17パン職人の修造 江川と修造シリーズ フォーチュンクッキーラブ 杉本Heart thief

フォーチュンクッキーラブ 杉本Heart thief

催事で頑張ってカレーパンを揚げた杉本は最近は親方に焼成を教わっていた。

成形後ホイロというパンを発酵させる機械の中から出てきたパンを焼く。

「タイマーが鳴ったら出すんじゃなくて、それは目安として焼成のパンの色をよく見てね」

「はい」

それを工場の奥から見ながら江川は「以前はあんなに反抗的だったのに杉本君すっかり変わりましたね。真面目になった感じでしょうか」

と先輩の修造に言った。

「だな」

修造は普段あまり話さない。

幼い頃は無口な修造と呼ばれていた様だ。しかし頭の中はもうすぐ行われる選考会へのチケットをゲットできる一次審査のことで頭がいっぱいだった。いつも集中すると他のことが目に入らない。その間何も話さない事が多くなる。

ところで江川と修造は世界大会を目標にして大木シェフに面倒見てもらえることになった。パンロンドの定休日に大木の都合が合えば来ても良いと言われている。

今日はパンロンドの近所の神社でお祭りがあるのでちょっとした余興の為に江川と2人でフォーチュンクッキーを作っていた。そして出来上がったフォーチュンクッキー用の薄いクッキー生地がのった天板を杉本に回した。

「杉本フォーチュンクッキーって知ってる?」と修造が聞いた。

「あ!聞いたことあります!見たこと無いけど」

フォーチュンクッキーは中におみくじが入っている薄い小さいクッキーで、中の言葉は様々だ。格言や予言、恋占いなど。

アメリカのフォーチュンクッキーは粋なジョークが書いてあるものが多い。

「これだよ。瓦焼きみたいな薄いクッキーに占いやおまじないが書いてある紙を挟んで折るんだ。来たお客さんに配るから焦がさない様に軽く焼いてね」

「はい」

薄い生地を軽く焼いたあと直ぐに占いの書いてある紙を真ん中に挟んで容器のヘリで曲げる。

杉本は出来上がったフォーチュンクッキーをひとつ割ってみた。

中に細長い小さな紙が入っていて「恋する予感」と書いてある。

「おー!恋する予感だって!誰かなあ?風花ちゃん?」と店で焼き菓子を包んでいた二つ歳上のパートの横山風花に言った。

風花はすぐに

「違うと思う」とキッパリ言った。

「早く焼けたパンをトレーに入れて出してよね。何回言われたらわかるのよ」拒絶された上に厳しく言われて杉本は苦笑いして「はーい」と言われた通りに急いで品出しした。

焼成はパンを焼くのが仕事だが昔から「焼きが八割」と言われていて、失敗すると仕込みと成形の工程が無駄になる非常に大切なポジションだ。その焼き加減によって見た目は勿論中の水分量などが変わり食感に影響する。なので親方は杉本に温度やタイマーの設定を丁寧に教えていた。

杉本は高校を途中で辞めてボクシングジムに入ったが挫折してパンロンドに入った。

挫折したとはいえ、体力作りをしていただけあって力も強く持久力がある。

難点があるといえばガサツで軽率、この二つだろうか。

親方は自然に振る舞いながらパンを手荒く扱わない様に、良いタイミングを待たずに早急に焼かない様にコントロールしていた。

「風花ちゃんこれ、お客さんにひとつずつ渡してね」奥さんは焼けたフォーチュンクッキーを可愛いカゴに入れて、レジでパンを買ったお客さんに渡す様に言った。

フォーチュンクッキーを選んで受け取ったお客さん達は皆中を開けて「あ!夜道に注意だって!」とか「こっちは片想いが実るだって!」などおみくじクッキーの様々な文言を楽しんでいた。

風花は「奥さん、私もひとつ貰って良いですか?」と聞いた。

「ええ良いわよ、なんて書いてあるの?」

「はい、盗難注意でした。私って色気ないからおみくじも色気なかったです」と笑って言った。

「色気なくなんてないわよ。こんなに可愛いのに。着物でも着てお祭りに行ってごらんよ。みんながついてくるかもよ」

奥さんの励ましの様な言葉を聞いて部屋の箪笥の中の秋浴衣を思い出した。

今日友達と久しぶりにお祭りに行くからお母さんに着せて貰おうかな。

ーーーー

風花は家に帰って母親に藍色の秋浴衣を着せて貰った。

浴衣より少し厚めの紺色の生地に桔梗が描いてある大人っぽい柄の着物に、淡い紅色の帯と髪留めをあしらった。黄色いバッグに白い足袋と赤い鼻緒の黒い下駄を履いて出かけた。

友達と神社の前で待ち合わせて四人で歩き、色々な屋台を見てお祭りを楽しんでいるうちにふと子供の頃の心に帰り少し楽しい。

お祭りの屋台の黄色い灯りが揺れている横をみんなで歩き、ヨーヨー釣りをした。

みんなでユラユラポンポンとヨーヨーを持ち歩いている時、仕事帰りに自転車を押してお祭りを見始めた杉本と藤岡に会う。

「あ!風花!」

いつもの自分に向けられる厳しい表情と違い、ゆったりとした笑顔で浴衣姿の風花を見て杉本はキュンとした。

杉本達は人混みの中押していた自転車を道の端に停めた。

が、風花は杉本を無視して「藤岡さんお疲れ様です」と挨拶した。

風花の友達も藤岡を取り囲んで「同じ職場なんですか?」とか「こんなイケメンのパン職人っているのね!」とか藤岡を質問攻めに合わせた。

何を聞かれても爽やかにしか答えない藤岡のソツのない言い方がちょっと羨ましい。

あーあ、、同じ人間なのになんでこうも違うんだ。

俺もなかなかのイケメンなのに。

そう思っていると「はい、これあげるわよ」と言って風花がヨーヨーを渡してきた」

「ヨーヨー、、久しぶりに見たな。大人になるとお祭りも中々来ないなあ」

「大人って誰の事よ」

「え?俺ですよ俺!」

その時辺りから屋台の焼き鳥の香ばしくて良い香りがしてきた。

「腹減ったな〜、焼き鳥食べようよ」

「良いわよ」

「藤岡さん、俺達あっちに行ってますね」

「うん」

と言いながら藤岡は風花の友達三人と反対側に歩き出した。

どうやら何かを見に行った様だ。

杉本はいい匂いのする焼き鳥を四本買った。

「ほらこれ」

「ありがとう」

二人は屋台と屋台の間の二メートルぐらいの隙間に立ち、祭りで行き交う人達を見ながら食べていた。

風花は着物を汚さない様にしながら片方の耳に髪の毛をかけて少し前のめりに焼き鳥を口に運んだ、その様子に少し見とれていたら

「ちょっと口が開きっぱなしよ!」と叱られた。

「え!」

「もう、だらしないわねぇ、口元をキュッと結んで!」

「えへへ」と誤魔化しながら話を変えた。

「風花はなんでパンロンドに入ったの?」

「パンロンドって私が中学ぐらいの時にできて、それからは毎日パンロンドのパンを食べていたの」

「パンロンドって確か出来て十年目ぐらいだもんね」

「毎日沢山の人が店に来て、その人達はみんなパンロンドのパンを食べながら家族で話をしたり、急いで食べて仕事に行ったり、帰ってきて晩御飯の後でちょっと食べたりして、生活に溶け込んでる」

「うん」

「そういう存在ってとても大切なんだわと思って」

「それで入ったの?」

「そう、自分もそれを提供する側に立ちたかったの」

「しっかりしてるなあ、俺なんかパンロンドに連れて来られたんだ。だから全然やる気なかったけど、修造さんに鍛えられてちょっとだけわかってきたかな」

「修造さんって怖くない?目つきが鋭いわ」

「始めはめっちゃ怖かったけど、あの人はパンに対して真剣なだけなんだよ。言ってる事当たってるし」

「江川さんと修造さんって世界大会に出るんでしょう?」

「なんか飛び抜け過ぎてて俺はついていけないなあ」

「そんな事言ってないで明日も頑張るのよ!あんたがあの二人の穴埋めをしなきゃ」

「無理だろそれ」

杉本が笑って誤魔化していると藤岡達が楽しそうに戻ってきた。

「風花見てこれ、藤岡さんが全部とったのよ!凄ーい!」見ると袋にパンパンのスーパーボールが入っていた。

「凄い」

藤岡は「ほら、これあげるよ」と言って杉本に持たせた。

帰り際、ヨーヨーと袋いっぱいのスーパーボールを持ち自転車の前カゴに入れながら「俺が満喫したみたいだな」と呟いた。

ーーーー

次の日

杉本は親方にバゲットのカットを習っていた。

カミソリ刃ホルダーの先に両刃のカミソリをつけて、よく切れる刃先でフランスパンをカットする。それを窯に入れて蓋を閉め、スチームのボタンを押すと、ブシューっと音を立てて蒸気が出て、生地全体が蒸気に包まれる。パン生地はカットしたところから上に横に広がり膨らんでやがて色づいていく。

窯から焼けたバゲットを取り出すとき外の空気が触れた外皮が縮んで割れてパリパリと音がする。

「この工程楽しいですね」

「このパリパリいう音は天使の拍手とか言うんだよ」

「へぇ〜」

「はい、バゲットあがりましたよ」

風花に叱られないうちに縦長のカゴにバゲットを入れて持っていった。

「はい、風花ちゃん」

一瞬目があったが、風花は黙って受け取り店の真ん中のテーブルに置いた。杉本はその背中を少し見つめてまた戻ってきた。

それを見ていた親方が思い出話を始めた。

「修造はね、今は奥さんの律子さんがパンロンドに入ってきた瞬間から夢中になっちゃってね。それを俺にバレてないと思ってたみたいだけどあいつずっと店の方見てんだよ」

「ハハ、バレバレですね」

「付き合い出した頃なんて、修造が律子さんにベタベタで仕事が手につかなくてね、律子さんがとうとう仕事変わった程だったんだ」

「信じられない!あの修造さんが、、」

「あいつ俺が律子ちゃんって呼んだら本気で腹立ててたから律子さんって呼んだりしてたな」

「親方にヤキモチを?」

「ドイツに行ってる間律子を頼みますって頭下げられて、これでもし何かあったら俺は殺されると思ったね」

「無事でよかったですね!」

暴れる修造を想像するとゾッとする。

「ま、全ては出会い、出会いはチャンスって事だよ、な!」親方が出会い系アプリのキャッチコピーみたいな事を言った。

一方その頃

店の外から様子を伺ってる男がいた。

その男は30代前半ぐらいで黒いスニーカー、青いジーンズ、白いTシャツに黒いブルゾン、紺色のキャップを真深に被っていた。

その男は目立たない様にパンロンドに入って来た。

「いらっしゃいませ」

焼き立てのパンを店内に並べながら風花が言った。

そしてまたパンを並べ始めた。

丁度フランスパンの出来立てが並ぶ時間で、沢山の種類のパンをカゴに盛り、値札をつけていた。

その男はいつの間にか帰り、しばらく店でパンを並べるのに集中していた風花を見て奥さんが叫んだ「わ!風花ちゃん!背中どうしたの?!」と言った。

「え?!」風花は背中の事なので気が付かなかったが、ジュースのストッカーに写った自分の背中を見て「あっ!」と叫んだ。

制服の白いTシャツの右の肩甲骨あたりから左斜めに向かって十五センチほど切れている。

「いつのまに!引っ掛けたんでしょうか?」

「そうなのかしら?代わりの服を持ってくるわね」

奥さんが倉庫から新しいユニフォームを持ってきて「ほらこれ着替えてきて」と言った。

「はい、すみません。気をつけます」

風花がTシャツを着替えて「これ、どうましょう?」と聞いてきたので「私が縫って使うわよ」と言った時、奥から騒ぎを聞いていた修造と杉本が「見せて」と言ってその服を見た。

「さっき見た時は切れてなかったなあ」

「随分鋭利なものでスッと切れてますね」

「何かに引っかかったならこんな切れ方しませんよね、切り口がギザギザしますもん」

「店にそんな切れ方するところがないもんな」

「誰か変な人は入ってこなかった?」

「それが全然見てなくて」と風花が言うと、奥さんが「何人かお客様がいらっしゃったけどそんな怪しい人いたかしらね」と首を傾げた。

修造は風花に「お店っていうのは不特定多数の人が入ってくるんだ。こちらは何も知らなくても向こうは何かしら思って入ってくる時もある。ほとんどの人が普通にパンを買いに来ている、でも、中には敵意を持ってきたりする人もいる。それが露わになってる時はわかりやすいが、隠し持ってる時は中々わからない。笑顔でお迎えして挨拶する瞬間にどんな表情か見ておくと良いよ」と忠告した。

「わかりました」風花は目つきが鋭い修造が怖かったが、アドバイスはなる程なと思った。

たしかにお店にいるとどんな人が来店するかは顔を見るまでわからない。

とは言え敵意を隠し持ってる人なんて分からないかも。

修造は切り口を見ながら「これって誰かが切ったとすると、ナイフって切る時は刃の腹の部分で切るか突き刺すかになる。カッターなら先でこんな風にスッと力を入れずに切ることができる。多分カッターですよね」

「え!怖い」

「しばらく店に出ないで中で働かせて貰ったら?それで何もなければ良いし。気をつけるに越した事は無いよ」修造は杉本の方を向いた。

「念の為帰りは家まで送ってってやれよ」

風花が自分の事を怖がってると薄々気がついていた修造は杉本に言った。

「はい、無事に送り届けます!」杉本が張り切って言った。

そしてその帰り道

二人で歩きながら

杉本は風花に聞いた。

「何か身に覚えのある事は無いの?」

「カッターの事?いいえ全然無いわ。でもカッターで切られたとはまだ決まってないわよ。私全然わからなかったの」

「店でなんかおかしな事があったらすぐ呼んでよ」

「私今日は店に出なかったから明日もそうなると思う」

「その方が良いよ、風花が可愛いから狙われたのかも」

「そんなわけないわよ可愛くないもん。私何かしたかしら恨まれるような事」

杉本は可愛くないもんと言う風花の言葉に何言ってんだという表情を浮かべながら「やばいやつなのかな?まあ店と工場の間で俺を手伝ってくれたらいいよ」と言った。

「厚かましいわねホントに」

笑い合う二人を離れた所からつけてくる男に杉本は全然気が付かなかった。

風花はしばらくの間、店と工場の間で働いていたが店も平和だし、別段何も起こらなかったので奥さんに言った。「あの、多分あれは何かに引っ掛けただけかもしれません。もう大丈夫と思うので、前みたいにお店で品出しします」

「わかったわ、でも気をつけてね。何かあったらすぐ呼んでね」

「はい」

風花は顔は怖いが心の優しい修造の言葉を思い出して、笑顔でお迎えしながらお客様の表情をよく見ていた。

たしかに色々な気分でパンを買いに来る人達がいるんだわ。

イライラしていて急いでる人もいるし、逆にゆったりと買い物して店員と話がしたい人もいる。そうだわ、そんなお客様には自分から話しかけよう。

お昼頃、風花は以前のようにフランスパンの焼き立てを並べていた。

色んな種類のパンをカゴに入れて値札をつけていく。

「いらっしゃいませ」

入ってきたお客さんの表情を見た時「あっ」と思った。紺色の帽子を目深に被って風花を一瞬見た。

年齢は三十ぐらいで身長は百七十センチぐらいの男だ。

風花はこの人かも知れない!と思ったがまだわからないのでわざと背中を向けて意識を背後に集中してみた。

するとそのお客さんはトレーとトングを持って店をゆっくりと一周してから段々風花の背後に近づいて来た。

なんだか背中がピリっとする。

後ろに立ったわ!

そう思った時

カチッ

とカッターの刃を出す時の音がした。

振り向くと風花に向かって刃の出たカッターを向けていた

「キャー助けて!」

不思議なものでこんな時は練習しなくても高い声が出る。

声を聞いて杉本が飛び出してきた。

「なんだー!」男は杉本の声に驚いて逃げようとした。

奥から出てきた杉本に慌ててトングとトレーを投げつけてきた。

「うわ」杉本がそれを避けた隙に男は店から飛び出して行った。

「待てーーっ!」

商店街を駅と反対の方向に走っていく男を追いかけて行くと、三十メートル程離れた所に停めてあった自転車に急いで乗って逃げ出した。

「準備してたのか?」

自転車はグレーともグリーンとも言えないくすんだ色合いで、荷台は黒い。

荷台はサドルの後ろに取り付けられた薄い板の様な形で、一番後ろに赤いライトが付いている。

杉本はその荷台の赤い丸を目掛けて商店街の中を倍の速さで走り出した。

男は買い物客を避けながらグングン進んでいく。

あっ右に曲がったぞ!

杉本も右への道に走って行った。

道は徐々に住宅街に入りどんどん幅が狭くなっていく。

その先には小川があってザラザラしたコンクリートの橋を越える時、もう少しで荷台に手が届きそうになったが手がちょっと触れただけで杉本は失速した。

はあはあと肩で息をしながら橋の一番盛り上がった所に膝をつき、遠ざかる自転車が行く先を見ていた。

自転車はその先の古びたパーマ屋『ローズ』を左に曲がった。

杉本はしばらく息が上がりそのまま立てなかった。

「疲れた」と呟きながらトボトボと店に戻ると警察が来ていた。

お巡りさんにどんな感じだったとかどこで曲がったとか伝えた。

風花はお巡りさんと警察署との連絡の無線で「マルガイ」と呼ばれていて、これって事件なんだと思って怖くなった。

お巡りさんは二人で来ていて、事情をみんなに聞いた後「何かあったらすぐ110番か最寄りの警察署に電話してきて下さい」と言って帰った。

風花は杉本に「ごめんね、お巡りさんとの話を聞いてたわ。相当走って追いかけてくれたのね」

「もうちょっとだったんだよ」

杉本は悔しがった。

家に帰ってから風花は今日の事を母親に報告した。

「あんた狙われてるんじゃない?パンロンドにはもう行かない方が良いわよ」

母親は心配してそう言ったが風花は杉本の事が頭に浮かんだ。

「いいの私パンロンドが好きだし、守ってくれるわ。きっと」

それに自分を守るのは自分なんだし、明日からも気をつけて生きよう。

今日の事に限らずこれからも色んなことがあると思うし、気をつけた方が良いに決まってる。

ーーーー

次の日

パンロンドは定休日なので杉本は自転車に乗り、あの古びたパーマ屋を曲がってしばらく道なりに走ってみた。

右に左に道が広がっている。

うーんどっちだろう?とにかくあの自転車を探さなきゃ。

パーマ屋から西に伸びていく道の周辺を隈なく見ていく作戦で自転車を走らせた。

グレーの様なグリーンの様な車体で荷台が黒で先に赤いライトが目立つ物がないかじっくり見ていった。

ふぅ、疲れたな。初めの道から随分遠くへ来た。

コンビニで飲み物を買おうと駐輪スペースに自転車を停めた。

ふとコンビニの横の空きスペースを見た時「あっ」この自転車だ!

杉本は探していた自転車を見つけた。

緊張が走る。

コンビニの中を見回した。が、それらしき人物はいない。店内の客はおばあさんが一人、四十くらいの太った男が一人、女の人が一人、店員もパートの女性が二人だ。

「いないな」

あ、ひょっとしてこないだみたいに逃げるために自転車をここに停めてるのかも。

杉本は水を買い、それを飲みながらコンビニから少し離れた所で見張る事にした。コンビニの前の道は坂になっていて、上には住宅街がある。

その坂に少し登り、そこから見張る事にした。

もしあいつが来たらダッシュで捕まえにいく!

そう思ってじっと見ていた。

すると

「何見てんだよ。俺にも見せろよ」と聞き覚えのある声がした。

「あ!修造さん」修造が顔を並べて杉本の見ている方を見た。

「なんで?」

「俺の住んでるアパートすぐこの裏にあるんだよ。今から近所のスーパーに夕ご飯の材料を見にいくところ」

「そうだったんだ。修造さん、あの黒い荷台の自転車が風花を切りつけたやつの自転車です。俺捕まえようと思って。でないとまた風花が狙われる」

「ええ?よく見つけたなあ。分かったよ協力するよ。ここじゃ走って行きにくいからもっと近寄って挟み討ちにするぞ」

修造はコンビニの駐輪場の横の電信柱の影で携帯電話の画面を見るフリをして立っていた。

杉本はコンビニの中から自転車のよく見える雑誌コーナーの前に立ち見張っていた。

しばらく待ったが来ない。

杉本は修造にメッセージを送った。

『中々来ませんね』

『うん』

『焼成の仕事はどうだ』

『親方がいい感じに導いてくれているので大きな失敗はありません』

『ちょっとは上手くなってきてるな』

『そうですか!ヘヘヘ』

外でガチャンと音がした。

『来ました』

と打って杉本は店から飛び出した。男は杉本を見て素早く自転車に飛び乗りこぎだした。

「待て!」とっさに杉本はお祭りの時に入れっぱなしだった自転車の前カゴのスーパーボールを袋から出して走りながら次々に投げつけた。

そのうちのいくつかが自転車の前輪に乗り上げバランスを失ってグラグラしたすきに修造が走って行って自転車のハンドルを押さえた。

「捕まえたぞ」

コンビニ前の駐車場には派手な色合いのスーパーボールが散乱した。

そして二人で男が逃げない様に自転車から引き離し「お前だな!カッターで切りつけた奴は!」と言って男の腕を掴んだ。

男は急に杉本の手を振り払いポケットの中で握っていたカッターで切りつけてきた。

「あぶねえ!」避けた杉本に返す刀でもう一度切りつけた時、修造が男の足を右足で払った。本来なら足払いの後胸に一発正拳突きをお見舞いする所だがよく見るととても細くか弱い感じで、あばらを折ってはいけないのでやめた。

倒れた男から落ちたカッターを足で二メートルほど蹴り飛ばして手を後ろにねじりあげて「コンビニで紐を借りて警察に連絡して」と言った。するとそこへお巡りさんと女性が走ってきた「この男です!私のスカートをカッターで切った奴!この捕まってる方!」

お巡りさんが「十六時二十八分、銃刀法違反及び傷害容疑で逮捕する」と言って男に手錠をかけた。

男は後でやってきたパトカーに乗せられて行った。

その後、連絡を受けて自転車で来ていたお巡りさんに女性と杉本が事情を話した。

どうやらこの女性はカフェのスタッフで、コーヒーを運んでる時にそのスカートを店の中で犯人に切られたらしい。それを見ていたお客さんが教えてくれて、それでお巡りさんを呼んで一緒に探してたらここで見つかったそうだ。

「捕まって良かったなあ」

修造と杉本は顔を見合わせうなずいた。

3日後

店に私服の警察っぽい人が来て、親方と何か話していた。

杉本達は仕事をしながら気になってそれをチラチラ見ていた。

「親方、さっきの警察ですか?なんて言ってました?」と修造が聞いた。

「あのね。修造と杉本が捕まえた奴は、こないだの祭りに出てた焼き鳥の屋台で働いてた男でね、可愛い子をチェックしては服をカッターで傷つけて楽しむ変態野郎だったんだってさ。どうせすぐムショから出てくるだろうから、うちと風花の家には接近禁止命令を出してもらうよ」

「え!あの焼き鳥の屋台の?知らなかった!」

「怖いわね〜」と風花と奥さんもゾッとしていた。

修造が風花に「杉本が休みの日にあちこち探して自転車を探し当てたんだよ。こいつすげえなあ」と言った。ちょっと大袈裟で芝居がかっていた。

「そうなのね」

この時風花が初めて杉本を真っ直ぐ見たかもしれない、杉本は照れ臭そうな、嬉しそうな風花の顔を初めて見たからだ。

「ありがとう」

その時周りの誰もが杉本からズキューンという音がしてくるのを聞いた。

江川と藤岡が「ハート撃ち抜かれたね、ハハハ」と乾いた笑いを起こした。

ある日のお昼

「風花」

「何?」

「これ」

「フォーチュンクッキーじゃない。お店で配るの?」

「これ俺が家で練習で作ったおみくじクッキーだよ。どれか一つ選んで出た占いが必ず当たるから」と杉本がフフフと笑いながら渡した。

「あんたが作ったの?胡散臭いわ」と風花は笑って手に取らなかった。

「いいから一つ開けてみろって」

「わかったわよ。仕方ないわね」

風花は小さなカゴに十個ほど入った占いクッキーを一つ選んで開けてみた。

「何よこれ!」

【杉本が好きになるでしょう】

と書いてある!

「そんなわけないじゃない」と言ってもう一つ開けたらそれにも

【杉本が好きになるでしょう】

と書いてある

「ちょっと!」

風花は全部割ってみた。

どうやら全部に同じ言葉が書いてあるようだ。

それを一部始終見ていて「へへへーっバレたか」と笑った杉本に風花は顔を真っ赤にして背中を向けた。

「もうなってるわよ」

小さな声で呟いた。「え?」

「なんでもない、あ!いらっしゃいませ。ただいまブールが焼き立てでーす」

「おひとつですね、はい!」

風花は一際明るく言った。

おわり

この作品は2021年10月22日(金)にパン屋のグロワールのブログに投稿したものです。

11パン職人の修造 江川と修造シリーズ 新人の杉本君  Baker’s fight

このお話は江川 to be smart の続きです。

18歳になったばかりの江川卓也は、修造と面接の時約束した通りに高校を無事卒業して、北国から関東の商店街にあるパン屋のパンロンドにやって来た。

入社してからはずっと先輩の田所修造と組んで毎日仕事を教えて貰っている。

「修造さーんおはようございまーす」

「よお」

明るく爽やかに挨拶した江川に対して言葉少なに修造が挨拶仕返す。

これが江川の毎朝の始まりだ。

パンロンドの朝は早い。

オートリーズの後、計量を済ませていた粉と材料をミキサーに入れて生地作り。

「オートリーズって先に粉と水とモルトを加えて20~30分置いておくんだ、その後塩とイーストや発酵種を入れて捏ねる。そうする事で粉が水を吸って伸びの良いパリッとした生地に仕上がるんだよ」

江川は修造の動きを食い入る様に見ていた。

「パートフェルメンテっていうのはパート(生地)フェルメンテ(発酵)って意味で前日にとってた生地を使うやり方なんだ。オートリーズとった後、本捏(ほんごね)の時に入れる。生地が安定して風味が良くなり時間短縮にもなるんだ」

江川は毎日様々なパンの製法について説明を受けていた。

「こうやって生地の状態を見るんだ。生地を伸ばしても破れずにグルテンの薄い膜ができてるか確かめる」

「はい」

「まだまだ知らないことが沢山あるなあ。僕は修造さんにぴったりついて修造さんのパンの知識を少しでも覚えたいんだ」と張り切っていた。

江川が修造と生地を仕込む為の計量をしていると

入社したての杉本君と親方が何か話してる

江川はじっとみた。

「杉本君、これってみんなこんな風に天板に置いてってるから君も同じ様にやってね」

杉本は成形したパン生地を置く長方形の鉄板にいい加減な置き方をして親方に均等に置く様に指導されていた。

「親方ぁ、僕には僕のやり方があるんです。ちゃんとやりますから大丈夫です」と言ったので試しにどうなるか焼かせてみた。

案の定 火通りがかたよる。

「鉄板に生地を均等に置かないと火通りが悪いところと火が通り過ぎるところが出るからね。ほら、こっちは白くてこっちは焦げてるでしょ?」

「分かってます分かってます」

江川は驚いた。

何?今の返事。

親方ってとても温厚な人だけど、だからって今の返事は聞いててストレスが溜まるな。

「修造さん、あの人って修造さんが面接したんですか?」

修造は杉本君を見た。そして目線を計量中のメモリに戻した。

「いいや」

「面接の時はニコニコしてたんですかね?今はちょっと違うんじゃないかなあ?」

「知り合いの紹介らしいよ」

「ふーん」

「人の事はいいから。よそ見してると計量を間違えるぞ」

「はい!すみません」

そう言いながら江川は杉本君が気になって仕方ない。

杉本龍樹(たつき)は親方の先輩の知り合いの子らしく、紹介で入ってきて3週間経つ。

やんちゃだったのか通勤の服装も派手で言葉も荒めだった。

少々無茶なタイプらしく、ちゃんとした数を聞きもしないで仕込みの野菜を切り出した。量が多く皮は分厚い。

「杉本君、野菜って多く切り過ぎちゃったら残った分の色が変わっちゃうからね」

とか。

「杉本君、絞り袋にまだクリームが残ってるのに洗っちゃったら勿体ないからまだ洗わないで最後まで使ってね。物は大切に使おうね」

とか親方の言い方がとても優しいのに反して杉本君がはめんどくさそうで段々返事しなくなってきてる事に気がついた。

江川は段々不満が募ってきた。

親方が何々の次にこれやってって言ってるのに順番を変えるし、、杉本君って困ったやつだなあ。

その時修造は自分の仕事に集中していた。

様に見えた。


次の日

修造と江川は大量にシュトレンのフルーツを洋酒に漬け込んでいた。

フルーツをボールに入れ、洋酒を多めに回しかける。スパイスを足してそれをタッパに入れて倉庫の涼しいところに置いていく。

秋頃になると段々洋酒が染み込んで熟成されたフルーツをシュトレンに使うのだ。

シュトレンはドイツではクリスマスの時期に様々なお店で売られている。クリスマスを待つ4週間にアドヴェントという期間があり、少しづつスライスして食べていく。

漬けこんだフルーツをたっぷり入れて作ったシュトレンはひと月ほど置いておくと生地にスパイスとフルーツの風味が移り格段に味わいに深みが増します。

薄くカットして食べながらクリスマスを心待ちにして過ごす。

「僕シュトレンって食べたことないです」

「出来たらすぐに試食して、同じものを何週間かしてから食べたら熟成していて全然風味が違うのが分かるよ」

「楽しみだな」

仕込みながら江川はチラッと杉本を見た。

杉本君、今朝は凄く眠そうで成形しながらうとうとしてる。

「杉本君眠そうだね」

前に立って仕事している親方が声をかけた。

「昨日夜遅くて」

「朝早いんだから早く寝ないとね」

「いちいち言わなくても分かってますよ」

杉本は少し声を大きめに言ってしまった。

あ、今修造さんが杉本君をロックオンした。めっちゃ観察してる。

「江川、これ一人でやっといて」修造は洋酒のボトルを江川に渡した。

「はい」

「おい、ちょっと来いよ杉本君」

修造はなるべく爽やかに言ったが元々爽やかなキャラでもないし、目力による圧力が凄い。

修造は杉本を店の裏に連れて行った。

「お前どうしたんだあんな言い方して。親方も先輩の紹介で入ってきたお前を無下にはできないだろ?それともあれか、まだお子様だから反抗期で親方に偉そうに言ってんのか?」

「反抗期ってなんだよ!ガキじゃねーんだよ」

「パン屋での仕事は初めてなんだろ?前は何やってたんだ」

「俺はボクシングやってたんだよ。なんなら絞めてやろうか?先輩さん!」

こいつなんでこんな反抗的なんだ、、

こんなんでよく、他所で働こうと思ったな。

「やれるもんならやってみろ」

そういったものの修造は思った。

しまったな、ここで喧嘩してもし騒ぎになったら店に迷惑がかかる。

そうだ、、隣の空き店舗の裏なら目立たないかも。

パンロンドの隣の空き店舗の裏には庭がある。朽ち果てた花壇と枯れ木があり、木材の塀で囲われている。そこはよく野良猫の溜まり場になっていた。

2人が倉庫の裏口から出て、隣の塀の隙間から入ると、野良猫達が一目散に逃げて行った。

野良猫達を見送ったあと、2人で対面で立って睨み合った。修造は上着を花壇を囲っているブロックの上に置いてピョンピョンと飛び跳ねた、首を左右に振りフッフッと息を吐きながら肩を上げ下げした。空手の試合前にそうやってから気持ちを上げるのを思い出した。

杉本は携帯で誰かに電話している。

「今から偉そうな先輩さんを絞めて店の裏の壁に張り付けるから来てみろよ」

そういって電話を切った後、脇を締めて修造を睨みつけた。

こいつ拳で攻撃してくるな。

いつでも前に後ろに動けるように足取り軽く動いた。

拳の速さで勝てるか分からないから蹴りで足とか攻撃するか。。

修造はなるべく狙う予定の方を見ないように杉本の顔をみた。

2人とも相手の隙を伺っている。

杉本の目を見ながら、そうだ、先に攻撃させなきゃ正当防衛にならないな。と思った時、杉本が初めのパンチを仕掛けて来た。

修造は左手で顔をガードしてわざと杉本の拳を腕に当てた。

「いたたた、お前が先に攻撃して来たんだからな」

修造の言い方がわざとらしく、杉本は頭に血が上った。

「舐めんなよ!」

修造は杉本のパンチをかわして刻み突きして相手の胸を押して距離を取る動作を何度か繰り返した。

その後杉本の左手からのパンチを肘を曲げて右に巧みにかわして背中が空いた瞬間後ろに重心をかけて裏回し蹴りを入れ、そのまま左のつま先の内側を引っ掛けて倒した。

「うわっ!」

素早く杉本の背中に乗っかり動けなくすると、

杉本は背骨の中央をロックされ、手も届かず足で蹴ろうとしたが修造の足で防がれている。

まだ修造に蹴られた背中が痛い。

「うぅ、、」

背中をさすりたいがそれもできない。

可哀想だと思ったが、このまま手を離すとこっちがやられる、修造は左手で杉本の顔を抑えた。

「動けないだろ?」

「くそっ!」

そして杉本の耳元で言った。

「俺は空手の師範について色々教えて貰ってたんだ。道場では師範の言う事は絶対なんだよ!」

杉本は寝不足の疲れもあって暴れるのをやめた。

「観念するなら離してやる」

そう言って修造は立ち上がった。

こいつもう攻撃してこないだろうなあ。

そう思って少し離れて杉本を観察した。

負けたのがショックだったのか座り込んでしょんぼりしだした。

「杉本、ちょっと待ってろよ」そう言って近くの自販機に向かった。


その頃江川は仕込みを終え、いっこうに戻ってこない修造と杉本が気になって倉庫を何度か覗いたりした。

「親方、修造さん達どこ行っちゃったんですかね?帰ってきませんね」

「大丈夫でしょ。それよりどう?仕事は慣れた?」

「はい、僕ここに来て人生が変わりました。とても良い先輩に恵まれたし。楽しいです」

「そう、それは良かった」

「親方って修造さんをめちゃ信頼してますよね」

「宝物だ」

僕のね、と江川は思った。

親方は続けた。

「俺は修造に会ってから少し考えが変わったんだよ。それまでは諦めと言うか、職場も人の出入りが激しかった事もあって自分1人がしっかりしなきゃって思ってたけど、ああいう信頼できる奴がいるのは良いもんだよね」

「心がしっかり繋がってるんですね」

江川と親方は目を合わせてニコッと笑った。

「あいつがドイツから帰ってきてパン職人としての格が上がってるのを見て俺は思ったね。多分あいつはどこに行って何をやっても上手くいくんだろう。人から教わったものを自分のものにして更に上に押し上げていける奴だよ」

うんうんと江川はうなずいた。


一方、隣の裏庭では修造が缶コーヒーを杉本に渡していた。

「暴れたら喉が渇いたな」

空き家のペンペン草が沢山生えた花壇を囲っているブロックに腰をおろして一緒に缶コーヒーを飲みながら「少し落ち着いたか?」と聞いた。

杉本は何も言わずに黙っていた。

修造は話し始めた。

「多くのパン屋が『何人かが狭い空間で働いてる』んだ。その全員がメインのシェフの意思通りに動かなきゃならないと俺は思ってる。勝手なことをすると全員に迷惑がかかるんだよ。今の作業の全ては、『こうなる事に理由があった』んだ。すぐに決まった訳じゃない。工場の中で起こった出来事や、お客さんの流れ、パン作りの工程、作業する人間の数、季節や温度、その全てが影響しているんだ」

「それはまだ入ったばかりのお前にはわからない事なんじゃないのか?」

杉本は黙って聞いていた。

修造の話す全てに説得力があった。

それは長い経験に裏打ちされた言葉だったからだ。

「それが嫌ならやめなきゃならない、ここから去って勝手に自分の思う店を作れよ」

「、、、店を?」そんな事できっこないのは杉本も分かっていた。

「でもな、それは多分お前にはまだ早いんだよ」

「今のお前は何も出来ないのに等しい、1人でやるとたちまち困るぞ。

だから、色んな先輩の中に混じって色んなことを教わるんだ」

修造は指折り数えながら言った。

「共同体感覚を養って」

「ベストコンディションで挑めば」

「満足のいくパフォーマンスを発揮できるんだ」

指を3本見せながら「だからみんな体調を整えてくるんだよ。遊びすぎて体調悪いなんてカッコ悪いぞ。」

修造は隣に座って下を向いてる杉本の顔を覗き込みながら言った。

「今いてる従業員の殆どが、親方と一緒に作業の理由について体感してるやつばかりだよ。お前も俺たちと一緒にやろう。そして慣れたら親方に良い考えを提案して受け入れられたらやりゃあいい」

修造は珍しく言葉多めに話し続けた。

「それでももっとやりたい事があるなら自分の店を持った時にああしようこうしょうと自分の中に貯金をしておけよ。その時に初めて花開く事が多いんじゃないのか?」

「花開く」

杉本は手のひらを見つめながら言った。

「俺、偉そうに言ってましたけどボクシングも中途半端で負けてばかりで辞めてしまったんです」

「そうなのか」

「はい、パン屋での作業を軽く見てて、ここなら全然いけるんじゃないかと。でもやってみたら手順も多いし覚えなきゃいけない事ばかりでした」

「うん」

「それで我流でやってみたんです」

「通用しなかったろ?」

「はい」

「今日それが分かっただけでも良かったよ」

「俺もやり続けると花咲く事があるんですかね」

杉本は初めて希望とか夢とかについて少しだけ考えてみた。

「この先のもっと先に夢があるんですかぁ」

「そうだ杉本、その間にはお前が覚えなくちゃいけない事が沢山あるだろう?」

「はい」

修造は泥のついた手を綺麗に洗い、洗ったタオルで杉本の服の汚れを拭き取って工場の扉を開けた。

「それがここには沢山あるんだ。」

そこでは親方や職人達がテキパキとパン作りをしていた。

無駄な動きなく働いている。

「ここの全てを覚えるんだ。一つ一つな」

「それにはまず正しい丸めからだ。来いよ、俺が教えてやる」

「はい!」

そうして2人は楽しそうに分割を始めた。

修造は杉本の手の速さに合わせて生地を分割して渡して行った。

そこには修造に教わった通りの丸めを忠実にこなそうとする杉本の姿があった。

その時裏の戸をドンドン!と叩く音が聞こえた。

「はい、どなた?」江川が戸を開けた。

するとやんちゃそうな少年が3人立っていた。

「裏口が分からなくて迷ったわ。杉本く~ん。先輩がつるされてるのはどこ?」と言って江川を押しのけた。

修造が「なんだお前ら」と言って前に出ようとしたら、いきなり3人のうちの1番背が高いのが修造の胸ぐらを掴んできた。

杉本は3人の友達を見てびっくりした。

遅いのでもう来ないんだろうと思っていたからだ。

「お前らやめろよ。もういいんだよ」と杉本が言ったが修造ともみ合いになっている3人には聞こえない。

そこへ親方が珍しく仕事の手を休め「君たちここは工場だから外へでようね」といって3人を掴み、分厚い大きな両手で押し出して倉庫に行った。

そして修造の胸ぐらを掴んだ少年の手首を持って全身をぶら下げた。ぶら下がった方は手や足で攻撃しようとしたが親方に届かない。蹴ろうと足を前に出す度に親方がゆらゆらさせたからだ。

親方は残りの2人に少年をぶつけ「パン屋の腕力なめんなよ!」と言った。

それを見た修造、杉本、江川は同時に叫んだ。

「い、いかつう~」


3人が帰ったあと江川は杉本と散らかった倉庫を片付けながら「ねぇ杉本君」と話しかけて来た。

「さっき修造さんから何を教わってたの?」

「はい、貯金の話です」

「貯金?」

「心の貯金」

「もーう!なんの事かちゃんと教えてよ」

江川は悔しがった。

なにかかけがえのないものを手に入れた気がして杉本の心はワクワクしていた。

「親方、すみませんでした。俺まだここで働いてもいいですか?」

杉本は親方に頭を下げた。

親方はクリームパンを包みながら「はい、がんばろうね」と言った。

内緒だが、修造はしばらくの間杉本のパンチを受けた左手がめっちゃ痛かったと言う。

おわり

このお話は2021年08月01日(日)にパン屋のグロワールのホームページに投稿したものです。

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