54パン職人の修造  江川と修造シリーズ I’m not a hero

このお話は『赤い髪のストーカー』で4人組の男にボコられた修造が救急で搬送され一時危篤状態になっていたが、本来丈夫に生まれついた修造が徐々に回復してきた所から始まります。


I’m not a hero

修造の妻律子はNN病院の個室のベッドの横で心配そうに修造の顔を覗き込んでいた。
修造は時々目を覚まして律子の顔をじっと見ていたと思ったら、手を繋ぐジェスチャーをして差し出した右手を握ってまた安心したかの様に眠りについていた。
一週間もするとずいぶん体力が回復してきたのか点滴の袋も一つになり気力も戻ってきたなと瞳を見つめて分かるほどになっていた。

良くなって来たから安心したわ。後は日にち薬ってお医者様も言ってたし」
「ごめんね律子、心配かけて」
「子供達も心配して初めのうちは緑も大地もワーワー泣いてたわね。今は家でお父さんとお母さんが見てくれてる。みんなにも元気になってきたって教えておくわね」
「みんなに申し訳ないな」
「修造が悪いんじゃないわよ、警察も強盗未遂及び傷害事件って言ってたし。犯人は全然知らない人達なんでしょう?」
「そうなんだよ」
「修造が眠ってる間にね、江川さんはお店の周りや駐車場のあちこちに防犯カメラを付けたり警備会社と契約したりしたらしいわよ」
「江川には怖い思いをさせたから無理もないよ」
「江川さんも大変だったんですものね」
「抜けた分忙しくさせて申し訳ないな」
「後で電話してあげる?お店の人たちも安心するんじゃない?」
「そうだな」

修造がいつまでも手を握っているとそこに藤岡パンの御曹司藤岡恭介が入ってきた。
スーツの似合う爽やかイケメンだ。
「入って大丈夫ですか?」と言いながら静かに入ってきた。
律子は布団の影に握った手を隠してからそっと離した。
「藤岡さんこんにちは、すみませんお忙しいのに。私飲み物を買ってきますね」
「すみません奥さん」藤岡は笑顔を向けて律子が出ていくのを見送ってから修造の横に座った。

「大丈夫なんですか?修造さん、4人組に本当に覚えがないんですか?江川さんから強盗だったって聞いてます」

「強盗だったかは疑問だ、振り払ってもすごくしつこくて俺の事を狙ってるように思えたんだよ」
4人とも亡くなってしまってはもう何もわからない。あの時の自分はなんとかあの男達が逃げるか自分が逃げるかばかり考えていたが、4人があんな風に亡くなってしまうぐらいなら四肢を叩き割ってでも警察に突き出した方が良かったと修造は後悔していた。

「それで」藤岡は修造にやや体を近づけて言った。
「昨日うちの工場の方に鴨似田フーズの歩田がやってきて教えてくれたんですが、亡くなった4人の中の一番年配の男は常吉ホールデイングスの社長なんですよ」

「うん、そうなんだってな」それが何故リーベンアンドブロートに来たのかも分からないし自分となんの接点があるのかも分からない。常吉ホールデイングスの事は警察の事情聴取で聞いていたが本当に聞き覚えがない名前だった。

「歩田は常吉の経営する店舗の中にGlänzender Kuchen(光るケーキ)っていうドイツのお菓子とケーキの店があったので関係があるとしたらそれではないかと言っていました、それを聞いて俺も行ってみましたが休業中でした」

「Glänzender Kuchen、、、」修造はまだ本調子ではない頭で考えて、その名前にまつわる『ある女』の事が頭に浮かんだ。
その途端心底驚いた表情になり目を見開き急に黙り込んだ。

視線を落とし一点を見つめている険しい表情の修造を見て藤岡も驚いた。

「心当たりがあったんですか?」

「いや、、分からない」

「そのケーキ屋なんですね」顔が青ざめて来た修造を見て分からない様には思えないなと藤岡が思ったその時、律子が飲み物を買って戻って来た。

「修造さん、また何か分かったらお知らせします。入院中の修造さんに疲れさせる様なことを言ってすみませんでした」藤岡は立ち上がってドアの所に向かった。

「ありがとう藤岡、聞いて良かったよ」
藤岡は会釈をして病室をでた。

「もうお帰りなの?」

「うん」

さっきまで少し回復してきたと思ったのに疲れた表情の夫の顔を見て律子は「やっぱりそんなに早く治るわけないわよね、子供達は週末に連れてくるとして、今日はもうお見舞いは断っておくわね」と言って江川に電話をする為に部屋を出た。

修造はまるでおさらいをするかの様に事件の全てを思い出し、常吉の言動から見えない何かを探ろうとした。

いや、まさかそんなはずは無い、しかし偶然はもっと無いだろう。

その言葉を頭の中で繰り返し、それ以降修造は常吉の襲撃事件について自分からは口にせず、人から聞かれた時も分からないとしか言わなくなった。

次の日

あの男がやってきた。

午前中の回診が終わり修造はベッドに横になっていた。

突然病室のドアがバッと開き、見慣れた営業スマイルが飛び込んで来た。

「やあやあ修造シェフ、お加減はいかがですか?」

「あっ後藤さん」

「そう、私基嶋機械の後藤がお見舞いにやって参りました」と、後藤は両手を広げて大袈裟に言った。

「今はまだ面会時間じゃ無いですよ、それにどうやってここを知ったんです?」
実は修造は見舞客の対応が苦手なので江川に口止めしておいたのだが。

「江川さんが教えて下さらないのでご自宅にお電話したらお義父様が教えて下さいましたよ」

義父の巌が言ったのなら仕方ない、修造は身を起こした。

「シェフ、空手の大会で優勝なさるぐらいお強いのにどうなさったんですか、強盗なんてふわっと振り払って下さい」お見舞いの花を花瓶に入れながら後藤はニコッと笑い、以前よりも目尻のシワをクッキリとさせた。

「漫画のヒーローなら追い詰められて特別な力が突然芽生えたりするんでしょうがふわっとなんてそんな訳にいかないですよ」

「うふふ、シェフはパン界に必要不可欠な存在なんですから、はい、これ食べて元気もりもりになって下さいね」と言って駅で買ってきた豆狸のいなり寿司を差し出した。

余談だが修造は高校を卒業して初めて東京に来た時、駅でこのいなり寿司を買い「こんな美味いものが東京にはいっぱいあるのかと感動したとか。

「美味い、わさび入りが好きです」好物のいなりを口に運ぶ。

「他の味もありますよ、これは五目、これはアサリ入り」
「選ぶ楽しさがあって良いですよね」と手を伸ばしかけてハッと手を止めた。

後藤の事だ、ただの見舞いなわけが無い。

嫌な予感がして後藤の顔を見た、すると後藤はにっこり笑ってA 4サイズの紙を両手に持ってヒラヒラさせながら「修造シェフ、入院してらっしゃる時に言いにくいですが基嶋機械主催の講習会の日付が15日後に迫って来ました」と言った。

「15日後!」それは修造が講師として参加する飾りパン講習会の参加申し込み用紙だった。

「そういえばそうだった」ゴタゴタしていて忘れていた。

修造の顔写真とプロフィールが書いてあって下にあるQRコードから申し込む様になっている。パン屋や企業に配布して募集を募るのだが、実はすでに満員になっているらしい。
そもそもこの講習会も後藤のゴリ押しで引き受けたのだからなんとなくひと事感が抜けず「延期にできないんですか?今入院中だし」と言って点滴の針が刺さった左手を見せた。

「普段講習会に出ないシェフが講師をやって下さるんですから、皆さんこの日を楽しみに都合を合わせてますのでねぇー」

「分かりましたよ、でも準備が出来ないじゃないですか。俺もやる以上は半端な事は出来ないんですよ」

「あー困りましたね、こんな事になるなんて、ねぇ修造シェフ」と言って後藤は修造の返事を待つ為にそこだけ無言になった。

「あー」医者から言われている退院予定日は来週だ、半月後の講習会の日には一週間しかない。

「ねえ、修造シェフ」

仕方ない!修造は口をへの字に曲げて首をうんと縦に振った。


ーーーーー


一旦やると決めた瞬間からそのことが頭から離れないのが修造の悪い癖だ。

消灯後もベッドの中で細かく計画を練ったり、忙しい江川に頼んで必要な材料を頼んだり、デザイン画とか設計図みたいなものを描いたり、サポートスタッフとして江川、岡田、大坂、立花を呼んで打ち合わせをしたりと準備を万端にして退院日を迎えた。


久しぶりのリーベンアンドブロートには律子の言っていた通りあちこちに防犯カメラが付けられていた。
江川は両手を握りしめながら「もう大丈夫です!何かあったら警備会社に連絡が行くようになってますから!」と息巻いた。
こんなにカメラがあったらお客さんが怖がらないかなあと思ったが言わないでおいた。

修造は仕事を片付けたあと、講習会のための練習と飾りパンの作成に取り掛かっていった。当日はあらかじめ作ったものと現場で作るものとを用意するつもりでいたのだ。
だがそれと同じぐらい修造にはやらなければならない事があった。

次の日

久しぶりの上越妙高駅

修造は北陸新幹線はくたかから降りて上杉謙信の像を仰いだ。


広い敷地に重厚な建物のブーランジェリータカユキに着いた修造は「ほー」っとため息をついて店内の美しいデニッシュやクロワッサンの数々を眺めた。相変わらず客が長い行列を作り、店内に入って来たら勢いよくパンを選ぶ、ただしパリパリのデニッシュやクロワッサンを持つときはそーっとトングで挟んでトレイに乗せた。


修造がその様子を楽しそうに見ていると「久しぶりだね修造君」店主の那須田が奥から出て来て中に手招きをした。

「まあ座れよ修造君」早速美しい※パンスイスやバイカラークロワッサンとコーヒーなどを出して貰った。
「うーん美味い、そして美しい」
感動しながら食べていると「君、大丈夫なの?大怪我して入院してたって聞いたけど」那須田は隣に来てコーヒーを飲みながら修造の顔の傷跡を見て言った。
「色々あって寝ていられなくて」
「君も大変だなあ」
「シェフ、今日は全てを教えて下さい」
「君に頼られるなんて嬉しいなあ、なんでも聞いてよ」
「はい」
その後修造はエプロンを着けて、手伝いながら那須田の神業すぎる手捌きを見て全てを記憶に刻み込もうとした。
「懐かしいなあ、君がここを訪れるなんて選考会の前に修行に来て以来だね」※生地にバターを織り込みながら那須田が言った。
「はい、あの時も勉強になりました。その後も何度か会ってますが」
「その後お義父さんとは上手くいってるの?」
「はい、あの時はギクシャクしてましたが今は協力して貰ってます」
「そりゃ良かった」

那須田は最新のペストリーの成形を夜通し修造に教えるために惜しみなく技術を見せた。
「那須田シェフ、イタリアの雑誌に紹介されてましたね、俺誇らしいです」
「そう?プロが撮った良い写真だったね」那須田は満足げに答えた。
「シェフはどんな先生にパン作りを習ったんですか?」
その質問を受けて那須田は何か考えてから言った。
「僕の先生はね、世界各国を巡ってパンを学び、そしてそれを生徒達に教える素晴らしい先生なんだよ。あの人の面白くて知識の詰まった話に夢中になったし技術を身につけて貰ったんだ」
「へー!そんな凄い人なら俺も会ってみたいですよ」
「、、、修造君、その先生は君に会ったらこう言うだろうね。全ての事を自分で乗り越えろってね」
「何故か俺にだけ厳しいんですか?」
「ははは、どちらにしろ外国を飛び回っていてどこにいるのやら」
修造はナイフで均一に生地をカットし続けながらある事を思い出した。

そうだ、今の話はパンロンドの親方に聞いた事がある。※バゲットジャンキーの話そのものだ。
「シェフ、バゲットジャンキーって聞いた事ありますか?」
「あるけどそれって都市伝説みたいなものじゃないの?」
「シェフの先生の名前ってなんですか?」

その時窯のブザーが3段とも一斉に鳴った。
「ほらブーブーなってるぞ!焦がしたら努力が水の泡だからな!」
「はい」

その後も修造は何度か同じ質問をしたが何故か上手い具合にはぐらかされて結局聞き出せず。

講習会の前日

修造と3人のスタッフは基嶋機械本社の会場に来ていた。
会場の奥には製パンの為の機械が並び、その前には講師と製造工程がよく見える
作業台がある。
そしてその前に受講者50人分の2人掛けの長テーブルと椅子がそれぞれ用意されている。

4人は打ち合わせをした後、前日準備を始めた。

「修造さん、体調大丈夫なんですか?」大坂が心配そうに聞いた。
「うん、完全に本調子って訳でも無いけど明日は頑張るよ」
「本当は修造さんなら4人ぐらい倒せるのにいざ実戦で戦うとなると抵抗ありますよね。俺ならどうだっただろうな」
「そうだな、すごく抵抗あったよ。試合でも寸止めなのに直当ても躊躇った」
「結局亡くなったんでそれもモヤモヤしますよね、でも修造さんが悪いわけじゃないんだし、今は身体を労って下さい。俺たちも上手くサポートできる様にもう一度打ち合わせをしておきます」
「うん、ありがとうな」
そこに後藤がやってきた。
「修造シェフ!お怪我の完治もそこそこにお越し頂いて誠にありがとうございます」
それを聞いてお前が呼んだんだろうがという目で後藤を見た、後藤は視線に気がついて目尻と頬の笑い皺をさらに増やして微笑み「明日は皆一丸となって頑張りましょう」と両手を挙げて言った。

「江川」
「はいなんですか」
「あれ、後藤さんと練習しといて」
修造に言われて江川は後藤と電気を消したり付けたり何度かやってみた。
「電気を消して下さい」
「はい江川さん」後藤はニコニコして会場の電気を消した。
「今度はつけて」
「はいはい」

はてさて、それが講習会となんの関係あるのか。




飾りパン講習会当日


会場にはバスに乗って講習会の勉強をしにくるパン職人、パン学校の生徒などが次々やって来て10時の開講前には会場は満杯になった。

始まりの合図までは作業台の上と天井に2箇所付けられているモニター画面に最新式の製パン機械が次々と映し出されている。
講習会の始まり、後藤がマイクを持って挨拶した「お集まりの皆さん、本日は基嶋機械の飾りパン講習会にお越し頂きありがとうございます。私営業の後藤でございます。皆さんもご存知の事とは思いますが先日田所修造シェフは強盗に襲われて瀕死の重傷を負われましたが、こうして無事回復してこの講習会に出られました。凄い体力!凄い精神力です。では修造シェフ、ご挨拶をお願いいたします」大袈裟な身振りで腕を上げて修造に話を振った。

修造は耳掛け型マイクをしていて、いつまで経っても装着感が苦手で慣れないまま、前にびっしり座っている来場者にペコっと頭を下げた。
当たり前だが皆こちらを向いている。
冷や汗が流れた。
「どうも、えー、ご心配をおかけしましたが日毎に調子が元に戻りつつあります。今回の事件は油断して誰が来たか確かめもせず裏口のドアを開けてしまったのがいけなかった。皆さんもどうかご注意下さい」辿々しく挨拶をしながら皆に配布した何枚かのA4の資料を手で持って1枚目を捲った。

修造は今日作るパンの説明を一通り行なって製造に取り掛かった。
手元は天井に取り付けられているモニターの画面に大写しにされていて、後に座っている人達にも見える様になっている。
生地は発酵時間の兼ね合いからあらかじめ出来た生地で、それを使って成形から始める。
作りながら話すのが修造にとって最も苦手な事なのでマイクを持って横に立っている江川に手順を説明して貰う。

「今作っているこちらは日本らしい古物のイメージで作られた物です、順に工程と配合を説明します」江川は工程を見ながら詳しく説明をしていった。


立花が材料を揃え、大坂がテキパキと焼いてそれを作業台の前に設置したテーブルの上に並べていった。


講習会の楽しみは試食が何度もある所だ。


序盤では、生地の伸展性を見たりする為に紙皿に乗せた生地を前から順番に回していって皆伸ばしたり薄さを確かめたり、使っている材料をテーブルの上に用意された試食用のスプーンで掬って味を確かめたりした後、いよいよ出来たパンがカットされて配られる。
受講者は皆香りを嗅いだり手でパンを伸ばして千切ったり味を舌の上で分析したりするのに余念がない。

お昼になるとカイザーゼンメルに立花と江川が生ハムとチーズを挟んだ物とクロワッサンが出てきた。試食で結構お腹いっぱいでもこれはペロリと食べられる。

食後、参加者のお腹も膨らんでいる事と、朝早く仕事を終わらせてきた職人も多く徐々に眠くなってくる。眠くないふりをしながらウトウトし続けるぐらいならちょっと伏せって眠った方がその後すっきりする。何人か船を漕いでる人が増えているのを見ながら修造はそんな事を考えていた。

さて、午後からはいよいよ飾りパンの製作。

飾りパンはパン・アーテイステイック、パンデコレ、デコリエテスブロートなどの呼び方があり、主に観賞用の芸術的なパンの事。コンテストによっては使う色の制限があるものもあったり、大きさの制限もある。このお話でも修造が飾りパンに挑戦していた。

パンでできたパーツを組み合わせて形を作る。紙や木の板で型紙を作りそれに沿って生地を切り取るものもあるが、わざわざ専用の型枠を作ってそれで抜き取るリッチでタイパの良いものもある。

焼けてきた生地を冷ましてそれぞれ小麦粉で作った糊や焼けたパーツを水飴などで付けていく。


誰も見たことがなく、ワクワクするものをと修造が考えたのは日本の国技「相撲」と「ロボット」を組み合わせた飾りパンで。ロボット関取と組み合わせるのに機械的な牡丹と椿、松を組み合わせた。

この様なコンテストによっては横幅が決められており、その幅からはみ出すことが出来ないものもあると江川に説明して貰った。

終盤

また別の飾りパンが組み立てられていく。

パーツを合わせ、段々形になっていくのが見ていて楽しい所。

修造は細かい部品のパネルの様な生地を組み合わせていった。
まるでプラモデルを素早い手捌きで作る様だ。
どうやら宇宙船らしいと気がつくと、皆近くに行って見たり写真を撮ったりした。

修造は講習会の終わりが近づいてきた事と、作業の手が空いてきた事もあって周りの人達に話し出した。
「これは自分の持つ宇宙船のイメージを形にした物です。内部には色をつけた飴がはりつけてある」そう言って中に仕掛けてある電球を付けると宇宙船のなかから光が漏れた。

「これは単体だと一つの物体ですがストーリーを意識して作ると見る人に分かりやすい。つまりイメージを連想して貰うんです。さっきの相撲ロボットは見ていて楽しいが動きはありません。こちらの」と宇宙船を指し「これだけではただの宇宙船だけどこれの角度を変えると」と言って修造は宇宙船の角度を変えてみた。
「こうすると素早く移動してる様に見える。そこに背景をつけてみます」そう言いながら合図すると江川と岡田が後ろに黒い衝立を立てて惑星を手前に置き、後ろの惑星は席に座ってる者から見ると浮いてる様に取り付けた。

そのあと皆が見守る中、先程組み立てた小型の宇宙船をセットした。

「これにも角度をつけてみます」と手首で角度を調節して上からライトで照らしながら修造が目を向けると、江川が後藤に「すみません、電気を消して下さい」と例の段取りで合図した。

練習通りパッと電気が消えると、大型の宇宙船とそれを追いかける小型宇宙船が素早く飛んでいる様に見えた。



「もう出尽くしたと思うかもしれないが普段過ごしていて日常のあちこちにヒントがあります」そう言ってそう言って作業台の前のパンが並んでいる前に立ち、上に和柄のステンシルが施されたカンパーニュを持ち上げた。
「例えばこのカンパーニュの柄は知り合いの着物屋に置いてあった帯にインスパイアされた物です。柄をそのまま使うのではなく、自分の中に沢山のものを取り込んで自分なりに記憶を形にする。これはこの講習会の為に作ったものです」修造は柄を見せた。


「自分たちは日本の国でパン作りをしてるのだから普段から日本の芸術や美術に触れてそれを沢山記憶に取り込んでいくと良い。それをデザイン画にして、実現する為の練習を始め、「形にする」作業をするんです。俺は修行時代に大木シェフに言われた言葉があります。それは『木を見て森を見ず』って言葉です。細かい技巧に囚われて全体像を想像してないって事です。遠くから見た自分の作品をイメージして、実際に作った所を何度も見てみたら良い。自分の作った作品をしばらくして見てみると改善点が分かるかもしれない。コンテストに出るなら審査員がどんな感想を抱くのか想像してみるのも良いと思います」

修造は普段あまり話さないがこんな時は口数多く話す。

「飾りパンにも色んなパターンがある。平面を組み立てるもの、織り込んで立体感を持たせるもの、固めて立体感を作るもの。より自分のイメージに近い素材を考えてパーツを決めていく。自分がどこまでこだわれるか、それが作品に投影される。そしてパンで様々な素材を作り出して使うとこの世で無二なものができる」


そのあと修造は2種類の編み込んだ生地の焼成後の物を見せた。一つは編み込んだ縦と横の紐状の生地同士が引っ付いてしまっている物。もう一つは縦と横がパキッと質感が表現出来ているものだ。


「一見簡単そうに見えますが、柔らかすぎて生地と生地が引っ付いてしまうとなんともダサい感じになってしまう。本物の質感を追い求めて何度もやってみて最適な固さと素早さを練習するんです」


そう言って修造が話してる間に江川と立花が用意した細長い生地を今度は布の様に編んでみせた。

「これは世界大会で使った編笠の枠を使っています。そこに生地を編み込んでいきます」

本物の編笠ほど細かい編み目ではないがサッサッとリズム良く生地を編み込んでいき、皆に見えやすい様に掲げた。
「これも何度か練習しました。自分の場合、助手の江川と一緒にベッカライホルツに通わせて貰って大木シェフに色々教えて頂きました。その時の経験があるから今の自分があるんです。この中にはパン屋のオーナーでなくてお勤めの人も沢山いると思います。何回も練習するのは仕事しながらとか、材料費などの金銭的な事、場所の事など様々な問題がありますが、オーナーと相談して協力してもらいながら自分の技術を育てていって下さい。そして技術を身につけて下さい。自分は空手の師範にこの様にいつも言われていました『誰がみても良い型をすると何人かの審判も旗を上げざるを得ない』つまり審査員も好みがある、しかし多くの人の胸を打つものができれば票は割れたりしません。是非それを見つけて下さい」
修造が一礼してそう言い終わると満場の拍手が起こった。


後藤は一際大きいリアクションで拍手しながら感動して泣いていた。

初めは嫌がっていた講師の立場だったがいざやってみるとまだまだ話し足りない事ばかりだ。最後の編笠は結局時間が足りず、終わってから大坂に焼成して貰う。


後片付けをしている修造の所に後藤がやってきた「修造シェフ、本当にお疲れ様でした。いやはや内容の濃い素晴らしい講習会でした」
「もう少し話したかった」
「そうなんですか、じゃあ来月にでも」
「それがそうもいかないんです。期限が迫っていて」
「なんですか期限とは」
「後藤さん、あなたには色々頼み事もされたけど陰に日向に世話になりました、感謝してます。俺が旅立った日には江川をよろしくお願いします」
「それは勿論、、もうすぐ行ってしまうんですか。そんな寂しい」


「意外と近いですよ、いつでも会えます」
そう言って修造は笑った。

I’m not a hero おわり

次回に続きます。


タイトルは 「Auf Wiedersehen(アウフ・ヴィーダーゼーエン)江川」です。
修造は江川に最後の修行をさせようとしますが、江川はそれを乗り越えられるのでしょうか、そしてその後に江川を待ち構えていたものとは。


読んで頂いてありがとうございました。


飾りパン、素敵ですね。
パン・アーテイステイックやパンデコレと言われる飾りパンは糖度の高い生地を様々に形作りインテリアとして飾ったり、コンテストに出品したりする物です。生地には酵母を使わず、焼く前に小麦粉を溶いた物を糊がわりにしてパンの上に飾りを取り付け形作ったり、焼成後のパーツを水飴などで取り付け、組み合わせたりするものです。コンテストでは素晴らしい芸術作品がパン職人さんの手によって組み立てられます。
この回では制約なく修造が好きに飾りパンを作りましたが、コンテストではテーマによってどの様なものが作られるのか決められる事もあり、例えば「音楽」というテーマではカエルがドラムの上で音楽を奏でていて本当に楽しそうで曲が聞こえてきそうなものなどワクワクするものが実際にありますが、色の規定や幅などの厳しい決まりを乗り越えて制作された物です(2020クープデュモンドドゥラブーランジュリーピエス・アーテイステイック作品)

「パン職人の修造」でもコンテストに優勝するまでの様々な事柄を想像して書いています、決められた時間や制限の中でパン職人は優勝目指して戦っている。

※パンスイス=最近のシャレオツパン。クロワッサンの生地にチョコやクリームを挟んで焼き上げたパン。様々な進化系がある。

※生地にバターを織り込む=クロワッサンの生地に油脂(バター)を挟んでパイローラー(生地を平らに伸ばす機械)で伸ばし、生地に層を作る作業。焼成時に油脂を蒸発させ、層を浮き上がらせたのがクロワッサンの綺麗な筋目。

※バゲットジャンキー=伝説の流れ職人、パン職人の修造バゲットジャンキーに出てくる。

53パン職人の修造 江川と修造シリーズ赤い髪のストーカー

赤い髪のストーカー

葛城麻弥(かつらぎまや)の生家は古風な家柄だが、だからと言って特別裕福でもなく、父親はモラハラ気質の人間だった。

父親は大抵において外面は良く、他人に気を使う分、家に帰ると不満を溜めて愚痴を言い続ける。

自分の子供の事を他人に自慢するのを恥ずかしい事だと思い込んでいて、その為客人の前で麻弥に厳しい態度を取り、叱責することも多かった。

母親は厳格で口うるさい父親の機嫌を損ねるのを嫌い、麻弥に「お父さんの嫌がる事はしない様に」とよく言い含めていた。

唯一ましな点は父親が直接麻弥に手をかける所が無かった所だろうか。その代り毎日毎日つまらない愚痴が日常に纏わりついて麻弥の心を蝕んでいった。

ある日麻弥が幼稚園から帰るとそれはそれは可愛らしいワンピースと外国製だと一目でわかる可愛らしい木の人形と家具のセットが机の目につく所に置いてあった。麻弥はワンピースをそっと手に取り身体に当てて鏡に映してみた。ニコッと笑ってみるとおそらくどんな子供が着ても上品でお金持ちの家の子の様に見えるだろう。その後綺麗な箱の中の木のおもちゃを覗いてみた。触ったら叱られるのか分からないが可愛いお人形が2個、小さなピアノ、ベッド、スタンド、クローゼット、テーブル、椅子が2つ、キッチンセットが一つ。

麻弥はお人形にあやかちゃんとまきちゃんという幼稚園のクラスで人気者の子供の名前を付けた。地味で大人しい麻弥にとって生まれた時から明るくて派手な立ち居振る舞いができるあやかとまきは羨ましい存在だった。

麻弥があやかちゃんに手を伸ばそうとした時「帰ったのか?」と父親の声がした。麻弥はビクッとして手が痙攣したかの様になり、急いで手を後ろに隠した。

父親は母親に向かって、この人形と服は出張でドイツに行った上司がくれたものだと言う。

麻弥はドイツという言葉を初めて聞いたが、何となく国の名前なのかと言う事はわかった、なのでこの言葉にはそれ以降も憧れを抱く事になる。

父親は慎重にワンピースを袋から取り出し、丁寧にタグを外してタンスの上に置いた。母親に「着せてみろ」と言ってそっとワンピースを渡した。

母親は丁寧に麻弥に洋服を着せると「可愛いわね」と言った。

ドイツ製のワンピースは白と青のチェックで半袖はパフスリーブになっており、胸にはレースと青いリボンが付いていた。スカート部分はウエストから膝までの長さで中にクリノリン(針金)が施されていてお姫様のようにふんわりと広がっている。

地味な顔立ちで自分があまり可愛いと思っていなかった麻弥だったが、この時は絵本のお姫様のような気持ちを味わえた。

だが何故か父親はその服をすぐに着替えさせるように母親に言った。

「汚れるといけないから着替えましょうね」と母親に言われ、麻弥は人形のように大人しくワンピースから普段着に着せ替えられた。

次に儀式のようにお人形に触っても良いと言われたが父親はまた箱に傷が付かない様にそっと開け、人形が留めてある黒いゴムを慎重に外した。

遊んでも良いと言ったものの、汚さないように麻耶の横で見張っていた。

幼稚園では麻弥はあの洋服と人形セットが気になり、帰ってすぐに手に取って遊んだが、母親も人形が汚れないように慎重に遊ばせていた。麻弥はワンピースを手に取り着ても良いかと母親にアイコンタクトを送ったが「またお出かけの時にね」と言われる。人形は汚さずに気をつけて遊ぶ高級品だとか、ワンピースもまた然りだと子供ながらに自分を納得させて次の機会が来るのを待った。

しかしその機会は無かった。

10日程経った月曜日、麻弥が幼稚園から戻り、部屋に入るといつもの所に人形も洋服も無くなっていた。

麻弥は部屋から、家の端々へと順に探したが見つからず、母親に潤んだ瞳で訴えた。母親は麻弥に「あれはね、お父さんの会社の偉い人が返してって言って来たの」とだけ伝えた。麻弥が部屋で泣いているといつものように帰宅した父親の愚痴が始まる「あいつの娘が色が嫌だと俺に渡してきたくせに、娘の気が変わったから返せと言ってきやがった」こう言うと嫌そうに聞こえるが実際には平身低頭。急いで元の状態に戻して渡したのだ。いつでも自分が気に入られたい誰かの為に「お嬢さんに」と言って渡せるようにしていたくせに。

一旦麻弥の物だった、しかし今は他人のものだ。麻耶にはどうすることも出来ない。

他の家の子供なら父親に文句を言って泣き喚いたり、母親が父親を叱責したりしたのだろうが、麻弥の家にはそんな出来事は無かった。

このことは麻弥の心にシミのように小さな黒い色を付けた。

麻弥は成長するにつれ、徐々に自分というものを見失いつつあり、父親の言いなり人形の様になっていた。しかしまだ自分を大切に思う気持ちも無いわけでは無かった。

麻弥がある日小学校の子供達が読む雑誌のお菓子特集の中のクッキーのレシピを見て家にあった材料でお菓子を焼いた時、母親がとても褒めて美味しいと言ってくれた時の事が後を引いて記憶に残った。それは幼少期の麻弥にとって数少ない成功体験で、後々唯一自信の持てる特技になっていった。

中学になると家庭科クラブに入り、料理やお菓子作りをするのが楽しく皆に混じって作っては出来上がりが良いのを心の中では嬉しく思っていた。

高校生になると料理クラブに入部する。ここでも大人しく、誰にも注目されなかったが、クラブのある日は少し心が躍った。

顧問の先生が「今日はシュトロイゼルクーヘンを作りましょう」と言って皆にレシピを渡してきた。シュトロイゼルクーヘンはドイツのお菓子で季節の果物とシュトロイゼル(そぼろ)を載せて焼いた物。

型に生地を敷き、上にスライスしたりんごを並べてシュトロイゼルを上に敷いて焼く。麻弥は作っている間ドイツのお菓子なんだという事に強い憧れを抱いた。

カットしたクーヘンを皿に乗せて皆に配り、試食をした時、焼きたてのサクサクのシュトロイゼルとイチゴのジューシーな酸味とその下のふんわりした生地が順に口に広がり、麻弥はこの時親ではなく自分でならこのように実現が可能な事を知る。

いつかお菓子作りを仕事にしたい、麻弥の心に将来への道ができた。

しかし日本にいてはあの父親が束縛するのではないかと気が重く麻弥はどこか遠くに行く決心を固めた。

この家から逃れ、単身ドイツに渡る事を夢見て色々調べた。言葉を勉強したり、アルバイトに精を出してお金を貯めた。

麻弥は本当に声が小さく何を言っているのか耳を欹てないと聞こえない程だった。

だが意を決して先生に進路の相談をする時、お菓子の資格を取りに海外へ行く方法を聞き、先生も語学の勉強や受け入れ先を探す為に色々調べる約束をしてくれた。

先生にすれば単身乗り込んで困ることが多いように思えてサポートをしてくれる受入れ先は無いかと探してくれた。だが先生が言ってきた留学の費用は麻弥にとっては高額でとてもじゃないがお金が足りない。

先生が一括で払う訳では無いからお父さんとお母さんに相談する様に言ってきた。なので先に麻弥の有り金全てを支払い、後はドイツで働いて生活する、いわば捨て身の計画を立てた。

お菓子の修行をする為と、その資格を取るのを理由に家を出ると言った時も、父親は「お前みたいな気の弱い娘に外国でやっていけるわけが無かろう」と言葉をぶつけて来た「どうしても行きたいなら金を貸してやる、毎月働いた金で返済しろ、もし一度でも遅れたらその時は戻って来い」その系の言葉を何度も何度も高校を卒業するまで言い続けた。

母親は不憫な娘のためにドイツ行きの準備を一緒にして、なけなしのへそくりも持たせてやった。

麻弥がたどり着いた所はとても寒い地方で、日本人街もある都市で、そこで語学学校に通い、自分でヘフリンガーというベッカライのマイスター(親方)に自己紹介の手紙を書いた。自分はお菓子作りを12歳からやっていて、今では『黒い森のケーキ(シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテというさくらんぼのケーキ)』も作れますという内容を丁寧に書いた。

程なくして働いても良いと言う内容の手紙がマイスターから届いた。

ベッカライヘフリンガーはライン川が真ん中を通っている町の右にあり、店の周りはドイツの観光地のイメージとは違い白い四角いピルが多い。

店内には多くの人が働いていた。
ドイツ人以外にも色々な国の人がいる。工房の奥には浴槽ぐらいの大きなパン用のミキサーボールが沢山あり、運ぶ時は専用の台車に乗せていた。その手前にはパンがどんどん流れてくるモルダーという製パン機械が見えていて、その機械で流れて来たパンを成形して板の上に乗せて発酵したら焼くのだが、日本のパン屋さんでは中々見たことのない何段もあるオーブンが数台並んでいて、そこでパンが焼かれラックに乗って運ばれて来る。

麻弥はあまり建物の奥に行ったことは無い、ケーキを作る部屋に行くとき通路の奥に見える程度だった。
麻弥の働いている所には真ん中に大きなテーブルがあって、その台の上でクーヘンやクッキーなどの菓子類を作っているのだ。麻弥の仕事は初め掃除と包装だけだったが、徐々に製造を教えて貰う事が増えて来た。

ーーーー

またみんながサッカーの事で盛り上がっている。推しのチームが昨日の試合で勝ったのだ。麻弥はサッカーに興味がなくてそんな時は黙って見ていた。

大人しくて個性が無く居なくなっても誰にも気付かれない。

麻弥は静かな子と呼ばれていた。

例の通路の奥に見えるパン部門に背の高い日本人の青年がいるが話した事はない。

第一こちらを見る事もないので顔見知りと言えるかどうかもわからないが時々日本語が聞きたくなって『あの人がこちらを向いて笑って一緒にカフェで話す所』を妄想した。

スタッフ全員で集まる事があるが日本人の青年は奥の方に黙って立っていて、ノアと言う職人が話しかけると何か返事する程度で目が合う事はない。
自分も話しかけたいが全くスキがないし、自分も勇気が出ない。

ノアは初めのうちはよく背の高い青年に怒鳴っていた、言葉の壁がありイライラする時がある様だが青年はそんな時も平静を装っている様だ。

麻弥は青年に対してシンパシーを感じてとても気になる存在になっていく。

同僚のモニカは顔立ちも派手で髪は黄色で赤いメッシュを入れている。明るい性格で、皆とよく話しをしていた。

みんなに馴染むために髪を同僚のモニカと同じ色に染めた。

鏡に向かって微笑んでみた。

地味な自分には全く不似合いだったがモニカの様に堂々と生きているのが羨ましい。メイクもモニカに似せて目の周りを一周アイシャドウで囲った。

そんな日々の中、父親への返済が滞ると直ちに帰らされるのを恐れてキツキツの中送金していた。麻弥は残ったパンを貰って帰って寮で食べ、天気の良い休みの日はライン川の近くの公園で過ごした。

川沿いの歩道沿いの並木の下に所々ベンチがある。そこからはこの街の観光スポットで有名な変わった形のアパートや電波塔が見える。

塔の上には回るレストランがあって、街を眺めながら食事ができるらしい。その横の広場ではクリスマスマーケットの準備をしているのが見えた。そしてどうやって運んでいるのかは分からないがいつの間にか巨大な観覧車が聳え立っていた。麻弥はその観覧車を見ながらあの背の高い男の人と観覧車の上から遠い所まで眺めて、あれは何の教会だとか隣町が見えるとか話せたら良いのにと妄想していた。

お金もなくもうドイツにいるのも辛くなってきた頃、麻弥にとって心を大きく支配する重大な出来事が起こった。

麻弥はへフリンガーに来てすぐの頃は力も速さも劣り中々種類も覚えられなかった。概ねは通年同じ物を作る繰り返しだったが季節によっっては延々とお祭りの為の物を作る事もある。

どんどん流れてくるチョコレートにアイシングで線描きして行く時などは終わりがあるのかしらと思うぐらい大量にできるのでその時は驚きの連続だった。

クリスマスの準備で店内も工房も商品が変わりつつあった。麻弥はエンゲルスアウゲンというジャムを上に乗せた小型のクッキーを大量に作って可愛い包装紙に手早く袋詰めをした後店に並べていた。

その時突然グレーの帽子で黒いパーカーの男が鋭いナイフを持って入って来た。「Gib mir das Geld!」と叫んでいる。

「強盗だわ!」運悪く麻弥は一番近くにいた。

男は麻弥の手首を掴んでナイフを喉元に突きつけたり、そのナイフでレジを指して金をよこせと言っている。

ナイフの先は喉の皮膚を傷つけて少し血が出てきた。怖くて声は出ない。このまま鋒が突き刺さると死ぬんだわ。

運が悪い、まさにその言葉通りだわ。

いい事なんて無かった人生が終わるんだという気持ちと死ぬのは怖いという気持ちが交錯した。騒ぎになり奥に何人かが叫びながら走っていった。

その時、工場から例の背の高い男が現れた。

「常吉さんはどうなんですか?良いんですか?嫌なんですか?」

工場の奥で働いている田所修造さんだわ。

修造は細長いピールを手に持ち、一瞬ドンとピールで床を突いた。そして強盗をよく観察してピールの先を強盗に向けた。その時モニカが麻弥を引き寄せて遠ざけた。強盗の刃先が修造に向けられたからだ。

修造は右足、左足と直線上を真っ直ぐ男の方に進み、思い切り踏み込んでバンバンと左手のナイフを弾いて右肩を思い切り突いたので、ピールの先は左肩にめり込んで男は喚いた。その間はひとつ息を吸って吐くぐらいの短い間の出来事だった。いつの間にか修造は男を裏返して上に乗り、長いピールの柄(え)男の右袖から左に通して麻弥の足元を見て「紐ある?」と聞いた。

修造に包装用の紐を渡して男が縛り付けられる様を見ていると、足を縛りながら今度は「警察に電話して。」と言われたので他のものが慌てて電話しに行った。

ノアが「スゲェこいつ忍者みてぇ」と言ったのでその後修造はみんなから忍者と呼ばれる様になる。

修造はカカシの様に通した棒に足を縛った紐を無心ですぐに工場に消えて行った。

その時からだ。

麻弥の心の全てを修造が埋めた。

嫌な事で埋め尽くされていた麻弥の脳内は甘くて温かいもので満たされた。

工房から店への移動中、用もないのに工場の奥を覗いて、修造がチラッと見える度に胸が熱くなった。

修造の写真を隠れて撮り、部屋に貼り付けた。

話しかけたいわ。

こちらを見て欲しい。

それは生まれて初めての感情だった。

でも両方ともできそうで全然出来なかった。

麻弥は男性と話をして気を引く様な事は全く出来ず、修造は麻弥の方を見る事は無かった。

そこで麻弥が考え出したのは「明るい同僚」の設定だった。

高校で見た『クラスの中心的人物で華やかで明るく友達も多い素敵な女の子』それを真似ることにした。

まずメイクを明るめにして、いい匂いをさせ、修造がカゴに入れたブロッチェンを運んでいる時に「修造元気?」と言って腕にチョンとタッチする事から始めた。

修造はろくに返事もせず素早く通り過ぎた。

麻弥は顔が引き攣っていたが、修造はその引きつった顔を見る事は無かった。

麻弥はそれ以降すれ違う度にそれを実行した。

修造が嫌がっているとも知らずに。

クラスの中心で一際派手な女の子が修造の最も苦手とする女性像だった。

修造の高校時代には同級生から空手男とか、無口な修造と言われてからかわれていた。修造はなるべく馴れ馴れしい麻弥と関わらない様に務めたが、麻弥は修造の渡すプレッツェルの入ったカゴを受け取る時抜け目なく手を握ったりした。

秋も終わる頃店内はクリスマスの用意でもっとも忙しくなった。クリスマス用のレープクーヘンに可愛い絵を描いたものを延々とラッピングして箱詰めを続けた。そのうちにいいアイデアを思いついた。クリスマスマーケットにみんなで行く体(てい)にして接近すれば良いんだわ。素敵なクーヘンがあるから見に行きましょうとかなんとか。

「修造、次の休みにみんなでクリスマスマーケットに行ってみない? 珍しいレープクーヘンが沢山売ってるから勉強に行きましょうよ。」麻弥は計画通り明るい同僚の言い方で修造を誘った。

修造は麻弥の肩のあたりを見て『うん」と言った。

これが2人の初めての会話だった。

麻弥達何人かと修造はクリスマスマーケットに出かけた。

生まれて初めてこんなに煌びやかで飾りの凝ったマーケットを見た。

美しい建物が沢山立ち並び、その広場には屋台というよりも、しっかりとした作りの小屋が沢山並んでいて、まるでひとつの街みたいに広い。

木作りの小屋(ヒュッテ)にはそれぞれの店に所狭しとクリスマスのものが並んでいる。

食べ物の店も沢山あるし、クリスマスのグッズがびっしり並んだ店もある。

「凄いなあ」

寒さに震え、みんなで甘くて酸っぱいシナモン味のホットビールを飲んだ。

ほろ酔いになり、会場の店を見て廻った。

『明るい同僚の麻弥』は何かと修造にボディタッチしたが修造にはずっと気がつかないふりをされていた。

修造が他の人とはぐれて1人で会場の奥にある綺麗な観覧車を見ていた。

告白するなら今しかない。

麻弥は今までの人生の自分の中の勇気のかけら全てを集めて言った。

「修造、私修造のことが好きなの。私と付き合って」と色々振り絞って言ったが修造からはこんな返事が返って来た。

「自分は結婚していて、奥さんと子供がいるんだ。もし麻弥と付き合ったら、自分の性格では麻弥のことも自分の奥さんのこともどちらも裏切れないと思う。自分は日本に戻って律子とパン屋をする為にここにいるんだ。だからごめん」

その時初めて修造が自分の方を見た。目力の強い信念の籠った目で。

麻弥はバッサリと振られた。

その瞬間まで、そんな答えが返ってくるとは夢にも思わなかった。何故なら麻弥の中では明るい同僚が振られる事は無い筈だからだ。

途方に暮れ、どうやって帰ったのかもわからない。

麻弥はまた遠くから修造を見てるしかなくなった。

麻弥の心の中は昨日迄の『温かい幸せ』と言うよりは『辛く打ちひしがれた気持ち』に変わり、本来なら修造の事なんて忘れてもっと優しい、麻弥の全てを認めてくれる男性を探すべき所だが、麻弥はまだ探せば修造と自分の間に『温かい幸せ』を得られるのではないかという期待が強かった。

麻弥は辛抱強くその時を待っていたが、そうしてるうちに修造がヘフリンガーを去る時が来てしまった。

マイスターの試験の為に本格的にFachschulen(ファッハシュレ)と呼ばれる高等職業学校で勉強に専念する為だった。勿論麻弥も将来的にはそうするつもりだった。

修造は合格したら日本にいる奥さんと子供の所に帰ってしまうんだわ。そう思うと凄く悔しくていくらでも涙が出てきて止まらない。

ヘフリンガーには修造はいなくなってしまった。

麻弥に残されたのは自分も一刻も早く修造の跡を追ってコンデイトライの試験に合格して日本に帰る事だった。

生活は相変わらずだったが、麻弥には目標が出来た。

勉強を怠らず真剣に打ち込んだその道の先に修造が光り輝いていた。

麻弥の心にはありもしない妄想を繰り返したり、実際に会ったらまたバッサリと振られてしまうと言う恐れが交互にやって来た。

麻弥はやっとゲセレの試験に合格した。

もうこれで日本に帰っても良いが、父親の顔を思い出してゲンナリし、何がなんでも修造と同じマイスターの試験を受けようと密かに考えた。

麻弥は休みの日になると修造の通っている学校の近くで待ち伏せした。就業時間になると修造が学校から自転車で出て来て遠ざかって行く。

一瞬しか見る事は出来ない。

何故かというと麻弥が自転車で追いかけても追いつくなんて事は一度も無かったし、もし声をかけたところで聞こえないフリをされたかも知れない。

それでもそれが麻弥の唯一の楽しみだった。

大人しく、自己表現に乏しい個性のない麻弥だったが髪の色は明るく染め続けた。

修造はある時を境に学校から姿を消した。麻弥は日本に修造が帰った事をそれで知ったのだ。

ノアに修造はマイスターになったのか聞いたら「そうだよ、忍者は日本に帰ってパン屋をするって言ってたよ」と聞かされた。

何年か後、麻弥もヘフリンガーを去り、修造のいた学校に通う様になって、この山場を越えたら修造のいる日本に帰れるんだわと勉強にも打ち込む事が出来た。

そんな頃、麻弥がSNSで修造を探していると、NNテレビに出ていた時の画像を見つけた。

パンロンド田所チームの動画を何度も何度も見た。見ている瞬間は麻弥の脳内に温かい幸せが少し芽生えた。

私の方を見て欲しい。

麻弥の願いはそれだけだった。

今のところは。

ーーーー

麻弥はやっとマイスターの試験に合格した。

その後お洒落なコンディトライで働き、自分が店を持った時の為にいろんな事を教わった。

日本に帰ったらお店を持つわ。そしてお洒落で素敵な自分を修造に見てもらいたい。

麻弥は両親への返済をとうとう完了させた。

日本に帰る前に実家に電話して、もう2度と戻らないと告げた。驚く母親の後ろで、誰のおかげでとか言う父親の声が聞こえたので電話を切った。

その後、日本で生活を始めた麻弥は、まず銀座の一等地にあるケーキ屋で働き始めた。店主はケーキ作りをしたいと言う麻弥の容姿を見て「まだ見習いだから店で働くように」と言う。

麻弥は化粧映えして、子供の頃とは違いスタイルが抜群に成長していた。

豪華な店構えのケーキ屋で働いている店員としてとても見栄えのする麻弥に、リッチな男性が何人も言い寄って来た。

どうしても付き合って欲しいと言う男性が現れて断りきれずに少しだけ付き合った。言いなり人形の様な自分がまた出てしまい、言われるがままに振る舞ったが好きにはなれず、自分が言いなりになってるにも関わらずそれが当たり前になって来た彼の中に大嫌いな父親の姿をみつけ、段々嫌になり逃げる様に去った。

店も辞め、住んでいるマンションも引っ越した。

横浜の職場でも同じ事が起こった。

ケーキ工房で働き始めたが、同僚の青年が麻弥に夢中になり、麻弥もまた相手の言いなりになった。言いなりになりながら相手の中に嫌悪する父親像を見つけたが、憧れの修造の姿は見つけられなかった。そしてまたプロポーズされたのをきっかけにお別れを言いその店から去った。

麻弥にとって最大の重要な事は修造を時々遠くから見つめる事だけだった。

自分に夢中になり、追いかけてくる男性と、ドイツで冷たい態度できっぱりと自分をはねつけた修造を比べて、麻弥は修造にかなり冷たくされたと段々わかってきた。

なので近寄るのはリスクが多すぎた。

うろついてるのがバレるとストーカーとして警察に通報されるかも知れない。そうなると接近禁止命令が出て、2度と修造の姿を見る事はできなくなるのだ。

麻弥は慎重に修造の跡を追った。

そのうちに修造がパンの世界大会というパンの世界ではトップクラスのコンテストに出るのを知り、毎日の様にネットでの情報を探した。

基嶋機械のホームページの画面に映る修造の凛とした眼差しにうっとりと何時間も眺める事もあり、いつの間にか大粒の涙が麻弥の頬を濡らす。

そんな時、1人目の付き合っていた男が麻弥のマンションを探し出してドアをドンドンと叩き男は暫く大声で説得していた。

麻弥は男が諦めるまで息を潜め、「また来るよ」と大声で言って帰った後は心底ホっとした。

暗い部屋で一人、麻弥には友達もいなく、両親の元には帰る気持ちはなかった。

ヘフリンガーのモニカを思い出して電話をした。とにかくドイツに来るように言われて身支度をして男がいないうちに電車に乗って飛行場へ行った。

「私はいつもこうだわ」飛行機の中でため息を漏らす。

麻弥はへフリンがーに挨拶に訪れた。

「修造って今丁度フランスで世界大会に出てるよ、今から表彰式だから見よう」食堂に手を引かれて皆とネットで世界大会のライブ映像を見ながら優勝を祈る。


自分もフランスに行くか行かないのか迷ったが、今こうして応援出来るなんてそれはそれで嬉しい。
修造が優勝した。江川と言う助手の男の子が全身で喜びを表している。
じっと立ったままの修造を見て「忍者は渋い」とノアが誇らしげに言った。

麻弥もまるで自分の事の様に誇らしい気持ちになる。

そして工房の奥に修造がいて、長い足でこちらに歩いてくるのを思い出した。

こんなに愛してる人がいるのに何故他の人と付き合ったりしたのかしら、麻弥はその時深く後悔した。

自分は修造だけを愛してるのだと思い両の手を合わせて強く握りしめた。

ーーーー

日本に帰って来た。

だが職は失っていて引っ越しもこっそりしなければならない。

そしてこれから修造が自分を見てくれるのか分からず途方に暮れる。

「これから私はどうすればいいのかしら」

飛行場から電話してアルバイトを探す。

そんな麻弥に転機が訪れた。

ケーキ屋の製造のアルバイトを掛け持ちしてなんとか生計を立てていた時、人づてに麻弥がコンディトライの資格を持っているのを知った実業家の常吉光宣(つねよしみつのぶ)が、自分の経営しているケーキ屋で麻弥に店長をやらないかと言ってきた。

麻弥は男性から逃げる生活に疲れて、常吉さんとは付き合わないし女性だけの従業員を雇って良いのならと条件をつけてOKした。

常吉は喜んで、お店をリッチなお菓子屋を真似て改装して、Glänzender Kuchen(光るケーキ)と自分の名前から一文字取って名付けた。

麻弥はドイツで習った規定の配合で作る本格的なお菓子を置き、コツコツと仕事を続けた。

お菓子を作っている時、自分はこの為に生まれて来たんだと言う気持ちになれた。

店が段々繁盛して人手が足らなくなった時、麻弥の人生にとって重要な人物が現れた。

佐山歩(さやまあゆむ)を面接した時

佐山は眼鏡の奥から真っ直ぐ麻弥の目を見つめていた。

「佐山さん、うちは女性しか雇ってないのよ」

「それは性差別ではありませんか?」

「そうかしら、、」

「僕がここにいる事で何かトラブルが起こりますか?」

「それは、、もしもトラブルを起こさないと誓ってくれるなら貴方を雇うわ」

「了解致しました。必ず尊守致しますボス」

それから佐山は店のあちこちを調べて回り、物の場所をすぐに覚えた。
そして客の顔や好みを覚えておき、次に来店した時は声かけを忘れなかった。

麻弥の前で何を思っていたとしても顔には出さず、麻弥が仕事で困らない様にあれこれ手配したり、在庫の管理や店のあちこちを細やかに目配りしてくれた。

特にお店を訪れるお金持ちのマダムの機嫌を損ねない様に丁重に扱ってくれるのが有り難かった。

麻弥は他の事は気にせず安心してお菓子を作れる様になった。

オーナーの常吉は手広く飲食、アパレル関係の店舗を複数持つ実業家で、繁華街の店舗で複数店ヒットさせている。
最近は仕事の手が空くと店にやって来て、隅のテーブルに陣取って厨房の麻弥を覗きながらコーヒーを飲んでいる。まるで新しく手に入れた珍しいおもちゃを眺めている様に。

佐山はその事に気がついていたが決して顔に出さなかった。

近くのテーブルを拭いていると常吉が「いいねえ」と麻弥を見ながら言ってきた。

「オーナーは以前から麻弥さんとはお知り合いだったんですか」と、トルテが乗った皿を渡しながら聞いた。

「いいや」と言いながら麻弥の作ったフロッケンザーネトルテという薄く伸ばしたシュー生地と生クリームを重ねてクランブルと粉糖をかけたトルテを無神経にフォークで引きちぎり頬張った。

こいつはオーナーのくせに麻弥の身体だけ見て、ケーキを見もせずにこのお菓子がどうやって作ってるのかとか、作り手の苦労とか1ミリも考えていない。

そう思いながら心から軽蔑していた。

ーーーー

常吉が熱心なのを見て、佐山は麻弥はどう思ってるのか気になった。

そして麻弥が工房に行ってる間にレジの横に裏返して置いたスマホをそっと持ち上げ待ち受け画面を見た。

コックコートを着た眼光の鋭い凛々しい男が写っていた。

背が高く髭面のその男は男の中の男の様に見えた。

常吉とは人としての成分が違いすぎる。

「これは、、どこかで見た事がある」その後その事が仕事中ずっと気になる。

佐山は帰ってからその男の事をお菓子業界から調べ出した。様々なハッシュタグをつけてお菓子に関連する事を調べた。

するとパンの所にその男はいた。

『パン好きの聖地』というパンの名店特集の雑誌の切り抜きを、基嶋機械の後藤という男が個人垢に載せている。
そこには探していた男の家族4人の写真があった。

「パンロンドの田所修造か。既婚者じゃないか」佐山はパソコンを閉じた。

麻弥が仕事一本で男を寄せ付けないのはあの男のせいなんだ。

しかしそのうち常吉は麻弥に言い寄って来そうだった。

「面倒臭いな」ソファに座って足を組み、ワイングラスをユラユラ揺らせながら佐山は呟いた。

次の日

「ボスはずっとここで仕事をするおつもりですか?」と聞いた。

「わからないわ。私嫌な事以外は何も決められないの」と蚊の鳴く様な声で答えた。

「それは、、」麻弥は答えにくい様だった。

「好きじゃないって事なんですね。僕も金を出すからジロジロ眺めても良いだろう、と言う様な男は最低と思いますよ」

単刀直入な佐山の言い方に麻弥は顔が赤くなった。

「嫌だわ」麻弥も小さな声で言った。

帰宅後
佐山はワインを飲みながら修造の情報を探してみた。
「こうして見ると画像も動画も結構あるもんだな」

NNテレビの過去の動画の所にに修造を見つける。照れ臭そうに映る修造を佐山は表情ひとつ変えず見ていた。

そしてつまみのローストアーモンドを一粒凄い勢いで弾き、画面の修造の顔に当てた。。

次の日

佐山は仕事中の麻弥のところに行き、納品数の説明をして壁に紙を貼った。

そして

「ボス、鶏口牛後ってご存知ですか?」と聞いた。

「いいえ、知らないわ」

「鶏口(けいこう)となれども牛後(ぎゅうご)となるなかれ『たとえ鳥の頭の様に小さな店でも、その方が良い』と言う意味です」

佐山は『牛後』つまりずっと常吉の所で働くのかどうかと言うところを省いて麻弥を誘導した。

「小さな」

「はい。僕がどこまでもお供しますよ」

「考えとくわ」麻弥は聞き取れないぐらいの小さな声で答えた。

ーーーー

休みの日

麻弥は東南駅で降り、パンロンドの周りをウロウロした。

商店街の店の看板の影から見ていると、修造と髪の茶色い男の子が出てきた。

パン屋の店の奥さんや他の従業員達が出てきた。

ひときわ大きな男が泣きながら修造の手を取り何か言っている。

修造も男の子も泣いている様だ。

「お別れなんだわ」

手を振ってパンロンドから遠ざかる2人を見て麻弥はそう思った。

修造はここを出てどこかに行くんだわ。

どこに行くのかしら。

麻弥は修造の後をつけた。

修造、一緒に歩きたいわ。

麻弥が歩を進めてつい修造に近寄ってしまった時、佐山が麻弥の肩に手をかけた。

麻弥は心底驚いて振り向いた「なぜここにいるの?」偶然ここに居合わせるわけなどない。それは麻弥にもわかった。

麻弥はバツが悪そうに下を向いた。

佐山に連れられ2人は駅前のカフェに入った。

佐山は「ホット2つ」と入り口で店員に頼み、窓際の席に座った。

「ここは賑やかな駅なんですね。東南駅に来たのは初めてですよ」

「そう」

別れ話をする男女の様に2人は気まずく、言葉少なだった。

「いつからさっきの方とお知り合いなんですか?」

「19の時からよ」

その間ずっと好きだったんだろうか?

その間ずっと好きだったんだろうか?と佐山は考えた。

「ドイツで?」

「ええ、彼は同じ職場の人だったの。マイスターになる為に修行しに来ていたわ。」

それで。

「8年も」と呟いてしまった。

そうか、あの家族写真の子供の年が随分離れてるのは男の方がドイツに行く前に結婚していた、だから気持ちが通じなかったんだな。

「鶏口の話を覚えていますか?」

「ええ」

「僕はボスの牛後で構いません。なのでどこか小さな店から始めて鶏口になりませんか?いや、鶏口どころか牛の額にして見せますよ」

麻弥は薄く笑って「牛の額って座り心地悪そうね」と言った。

ーーーー

程なくして、修造の店リーベンアンドブロートは開店した。

修造は世界大会に一緒に出た江川と言う弟子っ子を連れてパン屋を開店したのだ。

麻弥はまたそのニュースをネットを通じてしか知る事は出来なかった。

修造の店は関東の外れの幹線道路沿いの、駐車場がある2階建ての建物だった。広いパン棚の横にカフェスペースがある。外にもテーブルがあり、客は自由に使える様になっていた。

麻弥は明るい色に染めた髪の毛を帽子の中に全部入れて立ち寄った。

店には修造はいなくて従業員が何人かレジ係をしたり、パンを棚に並べたりしている。歩くのも大変な混み具合で、お客達はカフェに座りきれず外の至る所でパンを食べていた。

こんなに客の入りがいいなら借入金があってもすぐに返せそうね。おまけに年中無休だなんて。麻弥は商売人の様にパンの値段と地代や店の作りなど観察して収益を計算した。

ところで

麻弥は免許を取り、修造の店に通いやすい様に小さな車を買った。

臆病な性格でも修造の近辺を調べる為ならその執念の方が勝つ。

帰り道、麻弥は車でそこら辺をよく見て廻った。

佐山に鶏口の事を何度となく言われて麻弥の頭にも独立の2文字が浮かび上がった。

それもあの、リーベンアンドブロートの近くに店を出したらいつでも修造の事を見に来ることができる。

ーーーー

店を持ったらどんな風にするか佐山に相談した。

壁の色は何色が良いか、広さはどうする、内装は何色かアイテムは何を置くのか。

麻弥は人生で初めてウキウキしたかも知れない。

そして佐山にここはどうかと言った土地を聞いて佐山は驚いた。

リーベンアンドブロートの近くにある空き店舗だった。

「強豪店から近くないですか?」

「そう?」麻弥はとぼけた。

「他ならぬその強豪店から叩き潰されますよ?」

麻弥は黙っていた。

あんなに売れてる店と勝負する気はないが自店が無くなると困る。

「ここはどうですか?笹目駅近くの空き店舗で、駐車場も付いています。厨房を作って内装を変えるだけで良いと思いますよ」

「そうね。ここなら駅からのお客さんも流れて来るわね」

手持ちのお金も無いのに麻弥はまた捨て身の計画を立てた。

ーーーー

店を辞めたいと常吉に言った。

「辞めるだと?辞めてどうする?」

常吉は、優しいフリをして金を出していればいつか大人しい麻弥がいいなりになって手に入ると思い込んいたので、自分勝手な怒りが込み上げ激高した。

「なんの力もないお前に金を出してやったのに恩を仇で返すのか!」手のひらを返して叱責してきた男に、麻弥はまた父親の影を見た。嫌悪感が込み上げる。

「すみません。もう決めた事なので。次の人は自分が探します」麻弥には珍しくキッパリと言い放った。

以前アルバイトしていたケーキ屋の職人を2人呼び寄せて仕事を教え、佐山と一緒に退職した。

新しい店を作る資金繰の事を商工会議所に相談して、これだけいるから自己資金と借入金を合わせてこのぐらいの改装費でいきましょう。などなど。そして見積もりをとり、金融公庫に提出した。

ーーーー

麻弥は新しい店をZuckerbäckerei Mayaツッカベッカライマヤと名付けた。

とても小さな店なので入り口の横に木製の焼き菓子用の机を設け、その向かいにクーヘン用のショーケース、その横にクラプフェンなどを置くオープン型のショーケースを置いた。

佐山は店のマークを本場ドイツのツッカベッカライのマークを模して豪華なマークにして高級感を持たせた。

麻弥がお菓子を作り、佐山はそれを並べて販売し、焼き菓子を高級感のある材質のもので丁寧に包んだ。手提げも高級感のある物を作り、地元のマダムにも丁寧に接して好感を得た。

佐山は通信販売を始めて進物用のお菓子のセットをいくつか繰り出した。

冬場にはシュトレンの通販を始め、百貨店の催事にも出て社員と顔見知りになり、定期的に出店する様になった。

お店は儲かり、麻弥は生まれて初めてまとまった金を手に入れた。通帳の金額を見ている時気分が高揚した。

麻弥はカードを作り、高級な洋服店に入り自分にピッタリで格をあげてくれるセットの洋服を何点かとネックレスとイヤリングなどの貴金属、それにハイヒールを買った。

綺麗にメイクして鎧の様にその服や貴金属を身につけ、「セレブでバイタリティのある女」と言う設定に仕上げた。

マダム向けの冊子にお金を出して、裏表紙の目立つ所に高級な箱のお菓子とツッカベッカライマヤの広告を載せた。「雑誌の表紙と言うのは表表紙か裏表紙しか無いのですから裏に広告を載せるのは人の目に触れる機会が多くなると佐山に言われていた。

佐山は催事で知り合いになったNN百貨店のバイヤーの趣味などを調べ、ゴルフ場でばったり出会うなどの出来事を増やし、「子供さんに」と言ってゲーム機などをプレゼントしたりした。ゴルフ場のレストランでは「どこかにもう少し販売できる場所が欲しい、できれば百貨店の洋菓子売り場があれば」と呟いた。

程なくして百貨店からブースが一箇所空く予定なのでそこに入らないかと打診があり、佐山は収益と人件費を細かく計算して、人を雇う事にしたり、百貨店の空いたブースをデザイナーを呼んで個性的な雰囲気に作り替えて貰い、後ろの壁面の真ん中に店のマークを大きく付けてもらった。

ネットニュースの記事を書いてる所に連絡して、大きくツッカベッカライマヤについて書いて貰った。

ブースがオープンする初日は店を休んで麻弥も店頭に立ち、「セレブでバイタリティある女社長」として並んだお客さん一人一人に愛想良く頭を下げた。

忙しくなってきた麻弥は時々しかリーベンアンドブロートに行けなくなったが、こっそり空手の大会でオペラグラスで修造だけを追った。

たまに暇を見てパンを買いに行ったが修造の姿をちらっとでも見る事は出来なかった。きっと奥の工房でパンを作ってるんだわ。その代わり麻弥は修造の妻と子供らしき3人を見つけた。白いエプロンドレスで茶色い髪の女と小学低学年ぐらいの女の子と小さな男の子だ。

もし私があの女だったら今頃は。そう思って深々と被った帽子の隙間からじっと見ていた。

するとその小さな男の子がタタタッと走って来て、座っている麻弥の膝に抱きついた。

まあ、この子修造に似てるわ。

麻弥はその子を抱きあげ顔を見回して抱きしめた。

柔らかで良い匂い。

「可愛いわ」

私も修造の子供が欲しい。

私がこの女の代わりに一緒に家に帰って過ごせたら。

「すみません、うちの子が」

すると男の子はさっと母親の方を向きそちらへ行ってしまった。

「いいえ」

麻弥は弱々しい声でそれだけしか言えなかった。

麻弥の胸の内は雷の様に痛みの電流が光った。

自分の店に戻ってお菓子を作りながら涙がポタポタ落ちそうだった。

他の物に見られない様にするのは至難の業で、皆が心配するので「ここの所忙しかったから疲れたのよ」と誤魔化した。

佐山が麻弥に「何かあったんですね?あの男の事ですか?」と聞いた。

麻弥は佐山に背を向け、通路の奥の小さな窓の方を向いて少しだけうなづいた。

「僕にできる事はありますか?」

例えばあの男を仕留めて麻弥の心を楽にしてしまうとか、と佐山は考えた。

麻弥は小さく首を横に振った。

佐山はいくらでも麻弥を誘導できるのにひとつだけ『あの男の事』は絶対に変えられない。

「もうやめませんか?あのパン職人の男はボスとは違う次元や空間にいて、自分とは違う人生を歩いていると思うと気が楽になりませんか?」

「そうね」それができたらもうとっくにやってるの。

ーーーー

麻弥はしばらくの間リーベンアンドブロートに行くのをやめた。

新たな鎧を手に入れる為に更に高級ブランドの服や靴を買い、それを着て街を歩いた。こうしていると何か他の人物になれた様で少し勇気が出る。

ショーウインドウに写る自分を見て他の誰かが乗り移ってる様にも思える。

「麻弥」

振り向くと黒い車から常吉が顔を覗かせている。

「常吉さん。その節はどうも」

「麻弥、君変わったね」常吉は心から後悔した、この美しい女を何故手放したのか自分を疑った。

素早く車から出てきて言った「俺が悪かったよ麻弥。あの時は君に手を出さない約束をしてたから俺は我慢してたんだよ。今なら君に交際を申し込んでも良いだろ?」

麻弥は常吉の本性を見ておいて良かったと思った。自分を叱責していたくせに。麻弥はセレブの設定で気高い感じでそのまま「今忙しいのよ」と言って立ち去った。その高飛車な態度がまた常吉を夢中にさせた。

その日から常吉の電話とメール責めが始まった。どうしても会いたいとか渡したいものがあるとか言ってきた。

麻弥はため息をついて「常吉が」「はい?」「常吉が毎日連絡してくるの」と言った。

佐山は「そんな時はすぐに言ってください」派手な麻弥が余計に常吉をそんな風にしたんだろう。危険な人だ、と麻弥を見て思った。

帰宅して座ってワインを飲みながら頬杖をつき、机を指でトントン叩き、あのパン職人と常吉、パン屋と常吉、、、佐山は色々悩んだ挙句「おっ!」と一瞬声を出して目を少し見開いた。

そうだ!常吉をあの修造ってやつと。。。

次の日

佐山は麻弥のメールから常吉に連絡して「明日15時に駅前のカフェで待ち合わせましょう」と書いて、それを麻弥にわからない様に削除した。

楽しみに待っていた常吉の前に佐山が現れた。「何でお前が来るんだよ!」佐山を見て一気に不機嫌になった。「あれ、すみません、なんて書いてましたっけ?」ととぼけて常吉からスマホを取り上げ麻弥の名前のメールを削除した。

「麻弥さんは今日の約束の事は知りませんよ。僕から相談がありまして」「なんだ!早く言え!」「実は麻弥さんはある男に片想いしてましてね。だからなかなかなびいてくれないんですよ」

「なに?どんなやつだ」「それがひ弱そうな男で、何であんな男がいいんだか」とチラつかせた。

「どこの奴なんだ!」「それを教えるにはその男をどうするか先に僕に教えてからですよ」「殴ってやる!」「背が高いから届くでしょうか?」「じゃあ棒で」「かわされたらどうします?怪我しないで下さいよ」「じゃあ何人かで行く!」「殴ったぐらいじゃ麻弥さんの恋心は継続ですよね」「うーん。わかった!」常吉は佐山にひそひそ声をひそめた。

佐山は何食わぬ顔で戻ってきた「今度視察にドイツに行きましょう。僕はドイツに行った事ないので案内して下さい」

「ドイツに」

「はい。気晴らしにミュンヘンに行ってホフブロイハウス(歴史のあるビアホール)に行ったり、マキシミリアン通りでお買い物でもどうですか?」

「素敵」

「勿論部屋は別々ですから安心して下さい。僕はボスとの間にトラブルは起こさないので」

「分かったわ」そう言って、麻弥と佐山は決行の前日にドイツへと旅立った。

麻弥はドイツにいた時お金がなくて中々よその土地に行けなかったのでミュンヘン行きを楽しみにしていた。

何も知らずに。

ーーーー

決行の夜

笹目駅から少し離れたリーベンアンドブロートでは、従業員が皆帰った後修造と江川が2人で明日の準備をしていた。

江川は次の朝に使う生地の計量を済ませてたので、洗い物をしてそれを拭いていた。

※これ以降はアクションが多めになりますので漫画でお送りします。

赤い髪のストーカー おわり

次のお話に続きます。

52パン職人の修造 江川と修造シリーズflowers in my heart

flowers in my heart

今日は鴨似田フーズの創立30周年のパーティーだった。

NNホテルの豪華な会場に所狭しと鴨似田フーズの商品で作られた料理の数々が並べられ、招待客達は舌鼓を打っていた。

藤岡は兼ねてからの鴨似田夫人の念願だった『立食パーティーのサンドイッチコーナーで給仕をする』為に立っていた。客の希望のサンドイッチやタルティーヌなどを皿に取り分け渡す、その時笑顔がご希望だそうなのでニコッと笑って商品の説明を加えてから渡す決まりだ。

本来なら絶対やらないが、前回鴨似田夫人に助けて貰ったので今度はお礼に笑顔を振り撒きに来たのだ。

振り返ってみれば過去には俺ももっと爽やかな笑顔を自然にしてたものだ。パンロンドに就職した頃、立花さんを探す為に探偵に頼んだら結局見つからず料金だけ取られて頭に来て自分で探す事にしてパン屋巡りを始めた。自分でもその頃から険のある表情になって来たと気がついていた。

交際中の由梨の優しさと明るさのおかげで最近は笑顔が元に戻りつつあると思う。

会場で写真を撮って回っている歩田がさっきから藤岡の写真をバンバンに撮っている。きっと鴨似田夫人の命令だろう。

同じ会場にリーベンアンドブロートの大坂がいた。修造に頼まれて、周年記念の祝いの品を持って来たのだ。

「この度はおめでとうございます」受付で祝いの品を渡して帰ろうとすると、世話係の兵山に呼び止められる。

「リーブロの大坂さん、折角来られたのですからゆっくりして行って下さい」

「え、俺を知ってるんですか?」

「はい、江川さんの助手としてテレビに出てましたよね。見てましたよ」

「ありがとうございます。じゃあ折角だから少しだけ」

さあどうぞどうぞと会場に案内される。

普段着で着ているし居心地悪かったが、美味しそうな料理を見ているうちに気が変わり、ローストビーフや伊勢海老のグラタンを食べながらまだ何か食べようかななどと会場を見回していると、凄いイケメンがサンドイッチコーナーにいて、マダムがその周りを囲んでいる。

イケメンは皿を渡す時にいちいちマダムに言葉を掛けて笑顔を向けていた。

「あっ!あいつはあの時の、、」

大坂は思い出した。

笹目駅前のカフェで立花と話していて店から出て来た奴だ。

「超絶イケメンがなんでこんな所に」

大坂はコーナーの後ろから藤岡に声をかけた。

「あの、ちょっと話があるんだけど」

藤岡はまったく知らないこの男が自分の事を知ってる風だったので驚いたが、何故か話を聞かなければならない気がして少し離れた窓際にいざなった。

「君は誰?俺の事を知ってるの」

「俺は修造さんの店で立花さんと働いてる者だ」

「え」藤岡は立花の名前を聞いて身体が硬直した様になった。そして思い出した。江川の助手として先日テレビに出ていた男だ。江川となら分かるがあえて立花と言ってきたのは何故なんだろう。

「それで?」

「あんたと笹目駅のカフェで別れた後、あの人泣いてたんだよ、あの人はあんたの事を愛してる様だった」

「なんでその事を知ってるの」

「偶然店から出て来たところを見て」

藤丸パンの事、結婚の事、新生活の事、今はやる事が沢山ありすぎて毎日が目まぐるしく過ぎていく、過去の事はドンドン後ろの方に流れて行って正直分からなくなって来ている。

「俺は今いっぱいいっぱいで」

「だからあの人の事を思い出さないってのか」

「本当に申し訳ないけど、俺はもうあの人を忘れなくちゃならない、それに」

何故この男はこんなにムキになってるんだ。

「今は君がいるだろう」

付き合ってるわけでも無いのにそう言われて大坂は憤りと恥ずかしさが混同して顔が真っ赤になった。

「俺にはわかるんだ、あの人の孤独が透けて見える」

「原因は俺なのか、だったら何故消えたんだ」

「それは」

「知ってるなら教えてくれないか、本当の事を。あの人が消えてからあちこち探した。そうこうしてるうちに俺は顔つきまで変わってしまった。今思えばあの時の俺は心がカスカスしていた」

「そうだったのか」目の前にいるイケメンが立花をなおざりにして来たとずっと思っていたので急に大坂は黙り込んだ。

それに本当の事は自分にも分からない。

その時、サンドイッチコーナーから並んでいたマダム達が呼ぶ声がした。

「ごめん、もう戻らなくちゃ。教えてくれと言ったのは忘れてくれ。あの人を頼んだよ」

大坂は帰る為にエレベーターに乗り下に降りた。

「なんだ頼んだよって、お前に言われなくても俺に任せろってんだ、俺がいるってんだ」自分でそう思いながら虚しい。

大坂の足取りは重かった。

気温が上がり、リーベンアンドブロートのテラス席の横の花々は色採りどりに咲き乱れている。

リーベンアンドブロートに2度目の夏が来ようとしていた。

江川は2階に上がって経理でパン職人の塚田と一緒に1周年記念の計画を練っていた。

「特別メニューをカフェで食べられるとか記念品を作るとかどうかな?」

「良いですね、江川さん」

「特別メニューは世界大会のパンの中から選んだら?」

「どんなのが良いでしょう、みんな食べてみたいと思います。それとカフェでなくても買って帰られるものもあったら嬉しいな」

2人で候補を紙に書き出してあれが良いとかこれが良いとか話してると修造が入って来た。

「修造さんこれ」と言ってパンのメニューを書き出したものを見せようとしたが修造はコックコートと靴を脱ぎ、ソファの真ん中にドスっと座って頭を端に反対側に足を乗せて「うぅ」と呻いて横になった。

その様子を慣れた感じで2人は見ていた。限界まで工房にいて疲れて耐えられなくなったらここで横になって休むのだ。

「お腹が冷えちゃいますよ」もういびきを書いている修造に毛布をかけてやり、ポンポンと軽くお腹を叩いた。

その様子を見ながら

「もうそろそろ年中無休はやめて週一回でも休んだらどうでしょう」と塚田が言った。

「そうだね、でもいつお客様が来ても良い様にしたいんだって」

「長い事家に帰ってないみたいだし、大丈夫なんですかね?独身じゃないんだし、そのう、奥さんが怒ってないのかな」

「どうなんだろう?怖くて家に帰れないのかしら」

「まさか」

2人は顔を見合わせてフフフと笑った。

修造が目が覚めた後、江川は岡田に頼んでアボカドとエビのタルティーヌとコーヒーを持って来て貰い修造に渡した。

食事中の修造に向かって「明日から少し休んで下さい」と言った。

「え?なんで?」

「たまには帰らないと」

「今忙しいからなあ」

「いつも忙しいじゃないですか。それに1周年記念の頃にはもっと忙しくなるかもしれないんだし、今しかないですよ」

「そうかなあ」

「それと、1周年記念のパンですが、Chrysanthemen-Campagne(菊のカンパーニュ)とdreifach geflochtenes Brot(三連編み込みパン)にしようと思っています」

「わかった、じゃあ俺の休暇が終わる頃だからみんなで頑張ろう。俺の居ない間に菊のステンシルを頼んだよ」
「はい」

ーーーー

そんなこんなで心配しながらも修造は1週間休む事にした。

帰りの車の中で色々考えた。

それはこんな風だった。

今出来るだけ頑張って貯えておかないと俺が抜けた後困るだろう。最近は江川がパン職人決定戦の番組で2位になってから江川に会いに来るお客さんも珍しくない。いつも店の中はパンでいっぱいにしておきたいけどあんな風に休んで良いって言われるなんて江川もしっかりして来たな。

店の近くの高速入り口から本線に合流して車を走らせる。

家では律子孝行に勤しんで、土日は久しぶりにみんなで長野にある律子の実家に帰るかな。お義父さんやお義母さんにも長い事会ってないし。そして途中遊園地に行くのはどうだろう。よし!俺はこの期間は家族に張り付いて離れないぞ!

高速を降りて最寄りのスーパーに立ち寄った。律子の好物を色々作る予定だ。おやきにあんかけ焼きそばにソースカツ丼に山賊焼、信州そばに牛乳パン。

「待てよ、これ全部作ったら多分叱られるな。とりあえずあんかけ焼きそばは決定だ!カツ丼の豚肉は冷凍にできるしキャベツは他にも使えるしまあ買っとくか!」結局あれもこれもと買いすぎたが、料理していくうちに減るだろうと思い車のバッグドアを開け荷物を詰め込んだ。

しかし帰る途中で、よく考えてみると「そうだ、男の料理に対して妻がよく後片付けがなってないとか、作りすぎとか高額過ぎるとか苦情が出るのは耳にするな。俺も気をつけよう。そもそも片付けながら調理するとか基本だもんな。帰ったらまず冷蔵庫を掃除するか、いや待てよ、場所が変わったとかそれもまた叱られるから注意しよう。兎に角細心の注意を払って行動しないとな。家に入る瞬間から気をつけよう」江川に知られると「やっぱり怖いんですね」と揶揄われそうだがこっちは真剣なんだ!

と言うわけで車を駐車場に停めて荷物を持って口の端を上げる。

「ただいまーっ」

パンロンドに就職した時から住んでいるアパートは玄関を入ってすぐ右が風呂などの水場、その向かいのドアが台所、その奥がグリーンのソファとテーブルが置いてあるリビング、その右の部屋が寝室だ。家族が4人になって狭くなりすぎたがどうせ引っ越すんだからまあいいかと言うわけでそのまま暮らしている。

「あれ」

みんないないんだな。

律子に連絡してみる『帰ったよ。みんなどこ?』

返信を待ってる間に冷蔵庫の奥に新しいものをしまう。

次に台所のあちこちを気づかれないぐらいに退けて拭く「どけふき」をしておく。

「色々大変だろうなあ」

しかしこう言うと人ごと感があるのでこれはNGワードだ。

そう思いながら床を拭く。大地の食べこぼしもこまめに拭いてくれてるんだろうなぁ。

洗濯も大変だよ。

取り込んで机の上に置き畳んでみるが詳しい場所は分からない。

子供タンスの引き出しを開けては閉めて場所を探す。

続いて寝室兼勉強部屋の拭き掃除。

勉強机の教科書を閉じて隅に置く。

もう緑も4年か、早いなあ。

背も高くなって。

ちょっと感動していると『ピンコン』と音がした。

律子から返信が来た。

「おかえり修造。今日はみんなで緑のお友達の家族とバーベキューしたあとお泊まりさせて貰うの。帰りは明日になります」

「了解」と返信を送った後、気が抜けてソファにゴロリと横になる。

「そう言えば今日は土曜日か」学校も休みだし、明日は遊園地に行けそうもないか」学校があるから次の土日まで長野には帰れないんだな。

そんな事を考えているうちに寝てしまう。

夕方目が覚めた修造はふと親方に会いたくなってパンロンドに行く。

「あら、修ちゃんいらっしゃい」「奥さん無沙汰してます」と言いながら中に入り、他の職人一人一人にペコッペコっと頭を下ると「修造さーん」と杉本が手を振ってきたり他の職人たちも「修造さん」「元気か修造」などと声をかけられる。

親方の横に立つ。

「今日あれ行かないですか?」

「おっ!良いねぇ」

あれとは駅前の居酒屋で2人どちらかが飲み潰れるまで呑んで、残った方が勝ちという勝負なのだが、修造は全然酔わないのでいつも親方が酔い潰れるという会の事だ。

「修造さん、俺も行って良いですか?話したい事があります」

「おっ!藤岡も参加するか!行こう行こう」

というわけで満員で騒がしい居酒屋のテーブルを3人で囲む。

藤岡は修造に藤丸パン食品テロ未遂事件の話をした。

修造は出来事の全てに驚いて口を開けたまま聞いていた。

「杉本が協力してくれて助かりました、風花や由梨も無事連れて帰ってくれたし」

「それと、鴨似田夫人はメイクのせいなのか全然顔が違って見えた。それに若返ってたし」

「美魔女ってやつだな」

「そうなんです親方」

そこに入り口から入って来た男に藤岡が手招きした。

「初めまして、藤丸パン横浜工場長大和田です」大和田は二人に挨拶した。

「どうもね、俺はパンロンドの柚木阿具利」

「リーベンアンドブロートの田所修造です」

「今藤岡に話は聞いたよ」

「そうなんですね、私も全然気が付かずお恥ずかしいです。いつの間にか木田や足打(あしうち)が裏切っていたとは恐ろしいです。そもそも木田がメールのやり取りをしていて先に全員の取り分の20%を振り込まれたそうなんです。みんな借金があって金に困っていた連中ばかりで残りの金欲しさに実行犯になってあの様な事に」

「皆事情は違うけど金に困ってたんだなあ」親方が腕組みをしながらうなづいた。

「どこででも起こりうる話なのかなあ。知らない間に何かが蔓延してたり」

「中々分かんないもんですよね」修造と親方が目を合わせて頷いた。

「それで仲介の犯人が捕まったそうなんです」

「捕まったんですか?それもまだ仲介?その更に奥に企業とかいるのかな?」

「どうなんでしょう?実はそれも鴨似田夫人の部下が炙り出したそうですよ」

「歩田と兵山が?そんなできるタイプだったっけ?」修造はあの『ややお間抜けな2人』を思い出した。

大和田が説明した「鴨似田夫人は資産家の娘さんで、他にも有能な部下が何人かいる様です。投資専門、調査専門、不動産も実は手広くやってる様ですよ」

「へぇ、俺の調査なんて訳ないんだな、日光にも付いて来てたし」藤岡は納得して言った。

「それに」大和田が続けた。

「もしどの企業か知りたいなら本当に引っ掛かってみたら分かると言ってましたよ!冗談じゃない」

それを聞いて皆空虚な笑いを浮かべた。

「まだまだ調査は続きますね」

藤岡は気を取り直して正面に座っている2人に改めて向き合った。

「親方、修造さん、今まで藤丸パンの事を黙っててすみませんでした。俺、今回の事で反省しました。今度由梨を連れて親父に会って来ます」

「ん?由梨?」

「はい、俺達結婚する事になりました。先日プロポーズして」

「それはおめでとう」

「おめでとう藤岡」

「ありがとうございます。それで言いにくいんですが俺と由梨は同時に退職しないといけなくなって」

「由梨は家庭に入るって事?」

「いえ、横浜工場で一緒に働こうかなと思って。そうなると2人共色々と覚えなくちゃいけない事が多くて」

「ゆくゆくは藤丸パン全体を見なくちゃならん訳だな」

「はい、すみませんご迷惑をお掛けします」

「良いって事よ!楽な道のりじゃないかも知れないが大和田さんに教えて貰いながら仕事を自分の物にしていくんだな」

「これで社長も安堵なさるでしょう」

「大和田さん、よろしくお願いします」藤岡は頭を下げた。

「そう!由梨と藤岡を頼んます」

「お役に立てる様に頑張ります」

その後藤岡は言おうか言うまいか迷った挙句切り出した「修造さん、リーブロのガタイのいい、江川さんの助手をしてた奴がいるでしょう?」

「あぁ、大坂?」

「そいつと立花さんはどういう関係なんですか?」

「え」そんな立ち入った事は聞いた事ないし「知らないな、なんで?」

「いえ、なんでもありません」

「2人が何?」

「忘れて下さい」藤岡は立ち上がった。

「お、帰るのか?明日また話そうな」

「はい、修造さんもまた」

そう言って頭を下げた。

藤岡と大和田が帰った後2人は飲み比べをしてやはり親方が酔い潰れる。

「親方、帰りますよ」と言って水を飲ませた。

「うーん修造まだ飲めるぞ」

「もう無理ですって」

親方は机に顔を伏せ、唸るような小声を絞り出した。

「修造の次は藤岡がいなくなるのか、俺はあと何回こんな感じの気持ちを味わうんだ」

いつもはこんな事を絶対言わない親方が酔った勢いで本音を吐露した。

「今は親方の気持ちが分かります」

同じ空間で自分が育てたものが無くなってしまう。

それは人でもあり、形作って来た技術とか人情でもある。

「寂しいですね」

「うん」

「またやり直しましょう。何度でもですよ。また煌めく星を見る瞬間がありますよ」

「なんだ煌めく星って」

修造に抱えられて親方は家路に就いた。

帰り道

夜風が気持ちいい。

今自分の所で働いている者達もいずれ何らかの理由で出ていく事もあるだろう。

「そう思うと寂しいな」

しかしこれは仕方ない事なんだ、それでも自分はパン職人を続けていく。

親方の様に「よし!分かった!これからも頑張れよ」って言わなくちゃ。

修造の目から何故か涙が流れた。

次の朝

泥の様に眠っている修造の腹の上に急にドスン!と衝撃が起こり、顔面に釣るような痛みが起こった。

「うわ」っと目を覚ますと大地がけらけらと笑って腹の上にまたがっていた。

「大地」

大地の脇を抱えて顔を近づけたら今度は「くしゃい」と言って小さな手のひらで酒臭い修造の顔をペチペチ叩いて来た。

「痛い痛い」うつ伏せになって攻撃を避けていると今度は背中の上で立ち上がってグラグラしている。

「すごく可愛くてすごくやんちゃだ」

「修造ただいま、昨日はごめんね」と隣の部屋から声を掛けながら律子はなんとなく小綺麗になってる部屋や冷蔵庫の中を見まわした。

「助かるわあ」洗濯機を回しながら綺麗になって片付けられているベランダを見ながら言った。

拭き掃除をするものの汚れが角に残っていく、それを分かっちゃいるが見て見ぬ振りをする「また年末にでも」なんて具合に。

日常の汚れは徐々に溜まっていくが中々綺麗にするのが億劫な時もある、それがスッキリ片付いていると気持ちいい。

修造の背中に乗り今度は「お馬さん」をしている大地は時々足で修造の両脇をポンポン蹴った「いてて」そう言いながらも息子の成長を背中で感じて嬉しい。

長女の緑は早速テレビの美少女戦隊シリーズを見ている「お父さんただいま」ちょっとだけこっちを見てまた画面の方を向いた「おかえり緑」

「律子、俺しばらく休みなんだよ、来週長野に帰らない?」

「長い休みなのね、じゃあお母さんに連絡しておくわ」

「うん」

大地を膝に乗せながらコーヒーを飲んでいると「お父さん、私お父さんのお城に行きたい、ねえお母さんいいでしょう?」と緑が言った「いいわよ」

緑はリーブロに来た時は必ずお城の様だと言っている。

「気に入ってくれて嬉しいよ。じゃあ後で出かけよう」

リーベンアンドブロートのテラスの花々は風に揺れて見ているだけで癒される。

修造は用事を済ませる為に工房に行ってる間に3人は選んだパンを食べていた。

「美味しいねお父さんのお店のパン」

「本当にいい店ね、お客様もいい表情だわ」

確かに、テラスのテーブルに座っている人々は癒しの空間で寛いでいる様に見える.

「あ、大地」

大地はぴょんと席から飛び降りて他のテーブルに1人で座っている高級そうなワンピースを着たお客の所に行って抱きついた。

ツバの大きい帽子を深々と被った女性客は「可愛いわ」と言って大地を抱き上げ顔を見つめてから抱きしめたが、それがとても長い様に思えて律子は「すみませんうちの子が」と言って大地を自分の所に引き寄せて席に連れ戻した。

「何かしらあの人、1人で店の方を向いて中を覗いてる様だった。ひょっとして他の店の偵察かしら、それに泣いてる様にも見えた」と思ったが、大地が他の席に走って行ったのでもうその事はすぐに忘れてしまった。

修造がテラスに戻って来た時はもう帽子の女性客は消えていた。修造はマーガレットを持って来て律子に渡した。

白い花びらに黄色い筒状花が可愛らしい「ありがとう」

緑と大地がてんとう虫を見つけて他にもいるか探している「癒されるわね」それは修造の目指しているものだった、それを同じ空間で分かってくれる律子がとても愛おしい。

2人はテラスの椅子に座って机の下で手を繋いだ。

「ああやって自分の理想に自分を近づける人間は耐えず努力している」店内から2人の様子を見ていた岡田克美は凄く冷静な目で横にいる中谷麻友に言った。

「その時は努力とは思ってない、もがいてる最中だから」

「修造さんってもがいてるんですか?」

「それは後で分かることであって、動いているうちは努力してるとは思っていない訳だし」

「きっと家庭の事も一生懸命なんでしょうね」

「それが当たり前になってるものだけが成功するのかも知れない。仕事にせよ家庭にせよ趣味にせよ」

「周りもそれに引っ張られて動き出してますよね。私達回転率良いですもの」

「回転率?」

「はい、ここに来てから修造さんや江川さんを見て効率よく仕事したりするクセがついたと言うか。勿論岡田さんもですよ」

「私も?」

「そうです、仕事のできる人なので」

「回転率ではなくて起動力ですよね」

そう言って岡田はその場から離れ布巾を持ってきた。

側から見たら全く分からないが岡田は照れながらテーブルを拭いた。

ーーーー

一方その頃パンロンドでは

親方がみんなを集めて由梨と藤岡を真ん中に立たせた。

「2人は結婚して藤岡の実家の家業を継ぐ事になった」

「えーっつ」皆驚いたが丸子と風花は由梨から聞いて知ってる風だった。

「おめでとう」

「よかったね由梨ちゃん」

「皆さん勝手してすみません」

「2人とも新たな生活を送るんだな」

「頑張ってね」

などと皆言っている中心底驚いている奴がいた。

杉本は目を見開いて「藤岡さんが居なくなるの」と言う言葉が頭の中でグルグル回っていた。

杉本の表情を見て藤岡は「ごめんな、お前のお陰で色々助かったし、これでもう前に進むしかなくなった。親方が求人を出すって言ってるから人員補充できたら俺が教えてから行くから」

なんだか自分のせいで藤岡が居なくなる様な気持ちになる。

夕方

杉本は風花を送って行く途中で慰められていた。

「藤岡さんが辞めるの言わなくて悪かったわよ。私は由梨ちゃんに聞いてたしぃ、龍樹は藤岡さんに聞いてると思ってたのよぅ」

杉本は半泣きで「びっくりした」とまだショックを受けている。

「求人も出してるんだし、まだ期間もあるんだし、ね」

「うぅ、修造さんが居なくなったのに藤岡さんまで」

「まあまあ、すぐ慣れるって」

帰ってから杉本はベッドに横になって考えた。

俺はどうしたらいいんだ。

修造の舎弟で藤岡の付属品

皆にそう思わせる程依頼心が強い

自分でも分かってる

後輩が入って来て「先輩これどうやったらいいんですかぁ」

そう言われてどうやって逃げたらいいんだ。

杉本は天井を見つめていた。

「とりあえず親方に聞けよって言うか」

ーーーー

杉本龍樹はそれ以降明らかに何か思い詰めた様に見えるので母親の恵美子は父親の茂に相談した。

「お父さん、ちょっと見て」と言って2人でそっと部屋を覗くと、電気の消えた部屋でスマホの画面をずっと見ている。

その後2人はこっそり1階に降りて相談した。

「ね、最近ずっとああなのよ」

「なんだろうな、風花ちゃんに振られたとか?」

「えぇ?とうとう見捨てられたのかしら」恵美子はオロオロした。

「よし俺が聞いてみるぞ」

茂は部屋に入ってスイッチを探して電気を点ける。

「なんだよ急に、眩しいな」ベッドで横になってスマホを見ていた杉本は横を向いて目をしばしばさせた。

「おい、何をそんなに真剣に見てるんだ。どうかしたのか」

「別にどうもしねよ」

「なあ」

「は?」

「最近風花ちゃんはどうした?会ってないのか?」

「俺仕事終わったらすぐ帰ってるから、でもパンロンドで毎日会ってるし」

「そうか、2人の恋は順調なのか?」

「なんだよ恋って気持ち悪いな」茂から恋とか言う言葉が出たのでちょっと引く。

「俺用があるから出てってくれよ」

用ってスマホ見てるだけのクセに、そう思いながら茂は部屋から出た。

両親の心配を他所にその後も杉本はずっと画面を見ていた。

作業中

杉本は350gに生地を分割をしていた。
側から見てもモヤモヤと物思いに耽ってるように見える。分割だけを続けていたので台の上にいっぱいになってきた。

見かねた由梨が生地を丸めて箱に入れるのを手伝いながら杉本に話かけて来た。

「あの、忙しいのに2人で抜ける事になってすみません」

「俺どうしたらいいか分かんなくなって、でも藤岡さんには世話になったし幸せになって欲しいと思ってる」

「はい、私も幸せになって欲しいです。だから精一杯手伝おうと思って。凄く大変そうな所も見てしまったし」

「ああ、あれ」2人とも捕まったり走ったり投げ飛ばしたりしている藤岡を思い出した。

「はい、なので絶対にこれからもそばに居ようと思っています」

由梨の瞳からは決心の様なものが漲っていた。

「強いんだなあ」由梨の事を藤岡のひっつき虫と思っていた杉本は感想を洩らした。

「それに引き換え俺は急に足元がぐらぐらしてる気分」

なんだかいつもと違う杉本を見て風花は心配になってきた。

最近は一緒に帰らずに先に帰ってしまう。

「いつもなら待っててくれるのに」

仕事帰り

風花は杉本の家を訪ねた。

「あら、風花ちゃん!いらっしゃい」風花が来たので恵美子は大喜びで迎え入れた。

「龍樹いますか」

「ええ、2階にいてるわよ。ねえ、最近あの子様子がおかしいけど職場ではどうなの」

「はい、元気ないです。だから様子を見に来たんです。家ではどうしてるんですか」

「帰ったらずっと部屋に篭ってスマホ見てるのよ、様子見てくれる?」

「わかりました、お邪魔します」

風花は2階に上がり暗い部屋で何を観てるのかスマホを取り上げて見た。

「パンの動画見てたの」風花も知ってるような有名シェフが懇切丁寧にパン作りの手順を解説している。

「そう、返して」

「ごめん」

「俺1人じゃ結局なんも分かんないから」

「そんなことないよ。試験だって受かったじゃない。どうしたの急に。藤岡さんが辞めちゃうのがそんなに負担なの?」

「俺は俺の馬鹿さ加減に気が付いたんだ。今までのいい加減な俺を思い出すと腹が立つようになったんだ。それだけだよ」

だから毎日先輩の動きを脳内で蘇らせたり、パンの動画を観たりして自分の中に蓄えを作ってたんだ。

ある時 それは脳内で完成した。

「おっ」

親方は杉本の動きが今までとまるで違う事に気がついた。

今までは藤岡の指示通りにしてて1人でやらせると急に失速したりしてたのに「生まれ変わった?」と思わせる程何かが違う。

こいつとうとう自分で考えて出来る様になってきたんだな。今まで人任せでいい加減だったのに。

そして向こうから杉本を見ている藤岡と目があって

2人してニヤリと笑った。

親方と藤岡が見ていたもの。

それは開眼した者だけが掴む『星の輝き』と修造が呼んでいた事象の事だ。

ある日突然悟ったことがあってメキメキと上達したりする。

本人も気が付かないうちに今までの事が全て自分の物になり、技術と実力となって現れる。

親方はあの時酔っ払っていたので修造の言った事は覚えていないし、修造はこの事を知らないし、勿論杉本も知る由も無い。

が、ここに1人のパン職人が誕生した。

土曜日

修造一家は早朝の新幹線はくたかに乗った。

長野駅からレンタカーを借りて計画通りファミリーランドに家族で行く。

乗り物に乗った後、ウサギのふれあいコーナーに行くと大地がウサギを珍しがって追いかけ回した。大地を捕まえて「優しく撫でて」と説得して2人でなでなでしたり、アスレチックを楽しんだりと子供達の楽しそうな顔を見て自分も満足していた。

そうしながらもリーブロでの忙しい最中にいた自分と、このレジャーランドでの自分の違いに戸惑う。パン作りには計画を立て様々な生地の発酵と焼成を組み立てて進めていかなければならない。いつも自分はその事に夢中になって他の事が目に入らなくなる。

だが家族と楽しんでいる自分もまた本物の自分だ。

時々その考えが頭に浮かぶ。

こんな時自分の中にある『違和感』と言う感覚がしっくりくる。

スワンボートに乗って緑と2人でペダルを踏んでいると水のバシャバシャいう音がボートの中に響く。

キラキラした水辺とその周りの木々が煌めいて見える。風に乗って木々の香りがスワンボートに届くと故郷の山の事を思い出す。

そう、自分はもうすぐこの様な山の自然の中で、自分のパン作りに集中すると決めている。

家族と共に自分だけの絶対的なパン作りを追求するのだ。

そんな事を考えながら修造は律子を見つめた。

律子も修造の視線に気付き微笑み返した。

健康な修造の白目はいつも青く光り、輝いている。知り合った頃からよく修造の眼を覗き込んだものだ。

律子もまた、同じ所で修造が長い時間一緒に過ごす毎日が訪れるのを楽しみにしていた。

夕方

律子の父親の巌(いわお)と容子、妹のその子が待ち構えていた。

巌は厳しい表情で修造一家が来るのを待っていたが、孫達の顔を見た途端デレデレと目尻を下げた「みっちゃん、だいちゃーん、いらっしゃい」

「おじいちゃんおばあちゃん、その子ちゃんこんばんは」

「疲れたろう、さあお入り。みっちゃんの好きな御馳走も用意したよ」

孫に取り入る事に全力を注ぎ過ぎて修造は目に入らない。

いつもの事なのでその子に挨拶して中に入る。

大地はドタドタと長い廊下を走って突き当たりの壁にドン!と飛び蹴りを喰らわせた。

「こら、大地」

律子の実家が来られたら一大事だ。

流石に大地を抱き上げて「やっちゃダメ」と叱ると足をジタバタさせて飛び降り、巌の所に走って行ったので「大地!」と律子が叱りつけた。。

「元気でいいじゃないか、だいちゃんはエネルギーが有り余る程あるんだよ。まだ2歳なのにいい蹴りだったな!将来は格闘家になるかい?」巌は膝から背中によじ登る大地を見ながら言った。

修造は壁を調べてどうもないのでホッとした「もうすぐ空手道場に連れて行こうと思っています。緑も通っていますし」

「そうかそうか、空手を習うのかい?だいちゃんなら壁を突き破れるかも知れないよ」

「まただわ、お父さんはいつも子供達に甘すぎるわよ。大地の為にならないわ」と律子に叱られる。

「躾はお前達の仕事だろ、おじいちゃんはたまに会うんだからだいちゃんに嫌われたくないもんねぇ」と巌は膝に座って「うん」と頷く大地に笑顔を向けた。

修造は律子に叱られるから言わなかったが、ジャンプからインパクトまでの的確な蹴りの姿勢が確かに2歳児とは思えない『絶対才能あるな、早く道場に連れて行こう』

食事の後

庭で巌と容子が孫と花火を楽しむ姿を見ながら縁側に座って道の駅で買った北アルプスブルワリーのクラフトビールを飲んでいた。

律子が台所の片付けを終えて花火に参加したので、巌は修造の横に座った。

修造は黙ってビールをグラスに注いで渡した。

「空手はお前の実家の近くにある道場に通わせるつもりなのか」

「はい、そうするつもりです」

「そうか」

そのまま2人は何も話さずに終盤の線香花火が小さく弾けるのを見ていた。

「律子を頼むぞ」

「はい」

茂の方を向くと、暗い中に花火の赤い色がうっすら当たり、以前よりも歳をとり小さく見える巌の横顔があった。

ーーーー

9日間の休暇が終わり

修造が家族と過ごしてリフレッシュして帰って来た。

正直、皆修造が休んで忙しさに拍車が掛かっていたのでホッとした。

「みんな急に抜けてごめん」

明日から1周年記念イベントが始まる、皆準備をしている最中だった。

「大丈夫ですよ」と言いながら重戦車の様な修造の仕事ぶりに皆内心『ポイントの高すぎるシェフ』と思っていた。

しかしそこで修造は言わなくてもいい事を言ってしまう。

発酵カゴを沢山乗せた板を持って立花の横を通り過ぎた後で振り向き「立花さん、藤岡って知ってる?」と聞いた。

丁度ボールを抱えてホイッパーで生クリームを立てていた立花が振り向いた途端にボールを滑らせて下に落とした。ガシャーンと音がして、横にいた江川の顔にクリームがビチャっと飛んだ「きゃっ」慌てた江川は後ろにいた登野の足を踏んだ「痛い」手に持っていた天板が2枚ともバーンと下に落ちてラスクが散乱した。

ボールはクリームを撒き散らした後、グワングワンと音を立ててその場でグルグル回っていた。

大坂はボールをシンクに入れて、立花がホイッパーを手に持って立っているので脇に避けてタオルであちこち拭きながら修造に何か文句めいた事を口パクで伝えている。

惨状を見ながら修造は「ごめんみんな」と言った。

大坂は下を拭いた後ホイッパーを手から離して「休憩行きましょう」と言って2階に連れて行った。

江川が「僕も行くよう」と着替えに行こうとしたので「まあまあ、ほらこれで拭いたらいいでしょう」と皆に引き止められる。

2階の休憩室では

大坂はタオルを洗って立花の手や靴のクリームを拭いてやっていた。

「ごめんなさい、拭き掃除ありがとう。修造さんの口から意外な人の名前が出たから驚いて」

「藤岡って言うんですね」

「そう、もうあまり思い出さない。もう何年も経ってるの」

何からなのか聞かなくても分かってる。

「あの、さっきの事を見ていてこのままだといけない。俺はそう思いました。仕事と好きな人どちらを取るのかと言うとですが、もし振られたら仕事し辛くなると思います。でももっと大事な事なんです。この先の事なんです」

「ありがとう大坂君。この先、私将来は自分のお店を開きたいの。だからそれまでに沢山のことを勉強しなきゃ」立花は話の焦点をぼやかせた。

「俺も一緒に

その

働いても良いですか」

「今の仕事はどうするの」

「修造さんはわかってくれると思います。俺の立花さんに対する気持ち。俺は立花さんを何よりも大切で愛しています」

「私は大坂君にそんな風に言ってもらえる様な人間じゃ無いの」

「どういう意味ですか」

「私は嘘つきだから近寄っちゃダメ」

「確か前にも同じことを言ってましたね」

大坂は立花が藤岡と駅前の喫茶店でお別れした時に泣きながら「私は嘘つきだからこうして1人で歩いてるの」と言っていたのを思い出した。

「嘘つきなんじゃ無くて本当の事を言ってなかっただけでしょう。あの超絶イケメンを愛してるから本当の事がいえないのなら、俺みたいになんとも思ってない奴には言えるでしょう」

その言葉を聞いて立花は堰を切ったように涙が止まらなくなり大坂の胸に縋り付くのと大坂が抱き止めるのが同時になった。

「私胸に傷があるの、でも藤岡君にはどうしても言えなかった」

「もう昔の事ですよ。俺に言ってくれてありがとう。もう大丈夫、自分を苦しめるのとさよならしよう。俺と一緒にもっと自分に優しくしよう。時間が色んな傷を消してくれる」

立花は大坂の胸の中で小さく「うん」と頷いた。

おわり

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おまけ

風花

俺あと2年したら

製パン技術士二級の

資格試験受けるつもり

うん

そしたら俺と

うん、受かったらね

やっぱそうなる?

うん

私待ってるね

うん

50パン職人の修造 江川と修造シリーズ パン職人NO,1決定戦 Shapen your five senses

パン職人の修造 江川と修造シリーズ パン職人NO,1決定戦 Shapen your five senses

北風が吹いてリーベンアンドブロートの駐車場の落ち葉がクルクルと舞っている。

パンを買いに来たお客さん達はいつもならテラスでパンを食べるのだが最近は店内の暖かい喫茶コーナーが満員だ。

開店当初は不慣れだったスタッフも今では無駄の無い動きをしている。

パン粉(瀬戸川愛莉)はパンの品出しをしながら工房の江川と目が合うとお互いに手を振り合う。

それを見るたび大坂は俺も立花さんともう少し仲良くなりたいものだと羨ましい。大坂は何度か夜中華屋で食事を出来る様になったものの、仕事中目があってもそのまま目を逸らされる。まるでパン箱や製パンの機械でも見ている様に。

さて

2階の事務所ではパソコンの前に座って事務員兼パン職人の塚田が修造に話しかけた。

「この調子で繰り上げ返済していくと1年以内に借入金が払い終わりますね」

「だな、でもそろそろ通常の返済に戻すよ」

「え?戻す?何故ですか?やはり借入金があった方がいいとか?」

「そんなんじゃないよ」修造はこの店の自分が動く期間が意外と短いもんだと思った。

2年はすぐやってきそうだ

約束だ

約束とは

律子と約束した2年

自分に課した2年

江川を一人前にする2年

その前に江川にはやって貰う事がある。

「江川」

「はいなんですか」

「これからお前にはちょっとした試練を乗り越えて貰う事になる」

「えっ⁈な、何ですか試練って」江川は突然修造が試練と言ったのが怖くなり身を竦めながら聞いた「どうなるんですか僕」

「今はまだ言えない」

「ちょっとぐらい教えて下さいよう」

「何があっても俺を信じろ!そして自分を信じるんだ」

「えー」

「俺とお前の、男と男の約束だ」

「男と男の?」なんだか不思議な言葉を聞いた様な江川の表情を見て、場違いな事を言ったと気が付いた修造はバツが悪そうにした「ごめん」

その日の夕方

江川とパン粉は家でおでんをする為に買い物をして江川の住んでる笹目マンションに帰って来た。

2人で仲良くおでんを作って煮込みながら江川はパン粉に質問した「ねえ愛莉ちゃん、男と男の約束ってどういう意味なんだろう。女と女の約束も女と男の約束もあるでしょう?」

勿論この言葉の持つ昭和のニュアンスはわかってはいるが実感はない。

「死語じゃない?未だに使ってる人とかいるのね。でもなんか女と女の約束ってよっぽどな時じゃないと使ったらいけない気がするな」

「修造さんがね、僕に試練を乗り越えて貰う事になるって言ったんだ」

「試練?」

「何だろう、なんか怖いな」

パン粉にも男と男の約束事はピンとこなかった様だ。

「でも修造さんを信じろというのは正解だ」

次の日

事務所にいた修造の元にNNテレビの四角志蔵がやって来た。

「どうも」

「シェフ、何かいい企画があるそうで」

修造は四角を呼び出して2人何時間か話をした。

「成程ね、シェフ、これ企画会議に早速提案してみますが対戦相手はどうやって見つけますか?」

「それは考えてなかったな。パン選手権の時はどうやって見つけたんですか」?

「ある人物に頼んだんですよ、シェフ」

「ある人物」誰だろう、上層部の人物とかか?

その時四角は何か言いかけてやめた。

「おっと時間だ、決まり次第ご連絡します」

修造の考えた企画は取り上げられ何だか大袈裟な程大きく扱われる事になった。

大型の会場に仕切りが設けられてセットが作られた。そしてモニターがあちこちに付けられた。

その日

スタッフルームに修造、那須田、佐々木、大木、鳥井が集まった。

「うわ、おれ選手の方じゃなくて良かった」台本を見ながら那須田と佐々木が言った。

『ある人物』とやらが集めた20人の選手には先日招待状が送られていた。

それを受け取った者達は当日控室でスタッフから受け取ったコックコートに着替えて、荷物は全部ロッカーに仕舞う様に言われる。

その中に江川の姿があった。

江川も招待状を受け取り、修造に行くように言われていた。コックコートの左胸の所には『18』と書いてある。

総勢20人がきょろきょろしながら言われるがままに移動し、ひしめき合って暗い部屋に入った。

「なにここ」

「怖い」

「暗い」

「これから何があるんだよ」

と皆口々に言った後

全員が「あっ」と反対側の扉の上を見ながら言った。

暗い中電光掲示板が光る。

混捏(こんねつ)しろ 250gのバゲット10本分

皆が読み終わってざわつき出したタイミングで扉が開いた。

全員その向こうの部屋に移動する。

「あっ」

20台の作業台とミキサーの横に材料が置いてある。

江川は18番のテーブルの前に行った。

準強力小麦粉、今測られたかの温度の水、塩、インスタントドライイースト、モルトシロップが置いてある。

そして全員が「あっ」と驚いた。

「秤がない」

「秤無しでやるのかよ」20人全員が口々に言いながらそれぞれ材料を目分量で計り、ミキサーで生地を捏ね出した。

皆自分の作業に取り掛かっている。


江川は普段の自分の作業を思い出した。たまに良い感じにメモリぴったりに量れる時があるじゃないか。その時の感じを脳内に甦らせる。
全てが手探りのままミキサーに材料を入れる。
後は感覚で水を足しながら固さを調節した

その後生地をケースに入れてフロアタイムを取ろうとした「タイマーも無いのか」目分量も不安だし、分割までの時間も自分で計らないといけない。

待ってる間隣の者と話したり、自分一人で考える者もいた。

「よう」ポンと江川の肩を叩いた方を振り向いて驚く「あっ鷲羽君。フランスから帰ってたの?」

「休暇で帰ってたんだよ」

「僕パン学校の話聞きたいな」

「後でな江川」今はそれどころでは無い。

皆体内時計をフル活動させている最中だ。半透明のケースに入ってる生地の発酵具合で分割のタイミングを見ている。

その内江川はある事に気が付いた

「あ」

生地と書いてあるから生地を仕上げる所まででいいんだろうか

「でもホイロもオーブンも無いし」

江川は迷ったが、生地にパンチを入れてまたフロアタイムを取った。

かなり時間が経過していて不安だったが、生地の発酵具合を見て決めるしか無い。

焦って早めに分割をしだすものが出てきた。

「まだだ多分」江川は他に聞こえないように口に出した。

「もう少し緩んで来るのを待とう」

ケースの中で生地はゆっくりと発酵し始めどんどん膨らんで大きさが変わっていく。

辛抱辛抱

修造はカメラに映ったその様子を別室で見ながら

以前に送り主のわからないバゲットの本に挟んであったメモに

必ず一番良いポイントがやってくる その時をじっと待つ事だ

そう書いてあった

その事を思い出していた。

「まさにこれだな」

分割を済ませた者は出口から出て行った。

皆ざわざわして分割を始める者が出てきた。

そんな中、じっと生地が3倍の大きさになるのを待っていた。

「よし」やっと分割だ。

もはや半数が部屋から出ていた。

江川はケースから生地を出しフラットにした、そしてなるべく一発分割を心がける

その時250gで10本分と頭の中で復唱するが

「それは違うんだ」と思う

この分割した生地をこのまま置いて行っていいのかどうかもわからないけどでも250gって書いてあるけど250gじゃないんだ。

「修造さんを信じて」出口から出た。

「また真っ暗だ」早くに出た者はみんなこの暗い所で立って待っていたのか、そう思いながら狭い所で立っていると残りの者が1人2人と出て来て、20人揃ったところで後ろのドアが閉まった。

最後に入って来た男の声で「もう審査が始まってるよ、何人かの審査員が一人分ずつ計量していってる」と言っている。そうだ!やはり重さが重要なんだ、そう思った矢先に新たな電光掲示板が光った。

「番号だ」

「合格者の番号だ」

「俺何番だったっけ」など口々に聞こえる。

「18番だ」江川は自分の番号があったのでピリッと緊張した。

電光掲示板の下のドアが開いた。ここは合格者だけが入る感じなのか。

さっきと同じぐらいの大きさの部屋には台が10台並べられている。

「あっ」台の上にはもう出来上がった生地が並べられている。

「これは?」またしても部屋の奥にある電光掲示板を一斉に見た。

生地を同じ重さで100gに分割、できた者から出る

「生地を100gに?」きょろきょろした「また秤が無い!」

台の上には生地と手ごなとスケッパー、そして丸めた生地を入れるパン箱。

江川は分割しながら100gを手で計った。

できた者から先にと言う事は、他の者が分割し終えるより先にここから出なくちゃ

毎日やっていても中々出来るもんじゃ無い

それにこれって100gに分割して大きかったり小さかったりしたら最後には他の人と数が合わなくなるんじゃないかしら

製パンアンドロイドなら見ただけで全体の大きさ、持っただけで重さが分かるのに。

でたらめやって早く出ても意味がない

とにかく100gの目安を自分で決めてその通りにしなくちゃ

江川は生地を同じ大きさに横にカットしてそれを等分に分けた

隣の台にいる鷲羽は凄い速さで分割している

だが他の選手を気にしている余裕はない「慎重に速く」と自分に言い聞かせる。

最後の列の分割中

あ、これ全部で100個になるのかな、目算では98個だ、2つ足らないや

でも100個って引っかけかも知れない。

江川は迷った。

でも自分で100gと決めて分割した結果98個だったんだからこれでいいのかも

そう思って江川は記事を丸めて箱に入れ、蓋をして急いで出た。

「また真っ暗だ」その声を聞いて鷲羽が声をかけて来た。

「江川お前何個?」

「98だったんだ、100こだったのかも」

「そうか、迷うな」

ってことは鷲羽君も98だったのかな

だとしたらホッとするな

後ろからぞろぞろと残りの者が出てきた

「俺は100個」

「俺は110個」などとバラバラの数を皆口々に言っている。

さっきと同じぐらい待った。

きっと今頃集計してるんだろうな

僕どうなるのかな、修造さんは今何してるんだろう

その時「あっ」また5つ番号がでた

「18がある!」そして次の扉が開く

江川は急いで次の場所に行った、鷲羽が走って行ったからだ。

早く行って次のお題を確認したい。

5人が次の場所にたどり着いた、そこに置かれていた物は。

「あっ」

台が5つある、その横には各々大きなミキサーボールに生地が大量に入っているものが置かれている。

電光掲示板が光った

体力を使って3分以内にここを出よ

えっ僕こんなの3分以内に持てないよ

その瞬間江川の脳裏に※3分間のダンボール面接の事が浮かんだ

あの時も3分だったんだ、あの時修造さんは僕の事を現場処理能力のある優秀な奴って言ってくれたんだ。

江川は生地に食らいついた、だが重くて1回では無理だ。

少しづつカットして移していけばいけるがそれだと時間がかかる.

そうだ

江川は生地の下に手を入れてグッと持ち上げた

そうすると生地がパッとミキサーボールから離れて持ち上がる

ブザーが鳴りだした

それを生地が下がる前に勢いよくドオンと入れた。

「これをあと4回!」

あと1分!

江川は最後の生地を勢いよく入れてその時足首を捻ったがそのままの勢いで部屋からまろび出た。

「いたたた」江川の声を聞いて早くにそこに立っていた鷲羽が「転んだのか」と聞いてきた。

鷲羽は絶対に修造の出題に食らいついてくる江川に「お前は相変わらずだな」と言ってきたが以前の様に悪意はない、つい言ってしまうのだ、そしてまた負ける気がするがその気持ちを払拭する。鷲羽は背筋を伸ばして深呼吸をした。

「勝つのは俺だ」しかしよく持ち上げられたな、基礎体力と体幹が大事なんだ、細い奴でも体幹が強ければ持ち上げられる。そういえば北国で育ったって言ってたな「やっぱ北国の人って足腰が強いのか」

ところで残ったのは5人の中の誰なのか?それは5人共が思ってる事だ。

はあはあ言って横に立っている人物なのか?相当急いだのか息切れがひどい「重かった」と汗を拭きながら言っている感じがする。

「あっ」電光掲示板が光った「18番だ」信じられない。「俺の方が早かったのに」と声がしたがさっきみたいに急いで現状を把握する為に次に行きたい「ごめんね」と振り向いて行った後、江川は痛む足を庇い片足飛びで飛んで行った。

「いたたた」足がズキズキする「捻挫かな」

次の現場には3人が選ばれた、鷲羽と江川、そしてもう一人は多分息を切らしてた男だ、日に焼けた肌に黒髪の青年だった。スラリと足が長くて歯が白い。

青年は江川に知り合いに挨拶する様にニコッと笑った。「あっ」見たことある。

この人、パンロンドのお客さんだ。

しかしそんな事を考えている暇は無い、次に江川が驚いたのは大阪が立っていた事だ。

「江川さん」

「大阪君どうして」

「訳は後ですよ江川さん」

見ると鷲羽には園部が、もう一人の青年には同じ年ぐらいの女の子が組んでいた。

電光掲示板が光った

2人で50人分のタルテイーヌを仕上げて次へ

見ると台の上にあらゆる食材が並べられている『2人で』と書いてあるので一緒に作ると言う意味だ。

見るとさっきより少し広い室内の奥には食材を置くスペースをとってあり、2台の冷蔵ストッカーに肉やハム、魚介類と4台のテーブルの上に野菜、各調味料、洋酒などあらゆる食材が並べられている『2人で』と書いてあるので一緒に作ると言う意味だ。

「お題には2人でって書いてあるから自分で勝手にやるなって事かな」しかし話し合っていると時間が足りなくなってくる。できた者から出口に行かなければならない。2人はとりあえず食材の前に立つ。

「いたた」

「足をくじいたんですか」

「うんそうなんだ」

「そこから指示して下さい」

「うん、大阪君あれとこれと、、」

江川が食材の調達を頼んでる間、鷲羽と園部は息がピッタリで話もせずアイコンタクトだけで食材を決めて運び終わっていた。もう一組は寄り添って食材を選んで運び出した。

江川と大坂は時間の無い中細か具何をどう使うかを話し合い、ソースに関しては材料を運びながら大阪が提案したものを採用してする事にする。

食材を大慌てで集めた後、必死になってソースの量を計算した。

慣れて無い場所でのソースを50人分作って最後足りなくなるのは本当に困る、おまけに勝てる物を作らなければいけない。

ソースの次は具材の切り出しを2人で始める。

「大坂君ソースを塗って、僕がトッピングするからどんどん手前と入れ替えて」

「はい」江川は大急ぎで食材を切りながらどんどん大坂とトッピングしていった。

「早く綺麗に!」

後の2組が終盤に差し掛かった時女の子が指を怪我した「いたーい」「咲希大丈夫?はよ手当せな」そう言うと青年はタオルを指に巻いた。そして咲希を端に避けて驚く速さで盛り付け出した。

江川は手を動かしながら青年の会話を聞いて思い出した事があった「咲希ちゃん?そうだ、あの子高校生の時パンロンドでバイトしていたんだ、あの男の子はその時お客さんとして通っていたんだった」

鷲羽たちが終盤に差し掛かって来た時、大坂も作業に慣れてきて2人してどんどん追い上げていった。「できた!」急いで片付けて大坂の背中に飛び乗った「走ってー!」と出口を指さしたのと同時に大坂が「うおーーーっ」と走り出した。

その時俊敏そうなあの青年達が咲希を抱えて先に滑り込んだ。

「あっ」

大坂は江川を背負ったまま滑り込んだが間一髪間に合わなかった。

「3位になっちゃいましたね、江川さん」

「うん、頑張ってくれてありがとうね大坂君」

6人はその場でしばらく待たされた。

「咲希ちゃん久しぶり。元気だった?」

「あ!江川さんだあ。早太郎、パンロンドの江川さんだよ」

「佐久間早太郎です、お久しぶりです」

挨拶しあう4人を見て鷲羽が「江川、この人佐久間シェフの息子さんだよ」と言った。

「えっそうだったの」佐久間シェフと言えばパン王者選手権の時に修造が戦った超有名ブーランジェリーサクマのオーナーだ。

「なあ咲希ちゃんさっきの怪我大丈夫やった?」

「うん早太郎の心配症さん、ちょっと指の先を切っただけだから大丈夫」

「だって咲希に何かあったら俺どうしたらいいねん」

「何言ってるのうふふ」

急に2人の世界に入り込んだのをみて鷲羽が「何しに来たんだよ」と呆れた様に言った。

その時電光掲示板が光る

全員で移動

突然扉が開いた「今度はなんだ」鷲羽と園部は確認しようといち早く扉の向こうに行った。「行こう咲希ちゃん」と早太郎達も続く。

「俺達もこのドアから出ていいんですかね?」大坂は江川をおんぶしたまま「ひえ~」と怖がっていた。「何がおこるの?」江川もキョロキョロした。

広いスタジオに観客席があり、そこに50人程の老若男女が座って拍手して6人を出迎えた。その前には審査委員席があり、知り合いのシェフ達が座っていた。

そのまた前には広いスペースがあり、テーブルが置かれている。

その反対側に修造が立っていて6人に手招きした。

6人は緊張の面持ちで横一列に並んで立った。

江川は痛い方の足を少しあげたまま大坂の腕に掴まり立っていた。

突然四方に設けられた大きなモニターに文字が現れた。

「五感を研ぎ澄ませ!パン職人頂上決定戦!」それを見ながら売れっ子司会の安藤良昌が大きな声を張り上げた。

「観客の皆さん、テレビをご覧の皆さんこんばんはNNテレビが総力を挙げてお送りするパン職人頂上決定戦のお時間が始まりました!パン職人の皆さんには何時間も前から戦いを繰り広げて頂いておりましたが、その中から選ばれた3人のシェフと助手の3人に並んで頂いています」

画面にはそれぞれの経歴と名前が流れた。

江川はそれを見ながら「これって誰が勝ち上がってくるかわからないのに20人と助手の20人分が用意されていたの?」と口をポカンと開けたまま見ていたが自分の顔が映し出されて慌てて口を閉じた。

「それではこれまでの試合の様子を順にご覧頂きましょう」

まず1番目の試合では、各選手が生地を作って分割している所が映し出された、その後江川達が出て行ったその後、那須田と佐々木が生地を計量している所が映し出された。

画面にその時の3人の点数が出た。

鷲羽が10点、江川が10点、佐久間が9点

あ、これってまだ勝敗が決まった訳じゃないんだ、これから点数が出るんだ。

もう負けたと思っていた江川はほっとした。

安藤が内訳を説明した「この時の10人の合格者は全員※焼減率を計算していました、私もよくわかっておりませんが、バゲットの焼減率が約22%として計算して焼き上がりが250gになるように計算した者だけが合格だそうです。皆さんの作ったパンは北麦パンの佐々木シェフが成形、焼成してくれましたーっ!」そういって手で指した方から佐々木が200本程のバゲットを台に乗せて運んできた。

今佐々木が運んで来たそれが目の前にある、焼き立てのバゲットだ。

江川は自分の読みが合っていてまたほっとした。

自分の読みが合っていてまたほっとした。

「次に2番目の試合の説明を行いまーす。秤無しで100g分割は五感を研ぎ澄まして手を動かす、正確さとスピードを競い合うのです!正解は98個!中には100個ちょうどじゃないかと100個にするために分割したものから少しずつ足した選手もいましたが、あー残念!惜しかったですねえ」

点数がでた。

鷲羽10点、江川10点、佐久間10点

「こちら文句無く勝ち上がってきた皆さんという事で満点です!流石です」

その時の生地は那須田が成形して凄い量の焼き立てを運んで来た。

圧巻のバゲットとブールを見てワーッと満場の拍手が沸き起こった。

「こちら皆さんへのお土産になっておりますのでお帰りには忘れずにお持ち下さい!」と、安藤がパンを指してから説明を続けた「さて、1回目は経験値、2回目は正確さとすると3回目は体力勝負です」

モニターに各選手が生地をケースに移している所が次々に映されていく。

「いやいや凄い迫力ですね、こちらの判定は時間内での生地の移し方もそうですが、ボールに生地が残っていなかった方が合格だったそうです。

江川はそれを聞いて「そうか、普段はナイフでカットしながら生地を移すけど今回は時間がないから手に巻きつけるように全体を持ち上げたんだ、その後カードでひと回し生地を取って行ったのが良かったんだ」そう思っていると、点数が出た。

鷲羽10点、江川6点、佐久間8点

今度はベッカライボーゲルネストの鳥井が食パンを焼きあげて来た。

会場にそれぞれのパンのいい香りがする。自分たちが持って帰るので拍手にも熱が篭る。

スタッフが手分けしてお土産のパンを袋に入れだした。

ーーーー

ところで

大坂は何日か前に修造から試合会場で江川の手助けをする様に言われていて、なんだか凄く気持ちが高揚していた。

一大事だ

人生の大勝負だ

実際自分が失敗して江川の足を引っ張るわけにはいかない。

そこで江川に黙って色々と練習を重ねていたが中々上手くいかない。

その日立花は仕事終わりにいつもの町中華屋に来ていた。

食べ終えた頃、大坂が入って来た。「大坂君」「あ、立花さん」

「どうしたの?なんだか疲れてない?」

「それが、、内緒だけど修造さんから『パン職人NO.1決定戦』って番組で江川さんが勝ち進んだら俺が助手をする事になって」

「何の助手をするの?」

「タルテイーヌらしいんです。だから俺野菜の切り出しとか練習してるんですが、一体どんな物を作るのか検討もつかなくて」

「まだ何を作るのかは分からないのね」

「はい、現場で作ると思います。江川さんも何も知らされないで出場するんです」

「じゃあタルテイーヌの作業を一から練習しましょうよ。まずは切り出しやソース作りからね」

「えっ?しましょうよって事は立花さんが一緒にって事?」

「良いわよ、以前レストランで働いてたから江川さんの役に立てるかも」

江川さん?と思ったが喜んで手伝ってもらう事に。

急に食欲が湧いてきて運ばれてきたチャーハンをモリモリ食べている大坂を立花は微笑ましい目で見ていた。

次の日から就業後に2人でいろんな調理の練習を開始する。

「ソースってどんなのがありますかね」とパプリカを同じ太さにカットする練習をしながら聞いた。

「クリームチーズにナッツを使ったソースとか、アボガドやリコッタチーズベースの物はどうかしら。フルーツベースもいいわね」と何種類かのソースを2人で練習する。

「タルテイーヌってね塗ったものって言う意味があってね、そもそもこれに使うのは粘性っていうか塗りやすい物を使うの。だからソースもパンに水分が染み込みすぎたり乗りにくかったりしない物を選ぶのよ」

「はい」

「今日は煮詰める練習をしましょう。水分を飛ばして濃厚な風味を出すの」

そう言いながら立花の脳裏にかって同じ職場で藤岡に同じように仕事を教えていた時の事が蘇り、慌てて蓋をする。一瞬目を瞑った後、手鍋を木杓子でかき混ぜる手を早めた。

次の日も切り出しやソース作りの練習する。

「今日はフルーツソースを練習してみましょう」

「甘いんですか」

「香りが良くて肉料理にも合うのよ。オレンジやキウイ、りんご、レモンとかの色んなものがあるわ」

「江川さんはどんなものを作るんですかね。勝ち進んだらの話ですけど」

「先にパターンを考えておくのも良いわね、食材に合わせてソースを提案したら良いかも」

「それは良いですね、俺パターンを考えてみます」

ーーーー

そして試合当日

大坂はタルテイーヌの食材を前にして園部、大坂、森岡や他の助手は自分のペアを組む選手が来るまで20人で待っていたがどんどん脱落した選手の助手達ががっかりして帰っていく中心細かった。

園部はじっと黙ったままだったが食材の方をじっと見ているので「あ、何処に何があるのか覚えてるのかな?」と思い自分も順番に食材を見ていった。

とうとう選手の鷲羽と佐久間が入ってきた!そして3番目に足を引きずって入って来た江川を見て心強かった「江川さん」「大坂君どうして」

とにかく選手が来たら早くタルテイーヌを仕上げる様にと修造に言われていたので「話は後ですよ江川さん」と江川を促した。

具材を選んでソースを作って捻挫した足を痛がる江川と作ったものがこれだ

江川らしい華やかな色合いのタルテイーヌだ

材料選びの時に江川がローストポークを選んだので、大坂はここぞとばかりにフルーツソースを推した。

江川がポークとソースの組み合わせを元にトッピングを考えたので急いで掻き集めて準備を始めた。

まずソースはフォンドボーにオレンジの果汁を入れて少し焦がす。ハチミツとと洋酒を入れて煮詰めた後バターを最後に入れる。

カンパーニュに薄くクリームチーズを薄く塗りローストポークの薄切りと、後はカラフルさを出す為に四角くカットした紫キャベツ、黄色いミニトマト、赤いビーツ、を配しソースを振る。トッピングにデイルとカットしたオレンジで華やかさを添える。

そして鷲羽は

濃厚なオランデーズソース(卵・バター・レモン汁)に海老のポシェ(ボイル)を使ったもので、カンパーニュに海老を並べ、両側にバターで炒めたエシャロット、茹でたうずらの輪切り、栗のみじん切り、そしてその上にハーブとカッテージチーズを散らした。フランスのカフェで食べたものを組み合わせた

最後に佐久間は薄切りのラムショートロインハムを使った

ソースはハリッサソース

チュニジア発祥のソースでトマト、香味野菜、オリーブオイル、塩、スパイス。それにマヨネーズを少し加えてまろやかにしてレモン果汁を少し加えてパンに塗った後、ラムショートロインハム、紫玉ねぎ、ズッキーニ、パプリカ、キャロットラペの上にヨーグルトソースを振りかけてパクチーを乗せた。個性を出したものになった。

作ったパンは素早く選手別に並べられて50人の観客の審査が始まった。タルテイーヌを3個とも味見して3、2、1と点数をつけていく。

勿論美味しかった物が3だ。

審査の間3組は立ってその様子をじっと見ていた。

自分達の勝負がかかっている。

人々が自分の考えて作ったパンをどんな顔をして食べてるのかを。

「どの人も美味しそうな顔してるな」

「俺のが1番美味しいって」

「私達が作ったものよね、早太郎」

江川は不安だったが司会の横にいる修造を見ていた。

修造さんが俺を信じろって言ったんだ。

僕今日は修造さんが教えてくれた事を思い出しながらここまで進んできたんだからこれでいいよね。

審査員達に紛れて御馴染み大木と鳥井も試食をしていたがそこに佐々木、那須田も集まって来た、そしてその後ろにいた背の高い男に皆話しかけていた。那須田と佐々木はその男を「先生」と呼んでいた。前回の「パン王者選手権」同様デイレクターの四角に頼まれてこの男が全選手をアテンドしていたのだ。大木は後に立っていたその男の方を向いて「隠れてんじゃねえよ」と言っていた。

「ふふふ良いじゃない、ライトのおかげでこっちからはよく見えるんだから」そう言ってニヤリと笑った。

そう、ライトに照らされて6人はとうとう結果発表を見る。

今までの合計は

鷲羽 30点

江川 26点

佐久間 27点

そこに投票者の点数が1人1点で加算される。

突然大きな音楽が鳴って安藤が雄叫びをあげた

「さあーっいよいよ集計結果が出ましたーーっ!結果発表ーーっ」

デレデレデレデレデレドーーーン!!!

鷲羽 46点

江川 45点

佐久間 42点

「やった!俺の!俺様の勝ちだ!初めてお前にかったぞ江川!これが俺の実力だ!凄いな俺!やっぱフランスで修行して来たおかげだな。この調子で約束通り大木シェフの所に帰って園部と世界大会を目指すぞ」

ハハハハと笑う鷲羽の声を聞いて大坂が「よくしゃべりますね」と江川に言った。

江川は苦笑いしたが鷲羽と園部に向かって言った「2人とも頑張ってね、ねえフランスの学校はどうだったの」

「それは」と言いかけて鷲羽は急に言うのを止めた「いずれまたお前と戦うんだ、お前には教えてやらん!」と首に手を当ててから大きなジェスチャーでシッシッと追い払う仕草をしてきた。

「なんだよぅ鷲羽君のケチ」悔しそうな江川に「フン!またな、江川」そう言って鷲羽は園部と2人で去って行った。

収録も終わり、パンのお土産がいっぱい入ったバッグをぶら下げて帰る観客の真ん中を歩きながら「鷲羽はきっと世界を目指せるな」と言いながら大木は背の高い男に聞いた「おいお前は誰に投票した?」

「うん、ハチミツと洋酒の量が正解だったよね」

ーーーー

江川は修造に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

首を項垂れて次の日出社した。

「江川さんテレビ見ましたよ、あれ作って下さいよ」

「美味しそうだった」

「お疲れ様でした」など工房のみんなが囲んで声を掛けてくれたが心は晴れない。

大坂だけが立花に「フルーツソースが上手くいって良かったわね」と言われて有頂天になった。

江川は修造に会うために事務所のある2階への階段を足取り重く登った。

「修造さん」

「江川、昨日はお疲れさん」

「僕負けちゃいました」

「江川、秤なしでちゃんと生地ができた。ちゃんと98分割にできた。生地を取り出せた。美味いタルテイーヌが作れた。お前のタルテイーヌが1位だった。なんか文句あるか」

それを聞いて江川のモヤモヤは吹き飛んだ。

「1位は鷲羽にプレゼントしてやれ」

おわり

タルテイーヌはフランス式オープンサンドイッチ、焼き込みやスモーブロー風など様々なトッピングやパンを楽しめます。今回は3組の個性に合わせてトッピングを考えてみました。イラストは高さを陰影で出すのに乗算とハイライトを使いました。

パン屋さんはパンを作る時に沢山の事を考えています、水の量、温度、湿度、発酵具合、他の生地との時間の兼ね合い、人の配置、休憩時間の采配、お客さんの出入りとパンの製造量の増減、仕入れと消耗品の管理、支払い、シフトの事、事務の事、店のSNS、そして常に人間関係が付きまといます。毎日取り組んでいくうちに徐々に慣れてきて出来る事が分かってきたり他の人にやって貰ったりして日々を乗り切っていくのです。修造は江川という唯一無二の存在に助けられていくうちにある決心をします。そのお話はもう少し後になります。

焼減率とは(分割重量ー焼いた後のパンの重さ)÷分割重量×100

※焼減率=焼成時に(パンを焼くと時に)水分が蒸発するなどしてパンの重量が減る率の事。バゲットの焼減率は22%、計算の方法は(焼く前の生地の重さ−焼いた後のパンの重量)÷焼く前の生地の重さ×100

このお話では焼き上がった時が250gでというお題だったので、焼減率を計算した者の中からより正確だった者が勝ちだった。

250×1.22=305

一般にバゲットの重さは300〜400g
フランスでは350gと決まっている。
計算上は287gに焼き上がるのが理想。
ここでは分かりやすいように250gに。

※北海道の北麦パンの佐々木は修造がパン職人の選考会で戦った相手
新潟のフーランジェリータカユキの那須田は修造の憧れのシェフだ
修造は知らなかったがある人物によって皆裏で繋がっている。

48パン職人の修造 江川と修造シリーズ some future

パン職人の修造 江川と修造シリーズ some future

「修造パンロンドのみんなはどう?」

早番で早く帰ってきた修造に妻の律子が話しかけた。

「花嶋由梨って新入社員が入って来たんだ。丁度探そうとしてた所だったんでタイミングよかったんだよ」

「そうなの」

「今みんなで仕事を教えてるよ。今日は江川と一緒に生地の手ゴネをしてた」

「どんな人?」

「えーと藤岡の紹介で入ってきたんだよ。今度お店に来たら紹介するね」

と言いながら修造は6ヶ月児の大地とうつ伏せになって向かい合った。

「大地これどうぞ〜」と言ってオモチャを渡そうとする。

「ほら、こっちだよ」大地はオモチャを取ろうとニコニコしながらハイハイでやってくる。

すると修造は一周して大地に追いつきちょんちょんとつつくと大地が振り向いて大喜びして座ってパチパチして笑う。

追いかけて来るとわかっていて振り向きながらニコニコと急いでハイハイするのだ。大地はこの遊びが大のお気に入りで、2人の楽しいひと時だ。

そのあと、大地は座って修造が足の間にポンと投げたボールを可愛い手で掴んで「ダ〜」と言って投げ返してくる「大地上手上手」これが今修造の最も嬉しい瞬間だ。

「大地可愛い可愛い〜」と目を細めて大地に話しかけた。

「律子ホラ見て!歯が生えてきたよ」

律子も「大地歯が生えてきたね」と言って大地の顔をのぞいて笑った。

本当は律子は知っていたが、修造を嬉しい第一発見者にしてあげる為に黙っていた。

「ふふふ。可愛い」

「ただいま〜」小学2年になった長女が学校から帰ってきた。

「あ!おかえり緑」

「お父さんおやつ食べたら宿題するから待っててね」

「うん」

夕方は学校から帰ってきた長女の緑と3人で東南スーパーに買い物に行く。

「今日空手道場の日だね、お母さんと大地も見に来てくれるかなあ」

「一緒に行きたいね」

「うん」

緑は修造と繋いだ手をゆらゆら揺らしながら「ねえ、お父さん、私達って仲良しよね」と言った。

「勿論だよ。超仲良し」

いつもの坂道で夕焼けの光に照らされて子供達の成長とこれからの未来に想いを馳せる修造だった。

ーーーー

次の日

修造は藤岡とハート型の※レープクーヘンを作っていた。

オブラートに生地を乗せて焼くとスパイスの香りが辺りに立ち込める。

チョコを塗りながら「乾いたらこれにアイシングしてみよう。すごく日持ちがして、袋に入れて紐で吊るして並べると可愛いんだよ」

「楽しみです」

「藤岡は吸収率が高いから教えがいがあるよ」

「ありがとうございます。もっと色々教えて下さいね」

「うん」

とそこへ、律子が大地と緑を連れて来た。

律子の実家から野菜が送られて来たから奥さんに持って来たのだ。

「修ちゃん、律子さん達が来たわよ〜」奥さんがお店から修造を呼んだ。

「あ!律子!」

修造は作業中の顔つきとはガラリと変わって嬉しそうに飛んで行った。

「凄いハッピーファミリーなんですね」

それを見た由梨が驚いて風花に言った。

「そうなのよ。普段強面なのに律子さんの前に行くとニコニコね」

由梨が見ていると奥さんが手招きしたのでそちらに行く

「由梨ちゃん、この人が修造さんの奥さんよ。そして緑ちゃんと大地くん」

「初めまして花嶋由梨です」

「律子です。お仕事頑張ってね」

「はい、ありがとうございます」

3人が帰るのを見送った後由梨は結婚という言葉についてイメージしてみた。

自分もいつか結婚したり子供ができたりするのかしら。そして目の前のハッピーファミリーの様な暮らしをするのかしら。

ちょっとだけ藤岡を見てみた。

そしてこの間聞いた前の職場の先輩の事を思い出した。

「あ」

そうだった。全然遠い道のりだったんだった。

すぐそこにいるのに遠い。

ーーーー

次の日

由梨は仕事が休みの日なので東南駅の横の巨大ショッピングモールで服屋巡りをしているとペビーカーで大地を連れた律子に会った。

「こんにちは。お買い物ですか」

「あ、由梨ちゃん。こんにちは、そうなの。パンロンドはどう?とても働きやすい所でしょう?」

「はい、本当に。皆さんに優しくして頂いています」

「私も以前パンロンドで働いてたのよ。5年間工場にいたの」

「そうなんですね、、あの」

「なあに?」

「修造さんとはどうやって知り合ったんですか?」

「私は始めは販売員として働いていたのよ」

「えっそうなんですか?」

「そう初日にね、工場の奥のミキサーの所に修造がいてね、私が挨拶したの」

律子は当時の事を思い出して話しだした。

それはこんな風だった。

働き始めた初日。

奥さんが案内してくれて、奥からお店に向かって歩いて行って順番に挨拶していったの。工場の奥のミキサーの所に修造がいてね、私が挨拶したの

その時初めて目があって私を見て修造が思った事が私にはわかったの。

ドキッとして顔が真っ赤になったから私もドキッとしちゃった。

その後ね、何度も何度も目が合うのに全然話しかけてこなくてね。

もう多分話すことはないんだわって思ってた。

そんな時に事件が起こったわ。

突然ナイフを持った痩せた男が入って来て、奥に入って行こうとして私を突き飛ばした。後で聞いたんだけど、その人はお店とトラブルになった人らしくてね、大きい声を出してたし、めちゃくちゃ怖かった。そしたら修造が血相変えて飛んできてオーブンの前まで来ていた男の腕を掴んで脇腹を蹴って倒した。

揉み合ってるうちにナイフを掴んでしまって床が修造の血で一杯になってこっちが卒倒しそうだった。

その時ね、私この人から離れないって思ったの。

それから病院に一緒に行って

毎日手当に行ったのよ。フフフ。

そしてすぐに一緒に住みだしたの。

今も修造の手にはその時の跡が残ってる。

でもね

私は修造が大好きだったのに、、、

結婚して緑が生まれて間もなくして急にドイツに行くって言い出したわ。

「パンの修行の為に」由梨が合いの手を入れた。

「そう!凄く反対したわ。緑も小さかったし。

でも目の奥に覚悟が段々できてきて、絶対行くんだわって悟った。

5年間ずっと修造が帰ってくるのを待ってたの。

パンロンドで働きながら長女の緑を保育園に預けて

仕事が終わったら2人で帰ってまた次の朝が来る。

修造が大好きで会いたくて、でも意地を張ってメールの返信もしなかった。

ずっと後悔してるのよ。

追いかけていけば良かった

一緒にドイツで暮らせばよかった。

だからこれからずーっと一緒にいようと思ってるの」

由梨は律子が力を込めて言ったずーっとに何か意味があるのかと思って見ていた。

「はい」

「私達ね、山の上でパン屋さんをするの。修造がパンを作って私が販売して修造を支えるの。修造がパンを作ってる所がお客様にも見えるようにしようかな」

「素敵」

由梨は自分と藤岡の未来をちょっと夢見てみた。

「結婚って良いですね」

「ホント毎日が楽しいわ」

その姿は堂々としていて自信に満ち溢れ輝いてるように見えた。

子供達から必要とされる存在で、夫から絶対的に愛されている証拠のようにも見えた。

ーーーー

次の週

修造一家は法事で山の上の実家に帰っていた。

修造の家がある山の上半分は母方の先祖代々のものだ。

今は誰もすんでいないので、結構埃が溜まっている。

掃除しながら「やっぱすんでこその家だ。とはいえ元々ボロ屋だからな」と見渡した。

修造の実家は山の上にある平屋で、玄関の前は平らで広場の様になっている。

入り口の入って直ぐの所は6畳ぐらいの土間になっていて、左には部屋が2つぐらいの大きさの板張りの部屋がある。入り口の奥は台所とその奥に風呂トイレ洗面台。建物の右手には部屋が3つ。

母親の法事中、無骨で無口な修造に比べてしっかり者の律子に皆感心した「あんなできた嫁ばよく見つかったもんたいね」と山の中腹に住む母親の妹夫婦が囁き合った。

皆帰った後、家族4人だけになった。緑は珍しい板張りの広い部屋をゴロゴロ転がって、大地はそれをハイハイで追いかけている。

「ねぇ修造。ここにオーブンを置きましょうよ」と左の部屋で両手を広げて言った。「ここに工房」そして入口の土間を指差して「ここがショーケース」こっちに棚を置いてこっちに台を置いて。と律子は張り切って言った。

「裏に畑を作って野菜を作るわ、修造はそれを使ってパンを作ってね」信州の実家が農家の律子は自慢げに言った。

「素晴らしいなあ。いい考えだよ律子」

今は昼間は別々だけどここなら昼夜なく同じ空間で一緒に過ごす事ができる。

俺の俺だけの工房で俺のパン作りをして、最愛の律子と毎日パン作りをここで。

二人は出会った頃の様に見つめ合った。

ここにいて2人で同じものを見て同じ様に感じて毎日を過ごして2人で歳をとろう。

ここら辺の湧き水は潤沢な硬水よりの水でパン作りに適してる。遠くに見える山の周りは牧場と農家が沢山あって良い材料が手に入る。

山を降りた所にある小麦農家と話して粉を卸して貰おう。

修造の夢はギラギラと膨らみ胸いっぱいになった。

外に出れば目の前は林の続く斜面でその下には広大な景色が広がり、その向こうはまた山が見える。その向こうは空だ。夕焼けが真っ赤になり何もかも赤く染まる。

「綺麗だわ」

律子はこの夕焼けを見ていつも感動している。

入り口は南向きだが工房を作る予定の居間は西に向いていて夕方は西日がきつそうだ。なので庭にベランダを作って長めの庇(ひさし)を作ることにしよう。ここに薪窯を作って外に薪の置くところを作って。など随分具体的になってきた。

初めて律子をここに連れて来た時に、美しい眺めに感動した律子はこの場所が気に入り、ここでパン屋さんをしようとどちらも言い出した。それ以来、いつかはここでと言う話は度々出ていたのだ。

修造は納屋に伐採用の鉈(なた)を取りに行った、すると便利な折込式のこぎりと充電式の電動ノコが見つかる、母親が使っていたのだろうか?にしては大型で結構新しい。不思議に思いながらそれを持って裏庭から斜面になって続く林に入り、枝を切り落として来た。

不思議な事に長い間ほったらかしていたのに周りの雑草や蔦はそこそこ手入れされている。さっきの親戚のおじさんが見かねてやったのだろうか。

「誰が手入れしてくれてるんだろう」そう独り言を言いながら鉈で細長く切っていく。2年後に使う薪窯様の薪を準備して工房ができるであろう場所に大量に積み上げた。

「これだけあれば開店当初の分はいけるだろう」

よく乾燥させないと木の芯に水分が残って燃えづらい。切って断面を空気に晒し、長く乾燥させた方がいい。

「2年間大人しくしといてくれよ」

ーーーー

パンロンドに戻った修造は神妙な面持ちで親方の前に立って話しかけた。

「親方!俺、、」

うわ、ついに来たこの時が。

親方は修造の表情を見て悟った。

「修造、俺はお前に感謝しかしてないよ。お別れは寂しいけどお前ならどこででもなんでもやれる。応援してるからな」

「ありがとうございます」

「それとさ、あいつきっとついていくんだろ?」親方は由梨と一緒に楽しそうに分割をしている江川を見た。

「親方、その事なんですが。俺と江川は店作りをするつもりです。でも俺、その後田舎に帰って一人で工房に籠るつもりです。それで江川には今までの感謝を込めて俺からのプレゼントを徐々に持たせようと思うんです」

「なるほどね。お前は本当にギブアンドテイクの男だよ。お前の思う通りにやってみろよ」

「はい」

「しばらくはまだ準備ができるまではうちにいるんだろ?」

「はい、すみません、勝手ばかりで。よろしくお願いします」

親方との話し合いで休みの日を平日に週2日にして貰った。手続きに動くなら平日の方が良いからだ。

家に帰って律子に親方との話を説明して、「あと2年待って欲しい。必ずその期間に開店資金を作ってみせるから」と頼んだ。

修造は律子に2度目の土下座をした。

「そんな格好やめてよ修造ったら、わかったわ。ダメって言ったらまたどこかに行っちゃうんでしょう?」

「そんな訳ないよ。山の上に行ったら律子と2人の時を増やす様に誓うよ」

その夜布団の中で修造は色々な計算が止まらなかった。

場所、開店資金、機械の購入などパン屋の開店は他の店の開店より結構かかるなんだろうなあ。

基嶋機械の営業の後藤さんにも聞いてみようかな。あの人なら何でも知っていそうだし。

あとは立地だな。。駅前の不動産屋さんに相談してみよう。

「どんな場所が良いかなあ」

ーーーー

次の日

先輩の佐久山と広巻、後輩の杉本が声を掛けてきた。

「修造、とうとう行っちまうんだって?寂しくなるよ。元気で頑張ってな」

「俺達は親方と一緒にまだまだ頑張るよ」

「勝手ばかりしてすみませんでした。パンロンドをよろしくお願いします」

「離れてても俺と修造さんとは兄弟っすよ!」

「わかったよ杉本。ありがとうな、がんばって次の技術士の試験も受けてくれよな」

「わっかりました~」

「江川、元気でな」

「はい、僕修造さんに付いて行っちゃいますけど僕がいないとみんな寂しくなっちゃいますよね」

「自分で言うなよ」

アハハと笑うみんなの会話を聞きながら藤岡は近くにいた由梨に言うともなしに呟いた。

「俺は修造さんの去った後もパンロンドを守り続けたい。その時はいつも修造さんの背中を思い出すだろう」

「はい」

修造を見ながらそう言った藤岡に

「修造さんって朝焼けに輝く山の様な存在みたいなものなんですね」と、多分藤岡が思い描いている修造のイメージを言ってみた。

「そうなんだ。赤々と燃えている」藤岡は由梨の詩的でピッタリな言い方にちょっと感動して微笑んだ。

由梨は藤岡が例の『前職の先輩』の事もそんな風に思ってたのか気になる。

パン屋さん巡りをしていって、いつかその人が見つかったらどうするのかしら。藤岡さんはまだその時の気持ちのままなのかしら。

ーーーー

由梨の両親は東南商店街で無事着物屋『花装』を新装開店し、今は近所の賃貸マンションで3人で暮らしている。

パンロンドから戻った由梨は自室に籠りパソコンで藤岡の動画を探した。

確かパン屋への行き道を説明して、パンを買ったあと公園で紹介をするんだったわ。

結構色んな人がパン屋さんを巡ってる動画を出してるけどどれなんだろう?

パン屋さん巡りの動画は沢山あって見つからない。

そうだ、ウンタービルクを紹介してるのを探せば良いんだわ。

由梨は以前住んでいた町のパン屋ベッカライウンタービルクの動画を探していった。

その店のお知らせも見てみる。

「あ」

お店がホームページに貼り付けていた映像にテロップと曲だけの動画を見つけた。

「これかも」

各駅電車を降りた所からウンタービルク迄の道のりを動画とテロップで説明していて、2人が出会った川が映っている。

映っているパンの中にはあのヘルンヒェンとSchweinsohr(シュヴァンスオアー)もあった!

「間違いない。これなんだわ」

動画の名前は『各駅停車 パン屋探し』電車好きとパン好きが見るのか登録者数は多い。

一見普通の名前そうだが、何故こんな名前なのか由梨だけが知っている。

『各駅停車 パン屋探し』は、他にも沢山の店の動画があった。由梨はその動画を観ながら「これ、藤岡さんが撮ったんだ」と藤岡の表情や仕草を思い出して言った。

駅に着いて、歩いてパン屋さんの工場を覗いて、先輩がいるのか確かめたんだわ。

そう思うとなんだか切ない。

もし先輩が見つかったらどうするんだろうか。

何か声をかけるのか。

『あ、藤岡君久しぶり、元気にしてた?』

そう言われたら理想的な言葉をかけるのかしら「お久しぶりです。またお会いできて良かった」

それとも

「探しました、なんで俺を置いて行ったんですか。もう離れないで下さい」

とか

返事は分からない。

会ってみないと分からないんだわ。

だから探してる。

その夜

由梨は夢を見た

始めはとても嫌な夢だった

夢の中の由梨は随分歳をとっていて1人で料理屋に入る。1番奥のカウンターの席に座って食事をしていた。会計を済ませようと席を立つと自分が通った所の人は全員由梨に悪意のある目を向けた。

全員が見張っている。そして由梨にひどい言葉をぶつけた。由梨は逃げ出そうとすると手を引いて一緒に歩いてくれる人がいた。「もう大丈夫心配ないよ」とても優しい声でそう言ったので顔を見ると藤岡だった。

そこで目が覚めて

藤岡から離れたくないと

強く思う

もし出会えなかったら

私はあの夢の通りの生活を送る事になってたわ。

それとも本当に河に飛び込んでいたかもしれない。

藤岡さん

ーーーー

由梨と藤岡は二人でベルリーナという揚げ菓子にジャムを詰めていた。

由梨はそれを手早くトレーに並べながら思い切って言ってみた。

「あの、今度私もパン屋さん巡りについて行っても良いですか?」

「え」

「いいけど」

「助手って事かな?」

「あ!はい!そうです助手として」

藤岡は何か考えている様だった。

作業中沈黙が続き

でも最後にはこう言った。

「俺は今度の休みに動画を撮りに行こうと思ってる、由梨の行ってみたいパン屋さんはある?」

「はい、他の動画で美味しそうなパン屋さんがありました。勿論パンロンド程じゃないですけど。それといつか修造さんのお店にも行ってみたいです」

「そりゃいいね。じゃあお店ができたら行ってみよう」

「はい!」

みんながみんな

思いおもいに

少し先の未来を

想像して

また明日が

やってくる

おわり

※レープクーヘン はちみつ、砂糖漬けのフルーツ、スパイス、アーモンドなどのナッツの入ったお菓子。オブラートの上にのせて焼く。丸形、ハート型など大きさも様々。通常ヘクセンハウスもこの生地で作られる。デコレーションを施し紐を付けてクリスマスの飾りに使われる。

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