずあんかけ焼きそばは決定だ!カツ丼の豚肉は冷凍にできるしキャベツは他にも使えるしまあ買っとくか!」結局あれもこれもと買いすぎたが、料理していくうちに減るだろうと思い車のバッグドアを開け荷物を詰め込んだ。

しかし帰る途中で、よく考えてみると「そうだ、男の料理に対して妻がよく後片付けがなってないとか、作りすぎとか高額過ぎるとか苦情が出るのは耳にするな。俺も気をつけよう。そもそも片付けながら調理するとか基本だもんな。帰ったらまず冷蔵庫を掃除するか、いや待てよ、場所が変わったとかそれもまた叱られるから注意しよう。兎に角細心の注意を払って行動しないとな。家に入る瞬間から気をつけよう」江川に知られると「やっぱり怖いんですね」と揶揄われそうだがこっちは真剣なんだ!

と言うわけで車を駐車場に停めて荷物を持って口の端を上げる。

「ただいまーっ」

パンロンドに就職した時から住んでいるアパートは玄関を入ってすぐ右が風呂などの水場、その向かいのドアが台所、その奥がグリーンのソファとテーブルが置いてあるリビング、その右の部屋が寝室だ。家族が4人になって狭くなりすぎたがどうせ引っ越すんだからまあいいかと言うわけでそのまま暮らしている。

「あれ」

みんないないんだな。

律子に連絡してみる『帰ったよ。みんなどこ?』

返信を待ってる間に冷蔵庫の奥に新しいものをしまう。

次に台所のあちこちを気づかれないぐらいに退けて拭く「どけふき」をしておく。

「色々大変だろうなあ」

しかしこう言うと人ごと感があるのでこれはNGワードだ。

そう思いながら床を拭く。大地の食べこぼしもこまめに拭いてくれてるんだろうなぁ。

洗濯も大変だよ。

取り込んで机の上に置き畳んでみるが詳しい場所は分からない。

子供タンスの引き出しを開けては閉めて場所を探す。

続いて寝室兼勉強部屋の拭き掃除。

勉強机の教科書を閉じて隅に置く。

もう緑も4年か、早いなあ。

背も高くなって。

ちょっと感動していると『ピンコン』と音がした。

律子から返信が来た。

「おかえり修造。今日はみんなで緑のお友達の家族とバーベキューしたあとお泊まりさせて貰うの。帰りは明日になります」

「了解」と返信を送った後、気が抜けてソファにゴロリと横になる。

「そう言えば今日は土曜日か」学校も休みだし、明日は遊園地に行けそうもないか」学校があるから次の土日まで長野には帰れないんだな。

そんな事を考えているうちに寝てしまう。

夕方目が覚めた修造はふと親方に会いたくなってパンロンドに行く。

「あら、修ちゃんいらっしゃい」「奥さん無沙汰してます」と言いながら中に入り、他の職人一人一人にペコッペコっと頭を下ると「修造さーん」と杉本が手を振ってきたり他の職人たちも「修造さん」「元気か修造」などと声をかけられる。

親方の横に立つ。

「今日あれ行かないですか?」

「おっ!良いねぇ」

あれとは駅前の居酒屋で2人どちらかが飲み潰れるまで呑んで、残った方が勝ちという勝負なのだが、修造は全然酔わないのでいつも親方が酔い潰れるという会の事だ。

「修造さん、俺も行って良いですか?話したい事があります」

「おっ!藤岡も参加するか!行こう行こう」

というわけで満員で騒がしい居酒屋のテーブルを3人で囲む。

藤岡は修造に藤丸パン食品テロ未遂事件の話をした。

修造は出来事の全てに驚いて口を開けたまま聞いていた。

「杉本が協力してくれて助かりました、風花や由梨も無事連れて帰ってくれたし」

「それと、鴨似田夫人はメイクのせいなのか全然顔が違って見えた。それに若返ってたし」

「美魔女ってやつだな」

「そうなんです親方」

そこに入り口から入って来た男に藤岡が手招きした。

「初めまして、藤丸パン横浜工場長大和田です」大和田は二人に挨拶した。

「どうもね、俺はパンロンドの柚木阿具利」

「リーベンアンドブロートの田所修造です」

「今藤岡に話は聞いたよ」

「そうなんですね、私も全然気が付かずお恥ずかしいです。いつの間にか木田や足打(あしうち)が裏切っていたとは恐ろしいです。そもそも木田がメールのやり取りをしていて先に全員の取り分の20%を振り込まれたそうなんです。みんな借金があって金に困っていた連中ばかりで残りの金欲しさに実行犯になってあの様な事に」

「皆事情は違うけど金に困ってたんだなあ」親方が腕組みをしながらうなづいた。

「どこででも起こりうる話なのかなあ。知らない間に何かが蔓延してたり」

「中々分かんないもんですよね」修造と親方が目を合わせて頷いた。

「それで仲介の犯人が捕まったそうなんです」

「捕まったんですか?それもまだ仲介?その更に奥に企業とかいるのかな?」

「どうなんでしょう?実はそれも鴨似田夫人の部下が炙り出したそうですよ」

「歩田と兵山が?そんなできるタイプだったっけ?」修造はあの『ややお間抜けな2人』を思い出した。

大和田が説明した「鴨似田夫人は資産家の娘さんで、他にも有能な部下が何人かいる様です。投資専門、調査専門、不動産も実は手広くやってる様ですよ」

「へぇ、俺の調査なんて訳ないんだな、日光にも付いて来てたし」藤岡は納得して言った。

「それに」大和田が続けた。

「もしどの企業か知りたいなら本当に引っ掛かってみたら分かると言ってましたよ!冗談じゃない」

それを聞いて皆空虚な笑いを浮かべた。

「まだまだ調査は続きますね」

藤岡は気を取り直して正面に座っている2人に改めて向き合った。

「親方、修造さん、今まで藤丸パンの事を黙っててすみませんでした。俺、今回の事で反省しました。今度由梨を連れて親父に会って来ます」

「ん?由梨?」

「はい、俺達結婚する事になりました。先日プロポーズして」

「それはおめでとう」

「おめでとう藤岡」

「ありがとうございます。それで言いにくいんですが俺と由梨は同時に退職しないといけなくなって」

「由梨は家庭に入るって事?」

「いえ、横浜工場で一緒に働こうかなと思って。そうなると2人共色々と覚えなくちゃいけない事が多くて」

「ゆくゆくは藤丸パン全体を見なくちゃならん訳だな」

「はい、すみませんご迷惑をお掛けします」

「良いって事よ!楽な道のりじゃないかも知れないが大和田さんに教えて貰いながら仕事を自分の物にしていくんだな」

「これで社長も安堵なさるでしょう」

「大和田さん、よろしくお願いします」藤岡は頭を下げた。

「そう!由梨と藤岡を頼んます」

「お役に立てる様に頑張ります」

その後藤岡は言おうか言うまいか迷った挙句切り出した「修造さん、リーブロのガタイのいい、江川さんの助手をしてた奴がいるでしょう?」

「あぁ、大坂?」

「そいつと立花さんはどういう関係なんですか?」

「え」そんな立ち入った事は聞いた事ないし「知らないな、なんで?」

「いえ、なんでもありません」

「2人が何?」

「忘れて下さい」藤岡は立ち上がった。

「お、帰るのか?明日また話そうな」

「はい、修造さんもまた」

そう言って頭を下げた。

藤岡と大和田が帰った後2人は飲み比べをしてやはり親方が酔い潰れる。

「親方、帰りますよ」と言って水を飲ませた。

「うーん修造まだ飲めるぞ」

「もう無理ですって」

親方は机に顔を伏せ、唸るような小声を絞り出した。

「修造の次は藤岡がいなくなるのか、俺はあと何回こんな感じの気持ちを味わうんだ」

いつもはこんな事を絶対言わない親方が酔った勢いで本音を吐露した。

「今は親方の気持ちが分かります」

同じ空間で自分が育てたものが無くなってしまう。

それは人でもあり、形作って来た技術とか人情でもある。

「寂しいですね」

「うん」

「またやり直しましょう。何度でもですよ。また煌めく星を見る瞬間がありますよ」

「なんだ煌めく星って」

修造に抱えられて親方は家路に就いた。

帰り道

夜風が気持ちいい。

今自分の所で働いている者達もいずれ何らかの理由で出ていく事もあるだろう。

「そう思うと寂しいな」

しかしこれは仕方ない事なんだ、それでも自分はパン職人を続けていく。

親方の様に「よし!分かった!これからも頑張れよ」って言わなくちゃ。

修造の目から何故か涙が流れた。

次の朝

泥の様に眠っている修造の腹の上に急にドスン!と衝撃が起こり、顔面に釣るような痛みが起こった。

「うわ」っと目を覚ますと大地がけらけらと笑って腹の上にまたがっていた。

「大地」

大地の脇を抱えて顔を近づけたら今度は「くしゃい」と言って小さな手のひらで酒臭い修造の顔をペチペチ叩いて来た。

「痛い痛い」うつ伏せになって攻撃を避けていると今度は背中の上で立ち上がってグラグラしている。

「すごく可愛くてすごくやんちゃだ」

「修造ただいま、昨日はごめんね」と隣の部屋から声を掛けながら律子はなんとなく小綺麗になってる部屋や冷蔵庫の中を見まわした。

「助かるわあ」洗濯機を回しながら綺麗になって片付けられているベランダを見ながら言った。

拭き掃除をするものの汚れが角に残っていく、それを分かっちゃいるが見て見ぬ振りをする「また年末にでも」なんて具合に。

日常の汚れは徐々に溜まっていくが中々綺麗にするのが億劫な時もある、それがスッキリ片付いていると気持ちいい。

修造の背中に乗り今度は「お馬さん」をしている大地は時々足で修造の両脇をポンポン蹴った「いてて」そう言いながらも息子の成長を背中で感じて嬉しい。

長女の緑は早速テレビの美少女戦隊シリーズを見ている「お父さんただいま」ちょっとだけこっちを見てまた画面の方を向いた「おかえり緑」

「律子、俺しばらく休みなんだよ、来週長野に帰らない?」

「長い休みなのね、じゃあお母さんに連絡しておくわ」

「うん」

大地を膝に乗せながらコーヒーを飲んでいると「お父さん、私お父さんのお城に行きたい、ねえお母さんいいでしょう?」と緑が言った「いいわよ」

緑はリーブロに来た時は必ずお城の様だと言っている。

「気に入ってくれて嬉しいよ。じゃあ後で出かけよう」

リーベンアンドブロートのテラスの花々は風に揺れて見ているだけで癒される。

修造は用事を済ませる為に工房に行ってる間に3人は選んだパンを食べていた。

「美味しいねお父さんのお店のパン」

「本当にいい店ね、お客様もいい表情だわ」

確かに、テラスのテーブルに座っている人々は癒しの空間で寛いでいる様に見える.

「あ、大地」

大地はぴょんと席から飛び降りて他のテーブルに1人で座っている高級そうなワンピースを着たお客の所に行って抱きついた。

ツバの大きい帽子を深々と被った女性客は「可愛いわ」と言って大地を抱き上げ顔を見つめてから抱きしめたが、それがとても長い様に思えて律子は「すみませんうちの子が」と言って大地を自分の所に引き寄せて席に連れ戻した。

「何かしらあの人、1人で店の方を向いて中を覗いてる様だった。ひょっとして他の店の偵察かしら、それに泣いてる様にも見えた」と思ったが、大地が他の席に走って行ったのでもうその事はすぐに忘れてしまった。

修造がテラスに戻って来た時はもう帽子の女性客は消えていた。修造はマーガレットを持って来て律子に渡した。

白い花びらに黄色い筒状花が可愛らしい「ありがとう」

緑と大地がてんとう虫を見つけて他にもいるか探している「癒されるわね」それは修造の目指しているものだった、それを同じ空間で分かってくれる律子がとても愛おしい。

2人はテラスの椅子に座って机の下で手を繋いだ。

「ああやって自分の理想に自分を近づける人間は耐えず努力している」店内から2人の様子を見ていた岡田克美は凄く冷静な目で横にいる中谷麻友に言った。

「その時は努力とは思ってない、もがいてる最中だから」

「修造さんってもがいてるんですか?」

「それは後で分かることであって、動いているうちは努力してるとは思っていない訳だし」

「きっと家庭の事も一生懸命なんでしょうね」

「それが当たり前になってるものだけが成功するのかも知れない。仕事にせよ家庭にせよ趣味にせよ」

「周りもそれに引っ張られて動き出してますよね。私達回転率良いですもの」

「回転率?」

「はい、ここに来てから修造さんや江川さんを見て効率よく仕事したりするクセがついたと言うか。勿論岡田さんもですよ」

「私も?」

「そうです、仕事のできる人なので」

「回転率ではなくて起動力ですよね」

そう言って岡田はその場から離れ布巾を持ってきた。

側から見たら全く分からないが岡田は照れながらテーブルを拭いた。

ーーーー

一方その頃パンロンドでは

親方がみんなを集めて由梨と藤岡を真ん中に立たせた。

「2人は結婚して藤岡の実家の家業を継ぐ事になった」

「えーっつ」皆驚いたが丸子と風花は由梨から聞いて知ってる風だった。

「おめでとう」

「よかったね由梨ちゃん」

「皆さん勝手してすみません」

「2人とも新たな生活を送るんだな」

「頑張ってね」

などと皆言っている中心底驚いている奴がいた。

杉本は目を見開いて「藤岡さんが居なくなるの」と言う言葉が頭の中でグルグル回っていた。

杉本の表情を見て藤岡は「ごめんな、お前のお陰で色々助かったし、これでもう前に進むしかなくなった。親方が求人を出すって言ってるから人員補充できたら俺が教えてから行くから」

なんだか自分のせいで藤岡が居なくなる様な気持ちになる。

夕方

杉本は風花を送って行く途中で慰められていた。

「藤岡さんが辞めるの言わなくて悪かったわよ。私は由梨ちゃんに聞いてたしぃ、龍樹は藤岡さんに聞いてると思ってたのよぅ」

杉本は半泣きで「びっくりした」とまだショックを受けている。

「求人も出してるんだし、まだ期間もあるんだし、ね」

「うぅ、修造さんが居なくなったのに藤岡さんまで」

「まあまあ、すぐ慣れるって」

帰ってから杉本はベッドに横になって考えた。

俺はどうしたらいいんだ。

修造の舎弟で藤岡の付属品

皆にそう思わせる程依頼心が強い

自分でも分かってる

後輩が入って来て「先輩これどうやったらいいんですかぁ」

そう言われてどうやって逃げたらいいんだ。

杉本は天井を見つめていた。

「とりあえず親方に聞けよって言うか」

ーーーー

杉本龍樹はそれ以降明らかに何か思い詰めた様に見えるので母親の恵美子は父親の茂に相談した。

「お父さん、ちょっと見て」と言って2人でそっと部屋を覗くと、電気の消えた部屋でスマホの画面をずっと見ている。

その後2人はこっそり1階に降りて相談した。

「ね、最近ずっとああなのよ」

「なんだろうな、風花ちゃんに振られたとか?」

「えぇ?とうとう見捨てられたのかしら」恵美子はオロオロした。

「よし俺が聞いてみるぞ」

茂は部屋に入ってスイッチを探して電気を点ける。

「なんだよ急に、眩しいな」ベッドで横になってスマホを見ていた杉本は横を向いて目をしばしばさせた。

「おい、何をそんなに真剣に見てるんだ。どうかしたのか」

「別にどうもしねよ」

「なあ」

「は?」

「最近風花ちゃんはどうした?会ってないのか?」

「俺仕事終わったらすぐ帰ってるから、でもパンロンドで毎日会ってるし」

「そうか、2人の恋は順調なのか?」

「なんだよ恋って気持ち悪いな」茂から恋とか言う言葉が出たのでちょっと引く。

「俺用があるから出てってくれよ」

用ってスマホ見てるだけのクセに、そう思いながら茂は部屋から出た。

両親の心配を他所にその後も杉本はずっと画面を見ていた。

作業中

杉本は350gに生地を分割をしていた。
側から見てもモヤモヤと物思いに耽ってるように見える。分割だけを続けていたので台の上にいっぱいになってきた。

見かねた由梨が生地を丸めて箱に入れるのを手伝いながら杉本に話かけて来た。

「あの、忙しいのに2人で抜ける事になってすみません」

「俺どうしたらいいか分かんなくなって、でも藤岡さんには世話になったし幸せになって欲しいと思ってる」

「はい、私も幸せになって欲しいです。だから精一杯手伝おうと思って。凄く大変そうな所も見てしまったし」

「ああ、あれ」2人とも捕まったり走ったり投げ飛ばしたりしている藤岡を思い出した。

「はい、なので絶対にこれからもそばに居ようと思っています」

由梨の瞳からは決心の様なものが漲っていた。

「強いんだなあ」由梨の事を藤岡のひっつき虫と思っていた杉本は感想を洩らした。

「それに引き換え俺は急に足元がぐらぐらしてる気分」

なんだかいつもと違う杉本を見て風花は心配になってきた。

最近は一緒に帰らずに先に帰ってしまう。

「いつもなら待っててくれるのに」

仕事帰り

風花は杉本の家を訪ねた。

「あら、風花ちゃん!いらっしゃい」風花が来たので恵美子は大喜びで迎え入れた。

「龍樹いますか」

「ええ、2階にいてるわよ。ねえ、最近あの子様子がおかしいけど職場ではどうなの」

「はい、元気ないです。だから様子を見に来たんです。家ではどうしてるんですか」

「帰ったらずっと部屋に篭ってスマホ見てるのよ、様子見てくれる?」

「わかりました、お邪魔します」

風花は2階に上がり暗い部屋で何を観てるのかスマホを取り上げて見た。

「パンの動画見てたの」風花も知ってるような有名シェフが懇切丁寧にパン作りの手順を解説している。

「そう、返して」

「ごめん」

「俺1人じゃ結局なんも分かんないから」

「そんなことないよ。試験だって受かったじゃない。どうしたの急に。藤岡さんが辞めちゃうのがそんなに負担なの?」

「俺は俺の馬鹿さ加減に気が付いたんだ。今までのいい加減な俺を思い出すと腹が立つようになったんだ。それだけだよ」

だから毎日先輩の動きを脳内で蘇らせたり、パンの動画を観たりして自分の中に蓄えを作ってたんだ。

ある時 それは脳内で完成した。

「おっ」

親方は杉本の動きが今までとまるで違う事に気がついた。

今までは藤岡の指示通りにしてて1人でやらせると急に失速したりしてたのに「生まれ変わった?」と思わせる程何かが違う。

こいつとうとう自分で考えて出来る様になってきたんだな。今まで人任せでいい加減だったのに。

そして向こうから杉本を見ている藤岡と目があって

2人してニヤリと笑った。

親方と藤岡が見ていたもの。

それは開眼した者だけが掴む『星の輝き』と修造が呼んでいた事象の事だ。

ある日突然悟ったことがあってメキメキと上達したりする。

本人も気が付かないうちに今までの事が全て自分の物になり、技術と実力となって現れる。

親方はあの時酔っ払っていたので修造の言った事は覚えていないし、修造はこの事を知らないし、勿論杉本も知る由も無い。

が、ここに1人のパン職人が誕生した。

土曜日

修造一家は早朝の新幹線はくたかに乗った。

長野駅からレンタカーを借りて計画通りファミリーランドに家族で行く。

乗り物に乗った後、ウサギのふれあいコーナーに行くと大地がウサギを珍しがって追いかけ回した。大地を捕まえて「優しく撫でて」と説得して2人でなでなでしたり、アスレチックを楽しんだりと子供達の楽しそうな顔を見て自分も満足していた。

そうしながらもリーブロでの忙しい最中にいた自分と、このレジャーランドでの自分の違いに戸惑う。パン作りには計画を立て様々な生地の発酵と焼成を組み立てて進めていかなければならない。いつも自分はその事に夢中になって他の事が目に入らなくなる。

だが家族と楽しんでいる自分もまた本物の自分だ。

時々その考えが頭に浮かぶ。

こんな時自分の中にある『違和感』と言う感覚がしっくりくる。

スワンボートに乗って緑と2人でペダルを踏んでいると水のバシャバシャいう音がボートの中に響く。

キラキラした水辺とその周りの木々が煌めいて見える。風に乗って木々の香りがスワンボートに届くと故郷の山の事を思い出す。

そう、自分はもうすぐこの様な山の自然の中で、自分のパン作りに集中すると決めている。

家族と共に自分だけの絶対的なパン作りを追求するのだ。

そんな事を考えながら修造は律子を見つめた。

律子も修造の視線に気付き微笑み返した。

健康な修造の白目はいつも青く光り、輝いている。知り合った頃からよく修造の眼を覗き込んだものだ。

律子もまた、同じ所で修造が長い時間一緒に過ごす毎日が訪れるのを楽しみにしていた。

夕方

律子の父親の巌(いわお)と容子、妹のその子が待ち構えていた。

巌は厳しい表情で修造一家が来るのを待っていたが、孫達の顔を見た途端デレデレと目尻を下げた「みっちゃん、だいちゃーん、いらっしゃい」

「おじいちゃんおばあちゃん、その子ちゃんこんばんは」

「疲れたろう、さあお入り。みっちゃんの好きな御馳走も用意したよ」

孫に取り入る事に全力を注ぎ過ぎて修造は目に入らない。

いつもの事なのでその子に挨拶して中に入る。

大地はドタドタと長い廊下を走って突き当たりの壁にドン!と飛び蹴りを喰らわせた。

「こら、大地」

律子の実家が来られたら一大事だ。

流石に大地を抱き上げて「やっちゃダメ」と叱ると足をジタバタさせて飛び降り、巌の所に走って行ったので「大地!」と律子が叱りつけた。。

「元気でいいじゃないか、だいちゃんはエネルギーが有り余る程あるんだよ。まだ2歳なのにいい蹴りだったな!将来は格闘家になるかい?」巌は膝から背中によじ登る大地を見ながら言った。

修造は壁を調べてどうもないのでホッとした「もうすぐ空手道場に連れて行こうと思っています。緑も通っていますし」

「そうかそうか、空手を習うのかい?だいちゃんなら壁を突き破れるかも知れないよ」

「まただわ、お父さんはいつも子供達に甘すぎるわよ。大地の為にならないわ」と律子に叱られる。

「躾はお前達の仕事だろ、おじいちゃんはたまに会うんだからだいちゃんに嫌われたくないもんねぇ」と巌は膝に座って「うん」と頷く大地に笑顔を向けた。

修造は律子に叱られるから言わなかったが、ジャンプからインパクトまでの的確な蹴りの姿勢が確かに2歳児とは思えない『絶対才能あるな、早く道場に連れて行こう』

食事の後

庭で巌と容子が孫と花火を楽しむ姿を見ながら縁側に座って道の駅で買った北アルプスブルワリーのクラフトビールを飲んでいた。

律子が台所の片付けを終えて花火に参加したので、巌は修造の横に座った。

修造は黙ってビールをグラスに注いで渡した。

「空手はお前の実家の近くにある道場に通わせるつもりなのか」

「はい、そうするつもりです」

「そうか」

そのまま2人は何も話さずに終盤の線香花火が小さく弾けるのを見ていた。

「律子を頼むぞ」

「はい」

茂の方を向くと、暗い中に花火の赤い色がうっすら当たり、以前よりも歳をとり小さく見える巌の横顔があった。

ーーーー

9日間の休暇が終わり

修造が家族と過ごしてリフレッシュして帰って来た。

正直、皆修造が休んで忙しさに拍車が掛かっていたのでホッとした。

「みんな急に抜けてごめん」

明日から1周年記念イベントが始まる、皆準備をしている最中だった。

「大丈夫ですよ」と言いながら重戦車の様な修造の仕事ぶりに皆内心『ポイントの高すぎるシェフ』と思っていた。

しかしそこで修造は言わなくてもいい事を言ってしまう。

発酵カゴを沢山乗せた板を持って立花の横を通り過ぎた後で振り向き「立花さん、藤岡って知ってる?」と聞いた。

丁度ボールを抱えてホイッパーで生クリームを立てていた立花が振り向いた途端にボールを滑らせて下に落とした。ガシャーンと音がして、横にいた江川の顔にクリームがビチャっと飛んだ「きゃっ」慌てた江川は後ろにいた登野の足を踏んだ「痛い」手に持っていた天板が2枚ともバーンと下に落ちてラスクが散乱した。

ボールはクリームを撒き散らした後、グワングワンと音を立ててその場でグルグル回っていた。

大坂はボールをシンクに入れて、立花がホイッパーを手に持って立っているので脇に避けてタオルであちこち拭きながら修造に何か文句めいた事を口パクで伝えている。

惨状を見ながら修造は「ごめんみんな」と言った。

大坂は下を拭いた後ホイッパーを手から離して「休憩行きましょう」と言って2階に連れて行った。

江川が「僕も行くよう」と着替えに行こうとしたので「まあまあ、ほらこれで拭いたらいいでしょう」と皆に引き止められる。

2階の休憩室では

大坂はタオルを洗って立花の手や靴のクリームを拭いてやっていた。

「ごめんなさい、拭き掃除ありがとう。修造さんの口から意外な人の名前が出たから驚いて」

「藤岡って言うんですね」

「そう、もうあまり思い出さない。もう何年も経ってるの」

何からなのか聞かなくても分かってる。

「あの、さっきの事を見ていてこのままだといけない。俺はそう思いました。仕事と好きな人どちらを取るのかと言うとですが、もし振られたら仕事し辛くなると思います。でももっと大事な事なんです。この先の事なんです」

「ありがとう大坂君。この先、私将来は自分のお店を開きたいの。だからそれまでに沢山のことを勉強しなきゃ」立花は話の焦点をぼやかせた。

「俺も一緒に

その

働いても良いですか」

「今の仕事はどうするの」

「修造さんはわかってくれると思います。俺の立花さんに対する気持ち。俺は立花さんを何よりも大切で愛しています」

「私は大坂君にそんな風に言ってもらえる様な人間じゃ無いの」

「どういう意味ですか」

「私は嘘つきだから近寄っちゃダメ」

「確か前にも同じことを言ってましたね」

大坂は立花が藤岡と駅前の喫茶店でお別れした時に泣きながら「私は嘘つきだからこうして1人で歩いてるの」と言っていたのを思い出した。

「嘘つきなんじゃ無くて本当の事を言ってなかっただけでしょう。あの超絶イケメンを愛してるから本当の事がいえないのなら、俺みたいになんとも思ってない奴には言えるでしょう」

その言葉を聞いて立花は堰を切ったように涙が止まらなくなり大坂の胸に縋り付くのと大坂が抱き止めるのが同時になった。

「私胸に傷があるの、でも藤岡君にはどうしても言えなかった」

「もう昔の事ですよ。俺に言ってくれてありがとう。もう大丈夫、自分を苦しめるのとさよならしよう。俺と一緒にもっと自分に優しくしよう。時間が色んな傷を消してくれる」

立花は大坂の胸の中で小さく「うん」と頷いた。

おわり

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おまけ

風花

俺あと2年したら

製パン技術士二級の

資格試験受けるつもり

うん

そしたら俺と

うん、受かったらね

やっぱそうなる?

うん

私待ってるね

うん

51パン職人の修造 江川と修造シリーズ prevent a crisis 杉本

パン職人の修造 江川と修造シリーズ prevent a crisis 杉本

東南駅から西に続く東南商店街

その真ん中にある人気パン店パンロンドでは今日もオーナー(通称親方)がパン工場の真ん中に立ってパンを成形していた。その周りには元ギャンブラーの佐久山浩太、のんべえの広巻悠二という古株の職人が2人と、イケメンで仕事のできるタイプで実はYouTuberの藤岡恭介、最近また髪の色が『肌の色に合うから』と明るめになってきた元ヤンキーの杉本龍樹、実家が呉服屋の花嶋由梨が忙しそうに働いていた。

由梨は綺麗な湖のほとりで藤岡に告白されて以降、夢の様なふわふわした毎日を送っていた。誰かから大切にされるってこういう事なんだわなんて実感している所だ。

先日も2人で動画を撮りに行って楽しく過ごした。

ーーーー

さて

今日はその由梨と藤岡、そしてパンロンドの店員で杉本の彼女の森谷風花が杉本の家にお呼ばれで来ていた。

3人を呼んだのは杉本の両親茂と恵美子だった。

恵美子は一際明るい声で「まぁーみなさん今日はよくお越し下さいました。ゆっくりしてって頂戴ね」と言ってテーブルに頑張って作った料理の数々を並べた。

この場合1番気を使うのは杉本と付き合っている風花だ。

「私も手伝います」と、一緒に小皿や箸を並べた。

「あら、風花ちゃん助かるわあ。龍樹なんて帰ってきたらなーんにもしないのよ」そう言って渾身の笑顔を風花に向けた。

それを見ていた藤岡は「こりゃ取り込もうとしてるよね」と言葉に出したが

「取り込むって何をですかぁ藤岡さーん」自分の前にいっぱい皿を置いて鶏の照り焼きを頬張っている杉本に言われる。

「聞こえてたんなら言わせて貰うけど、お前がだらし無いから風花ちゃんを自分達の力でお前と結婚させようとしてるって事」

「えー、俺が結婚する日が来るとは思えないなあ」

「確かにな、ほんとに何も考えてないもんね」

「そんな事ないですよぉ」

「何がそんな事ないんだ龍樹、みんなで食べよう!風花ちゃん龍樹の横に座って!さあどうぞどうぞ。ローストポークもあるよ」父親の茂も笑顔を振りまいた。

茂が皿を差し出すと「風花ちゃん、私が取り分けるわね」と恵美子も連携プレーを取った。

みんなが談笑しつつ、と言うかさながら司会のように恵美子と茂が代るがわる話を振ってくる。

「由梨ちゃんは藤岡さんとお付き合いしてどのぐらいなの?まあ、フレッシュで良いわねぇ」

「藤岡君タワマンに住んでるんだって?眺め良いだろうなあ」

などと会話を広げた後、茂が最大限さりげなく「ところで風花ちゃんは結婚とかいつ頃したいとかあるのかなあ」と切り出した。

「えっ結婚ですか?」風花は疑問いっぱいの顔で隣に座って今度はピザをモグモグ食べている杉本を見た。

「まだまだと思います」杉本が結婚について考えてるとは到底思えないし、大事にはして貰ってるものの、真に信頼に値するかどうかはわからない。

まだまだと聞いて茂と恵美子は小皿か何かを取りに行くふりをして台所に集合した「お父さん、風花ちゃんの気持ちも分かるわね」「もし風花ちゃんに逃げられたらあいつに風花ちゃん以上の彼女が見つかるとは到底思えない!ラストチャンスかもしれないぞ母さん」

こそこそ話す2人を見て藤岡は笑いそうになった「大変だな」

食事会も終盤、藤岡は気の毒な2人の為に話を振ってやった「若くして結婚するカップルも珍しくはない。みんなでいい旦那さんを育てるという方法もあるよ」と、風花の方を見て言った。

それを聞いた茂と恵美子もウンウンと目を輝かせて頷いた。

それを聞いた由梨は「結婚」と呟いた。今のは杉本と風花の事と分かってるが、藤岡は自分の事をどう思ってるんだろう。いつか結婚とかする時が来るのかしら。

ーーーー

次の日

昨日は特に茂達に何か答えを出した訳でもなく杉本に対して期待もしていないまま風花はいつもの様に仕事をしていた。

「風花、仕事終わったらもんじゃ焼き食べ行こう」

「良いけど」

「じゃあ後でな」

そう言ってパンを焼きに戻った杉本を見て風花は「本当に何も考えてないよね」と呟いた。そして横にいる柚木の奥さん丸子(まるこ)に昨日の事を話した。

「私は杉本君良いと思うけどなあ、ほら、以前も風花ちゃんの為に犯人を突き止めて捕まえてくれたじゃない?一緒に暮らして気楽な事と、何かあったら相談できる人、自分を裏切らない人。その3つがあればオッケーよ」

丸子はなんだか結婚式の挨拶の3つの袋みたいな話をした。

大金持ちでも居心地悪くては長く一緒にはいられない。

夕方

東南駅の裏側の通りにある行きつけのもんじゃ焼き屋で向かい合って座る。

風花はもんじゃ焼きをコテで掬ってフーフーしながら食べている杉本に「私達ずっと同じ空間に何年も一緒にいられるかな」と聞いてみた。

「俺は風花とならいられるな」

「そうかな」実際にやってみないとわからない。

「そういえば修造さんも結婚前に律子さんと同棲してたって言ってたな」

「知ってる、律子さんが修造さんのアパートに移り住んで来たのよね」

「2人とも1人暮らしだったから」

「それは素敵だと思うけどお、自分達の事になると話は別よね」

「なんでぇ」

「だって、ずっと自分の旦那さんを叱ったり注意したりするのって大変そうだわ、生活とか子育てとかあるのよ?」

「叱られるの前提かあ確かに大変そうだなあ」

「他人事じゃない」

明太餅もんじゃをふーふーしながら杉本はちょっと考えてみた。『結婚を申し込んだら絶対風花は俺に「〇〇したら結婚してあげる」とか言うんだろな』

「今度は何だろな」

「何だろなって何の事よ」

「えっ何でもないない、すみませーん!おばちゃーんチーズ追加」

話を誤魔化す為に杉本は店の女将に大声で追加注文した。

ーーーー

休みの日、由梨と藤岡はYouTube用の動画「各駅停車パン屋巡り」を撮る為に日光に来ていた。

電車を降りる前から動画を撮り始める。

電車が去って行くのを撮った後、観光客の流れに乗って一緒に日光街道を動画を撮りながら歩き始めると、すぐに目的のパン屋さんにやって来た。

1階はベーカリー、2階はカフェで2人は可愛らしい小花柄の皿に乗って運ばれてきた厚切りのパンを3切れに切ったシナモントーストを分け合って食べた。

コーヒーを飲みながら2人はこれからの行き道について話したり、さっき撮った動画をチェックしたりしていた。

「この先の神橋の手前にも同じベーカリーがあるんだ、その横の坂を登った所にあるホテルにもパンが置いてるよ」

「はい、そのホテルって150年も前にできたんですか?」

「そうらしいよ、そのホテルでのパンの外販が始まったのが1968年だから55年以上になるよね」

「すごい歴史がある所なんですね」

「そこも後で覗いてみようか」

2人は店を出て、また歩いて赤い屋根で2階建ての建物の角にあるパン店に入った。

確かに歴史を感じる佇まいで陳列も上品だ。

「横浜の歴史のあるパン屋さんを思い出すな。雰囲気が似てる」

「そのお店も随分前に出来たんですか」

「確か明治半ばにできたんだよ、130年以上経つよね。そうだ、今度行ってみよう、言いたい事が伝わるかも」

「はい」

「そこ俺の実家の近くなんだ、ほら、こないだ言ってた満天星躑躅(どうだんつつじ)がある所」

「行ってみたいです」と言ってから藤岡の実家に行ってみたいと言っている事に気がつく「あの」ちょっと赤くなった由梨を見て、藤岡は微笑みながらねじりパンの『フレンチコッペ』をトレーに乗せた。

由梨は同じトレーにフルーツケーキ風の中味が入っている『ブランデー』という甘いパンをを照れながら乗せた。

「そこにも今度行ってみよう」

その後2人は神橋から川の流れを眺めながら話した「まだまだ行ってないパン屋さんがあるね」

「はい、どの店もお客様をお迎えする為に朝早くから色んなパンを作るけれど、どんな地域のどの店も同じパンじゃない、さっきのパン屋さんみたいに初代の製法を大切に守り続けて結果的にそれが地域の歴史を作ったり、パンロンドみたいに商店街に根付いて自ら作っていっている客層もあるんだなと最近になって気がつきました」

「そうなんだ!いい事言うなあ。そういう意味でも奥が深いよね、知らない事も沢山ある」

「はい」

そう言いながら信号を渡り、東照宮に向かって坂道を歩き出した。

「結構人が多いね」

最近は歩く時は手を繋ぐのが習慣付いていて、お互いの手の温もりが伝わり心も温かくなるのを感じていた。

幸せと言う言葉は最近になって初めて気がついた程、由梨は嫌な子供時代を過ごしてきた、街の人達に根も葉もない悪い噂話をばら撒かれて外を歩くのも辛かった。

「あの」

「うん」

「す、好きです藤岡さん」

「ありがとう、俺もだよ」

人に聞かれると恥ずかしいが、どうしても今伝えたかった。

「今日は由梨の写真をいっぱい撮ろう」

「はい、藤岡さんの写真も撮りたいです」

日光から帰った夜

藤岡がタワマンの自室で動画を編集していた時電話がかかってきた。

「はい、ああどうも、え?何故それを俺に?そうなんですね。じゃあ調べに行きますよ、それじゃあ」

そう言って電話を切った後「さてどうするかな」と大きな窓の夜の街を見ていた。

ーーーー

次の日

パンロンドで作業中

藤岡は親方にお願い事をした。

親方の返事は「勿論いいけど杉本は何て言うかな」

「何も言わずに協力すると思います」

「そう?」

親方は杉本に手招きした。

「何ですかぁ親方」

「お前な、転職しろ。明日から横浜の工場へ行ってもらうから」

「えっっっっ」目を見開いた杉本の額から汗が流れた。

「パンロンド2号店?」という問いかけに親方と藤岡が違う違うと手を横に振った。

ーーーー

その翌日

親方の言った通り本当に横浜の工場にやって来た。

1人で工場の裏側みたいな所に立った。

「ここ?」工場の周りは高い塀で覆われて入り口がよくわからない。

「広いな」やっと裏門みたいな所を見つけた。この周りだけはブロック塀では無く白い鉄製の柵になっていて、植え込みの間から中が見える。

門の向こうに4人男が立っている。

「ユニフォーム着てるからここの人だよね」杉本は隙間から顔をつっこんで覗いた。

「明日、分かってるな」

「はい」

「14時決行だ」

「はい」

4人は打ち合わせ中らしく真剣な面持ちだ。

年齢はばらつきがあり、50歳ぐらいの目が細くて釣り上がった男の名札には足打と書いてある。その隣の40ぐらいの男は最上、後の2人は若くて大島と京田。

「あの〜すみません、今日からここで働くらしい杉本なんですけどぉ」

「今日から?らしいってなんだ」

「聞いてないな」

「大和田って人に会えば分かるって言われて」

「大和田工場長の事かな」

「他にいないだろ」

「じゃあ入れよ」

杉本が中に入って建物のドアを目掛けて歩き出すと「待て」と年配の男が引き留めた。

「お前俺達のさっきの会話聞いてただろ」

「何の事ですかぁ」

「聞いてなかったのかな」

「何の事かわからないのでは?」

「まあいい行け」

そう言われると気になる。

何て言ってたっけ?明日14時ケッコウ?

ケッコウです?

「コケコッコー」と言いながら工場の裏口らしい鉄のドアを開けた。

振り向くと4人の姿は消えていた。

「大和田工場長いますかー」

小学校程の大きさの施設の中は概ね2つに仕切られていて、一つは工場に入らなくても通れる様になってる入口から出口まで続く通路で、もう一つは工場だ。ガラスで仕切られていて通路からも中で作業をしているのかよく見える。工場は奥の機械の所から大型の装置が延々と繋がってそのまた奥へと伸びている。

「大きな工場、それにいい匂い」

機械の部屋の方からライトグリーンの作業着を着た体格のいい50代ぐらいの男が走って来た。

「杉本龍樹君?」

「そうっす」

「君天才って聞いてるけど」大和田悟は上から下まで杉本を見回した。どう見てもアホっぽい元ヤンだ。

「そう、俺天才なんすよ。書いたら色々覚えられるんで、でも勉強は嫌いかな」

(ご存知の方もおられるかもしれないが、杉本は書けば何でも覚えられる、なので取り敢えず何でも書くように藤岡に躾られている。ただし本人も言っているように勉強する気は無い)

「へぇ、杉本君ここの施設について説明するよ」大和田は天才の話は嘘だったと思いもうそれ以上は聞かず、施設の説明をする為に歩き出した。

「ここって何を作ってるんですかぁ」

「何も知らずに来たのか?ここは藤丸パン横浜工場だよ」

「えっ俺小学生の時の給食のパンが藤丸パンでした!すげ〜」

「藤丸パンは3代続く製パン工場なんだ。横浜は勿論関東一円にパンを卸している」

「スーパーでお母さんが買って来てます」

「そう?」大和田は満足気に頷いた。

大和田と杉本はまず宇宙服のような繋ぎに長ぐつ、マスクとネット帽子に着替えた。その後風を浴びて消毒液の上を歩いて中に入った。

巨大な漏斗から材料がミキサーに流し込まれて生地が大型のミキサーで捏ねられる所を見学。生地が捏ね上がると巨大なボックスに流し込まれる「すげー」もう少し進むと分割された生地が絶え間なく流れてくるレーンをみた「すげー」そして長い長いオーブンから焼きたてのパンが流れてきて、最後は自動で袋に入れられた後、箱詰めされて出荷されていく「すげー」

「面白いだろ?」

「初めて見たな、パン工場」

「今日は何しに来たか分かってる?何か分かったらメモして私に渡すようにね」

「はあ」

「あ、ここで待ってて、電話がかかって来たから。はい大和田でございます」と、ちょっと離れた所に走って行った。

「俺、何しに来たんだっけ?」昨日藤岡に指定された住所に行って何か探って来いと言われた「無茶言うな」とりあえずそこにあったホワイトボードに今日の事を書き出す。

明日だから18日

14時結構、血行、ケッコウ、決行

4人

大和田工場長

トンネル型オーブンは長い

俺はイケメン

「このぐらいかな」とペンを置くと同時に

「あんた何やってるの?」と50ぐらいの女性が声をかけてきた。名札の名前は小田だ。

「今日のトピックを書いてて」

「あんた見かけない顔だね、新人かい?年はいくつなの?」

「今日初めてここに来ました、新人の杉本君です。21です」

「あれ!おばちゃんの息子と同じだよ。可愛いねぇ」

「可愛いでしょ」

「ところでこの4人って何の事だい」

「裏にいた4人の男が相談してて、明日14時ケッコウだって」

「何を?」

「わかんない、何だと思う?」

「うーん多分この4人は足打達だね。あたしゃこいつにお金を貸しててね。なかなか返さないんだよ」

「悪いやつだなあ」

「多分何か悪巧みしてるんだよ」

「そうかなあ」

「そうだ、これも書いておこう」ホワイトボードに4人組の名前を書いた。

そこへ大和田が戻ってきた「小田さん、今日は杉本君を面倒見てくれない?色々教えてあげてね」そして杉本には「頼んだぞ」と言ってきた。そして杉本が書いた文字を写メで撮って何処かに送信した後慌てて消していた。

「わかりました、じゃあ行こうか杉本君」

「はーい」

2人は流れてきたパンをチェックする所に行った。

6レーンで流れてくる小型のあんぱんの変な形のものをはねるのだ。

小田はこういうのとかああいうのはダメとか説明して一緒に作業を開始した。元ボクサー志願者だった杉本は動体視力を鍛えていただけあってすぐにベテラン級の仕分けをして周りにいるパートのご婦人方を驚かせた。

「あんたできる子じゃないの」

「でしょ」

「ここが包装前の最後のチェックポイントなのよ、この前にも異物混入を防ぐふるいにかけたりX線で異物がないか見てるの、コンピューター制御されててね、それは工場長だけがパスワードを知っていて厳重に管理されているのさ」

「へぇーっすごーい」

「もしこんな大きな工場で異物が混入してたら怪我や健康被害への賠償金とか商品の自主回収、営業停止になってニュースに出て会社が傾いたらあたしゃ路頭に迷うよ」

「こわーい」

「だから気をつけないとね」

「はーい」

ーーーー

夕方

杉本がパンロンドに戻ってきた。

親方が声をかけた「よう、お疲れさん」

「ウイッス」

「今日どうだった?」

「藤岡さ〜ん、自分で行けば良いじゃないですか〜」

「それがダメなんだよ、だからお前が行ったんだろ」

「そうなんですか〜」

「で、何かわかった?」

「明日14時ケッコウ、って4人が言ってました。それと金を返して欲しいおばちゃんが1人」

「明日なのか、、、その4人ってどんな奴?」

「50歳ぐらいの足打と40ぐらいの最上と、大島と京田です」

「それと?」

「それと今日俺は(おばちゃん達に)モテモテでチヤホヤでした」

「それは良かったね。明日も行ってくれな。何かわかったら俺と大和田さんに電話してくれよ」

「はーい」

「モテモテでチヤホヤってどういう意味かしら」と話を聞いていた風花が由梨に聞いてきた「さあ、私にもわかりません」しかし藤岡が何を考えてるのかもわからない。

「風花、もう帰る時間だろ?送ってってやるよ」

「うん、龍樹、今日どこへ行ってたの?」

「藤丸パン横浜工場」

「えっ藤丸パン?なんで?」

「わかんない。見聞きした事を言うように言われたな」

「明日も行くの?それともずっとそこで働くの?まさか危険な事じゃないよね?そんなスパイみたいな事」

「スパイ?今日は変な形のパンを仕分けしてたけど?じゃあ俺明日早く出かけるから」

「わかったおやすみ」風花は繋いでいた手を離して杉本を見送った後無性に心配になってきた。

知り合ってからパンロンドでずっと一緒に働いてたのに急に他所で何をしてるのかわからない。凄く距離が離れた気がする。

「大丈夫なのかしら」

ーーーー

次の朝

横浜工場の朝は早い。

もうとっくに皆働いているが杉本は6時出社と言われていた。

丁度昨日の4人が裏庭で屯している。

植え込みの影に隠れてちょっと話を聞いてみる。

「昨日パスワードを書き換え済みだ」足打が言うと

「その後で機械を操作してあれをばら撒くぞ」最上も残りの2人に言った。

「はい」

パスワード?ばら撒くの?何をばら撒くの?

4人が歩き出したのでとりあえずつけて行く事にする。

工場の中に入り、歳上の2人と若者2人は別れて歩き出したので歳上の方について行く。

足打の持っていたファイルからメモらしきものが落ちた。

「おっ」

それをすかさず拾う。

大文字小文字と数字がいっぱい書いてあるのでまたそこにあったホワイトボードに書き写した。

「おい!何やってる!」

「あ、探しに戻って来た」

「こいつ昨日の」

「やっぱり怪しい奴だったんだ!メモを返せ!」と言ってメモを取り上げてホワイトボードの文字を慌てて消した。

「あんた達の方が怪しいでしょーよ」

「うるさい!来い!」

「そうは行くか!」

杉本は足打の手を振り払い拳を握って2人にファイテイングポーズを取った途端後ろにいた男に棒の様な物で頭を殴られた。

「いたたた」

足打達は倉庫の隅の扉付きの収納部屋に杉本を連れてきて口をガムテープで塞ぎ、両手を後ろで縛って閉じ込めた。

「時間までここで大人しくしてろ」

ーーーー

藤丸パン横浜工場の表玄関では大和田工場長と木山課長が並んで立っていた。

「もうそろそろ来られるな」

「後何年かしたら次期社長になるんですかね」

「そうなると社長もお喜びになるんだが、今の所そんな気はなくて困っていらっしゃる」

「ふーん、あ、あれ来ましたよ」

スーツが決まっている次期社長が早足で歩いてきた。

「ようこそお越し下さいました」

「大和田さんご無沙汰しています。昨日メールありがとう。早速行きましょう」

そういうと工場に入って行った。工場の裏側は昨日杉本が入って行った通りだが、表から入ると事務室や応接室があり、その横は配送の為の広い施設がある。その場所から関東一円にトラックでパンが運ばれていく。

「足打達4人を呼んで下さい」

「はい」木山課長が4人を呼びに行った。

ところが

待てど暮らせど木山が戻ってこないし4人も来ない。

「遅いな」

「どうなってるんでしょうね」

「見に行こう、案内して貰えますか」

「あっちです」

館内にある工場の横道から作業中の従業員を見ながら探したが「いないですね」とうとう裏の扉までたどり着く。

「外に出てしまいました」

「何処に行ったんだ」

「ここだよ若様」

「お前が足打?」

ーーーー

話は少しだけ遡るが

藤丸パン横浜工場の裏口付近にあまりにも杉本を心配し過ぎている風花とそれに着いて来てと頼まれた由梨の姿があった。

「ここのはずなんだけどいるかな龍樹」裏口付近の鉄柵から顔を突っ込んで覗く。

「中で働いてるんじゃないですか?」

「スパイなんて大丈夫なのかな?」

そう言われると心配だ、しばらくの間2人はじっと建物を見ていた。

するとここの従業員らしい4人が出てきた。

「ねえ、あれって龍樹の言ってた4人組かな?」

「どうなんでしょう、何を話してるんでしょうか?」

由梨が聞き耳を立ててると風花が「ねえ、あれ見て?あの陰から見てる2人」

「あっ」由梨が驚いたのも無理はない「鴨似田夫人のお付きの2人だわ」

その2人とは鴨似田フーズの従業員歩田と兵山だ。何故か木の陰から4人の様子を窺っている。

「何してるのでしょう」

風花は2人に近づいて小声で「ちょっと」と合図してみた。

歩田が気がつき由梨に頭を下げた。

「何してるの」

「奥様に言われてあの人たちを見張ってる所です」兵山も顔を近づけて来て小声で言った。

「何で」

「それは」と言いかけた時、1人の作業員が出てきて4人に声をかけた「次期社長がお前達を呼んでこいとさ」

「あの新人の杉本って言うのからやっぱり情報が伝わったんだ」

「そいつは?」

「倉庫に閉じ込めてます」

「そうか」

それを聞いて風花は死ぬほどびっくりして心臓がバクバク言い出した。

「龍樹が」足が震えて止まらない。それを見た由梨が、騒いで捕まるより4人の後を付けようと思ったその時、大和田達が裏口から出て来た。

「あっ」それを見て由梨も心底驚く。

そしてさっきの会話に続く。

「ここだよ若様」

「お前が足打?」

「あっ!木田!何やってる。お前は何でそっちにいるんだ」

「工場長、あんた何も知らなかっただけなんだよ、計画はずっと前から始まっていたんだ」

「馬鹿野郎!何をする気だ!」大和田は木田に掴みかかったが逆に足を引っ掛けられて押さえつけれる。

「やめろ木田!」

「若様なんて言われるのも今のうちだよ。お前の父親には悪いがこれから藤丸パンは終わりを迎える。大量に細かい針先の入ったパンを販売して失脚して貰う」足打が上擦った声を出した。

「そうはいくものか!AIセンサーがついてるんだ、金属片などの異物が入った物は跳ねられる」

「反応しない様にすればいいだけの話だからな」

「パスワードが無ければ変更できないんだから無理だろう」大和田も言った。

「大和田さん、あんた油断して俺と一緒の時にもパスワード打ってただろう」

「うっ」

「もうすでにパスワードを変更してある」

大和田は押さえつけている木田を跳ね除け制御室に走って行こうとしたが京田達に取り押さえられ、刃渡り10センチのナイフを首に当てられる「ううう」

「おっと、もう13時を過ぎている、14時からはいよいよ藤丸パンで1番売れているバターシュガーブレッドの※本捏ねの時間だ、俺たち準備があるからそれまで大人しくしてて貰おうか。おい!若様。お前も来い!大和田が怪我してもいいのか」なんと2人は捕まって連れて行かれた。

風花と由梨は慌てふためいて歩田に裏門の鍵を開けて貰い急いで裏口から入った。

「どこの倉庫?」

ーーーー

倉庫で縛られていた杉本は誰かが鍵を開けている音を聞いて口を塞がれながら「ふがふが〜(助けて〜)」と騒いで足をバタバタしたが、押し込まれた2人を見てびっくりした」「ふがふがふが(藤岡さん)」

「杉本」口を塞いでいたガムテープを取ると「藤岡さん何で捕まってんですかあ?得意の一本背負いで投げ飛ばしてやれば良かったのに」と巻くし立てた。

「スーツが苦手なんだよ、動きにくくて。それを言うならお前だって何捕まってんだよ」

「だって後ろから両腕を捕まえられたんだもん。俺前からの攻撃しか無理ですよお」

「全く」

「若様、何とかここから出ないと」大和田がドンドンと扉を叩いた。

鍵が付いてるが開けようとしても両開きのドアの取っ手は外側から針金が巻かれていて動かない。

「警察は?」

「スマホを取られた」

「クソ!おーい!誰かいないのかー」

ドンドンと扉を叩く音を聞いて風花が「由梨ちゃんあれ!」と走って行った。

由梨と風花が必死になって針金を外そうとしたが結構硬い「ペンチ探して来て!」とすごい形相の2人に言われて歩田が「はい」と走り出した。

「待ってられない」由梨はドアノブを拳で叩き続けた。

平田がパイプを持って来た「これ」と言ったが早いか由梨が受け取ってドアノブに叩きつけた。

「龍樹!内側からも何かできないの?」風花がドアに向かって叫んだ。

「え?何でいんの風花!」

「後で言うから早くして」

「はいよ」

と鉄製の棚に乗っていた資材急いで除け、3人で持ち上げてドアノブに叩きつけた「うおりゃあー!」

外からと内からの攻撃でドアノブを破壊した「よし!開いたぞ」

「藤岡さん」急いで出て来た所に由梨が立っていた。

「由梨」

と言いながらそのままの勢いで大和田と藤岡は制御室に走って行った。

「待って〜」と杉本達他の者も続く。

「足打!許さん」

ーーーー

丁度制御室から足打と木田が出て来た。

「木田思い直せ!機械を停止させろ」

「すみませんが大和田さん、センサーは止めさせて貰いましたよ。もう14時だ、最上達が生地に金属片をばら撒いた頃です。このまま生地はレーンの流れに乗ってケースに入れられ発酵した後焼成、冷却包装、出荷だ」

「なら今からまだ止めるチャンスはある!」

「そう、だからもう少しお前らを何処かに閉じ込めておかないと」

「出荷が終わって販売されるまでな」木田はもう一度ナイフを取り出した、切先を藤岡に向けた瞬間「あぶない!」と由梨が前に立ちはだかったがその次には「防ごう異物混入!食の安全宣言!」と叫んだ杉本のパンチが木田の顔面に当たり「ふがっ」っともんどり打って床に倒れた。

「俺は怒ったぞ!大体普段から異物混入を防ぐために修造さんからうるさく言われてたのに、人様の口に入る物に何て事を!」杉本は足打ちを怒鳴りつけた。

「本当だ」大和田も説得にかかった「足打!ギャンブル癖はあるが普段真面目に働いてたお前が何だってこんな大それた事をするんだ、今ならまだ間に合う、やめなさい」

「大金が手に入るんだ、借金も返せる。何だってやるさ」

落ちたナイフを足打が拾って再び藤岡に向けた時、今度は由梨を杉本の方に避けた後ナイフを持った手を払い左手で襟を掴んで投げ飛ばした。

壁に打ち付けられた足打のナイフを兵山が隠して歩田と一緒に取り押さえネクタイで後ろ手にして手首を結んだ。

「おい!パスワードを教えろ!金属片除去のセンサーを作動させるんだ!」藤は足打の襟を再び掴んで揺さぶった「教えませんね〜」と憎たらしい言い方に藤岡がむかついたその時「あ、俺それならわかるかも」と、まだしかめ面の杉本がセンサーの前に進んだ。

「龍樹、ほんとなのそれ?」

「うん、工場長、どこにパスワードを打つの?」

杉本に促されて大和田がパスワードを入力する画面を出した。

「えーとぉ」ぽちぽちと長い長いパスワードを打ち大和田に「次へ」のボタンを押して貰った。

「開いた!」全員が驚いてる中大和田が急いでセンサーを作動させた後、バターシュガースコッチブレッドのレーンの機械を全て停止させた。

「これで一安心なのかな」機械の動きが止まって工場で働く従業員が驚いてざわめき始めたのを見ながら杉本が言った。

「念の為今日の午後からの出荷分はストップさせて下さい」

「はい、若」大和田が制御室から作業員に連絡した。

「大和田さん、急いで他の奴らの所に行きましょう、捕まえないと」

「僕たちさっき奥様に電話しました」足打を捕まえたまま歩田と兵山が声を揃えて言った。

藤岡は一瞬由梨の方を見て「杉本!あぶないから由梨と風花を連れて帰ってくれ」そう言って走り出しながら何故2人がいるのか不思議だった。

「それに何故鴨似田夫人なんだ」そう思いながら表玄関まで走った時、平静を装って入口から逃げようとしている最上たちに追いついた。

「あっあいつら何で出て来れたんだ」大和田と藤岡を見て3人は走り出した。

その時

「ちょっと待ちな!」

工場からエントランスに出る廊下の途中で、向こうから20人小田達パートさん軍団が最上達を取り囲んだ「あんた達容赦しないよ」

「レーンが止まったのはあんた達のせいらしいじゃん」

そしてその向こうから鴨似田夫人がゆっくりと歩いてきた。

「皆さんお待ちになって」

突然現れモデル歩きでやって来た鴨似田夫人を藤岡達も最上達も口を開けて見ていた。

大和田は「鴨似田さんどうなさったんですか?うちのパートさんを引き連れて」と聞いた。

「私(ワタクシ)今日のことは随分前から知っておりましたの」

「えっ!木田たちの悪巧みの件をですか?」

「ええそうですわ、大和田さんに電話でお知らせしたのはうちの歩田ですもの」

「確かにうちの中の何者かが何か企んでると電話があって若にお知らせして今に至りますが一体何故」

「定期的に藤岡さんにお変わりがないかうちの者に調べさせておりましたの、なので小娘と日光東照宮に行ってた事も、藤丸パンが乗っ取られようとしている事も存じていましたわ」

「乗っ取り?どういう事ですか、て言うか日光に行ってた事も知ってるじゃないか」藤岡は心底驚いて言った。破天荒とは思っていたが度を越している。

「誤解のない様に言っておきますが、私ストーカーではございませんの、あくまでも藤岡さんのお幸せを願っての事ですわ」

「それで?乗っ取りのことを説明して頂けますか」と大和田が本題に戻した。

「買収ですわ、異物混入事件を起こした企業が回収の為に世間にその事を知らせなければならず、企業への不信感が生まれて株価が下がった所を買い占めて乗っ取るんですの」

「株主総会で解任議決がなされて経営者が解任させられるし従業員も生活の不安にさらされる」と大和田も言った。

それを聞いた小田達も「冗談じゃないよ!私達は誇りを持ってここで働いているんだよ、あんた達にしょうもない邪魔されてたまるかってんだよ」

「そうじゃんそうじゃん」

「観念しなよ!警察に突き出してやる」と言いながら4人を連れて行った。

藤岡は鴨似田に初めて向き合って「ありがとうございました」と頭を下げた「乗っ取ろうとした企業名を知っていますか」

「それは分かりませんの。おそらくさっきの者達も仲介の者の偽名と電話番号しかわからないと思いますわ。それに気をつけないとこれから先もいくらでもこのような事がありましてよ。いつまでも今のままで良いのかしら」

そう言っていつの間にか夫人の横にいた歩田と兵山に「帰りますよ」と言ってモデル歩きで去っていった。

「かっこいい」と大和田が呟いた。

実際、売れ筋のバターシュガースコッチブレッドは午後からできた分は出荷停止になり販売店や卸先に迷惑をかけたが大和田が機械の故障と連絡していた。

「若、会社が買収されることを考えたら安い物ですよ」

「大和田さん、今日はお疲れ様でした。俺今日は考えさせられました」

「後のことはお任せ下さい」と機械類の徹底清掃の為に大勢の従業員が集まっている所に指示をする為に戻っていった。

藤岡は1人駅まで歩きながら鴨似田夫人が最後に言った言葉について色々考えた。

ーーーー

夕方

由梨は杉本と風花と東南駅に戻ってきた。

「ほんとよくパスワードを覚えてたわよね、役に立てて良かったわ」と赤い顔をした風花が何度目かの心からの安堵を杉本に示した。

「かっこよかったでしょ」

「まあね、すごく心配だったから龍樹達が助かって良かったし、由梨ちゃんも安心したでしょ」

由梨はさっき藤岡から電話があって解決したと聞いてホッとしたが自分が不甲斐なく、何も力になれなかった事で落ち込んでもいた。

「それにしても藤岡さんが藤丸パンのご子息だったなんて驚きよね、タワマンに住んでても不思議じゃないか」風花が興奮冷めやらぬ感じで言った。

それは由梨も思っていた、動画配信やパンロンドのお給料では無理なのではないかと薄々考えてはいた。

「良いわね由梨ちゃん、イケメンでリッチよね藤岡さん」

「あっ何風花!俺の方がイケメンなのに」

「ちょっと!どこがよ?」

なんだかんだ言っても結局仲の良い2人は、駅で由梨に挨拶して手を繋いで歩き出した。

「あのさあ風花」

「ん?」

「今日俺が心配で横浜に来たの?」

「うん、そう」

「あぶないから今度からしちゃだめだよ」

「だって」

風花は気が強いがこんな時いじらしくて可愛らしい。

「そこがキュンとする所」

杉本は風花の手をグッと握って聞いた「あのさあ風花、もし俺が結婚したいって言ったらその代わりに何をする感じになるの?」ずっと聞きたかった事だった。

「何をする感じって、、、?」

「あっ良いのいいの。また今度ね」

「もう、何よそれ」

「ははは」

夜の涼しい風に吹かれながら2人遠回りして帰った。

ーーーー

仲の良い2人と別れた後、由梨は家路についた。

部屋で1人自分の思っていた藤岡とは違う姿の『若』と呼ばれる人は一体誰だったのか考える。強くて問題解決の為に走っていく所を思い出し、それに比べて自分が何も出来ないコンプレックスでいっぱいの存在な気がする。

今迄ガムシャラに着いてきたけれどそれは厚かましかったのかな。

日光で見た人とは違うの?

それに、必死だったとは言え外れもしない針金を素手で叩いたり、藤岡を助ける為に前に出たもののすぐ後ろに押し戻されたりと思い出しても恥ずかしい。

由梨が物思いに耽っていると母親がドアをノックした「由梨、藤岡さんが見えたわよ」

「え」

由梨が部屋から出るとリビングに藤岡が立っていた。

「由梨、今日はなおざりにしてしまって悪かったね」

「私今日は邪魔ばかりしてしまって」

「邪魔?まあ何故来たのかは電話で杉本に聞いたよ」藤岡はいつもの笑顔で言った。

「今日は俺が閉じ込められた扉の針金を外す為に凄い形相で鉄パイプを握ってたと聞いたけど」

「凄い形相、、、ひたすら恥ずかしいです」

「それに俺を庇った」と言って由梨の手を握った。

「由梨ありがとう、また俺を守ってくれたね」

ドアノブを叩いた時、手が傷だらけになって絆創膏が各指に巻かれている。

藤岡はそれを見ながら手を優しく包み直した「由梨、俺は今まで4代目になって責任を負うのが嫌で逃げ回っていたんだ。だけど今日は考えさせられたよ。やはり守らなくちゃいけないものはあるんだ、今のままではいられないんだと」

今のままではいられない、それを聞いて藤岡が遠くに言ってしまうのかとドキッとした。

もしそうならパンロンドの様にもう追いかけていくことは出来ない。

もし藤丸製パンに入るなら正社員への道はのりは遠いし、パートでお勤めすると次期社長に中々会えないだろう。

「だから由梨」

「はい」由梨は覚悟して聞いていた。

「この先はもっと助けて貰う事になるかもしれない」

「え」由梨はびっくりした「わ、私会社の事は何も分かりません」

「それは俺も同じだよ。これから何もかも新しい生活を2人でやっていかないかと思って」

「一緒に」

「そう、俺には由梨が必要なんだ」

いつか湖で同じ言葉を聞いたその時のままで藤岡は言った。

同じなんだわ、今日の藤岡さんもいつもの藤岡さんも「わかりました、事務でも何でも頑張ります。私でよければお手伝いさせて下さい」

リビングの陰で聞き耳を立てていた由梨の両親は

「ん?あれってプロポーズじゃないのかな」

「そうよねぇ」と小声で言った。

おわり

お話の中のパン屋さんは日光の金谷ホテルベーカリーです。
日光の駅の近くには5軒販売所があります。
金谷ホテルベーカリーは1873年(明治6年)にカッテジインが開業されるところから始まりました。その後日光金谷ホテルとして営業を開始。
1925年に入社してきた川津勝利さんが村上新一さんと共に最高のパンを追求され、以降パンとクッキースの伝統は守り続けられて行きます。
お盆の時期の夕方に訪れたので神橋店ではパンは全て売り切れでしたが、その後泊まった金谷ホテルの売店にパンが売られていましたのですかさず購入。17時からの館内ツアーに参加したり夕食にも朝食にもパンが楽しめたので満足でした。

そして藤岡が既視感を味わったのは横浜のウチキパンでした。
2軒とも伝統を作り上げたパン屋さんです。
ウチキパンは初代打木彦太郎さんが1888年(明治21年)元町『横浜ベーカリー宇千喜商店』を開始。山食パンのイングランドは130年以上の伝統を守り続けたイギリスパンです。

尊重されるべき歴史がありすぎてパン屋に入った時の雰囲気が似ています。

由梨と藤岡が2人で東照宮にいるイラストですが、彫刻が凄すぎてそのまま使わせて頂きました。

2人で3切のトーストを分け合う、一つずつ食べて残りの一つは手で半分にして、大きい方を相手に渡す。そんな2人は微笑ましいですね。

45パン職人の修造 江川と修造シリーズ 満点星揺れて

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 満点星揺れて

ここは笹目駅から少し離れたリーベンアンドブロート

その工房で江川は修造の例の謎のドイツの歌のハナウタを久しぶりに聴いた。

グーググーグーグーと聞こえてくる。

大坂がパンを焼きながら時々顔を上げながら「これなんの音かなあ」と言っている。

修造は紙に模様をカッターで切り抜いて大きなパンに乗せて粉を振った。そしてステンシルで絵を描きオーブンに入れた。

ああ〜

大地!

もう一歳だ!早いなあ。

ずっとずっと可愛いままだ!

「江川、オトータンって呼んでくれるんだよ!」

江川が「もう一歳なんですね〜」と感慨深げに言った。

「感激だよ!最近あまり会えなかったからこれが焼けたら持っていこうと思って」

「僕その間頑張るから行ってきて下さい」

「ありがとう江川」

「大地ちゃんの一升パンですか?」

「そうなんだよ大坂」と言って修造はオーブンを覗いた。久しぶりにニコニコしている。

大坂と森田は2人でパンを焼きながら話し合った。

「結婚かあ、俺はいつか結婚とかする気がしないなあ」森田が言うと「俺なんてしばらく彼女もいないのに」大坂が答えた。

「身近な女性は?」

「いないよ全然」

「前の所は社内恋愛禁止だったよ」西森が思い出して言った。

「社内恋愛ってどうなるの?」

「上司に呼び出されて色々聞かれて1人移動になってたよ」

「えっそうなの?一店舗しかないと移動もできないね」

「気をつけよ、というか今は恋愛とかする人も少ないんじゃない?」

「そうかなあ」

立花が「はいこれ、話に花が咲きすぎよ」と注意してきた。

「すいません」と西森と大坂は頭をペコっと下げて立花が渡してきたナスと鶏のタルティーヌを受け取ってオーブンに入れた。

黙ったまま作業して大坂は思った『立花さん素敵だなあ、いやいや社内恋愛はいけないらしいし。立花さんと付き合ったらどんな感じかな。やっぱ俺頼りないから叱られたりするのかな。こら!いけないぞ!なんてな』大坂は馬鹿みたいに1人顔を赤らめた。

ーーーー

「ただいま、ほら見て律子」

家に帰った修造はお帰りなさいのハグをして、ケーキと一升パンを律子に見せた。

「すごいデザインね、ケーキも可愛いし、力作ね」

「だろ、早速大地に一升パンを背負わせてみよう。大地こっちに来て」修造は大地に向かって手を広げた。

「オトータン」大地はヨチヨチと修造の所に来た「パン」「そう、パンだよ」

そう言っていかついデザインの一升パンを座ってる大地にそっと背負わせてみた。初めて重いものを背負ったので泣くかなと思ったが、顔を真っ赤にして、机に捕まって立ち上がった「うわー大地すごい力持ちだね」とはしゃいでいる。

長女の緑(みどり)はそんな両親の様子を写メして江川に送ってやった。

ピロリロリロピロリーン

「あ!メールが来た?修造さんかな?」とメールを開いた江川は笑顔になった「緑ちゃんからだ。ウフフフ、ねえ見て愛莉ちゃん」

店で作業中の小手川パン粉、本名瀬戸川愛莉に修造の写真を見せた。

「えっ、あの渋い修造さんが家ではこんな笑顔になるのぉ」

「そうなんだ、家族の事になると表情がガラリと変わるんだ」江川はイベントの帰りに必ず妻の事や子供の事をのろける修造を思い出して言った。

「修造さんってどんな場面でも全力なのね」

「今度娘さんの緑ちゃんと空手の試合にでるらしいよ。ヌンチャクの型とか言うのを2人でやるんだって」

「ヌンチャクって何?」

「えーと、二つの棒が紐で繋がった武器?」

「ふーんそんな物が武器になるのね」二つの棒を紐で繋げる?ヌンチャクを見たこともないパン粉にはそれがどんな形なのか想像つかなかった。

ーーーー

その頃

パンロンドでは

「なあ杉本」

「なんですかあ藤岡さーん」

「この漢字知ってる?」とスマホの画面を見せた。躑躅と書いてある。

「なんて読むんですかあ?」

「ツツジだよ」

「へぇ〜むずいっすねぇ」

「手に書いたら覚えられるんじゃない?こういうの得意でしょ?」

藤岡は見本としてホワイトボードに躑躅と書いた。それを杉本が手の甲に書く。

その藤岡を見て、由梨は誰にもわからない様に小さなため息をついた。

藤岡はとうとう修造の店で探していた立花を見つけたが、あれからその事について何も言わない。

チラッと藤岡を見たが、普段と変わらない様に仕事をしている。

どうなったのかな、もう2人は再会したんだろうか、それともまだ何もないままなのかしら。

この半月程気になって仕方ない。

「あの」

「なに?由梨」

最近動画を撮りに行ってないんじゃありませんか?」

「うん、そういえばそうだね」

もう撮る必要が無くなったからだわ。

修造さんの店にいてるあの立花さんを見つけたから。

ーーーー

リーブロにて

夕方

帰り際、最近では自分から誰にも話さない和鍵に大坂は声をかけた。

「やるならやるでみな同じ向きを見いてた方が仕事しやすいんだ。1人だけ流れと逆に行くのは疲れるだろ。江川さんに負けた以上上手くやっていかないと。初めは愛想笑いでもいつか本気で笑える日が来るって!な!明日から生まれ変わろう!」

明日に向かって拳を振り上げる、声が元々大きい大坂の事を心の中で『ウザ』と思ったが、確かに言われた通りだし、ここではもうそうする以外に無いのはわかっている。

和鍵は江川が仕事しやすい様に型やカップにアルミホイルを引いたりして前日準備を昼の分までやってから帰った。

ーーーー

東南商店街にある由梨の両親が経営している着物屋『花装(はなそう)』では、明日の浴衣イベントに参加する為に準備で大忙しだった。

東南駅からは随分離れた大きな街の南会館という所で着物屋が集まって行う『夏の大浴衣市』があるのだ。

由梨もこの日はパンロンドを休んで、浴衣を着て手伝いに行く事になっている。

父親と由梨は車に着物やら小物やら展示用のグッズを沢山乗せて前日準備に出かけた。

「あ、ここはリーベンアンドブロートの近くだわ」父親の運転する車は笹目駅の横を通り過ぎ、三つ先の駅を曲がったすぐの所に着いた。

着物を展示しながら由梨は立花の事で頭がいっぱいになった。

こんなにクヨクヨするのならいっそ立花さんに会いに行こうか、それとも藤岡に聞こうかと迷う。

次の日、由梨は浴衣に着替えて親子三人で会場に向かった。

両親は傷ついた由梨の事をとても心配していたので、最近の沈んだ由梨の事が気になっていた。

会場では由梨の浴衣姿を見て同じ物が欲しいと言う客や、帯について色々聞いてくる客の対応に追われていて、しばらくは藤岡の事が頭から離れていた。

忙しい中、客に丁寧に説明して浴衣の種類や履き物まで見て貰った。

「由梨、後は私達でやるから帰って良いわよ。駅はわかるわね?」母親が声をかけた

撤収作業を終えて会場から帰ると夜遅くなるので、明日仕事の由梨を心配して少しでも早く返そうと思ったのだ。

「電車で」

急に笹目駅の事が頭をよぎる。

由梨は電車に乗ったが、三つ目の駅で降りてバスに乗った。

少し歩くと修造の店だ。

「来てしまった」

強い日差しの中、日傘を差して店へのアプローチを歩く。

それをパン粉が見つけて江川に言った「ねぇ、あの人パンロンドの人かな?」

「あっ由梨ちゃん」と言って江川が走って出迎えた。

「わあ、由梨ちゃん綺麗、素敵な浴衣だね」そう言われてまるで勝負服で来た様で恥ずかしい。

「浴衣イベントの帰りなんです。あの、立花さんはいますか?」

「えっ?知り合いなの?ちょっと待っててね、呼んでくるから」

江川は走っていって立花を呼んできた。

全く初対面の浴衣の女の子を見て驚いていた。

「はい、立花ですが何か御用ですか?」

「あの、私藤岡恭介さんと同じ店で働いている者です」

「えっ」

急に藤岡の名前が出てきて立花は驚いてベンチに座り込んだ。

浴衣姿の女の子が藤岡の名前を出してきた事も不思議でならない。

「どういう事か説明して貰えますか?」

「藤岡さんは立花さんを探してパン屋さんを一軒一軒訪ねていました。その事はご存知でしたか?」

「いいえ、知らなかった。あなたはその事を知ってるのね」

「はい、だからって私達何もありません。藤岡さんはここで立花さんを見かけてから様子がおかしかった、でもその後藤岡さんが何を考えていたのかはわかりません」

「だからここに来たのね」

「長い間パン屋さんを見て回るのは大変だったと思います。それがあの人の気持ちです、もしご存知無かったのなら言わなくちゃいけないと思って、その事を伝えたくて来ました」

「貴方はそれで良いの?」

立花は由梨の気持ちを汲み取って質問した。

よくはない、よくはないが

このままにして良いのかもわからない。

由梨が困っていると立花が「わかったわ、一度藤岡くんと話してみるわね」と微笑んだ。

由梨から見た立花は凛とした立ち居振る舞いの素敵な大人の女性だった。

帰り道百日紅(さるすべり)の花の咲く駅への道を歩きながら「私は何をしてるのか」と情けなく思う。

そこへ車が追いかけて来てクラクションを鳴らした。

「由梨ちゃん」

「江川さん」

「由梨ちゃんが浴衣で来たって言ったら修造さんが送っていってあげてって」

「すみません」

「僕も久しぶりにパンロンドに行こうっと」

江川は由梨を乗せて、車を東南商店街に向かって走らせた。

「みんな元気にしてる?」

「はい、藤岡さんが杉本さんに難読漢字を沢山教えてました。この間は躑躅って言う難しい漢字を」

「へぇ、会いたいなあ杉本君や藤岡君」「修造さんのお店はどうですか?とてもお客さんが多いですね』

『そうなんだ凄く流行ってる。車で来る人が多いよ。駐車場が広くて便利みたい」

「パン粉ちゃんがいましたね」

「そうなんだ、僕達仲良しになってリーブロを手伝っってくれてるんだ」

「段々パンロンドの人達の知らない生活になっていってるんですね」

「そう、色々あるけど乗り越えて行けると思うよ」

と、そこで車はパンロンドの前に着いた。

「親方ー!」江川が親方のところに飛んで行った。

「お!江川!元気そうで良かった安心したよ」

「はい、少し痩せたけど段々体重が戻って来ました。今はパンの味見し過ぎかな」とお腹をポンポンと叩いた。

由梨は江川の後ろに立っていて、あははと笑うみんなの向こうにいる藤岡と目があった。由梨にアイコンタクトを送っている気がする。

何故江川と帰って来たのか、一人でリーブロに行ったのか、そして立花に会ったのか?そう思っているのではないだろうか。

心の中で藤岡に

『私、立花さんと会って来ました。勝手にごめんなさい』と詫びた。

「江川さん、ここまで送って貰ってありがとうございました。私片付けがあるので帰ります」江川と皆に会釈して花装に戻った。

それを見送った藤岡は「一度立花さんと話をしないといけないな」と呟いた。

ーーーー

その日の夕方、誰もいない駐車場で修造はヌンチャクの練習をしていた。

もうすぐ試合なのにあまり練習してないので焦る。

それを見て大坂が飛んで走って来た。

「修造さん、俺も昔空手やってたんです」

「そうなの?」

修造達は急に組み手を始めた。

蹴りを肘で受け止めたり、突きを鉄槌で落として防いだりしてるのを見て、パン粉と安芸川は「ケンカ?ではないですよね?楽しそうに見えます。あははって笑ってますよね」「痛そう」「戦ってる」など遠巻きに見ていた。

パン粉が置いてあるヌンチャクを見つけて「これがヌンチャクなの?想像と全然違ってた」と笑いながら江川に言った「愛莉ちゃん、これを使った演武もあるんだよ」

段々みんなが集まって来て「趣味や特技があるって良いわね、楽しそう」と眺めていた。

大坂はウズウズして「俺にもヌンチャク教えて下さい」と申し出た。

リーベンアンドブロートLeben und Brot通称リーブロは生活とパンという意味で、修造がパンと生活は離すことができないとして付けた名前だ。

初めはどうなるかと思ったが、徐々に落ち着きを見せ始めてきた。

こうして修造の人生にとって新しく近しくなった大坂と空手を楽しむ日が来たのが不思議で、そして温かい気持ちになれるものになった。そしてそれはやっと平穏を取り戻しつつある江川の笑顔のおかげでもある。

今自分の周りを取り囲む、ニコニコとしたり、あきれた顔の皆んなに感謝している。

ーーーー

さて

藤岡は立花にやっと連絡をとった。

二人は仕事終わりに笹目駅の近くのカフェで待ち合わせた。

遅れて来た藤岡はニコッと笑って

「久しぶりですね、ご無沙汰してましたがお元気でしたか?」と挨拶した。

藤岡は相手に対して理想の言葉をつい言ってしまう習慣があった。

「久しぶりね藤岡君。貴方がパン職人になってるなんて知らなかったわ。修造さんの後輩だったのね」

「今はとても良い雰囲気の職場にいます。先輩にも仲間にも恵まれていますよ」

「修造さんのお店も開店当時に比べて落ち着いて来たわ。仕事しやすいわよ」

「修造さんも始め悩んでたので、軌道に乗り始めて良かったですね」

立花はコーヒーカップに砂糖を入れてクルクルかき混ぜていたが手を止めた。

「この間、パンロンドの花嶋さんが突然やって来たわ。こうやってまた藤岡君と会えるのも花嶋さんのおかげね」

「やっぱり、由梨に会ったんですね」

「ええ、多分凄く勇気がいったと思うわ。貴方が私を探してパン屋さんを一軒一軒訪ねていた事も教えてくれた」

「由梨が」

「ええ。なんでも話せる仲なのね」

「そうですね、由梨には何故かなんでも話してしまうんです」

「心が通じあってるのね」

「そうですよ、俺たちみたいにこんな表面上の腹の探り合いみたいな話しなんてしない。こうやってあった以上貴方は俺に本当の事を言わなくちゃいけない。何故俺に連絡先も知らせずに消える様に去ったんですか」急に藤岡は真相の真ん中に向かってハンドルを切った。

「私を恨んでるのね」

「途中そんな時期もありました。でもそれだけじゃない、俺が転職してパン職人になったキッカケは情報を集めて貴方を探しやすいと思ったからです」

「そうなのね」

立花はまたスプーンでクルクル混ぜていたがやがて切り出した。

「あの時は私達とても忙しかったわね、どんどん人が入れ替わる中二人で乗り切ろうとした」

「俺は信頼し切っていた」

そう言いながら別に恨み言を言う為にこんな話ししてるわけではないと思う。

自分はひょっとしてその事を聞く為に探していたのか、会いたいから探していたのなら自分が勝手にやってただけじゃないか。

「すみません」

「言われて当然よ。信頼を踏み躙ったわ。あの時私は医者に療養を勧められていたの。でも気を遣って何も言わなかったから逆に嫌な思いさせたのよね」

それなら寄り添いたかった。そう言いかけたがやめた。

「俺はあなたの事が好きでした。打ち明けるつもりだったその日に辞めると言われた。俺はすんなり手放した事を凄く後悔して探し求めて彷徨った」

ああ

だから直ぐに連絡しなかったんだ。久しぶりに会ったのにその相手を責める様な事を言ってしまう。これなら表面上の会話の方がましだったと、言った矢先に藤岡は後悔した。

一方の立花にもどうしても言えない、言いたくない事がある。

療養ではなく腫瘍を取る為の手術だった。胸の下から10センチほどの傷が残り、初めは赤く腫れていた。それがとてもコンプレックスだったが、最近になって傷の周りの凹凸もなくなり薄くなってきた。

「時間が必要だったの」

「療養の為ですか?パン屋さんにはいつから勤めてたんですか?」

「一年前よ。その後修造さんのお店に来たの。江川君が面接してくれたわ」

「そうだったんですね、長い事会わないうちに俺にもいろんな事がありました」

そう言いながら由梨の顔が浮かぶ。

俺と由梨は出会うべくして出会ったのかもしれない。

俺があの橋を歩いていたのも

泣いてる由梨を見つけたのも。

俺は彼女を傷つける奴が許せなかったんだ。

なんとか彼女を守らなくちゃ

困難な様に見えたけどあいつはあっさり手をついて謝った。

それ以降いつも俺のそばにいて

もう俺と由梨の間には絆ができている。

「あの子、河に飛び込もうか迷って泣いていたんです。悪いやつに根拠のない噂をばら撒かれて傷ついていた、あの時の俺は由梨を取り囲む様々な問題から俺が守らなくちゃと思った。そして由梨は俺の後を追ってきたんです。今は俺が守って貰ってる、そんな気がします」

「そうなのね」

聞いている立花の瞳にうっすらと涙が浮かんだ。

「私達は長い事合わなかった間にお互いに色々な事があったのよね」

「そうですね。俺、パン屋さんを沢山見たので勉強になりました。まだまだ続けて行こうと思います。立花さんも元気で、良い職人さんを目指して下さい。修造さんがオーナーの店ってちょっと羨ましいけど、パンロンドの親方もいい人なんでこれからも頑張れそうです」

そのあと暫く二人はお互いの顔を見つめあっていたが「元気で」藤岡はそう言って立ち上がった。

店から出て行った藤岡を見送り、一人座ったままで残りのコーヒーを飲みながらさっきの涙が溢れてくる。

それを店の外から覗き込んだり引っ込んだりする大坂の姿があった。

仕事の帰りに駅の近くで食事をして帰ろうと思って店内を覗いたら二人がいたという訳だった。

うわ

俺見ちゃった

立花さんが泣いてるとこ。

どうしよう。

なんだよあの超絶イケメンは。

何を話してたんだろう。

お似合いだったのに、超絶イケメンが帰って急に泣き出したじゃないか。

どうする?

声をかけるか、いやいやかけない方が良いのか。

なんで俺がドキドキしてるんだ。

そう思ってると立花が出てきた。

「あ」

「こ、こんばんは」

「こんばんは」見られたくない所を見られた感じで立花は足早に立ち去ろうとした。

今は人と話したい気分ではない。

「送って行きますよ」大坂が付いてくる。

「一人で帰れます」

「だって」

立花は大坂を無視して歩き出した。

だって心配なんですよ。

こんな時しっかりしてる先輩が儚くて頼りなげだとか言ったら『私の事バカにしてるの?』なんて言われるのかな?

「家は近いんですか?」

大坂は遠くから声をかけた。

立花はちょっと後ろを振り向いてまた前を向いた。

繁華街から住宅街に入る。

「あまり長い事後ろから付いて行ったらストーカーみたいだなと思ってはいます」

「そんな風には思ってないわよ」

「そりゃ良かった」

「私は大丈夫よ、大坂君」

「大丈夫は大丈夫じゃないサインじゃない?」

「そうね、私は嘘つきで本当の事を言わなかったばかりに今こうして一人で歩いてるの」

「さっきの超絶イケメンの事ですか?」

大坂は早く歩いて横に並んだ。

「私は自分の好きな人に心を許してなかった。だから最後にあんな表面上の挨拶をされたのよ」

涙が追いついて来たかの様に頬を伝った。

自分を納得させる為に言ってるんだと大坂には感じた。

傷ついてるんだな。

大人になる程複雑で素直になれない事ばかりだ。

何か言いたいが大坂の恋愛能力ではこれが限界だ。

二人はしばらく黙って歩いた。

8時頃か

開いている家の窓からテレビの音が聞こえた。

昼間は暑かったが、夜になり涼しい風が吹いて立花の前髪を揺らす。

まつ毛を潤す涙も少し乾いてくる。

街灯のオレンジ色の灯りが二人の影を作る。

「もうすぐ私の住んでるマンションなの。ここ、江川さんのマンションの近くなのよ。時々パン粉ちゃんも来てるみたい」

「へぇ、二人は付き合ってるんですか?」

「さあ、そこまで立ち入った質問をした事ないわ。男と女が一緒に歩いたからって別に付き合ってる訳じゃないんだし」

そう言って立花は数歩離れた。

「おやすみ大坂君」

「あ、はい。おやすみなさい。また明日」

立花は頷いて角を曲がって行った。

流石にマンションまで追いかけるのは気が引ける。

「ところでここどこなんだ。俺は地図アプリ見るのが苦手なんだよ」

スマホを見て駅の方に歩いてるのに駅から遠ざかる。

ーーーー

次の日のパンロンドでの作業中

「ねぇ大坂君」

「なんですか江川さん」

「昨日ベランダで洗濯物を干してたらね、スマホを見ながらウロウロしてる大坂君みたいな人がいたんだ」

「え」

それを聞いていた作業中の立花は大坂を見た。

あの後道に迷ったとは言いにくい。

「ちょっと散歩していまして」

「散歩には見えなかったな、必死な感じだったよね。ねぇ何してたの?」

立花の視線と江川の追求を避ける為に「あっもうパンが焼けますので」と丁度ブザーの鳴り出したオーブンの所に飛んで行った。

その夜

修造は大坂にヌンチャクを二つ持ってきて渡した。

二人駐車場で稽古をする。

「猫足立ちでヌンチャクの構えをこう持つと敵は次に上から攻撃してくるか下から攻撃してくるかわからない」

「こうですか」

「そうそう」

手取り足取り教えてもらいながら聞いた。

「あの、修造さん」

「ん?」

「リーブロって社内恋愛禁止なんですか?」と聞いたが、別にまだ『恋愛』にもなっていないのにこんな質問自体厚かましい。

修造はニタっと笑った。

「社内恋愛?フフフフフフ」

修造は勿論そんな事は言えた義理ではない。

18の頃、パンロンドで初めて自分の横を通った瞬間から律子しか見ていなかったので。

「勧めはしないけど控えめにね、ぐらいしか言えないな。誰かと付き合ってるの?」

「いえ全然、森田が言うには厳しい店もあるらしくて」

「確かに周りの人は気を使う事もあるかもね」

「そうですよね」 

「俺もそうだったな、律子に一目惚れしたんだ。いいよ結婚は、二つ年上の賢い妻、可愛い子供」聞きもしてないのに急に修造は惚気出した。

「そうだ大坂、俺とうとう今度の祝日娘と試合に出るんだ。序盤でヌンチャク演武、それと個人の型に出る。休んでごめんね」

「いえ、頑張って下さい」

ーーーー

空手の試合がある日は火曜日だった。

試合には田所家とパンロンドが休みなので由梨達四人組が応援に来ていた。

「頑張って〜緑、修造ーっ」大地を抱っこして律子は応援を続けていた。

「修造さーんファイトーっ」

杉本と風花、由梨も声を張り上げた。

藤岡は黙ったままみんなの様子を動画に撮っていた。

皆2階席から1階の会場を見ている。

その直ぐ後ろで黒い帽子を目深に被った女がひっそりと試合の様子をじっと見ていた。

いや、詳しくはオペラグラスで修造だけを見ていた。

そんな事は全く知らない修造と緑は試合で勝ち進み、次が親子演武の決勝戦だった。

「次の親子は息がピッタリ手強そうだな」修造が向かいのコーナーで試合開始の合図を待っている親子を観察した。修造親子と同じ年頃だ。勝ち上がって来るだけあって動きも正確で所作が決まってる。「お父さん、私、足が震えそう。緊張してきちゃった」

流石に決勝戦ともなるとピリッとする。

修造はしゃがんで緑の目線で話した。

「緑、自分を信じて、今まで練習してきた1番の動きを思い出せば良いよ。それを心の中に留めておいて身体をいつもの様に動かせば大丈夫。一緒に楽しもう。お父さんは緑と空手ができて嬉しいよ」

「うん、お父さん」

二人はうふふと笑い合った。

「そうだ、勝つおまじないを教えてあげよう。名前を呼ばれたら背筋を伸ばして片手をまっすぐ上げて大きな声で返事するんだ。そうするとその勢いで綺麗な動きができるからね」

すると自分達の名前が呼ばれた。

二人は同時に手を高く上げて大きな声で「はい」と言って審判の前に立った。

父親として、テンポが狂わない様緑をリードして、同じ動きでヌンチャク演武を終えた。

15時頃

全ての試合が終わり、大会の成績発表が行われた。

小さい子供達から順に優勝、準優勝などのカップや盾が配られる。

緑と修造も親子ヌンチャクの試合で優勝して大きなカップとメダルを貰った。

応援団から盛大な拍手が送られた。

「大地、オトータンは個人型でも優勝したのよ。凄いね〜」

律子は一階から手を振る二人に手を振りかえした。

大地が眠ってしまったので、田所家四人は車で先に帰る事になった。

「みんな今日は応援ありがとう」

「修造さんカッコよかったっす」

「気をつけて帰って下さい」

修造を見送り四人は帰り道を歩き出したが、風花が気を使って言った「ねぇ龍樹、私達だけで買い物に行かない?」

「え?何を買うの?」

「それは後で考えるからぁ、じゃあ由梨ちゃん達、またお店でね」

風花は由梨達に手を振って、杉本を引っ張って駅に向かった。

由梨は何度も気を遣ってくれる風花に心の中で感謝の手を合わせ、二人を見送ってから藤岡と歩き出した。

二人ともしばらく話さずに黙って歩いていたが、由梨が「あの、私勝手に立花さんに会いに行ってすみませんでした」と切り出した。

「うん、その後こちらからリーブロに連絡して会って来たよ。話してる間に自分の気持ちを確かめられたかな」

「え」

それは立花への気持ちを確認したのか。

それともどっちの意味なのか。

「あの、以前」

「うん」

「自分が辛かった事や今の自分の気持ちもちゃんと言えるよ」って藤岡さんは私に言ってくれました。もし辛かったらそう言って欲しい。気持ちをちゃんと言ってください。どんな言葉でも良い。真実が知りたいです」

「俺の実家の庭には満天星躑躅(どうだんつつじ)があるんだ」

「どうだんつつじ?」

突然花の話をし始めた藤岡の表情をじっと見ていた。

「そう、初夏に白い花が沢山咲き誇って揺れているが、秋になると葉が燃え盛る様に真っ赤になる」

由梨は満点星躑躅の様だ。たおやかに揺れていると思えば情熱的な一面もある。

「この木が好きでね、『私の思いを受けて』と言う花言葉もある。秋になると真っ赤になるから満点星紅葉(どうだんもみじ)とも呼ばれている」

そう言ったあと、由梨を見て微笑んだ。

「由梨ありがとう。心配かけたけど、もう終わった事だったんだ。探し求めていた人に会うのが怖かった。そして立花さんに結果的に嫌な思いをさせてしまった」

だけどその後、心の中にできていた固い砂の塊が時間が経つにつれて段々パラパラと解れて無くなっていった。

あれ以降

俺の中で

何かが変わった

新しい俺に

小麦と水が出会って自己融解を起こす。

由梨と俺の心が溶け合って

「由梨、俺は行きたいパン屋さんがあるんだ。久しぶりに動画を撮りに行くよ。内容も少しリニューアルしようと思ってる。前よりパンの事を詳しく説明したりしょうかな」

「はい」

「リーベンアンドブロートと少し雰囲気が似ててね。テラスがあってそこから湖が見えるんだ。確かそこにもあったんだよ満天星躑躅が。見せてあげたいけど今は丁度葉が青々してるだけだな」藤岡は笑って言った。

「私も行きます」

「遠いよ少し」

「大丈夫です」

「わかった。じゃあ朝から行こうか」

「はい」

ーーーー

早朝

一車両だけの電車は長閑な風景の中を走っていく。車内には二人と、後は何人かの乗客だけだった。

時々二人で何か話して

また沈黙になるけれど

心が通い合っている気がする。

駅から動画を撮って歩きながら

道標や景色を撮る。

湖が見えて来た。

その向こうにパン屋がある。

「素敵」

「雰囲気良いよね湖のほとりのパン屋」

いつもの様に表から外観を撮った後、許可を取ってから買ったパンをテラスで藤岡が撮影して、由梨はパンの角度や暗い時はライトを当てたり光彩を考えたりした。

撮影が終わった後、テラスから綺麗な水面が見える。キラキラと輝く水面をベンチに座って2人で見ていた。

「見飽きないですね、湖に空や向こうの景色が映ってる」

「由梨」

「はい」

「あれが満点星躑躅なんだ」指差した先を見た。

由梨は近くに寄って見てみた。

以前藤岡の言った通り、この季節には青々と葉が茂っている。

これがそうだと言われないと分からない。

「この葉が秋になると真っ赤になるんだよ。そして初夏には小さな可愛い花が沢山咲くんだ」

由梨が葉の先が少し赤くなっていている、もうすぐ秋なんだわと近寄った時、足元の段差で体が傾いた。

「危ない」

藤岡は由梨の手を取って体勢を整え手を繋いだまま歩き出した。

由梨は驚いたが、藤岡に手を引かれて、そのまま二人で歩き出した。

湖面は静かで鴨が数羽泳いでいる。

二人は暫くそれを見ながら、日差しを避けて木陰に移動した。

「俺には本当に大切なものができたんだ。いつかオートリーズについて説明したね」

「はい。水と小麦が出会って初めてグルテンができる話」

「小麦粉に水を加えると、グルテニンとグリアジンが絡み合ってグルテンができる」

「当たり前の事の様だけど、お互いが必要な素敵な出来事です」

藤岡は急に笑い出した。

その笑顔は最近の苦虫を噛み潰したような表情とは違い、すっきりとしている。

「ごめん、何の話をしてるんだ俺は。俺には由梨が必要だって言いたかったんだよ」

「え」

「俺は由梨が好きなんだ」

藤岡は由梨の肩に手を置いて顔を覗き込んだ。その瞳の中には迷いが消えている様に見える。

私はいつの間にか静かに愛されていたんだわ。

由梨は微笑んでまた二人で歩き出した。

愛したいとか愛されたいとか古いですか?

二人で一緒にいるのなら

お互いに守ったり守られたりしたい。

一緒に歩きたい。

大切な人と一緒に。

満点星揺れて おわり

パン屋日和に続きます。

40パン職人の修造 江川と修造シリーズ dough is alive

パン職人の修造 江川と修造シリーズ dough is alive

フランスから帰ってきて何日か経った。

パンロンドの奥さんは手回しよく『世界大会優勝!田所修造・江川卓也』ののぼりを店先に付けていた。

修造と江川はパンロンドの出窓のところに世界大会で作ったパンデコレを飾っている最中だった。

「やっぱこの選考会の時のパンデコレは退けるよ、太陽の反射が当たってたし劣化してる。付け根もグラグラしてるし」

「ですね、崩れてきそう、僕のは小さいからまだいけそうですけど」

そんな会話を横で聞きながら、新入社員の花嶋由梨は2人のお手伝いをしていた。

「ねぇ由梨ちゃん、ここに冷却スプレーをかけてよ」

江川は溶かした水飴を接着面に付けながら指差した。

「はい」

由梨は藤岡を追いかけてパンロンドに来た。

動機は不純だが、世界大会の優勝者の修造のそばで早速勉強できるなんて凄い事だと思って2人の作業を見ていた。

これからみんなに色々教わってパン作りと言う新しい世界に飛び込んでいきたい。

とそこへ

「あのさ、修造く〜ん」

さっきまで電話していた親方が話しかけてきた。

「なんですか親方」

修造は嫌な予感がした。

「NNテレビのディレクターの四角志蔵さんから電話があって、修造と江川をテレビ局に呼んで取材したいんだってさ」

「えー俺テレビとか苦手なんで」と言いかけたらそれより大きい声で「はい!出ます!絶対出ます」と江川が大喜びで右手を上げ、ピョンと跳ねながら返事した。

「よしっ!じゃあ決まりだな」と言って親方がまた電話し始めた。

「江川、お前だけ出たら?」

「えー?助手の僕だけ出るなんて変じゃないですかぁ。僕出たがりだと思われちゃいますよぅ」それを聞いて修造はそうだろうが!と言いかけた。

「じゃあ修造!次の火曜日にNNテレビに江川と2人で行ってくれよ。ユニフォーム持ってきてくれってさ」

「はいわかりましたぁ」

「あの、、」

江川の元気な声に修造の声はかき消される。

「江川さん凄ーいテレビに出るんですね!家族と一緒に見ますね」

「うん花嶋さん。家族ってお店ごと今度東南商店街に引っ越してくるんでしょ?運良く空き店舗があって良かったね」

「はい、しばらくはバタバタしますが、早くこちらで落ち着きたいです」

ーーーー

次の火曜日

2人はNNテレビに来た。

「久しぶりに来ましたね修造さん」

「えー?うーん」

なんとも気のない返事をして、待っていた四角のところに行く。

「どうも、これ、言われてたパンです」修造は店で作ってきたパンの入った箱を渡した。

「ありがとうございますシェフ、お疲れ様でした。相変わらずご活躍ですね、楽屋へ案内しますので時間までお待ちください」

2人は6畳の部屋に通された。

台本を渡されてしばらくそれを見ていたが「こんな、人の考えた言葉を言わなくちゃいけないのかよ」と修造は文句を言った。

「そう言うものじゃないですか?」

「そうかなあ」

自分で話すのも億劫なのにさらに覚えるなんてできるのか、、?

こんなもの無視して答えてやろう。そう思って修造は台本を裏返して置き、ゴロンと畳の上に横になった。

そこに女優の桐谷美月が挨拶に来た。

「わあ!桐谷さんだあ。ご無沙汰してまーす」

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」桐谷が嬉しそうにしている江川に笑顔を向けた。

修造も起き上がり「どうも」と言う。

それをじっと見つめていた桐谷は「シェフ、この度はおめでとうございます。またお会いできてとっても嬉しいわ」と手入れの行き届いた細い指の柔らかな手で修造の無骨なゴツゴツした手を上と下から包んだ。

「ではまた後で」

立ち去った桐谷を見送った江川は「桐谷さんに手を握られてましたね!律子さんに言ってやろ」と小学生みたいな事を言ってからかってきた。

「うわー!それだけはやめてくれ」修造はズザーっ!と滑り込んで江川の足を掴んで懇願した。

「じゃあ収録で本気出して下さいね、笑顔を忘れないでくださいよぅ」

「はいはいわかりました」

修造はそのまま顔を伏せて言った。

ーーーー

修造と江川はユニフォームに着替え、スタッフに連れられてスタジオに入った。

台本は読んでないが江川に言われた通り真面目な気持ちで行くつもりだ。

美月は優雅な感じで椅子に座ってディレクターの話を聞いていたがユニフォームに着替えた修造が入ってきた瞬間に釘付けになっていた。

ウフフ

修造シェフ

やっぱり素敵

世界一の男だわ

修造達はマイクをつけて言われたところに座った。

収録が始まり、司会のアナウンサー埴原亮介(はにはらりょうすけ)が挨拶した。

「こんばんは、司会の埴原亮介です。そして女優の桐谷美月さん、パン好き代表の小手川パン粉さん、アクション俳優のジェイソン牧さんです」と修造と江川の座っている前の3人を指した。

「さて、テレビをご覧の皆さんはパンの世界大会があるのをご存知でしょうか」

小手川が「知ってますぅ〜フランスで開催されたんですよね、各国の強豪達がパンでしのぎを削るんです」

すると埴原が「そう、実は今日のお客様はその大会に出られたお二人なんです!パン職人の田所修造さんと江川卓也さんです」と手のひらをさっと2人に向けた。

テレビではそこで世界大会の場面が流れ、修造達の作品が映し出される。

見ている方は「へぇー!パンの世界大会ってのがあるんだねぇ」なんて言ってる人もいるかもしれない。

「田所シェフ、助手の江川さん、優勝おめでとうございます」

「どうも」

「お二人はパンロンドって言うパン屋さんで働いてるそうなんですが、そこで練習しながら大会をめざされたんですか?」

「自分達はパンロンドの店主とベッカライホルツの大木コーチの所を行き来して大会のパンについて教わりました。本当にありがたかったです。随分と良くして頂きました」

「そうなんですね、その時は江川さんもご一緒に練習に行かれたのですか?」

「はい、僕始めは何も出来なかったけど、コーチと修造さんに教えてもらって選考会でも助手に選んでもらえて大会に出る事が出来ました」

「田所シェフは大会に向けてさぞ努力をされたんでしょうね」と桐谷がコメントした。

「入社当時は右も左もわからなかったんですが、途中からパン作りに夢中になって、ドイツに5年間修行に行きました。そのあとは大会に向けてまた夢中になっちゃって」

「それだけ打ち込んだから今のシェフがあるんですね」

「俺、すぐ意地になっちゃうんです」

「それが追い求めることになって結果的にトップを目指すんでしょうね」埴原がまとめた。

次に小手川が江川に聞いた。

「江川さんはどうしてこの業界に入ったんですかあ?」

「僕は修造さんを雑誌で見て、なんだか前から知ってる気がして、気になってパンロンドにきました。そして修造さんに面接して貰ったんです」

そのあと江川は修造のやった段ボールを使って3種類の温度帯を見抜く風変わりな面接の事を面白おかしく話した。

「段ボールを何も知らされずに3分で仕分けるんですね?変わった面接ですねえ」

「はい焦りましたぁ〜。始め何も分からなかったけど持って運んでるうちにあ!これだ!ってわかったんです。最後の10秒なんて大急ぎでしたあ〜」

皆アハハと笑って盛り上がった所で試食タイムに入る。

「これは?なんてキラキラしたパンなんでしょう」

「これはチェリーのシロップ煮を使ったバイカラークロワッサンです。生地を細長く切り半分に折って真ん中に切り込みを細かく入れていく。それを花のように巻いて先を菊の花弁のようにカットするんです。それとは別に、赤い生地でステンシルを施した小箱を作り花を中に入れて焼く。花弁の先が焦げないように上に途中から厚紙をのせて気をつけて焼いて、焼成後江川がキルシュワッサー使用のシロップを塗ったものです」

「まあ、このパンだけでもそんなに手数が多いんですね。8時間で全て作るなんて凄いわ」と桐谷が感嘆の声をあげた。

「さて、では3人に食べて貰いましょう」三人の前にパンが並べられた。

「見た事ないわあ。色味が綺麗ですね」

「菊のイメージが強く出ていますね、シェフ」

「はい、自国のイメージを出す為に菊の花びらの形を考えるのに苦労しましたが、なるべく細かくカットする事で実現できました」

「テクニックなんですね」

「パリパリだぁ〜」

「チェリーの風味がしますね。初めて食べたなあ。美味しいです」

「ありがとうございます」

「それともう一種類パンを作ってきて下さいました」

四角の指図で修造はみんなに人型の大きめのパンを配った。

「シェフ、これはどの様なパンですか?人の形のパンですね?パイプを持ってますね」ジェイソンが珍しそうに抱えて言った。

「これってヴェックマンですよね?ドイツ近辺で作られてる冬のパン」とパン好きの小手川パン粉が大喜びで言った。

「こちらは自分がドイツにいた時の店で11月頃になると並ぶパンでヴェックマンと言います。Weckenヴェッケンが小麦粉を使った白いパンなんかの事で、Mannはそのまま人とか男とかって意味です」

「どこから食べたら良いか迷いますね」桐谷が困った様に言った。

「人の形だから確かにそうですね、甘めの菓子パンみたいな味なので気軽に食べて貰ったら大丈夫ですよ」

みんな急に現れた人型のパンに盛り上がった。

試食中に埴原が質問した。

「シェフの世界大会での思いと、これからの展望をお聞かせ下さい」

「自分はずっと自分のイメージした通りのパン作りをできるようにしてきたし、それを追い求めてきました。自分はパン作りに対してすごく我儘だと思っています。出来るだけ全力を出したい。今回もそれが実現したのは助手である江川のお陰です。微に入り細に入り手助けしてくれました。これからも自分と、自分の周りの人達のために1日1日を大切にパンを作って行きたい」

それを聞いた江川の顔がパッと赤らんで涙が溢れた。

カメラが江川の瞳を大映しにする。

「僕実家からパンロンドに来て良かったです。あの頃と今の僕とは全然違うぐらいパンの事を教えて貰ったし、僕も大切にパン作りをしていきたいです。修造さんと僕とは何度となく自分で最後の最後に自分のパン作りを見てみたいって言ってきました。これがこれからずっと先の展望だと思っています」

「お二人は肝胆相照らす仲なんですね」

埴原も桐谷も目から涙が溢れた。

「このお二人なら最後まで極めて行って下さると思います」

「さて、シェフは何か得意な事がありますか?」という埴原の問いかけに

「得意というのもなんですが小さな頃から高校卒業までずっと空手をやっていました。今は小学校でやってる道場に子供と一緒に通っています」

「そうなんですね、それでは修造シェフに自慢の空手を対決方式で見せて頂きましょう!

「えっ?」

「シェフとジェイソンさんこちらへ」

ジェイソン牧が立ち上がって真ん中に立った。えっと驚く修造に「台本に書いてありましたよ?読んでなかったんでしょう!」とこっそり江川が言った。

ーーーー

その頃パンロンドでは

由梨は藤岡にパンの作り方について説明して貰っていた。

「パンは粉、水、塩、イーストが有ればできる」

「はい」由梨はメモしながら聞いていた。

「見てて」

藤岡はミキサーのボールに※小麦粉と水とモルトを入れた「モルトは発酵を促したり、生地のうまみを引き出してくれる」

低速でミキサーを5分ほど回して止める。

「こうすると水と小麦粉の中のタンパク質が結びついて※グルテンが形成される」

「グルテン、、」由梨はグルテンとメモに書いてから藤岡の顔を見た。

「そう、これをこうしてしばらく置いておくとだんだん緩んで伸びる様になる。20分置いておこう」

「はい」

「今由梨が見てるのはautolyse自己融解って言うんだよ。autoは自動、lyseは溶解。つまり自分で溶けてくって意味なんだ。小麦粉は水と出逢った瞬間に自己融解を始める」

「オートリーズ、、」

「オートリーズは小麦の持つ自分の酵素で糖を分解させて、そしてグルテンを形成して伸びる様になる、本捏ねの前準備の事なんだ」

「粉と水が出逢ったら(混ぜたら)グルテンができる」

「そう」

「不思議ですね、私、今までそんな事考えた事も無かったです。こうやってパンを作ってるんですね」

「俺なんて子供の頃うどんは『うどん粉』ってのがあって、それで作ってると思ってたよ。中力粉の事だって知らなかったんだ」藤岡はニッコリ笑った。

「ウフフ」

もしハッピーに音がするとしたらそれはどんな音だろう。

由梨からキュンという音が聞こえたらそれかも知れない。

20分ほど経って藤岡が生地の状態を見せた。

「ほら、生地が緩んだ感じになってるだろ?」

「はい、本当だ」さっき迄粉と水という別々の物だったのに今はちゃんと生地っぽくなり、その先はパンになっていくのが不思議だった。

藤岡は「塩とイーストも忘れずに」と言って低速でミキサーを回した。

ーーーー

一方NNテレビのスタジオでは

修造とジェイソン牧が並んで立っていた。

修造はユニフォームを脱いだ。

筋を伸ばし、ピョンピョンと飛んで首をコキコキいわせながらジェイソンを観察した。

それにしてもでかいな。体格もいい。流石アクション俳優。まさか戦うとか言わないだろうな。

すると2人の前に木の板を乗せた台が運ばれて来た。

「板割りか、、」

道着の人たちが来て、板を持って立った。

それでは順に割って頂きましょう!1枚目!まずはジェイソン牧さんから」

ジェイソンは突きでパン!といい音をさせて板を割った。そして修造を見た。

え?何今の視線。。と思いながら修造も板を割った。

何のことはない、修造もチラッとジェイソンを見た。なんだよ?向こうも見ている。

次に2人の空手着の男の人達がそれぞれ1枚ずつの板を持って立った。

「さあ連続割、今度は2枚の板を割って頂きましょう、さあどうぞ」

ジェイソンが腕と足で軽く割った。そのままならいいがまた修造を見た。

なんだ?できるのか?って感じか?

訳もないぞ!

修造も正拳突きをして、回し蹴りで板を割る。

「修造シェフ!カッコいいですね、どうですか?まだ出来ますか?」埴原の質問に2人とも当然だと言わんばかりに頷く。

3人の道着の男が少し離れた位置で一枚ずつ持って立った。ジェイソンは動きを大きくして1枚目を突きで、2枚目を蹴りで3枚目は修造より早く回し蹴りで割る。

修造も負けていられない!持ってる板を高い位置で持つ様に調節して突き、裏回し蹴り、踵落としで割った。

拍手喝采である。横に立って2人ともお互いをバチバチに見ている。

「いやお二人共カッコいいですね、まだまだいけそうなので今度は5枚で」なんて埴原が言い出した。

江川はそばに置かれていた水を飲んで、座っている回転椅子をくるっくるっと左右に回しながら、空手対決をしている2人を見て、意地になってなにやってるんだろうと呆れていた。

もうすっかり飽きて、スタジオのセットを観察していた江川が再び修造を見た時は、両足で同時に割って反動でそのままくるっと一回転してシュタっと立ってる所だった。

「もう帰りましょうよ」

江川が小声で呟いた。

ーーーー

一方パンロンドでは由梨の幸せな時間はまだ続いていた。

「パン作りに大切なのは時間と温度なんだ」

「はい」

「さっきみたいに温度に気をつけて、時間をとってやったらパンは勝手に発酵していく」

捏ね上がった生地をケースに入れて、蓋をした。

「乾燥しない様に気をつけて」

由梨は注意深く作業を見ていた。

わざわざ教えてくれてるんだから忘れないようにしなくちゃ。

「他にも生地の種類や種によってやり方が違うからおいおい教えていくよ」

「はい」

おいおいとは順を追って次々に

まだまだこの先があるんだわ。

なんだか毎回宝箱を開ける様な期待が由梨の中に煌めきだした。

ーーーー

収録後

修造はクタクタになって楽屋へ戻って行った。

「江川さん」

「あ!桐谷さん」

「お疲れ様。とても良い収録だったわね。私感動しちゃったわ」

「僕もです」

「ねぇ、今度何かあったら連絡くれない?」

桐谷は自分の連絡先を書いたメモを江川に渡した。

何かとは修造の収録が再びあった時とか?

「あ!そうだ!今度修造さんがお店を開いたらその時は来て下さいね」

「わかったわ。間近になったら教えてね」

「はい。新人の由梨ちゃんも入ってきたし、藤岡さんにもう少しライ麦パンの作り方を教えたらって修造さんは言ってました。もう間近まで迫っています」

「そうなの。楽しみにしてるわね」

「はい!」

「江川さーん」

次に食パンマンじゃなかった。。小手川パン粉が声をかけて来た。

「ねぇ、可愛いねその食パン。僕も被ってみていい?」

「勿論ですぅ〜」小手川は手に持っていた食パンの被り物を渡した」

「ねぇ、どう?似合う?どこで買えるの?これ。ぼくも欲しいなぁ」

「あ!ひとつあげましょうか?それ、私が作ったんですよ。家にまだあるんです」

「本当?嬉しい。ねぇパン粉ちゃんってパン屋さんをいっぱい巡ってるんでしょう?またうちにも来てよね」

「パンロンドなら何回も行ってますぅ〜記事を書いた事もあるんですよ」

「えっそうなの?また見てみるね。そうだ!今度修造さんがお店を開いたら来てよね。招待するね」

「えー!嬉しい。絶対声をかけて下さいね」

「うん」

ーーーー

後日

修造は生地をどんどん練って藤岡と杉本にどんどん分割して布をかけてラックに差していった。それが終わったらまた次の生地をという風に生地を渡して、2人は連続で分割して、そのあと順に成形して型の中に入れていった。大型の成形が終わってホイロという発酵の機械の中に入れたら、次は小物パンの分割、成形。

「ねえ、まだあるんですかあ?疲れるなあ」

「杉本、今日は早さに慣れて貰う練習をしてるから。生産性をあげるんだ。はい、これ丸めて真ん中に切り込みを入れて。ブロッチェンの成形が終わったら次は※ブレッツエルの成形だから」修造は量と速さに慣れる為に次々生地を練った。

勿論細かい計算済みで、表を見ながら綿密に仕込んでいく。

「あのな、杉本。今度から2人だけでやらなきゃいけない日もあるんだよ」藤岡に言われて杉本は奇声を上げた。

「ヒェ〜」

お店の方にいて、パンを包装していた風花と由梨に杉本の奇声が聞こえてきた「また馬鹿な声出してるわ」風花はグーを見せて杉本をじろっと睨んだ。

由梨はその様子を見て、風花さんって杉本さんに厳しいけど本当は凄く仲良いのよね、と思っていた。

「あのー、風花さん。。藤岡さんって彼女とかいるんですか?」

「えっ?」実は藤岡は私生活の事は何も話さないし、誰も何も知らない。「えーとお。バレンタインの時はここにくる時に沢山チョコを貰ってたわよ。昼間はお客さんに、帰りも待ち伏せした女子高生とかにね。歩いてるだけでチョコ貰えるなんて良いわね。もう誰が誰のチョコかわからないから龍樹も何個かおこぼれを貰ってたわ。プライドとかないのかしら」風花はちょっとだけ馬鹿にして笑った。

「藤岡さんね、攫(さら)われそうになった事もあったのよ」

「えっ攫われる?」

「そう、配達先の人に気に入られてね。無事帰って来れて良かったわ」急に由梨は藤岡とグーンと距離が開いた気がした。

「そういえばね、奥さんが藤岡さんは最近引っ越したって言ってたわよ」

その時お客さんがレジに並び出したので風花は店に行ってしまった。

由梨はチラッと藤岡を見た。ブリーツェンの成形をしている。正直カッコいい。由梨は小さなため息をついた。

ーーーー

仕事終わり。

風花と杉本は一緒に帰っていた。

「ねぇ、藤岡さんって引っ越したんでしょう?奥さんに聞いたら1人暮らしって言ってたわ」

「そうなの?知らなかった」

「毎日一緒に仕事してるのになんでよ」

「だって向こうも何も言わないし、誰も何も聞かないし」

「プライベートに首を突っ込まないって事なのかしら?」

「そうかなー」

「あっ!あれ見て!」急に風花は小声で杉本に言った。本屋から出てきた藤岡が前を歩いている。

「ねえ、ついて行きましょうよ」

「え?なんで探偵ごっこ?」

「だって声をかけてもはぐらかされるかもしれないじゃない」

「そうかな〜」

2人は角を曲がって3丁目の方へ行く藤岡にこっそりついて行った。

5回程角を曲がった時「あっ」藤岡は高級そうなマンションに入って行った。

公園と役所のある広い通りに面したエントランスはエレベーターホールまで距離があり、豪華で広い。警備員室もある。

「タ、タワマン」杉本も口をあんぐり開けて上を向き、何階建てか数え出した。だが下から見上げて数えると、何回数えても途中で何階まで数えたかわからなくなる。

「どの階なのかしら?」

「わかんない」

マンションの名前は東南エクスペリエンスグランデ「名前もいかついな」

次の日

杉本は一緒に組んで仕事してる藤岡の顔をじーっと見た。

「なんだよ杉本」

「藤岡さんってお金持ちなんですね。タワマンに住んでるんでしょ?」

「え!なんで知ってんの?」

「だって昨日歩いてたじゃないですかぁ」

「歩いてた、、なんだそれ。この事はここの奥さんしか知らないんだ。警備の厳しそうなところに引っ越したんだ。誰にも言うなよ」

「それは無理です!」

「なんで」

「風花も一緒だったしぃ。由梨ちゃんにも言ってると思うしぃ」

藤岡は風花と由梨に向かって人差し指を口に当てて「しぃ〜」と言うジェスチャーをした。

それを見た風花もしーっというジェスチャーをして見せた。

「やっぱり攫われそうになったから警戒してるのね。イケメンって大変ね」

「はい、大変そうです」

夕方

早番だった職人達が帰った後、由梨と藤岡は工場の掃除をしていた。親方は店側の台の上で明日の仕込みの計算をしていた。

「あの」

工場の奥の機械を拭きながら由梨は藤岡に話しかけた。「何?由梨」

「藤岡さんはあの時どうしてベッカライウンタービルクに来ていたんですか?」

藤岡が由梨に出会ったのは由梨の実家の着物屋花装の近くのパン屋に立ち寄った帰り道だったが、そこから東南駅は随分離れている。

「由梨、俺は誰かの答えて欲しいように答えたり、理想の答えを探して言う様にいつもしてしまうんだ。人によっては俺の事を出来過ぎくんと揶揄する者もいる」

「え?」どう言う意味なのかしら。由梨は注意深く聞いていた。

その時親方が振り向いて「もう時間だから片付けて帰りなよ」と声をかけた。

「わかりました親方」

藤岡はしばらく考えて「ま、後で移動して話そうか」と言った。

その後

2人は駅前のオムライスの美味しい店に来ていた。

茶色が基調の店内のテーブルには赤と白のチェックのテーブルクロスが敷かれていて、小瓶に花が一輪さしてある。

シンプルでタマゴはパリッとしたタイプで、赤いソースのかかったオムライスの端をスプーンで掬いながら藤岡が言った。

「美味いんだよここのオムライス」

「本当、美味しいです」

バターの香りが一口毎にふわっと立ち込める。

途中まで食べかけて、藤岡は話しだした。

「今こう言うべきだという場面で理想の答えを言っちまうんだ。でも言っちゃいけない時もあったんだなと後悔する事もある」

急に始まったさっきの話の続きを聞きながら、藤岡の顔をじっと見ていた。

「高校を出てすぐ調理師学校に入ったんだ。その後レストランに就職した。6人ぐらい従業員がいて、3つ歳上の人について仕事を教えて貰った」

「はい」

と言いながらその先輩が女性なのかどうか気になる。

「優しくてしっかり者でね、なんでも教えて貰っていて、俺も持ち前の当たり障りのない受け答えで上手くやっていたんだ」

由梨は目を見てうんうんとうなづいた。丁度今の由梨より少し年上の頃の藤岡の話だ。

「飲食は離職率の多い業界だから同僚もちょこちょこ変わって安定感は無かった。その日その日仕事をこなすのに精一杯でね。あの頃と比べるとパンロンドの親方や修造さん、他の先輩達は仕事もできるし頼りになるよ。でもそのレストランはそんな環境じゃなくてね」

「大変だったんですね。頼れるのはその先輩だけだったんですか?」

「そう」

藤岡は言葉を詰まらせた。

「そうなんだ、お互いに力を合わせて必死で、でもある日その人は心が折れてしまったんだ」

『藤岡君、私転職するの。パン屋さんで職人を探してるところがあるから』

そう言われて

その場で怒ってもよかった。

俺はどうなるんですか

あなたがいないなんて

相談も無しに勝手に他所に行くんですか。

そう言えば良かった。

でも俺の口から出たのは

元気で

頑張って下さい

活躍を祈っています。

そんなどうでもいい

当たり障りのない言葉だった

あの人は俺に

ごめんね

と言っていた。

心の疲れたあの人に

行かないで下さい

と言えば良かったのかどうか

「パン職人になると言って誰にも行き先を告げずに辞めてしまった。その後あちこちのパン屋を探して回った。その時始めたんだ。動画を撮ってそれをアップするのを。お陰で登録者数も増えて広告のお陰で良いところに住めるようになったよ」

自虐的に笑う藤岡の話をただ黙って聞くことしかできない。

「俺、初めて人に言ったよこの事を。なんだかずっと辛かったけど、気が楽になったかも」

藤岡さんも初めて会った時私の話を聞いてくれた。そして一緒に解決して貰ったわ。できれば私も手助けしたい。

「あの時俺が言ったんだったね。話せば楽になれるんじゃない?って」

時間がゆっくり溶かしてくれる事もある。

こういうのを自己融解って言うのかな。

そう思いながら残りのオムライスを黙って食べた。

「ほら、由梨」藤岡はほっぺをトントンと指さした。

「あ」

顔を赤らめて由梨はソースを拭き取ったのを見て藤岡はニッコリ笑った。

食後コーヒーを飲みながら、黙っていた由梨が「あの、私藤岡さんと出会ったのはとても意味があるんじゃないかと思って、、私達縁があると思ったんです。それで電車まで追いかけて走って来ました」

「あの時」

「はい」

俺はちゃんと気がついている。

何故由梨が追いかけて来たのかを。

ただこういうのって人の言って欲しい事を言うわけにいかない場合もあるんだって今はちゃんとわかってる。

藤岡はマンションに帰って薄暗い部屋で1人考えていた。

まだ消化しきれてないんだ。

ずっと胃もたれを起こしてて

俺にはもう少し時間が必要なんだ。

次の日の夕方頃

お店はいつも以上に大忙しだった。

修造達は特訓の為に大量にパンを作ったがそれももう無くなりそうだった。

由梨は江川にあまり生地で丸めの説明をして貰っていた。「ほら、こうして手を猫さんの形にしてね。クルクルって丸めてね」

それを聞いていた藤岡が「幼稚園児か」と突っ込んでいた。

「だってわかりやすいと思って」テヘヘと笑いながら江川がそれに返事していた。

「そうだ由梨ちゃん、昨日僕達の映ってたテレビ見た?9時からやってたでしょ?」

「はい、見ました。途中すごく感動する所がありましたね。司会の人とかみんな泣いてて、私も泣いちゃいました」

「あの後ね、空手の板割りってのがあったんだけどね、全部カットになっててね」江川は2人共あんなに真剣にやってたのにと思うと笑いが込み上げた。

「それで最後の方ユニフォームも脱いでたんですね」

「そうそう、ウフフ」

それを遠くで聞きながら修造は「あんなにムキになってて恥ずかしいよ。カットになって良かった。だいたいパンと関係ないんだし」

「見たかったですよ。修造さんの蹴りや突きを」と藤岡に言われて修造は顔を赤らめながら言った「さ!台を片付けて、みんなでヴェックマンを作るよ。そのあとシュトレンとヘクセンハウスな!」

「はーい」

去年は親方と2人でつくったヘクセンハウスだったが、今年はみんなで作れるようにしていた。パーツを作って組み立てるお菓子の家だ。

パンロンドでの楽しいひと時も後わずか。

おわり

※オートリーズの時にイーストと塩を入れる店もあれば、塩は後で入れる(後塩法)店もある。

※グルテン パンに粘り気と弾力を与える。アミノ酸からなるタンパク質。水と小麦が出会ってグリアジンとグルテニンが結びついてパンができる。不思議。今回この結びつきと恋をかけてみました。

※ Brezelnブリーツェン=プレッツェルの事。腕を組んだ様な形をしていて、塩味、バター味、チーズ味など愛されドイツパンの事。ラヴゲン液をかけて焼くので独特の食感になる。めちゃうま。

※ヴェックマン Weckmann 地域によって呼び方も形も様々。11月中旬からクリスマスまで見かける。

桐谷美月との出会いはこちら 進め!パン王座決定戦!

https://note.com/gloire/n/n394ace24aa33

江川君のはじめての面接はこちら 初めての面接

https://note.com/gloire/n/n313e7bee5f33?magazine_key=m0eff88870636

由梨と藤岡の出会いはこちら Emergence of butterfly

https://note.com/gloire/n/n3271424619bb

この作品は2023年10月24日(火)にパン屋のグロワールの

ブログに投稿した物です。

39パン職人の修造 江川と修造シリーズ Emergence of butterfly

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Emergence of butterfly

東南駅の西にある東南商店街で一際賑わうパン屋のパンロンドでは、親方、藤岡、杉本達が『修造と江川の世界大会一位おめでとうパーティー』を計画していた。

「ここでやりますか?」「座れるとこがいいかな」「近くの店でいいところある?」「いつもの居酒屋は?」「パーティーと言うより飲み会だな」などなど

社長の柚木(通称親方)は早速駅近の宴会場がある居酒屋に電話して予約していた。

「よし!明日は江川と修造が来るし、仕事が終わったらそのまま直行だ」

それを聞いてパン職人の藤岡恭介は「俺明日休みなんでそこに直接行って良いですか?」と聞いてきた。

「勿論いいよ、じゃあその時間に待ってるからな」

「はい」

それを聞いていた後輩の杉本龍樹は質問した。

「ねぇ、藤岡さん」

「なんだよ杉本」

「いつも休日は何やってんですかあ?」

「パン屋さん巡りかな?パン屋の数は凄い多いから中々巡り切れるもんじゃない」

「新しい店もどんどん増えてますもんね」

「そう」

「お土産買ってきて下さいね」

「厚かましいなお前」

ーーーー

次の日

藤岡は朝9時頃パン屋巡りに出かけた。

行ったことのないエリアを攻めようと東南駅から快速列車に乗り、途中乗り換えて普通電車で40分程の比較的田舎の長閑な駅に降り立った。

駅からパン屋までの動画を歩きながら撮って店の前まで来たらちょっとパン屋の外観について説明。店内の動画は撮らず買ったパンを近くの公園で紹介する。

それを帰ってぼちぼち編集してアップする。

それが藤岡の休日の過ごし方だった。

「ちょっと買いすぎちゃったな。あまったから杉本にやろう」1人そう言ってパンをバックパックの上の方に入れた、

動画を撮り終えて公園から出る。

しばらく歩くと大きめの川が流れていて、橋を渡って右に曲がると駅だ。

「おや」

藤岡は橋の真ん中で髙欄に手を掛け、じっと立って川を眺めている女の子を見つけた。

女の子と言っても高校生か大学生かと言った感じ。

あの感じは飛び込む感じなのかなあ。

藤岡は川の水量を見た。

結構深そうだしまあまあな流れがある。

おいおい。

手すりに手をかけるな。

覗くな川を。

そう思って歩いていると、とうとう女の子の後ろに来てしまったので「あのさ」と声をかけた。

「ひょっとしてだけど飛び込む気?川は冷たいし溺れたら苦しいよ?息ができないんだからさ」

その女子はギクッとして手摺から手を離し、泣き腫らした顔をこちらに向けた。

このまま自分が立ち去ったせいで、気を取り直してもう一度川を覗かれたら困るな。

「ま、どこかで落ち着いて話そうか」と言って一緒に橋を渡りきろうとする。

失恋でもしたのか、2人で歩いてるところを誰かが見たら自分が泣かせたと思うのか。そんな事が頭に浮かんだ。

とりあえずどこか落ち着けるところを探さないとだけど俺土地勘ないしなあ。

「カフェでも入る?」と言ったら、女の子は急に立ち止まりまた泣き出した。

え?カフェが地雷?

仕方ない。

藤岡はこのまま見知らぬ人物の人生相談をするかどうか迷った。

「君高校生?家族とか親身になって相談できる人はいないの ? 」

「お父さんやお母さんに言ったら心配かけるから」

「そんなに深刻な事なの?俺さあこの町の人間じゃないから言いやすいかも。言ったら楽になるんじゃない?」

失恋の痛手も時間が経てば忘れるのかなと思いながら藤岡は川からはちょっと離れた土手の方に誘導して眺めの良い斜面に座るように促した。

「俺は東南駅にあるパンロンドって店のパン職人藤岡恭介。君は?」

「私は、、、花嶋由梨と言います。高校を4月に卒業してカフェで働いていたんです。でも今日辞めてきました」

「なんだろう?労務問題?」職場のいじめか何かと思い藤岡は聞いた。

「私には小さな頃から黒い噂が付き纏っていて、この町にそれが蔓延した事があるんです」

「噂?どんな?」

「私の実家は花装(はなそう)と言う着物屋なんです。父と母が着物関係の物を販売しています。近所にある福咏(ふくえい)と言う着物屋がうちを目の敵にしていて。小さい頃からその店の前を通るといつも罵声みたいな言葉が聞こえてくるんです」

「うん」

てっきり恋愛のもつれかと思ったら全然違うのかと思い藤岡はじっと聞いていた。

「罵声の内容は泥棒とかこの道を歩くなとかでした」

「えっ ? その店の人間が君に向かって?」

「私その道が嫌で他の道から通るようになって、そしたら私が通る所の人達に何か噂をしていて、こちらを見て何か言ってるか聞き耳を立てたらやはり手癖が悪いとか泥棒って言ってたんです」

「え?何それ。失礼だけど別に泥棒じゃないんでしょう?」

「私そんな人間じゃありません」と言ってまた泣き出してしまった。

「ごめん、今の質問は悪かったね。謝るよ」

「通りすがりの人に何度も同じ話を執拗にし続けていたので、段々みんなが私の事をそんな目で見るようになりました。子供だった私にはそんな大人達をどうする事も出来なくて。それに何もしてないって言っても誰も信じてくれないわ」

「実際の被害者がいないのにそんな噂が広まるなんて酷いね。お父さんやお母さんはなんて言ってたの」

「父と母は何も知りません。福咏以外は直接私に行って来る人はいません。噂や陰口なので両親には中々伝わらないし、私、そんな事で両親に心配かけたくない」

まだ小さい頃から大人の嫌がらせを受けてたなんて気の毒な。それに噂って一度立ってしまうと中々消せないな。

「その福咏の人ってどんな奴なの?」

「その人は福咏という着物屋の店主です。元々は父と同じ職場で働いていたらしくて、父が店を開くとその人もうちに来て働いていたらしいんです」

「ふーん」

「なのに独立してうちの近くに開店したそうなんです」

「なんでかな ? 商圏がかぶると自分も損するのに。仲が悪かったの?」

「それは分かりません」

藤岡は、この子は両親との意思の疎通が上手くいってないんだなと思って何かアドバイスをしようと考えた。「あのさ、嫌な目にあってんのに両親に言えないのは思いやりなんだろ?だけど自分がもし死んだらどのぐらい親が悲しむか考えた事ある?」

「それは、、私自分が悲しすぎてその事について考えてませんでした。福咏が噂を流してる所は私が見ただけでも色んな通行人に言っていて、一体誰がその噂を信じていてどのぐらい広まってるのかを考えると怖くて」

「子供の頃からずっと続く嫌がらせなんて卑怯だな。実際に嫌な思いした事あるの?」

「この町のどの店に行ってもすごく見張られる様になりました。何もしてないのに」

「何か盗まれると思ってるって事?確証もないのに疑うなんて酷いよね。その福咏って言う着物屋卑劣な奴だな」

噂なんて払拭できないのかな。不特定多数過ぎて太刀打ちできないのか。

「それでカフェはどうしたの?」

「カフェで働く私を見て噂を知ってたお客さんの何人かが軽蔑の眼差しで見てきました。そのあと店長に何か言ってたんです。福咏が流した噂が4人のお客さんの会話の中で繋がってやっぱり私はよくない存在だって、もうその噂は真実として店長に伝えられたんです」

「ネタ元は福咏だろ?」

「はい」

「で、店長はなんて?」

「はい、『そのお客さん達は皆それぞれ君の噂を知っていて、カフェで1人が私の噂話をした時、他の人達も私も知ってる私も知ってると繋がって、その人達の中で確固たる真実の様に決定した、みたいに言われたよ。君何を盗んでそんなに噂になってるの?捕まった事あるの?』って言われたんです。自分は何もしていないって言いましたが、『じゃあなんでみんながその事を知ってるの?』って聞いてきました。それでもうここにはいられないって思って辞めますと言いました」

「それでさっき橋のところに立ってたんだね?」

「はい」

「ネタ元が一緒ならちょっと考えりゃ分りそうな事なのに。バカだなそいつら。きっと人を追い込むのが楽しいんだろうよ」

ここら辺は結構古くからある住宅街みたいで、地域の密着もありそうだからこんなつまらない嘘も染み付いて行くんだろう。みんな暇なのか?snsの書き込みならともかくなんてアナログなんだ!

藤岡はそう思うと段々腹が立ってきた。由梨に纏いつく呪いが見えたような気がした。

「あのさ、この町にいるから辛いんじゃない?俺ならここを離れて心機一転、新しい生活や人間関係の中で生きていくけどな」

「私、父と母が大好きで、一緒に暮らしてたかったけど藤岡さんの言う通りだわ。でも私がいなくなったら残された父と母はどうなるんだろう」

「由梨がこの世からいなくなるのと引っ越しとは違うでしょ。何か他の土地に行くと不都合な事があるの?」

「今度はうちの家族が福咏にターゲットにされるんじゃないかと心配で。着物離れが進んでいく中でおかしな噂のせいで売り上げが落ちたら気の毒です」

「噂の元を断とう」

「えっ?」

「どんな風に嫌がらせして来るのか実際確かめよう」

「そんな事ができるんですか?」

「やってみなきゃわからないけど」

ーーーー

由梨の生家が営んでいる着物屋『花装』は質素な店構えで、古びた店が何軒かある元商店街の様な所にある。過去には賑わっていたのかもしれないが今は閉店した建物が多い。そしてその筋から15メートルほど離れた向かいの筋に『福咏』がある。

福咏の店は派手な店構えで、手前にキラキラしたリーズナブルな帯がぶら下げられている。

藤岡は由梨と2人でその店の前に来た。

そして「店の前をゆっくり歩いて」と由梨に指示した。

由梨は言われた通りにその前をゆっくり歩いてみた、

すると暇なのか椅子に座って外をぼーっと眺めている福咏が由梨に気がついた。

店内に客はいないからなのか店の中から「おい、どうしたトボトボ歩いて、何か盗んできたのか?」と言ってきた。

由梨はそれを聞いて足速に立ち去った。藤岡はゆっくりその後を歩いていた。

本当に言ってた!しかも結構はっきりと、藤岡は驚いた。

「何故あんな事言わせとくの?」

「だって怖くて」由梨は下を向いて言った。

「あれって言葉の暴力じゃん。黙って殴らせておくなんて良くないよ」

確かに由梨は大人しそうで自主性に乏しく受け身そうに見える。憂さ晴らしに虐める相手にはもってこいだ。何年も続けているうちに確証なき噂が定着したんだ。噂と噂は繋がった時に真実として語られる。それをまた言いふらされるんだ。

「こりゃ良くないな」

由梨には悪いが、藤岡はもう一度ゆっくり福咏の前を歩かせた。

すると福咏はまた由梨を見つけて店内から声を張り上げた。

「なんだ?また何か万引きに行くのか?泥棒めが」と言ってきた。

藤岡は不思議だった。

色々な噂の種類があるだろうに何故泥棒にしたのか?

2人でさっき座ってた川縁に戻りながら考えた。

証拠があまりなくて、商店が被害にあいやすく、犯人が探しづらく噂になりやすい、そして不特定多数の万引き犯を皆恨んでいる。ターゲットが明確だと余計に噂になる。

「だからか、、」

兎に角元を断ち切らないといけない。由梨が逆らわないからと言ってこのままでは辛くなってまた川に飛び込もうとするだろう。

「由梨、逃げるのは良くないじゃん。立ち向かおう!反撃するんだ」

その瞬間まで由梨は自分の人生がつまらないものだと思っていた。生きていても良いことはなく、いなくなったらその噂がひとつ消えるだけの事だと。それをこんな風に言ってくれる人がいるなんて夢にも思っていなかった。

「立ち向かう、、、」

「そう、俺もそれに付き合うよ」

さっきの川縁に戻って座る。

藤岡はパン屋で買ってリュックの上にフワッと入れて置いたパンを出した。

「良かった、潰れてないよ」と言ってパンを半分に割って渡した。

「腹ごしらえしとこう。元気が出るよ」

「ありがとうございます。これ、ベッカライウンタービルクのですよね?母がよく買って来ています」

由梨は半分に割ったヘルンヒェンを美味しそうに食べた。

昼前は落ち込んでいたけど、美味しいパンは人を幸せにするな。表情も少し明るくなってるし。と、藤岡は由梨を観察していた。

「何故藤岡さんはこの町に来たんですか?パン屋さんに来るため?」

「そう、色んなパン屋さんを巡って動画に撮ってネットに上げてるんだ。ここに来たのはたまたまだよ」

藤岡は偶然だと思っていたが、由梨にはこうして一緒にパンを食べている藤岡との出会いが運命の様に思えた。

藤岡はもう一つパンを取り出した。

「これ、豚の耳って意味のパンなんだけど俺の店にもあるよ」藤岡はハート型のパイ※Schweinsohr(シュヴァンスオアー)を出して二つに割って、由梨に渡した。

「俺の働いてる店にはドイツで修行してきた先輩がいて、俺も今その人にパンを教えて貰ってるんだ。ドイツでは豚は新年に幸福を運んでくれるって言われていてクリスマスが終わると豚のグッズを見かけるようになるらしいよ。それが幸運の豚 『Gluecksschwein(グリュックスシュバイン)』って言うんだってさ」

「幸運の」と言って由梨は藤岡を見た。

藤岡を幸運の豚と言うのは当てはまらないが、今自分は充分に元気を貰っている。

今日の昼前は暗い気持ちで川の水面を見つめていたのに、今はどうだろう。

由梨の中に何か熱い気持ちが芽生えていた。

「パンって良いですね、人の気持ちを明るくしてくれるのかも。藤岡さんの勤めてるパンロンドはどんなお店なんですか?」

「東南駅の商店街にある明るいパン屋だよ。そこには優しくてでかい店主がいて、面白い後輩や、いつもパンに熱い先輩がいてるんだ。俺はそこがすごく気に入ってる」

そんな藤岡の表情は光り輝いてる様に見えで、由梨はその顔をじっと見つめていた。

「じゃ、打ち合わせをするか」

「はい」

ーーーー

日中を過ぎた頃の商店街

夕飯の食材を求める買い物客がそろそろ増えて来る時間。

藤岡は福咏に入った。

「男物の足袋を見たいんですがサイズを見て貰えますか?」

すると福咏は店の奥に向かって「おい、足袋を出して」と言った。「はーい」店の奥の暖簾の間から女性が出てきてレジの後ろの棚から足袋をいくつか出してきた。

「足のサイズは何センチですか?」

「28です」

「それならこれなんて如何ですか?」

「どれがいいかな」藤岡はゆっくりと足袋を見ていた。

「これにします」と言って足袋を一つ選んで買いながら

「あなたはここの奥さん?」と聞いた。

「はい、そうですよ」

そこに由梨が入ってきた。

福咏は入り口近くの和柄のガーゼタオルを補充していたが、由梨が入ってきたのを見て心底驚いていた。福咏は慌てて客前にも関わらず

「おや、珍しいやつが来たぞ」と奥さんに言った。

そして由梨に向かって語気を強くした。まるで追い払いたいかの様だった。

「何しに来たんだ。うちに何か盗みに来たのか」

「私は泥棒でも万引き犯でもありません」

「そんな証拠どこにある!お前が怪しいのはみんなが知ってるぞ」

「それは福咏さんが言いふらしたからでしょう!私が泥棒って言うんなら証拠を見せて下さい」

「この町の有名な噂だからな!誰でも知ってる事だろ」

「今日カフェの店長に言われました。みんなが知ってるって、それは福咏さんが流した嘘が繋がったんじゃないですか!」震える声でそう言いながら自分にこんなはっきり言う力があったのかと驚いていた。それは他ならぬ藤岡の後押しによるものだと由梨は自覚していた。

福咏は青筋が立ってきた、今迄と違う態度に困っている様に見えた。「うるさい!泥棒!泥棒!お前は泥棒だ!親はどんな躾をしてるんだ!花装は終わってる!もっと言いふらしてやる。あの店はもう終わりだな」

無茶苦茶なやり取りに藤岡は呆れた。よくこんな奴が商売をしていて成り立ってるな。

「いや、なり立ってないよね。この店こそ終わりだよ」と福咏に向かって言った。

「なに!あんたなんなんだ」

「俺はこの店の客で、ただの第三者だよ。この店で買った足袋を撮ったら偶然あんたが映り込んでいたんだ」

「それがどうした」

「証拠もないのにこの人を侮辱した。ありもしない噂を広めて店の評判を落とした。名誉毀損、侮辱罪、信用毀損罪だ!裁判になったら証拠として提出する、そして俺は証人として出廷するからな!」

「俺が噂を広めたって証拠はどこにある!」

「店長に聞いてお客さんが誰かわかれば済む事だわ。きっと弁護士さんが聞いたら正直に答えてくれると思います」と由梨が言った。さっきの言葉も含め、由梨がこんなにはっきりと言ったのは生まれて初めての事だった。

「ほらな!そう言う費用も含めて慰謝料を用意しておけよ」藤岡はそう言って店から出る様に由梨に目で合図した。

由梨が小走りに店を出る時に振り向くと膝をついてガッカリしている福咏と、それを仁王立ちになって睨みつける奥さんが見えた。

「まだやる事がある」

「えっ」

藤岡は花装の店の前で由梨に言った。

「お父さんとお母さんに今までの事を全て正直に言うんだ」

「でも」

「さっき福咏にあんなに強く言ったんだからもう大丈夫。自分が辛かった事や今の自分の気持ちもちゃんと言えるよ」

由梨は藤岡の目を見てその気持ちをまた自分の中に取り込んだ。心の中に宿った炎が大きくなって燃えている。

由梨は花裝の店の中にいた父親と母親の前に立った。

「由梨おかえり」

「お父さん、お母さん、話があるの」

「動画を見て貰おう。昼間撮ったものもあるから」藤岡は店の前を往復した時にも動画を撮っていた。

「はい」

「あの方はどなたなの?」

「藤岡さんよ」

由梨はそう言って店の奥で2人に今迄の事、今日由梨に起こった出来事を詳しく話して動画を見せた。

「実は今日娘さんが川の水面を見ながら深刻な顔をしてたので気になって声をかけたんです」

父親と母親は娘があっていたいじめにショックを受けた様だった。

「そうだったんですね、由梨ごめんね今まで知らなくて」母親は泣きながら由梨の手を握った。

「由梨までそんな事になっていたなんて」

「えっ?」

父親が藤岡に言った。

「私達もなんです」

「私達?」

2人は交互に自分達の名刺を藤岡に渡してきた。花装の花嶋祥雄と花嶋香織が由梨の両親の名前だ。

2人はこれまでの経緯を話した。

「福咏からの嫌がらせはあの店ができる前からありました。私達と福咏は元同僚で、20年前私が開業した時福咏も一緒に働かせてくれと言ってきたので、その時は私を慕って付いてきてくれたんだと思っていました。でもそれは勘違いで、福咏はうちの嫁さんに想いを寄せていたのが分かって」

「私は福咏さんの事はなんとも思っていないってはっきり言いました。それにお腹に由梨もいましたので」

「その後の福咏は変わっていきました。態度が悪くなってついにうちを辞めて当て付けにうちのすぐ近くて店を出して、うちの商品は質が悪いとか欠陥品を売ってるとかマイナスイメージになる事ばかり言ってるんです」

「拗らせてるな」

「その後結婚したのでもう済んだ事だと思ってましたが、嫌がらせは延々と続いていたわ」

「由梨も同じ目にあってたなんて」と香織はすまなそうにいい、由梨の肩を抱いた。

「大変だったね由梨」祥雄も由梨の手を握った。

お互いに心配をかけるから言えなかったんだな、優しい親子だ。

「あの、偉そうな事言いますけど、自分の人生は自分で守らなきゃ。自分で力強く生きていかなきゃいけない。そんな状態を何年もほっといたなんて良くないですよ。もし訴えるんならこの動画を証拠として提出します」

「そうだったんですね」

藤岡が振り向くと福咏の嫁が立っていた。

「主人が花装の奥さんに、、」

と言って香織を見たので祥雄が「初めはそうだったと思いますが昔のことなんですよ。ご主人には憎しみだけが残ってるのかも知れませんが」

「情けない。そんな事だったなんて。何故いつも由梨ちゃんに辛く当たるのか不思議だったんです。商売敵の子だからだと思っていましたが、ちゃんと注意しなかった私が悪いんです」

「お前」

慌てて追いかけて福咏も入って来た。

こいつまで入ってくるなんてカオスだなと思って福咏を見ていると、福咏の嫁は冷たく「もう顔も見たく無いわ」と言って触れた手を振り払って出ていった。

それを追いかけようとする福咏の行く先に藤岡は立った。

「あんた何か言うことがあるだろ ? あんたのせいで奥さんとも揉めるんなら自業自得だよ。だけどな、ここまで入って来てこのまま出ていくのはどうなんだ」

そう言われて福咏は振り向いて花嶋の3人を見た。

「花嶋さん、すまなかった。俺は自分を途中で止める事が出来なかった。あんたが憎かったのに花装に入って香織さんに近づいたんだ。諦めようとしたんだが憎しみがどんどんエスカレートしてきて、あんたら親子にも嫁にもすまない事をした」

福咏は謝った事で全てが開けた気持ちになり手をついて「許してくれ」と詫びた。

藤岡は「まだ花嶋の奥さんに想いを寄せてんの?」と聞いた。聞きにくい事だが、福咏の夫婦関係に関わる。

「その気持ちはもうありません。自分には憎しみしか無かった」

「それはこの一件で今後どうなるの?」

「こんなに綺麗に露呈して全て現れた形になっています。今は償いの気持ちしかありません」

「あのさ、散々名誉毀損したんだからこれから自分は嘘をついてたって事を知らしめて花装の信頼の復元に努めなきゃだめなんだよね。これで終わりじゃ無いよ。信用回復に努めなきゃ」

不特定多数の人間に言いふらした事を回収できるのか?それは全員が疑問な事だった。

「福咏、私達夫婦はお前の長い嫌がらせに疲れてここを売り払って花装を移転しようと考えていたんだ。もう私達の事は忘れて、今から嫁に謝って許して貰いなさい」

「祥雄さん」

福咏は頭をガックリと下げた。

「すみませんでした。関係ない由梨ちゃんにもすまない事をした」

「花嶋さん、本当に移転するんですか?」

「そうですね藤岡さん。まだ計画中なのですが、どこかいい場所があったら」

「花嶋さん、福咏が、私達が移転します。この町の人達には謝罪広告を出します」

そこに由梨が口を開いた「お父さん、お母さん、私達がこの町から出ましょう。藤岡さんも言ってくれたわ。この町にいるから辛いんだって、俺ならここを離れて心機一転、新しい生活や人間関係の中で生きていくって」

「由梨」

「大人しかった由梨が自分の意志を示すなんて」祥雄は藤岡の力が強いと思った。

昨日の由梨と今日はまるで違う性格のようだった。

「藤岡さんのおかげなのね」

「俺は何もしてませんよ。元々のこの子の力でしょう。それと俺、もう行かなきゃ」

夕方パンロンドの集まりがあるのにちょっと忘れてた、そう思っていると祥雄が言った。「本当にありがとうございました。縁あって助けて貰った。今後の事は親子で話し合います」

「わかりました。じゃあ」と言って由梨に会釈した。

「え?」

さっきまで強く心が繋がってる気がしたのにこれで立ち去って終わりになってしまうの。

由梨の心はもやもやと不安に覆われた。

「ちゃんとしといてくれよ」と福咏に言ってから、みんなに挨拶して出て行く後ろ姿を由梨は見ていた。

芳雄は福咏に「由梨は今朝まで深刻な状態だったんだ。あの若者に助けられたんだ」と藤岡の背中に感謝の視線を投げかけた。

「本当に謝罪広告を出します。嫁に謝って来て良いですか?」

「そうしてやれ」と言い放って福咏を店から出した。

「由梨、すまなかったね。本当に無事で良かった」

祥雄と香織は黙って立っている由梨にそう言った。

「私」

「え?」

「行かなきゃ」

そう言って由梨は走っていった。

体育の時よりずっと速く今までで1番速く。

橋を渡って道なりに行くと駅。

藤岡は駅にたどり着いて電車に乗り、空いてる席を見つけて座った。

良かったのかな?

今日は

いい方向に行ってくれると良いけど。

自分の人生は自分で守らなきゃ。自分で力強く生きていかなきゃね。

辺りはもう暗くホームの向こうの家々の明かりを見ながら「色んな家庭があるよな」と呟いた。

発射の合図のプルプルプルプルという音が流れる。

由梨はギリギリで電車に飛び乗って後ろ髪をドアに挟まれた。ドアはもう一度開いたのでそのスキに電車の中に転げこんで床に手をついた。

藤岡は百合を見て「電車にあんな乗り方したら危ないな」と笑って言った。

走って来たのでハアハア息が切れて恥ずかしくて顔を真っ赤にしながら目は藤岡を見ている。

「あ、あの」

「どうしたの?そんなに息を切らして、俺忘れ物でもした?」

「私、今日気がついたんです。自分の人生も運命も自分で決めます!私をパンロンドで働かせて下さい」

しばらくポカーンと由梨を見て「まあ座りなよ。あのさ、パンロンドで働けるかどうかは親方が決めるんだ。俺じゃないよ」

「親方、、相撲部屋の」

藤岡はそう言われて親方が横綱の格好をしてるところを想像して笑った「ピッタリだな」

「え?」

「いや、折角電車に乗っちゃったから会う?親方に。めちゃくちゃ力持ちなんだよその人。相撲取りに見えるけどパン屋の店主なんだ」

「わかりました。会って見たいです」

「じゃあ心配してるだろうから家の人に連絡しておいて」

「はい」

由梨は不思議な気持ちで祥雄と香織にメールしていた。

告白が就活宣言になり、走って来た目的と違う方向に話が行ったが、今はもうとても前向きな自分がいて、藤岡の横に座りこの時がずっと続けば良いと思っていた。

「私頑張れそうです」

「そりゃ良いね。只今従業員募集中だからね」 

東南駅に着くまで藤岡はパンロンドの人達の性格や人間関係について話した。

駅前の居酒屋に入ると丁度江川が世界大会でどう活躍したのかを初めから順に説明していて、それを微笑ましそうに聞きながら修造が黙ってビールを飲んでいる。一際大きいのが親方、その横には奥さん。そして明るくて面白そうな杉本とその彼女の風香。

由梨は藤岡の話の通りだと思って微笑んだ。

藤岡の後ろにいる由梨にみんなが気が付いた。

「ちょっと!藤岡さーん。遅かったじゃないですか〜!その人誰ですかあ?」

「あ、ごめんごめん杉本。親方!面接したいって人を連れて来ました」

その時すでに酔っ払っていた親方は大声で「合格!採用!明日から来て」と言ってみんなを驚かせたが「ありがとうございます」と由梨だけは大真面目で応えた。

「ごめんなさいね、うちのが酔っ払ってて、また時間のある時に話しに来てね。2人ともここに座りなさいよ」と奥さんが話しかけてきた。

イエ〜イ!カンパーイ

みんな由梨に乾杯してニコニコしている。

また江川が大声でみんなに説明の続きを始めた。親方は「よーし!いいぞ!その調子だ」とか変なタイミングで返事している。

みんなの輪の中に座ってわいわいと楽しい話を聞いていると、ずっとこの輪の中にいたような、いたいような気持ちになる。

「ねえ、藤岡さーん。お土産は?」

「まだ言ってんのか杉本」

「たまには俺にもパンを買ってきて下さいよー」

「食べちゃったな。そうだこれやるよ、ほらお土産」

と言って杉本に渡した。

「やった!」

杉本は白い紙の袋から出して驚いて叫んだ

「足袋⁉︎」

おわり

Emergence of butterfly  蝶の羽化

由梨はこれから自由に羽ばたいていけるでしょうか。

※ハート型のパイ Schweinsohr(シュヴァンスオアー) ドイツのパン屋さんでよく売られているハート形のパイ生地のお菓子で、豚の耳という意味。幸運のシンボル。フランスではパルミエと言う。藤岡はこれを真っ二つにしたが意外と無神経。とはいえ他の向きで半分にちぎるのは難しい。

この作品は2022年11月03日(木)にパン屋のグロワールのブログに投稿

した物です。

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