52パン職人の修造 江川と修造シリーズflowers in my heart

flowers in my heart

今日は鴨似田フーズの創立30周年のパーティーだった。

NNホテルの豪華な会場に所狭しと鴨似田フーズの商品で作られた料理の数々が並べられ、招待客達は舌鼓を打っていた。

藤岡は兼ねてからの鴨似田夫人の念願だった『立食パーティーのサンドイッチコーナーで給仕をする』為に立っていた。客の希望のサンドイッチやタルティーヌなどを皿に取り分け渡す、その時笑顔がご希望だそうなのでニコッと笑って商品の説明を加えてから渡す決まりだ。

本来なら絶対やらないが、前回鴨似田夫人に助けて貰ったので今度はお礼に笑顔を振り撒きに来たのだ。

振り返ってみれば過去には俺ももっと爽やかな笑顔を自然にしてたものだ。パンロンドに就職した頃、立花さんを探す為に探偵に頼んだら結局見つからず料金だけ取られて頭に来て自分で探す事にしてパン屋巡りを始めた。自分でもその頃から険のある表情になって来たと気がついていた。

交際中の由梨の優しさと明るさのおかげで最近は笑顔が元に戻りつつあると思う。

会場で写真を撮って回っている歩田がさっきから藤岡の写真をバンバンに撮っている。きっと鴨似田夫人の命令だろう。

同じ会場にリーベンアンドブロートの大坂がいた。修造に頼まれて、周年記念の祝いの品を持って来たのだ。

「この度はおめでとうございます」受付で祝いの品を渡して帰ろうとすると、世話係の兵山に呼び止められる。

「リーブロの大坂さん、折角来られたのですからゆっくりして行って下さい」

「え、俺を知ってるんですか?」

「はい、江川さんの助手としてテレビに出てましたよね。見てましたよ」

「ありがとうございます。じゃあ折角だから少しだけ」

さあどうぞどうぞと会場に案内される。

普段着で着ているし居心地悪かったが、美味しそうな料理を見ているうちに気が変わり、ローストビーフや伊勢海老のグラタンを食べながらまだ何か食べようかななどと会場を見回していると、凄いイケメンがサンドイッチコーナーにいて、マダムがその周りを囲んでいる。

イケメンは皿を渡す時にいちいちマダムに言葉を掛けて笑顔を向けていた。

「あっ!あいつはあの時の、、」

大坂は思い出した。

笹目駅前のカフェで立花と話していて店から出て来た奴だ。

「超絶イケメンがなんでこんな所に」

大坂はコーナーの後ろから藤岡に声をかけた。

「あの、ちょっと話があるんだけど」

藤岡はまったく知らないこの男が自分の事を知ってる風だったので驚いたが、何故か話を聞かなければならない気がして少し離れた窓際にいざなった。

「君は誰?俺の事を知ってるの」

「俺は修造さんの店で立花さんと働いてる者だ」

「え」藤岡は立花の名前を聞いて身体が硬直した様になった。そして思い出した。江川の助手として先日テレビに出ていた男だ。江川となら分かるがあえて立花と言ってきたのは何故なんだろう。

「それで?」

「あんたと笹目駅のカフェで別れた後、あの人泣いてたんだよ、あの人はあんたの事を愛してる様だった」

「なんでその事を知ってるの」

「偶然店から出て来たところを見て」

藤丸パンの事、結婚の事、新生活の事、今はやる事が沢山ありすぎて毎日が目まぐるしく過ぎていく、過去の事はドンドン後ろの方に流れて行って正直分からなくなって来ている。

「俺は今いっぱいいっぱいで」

「だからあの人の事を思い出さないってのか」

「本当に申し訳ないけど、俺はもうあの人を忘れなくちゃならない、それに」

何故この男はこんなにムキになってるんだ。

「今は君がいるだろう」

付き合ってるわけでも無いのにそう言われて大坂は憤りと恥ずかしさが混同して顔が真っ赤になった。

「俺にはわかるんだ、あの人の孤独が透けて見える」

「原因は俺なのか、だったら何故消えたんだ」

「それは」

「知ってるなら教えてくれないか、本当の事を。あの人が消えてからあちこち探した。そうこうしてるうちに俺は顔つきまで変わってしまった。今思えばあの時の俺は心がカスカスしていた」

「そうだったのか」目の前にいるイケメンが立花をなおざりにして来たとずっと思っていたので急に大坂は黙り込んだ。

それに本当の事は自分にも分からない。

その時、サンドイッチコーナーから並んでいたマダム達が呼ぶ声がした。

「ごめん、もう戻らなくちゃ。教えてくれと言ったのは忘れてくれ。あの人を頼んだよ」

大坂は帰る為にエレベーターに乗り下に降りた。

「なんだ頼んだよって、お前に言われなくても俺に任せろってんだ、俺がいるってんだ」自分でそう思いながら虚しい。

大坂の足取りは重かった。

気温が上がり、リーベンアンドブロートのテラス席の横の花々は色採りどりに咲き乱れている。

リーベンアンドブロートに2度目の夏が来ようとしていた。

江川は2階に上がって経理でパン職人の塚田と一緒に1周年記念の計画を練っていた。

「特別メニューをカフェで食べられるとか記念品を作るとかどうかな?」

「良いですね、江川さん」

「特別メニューは世界大会のパンの中から選んだら?」

「どんなのが良いでしょう、みんな食べてみたいと思います。それとカフェでなくても買って帰られるものもあったら嬉しいな」

2人で候補を紙に書き出してあれが良いとかこれが良いとか話してると修造が入って来た。

「修造さんこれ」と言ってパンのメニューを書き出したものを見せようとしたが修造はコックコートと靴を脱ぎ、ソファの真ん中にドスっと座って頭を端に反対側に足を乗せて「うぅ」と呻いて横になった。

その様子を慣れた感じで2人は見ていた。限界まで工房にいて疲れて耐えられなくなったらここで横になって休むのだ。

「お腹が冷えちゃいますよ」もういびきを書いている修造に毛布をかけてやり、ポンポンと軽くお腹を叩いた。

その様子を見ながら

「もうそろそろ年中無休はやめて週一回でも休んだらどうでしょう」と塚田が言った。

「そうだね、でもいつお客様が来ても良い様にしたいんだって」

「長い事家に帰ってないみたいだし、大丈夫なんですかね?独身じゃないんだし、そのう、奥さんが怒ってないのかな」

「どうなんだろう?怖くて家に帰れないのかしら」

「まさか」

2人は顔を見合わせてフフフと笑った。

修造が目が覚めた後、江川は岡田に頼んでアボカドとエビのタルティーヌとコーヒーを持って来て貰い修造に渡した。

食事中の修造に向かって「明日から少し休んで下さい」と言った。

「え?なんで?」

「たまには帰らないと」

「今忙しいからなあ」

「いつも忙しいじゃないですか。それに1周年記念の頃にはもっと忙しくなるかもしれないんだし、今しかないですよ」

「そうかなあ」

「それと、1周年記念のパンですが、Chrysanthemen-Campagne(菊のカンパーニュ)とdreifach geflochtenes Brot(三連編み込みパン)にしようと思っています」

「わかった、じゃあ俺の休暇が終わる頃だからみんなで頑張ろう。俺の居ない間に菊のステンシルを頼んだよ」
「はい」

ーーーー

そんなこんなで心配しながらも修造は1週間休む事にした。

帰りの車の中で色々考えた。

それはこんな風だった。

今出来るだけ頑張って貯えておかないと俺が抜けた後困るだろう。最近は江川がパン職人決定戦の番組で2位になってから江川に会いに来るお客さんも珍しくない。いつも店の中はパンでいっぱいにしておきたいけどあんな風に休んで良いって言われるなんて江川もしっかりして来たな。

店の近くの高速入り口から本線に合流して車を走らせる。

家では律子孝行に勤しんで、土日は久しぶりにみんなで長野にある律子の実家に帰るかな。お義父さんやお義母さんにも長い事会ってないし。そして途中遊園地に行くのはどうだろう。よし!俺はこの期間は家族に張り付いて離れないぞ!

高速を降りて最寄りのスーパーに立ち寄った。律子の好物を色々作る予定だ。おやきにあんかけ焼きそばにソースカツ丼に山賊焼、信州そばに牛乳パン。

「待てよ、これ全部作ったら多分叱られるな。とりあえずあんかけ焼きそばは決定だ!カツ丼の豚肉は冷凍にできるしキャベツは他にも使えるしまあ買っとくか!」結局あれもこれもと買いすぎたが、料理していくうちに減るだろうと思い車のバッグドアを開け荷物を詰め込んだ。

しかし帰る途中で、よく考えてみると「そうだ、男の料理に対して妻がよく後片付けがなってないとか、作りすぎとか高額過ぎるとか苦情が出るのは耳にするな。俺も気をつけよう。そもそも片付けながら調理するとか基本だもんな。帰ったらまず冷蔵庫を掃除するか、いや待てよ、場所が変わったとかそれもまた叱られるから注意しよう。兎に角細心の注意を払って行動しないとな。家に入る瞬間から気をつけよう」江川に知られると「やっぱり怖いんですね」と揶揄われそうだがこっちは真剣なんだ!

と言うわけで車を駐車場に停めて荷物を持って口の端を上げる。

「ただいまーっ」

パンロンドに就職した時から住んでいるアパートは玄関を入ってすぐ右が風呂などの水場、その向かいのドアが台所、その奥がグリーンのソファとテーブルが置いてあるリビング、その右の部屋が寝室だ。家族が4人になって狭くなりすぎたがどうせ引っ越すんだからまあいいかと言うわけでそのまま暮らしている。

「あれ」

みんないないんだな。

律子に連絡してみる『帰ったよ。みんなどこ?』

返信を待ってる間に冷蔵庫の奥に新しいものをしまう。

次に台所のあちこちを気づかれないぐらいに退けて拭く「どけふき」をしておく。

「色々大変だろうなあ」

しかしこう言うと人ごと感があるのでこれはNGワードだ。

そう思いながら床を拭く。大地の食べこぼしもこまめに拭いてくれてるんだろうなぁ。

洗濯も大変だよ。

取り込んで机の上に置き畳んでみるが詳しい場所は分からない。

子供タンスの引き出しを開けては閉めて場所を探す。

続いて寝室兼勉強部屋の拭き掃除。

勉強机の教科書を閉じて隅に置く。

もう緑も4年か、早いなあ。

背も高くなって。

ちょっと感動していると『ピンコン』と音がした。

律子から返信が来た。

「おかえり修造。今日はみんなで緑のお友達の家族とバーベキューしたあとお泊まりさせて貰うの。帰りは明日になります」

「了解」と返信を送った後、気が抜けてソファにゴロリと横になる。

「そう言えば今日は土曜日か」学校も休みだし、明日は遊園地に行けそうもないか」学校があるから次の土日まで長野には帰れないんだな。

そんな事を考えているうちに寝てしまう。

夕方目が覚めた修造はふと親方に会いたくなってパンロンドに行く。

「あら、修ちゃんいらっしゃい」「奥さん無沙汰してます」と言いながら中に入り、他の職人一人一人にペコッペコっと頭を下ると「修造さーん」と杉本が手を振ってきたり他の職人たちも「修造さん」「元気か修造」などと声をかけられる。

親方の横に立つ。

「今日あれ行かないですか?」

「おっ!良いねぇ」

あれとは駅前の居酒屋で2人どちらかが飲み潰れるまで呑んで、残った方が勝ちという勝負なのだが、修造は全然酔わないのでいつも親方が酔い潰れるという会の事だ。

「修造さん、俺も行って良いですか?話したい事があります」

「おっ!藤岡も参加するか!行こう行こう」

というわけで満員で騒がしい居酒屋のテーブルを3人で囲む。

藤岡は修造に藤丸パン食品テロ未遂事件の話をした。

修造は出来事の全てに驚いて口を開けたまま聞いていた。

「杉本が協力してくれて助かりました、風花や由梨も無事連れて帰ってくれたし」

「それと、鴨似田夫人はメイクのせいなのか全然顔が違って見えた。それに若返ってたし」

「美魔女ってやつだな」

「そうなんです親方」

そこに入り口から入って来た男に藤岡が手招きした。

「初めまして、藤丸パン横浜工場長大和田です」大和田は二人に挨拶した。

「どうもね、俺はパンロンドの柚木阿具利」

「リーベンアンドブロートの田所修造です」

「今藤岡に話は聞いたよ」

「そうなんですね、私も全然気が付かずお恥ずかしいです。いつの間にか木田や足打(あしうち)が裏切っていたとは恐ろしいです。そもそも木田がメールのやり取りをしていて先に全員の取り分の20%を振り込まれたそうなんです。みんな借金があって金に困っていた連中ばかりで残りの金欲しさに実行犯になってあの様な事に」

「皆事情は違うけど金に困ってたんだなあ」親方が腕組みをしながらうなづいた。

「どこででも起こりうる話なのかなあ。知らない間に何かが蔓延してたり」

「中々分かんないもんですよね」修造と親方が目を合わせて頷いた。

「それで仲介の犯人が捕まったそうなんです」

「捕まったんですか?それもまだ仲介?その更に奥に企業とかいるのかな?」

「どうなんでしょう?実はそれも鴨似田夫人の部下が炙り出したそうですよ」

「歩田と兵山が?そんなできるタイプだったっけ?」修造はあの『ややお間抜けな2人』を思い出した。

大和田が説明した「鴨似田夫人は資産家の娘さんで、他にも有能な部下が何人かいる様です。投資専門、調査専門、不動産も実は手広くやってる様ですよ」

「へぇ、俺の調査なんて訳ないんだな、日光にも付いて来てたし」藤岡は納得して言った。

「それに」大和田が続けた。

「もしどの企業か知りたいなら本当に引っ掛かってみたら分かると言ってましたよ!冗談じゃない」

それを聞いて皆空虚な笑いを浮かべた。

「まだまだ調査は続きますね」

藤岡は気を取り直して正面に座っている2人に改めて向き合った。

「親方、修造さん、今まで藤丸パンの事を黙っててすみませんでした。俺、今回の事で反省しました。今度由梨を連れて親父に会って来ます」

「ん?由梨?」

「はい、俺達結婚する事になりました。先日プロポーズして」

「それはおめでとう」

「おめでとう藤岡」

「ありがとうございます。それで言いにくいんですが俺と由梨は同時に退職しないといけなくなって」

「由梨は家庭に入るって事?」

「いえ、横浜工場で一緒に働こうかなと思って。そうなると2人共色々と覚えなくちゃいけない事が多くて」

「ゆくゆくは藤丸パン全体を見なくちゃならん訳だな」

「はい、すみませんご迷惑をお掛けします」

「良いって事よ!楽な道のりじゃないかも知れないが大和田さんに教えて貰いながら仕事を自分の物にしていくんだな」

「これで社長も安堵なさるでしょう」

「大和田さん、よろしくお願いします」藤岡は頭を下げた。

「そう!由梨と藤岡を頼んます」

「お役に立てる様に頑張ります」

その後藤岡は言おうか言うまいか迷った挙句切り出した「修造さん、リーブロのガタイのいい、江川さんの助手をしてた奴がいるでしょう?」

「あぁ、大坂?」

「そいつと立花さんはどういう関係なんですか?」

「え」そんな立ち入った事は聞いた事ないし「知らないな、なんで?」

「いえ、なんでもありません」

「2人が何?」

「忘れて下さい」藤岡は立ち上がった。

「お、帰るのか?明日また話そうな」

「はい、修造さんもまた」

そう言って頭を下げた。

藤岡と大和田が帰った後2人は飲み比べをしてやはり親方が酔い潰れる。

「親方、帰りますよ」と言って水を飲ませた。

「うーん修造まだ飲めるぞ」

「もう無理ですって」

親方は机に顔を伏せ、唸るような小声を絞り出した。

「修造の次は藤岡がいなくなるのか、俺はあと何回こんな感じの気持ちを味わうんだ」

いつもはこんな事を絶対言わない親方が酔った勢いで本音を吐露した。

「今は親方の気持ちが分かります」

同じ空間で自分が育てたものが無くなってしまう。

それは人でもあり、形作って来た技術とか人情でもある。

「寂しいですね」

「うん」

「またやり直しましょう。何度でもですよ。また煌めく星を見る瞬間がありますよ」

「なんだ煌めく星って」

修造に抱えられて親方は家路に就いた。

帰り道

夜風が気持ちいい。

今自分の所で働いている者達もいずれ何らかの理由で出ていく事もあるだろう。

「そう思うと寂しいな」

しかしこれは仕方ない事なんだ、それでも自分はパン職人を続けていく。

親方の様に「よし!分かった!これからも頑張れよ」って言わなくちゃ。

修造の目から何故か涙が流れた。

次の朝

泥の様に眠っている修造の腹の上に急にドスン!と衝撃が起こり、顔面に釣るような痛みが起こった。

「うわ」っと目を覚ますと大地がけらけらと笑って腹の上にまたがっていた。

「大地」

大地の脇を抱えて顔を近づけたら今度は「くしゃい」と言って小さな手のひらで酒臭い修造の顔をペチペチ叩いて来た。

「痛い痛い」うつ伏せになって攻撃を避けていると今度は背中の上で立ち上がってグラグラしている。

「すごく可愛くてすごくやんちゃだ」

「修造ただいま、昨日はごめんね」と隣の部屋から声を掛けながら律子はなんとなく小綺麗になってる部屋や冷蔵庫の中を見まわした。

「助かるわあ」洗濯機を回しながら綺麗になって片付けられているベランダを見ながら言った。

拭き掃除をするものの汚れが角に残っていく、それを分かっちゃいるが見て見ぬ振りをする「また年末にでも」なんて具合に。

日常の汚れは徐々に溜まっていくが中々綺麗にするのが億劫な時もある、それがスッキリ片付いていると気持ちいい。

修造の背中に乗り今度は「お馬さん」をしている大地は時々足で修造の両脇をポンポン蹴った「いてて」そう言いながらも息子の成長を背中で感じて嬉しい。

長女の緑は早速テレビの美少女戦隊シリーズを見ている「お父さんただいま」ちょっとだけこっちを見てまた画面の方を向いた「おかえり緑」

「律子、俺しばらく休みなんだよ、来週長野に帰らない?」

「長い休みなのね、じゃあお母さんに連絡しておくわ」

「うん」

大地を膝に乗せながらコーヒーを飲んでいると「お父さん、私お父さんのお城に行きたい、ねえお母さんいいでしょう?」と緑が言った「いいわよ」

緑はリーブロに来た時は必ずお城の様だと言っている。

「気に入ってくれて嬉しいよ。じゃあ後で出かけよう」

リーベンアンドブロートのテラスの花々は風に揺れて見ているだけで癒される。

修造は用事を済ませる為に工房に行ってる間に3人は選んだパンを食べていた。

「美味しいねお父さんのお店のパン」

「本当にいい店ね、お客様もいい表情だわ」

確かに、テラスのテーブルに座っている人々は癒しの空間で寛いでいる様に見える.

「あ、大地」

大地はぴょんと席から飛び降りて他のテーブルに1人で座っている高級そうなワンピースを着たお客の所に行って抱きついた。

ツバの大きい帽子を深々と被った女性客は「可愛いわ」と言って大地を抱き上げ顔を見つめてから抱きしめたが、それがとても長い様に思えて律子は「すみませんうちの子が」と言って大地を自分の所に引き寄せて席に連れ戻した。

「何かしらあの人、1人で店の方を向いて中を覗いてる様だった。ひょっとして他の店の偵察かしら、それに泣いてる様にも見えた」と思ったが、大地が他の席に走って行ったのでもうその事はすぐに忘れてしまった。

修造がテラスに戻って来た時はもう帽子の女性客は消えていた。修造はマーガレットを持って来て律子に渡した。

白い花びらに黄色い筒状花が可愛らしい「ありがとう」

緑と大地がてんとう虫を見つけて他にもいるか探している「癒されるわね」それは修造の目指しているものだった、それを同じ空間で分かってくれる律子がとても愛おしい。

2人はテラスの椅子に座って机の下で手を繋いだ。

「ああやって自分の理想に自分を近づける人間は耐えず努力している」店内から2人の様子を見ていた岡田克美は凄く冷静な目で横にいる中谷麻友に言った。

「その時は努力とは思ってない、もがいてる最中だから」

「修造さんってもがいてるんですか?」

「それは後で分かることであって、動いているうちは努力してるとは思っていない訳だし」

「きっと家庭の事も一生懸命なんでしょうね」

「それが当たり前になってるものだけが成功するのかも知れない。仕事にせよ家庭にせよ趣味にせよ」

「周りもそれに引っ張られて動き出してますよね。私達回転率良いですもの」

「回転率?」

「はい、ここに来てから修造さんや江川さんを見て効率よく仕事したりするクセがついたと言うか。勿論岡田さんもですよ」

「私も?」

「そうです、仕事のできる人なので」

「回転率ではなくて起動力ですよね」

そう言って岡田はその場から離れ布巾を持ってきた。

側から見たら全く分からないが岡田は照れながらテーブルを拭いた。

ーーーー

一方その頃パンロンドでは

親方がみんなを集めて由梨と藤岡を真ん中に立たせた。

「2人は結婚して藤岡の実家の家業を継ぐ事になった」

「えーっつ」皆驚いたが丸子と風花は由梨から聞いて知ってる風だった。

「おめでとう」

「よかったね由梨ちゃん」

「皆さん勝手してすみません」

「2人とも新たな生活を送るんだな」

「頑張ってね」

などと皆言っている中心底驚いている奴がいた。

杉本は目を見開いて「藤岡さんが居なくなるの」と言う言葉が頭の中でグルグル回っていた。

杉本の表情を見て藤岡は「ごめんな、お前のお陰で色々助かったし、これでもう前に進むしかなくなった。親方が求人を出すって言ってるから人員補充できたら俺が教えてから行くから」

なんだか自分のせいで藤岡が居なくなる様な気持ちになる。

夕方

杉本は風花を送って行く途中で慰められていた。

「藤岡さんが辞めるの言わなくて悪かったわよ。私は由梨ちゃんに聞いてたしぃ、龍樹は藤岡さんに聞いてると思ってたのよぅ」

杉本は半泣きで「びっくりした」とまだショックを受けている。

「求人も出してるんだし、まだ期間もあるんだし、ね」

「うぅ、修造さんが居なくなったのに藤岡さんまで」

「まあまあ、すぐ慣れるって」

帰ってから杉本はベッドに横になって考えた。

俺はどうしたらいいんだ。

修造の舎弟で藤岡の付属品

皆にそう思わせる程依頼心が強い

自分でも分かってる

後輩が入って来て「先輩これどうやったらいいんですかぁ」

そう言われてどうやって逃げたらいいんだ。

杉本は天井を見つめていた。

「とりあえず親方に聞けよって言うか」

ーーーー

杉本龍樹はそれ以降明らかに何か思い詰めた様に見えるので母親の恵美子は父親の茂に相談した。

「お父さん、ちょっと見て」と言って2人でそっと部屋を覗くと、電気の消えた部屋でスマホの画面をずっと見ている。

その後2人はこっそり1階に降りて相談した。

「ね、最近ずっとああなのよ」

「なんだろうな、風花ちゃんに振られたとか?」

「えぇ?とうとう見捨てられたのかしら」恵美子はオロオロした。

「よし俺が聞いてみるぞ」

茂は部屋に入ってスイッチを探して電気を点ける。

「なんだよ急に、眩しいな」ベッドで横になってスマホを見ていた杉本は横を向いて目をしばしばさせた。

「おい、何をそんなに真剣に見てるんだ。どうかしたのか」

「別にどうもしねよ」

「なあ」

「は?」

「最近風花ちゃんはどうした?会ってないのか?」

「俺仕事終わったらすぐ帰ってるから、でもパンロンドで毎日会ってるし」

「そうか、2人の恋は順調なのか?」

「なんだよ恋って気持ち悪いな」茂から恋とか言う言葉が出たのでちょっと引く。

「俺用があるから出てってくれよ」

用ってスマホ見てるだけのクセに、そう思いながら茂は部屋から出た。

両親の心配を他所にその後も杉本はずっと画面を見ていた。

作業中

杉本は350gに生地を分割をしていた。
側から見てもモヤモヤと物思いに耽ってるように見える。分割だけを続けていたので台の上にいっぱいになってきた。

見かねた由梨が生地を丸めて箱に入れるのを手伝いながら杉本に話かけて来た。

「あの、忙しいのに2人で抜ける事になってすみません」

「俺どうしたらいいか分かんなくなって、でも藤岡さんには世話になったし幸せになって欲しいと思ってる」

「はい、私も幸せになって欲しいです。だから精一杯手伝おうと思って。凄く大変そうな所も見てしまったし」

「ああ、あれ」2人とも捕まったり走ったり投げ飛ばしたりしている藤岡を思い出した。

「はい、なので絶対にこれからもそばに居ようと思っています」

由梨の瞳からは決心の様なものが漲っていた。

「強いんだなあ」由梨の事を藤岡のひっつき虫と思っていた杉本は感想を洩らした。

「それに引き換え俺は急に足元がぐらぐらしてる気分」

なんだかいつもと違う杉本を見て風花は心配になってきた。

最近は一緒に帰らずに先に帰ってしまう。

「いつもなら待っててくれるのに」

仕事帰り

風花は杉本の家を訪ねた。

「あら、風花ちゃん!いらっしゃい」風花が来たので恵美子は大喜びで迎え入れた。

「龍樹いますか」

「ええ、2階にいてるわよ。ねえ、最近あの子様子がおかしいけど職場ではどうなの」

「はい、元気ないです。だから様子を見に来たんです。家ではどうしてるんですか」

「帰ったらずっと部屋に篭ってスマホ見てるのよ、様子見てくれる?」

「わかりました、お邪魔します」

風花は2階に上がり暗い部屋で何を観てるのかスマホを取り上げて見た。

「パンの動画見てたの」風花も知ってるような有名シェフが懇切丁寧にパン作りの手順を解説している。

「そう、返して」

「ごめん」

「俺1人じゃ結局なんも分かんないから」

「そんなことないよ。試験だって受かったじゃない。どうしたの急に。藤岡さんが辞めちゃうのがそんなに負担なの?」

「俺は俺の馬鹿さ加減に気が付いたんだ。今までのいい加減な俺を思い出すと腹が立つようになったんだ。それだけだよ」

だから毎日先輩の動きを脳内で蘇らせたり、パンの動画を観たりして自分の中に蓄えを作ってたんだ。

ある時 それは脳内で完成した。

「おっ」

親方は杉本の動きが今までとまるで違う事に気がついた。

今までは藤岡の指示通りにしてて1人でやらせると急に失速したりしてたのに「生まれ変わった?」と思わせる程何かが違う。

こいつとうとう自分で考えて出来る様になってきたんだな。今まで人任せでいい加減だったのに。

そして向こうから杉本を見ている藤岡と目があって

2人してニヤリと笑った。

親方と藤岡が見ていたもの。

それは開眼した者だけが掴む『星の輝き』と修造が呼んでいた事象の事だ。

ある日突然悟ったことがあってメキメキと上達したりする。

本人も気が付かないうちに今までの事が全て自分の物になり、技術と実力となって現れる。

親方はあの時酔っ払っていたので修造の言った事は覚えていないし、修造はこの事を知らないし、勿論杉本も知る由も無い。

が、ここに1人のパン職人が誕生した。

土曜日

修造一家は早朝の新幹線はくたかに乗った。

長野駅からレンタカーを借りて計画通りファミリーランドに家族で行く。

乗り物に乗った後、ウサギのふれあいコーナーに行くと大地がウサギを珍しがって追いかけ回した。大地を捕まえて「優しく撫でて」と説得して2人でなでなでしたり、アスレチックを楽しんだりと子供達の楽しそうな顔を見て自分も満足していた。

そうしながらもリーブロでの忙しい最中にいた自分と、このレジャーランドでの自分の違いに戸惑う。パン作りには計画を立て様々な生地の発酵と焼成を組み立てて進めていかなければならない。いつも自分はその事に夢中になって他の事が目に入らなくなる。

だが家族と楽しんでいる自分もまた本物の自分だ。

時々その考えが頭に浮かぶ。

こんな時自分の中にある『違和感』と言う感覚がしっくりくる。

スワンボートに乗って緑と2人でペダルを踏んでいると水のバシャバシャいう音がボートの中に響く。

キラキラした水辺とその周りの木々が煌めいて見える。風に乗って木々の香りがスワンボートに届くと故郷の山の事を思い出す。

そう、自分はもうすぐこの様な山の自然の中で、自分のパン作りに集中すると決めている。

家族と共に自分だけの絶対的なパン作りを追求するのだ。

そんな事を考えながら修造は律子を見つめた。

律子も修造の視線に気付き微笑み返した。

健康な修造の白目はいつも青く光り、輝いている。知り合った頃からよく修造の眼を覗き込んだものだ。

律子もまた、同じ所で修造が長い時間一緒に過ごす毎日が訪れるのを楽しみにしていた。

夕方

律子の父親の巌(いわお)と容子、妹のその子が待ち構えていた。

巌は厳しい表情で修造一家が来るのを待っていたが、孫達の顔を見た途端デレデレと目尻を下げた「みっちゃん、だいちゃーん、いらっしゃい」

「おじいちゃんおばあちゃん、その子ちゃんこんばんは」

「疲れたろう、さあお入り。みっちゃんの好きな御馳走も用意したよ」

孫に取り入る事に全力を注ぎ過ぎて修造は目に入らない。

いつもの事なのでその子に挨拶して中に入る。

大地はドタドタと長い廊下を走って突き当たりの壁にドン!と飛び蹴りを喰らわせた。

「こら、大地」

律子の実家が来られたら一大事だ。

流石に大地を抱き上げて「やっちゃダメ」と叱ると足をジタバタさせて飛び降り、巌の所に走って行ったので「大地!」と律子が叱りつけた。。

「元気でいいじゃないか、だいちゃんはエネルギーが有り余る程あるんだよ。まだ2歳なのにいい蹴りだったな!将来は格闘家になるかい?」巌は膝から背中によじ登る大地を見ながら言った。

修造は壁を調べてどうもないのでホッとした「もうすぐ空手道場に連れて行こうと思っています。緑も通っていますし」

「そうかそうか、空手を習うのかい?だいちゃんなら壁を突き破れるかも知れないよ」

「まただわ、お父さんはいつも子供達に甘すぎるわよ。大地の為にならないわ」と律子に叱られる。

「躾はお前達の仕事だろ、おじいちゃんはたまに会うんだからだいちゃんに嫌われたくないもんねぇ」と巌は膝に座って「うん」と頷く大地に笑顔を向けた。

修造は律子に叱られるから言わなかったが、ジャンプからインパクトまでの的確な蹴りの姿勢が確かに2歳児とは思えない『絶対才能あるな、早く道場に連れて行こう』

食事の後

庭で巌と容子が孫と花火を楽しむ姿を見ながら縁側に座って道の駅で買った北アルプスブルワリーのクラフトビールを飲んでいた。

律子が台所の片付けを終えて花火に参加したので、巌は修造の横に座った。

修造は黙ってビールをグラスに注いで渡した。

「空手はお前の実家の近くにある道場に通わせるつもりなのか」

「はい、そうするつもりです」

「そうか」

そのまま2人は何も話さずに終盤の線香花火が小さく弾けるのを見ていた。

「律子を頼むぞ」

「はい」

茂の方を向くと、暗い中に花火の赤い色がうっすら当たり、以前よりも歳をとり小さく見える巌の横顔があった。

ーーーー

9日間の休暇が終わり

修造が家族と過ごしてリフレッシュして帰って来た。

正直、皆修造が休んで忙しさに拍車が掛かっていたのでホッとした。

「みんな急に抜けてごめん」

明日から1周年記念イベントが始まる、皆準備をしている最中だった。

「大丈夫ですよ」と言いながら重戦車の様な修造の仕事ぶりに皆内心『ポイントの高すぎるシェフ』と思っていた。

しかしそこで修造は言わなくてもいい事を言ってしまう。

発酵カゴを沢山乗せた板を持って立花の横を通り過ぎた後で振り向き「立花さん、藤岡って知ってる?」と聞いた。

丁度ボールを抱えてホイッパーで生クリームを立てていた立花が振り向いた途端にボールを滑らせて下に落とした。ガシャーンと音がして、横にいた江川の顔にクリームがビチャっと飛んだ「きゃっ」慌てた江川は後ろにいた登野の足を踏んだ「痛い」手に持っていた天板が2枚ともバーンと下に落ちてラスクが散乱した。

ボールはクリームを撒き散らした後、グワングワンと音を立ててその場でグルグル回っていた。

大坂はボールをシンクに入れて、立花がホイッパーを手に持って立っているので脇に避けてタオルであちこち拭きながら修造に何か文句めいた事を口パクで伝えている。

惨状を見ながら修造は「ごめんみんな」と言った。

大坂は下を拭いた後ホイッパーを手から離して「休憩行きましょう」と言って2階に連れて行った。

江川が「僕も行くよう」と着替えに行こうとしたので「まあまあ、ほらこれで拭いたらいいでしょう」と皆に引き止められる。

2階の休憩室では

大坂はタオルを洗って立花の手や靴のクリームを拭いてやっていた。

「ごめんなさい、拭き掃除ありがとう。修造さんの口から意外な人の名前が出たから驚いて」

「藤岡って言うんですね」

「そう、もうあまり思い出さない。もう何年も経ってるの」

何からなのか聞かなくても分かってる。

「あの、さっきの事を見ていてこのままだといけない。俺はそう思いました。仕事と好きな人どちらを取るのかと言うとですが、もし振られたら仕事し辛くなると思います。でももっと大事な事なんです。この先の事なんです」

「ありがとう大坂君。この先、私将来は自分のお店を開きたいの。だからそれまでに沢山のことを勉強しなきゃ」立花は話の焦点をぼやかせた。

「俺も一緒に

その

働いても良いですか」

「今の仕事はどうするの」

「修造さんはわかってくれると思います。俺の立花さんに対する気持ち。俺は立花さんを何よりも大切で愛しています」

「私は大坂君にそんな風に言ってもらえる様な人間じゃ無いの」

「どういう意味ですか」

「私は嘘つきだから近寄っちゃダメ」

「確か前にも同じことを言ってましたね」

大坂は立花が藤岡と駅前の喫茶店でお別れした時に泣きながら「私は嘘つきだからこうして1人で歩いてるの」と言っていたのを思い出した。

「嘘つきなんじゃ無くて本当の事を言ってなかっただけでしょう。あの超絶イケメンを愛してるから本当の事がいえないのなら、俺みたいになんとも思ってない奴には言えるでしょう」

その言葉を聞いて立花は堰を切ったように涙が止まらなくなり大坂の胸に縋り付くのと大坂が抱き止めるのが同時になった。

「私胸に傷があるの、でも藤岡君にはどうしても言えなかった」

「もう昔の事ですよ。俺に言ってくれてありがとう。もう大丈夫、自分を苦しめるのとさよならしよう。俺と一緒にもっと自分に優しくしよう。時間が色んな傷を消してくれる」

立花は大坂の胸の中で小さく「うん」と頷いた。

おわり

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

おまけ

風花

俺あと2年したら

製パン技術士二級の

資格試験受けるつもり

うん

そしたら俺と

うん、受かったらね

やっぱそうなる?

うん

私待ってるね

うん

51パン職人の修造 江川と修造シリーズ prevent a crisis 杉本

パン職人の修造 江川と修造シリーズ prevent a crisis 杉本

東南駅から西に続く東南商店街

その真ん中にある人気パン店パンロンドでは今日もオーナー(通称親方)がパン工場の真ん中に立ってパンを成形していた。その周りには元ギャンブラーの佐久山浩太、のんべえの広巻悠二という古株の職人が2人と、イケメンで仕事のできるタイプで実はYouTuberの藤岡恭介、最近また髪の色が『肌の色に合うから』と明るめになってきた元ヤンキーの杉本龍樹、実家が呉服屋の花嶋由梨が忙しそうに働いていた。

由梨は綺麗な湖のほとりで藤岡に告白されて以降、夢の様なふわふわした毎日を送っていた。誰かから大切にされるってこういう事なんだわなんて実感している所だ。

先日も2人で動画を撮りに行って楽しく過ごした。

ーーーー

さて

今日はその由梨と藤岡、そしてパンロンドの店員で杉本の彼女の森谷風花が杉本の家にお呼ばれで来ていた。

3人を呼んだのは杉本の両親茂と恵美子だった。

恵美子は一際明るい声で「まぁーみなさん今日はよくお越し下さいました。ゆっくりしてって頂戴ね」と言ってテーブルに頑張って作った料理の数々を並べた。

この場合1番気を使うのは杉本と付き合っている風花だ。

「私も手伝います」と、一緒に小皿や箸を並べた。

「あら、風花ちゃん助かるわあ。龍樹なんて帰ってきたらなーんにもしないのよ」そう言って渾身の笑顔を風花に向けた。

それを見ていた藤岡は「こりゃ取り込もうとしてるよね」と言葉に出したが

「取り込むって何をですかぁ藤岡さーん」自分の前にいっぱい皿を置いて鶏の照り焼きを頬張っている杉本に言われる。

「聞こえてたんなら言わせて貰うけど、お前がだらし無いから風花ちゃんを自分達の力でお前と結婚させようとしてるって事」

「えー、俺が結婚する日が来るとは思えないなあ」

「確かにな、ほんとに何も考えてないもんね」

「そんな事ないですよぉ」

「何がそんな事ないんだ龍樹、みんなで食べよう!風花ちゃん龍樹の横に座って!さあどうぞどうぞ。ローストポークもあるよ」父親の茂も笑顔を振りまいた。

茂が皿を差し出すと「風花ちゃん、私が取り分けるわね」と恵美子も連携プレーを取った。

みんなが談笑しつつ、と言うかさながら司会のように恵美子と茂が代るがわる話を振ってくる。

「由梨ちゃんは藤岡さんとお付き合いしてどのぐらいなの?まあ、フレッシュで良いわねぇ」

「藤岡君タワマンに住んでるんだって?眺め良いだろうなあ」

などと会話を広げた後、茂が最大限さりげなく「ところで風花ちゃんは結婚とかいつ頃したいとかあるのかなあ」と切り出した。

「えっ結婚ですか?」風花は疑問いっぱいの顔で隣に座って今度はピザをモグモグ食べている杉本を見た。

「まだまだと思います」杉本が結婚について考えてるとは到底思えないし、大事にはして貰ってるものの、真に信頼に値するかどうかはわからない。

まだまだと聞いて茂と恵美子は小皿か何かを取りに行くふりをして台所に集合した「お父さん、風花ちゃんの気持ちも分かるわね」「もし風花ちゃんに逃げられたらあいつに風花ちゃん以上の彼女が見つかるとは到底思えない!ラストチャンスかもしれないぞ母さん」

こそこそ話す2人を見て藤岡は笑いそうになった「大変だな」

食事会も終盤、藤岡は気の毒な2人の為に話を振ってやった「若くして結婚するカップルも珍しくはない。みんなでいい旦那さんを育てるという方法もあるよ」と、風花の方を見て言った。

それを聞いた茂と恵美子もウンウンと目を輝かせて頷いた。

それを聞いた由梨は「結婚」と呟いた。今のは杉本と風花の事と分かってるが、藤岡は自分の事をどう思ってるんだろう。いつか結婚とかする時が来るのかしら。

ーーーー

次の日

昨日は特に茂達に何か答えを出した訳でもなく杉本に対して期待もしていないまま風花はいつもの様に仕事をしていた。

「風花、仕事終わったらもんじゃ焼き食べ行こう」

「良いけど」

「じゃあ後でな」

そう言ってパンを焼きに戻った杉本を見て風花は「本当に何も考えてないよね」と呟いた。そして横にいる柚木の奥さん丸子(まるこ)に昨日の事を話した。

「私は杉本君良いと思うけどなあ、ほら、以前も風花ちゃんの為に犯人を突き止めて捕まえてくれたじゃない?一緒に暮らして気楽な事と、何かあったら相談できる人、自分を裏切らない人。その3つがあればオッケーよ」

丸子はなんだか結婚式の挨拶の3つの袋みたいな話をした。

大金持ちでも居心地悪くては長く一緒にはいられない。

夕方

東南駅の裏側の通りにある行きつけのもんじゃ焼き屋で向かい合って座る。

風花はもんじゃ焼きをコテで掬ってフーフーしながら食べている杉本に「私達ずっと同じ空間に何年も一緒にいられるかな」と聞いてみた。

「俺は風花とならいられるな」

「そうかな」実際にやってみないとわからない。

「そういえば修造さんも結婚前に律子さんと同棲してたって言ってたな」

「知ってる、律子さんが修造さんのアパートに移り住んで来たのよね」

「2人とも1人暮らしだったから」

「それは素敵だと思うけどお、自分達の事になると話は別よね」

「なんでぇ」

「だって、ずっと自分の旦那さんを叱ったり注意したりするのって大変そうだわ、生活とか子育てとかあるのよ?」

「叱られるの前提かあ確かに大変そうだなあ」

「他人事じゃない」

明太餅もんじゃをふーふーしながら杉本はちょっと考えてみた。『結婚を申し込んだら絶対風花は俺に「〇〇したら結婚してあげる」とか言うんだろな』

「今度は何だろな」

「何だろなって何の事よ」

「えっ何でもないない、すみませーん!おばちゃーんチーズ追加」

話を誤魔化す為に杉本は店の女将に大声で追加注文した。

ーーーー

休みの日、由梨と藤岡はYouTube用の動画「各駅停車パン屋巡り」を撮る為に日光に来ていた。

電車を降りる前から動画を撮り始める。

電車が去って行くのを撮った後、観光客の流れに乗って一緒に日光街道を動画を撮りながら歩き始めると、すぐに目的のパン屋さんにやって来た。

1階はベーカリー、2階はカフェで2人は可愛らしい小花柄の皿に乗って運ばれてきた厚切りのパンを3切れに切ったシナモントーストを分け合って食べた。

コーヒーを飲みながら2人はこれからの行き道について話したり、さっき撮った動画をチェックしたりしていた。

「この先の神橋の手前にも同じベーカリーがあるんだ、その横の坂を登った所にあるホテルにもパンが置いてるよ」

「はい、そのホテルって150年も前にできたんですか?」

「そうらしいよ、そのホテルでのパンの外販が始まったのが1968年だから55年以上になるよね」

「すごい歴史がある所なんですね」

「そこも後で覗いてみようか」

2人は店を出て、また歩いて赤い屋根で2階建ての建物の角にあるパン店に入った。

確かに歴史を感じる佇まいで陳列も上品だ。

「横浜の歴史のあるパン屋さんを思い出すな。雰囲気が似てる」

「そのお店も随分前に出来たんですか」

「確か明治半ばにできたんだよ、130年以上経つよね。そうだ、今度行ってみよう、言いたい事が伝わるかも」

「はい」

「そこ俺の実家の近くなんだ、ほら、こないだ言ってた満天星躑躅(どうだんつつじ)がある所」

「行ってみたいです」と言ってから藤岡の実家に行ってみたいと言っている事に気がつく「あの」ちょっと赤くなった由梨を見て、藤岡は微笑みながらねじりパンの『フレンチコッペ』をトレーに乗せた。

由梨は同じトレーにフルーツケーキ風の中味が入っている『ブランデー』という甘いパンをを照れながら乗せた。

「そこにも今度行ってみよう」

その後2人は神橋から川の流れを眺めながら話した「まだまだ行ってないパン屋さんがあるね」

「はい、どの店もお客様をお迎えする為に朝早くから色んなパンを作るけれど、どんな地域のどの店も同じパンじゃない、さっきのパン屋さんみたいに初代の製法を大切に守り続けて結果的にそれが地域の歴史を作ったり、パンロンドみたいに商店街に根付いて自ら作っていっている客層もあるんだなと最近になって気がつきました」

「そうなんだ!いい事言うなあ。そういう意味でも奥が深いよね、知らない事も沢山ある」

「はい」

そう言いながら信号を渡り、東照宮に向かって坂道を歩き出した。

「結構人が多いね」

最近は歩く時は手を繋ぐのが習慣付いていて、お互いの手の温もりが伝わり心も温かくなるのを感じていた。

幸せと言う言葉は最近になって初めて気がついた程、由梨は嫌な子供時代を過ごしてきた、街の人達に根も葉もない悪い噂話をばら撒かれて外を歩くのも辛かった。

「あの」

「うん」

「す、好きです藤岡さん」

「ありがとう、俺もだよ」

人に聞かれると恥ずかしいが、どうしても今伝えたかった。

「今日は由梨の写真をいっぱい撮ろう」

「はい、藤岡さんの写真も撮りたいです」

日光から帰った夜

藤岡がタワマンの自室で動画を編集していた時電話がかかってきた。

「はい、ああどうも、え?何故それを俺に?そうなんですね。じゃあ調べに行きますよ、それじゃあ」

そう言って電話を切った後「さてどうするかな」と大きな窓の夜の街を見ていた。

ーーーー

次の日

パンロンドで作業中

藤岡は親方にお願い事をした。

親方の返事は「勿論いいけど杉本は何て言うかな」

「何も言わずに協力すると思います」

「そう?」

親方は杉本に手招きした。

「何ですかぁ親方」

「お前な、転職しろ。明日から横浜の工場へ行ってもらうから」

「えっっっっ」目を見開いた杉本の額から汗が流れた。

「パンロンド2号店?」という問いかけに親方と藤岡が違う違うと手を横に振った。

ーーーー

その翌日

親方の言った通り本当に横浜の工場にやって来た。

1人で工場の裏側みたいな所に立った。

「ここ?」工場の周りは高い塀で覆われて入り口がよくわからない。

「広いな」やっと裏門みたいな所を見つけた。この周りだけはブロック塀では無く白い鉄製の柵になっていて、植え込みの間から中が見える。

門の向こうに4人男が立っている。

「ユニフォーム着てるからここの人だよね」杉本は隙間から顔をつっこんで覗いた。

「明日、分かってるな」

「はい」

「14時決行だ」

「はい」

4人は打ち合わせ中らしく真剣な面持ちだ。

年齢はばらつきがあり、50歳ぐらいの目が細くて釣り上がった男の名札には足打と書いてある。その隣の40ぐらいの男は最上、後の2人は若くて大島と京田。

「あの〜すみません、今日からここで働くらしい杉本なんですけどぉ」

「今日から?らしいってなんだ」

「聞いてないな」

「大和田って人に会えば分かるって言われて」

「大和田工場長の事かな」

「他にいないだろ」

「じゃあ入れよ」

杉本が中に入って建物のドアを目掛けて歩き出すと「待て」と年配の男が引き留めた。

「お前俺達のさっきの会話聞いてただろ」

「何の事ですかぁ」

「聞いてなかったのかな」

「何の事かわからないのでは?」

「まあいい行け」

そう言われると気になる。

何て言ってたっけ?明日14時ケッコウ?

ケッコウです?

「コケコッコー」と言いながら工場の裏口らしい鉄のドアを開けた。

振り向くと4人の姿は消えていた。

「大和田工場長いますかー」

小学校程の大きさの施設の中は概ね2つに仕切られていて、一つは工場に入らなくても通れる様になってる入口から出口まで続く通路で、もう一つは工場だ。ガラスで仕切られていて通路からも中で作業をしているのかよく見える。工場は奥の機械の所から大型の装置が延々と繋がってそのまた奥へと伸びている。

「大きな工場、それにいい匂い」

機械の部屋の方からライトグリーンの作業着を着た体格のいい50代ぐらいの男が走って来た。

「杉本龍樹君?」

「そうっす」

「君天才って聞いてるけど」大和田悟は上から下まで杉本を見回した。どう見てもアホっぽい元ヤンだ。

「そう、俺天才なんすよ。書いたら色々覚えられるんで、でも勉強は嫌いかな」

(ご存知の方もおられるかもしれないが、杉本は書けば何でも覚えられる、なので取り敢えず何でも書くように藤岡に躾られている。ただし本人も言っているように勉強する気は無い)

「へぇ、杉本君ここの施設について説明するよ」大和田は天才の話は嘘だったと思いもうそれ以上は聞かず、施設の説明をする為に歩き出した。

「ここって何を作ってるんですかぁ」

「何も知らずに来たのか?ここは藤丸パン横浜工場だよ」

「えっ俺小学生の時の給食のパンが藤丸パンでした!すげ〜」

「藤丸パンは3代続く製パン工場なんだ。横浜は勿論関東一円にパンを卸している」

「スーパーでお母さんが買って来てます」

「そう?」大和田は満足気に頷いた。

大和田と杉本はまず宇宙服のような繋ぎに長ぐつ、マスクとネット帽子に着替えた。その後風を浴びて消毒液の上を歩いて中に入った。

巨大な漏斗から材料がミキサーに流し込まれて生地が大型のミキサーで捏ねられる所を見学。生地が捏ね上がると巨大なボックスに流し込まれる「すげー」もう少し進むと分割された生地が絶え間なく流れてくるレーンをみた「すげー」そして長い長いオーブンから焼きたてのパンが流れてきて、最後は自動で袋に入れられた後、箱詰めされて出荷されていく「すげー」

「面白いだろ?」

「初めて見たな、パン工場」

「今日は何しに来たか分かってる?何か分かったらメモして私に渡すようにね」

「はあ」

「あ、ここで待ってて、電話がかかって来たから。はい大和田でございます」と、ちょっと離れた所に走って行った。

「俺、何しに来たんだっけ?」昨日藤岡に指定された住所に行って何か探って来いと言われた「無茶言うな」とりあえずそこにあったホワイトボードに今日の事を書き出す。

明日だから18日

14時結構、血行、ケッコウ、決行

4人

大和田工場長

トンネル型オーブンは長い

俺はイケメン

「このぐらいかな」とペンを置くと同時に

「あんた何やってるの?」と50ぐらいの女性が声をかけてきた。名札の名前は小田だ。

「今日のトピックを書いてて」

「あんた見かけない顔だね、新人かい?年はいくつなの?」

「今日初めてここに来ました、新人の杉本君です。21です」

「あれ!おばちゃんの息子と同じだよ。可愛いねぇ」

「可愛いでしょ」

「ところでこの4人って何の事だい」

「裏にいた4人の男が相談してて、明日14時ケッコウだって」

「何を?」

「わかんない、何だと思う?」

「うーん多分この4人は足打達だね。あたしゃこいつにお金を貸しててね。なかなか返さないんだよ」

「悪いやつだなあ」

「多分何か悪巧みしてるんだよ」

「そうかなあ」

「そうだ、これも書いておこう」ホワイトボードに4人組の名前を書いた。

そこへ大和田が戻ってきた「小田さん、今日は杉本君を面倒見てくれない?色々教えてあげてね」そして杉本には「頼んだぞ」と言ってきた。そして杉本が書いた文字を写メで撮って何処かに送信した後慌てて消していた。

「わかりました、じゃあ行こうか杉本君」

「はーい」

2人は流れてきたパンをチェックする所に行った。

6レーンで流れてくる小型のあんぱんの変な形のものをはねるのだ。

小田はこういうのとかああいうのはダメとか説明して一緒に作業を開始した。元ボクサー志願者だった杉本は動体視力を鍛えていただけあってすぐにベテラン級の仕分けをして周りにいるパートのご婦人方を驚かせた。

「あんたできる子じゃないの」

「でしょ」

「ここが包装前の最後のチェックポイントなのよ、この前にも異物混入を防ぐふるいにかけたりX線で異物がないか見てるの、コンピューター制御されててね、それは工場長だけがパスワードを知っていて厳重に管理されているのさ」

「へぇーっすごーい」

「もしこんな大きな工場で異物が混入してたら怪我や健康被害への賠償金とか商品の自主回収、営業停止になってニュースに出て会社が傾いたらあたしゃ路頭に迷うよ」

「こわーい」

「だから気をつけないとね」

「はーい」

ーーーー

夕方

杉本がパンロンドに戻ってきた。

親方が声をかけた「よう、お疲れさん」

「ウイッス」

「今日どうだった?」

「藤岡さ〜ん、自分で行けば良いじゃないですか〜」

「それがダメなんだよ、だからお前が行ったんだろ」

「そうなんですか〜」

「で、何かわかった?」

「明日14時ケッコウ、って4人が言ってました。それと金を返して欲しいおばちゃんが1人」

「明日なのか、、、その4人ってどんな奴?」

「50歳ぐらいの足打と40ぐらいの最上と、大島と京田です」

「それと?」

「それと今日俺は(おばちゃん達に)モテモテでチヤホヤでした」

「それは良かったね。明日も行ってくれな。何かわかったら俺と大和田さんに電話してくれよ」

「はーい」

「モテモテでチヤホヤってどういう意味かしら」と話を聞いていた風花が由梨に聞いてきた「さあ、私にもわかりません」しかし藤岡が何を考えてるのかもわからない。

「風花、もう帰る時間だろ?送ってってやるよ」

「うん、龍樹、今日どこへ行ってたの?」

「藤丸パン横浜工場」

「えっ藤丸パン?なんで?」

「わかんない。見聞きした事を言うように言われたな」

「明日も行くの?それともずっとそこで働くの?まさか危険な事じゃないよね?そんなスパイみたいな事」

「スパイ?今日は変な形のパンを仕分けしてたけど?じゃあ俺明日早く出かけるから」

「わかったおやすみ」風花は繋いでいた手を離して杉本を見送った後無性に心配になってきた。

知り合ってからパンロンドでずっと一緒に働いてたのに急に他所で何をしてるのかわからない。凄く距離が離れた気がする。

「大丈夫なのかしら」

ーーーー

次の朝

横浜工場の朝は早い。

もうとっくに皆働いているが杉本は6時出社と言われていた。

丁度昨日の4人が裏庭で屯している。

植え込みの影に隠れてちょっと話を聞いてみる。

「昨日パスワードを書き換え済みだ」足打が言うと

「その後で機械を操作してあれをばら撒くぞ」最上も残りの2人に言った。

「はい」

パスワード?ばら撒くの?何をばら撒くの?

4人が歩き出したのでとりあえずつけて行く事にする。

工場の中に入り、歳上の2人と若者2人は別れて歩き出したので歳上の方について行く。

足打の持っていたファイルからメモらしきものが落ちた。

「おっ」

それをすかさず拾う。

大文字小文字と数字がいっぱい書いてあるのでまたそこにあったホワイトボードに書き写した。

「おい!何やってる!」

「あ、探しに戻って来た」

「こいつ昨日の」

「やっぱり怪しい奴だったんだ!メモを返せ!」と言ってメモを取り上げてホワイトボードの文字を慌てて消した。

「あんた達の方が怪しいでしょーよ」

「うるさい!来い!」

「そうは行くか!」

杉本は足打の手を振り払い拳を握って2人にファイテイングポーズを取った途端後ろにいた男に棒の様な物で頭を殴られた。

「いたたた」

足打達は倉庫の隅の扉付きの収納部屋に杉本を連れてきて口をガムテープで塞ぎ、両手を後ろで縛って閉じ込めた。

「時間までここで大人しくしてろ」

ーーーー

藤丸パン横浜工場の表玄関では大和田工場長と木山課長が並んで立っていた。

「もうそろそろ来られるな」

「後何年かしたら次期社長になるんですかね」

「そうなると社長もお喜びになるんだが、今の所そんな気はなくて困っていらっしゃる」

「ふーん、あ、あれ来ましたよ」

スーツが決まっている次期社長が早足で歩いてきた。

「ようこそお越し下さいました」

「大和田さんご無沙汰しています。昨日メールありがとう。早速行きましょう」

そういうと工場に入って行った。工場の裏側は昨日杉本が入って行った通りだが、表から入ると事務室や応接室があり、その横は配送の為の広い施設がある。その場所から関東一円にトラックでパンが運ばれていく。

「足打達4人を呼んで下さい」

「はい」木山課長が4人を呼びに行った。

ところが

待てど暮らせど木山が戻ってこないし4人も来ない。

「遅いな」

「どうなってるんでしょうね」

「見に行こう、案内して貰えますか」

「あっちです」

館内にある工場の横道から作業中の従業員を見ながら探したが「いないですね」とうとう裏の扉までたどり着く。

「外に出てしまいました」

「何処に行ったんだ」

「ここだよ若様」

「お前が足打?」

ーーーー

話は少しだけ遡るが

藤丸パン横浜工場の裏口付近にあまりにも杉本を心配し過ぎている風花とそれに着いて来てと頼まれた由梨の姿があった。

「ここのはずなんだけどいるかな龍樹」裏口付近の鉄柵から顔を突っ込んで覗く。

「中で働いてるんじゃないですか?」

「スパイなんて大丈夫なのかな?」

そう言われると心配だ、しばらくの間2人はじっと建物を見ていた。

するとここの従業員らしい4人が出てきた。

「ねえ、あれって龍樹の言ってた4人組かな?」

「どうなんでしょう、何を話してるんでしょうか?」

由梨が聞き耳を立ててると風花が「ねえ、あれ見て?あの陰から見てる2人」

「あっ」由梨が驚いたのも無理はない「鴨似田夫人のお付きの2人だわ」

その2人とは鴨似田フーズの従業員歩田と兵山だ。何故か木の陰から4人の様子を窺っている。

「何してるのでしょう」

風花は2人に近づいて小声で「ちょっと」と合図してみた。

歩田が気がつき由梨に頭を下げた。

「何してるの」

「奥様に言われてあの人たちを見張ってる所です」兵山も顔を近づけて来て小声で言った。

「何で」

「それは」と言いかけた時、1人の作業員が出てきて4人に声をかけた「次期社長がお前達を呼んでこいとさ」

「あの新人の杉本って言うのからやっぱり情報が伝わったんだ」

「そいつは?」

「倉庫に閉じ込めてます」

「そうか」

それを聞いて風花は死ぬほどびっくりして心臓がバクバク言い出した。

「龍樹が」足が震えて止まらない。それを見た由梨が、騒いで捕まるより4人の後を付けようと思ったその時、大和田達が裏口から出て来た。

「あっ」それを見て由梨も心底驚く。

そしてさっきの会話に続く。

「ここだよ若様」

「お前が足打?」

「あっ!木田!何やってる。お前は何でそっちにいるんだ」

「工場長、あんた何も知らなかっただけなんだよ、計画はずっと前から始まっていたんだ」

「馬鹿野郎!何をする気だ!」大和田は木田に掴みかかったが逆に足を引っ掛けられて押さえつけれる。

「やめろ木田!」

「若様なんて言われるのも今のうちだよ。お前の父親には悪いがこれから藤丸パンは終わりを迎える。大量に細かい針先の入ったパンを販売して失脚して貰う」足打が上擦った声を出した。

「そうはいくものか!AIセンサーがついてるんだ、金属片などの異物が入った物は跳ねられる」

「反応しない様にすればいいだけの話だからな」

「パスワードが無ければ変更できないんだから無理だろう」大和田も言った。

「大和田さん、あんた油断して俺と一緒の時にもパスワード打ってただろう」

「うっ」

「もうすでにパスワードを変更してある」

大和田は押さえつけている木田を跳ね除け制御室に走って行こうとしたが京田達に取り押さえられ、刃渡り10センチのナイフを首に当てられる「ううう」

「おっと、もう13時を過ぎている、14時からはいよいよ藤丸パンで1番売れているバターシュガーブレッドの※本捏ねの時間だ、俺たち準備があるからそれまで大人しくしてて貰おうか。おい!若様。お前も来い!大和田が怪我してもいいのか」なんと2人は捕まって連れて行かれた。

風花と由梨は慌てふためいて歩田に裏門の鍵を開けて貰い急いで裏口から入った。

「どこの倉庫?」

ーーーー

倉庫で縛られていた杉本は誰かが鍵を開けている音を聞いて口を塞がれながら「ふがふが〜(助けて〜)」と騒いで足をバタバタしたが、押し込まれた2人を見てびっくりした」「ふがふがふが(藤岡さん)」

「杉本」口を塞いでいたガムテープを取ると「藤岡さん何で捕まってんですかあ?得意の一本背負いで投げ飛ばしてやれば良かったのに」と巻くし立てた。

「スーツが苦手なんだよ、動きにくくて。それを言うならお前だって何捕まってんだよ」

「だって後ろから両腕を捕まえられたんだもん。俺前からの攻撃しか無理ですよお」

「全く」

「若様、何とかここから出ないと」大和田がドンドンと扉を叩いた。

鍵が付いてるが開けようとしても両開きのドアの取っ手は外側から針金が巻かれていて動かない。

「警察は?」

「スマホを取られた」

「クソ!おーい!誰かいないのかー」

ドンドンと扉を叩く音を聞いて風花が「由梨ちゃんあれ!」と走って行った。

由梨と風花が必死になって針金を外そうとしたが結構硬い「ペンチ探して来て!」とすごい形相の2人に言われて歩田が「はい」と走り出した。

「待ってられない」由梨はドアノブを拳で叩き続けた。

平田がパイプを持って来た「これ」と言ったが早いか由梨が受け取ってドアノブに叩きつけた。

「龍樹!内側からも何かできないの?」風花がドアに向かって叫んだ。

「え?何でいんの風花!」

「後で言うから早くして」

「はいよ」

と鉄製の棚に乗っていた資材急いで除け、3人で持ち上げてドアノブに叩きつけた「うおりゃあー!」

外からと内からの攻撃でドアノブを破壊した「よし!開いたぞ」

「藤岡さん」急いで出て来た所に由梨が立っていた。

「由梨」

と言いながらそのままの勢いで大和田と藤岡は制御室に走って行った。

「待って〜」と杉本達他の者も続く。

「足打!許さん」

ーーーー

丁度制御室から足打と木田が出て来た。

「木田思い直せ!機械を停止させろ」

「すみませんが大和田さん、センサーは止めさせて貰いましたよ。もう14時だ、最上達が生地に金属片をばら撒いた頃です。このまま生地はレーンの流れに乗ってケースに入れられ発酵した後焼成、冷却包装、出荷だ」

「なら今からまだ止めるチャンスはある!」

「そう、だからもう少しお前らを何処かに閉じ込めておかないと」

「出荷が終わって販売されるまでな」木田はもう一度ナイフを取り出した、切先を藤岡に向けた瞬間「あぶない!」と由梨が前に立ちはだかったがその次には「防ごう異物混入!食の安全宣言!」と叫んだ杉本のパンチが木田の顔面に当たり「ふがっ」っともんどり打って床に倒れた。

「俺は怒ったぞ!大体普段から異物混入を防ぐために修造さんからうるさく言われてたのに、人様の口に入る物に何て事を!」杉本は足打ちを怒鳴りつけた。

「本当だ」大和田も説得にかかった「足打!ギャンブル癖はあるが普段真面目に働いてたお前が何だってこんな大それた事をするんだ、今ならまだ間に合う、やめなさい」

「大金が手に入るんだ、借金も返せる。何だってやるさ」

落ちたナイフを足打が拾って再び藤岡に向けた時、今度は由梨を杉本の方に避けた後ナイフを持った手を払い左手で襟を掴んで投げ飛ばした。

壁に打ち付けられた足打のナイフを兵山が隠して歩田と一緒に取り押さえネクタイで後ろ手にして手首を結んだ。

「おい!パスワードを教えろ!金属片除去のセンサーを作動させるんだ!」藤は足打の襟を再び掴んで揺さぶった「教えませんね〜」と憎たらしい言い方に藤岡がむかついたその時「あ、俺それならわかるかも」と、まだしかめ面の杉本がセンサーの前に進んだ。

「龍樹、ほんとなのそれ?」

「うん、工場長、どこにパスワードを打つの?」

杉本に促されて大和田がパスワードを入力する画面を出した。

「えーとぉ」ぽちぽちと長い長いパスワードを打ち大和田に「次へ」のボタンを押して貰った。

「開いた!」全員が驚いてる中大和田が急いでセンサーを作動させた後、バターシュガースコッチブレッドのレーンの機械を全て停止させた。

「これで一安心なのかな」機械の動きが止まって工場で働く従業員が驚いてざわめき始めたのを見ながら杉本が言った。

「念の為今日の午後からの出荷分はストップさせて下さい」

「はい、若」大和田が制御室から作業員に連絡した。

「大和田さん、急いで他の奴らの所に行きましょう、捕まえないと」

「僕たちさっき奥様に電話しました」足打を捕まえたまま歩田と兵山が声を揃えて言った。

藤岡は一瞬由梨の方を見て「杉本!あぶないから由梨と風花を連れて帰ってくれ」そう言って走り出しながら何故2人がいるのか不思議だった。

「それに何故鴨似田夫人なんだ」そう思いながら表玄関まで走った時、平静を装って入口から逃げようとしている最上たちに追いついた。

「あっあいつら何で出て来れたんだ」大和田と藤岡を見て3人は走り出した。

その時

「ちょっと待ちな!」

工場からエントランスに出る廊下の途中で、向こうから20人小田達パートさん軍団が最上達を取り囲んだ「あんた達容赦しないよ」

「レーンが止まったのはあんた達のせいらしいじゃん」

そしてその向こうから鴨似田夫人がゆっくりと歩いてきた。

「皆さんお待ちになって」

突然現れモデル歩きでやって来た鴨似田夫人を藤岡達も最上達も口を開けて見ていた。

大和田は「鴨似田さんどうなさったんですか?うちのパートさんを引き連れて」と聞いた。

「私(ワタクシ)今日のことは随分前から知っておりましたの」

「えっ!木田たちの悪巧みの件をですか?」

「ええそうですわ、大和田さんに電話でお知らせしたのはうちの歩田ですもの」

「確かにうちの中の何者かが何か企んでると電話があって若にお知らせして今に至りますが一体何故」

「定期的に藤岡さんにお変わりがないかうちの者に調べさせておりましたの、なので小娘と日光東照宮に行ってた事も、藤丸パンが乗っ取られようとしている事も存じていましたわ」

「乗っ取り?どういう事ですか、て言うか日光に行ってた事も知ってるじゃないか」藤岡は心底驚いて言った。破天荒とは思っていたが度を越している。

「誤解のない様に言っておきますが、私ストーカーではございませんの、あくまでも藤岡さんのお幸せを願っての事ですわ」

「それで?乗っ取りのことを説明して頂けますか」と大和田が本題に戻した。

「買収ですわ、異物混入事件を起こした企業が回収の為に世間にその事を知らせなければならず、企業への不信感が生まれて株価が下がった所を買い占めて乗っ取るんですの」

「株主総会で解任議決がなされて経営者が解任させられるし従業員も生活の不安にさらされる」と大和田も言った。

それを聞いた小田達も「冗談じゃないよ!私達は誇りを持ってここで働いているんだよ、あんた達にしょうもない邪魔されてたまるかってんだよ」

「そうじゃんそうじゃん」

「観念しなよ!警察に突き出してやる」と言いながら4人を連れて行った。

藤岡は鴨似田に初めて向き合って「ありがとうございました」と頭を下げた「乗っ取ろうとした企業名を知っていますか」

「それは分かりませんの。おそらくさっきの者達も仲介の者の偽名と電話番号しかわからないと思いますわ。それに気をつけないとこれから先もいくらでもこのような事がありましてよ。いつまでも今のままで良いのかしら」

そう言っていつの間にか夫人の横にいた歩田と兵山に「帰りますよ」と言ってモデル歩きで去っていった。

「かっこいい」と大和田が呟いた。

実際、売れ筋のバターシュガースコッチブレッドは午後からできた分は出荷停止になり販売店や卸先に迷惑をかけたが大和田が機械の故障と連絡していた。

「若、会社が買収されることを考えたら安い物ですよ」

「大和田さん、今日はお疲れ様でした。俺今日は考えさせられました」

「後のことはお任せ下さい」と機械類の徹底清掃の為に大勢の従業員が集まっている所に指示をする為に戻っていった。

藤岡は1人駅まで歩きながら鴨似田夫人が最後に言った言葉について色々考えた。

ーーーー

夕方

由梨は杉本と風花と東南駅に戻ってきた。

「ほんとよくパスワードを覚えてたわよね、役に立てて良かったわ」と赤い顔をした風花が何度目かの心からの安堵を杉本に示した。

「かっこよかったでしょ」

「まあね、すごく心配だったから龍樹達が助かって良かったし、由梨ちゃんも安心したでしょ」

由梨はさっき藤岡から電話があって解決したと聞いてホッとしたが自分が不甲斐なく、何も力になれなかった事で落ち込んでもいた。

「それにしても藤岡さんが藤丸パンのご子息だったなんて驚きよね、タワマンに住んでても不思議じゃないか」風花が興奮冷めやらぬ感じで言った。

それは由梨も思っていた、動画配信やパンロンドのお給料では無理なのではないかと薄々考えてはいた。

「良いわね由梨ちゃん、イケメンでリッチよね藤岡さん」

「あっ何風花!俺の方がイケメンなのに」

「ちょっと!どこがよ?」

なんだかんだ言っても結局仲の良い2人は、駅で由梨に挨拶して手を繋いで歩き出した。

「あのさあ風花」

「ん?」

「今日俺が心配で横浜に来たの?」

「うん、そう」

「あぶないから今度からしちゃだめだよ」

「だって」

風花は気が強いがこんな時いじらしくて可愛らしい。

「そこがキュンとする所」

杉本は風花の手をグッと握って聞いた「あのさあ風花、もし俺が結婚したいって言ったらその代わりに何をする感じになるの?」ずっと聞きたかった事だった。

「何をする感じって、、、?」

「あっ良いのいいの。また今度ね」

「もう、何よそれ」

「ははは」

夜の涼しい風に吹かれながら2人遠回りして帰った。

ーーーー

仲の良い2人と別れた後、由梨は家路についた。

部屋で1人自分の思っていた藤岡とは違う姿の『若』と呼ばれる人は一体誰だったのか考える。強くて問題解決の為に走っていく所を思い出し、それに比べて自分が何も出来ないコンプレックスでいっぱいの存在な気がする。

今迄ガムシャラに着いてきたけれどそれは厚かましかったのかな。

日光で見た人とは違うの?

それに、必死だったとは言え外れもしない針金を素手で叩いたり、藤岡を助ける為に前に出たもののすぐ後ろに押し戻されたりと思い出しても恥ずかしい。

由梨が物思いに耽っていると母親がドアをノックした「由梨、藤岡さんが見えたわよ」

「え」

由梨が部屋から出るとリビングに藤岡が立っていた。

「由梨、今日はなおざりにしてしまって悪かったね」

「私今日は邪魔ばかりしてしまって」

「邪魔?まあ何故来たのかは電話で杉本に聞いたよ」藤岡はいつもの笑顔で言った。

「今日は俺が閉じ込められた扉の針金を外す為に凄い形相で鉄パイプを握ってたと聞いたけど」

「凄い形相、、、ひたすら恥ずかしいです」

「それに俺を庇った」と言って由梨の手を握った。

「由梨ありがとう、また俺を守ってくれたね」

ドアノブを叩いた時、手が傷だらけになって絆創膏が各指に巻かれている。

藤岡はそれを見ながら手を優しく包み直した「由梨、俺は今まで4代目になって責任を負うのが嫌で逃げ回っていたんだ。だけど今日は考えさせられたよ。やはり守らなくちゃいけないものはあるんだ、今のままではいられないんだと」

今のままではいられない、それを聞いて藤岡が遠くに言ってしまうのかとドキッとした。

もしそうならパンロンドの様にもう追いかけていくことは出来ない。

もし藤丸製パンに入るなら正社員への道はのりは遠いし、パートでお勤めすると次期社長に中々会えないだろう。

「だから由梨」

「はい」由梨は覚悟して聞いていた。

「この先はもっと助けて貰う事になるかもしれない」

「え」由梨はびっくりした「わ、私会社の事は何も分かりません」

「それは俺も同じだよ。これから何もかも新しい生活を2人でやっていかないかと思って」

「一緒に」

「そう、俺には由梨が必要なんだ」

いつか湖で同じ言葉を聞いたその時のままで藤岡は言った。

同じなんだわ、今日の藤岡さんもいつもの藤岡さんも「わかりました、事務でも何でも頑張ります。私でよければお手伝いさせて下さい」

リビングの陰で聞き耳を立てていた由梨の両親は

「ん?あれってプロポーズじゃないのかな」

「そうよねぇ」と小声で言った。

おわり

お話の中のパン屋さんは日光の金谷ホテルベーカリーです。
日光の駅の近くには5軒販売所があります。
金谷ホテルベーカリーは1873年(明治6年)にカッテジインが開業されるところから始まりました。その後日光金谷ホテルとして営業を開始。
1925年に入社してきた川津勝利さんが村上新一さんと共に最高のパンを追求され、以降パンとクッキースの伝統は守り続けられて行きます。
お盆の時期の夕方に訪れたので神橋店ではパンは全て売り切れでしたが、その後泊まった金谷ホテルの売店にパンが売られていましたのですかさず購入。17時からの館内ツアーに参加したり夕食にも朝食にもパンが楽しめたので満足でした。

そして藤岡が既視感を味わったのは横浜のウチキパンでした。
2軒とも伝統を作り上げたパン屋さんです。
ウチキパンは初代打木彦太郎さんが1888年(明治21年)元町『横浜ベーカリー宇千喜商店』を開始。山食パンのイングランドは130年以上の伝統を守り続けたイギリスパンです。

尊重されるべき歴史がありすぎてパン屋に入った時の雰囲気が似ています。

由梨と藤岡が2人で東照宮にいるイラストですが、彫刻が凄すぎてそのまま使わせて頂きました。

2人で3切のトーストを分け合う、一つずつ食べて残りの一つは手で半分にして、大きい方を相手に渡す。そんな2人は微笑ましいですね。

31パン職人の修造 江川と修造シリーズ Genius杉本 リングナンバー7 後編

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Genius杉本 リングナンバー7 後編

前編のあらすじ

パンロンドで働く杉本龍樹は書くとなんでも覚えられる特技を他の職人に発見される。交際中の森谷風花にもスキルアップを進められるが勉強なんて大嫌い。社員旅行で京都に来たパンロンド一行。2日目はどうなる?

京都旅行2日目の朝

「なあ、昨日夜指輪買いに行くって言ってたろ?早く寝たじゃん」と同室の藤岡が聞いてきた。

「え、風花が俺に試験の事を言い出して、、」

「逃げたな?受ければ良いじゃん」

「嫌ですよ勉強なんて」

「風花はお前のために言ってんだろ」

そこに別室の江川が部屋をノックしてきた。

「朝ごはんに行きますよ〜」

「江川さん朝から元気ですね」

「うん。今日時代村に行った後、修造さんとパン屋さん巡りするんだ」

「昨日も行ったじゃないですか。好きだなあ」

「パン屋さんが沢山あり過ぎて昨日随分計画を練ったんだ。バスや電車の乗り継ぎも色々あって」

「俺も行きますよ、杉本は風花と用があるらしいから」

「そうなの?じゃあ一緒に行こうね藤岡君」

「はい」

ーーー

時代村では親方がみんなの為に計画を練っていた。

入り口の所にある大きな土産物屋の奥に、お江戸の館があり、全員を連れて行った。そこでは好きな着物を選んで時代劇気分を味わえる。

「みんな好きな衣装を選んで!記念撮影もしよう」

風花は町娘の衣装を選んで、江川は衣裳の1番派手な振袖若衆を、藤岡は新撰組隊士、など其々好きな衣装を選んでいた。

「修造さんは?」

「俺は良いよ」

江川は恥ずかしがる修造を奥に連れて行き、スタッフの人に「すみません、この人にも似合うのをお願いします」と引き渡した。

「どれにします?」

「じゃあ、、、この1番地味なのを、、、」

全員が着替えて写真撮影の後、修造は着物の柄をシゲシケ見ていた。

「ちょっと!風花をジロジロ見過ぎですよ」

「え?違うんだよ杉本。俺はただ日本の文化を学ぼうと思って」

「えー?本当ですかあ?」

「ほ、本当だよ」

修造は忍者の扮装の唯一見える目の周りが真っ赤になって走っていった。

「あれ?修造さんどこ行ったの?」

「忍者はあっちに行きましたよ」

「探してくる」

と言って派手な江川侍も走って行った。

杉本は、新撰組の格好で爽やかに決まっている藤岡を見てにやにやしながら「お化け屋敷行きましょうよ~藤岡さ~ん」と背中を押して言った。

「えー!お化け屋敷!」

聞いただけで足がすくんで背中がゾワゾワした藤岡は「キャーっ」と叫んで走って行った。

「ちょ、みんなどこ行ったのよ?」みんな走って行ったので風花が驚いて言った。

「そのうち合うかも」

「そうね。私達も行きましょ。ねえ、お芝居見に行きたい」

2人は町娘と侍の格好で江戸時代調の建物の中を歩き、芝居小屋を探した。

「あ、あれ」

「うん」

芝居小屋の建物の前に忍者と芸者の格好をした人がいて、呼び込みをしている。

「もうすぐ始まるから入ってって下さい」

中に入ると薄暗い中、みんなそこに座っている。

「あ、杉本君こっちこっち」

江川が手招きした。

お芝居は抜け忍が悪と戦うストーリーで、音とか光とかで演出されている。

「殺陣がすげえ」

杉本はみんなの後ろに座りながら全員の背中を見て「ほのぼのしてあったけえ人達だな。うちのオカンとオトンの言う通りパンロンドに入って良かったよ。それに、、、杉本は横に座ってお芝居を見ている風花の横顔を見た。

町娘の格好も可愛い。

杉本はキュンとした。

修造さんは良い先輩だけど風花は譲れません。

と、勝手にまだ誤解して思っていた。

よし!今日こそ指輪を買いに行くぞ。

ーーー

時代村を出て自由時間になった。

「夜までには昨日のホテルに戻ってきてね」と奥さんがみんなに言った。

「はーい」

杉本と風花は四条大宮駅まで移動した。

ここから河原町までの間に探すつもりだったのだ。

こうなりゃ雑貨屋でも百貨店でも良いから指輪売ってるところを探すぞ。

色んな店に風花が入りたがって指輪の店には中々入れなかったが、それはそれで楽しい。

錦市場で食べ歩きを楽しんだりお土産を買ったり、細い路地に迷い込んで、こんな所にこんな店があるんだねとか、あちこち見て時間の経つのは早い。

「楽しいわあ。旅行に来れて良かったね」

「うん、風花そろそろ指輪見に行こうよ。俺サイズ分からないから」

「それは昨日言ったじゃない?合格したらね」

「なんでそうなるの?なんでみんな俺に勉強させたがるの?俺は遅刻も欠勤もしないで仕事してるのにまだ不満?」

不満と言われて風花も言った。

「不満じゃないわよ。でもやればできるのにそんなにやる気ないのって不思議なだけ」

「だから真面目にやろうとしてるでしょうが?」

「そうじゃないんだってば!ひょっとして磨けばもっと光るのに自ら曇らせてる気がして勿体ないの!」

「俺は修造さんみたいにガチ勢になるのはカッコ悪りぃんだよ」

「なにそれ!どこがカッコ悪いのよ!めちゃくちゃカッコいいじゃない!」

2人は寺町通りの通行人が大勢いる中でどんどん声が大きくなっていった。

風花は売り言葉に買い言葉で、とうとう修造がカッコいいと言い出した。

「俺はただのプレゼントで指輪を渡したいだけじゃないのに!」嫉妬も相まって、普段は絶対怒らない、どちらかと言えば温厚な態度の杉本が語気をちょっとだけ強めてしまった。

風花はその事がショックで「龍樹のバカ!」と言って来た方と反対の、河原町の方に走り出した。

「待ってくれよ!危ねぇって」

人混みの中をうまく避けて風花はどんどん見えなくなっていく。

杉本も瞬発力と動体視力を駆使して人混みを避けて走って行った。

四条河原町の大通りを越えて行く時、ここどこなんだと全く土地勘のないまま心配になる。

そのうち橋が見えて来た。

「風花!」

杉本は段々距離が縮まって来た。

四条大橋の手前で信号を渡り、風花はこのままでは追いつかれると思ったのか急に左に折れて鴨川の方へ降りて行った。

「えっ」

川に向かう階段からピョンと飛んで風花に追いついた。

2人はハアハアと息が上がり話せないまま河原に座った。

辺りは段々暗くなり、川の脇の小道にはカップルがどこからともなくやってきて等間隔に距離をあけて座って何か楽しげに囁いている。

杉本は風花が逃げられないように手を繋いだ。

「ごめん」

風花は下を向いて言った。

「何が腹立ったの?」

「修造さんがカッコいいって言うから」

杉本は正直に言った。

「あの人の事は最近怖いのが少しマシになった程度よ。カッコいいって言ったのはパン作りに対する姿勢の事じゃない」

そうだったのか、、ちょっとホッとしたりして。

それにあんな愛妻家見たことねえもんな。修造さんごめんなさい。

「俺風花が誰かに取られたらどうしようって心配だったんだ」

「私は物じゃないのよ取られるって何よ。私の事信用してないの?」

風花の声は等間隔に並ぶ二人組の遠くまで響いた。

揉めてるの?揉めてはるね。

などと聞こえる。

サワサワと流れる鴨川の音以外には囁きしか聞こえない。

辺りは暗く薄明かりに人のシルエットだけが見える。

杉本は小声で言った。

「風花、パンロンドに入って途中からは俺なりにパン作りを教わった通りにやってきたつもりだよ。俺、まだまだ頼りないけど進歩してるつもり」

「知ってるわ。龍樹は頑張ってる。いつもそばで見てるもの」

「だろ?だから俺はこのままで進んで行っていいと思ってる」

「でもね」

と風花は言い出した。

「何故」

「え」

「そんなに勉強を嫌がるの?書いたら覚えられるなら書いたら良いんじゃない?」

「風花、俺は生涯机に座っての勉強はしないと決めてるんだ」

「大人になっても勉強は続くんじゃない?」

「普通に仕事してるのが俺の勉強だよ。それこそガチ勢の先輩もいるし」

「そりゃそうだけど。何故嫌がるの?」

堂々巡りの会話に気がつきもうやめようと思った時「答えて」と言われて杉本の何かがプチっと音がした。

「しつけえな。絶対やらないから。めんどくせえし眠くなるし」

「そう、わかった」

風花はそう言って立ち上がり、さっき降りた階段を登って泊まるホテルのある四条大宮に向かって歩き出した。

杉本は離れて歩き、風花を見守りながら「もうダメかもな」と呟いた。

ロビーでは修造、江川、藤岡が今日行ったパン屋の話をしている最中だった。

店舗の様子や各店の特徴や売れ筋、シェフの事など。

入ってきた杉本を見て江川が声をかけた「おかえり杉本君、さっき風花ちゃんは上がって行ったよ?」

「そうなんですよ。俺、疲れたんでもう寝ますね。お休みなさい」と言ってエレベーターに乗った。

お風呂に入ってベッドに横になったが全く眠れない。

戻ってきた同室の藤岡が「喧嘩でもしたの?」と聞いてきた。

「風花とはもうダメかもしれません。俺、なんでこんなに勉強が嫌なのか過去を振り返ってました。覚えてないけど何かあったんだろうな」

「トラウマとか?」

「そうかな。勉強の2文字が働いてからもついて回るんだって驚いてます」

「一生勉強だろ。ただ風花の言う勉強はまた違うよね」

「どっちでも俺の嫌いな言葉に変わりありません」

ーーー

「なあオカン」

「ん?」

「俺、いつから勉強嫌いになったっけ?なんでかな」

旅行から帰ってしばらく風花と業務上の最小限の事しか話さず、みんなもなるべく気にしないようにしていた。

ある時帰ってから台所に座って夕食後、洗い物をする母親に聞いた。

恵美子はエプロンで手を拭きながら息子に向き直った。

「あんたは小さい時、神童って呼ばれてたのよ,物覚えが早くて誰よりもやる気あった。そんな時、2階にあった教室から飛び降りて両足首を骨折してね、しばらく休んでから一切勉強しなくなってたわ」

「そんな小さい時に?」

あ、そう言えば俺、小さい時入院してたわ。

その後学校に行ったら、勉強が進んでて浦島太郎みたいになんか色々ガラリと変わってて、1番だった俺が1番ダメになってたんだっけ。

小さい俺はいじけて勉強におさらばしたんだっけ?

つまんねえ理由だな。

大体低学年だったんだからすぐ取り返せたのに、本当にやらなくなって、他との差がどんどん開いていったんだ。

それから荒んでいったんだったな。

やりゃあ良かったな。

今からでも遅くねえってか。

磨けばもっと光るのに自ら曇らせてる気がして勿体ないの!

って言われたな。

もう遅いけど。

マジなバカだな俺は。

——

次の日パンロンドで

藤岡と杉本はバゲットを成形しだした。

細く折りたたんだ生地を伸ばしながら

藤岡は言った。

「お前のスティタスを上げることの方が貴金属より上なんだね」

「なんで俺に資格を取らせたいんですかね」

相変わらず勘が鈍いな、、、

「お前の格を上げたいのさ

愛が故に」

「愛!」

愛か

パッと店の方を見た。

すると杉本の方を見ていた風花と目があった瞬間風花が目を逸らした。

風花

いつも俺のことを1番に考えてくれてる人。

俺が意地になって大切な事を逃したんだ。

「お前には勿体ないのかもね。誰も何も言ってくれなくなって、そのままで良いの?」

うーんそれは、、

杉本は頭を抱えた。

発酵した生地が入った箱を渡しながら修造が言った。

「なあ、勉強じゃなくて知識を身につけるって考えてみたら?※パン屋で2年働いたら2級が受けられるんだ。その5年後に1級、その7年後に特級の試験が受けられるんだよ。先に2級を受けて合格したら自信がついて先に進みたくなるもんだって」

「そうですよね、修造さん、俺も一緒に受けようかな。目標ができますし」

「え?藤岡さんも?」

「とりあえず2人で2級の試験を受けてみようよ杉本。俺達もうすぐパンロンドで働き始めて2年経つじゃん。だから受験資格はあるし」

「はあ」

「勉強は自分の為にやるものだ。書いて書いて書きまくれ!知識をどんどん上書きして行くんだ」修造が力強く言った。

試験の内容は実技試験と筆記試験の両方。

筆記は65点以上あると合格。

実技は食パンを3本作る。その際に中力粉と強力粉を当てなければいけない。

実技試験と学科試験は違う日にある。

学科試験は試験日は決められてるが、実技は2ヶ月間のうちのどれか。

杉本はとうとう藤岡と一緒に申し込みをした。

色々もう遅いかもしれないけど

俺やらなきゃ

自分の為に

毎日実技を意識して

山食パンを仕込んだ。

修造に色々教えてもらい説明を聞く。

ガチ先輩

確かにカッコいいぜ

その時店から風花は杉本を見ていた。

毎日

藤岡が風花に話しかけた。

やっとやる気になったみたいだよ。

来月の11日に試験があるって。

俺達受けてくるよ。

試験は昼前に終わるからね。

ーーー

とうとう学科試験の時が来た。

試験は4択、50問で時間は1時間40分だ。

同じ教室の斜め前に座ってる藤岡はスラスラ書いてるように見える。

杉本も今迄書いてきた全ての問題を暗記してきた。

それに実際にやってみて覚えた事もある。

手応えを感じて試験が終わったが、まだ合格の2文字を見るまではわからない。

藤岡と2人で答え合わせをしながら階段を降りて行く。

「あ、風花」

杉本は校門の前に立っている風花を見つけた。

「お疲れ様」

「まだ合格したかわからないけど、結構早く発表あるみたい」

「うん」

「腹減ったなあ。なんか食べて帰ろうよ」

「あ、俺寄りたいパン屋があるから。じゃあまた明日」

「お疲れ様です」

歩き出した藤岡はちょっとだけ振り向いて2人を見た。

「全然元通りじゃん」

2人は駅の辺りのカフェを探しながら歩いて行った。

「来週実技試験があるんだって」

「そう、頑張ってね」

「うん」

2人は探り探り会話をしながら

少しずつ距離を縮めていった。

「こうやって歩くのも久しぶりだね」

「そうだね」

あのね

毎日お店から

龍樹を見てたわ

一生懸命な姿

私、好きが止まらなかったの。

「実技試験頑張ってね」

うん

「合格したら約束守ってもらうぞ」

「はい」

風花は

マジックを出して

杉本の手の甲に7と書いた。

あ!

これ!

おわり

※お話の中では技術士と書きましたが

製パン製造技能士 という試験が実在します。

特級、1級、2級があります。

パン製造技能士とは パンづくりの実務経験者を対象として、製パン工程における技能を認定する国家資格

(資格の王道より引用)

https://www.shikakude.com/sikakupaje/panseizo.html

過去問 試験問題コピー申込書

https://www.kan-nokaikyo.or.jp/doc/copy-service0601.doc

技能検定試験問題公開サイト

3級と2級の実技の問題が載っています。

https://www.kentei.javada.or.jp/list02.html?v1=%E5%B9%B3%E6%88%9030%E5%B9%B4%E5%BA%A6&v2=%E9%9A%8F%E6%99%82&v3=F58&v4=%E3%83%91%E3%83%B3%E8%A3%BD%E9%80%A0%EF%BC%88%E3%83%91%E3%83%B3%E8%A3%BD%E9%80%A0%E4%BD%9C%E6%A5%AD%EF%BC%

テキストが販売してないとよく書いてありますが、私はモバックショーの仮設の本屋さんで書いました。

あとはネットでラクマなどで売りに出されるのを見ました。

この作品は2022年06月15日(水)にパン屋のグリワールのブログに投稿した物です。

30パン職人の修造 江川と修造シリーズ Genius杉本 リングナンバー7 前編

パン職人の修造 江川と修造シリーズGenius杉本 リングナンバー7前編

色とりどりのバラが咲き乱れた綺麗な公園のバラのブリッジの間に立って2人で写メを撮り、ベンチに座って良い雰囲気なのに風花は思い出した事があった。

「全くもうやんなっちゃう」

「なんで怒ってんの?」

「あのね、たまにあるんだけど、男のお客さんに愛想よくするじゃない?そしたら勘違いする人がいてね」

「なに!」

「それでね、何回か来てるとそのうちに奥さんとか彼女とか連れてきて、私にすまなさそうな顔するの!」

「ん?どう言うこと?」

「つまり〜君は僕の事好きだと思うけど僕には彼女がいるんだごめんね。って事よ!」

「勘違いしたんだね」

「すまなさそうにするって何よ!失礼な!何とも思ってないのにフラれた感じになってるじゃない!」

「あはは」

杉本はホッとして笑った。

男のお客さんの何人かは風花目当てなのを知ってるからだ。

実際風花は明るい笑顔で、入ってきたお客さんの心を和ませることがあって人気がある。

「心配だなあ」

—-

次の日

その事を杉本は藤岡に話した。

「風花は目が離せません」

「あのさ、それはね。あれじゃない?」藤岡は店にいる風花の手の方を指さした。

「指輪とか?」

「あ!本当だ!ナイスアイデアですね」

「これで勘違いもなくなるね」

「サイズはどうしたら良いですかね?」

「指輪のサイズ?一緒に見に行ったら?」

「行かないって言いますよ。貴金属に興味ないって言ってますし」

「じゃあ奥さんに聞いて貰ったら?」

えっ?奥さんに?

それは、、

「あ、あの〜奥さん」

杉本は、パンロンドの売れ筋商品山の輝きという山食を大量に切っている柚木店主(親方)の奥さんの所に行って話しかけた。

「何?杉本君」

「いえ、今日忙しいですね」

と言って引き返してきた。

「頼んできたの?」

「いえ、恥ずかしくて」

「まあ、分からんでもないね」

そう言って藤岡と杉本は二人でとろとろクリームパンの成形を始めた。藤岡の伸ばした生地に杉本がクリームを包んでいく。

ふと見ると杉本の両方の手の甲にペンで色々書いてある。

「杉本っていつも手の甲にメモしてるよね」

「親方に言われた配合とか、注文の数とか、俺ここにメモると覚えてられるんですよ」

「確かに杉本ってなんでも忘れるからな、こうして書いておかないとな」

「いつも見てるドラマの主人公の名前とかもここに書いてるんですよ。一回書いたら忘れない」

「へぇ、じゃあ手の甲に今から俺が言うのを書いてよ。覚えてられるかも知れないじゃん」」

「え?何書けばいいんすか?」

杉本は藤岡の言う長い不思議な言葉を書いた。

そして次の日、藤岡が杉本に「なあ、昨日の覚えてる?」

「昨日の?なんのことですかあ?」

「全体的に忘れてるじゃん。ほら、手の甲に書いただろ?」

「あ!※スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス!」

「おっ!そう!それ!メリーポピンズに出てくる言葉だよ!」

藤岡は驚いて杉本に指をビシッと当てた。

「杉本凄いじゃん!じゃあ今日は違うやつ」

と言って今度はパン関連の長い言葉を書かせたがさっきのより短い。

次の日

藤岡はまた杉本に聞いた。

「なあ、昨日の覚えてる?」

「ああ、※サッカロマイセスセレビシエってヤツですね?」

「おっ!覚えてるじゅないか!それってパン酵母の事なんだよじゃあこれは?」

藤岡はまた他の、長い言葉を書かせた。

そして次の日「なあ、あの呪文の様な言葉覚えてる?」と聞いた。

「あ、※カザフスタニア–エグジグアですか?」

「こりゃ本物かもしれないなあ」藤岡は小声で呟いた。

江川が興味深げに尋ねてきた「ねえ、、なあに?それ、カザフホニャララ?」

「パネトーネ種の酵母の一種ですよ」

「へぇ難しそう!」

「杉本はどうやら手の甲に書いた事は覚えられる様ですよ」

「えっ本当?もっとやってみようよ」

「江川さん俺で遊んでますよね?」

「せっかくやるんだから身になるものをやろう」

「パンの用語でもっと難しいやつ?」

そこに修造も口を挟んできた「手の甲も良いけどノートに書くのはどうなの」

「俺今までノートに何か書いた事ありません」

と言うか文字なんて自分の名前と住所ぐらいかなあ。ここに来るまではいかに勉強しないかとか学校サボる事に心血を注いできたからな。

「ねぇ杉本君、もっと難しいの書こうよ」

はしゃぐ江川の横で修造が「じゃあパネトーネ種の乳酸菌のラクトパチルス–サンフランシセンシス等!」

「ラクト?」杉本は修造の言う通り書いた。

その日の帰り道

杉本は手の甲の文字の話を風花にしてみせた。

「俺ちゃんと覚えてるよ。サッカロマイセスセレビシエにカザフタニア–エグジグアにラクトパチルス–サンフランシセンシス等、、」

風花はそれを聞いて驚いた。

「ひょっとしてちゃんと勉強したらいい線行くんじゃない?」

「えー、俺そんな事やった事ないから」

「本屋さんに行こうよ」

風花は杉本と東南駅横のショッピングモールの大きめの本屋に来た。

「製パンの本を買うのよ!」

「はいはい」

風花が選んだ本は製パンの試験の問題集だった。

「えー?これ?いきなり難しくない?」

「ちょっとずつ書いて覚えていってよね」

「はいはい」

あまりのり気ではなかったので杉本は適当に返事をして本を買った。

ーーー

帰って部屋のベッドの上に買った本をポンと置いてゴロンと横になった。

「あ〜疲れたな」

そう言ってウトウトしていると

「龍樹。ご飯だよ」

母親の恵美子が2階にある杉本の部屋を覗いた。

「あっ!」

わか息子とはいえ、、その息子の横に本が置いてある!

製パン技術士試験の問題集!?

「どっどどどどうしたのそれ!先輩にもらったの?」

「ああ、買ったんだよ。勉強する事になったらしくてさ、、」

「べっ勉強!」

そう聞いて恵美子は父親の茂の所に走って行った。「お父さ〜ん!」そしてしばらくして二人でドタドタと階段を駆け上がり「お前勉強するのか?」と両親が血相変えて入ってきてキラキラした目で杉本と製パンの問題集を交互に見た。

「ちょ、驚きすぎてこっちがびっくりだよ。まだなんもやってねぇって」

「お母さん、龍樹をパンロンドに行かせて良かったね」

「本当だわお父さん、いつの間にか髪型も服の趣味も変わってきて」

「親方や風花ちゃんのおかげだね」

涙を浮かべてこっちを見てるので「もう良いから出てってくれ!」と杉本はキレた。

何かあって気が変わっては大変なので二人はフフフと笑いながら足取りも軽く出て行った。

「ったく。大袈裟なんだよ」ベッドに横になり右足を左足の膝の上に乗せてブラブラさせていたが、ちょっと本を見てみた。

うわ

めっちゃ字が多いじゃん。

勉強?

俺の人生に勉強の二文字はねーんだよ。

めんどくせーな、、

文字を見ると物凄く眠くなってきてそのまま寝てしまった。

次の日

江川が嬉しそうに話しかけてきた。

「ねぇ、昨日の覚えてるんでしょう?」

「覚えてますよ。ラクトパチルス–サンフランシセンシス等でしょう?」

「えーと」江川の方がうろ覚えだったがそんな感じだった気がする。

「あってるよ、杉本はきっと書いて覚えるタイプなんだろう」

「見てもあんま覚えられないんですよ。そうなのかなあ」

「そんな特技があったなんて」

「伸ばさないと勿体ないね」

皆口々に言って杉本を取り囲んだ。

「また勉強とか言うんでしょう?めんどくさいですよ」

それを聞いた風花が店から杉本を睨んだ。

ちゃんとやりなさいよと言う意味だ。

「みんな聞いて〜」

奥さんが工場の全員に聞こえるように声を張り上げた。

「今度2泊3日で京都に社員旅行に行くのよ」

「へぇ〜!京都!僕初めて行きます」江川がはしゃいだ。

「修学旅行みたい」

「だな、俺も初めて行くよ」

「舞妓さんとかいるのかなあ」

「自分で着物を着て歩いたら?」

皆急にウキウキし出した。

帰り道、2人で歩きながら相談した。

「風花、一緒に行こうな京都」

「何言ってんの?みんなと行くのよ?京都初めてだわ、何着て行こうかなあ〜」と足取りも軽い。

「何着ても似合うって」

「自由時間とかあるのかな?」

「清水寺行こうよ」

などと話していたが、急に風花は思い出して「ね、勉強してる?」と聞いてきた。

ギクっ

「え?し、してるよ」

「え〜本当にぃ?」

「ほ、ほんとほんと」

そう言って誤魔化したがただの1行も読んでいない。

帰ってベッドの隅の模様と化した本の表紙をめくって見た。

製パン技術士試験問題集

目次の文字数もいかつい

うわ!無理無理

そう言ってまたベッドの隅に置いた。

ーーー

京都に向かう東海道・山陽新幹線のぞみの中で江川はがっくりくる修造を慰めていた。

「緑ちゃん、学校の遠足があって来ないんですね」

「そうなんだよ江川」

「なので奥さんも来れなくて残念でしたね」

「緑が行けないって言うからさあ。。あー一緒に歩きたかったなあ京都」

「僕達パン屋さん巡りしましょうよ。京都ってめちゃくちゃパン屋さんがあってどれにするか迷いますね」と言って江川は旅行雑誌のおまけの京都パン屋マップを開いた。

パン屋さんがずらりと並んでる通りもあるし、狭い地域の中に点々とある所もあるし。

「自由時間とかあるの?だとしても数時間だろ?2.3軒しか回れそうにないなあ」

2人は何処に行くか真剣に悩んだ。

「ドイツパンの店は?」

「こことここかな?あ、ここにもあります」

「一軒一軒距離があるからどのバスに乗るかよく見ておかないとな」

行きの車内のこんな計画もまた楽しい。

京都着

パンロンド一行は清水寺、銀閣寺、金閣寺を巡って王道の京都観光を楽しんだ。

二条城唐門到着

みんなして二の丸御殿の鶯張りの廊下を歩いたり優美な狩野派の障壁画を見たりした。

「欄間彫刻も見事だねえ」

「ですね」

「たまにはゆっくりと観光もいいもんですね」

「豪華絢爛だなあ」

そのあと

杉本と風花は日本庭園を見ながらみんなと少し遅れて歩いていた。

「この池鯉とかいるのかな」

「ほらあれ大きな鯉がいるわよ」

「本当だ」

杉本は歴史の古い池の端の岩を眺めながら言った。

「風花今日夜どっか行こうよ」

「どこに?晩御飯はみんなと一緒でしょ?」

「旅行の記念に指輪買いに行こうよ」

「え、いいわよそんな高そうなもの」

「じゃあ見に行くだけ!お願い!」

「試験に合格したらね」

「し、試験?なんの事?」

「こないだ買った本の事」

「え?なんでそんな展開になるの」

「あの本って試験用の本だったじゃない」

「にしても急に」

「だって私、龍樹に立派なパン職人になって欲しいんだもの」

「立派じゃなくても良いじゃん」

そこに江川が走ってきた。

「ねぇ、これから近くのパン屋さんに行くって、はぐれるから早く来て」

3人は走ってみんなに追いついた。

「電動石臼で挽いた全粒粉を使ったパン屋さんに行くんだって」

「美味そう」

「その近所に歴史の古そうなパン屋さんがありますね」

「そこにも行ってみたい」

ーーー

電車の中で修造が江川と藤岡に言った。

「京都って色んな職業の職人がいて、それぞれ歴史ある仕事をしてる。その仕事の殆どが厳しい修行や時間に追われる仕事をしていて、その合間に手早く食事をするのにパンが最適なんだ、甘いものが欲しい、調理パンが欲しいなどの要望にも答えられるし、手軽に手に入る。それがパン屋さんが多い要因の一つなんだ」

「へぇー」

「みんなパンを愛してるんですね」

「だからパン屋が多いのか」

修造は自分で言って得心した。

そうか

職人が作り出す

京都の歴史、和の心

学ぶところが多いな

世界大会でのテーマでもある

「自国の文化」

きっと活かせる事が出来る。

あちこちよく見ておこう。

街を見渡したら

きっと見つかる。

何軒か廻って修造達はある一軒の歴史のありそうなパン屋さんに入った。

そこはおじいさんが1人でパンを焼いて販売している。

まるでおとぎ話に出てきそうなロマン溢れる店だ。

「こんにちは、おじいさんは1人で仕事してるの?大変じゃない?」江川がパンを買うときに店主に尋ねた。

「もうずっと若い頃から同じ事をしてるからこの歳になってもできるんです。急にやり出したら大変ですやろ。忘れてしまう事も増えてきますし」

「そうかぁ。そうですよね。僕もずっと自分の仕事を続けたいと思っています」

「そうですか、おきばりやす」

店主との会話はあっさりとしたものであった。

江川は店を出てからもう一度パン屋さんの中を覗いた。

優しい顔のおじいさん。

何年も前からずーっとパンを焼き続けてるんだ。僕が生まれる何十年も前から。

凄いなあ。

僕も同じ事が出来るかしら。

朝になってパンを作って焼いてまた明日の朝が来る。

それをずっと繰り返していく。

僕もそうなりたいな。

江川は以前パン催事であったあんぱん屋さんのおじさんの事を思い出していた。

毎日同じ事を何年も蹴り返すのって誰にでも出来そうで出来ない事なんだ。

長く続けた先にあるもの。

最後に自分の焼くパンを自分で見てみたい。

江川はじんわりと心に決心の様なものが固まっていった。

ーーーー

みんなパン屋巡りをして店先で買ったパンを少しずつ分けて味見したので晩御飯の時には全員がお腹いっぱいだった。

「うーん苦しいもう寝る」

皆三々五々部屋に帰って寝た。

杉本と風花も其々割り当てられた部屋に戻った。

後編につづく

※スーパーカリフラジリステイックスエクスピアリドーシャス

映画メアリーポピンズの長い合言葉 ➀ Super (超越した)② Cali (美しい)③ Fragilistic (繊細な)④ Expiali (償う)⑤ Docious (洗練された)5つの単語が組み合わさって出来ているのですが、「素晴らしい、素敵な」の意味で使用されます。(元CAが教える~思わず使いたくなるワンフレーズ英会話レッスン~より引用)https://makupo.chiba.jp/article/article-4350-2/

※サッカロマイセスセレビシエ Saccharomyces cerevisiae

パン酵母の事 糖を代謝して美味しい香りのアルコール発酵を行う。

※カザフスタニアーエグジグアとラクトバチルスーサンフランシセンシス等

パネトーネ種は酵母(Kazachstania exigua カザフスタニアーエグジグア)と、数種の乳酸菌(Lactobacillus sanfranciscensis ラクトバチルスーサンフランシセンシス等)が仲良く共存し、それぞれの持つ特徴を、発酵熟成から焼成中に発揮し、パンなどの改良を行う世界的に珍しい酵母と乳酸菌類です。(株式会社パネックスより引用)http://www.panex.co.jp/panettone

会社によって扱う酵母の種類は違います。特許第4134284号、特許微生物受託番号FERM P-16896)などの特許がそれぞれあります。

※京都にパン屋が多い理由 クックドアhttps://www.cookdoor.jp/family-restaurant/dictionary/13665_resta_056/

20パン職人の修造 江川と修造シリーズ ジャストクリスマス

パン職人の修造 江川と修造シリーズ ジャストクリスマス

11月の終わり頃

パンロンドでは何度目かのシュトレンを大量に作っていた。

シュトレンはドイツが発祥で、スパイスやフルーツを大量に使ったパン菓子の事だ。

「うちは折り畳んで直焼きにするけど、型に入れる店も多いんだよ」修造は江川と杉本に、シュトレンを手成形しながら言った。

「はい、以前僕たちが漬け込んだフルーツに洋酒が染み込んで、熟成してここに使われているんですね」江川が感激して言った。

「そうそう」

お店では、親方の奥さんがアドベントカレンダーを出してきて、風花に見せながら

「これね、アドベントカレンダーって言うのよ。毎日この小さな窓を開けていくのよ。そしてクリスマスを心待ちにするの」

「わあ〜可愛い!丁度開け終わったらクリスマスなんですね。ロマンチックだわあ」

お店から聞こえて来る風花達の声に耳をそばだてながら「アドベントって何ですかあ?」

と杉本が修造に聞いた。

「アドベントってキリスト教西方教会でイエスキリストの降誕を待ち望む期間のことなんだよ。待降節、降臨節とか色んな呼び方があるみたいだけど。クリスマスの24日から逆算して日曜日が4回入る様に数えるんだ。」

「はー」

「例えば12月24日が金曜日の場合、12月1日からだと3回しか日曜日がないから4回になる様に11月28日の日曜日から始まるんだ。そして4本の蝋燭を用意して、毎週日曜日になると一本ずつ蝋燭を灯してお祈りしたり、Mutter(お母さん)の焼いたクッキーやシュトレンを食べるんだ」

「へー」

「ドイツにいた時は11月になると夜から昼までヘフリンガーで大量にシュトレンを作って、そのあとこっそり近所のケーキ屋にバイトに行ってそこで夜までシュトレンを作ってたな。2時間ぐらいしか寝てないからうとうとして先輩に麺棒で頭を小突かれたっけ


「小突かれるなんて切ない思い出ですね」江川がそれを聞いて涙目で言った。

「家族に仕送りを捻出したんだよ」

「大変だったんだ」心優しい江川が泣き出した。

「江川、大丈夫だよ。いい経験になったし、そういうのが俺の宝物なんだ」

そうだ。帰ったら緑にアドベントカレンダーを作ってあげようかな。

毎日お菓子を袋や扉から開けて出すなんて楽しいだろうな。

修造は緑の愛くるしい笑顔を思い出してうっとりした。

その横で「クリスマスかあ。あ〜俺、プレゼント何にしようかなあ」杉本が悩ましい声を出した。

「風花にだろ?」藤岡が返事した。

「そうです」

「趣味が違うの貰ったら嫌だろうから本人に聞いたら?」

「それもそうだけど直接聞くのもムードないなあ。。そうだ!いつも同じ職場にいるんだから俺の勘で当ててみますよ」

「ああ、例の鋭い勘でね」

「ははは」杉本は笑って誤魔化した。

12月の始め

田所家では

「ねぇおかあさ〜ん」

「何よ緑ったら猫撫で声を出して」

「あのね、サンタさんにね、プリムラローズのお化粧セットをプレゼントして欲しいの」

プリムラローズとは今大人気のアニメで、何人かの少女が色んな色のコスチュームで戦うあれだ。

主人公の赤とピンクの服を着てる子は赤色の口紅を塗ると変身して敵と戦う。

お化粧セットとは口紅、ミラー、戦う時に持つ魔法のロッドの事だ。

「じゃあお母さんからサンタさんにお願いしておくわね」

「ほんと?やったぁ」

緑にはどういうシステムかわからないがお母さんに頼めばなんとかなる。

本当は律子の実家の両親に電話をして前もって送ってきて貰うシステムなのだが、そのサンタ達は孫の喜ぶ顔見たさにそろそろ自分たちからだと言いたい。

緑はテディベアはサンタさんからのもう一つの贈り物と思っていたが、一度修造がお土産として渡したので少しだけ疑念を抱いている。

その民族衣装を着たテディベアは本当は修造がドイツからクリスマス前に送っていたものだが内緒だ。

ーーーー

クリスマスは大好きな人と過ごしたい。

風花が大量のシュトレンを包む時にエージレスを入れるのを、早めに仕事が終わった杉本が手伝っていた。

エージレスとは、ソフトなしっとり系の焼き菓子などに入ってる小さな脱酸素剤のことで、空気に触れれば触れるほど効力がなくなるので素早くお菓子の袋に入れて閉じなければならない。

なので二人で力を合わせてやると早くできる。

「あのさあ風花」機械で袋を留めながら杉本がそれとなく言った。

「なに」

「、、、俺達クリスマスも仕事だね」

「定休日じゃないって事だけでしょう?当たり前じゃない」

こんなにサバサバと言われてどうプレゼントの話に持っていったらいいのやら杉本は困った。

「ほら早く閉じてよ、エージレスの効果がなくなるでしょう!」

「はいはい」

2人はしばらく黙って作業していたが、急に風花が

「最近ぐんと寒くなったじゃない?」と切り出した。

「うん、朝もここに来る時寒いな」

「、、あったかいものが欲しいなあ」

「缶コーヒー買ってきてやろうか?」

「、、、」

風花は下を向いて黙々と仕事をし始めた。

それを聞いていた藤岡が呟いた。

「勘が鈍いのも見ていて辛いな」

ーーーー

12月のはじめ

夕方職人達が帰った後、修造はヘクセンハウスを作り出した。

パーツは作ってあったので、Puder-Zucker(粉砂糖)でアイシングを作り、家の形に組み立てて飾りを付けていた。

「修造、まだ帰らないのか?」配達から帰った親方が聞いた。

「親方、これ作ったら帰ります」

「すまんな、これ。パンロンドの売上あげる為だろ?」

「俺、勝手させて貰ってるのでこのぐらいさせて下さい」

「俺もやるよ」

「はい」

「どうだい?ホルツの修行は」

「はい、大会を見越して練習しています。まだまだ未完成な事ばかりですが」

「江川はどう?」

「頑張ってますよ。着実に進歩しています」

「俺、修造が大会に出たところ想像したらゾクゾクするなあ。楽しみだよ」

「そうなる様に頑張ります」

修造は砂糖菓子のサンタをハウスの前につけながら言った。

「これからみんなにドイツパンを教えて、お客さんにもっと来て貰おうと思ってるんです」

「美味いもんな、お前のブレッツェル」

「それしか恩返しの方法がわからないんです。今の俺があるのは親方のおかげなんで」

こっちこそ感謝してるぜ修造、こうやってお前と仕事できるのも限りがあるんだ、寂しいけど俺はお前を心から応援してるぜ。

「親方、泣いてるんですか?」

「いいやあくびしたんだよ、守っていくよお前が残してくれたものを」

親方の小さな瞳にキラッと光る水分が滲んでいた。

ーーーー

次の日

藤岡と杉本は一緒にクロワッサンの成形をしていた。

藤岡が杉本に話しかけた。

「あのな」

「なんすか?」

「あったかいものにも色々あるんだよ」

藤岡は整った顔立ちをちょっと近づけて言った。

「はあ」

「例えば?缶コーヒー以外に」藤岡は答えを促した。

「え?俺の心的な?」杉本は自分のハートを指差して言った。

「まあ勿論それもあるけどね。。寒いからあったかいものが欲しいって事だよ。。俺優しいから答えを言っちゃったよ」

「勘が鋭どいんですね」

「俺はね」

え?

あったかいものをとりあえずプレゼントすりゃいいんだな?

あったかいものそれは、、おれ、缶コーヒーとカイロしか思い当たらない!

12月中頃

杉本は早番だった。

実家暮らしの杉本の2階の六畳の部屋

ベッド脇の小さなテーブルの上で朝3時半に目覚ましが鳴った。

杉本は手探りで目覚ましを止めてまた手を素早く布団の中にひっこめた。

部屋は冷え切って布団は暖かい。

「うーん起きたくねぇ」

布団の中でしばらく微睡んでいてなかなか出てこない。

「このまま寝ていても、ま、いいか」

すると突然頭の中に風花の怒鳴る姿がうつる。

「何してんのよ!早く起きなさい!」風花がもしここにいたらそう言うだろう。

「うわっ!」

杉本は飛び起きた。

「やべ!あと10分しかない!」

早く行かないとドゥコンディショナーというパンの機械のタイマーが作動して発酵のスイッチに切り替わる。するとパンが徐々に発酵し始める。他にもあれやこれや用はある。ついでに修造の厳しいまなざしも思い出した。

杉本は手早く着替えて家を飛び出し自転車に乗ると全力で漕ぎ出した。

「早く〜」

ピューピュー風が顔に吹き付ける。

「寒い」

と、その時「ちょちょ、君待って」

急に声をかけられて追いかけてきた姿を振り向いて見るとお巡りさんだった。

「職質だ!」

職質とは職務質問の事だ。

その若いお巡りさんは、自転車を降りて杉本の自転車の前輪の先を少し足で挟んだ。

まじかに見た制服がカッコいい。

逃げられないようにしてるのかと杉本が思っていると優しく話しかけて来た。

「君、何してるの?」

「今から仕事なんです」

「名前は?」

「杉本龍樹」

「住所は?」

「そこの青い屋根の家です」

杉本は元来た道のずーっと遠くに見える自分の家のシルエットを指さした。

「職場はどこなの?」

「ここからすぐのパン屋です。パンロンドって言います」

「ああ!あの髭のお兄さんのいる所?」

どうやら修造もよく声をかけられるのかお巡りさんも知ってる様だった。

「そうですそうです!あと1分で遅刻ですよ」

「そりゃ大変だ!気をつけてね」

お巡りさんは杉本の自転車から足をどけて横に移動した。

「はーい、お疲れ様でーす」笑顔を作ってお巡りさんに爽やかにそう言った後、自転車に乗って猛ダッシュで自転車を漕いだ。

「もう遅刻だよ」独り言を言い、杉本は凍えながらパンロンドにたどり着いた。

「おー!寒ーっ」

「確かに!あったかいものが欲しい!」

杉本は1人で声を強めた。

夕方

杉本は仕事が終わったので風花とヘクセンハウスを透明のケースに入れてリボン付きのシールを貼りつけていった。

「曲がってるわ!丁寧に付けないとお客様に選んで貰えないじゃない!」

「はいよ!風花。聞いてくれよ!俺、今朝職質されたんだよ」

「顔が怖かったからじゃない?」風花は笑いながらからかった。

「まあ、そうかもな。遅刻しそうで凄い顔で自転車乗ってたし」杉本はその時の必死な自分の顔を思い出して笑いながら言った。

「何時ごろなの?」

「4時ギリギリだったよ」

「えっ」

「10秒前だった」

「そんなに早く?」

「遅く、だよ。寒かったな」

「そうなのね」

風花は何か考えてる様だった。

また黙って包み始めた。

「何?急に」

「なんでもないよ。ねえ、疲れてるんじゃない?一人でやっておくよ」

「平気だよ俺若いし」

「私よりって事?」杉本より2歳年上の風花はちょっと口を尖らせて杉本を見た。

「そんな訳じゃないよ!」

勘の鈍い杉本もさすがにいくつでも歳の話はデリケートだなと思った。

ーーーー

クリスマス前は心がウキウキする。。

職場と学校から別々に家に帰って来た修造と緑は、一緒に手作りのアドベントカレンダーの袋を紐から外して中身を見た。

「今日はチョコレートクッキー!」

緑は中に入っていたキャンディ包みになったカフェーシュタンゲを2つ出した。ほろりとした食感の搾りだしクッキーでヌガーをサンドして両端にクーベルチュールチョコが付けてある。

修造の作ったアドベントカレンダーは小さな紙袋に1から24迄数字を書いて、紐を通して壁に貼り付けてある。

順番に毎日ひとつずつ外してお菓子を食べる楽しいものだ。

「はい、お父さんに一つあげる」

「優しいね、緑」

「お父さんにだけよ」

「ありがとう」

修造はチョコクッキーを緑と分けて、クリスマス前のひと時を楽しんでいた。

いいもんだなあ、こういうの。

チョコ以外にも甘い時間だった。

「緑はいい子だからサンタさん来るよね」

「ウフフ」

二人で見つめあってニッコリした。

緑はこたつの中の修造の足をこちょこちょした。

「くすぐったいよ緑」

「アハハ」

うわ!可愛い。

心から愛情が染み出す、緑の笑顔を見て温かな幸せを噛み締めた。

ーーーー

アドベント第4日曜日の次の日、あと何日かでクリスマスだ。

夕方、杉本と風花は2人で帰る所だった。

風花の家はパンロンドから近くて送っていくのもあっという間だ。

風花は以前カッター男に襲われたので、杉本は怪しい奴がいないか通りをチェックしていた。

商店街を歩きながら「年末って感じね」

2人は慌ただしく歩く街の人たちを見ていた。

「あれ?龍樹じゃん」

急に呼ばれて声のする方を見ると制服を着崩した派手な女子高生が立っていた。

「あ、結愛(ゆあ)」

「久しぶり!龍樹が高校急に辞めちゃって寂しかったんだからね」

結愛は杉本の腕を掴んで自分の方に引き寄せた。

「行こう!」

「いや、行こうって、、」

杉本は風花の方を見た。

「どうぞ、ウチはすぐそこだからもう帰るね」

きっぱりとした口調で風花が言った。

ちょ、ちょっとぐらいあるでしょ?

誰よこの女とか、私の事どう思ってるの?とかないの?

さっさと行ってしまう風花の背中を見送った。

「結愛、今彼女と歩いてただろ?行こうってなんだよ」

「だってぇ、久しぶりだったしぃ」

結愛は腕を組んだまま右の足首をクネクネさせて口をとんがらせて杉本を見た。

「高校はどうなんだよ、もう高3だから進学か就職だろ?」

「ヘアメイクの専門学校に行くつもり」

「へぇ」

「ねぇ、さっきのと付き合ってんの?なんかおばさんっぽくない?」

杉本は風花がこれを聞いてなくて心からほっとした。先に帰っててくれて良かったかも。

「おばさんってなんだよ、俺よりずっとしっかりしてるだけなんだよ」

「龍樹は私といる方がお似合いだよ」

結愛はショーウィンドウに映った自分達を指差して「ほら」と言った。

確かに金色に髪を染めた杉本は、派手な出立ちの女子高生と釣り合いが取れているように見える。

杉本はガラスに映った自分の姿をマジマジと見ながら言った。

「結愛、俺がしっかりしてないだけなんだよ、俺は今。大人の世界に足を突っ込んでるんだ。パンの修行中なんだよ」

「パン屋で働いてんの?」

「そこでは俺をちゃんと導こうとしてる人しかいないんだ、どの人もどの人も」杉本はみんなの顔を思い出して「俺が頼りないだけなんだよ」と言った。「結愛、ヘアメイク頑張れよ、じゃあな」

ーーーー

次の日、江川と修造はパンロンドでバゲットを成形していた。

杉本と風花が一言も口を聞かないのを見て、「なんかあったのかなあ、風花さんは杉本君を見もしない、、、」と江川が言った。

「ケンカかな。ほら真っ直ぐに生地を置いて、よそ見するなよ」

「あ、はい」毎日の様に修造に成形を見てもらって江川は随分成形が上手くなった。

コンテストに出るなら一人で全てできなくてはならない。勿論今頃自分のライバルとなるべき職人もそうなる為に練習しているだろう。

まだまだ道のりは長い。

「明日からロールインをしてみよう」

「はい」

ロールインとはクロワッサンの生地を薄く伸ばしてシート状にしたバターを折り込んでいく作業の事だ。その作業の後、三角にカットして巻くといつものクロワッサンの形になる。

その時

「うん?」

「あれ?」

修造と江川は同時に顔を見合わせた。

「杉本!焦げ臭くない?」

「えっ?」杉本は慌ててパンを焼く窯の真ん中の扉を開けた。

「あーっ!」

みんなも「あっ!」と言った。

窯からモクモクと焦げくさい熱気が舞った。

窯の中のラスクが鉄板4枚とも真っ黒になっていた。

「やっちまったものはしょうがないよ」

親方が窯から真っ黒になったラスクを出した。

「親方すみません、上火150度のところ250度にしちゃいました」

「あるあるだな」

みなそれぞれうっかりパンを焦がした事があるので寛容だ。

今日は特に機嫌の悪い風花以外は、、

「あ、ごめんね。焦がしちゃった」

冷たい目で見てくる風花に言った。

「昨日遊びすぎたから頭がぼーっとしてるんじゃない?」

「あの後すぐ一人で帰ったよ」

「本当かしら!つまんないことばかり考えてるから失敗するのよ」

ちょっと自分でも驚くほど冷たく言い放ってしまった。

杉本はそれ以上声をかけなかった。

「風花」

「なんですか修造さん」

普段話しかけてくることのない修造が店にパンを盛ったカゴを持ってきて来て声をかけてきたので風花は驚いた。緊張して背中がピリッとする。

「あいつ、フワフワしてるいい加減な奴に見えて頑張るときは頑張るんだよ、こないだも犯人の自転車を1日探して突き止めた。あれって風花を思っての事だよ」

「わかってるんですけど、、、」

風花はパン棚の方を向いて持っていたトレーのパンを並べ出した。

修造は背中に向かって言った。

「素直になってやれよ」

帰り道、風花は暗い気持ちになっていた。

いつもギスギスしちゃうのは私のせいなんだわ。

冷たい口調で厳しい事ばかり言ってしまう。

私達合わないのかも、気持ちも見た目も。

商店街はクリスマスソングが鳴り、買い物客でいっぱいだった。

下を向いて歩いていると「おばさん」と昨日の女子高生とその友達らしき女の子四人が風花を取り囲んだ。

「おばさんってなによ!」

風花はイライラした。

「二つしか違わないのに!」

「私さぁ、昨日龍樹を見てびっくりしちゃったんだよね。前の龍樹とは全然違うくなってたし。高1の時の龍樹って喧嘩したり暴れたり物を壊したり。とうとう学校に来なくなっちゃって」

「ふーん」

「今は龍樹を導こうとする人しかいないとか言っちゃってさぁ」

「あんたもそうなの?おばさん」

「おばさんじゃないってば!」

「龍樹に言っといてよね、また遊ぼうって。ほら、私たちの方がしっくりくるよね」

「あんたとはさぁ」風花をジロジロ見て「違うよねなんか」

風花は言い返した。

「龍樹はだんだん変わってきたわ。初めはどうだったか知らないけど、何かに打ち込むってそういう事よ。私にもキレたことなんて一度もないわ。いつも優しくて助けてくれるもの」

それなのにいつもきつく言ってしまう。

これじゃあダメよね。

風花は心の中で反省した。

「朝だって超早く起きてるんだからね!あんた達なんて何も知らないじゃない」

最後にキツい口調で言った。

「私が一番知ってるの!二度と邪魔しないでね」

風花は4人の包囲を突き破り、歩幅を大きくしてそのまま駅の方にズンズン商店街を歩いて行った。

「結愛!、あんなおばさんほっといて行こう!」

「うん、、、」

龍樹は私達より先に大人になっちゃったんだ。

そう思いながら結愛はポケットに手を突っ込んでブラブラと元来た道を歩いて行った。

ーーーー

杉本はため息をつきながら東南駅の近くにできた巨大なショッピングモールに来ていた。

「今日失敗したし、風花は冷たいし、ついてねぇ」

俺、勘も鈍いそうだし。

今日の風花は一際キレ味が良かったな。

いつも俺の為に言ってくれてたのはわかってるけど、何回言われてもぬかに釘。

自分で言う事じゃないなあ。

「色々寒い」

杉本はそう言いながら店の中に入った。

「いらっしゃいませ、今日はどうなさいますか?」

「普通っぽくできますか?俺、心を入れ替えるんで」

「はい!心を入れ替える為に普通っぽく入りまーす」

まだ新しい建物の匂いのする店内で店員さんが言った。

杉本は用を済ませたあと、色々な店を回った。

「それにしても色んな店があるもんだ」

モールから外に出て歩いていると、風花が大きな広場のクリスマスツリーの周りにぐるりとおかれたベンチに座っている。

「あ、風花」

「あ」

「髪の色が茶色になってる」

「俺、変わろうかと思って」

杉本も横に座った。

「風花」

「龍樹、今日はごめんね。言い過ぎだよね、あれ」

「いや、気にしてないよ」

風花はホッとしてうっすらと涙目になった。

「あんなに言ったら嫌われちゃうんじゃないかと不安になったの。それに、昨日の女の子、お似合いだったから」

「あのさ、俺パンロンドに入って来た時すぐトンズラしようと思ってたんだ」

「トンズラ、、、」

「だけど修造さんがいて、親方がいて、藤岡さんがいて江川さんがいて、そして風花がいて。みんなが俺の面倒を見て、仕事も面白くなってきたし辞めれる訳ねえだろって今は思いだして」

風花は黙って聞いていた。

「俺には風花みたいなしっかりした人が必要なんだ。俺は風花がどんなにきつく叱ってきても全然悪い気がしない。それは風花が俺の為に言ってるってわかってるからね。いつもありがとう」

風化は顔が赤くなった。

「私、いつもそばにいてくれる人がいいの。振り向くといつも見ていてくれて、声をかけてくれて困った時には助けてくれる人。」

「それって俺のことだね」

風花は下を向いて頷いた。

「でも、1人でどこかに行くんなら私多分3日で嫌になっちゃうから」

「3日!短すぎるだろそれ」

「冗談よ。じゃあ一週間ね」

「わかったよ一週間以上何処かに行かない」

「フフフ」風花はこのやりとりが面白くてはじける様に笑った。

そしてグリーンの包装紙に赤いリボンの包みを渡した。

「私ねクリスマスプレゼントを買ったのよ」

「えっ」

「はいこれ」

俺にプレゼント!

「やった!」

「先こされちゃったけどこれ」

そして似たような大きさのプレゼントを風花に渡した。

「あ!」包みを丁寧に開けた風花が言った。

「同じマフラー!ウフフ」

「店員さんが言ってただろ。これが一番あったかいって」

ほんとあったかいわね

うん、あったけえ

俺たちお似合いだな

おわり

このお話しは2021年12月22日(水)にパン屋のグロワールのブログに

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう