25パン職人の修造 江川と修造シリーズ Prepared for the rose

ベッカライホルツの事務所のデスクに肘をつき、大木は電話していた。

「あぁ、そう、あの二人ベークウェルに行ってたよ。社長が礼を言ってきた。鷲羽も顔つきが変わってきたな。いい経験になったんだろうよ。はいはい。そっちはどうなんだ佐々木の仕上がりは?そう。じゃあな」

俺も負けていられないな。選考会まであと少し、これから鷲羽はあの二人と別室で特訓だな。

大木は顎を太い指で摩りながらプランを練っていた。

一方、東南駅の西側に続く商店街にあるパンロンドでは。

「あの〜親方」

「なんだい江川。こないだのヘルプはどうだった?ベークウェルって店に行ったんだろ?」

「はい、ここやホルツとはまた違う店やそこで働く人を見てきました。それであのう」

江川はすごく言いにくそうだったので親方は江川をジーッと見た。

「おい!なんでもいいから言ってみろ」

「わ、鷲羽君がここに勉強に来たいって言ってます」

「え!!」

「え?」

「えーっ!」

そこにいた全員がそんな声を出した。

「鷲羽ってあの江川さんをいじめてた奴ですかあ?」杉本がびっくりして聞いてきた。

「俺が絞めてやりますよ」

「杉本君、そんなんじゃないよ。勉強したいんだって。あの人凄く修造さんに憧れてるんだ」

「えっ」最後に修造が驚きの声を出した。

「知らなかった。なんで俺なんかに。ろくに話もして無いのに」

「俺は分かりますよ」藤岡が修造に爽やかに微笑みかけた。

「パンを作ってる時輝いてますね」

「なんだよそれ」

修造は恥ずかしがって下を向いて仕事をし出した。

「お前達も飾りパンの練習をしなくちゃな。コンテストはすぐなんだし」親方が修造と江川をかわるがわる見て言った。

「ここで作ってっていいんですか?」「おう!当たり前じゃないか!ホルツにも呼ばれたらすぐに行け、ここでも好きなだけ練習しろ。もうどんな感じか考えたのか?」

「はい、大体は」修造は実家の近くに咲いている花を元にデザインを考えていた。

「お前は手先が器用だもんな。やる事が繊細だよ。どんなのができるか楽しみだなあ」

「僕はまだです。どうしたら。いいのやら」江川が自信なさそうに言った。

「おい、俺が見てやるから紙にイメージを描いてみろ」

「はい」親方に言われて白い紙をじっと見ていた

江川は頭を抱えた。「何も思いつかない。鷲羽君はどんなのを作るのかな」

「江川、パン以外の事で何かヒントになる様な事があるかも知れないよ」

「そうですね、何があるかなあ」

さて、何日か後、鷲羽と江川はパンロンドとホルツでお互い入れ替わって研修に行くことになった。

約束の朝早く、鷲羽がパンロンドにやってきた。

一礼して、入り口に立って工場の方を見ている。

「あなたが鷲羽君?」柚木の奥さんが声をかけた

「はい、そうです。今日は勉強させて頂きに来ました」と言って頭を下げた。

奥さんは鷲羽を見て、凄く意地悪って聞いてたけど案外礼儀正しいわね、と思いながら「ちょっとー!鷲羽君が来たわよ!」と奥にいる親方に言った。

「よう!鷲羽。俺は柚木、親方って呼んでくれ。早速着替えて来いよ」「はい。本日はよろしくお願い致します」鷲羽はまた礼儀正しく頭を下げて更衣室までの道のりに出会う全員に挨拶して行った。

「思ってたのと違いますね〜」

「そうだね」と杉本と藤岡が鷲羽を見ている。

と、そこまでは良かったが、鷲羽は親方の前に呼ばれた。

「俺が生地を分割するから丸めてバットの上に置いてくれよ」

「はい」

親方がスケッパーというステンレスのカード形の道具を手に持ち分割した生地を、鷲羽は大人しく丸め始めた。バットに並べた生地がいっぱいになると冷蔵庫に入れて、また次のバットに入れていく。

親方はリズム良く生地を分割しながら聞いた。

「パンロンドで勉強したいんだって?で、どんな事を聞きたい?」

と聞かれ「はい、俺不思議だったんです。なんでこんな小さな店で一生を終えようとしてるんですか?」

その瞬間、工場の温度が十度程下がり、親方と鷲羽以外の全員が凍りついた。

「うわ、こわ」

「なんて事を」

悪気なく失礼な事を平然と言った鷲羽に親方だけは頭から熱を放出した。

「小さな店?敷地面積の事かよ?」

鷲羽はキョロキョロして「それもありますけど、商店街のパン屋で良いんですか?」

「おう!俺は俺の作りたいパンをここで作り続けるさ。じゃあ逆に聞くが、なんなら良いってんだよ」ちょっとスケッパーにかける力が強くなった。

「もっと一等地に店を出したらどうですか?例えば外国で修行して、帰って来たらそこで習って来たパンを作るとか、俺ならそうするな」

「はあ?パン屋がみんなそうするとは決まってねぇだろうが」なんだか生き方を否定された様な気がして来て腹も熱くなって来た。親方は分割する手が段々速度を増して鷲羽の前に沢山溜まって来た。「早く丸めないと溜まって来ただろうが!」

親方は次の生地を持ってきてさらに分割し出した。

見よ!このスピードアップスプリットを!親方は必殺技を繰り出した。

鷲羽は必死に丸めたが、親方の気を悪くさせた事には気が付いていない。

藤岡が材料を計量中の修造に目で合図した。

親方が怒ってますがどうします?という意味だ。

「藤岡、計量を頼むよ」

「はい」

修造は親方の横に立ち「親方、バゲットの焼成の時間ですよ」と言ってスケッパーを持ち「俺が変わります」と言って他の作業を促した。

親方はふと我に帰り、あ、俺ムキになりすぎたかな?若造がほざいてるだけなのに。「お、おう。頼むね、修造」

修造は溜まった生地を丸めて台の上をスッキリさせてからまた分割を続けた。「鷲羽、店の方を見てみろ。お客さんの様子を」

鷲羽は工場の奥から窯の前に立って作業をしている親方のもっと向こうを見た。

狭い店の中にいきいきとパンを選んでトレーに乗せているお客さんの姿が何人か見えた。

自分だけの好きなパンを選ぶ人もいれば、家族の好きなパンを選ぶ人もいる。皆お気に入りのパンをトレーに自由に乗せている。

「みんなここのパンのファンなんだ。どんなお客さんにも好きなパンがあって、ここのパンで大きくなった大人もいるんだ。今店にいる風花もそうだよ。ここのパンが好きで働いている。街のパン屋さんっていうのは他の店同様なくてはならない存在なんだ。みんな通勤の時、昼食、贈り物、夕方、夜食などそれぞれがそれぞれの理由で買いにくる。パンロンドのパンが好きで買いにくる人々の為に親方はパンを作り続けているんだ」

「俺は誇らしい事だと思うよ」

修造は鷲羽に言った「そんなお客さんの気持ちが分かっていてパンを作ってるかどうかでまた違ってくる。お前はどうなんだ。お前だってパン作りに携わっているだろう」

一方その頃ホルツでは

大木が江川にマンツーマンの指導をしていた。コンテストまであまり時間のない江川にとってラッキーな事だった。

大木は江川に飾りパンの『薔薇の花籠』を教えていた。

シロップ生地というきめ細かい生地を薔薇の形やカゴ用に編んでいく。

「江川、選考会ではどんな飾りパンを作るつもりだ」

「自然のものを取り入れようと思いますがまだ思いついて無くて」

「立体的造形って作ったことは?」

「花とかウェルカムボードなどの練習しかありません」

大木は工程の説明を始めた。

「飾りパンはパンデコレと言って、大会では全て食べられる物で作るんだ。工程の始めに自分の作りたいものの量、パーツの数と大きさについて考える。作る量に規定があればその重さを割って考えるんだ」

「綿密に必要なものの大きさ、長さを計算する。どこに何色を持ってくるかも重要だ。見た感じの色のバランスなどもな。自分の技術を立体にしてる様なものなんだ」

大木は、江川が作ったパーツの表面が乾燥したのを確かめてから窯に入れ、低温にセットしてタイマーをかけた。

「作ったものを焼成するとイメージと全然違ってくることもある。それも計算に入れなくちゃならない」

「はい」

「コンテストにはホルツで焼いたパーツを持ち込んで現場で組み立てることになる。ここなら安全に置いておけるからな。コンテストの現場では殆どのパンをそこで作り終わった後、最後にパンデコレ(飾りパン)の組み立てをするんだ。全ての工程を頭に入れとけよ」

「今日は計画通りに生地量を決める練習から」

大木は紙を広げた。「考えとけよ。タイマーが鳴ったら出しといて」と言って江川を一人にした。

江川は作業台の上に紙を広げてペンを右手で振りふり考えた。

何か好きなものから考えようかなあ。

修造さんは実家の周りに咲いてる花がテーマだったな。。

好きなもの

好きなもの

甘いものとか?

ハチミツかなぁ。

そういえば、僕の育った家は寒いところでニホンミツバチは育てられないんだ。だからセイヨウミツバチを冬も暖かい所を作ってそこで越冬させる。

夏になると菩提樹の花で蜜を集めてる養蜂家のおじさんがいたな。森に巣箱を並べてたのを見た事があったっけ。

菩提樹は黄色い可愛い花で学名はtilia。翼って意味なんだ。

ハチミツ、菩提樹の花、翼、セイヨウミツバチか。

うーんと呻きながら江川は紙に絵を描いて、それを元に図面を作成した。

しばらくして戻ってきた大木は、江川の絵を見て言った「ふーん。あまり無いデザインだが面白い。江川、お前は個性的な奴だな」

「僕にこの部分の作り方を教えて頂けますか?」

江川は指で紙に描いたパーツを指差した。

「よし、ちょっと出かけるか」大木は江川に上着を持って来させて二人で出て行った。

さて、パンロンドでは修造に問を投げかけられた鷲羽が固まっていた。

あー

俺またやっちゃったのかなあ

すぐ無神経な事言っちゃうんだ。

首を項垂れて鷲羽は考えていた。

鷲羽が固まっている間に修造はパイローラーでクロワッサンの生地を伸ばして持ってきてカットしながら言った。

「お前な、よく人から一線置かれないか?」

「それはしょっちゅうあります」

「あんまり気にして無いから直んないだろ?」

「はい、、いえ、こないだ修造さんに言われてから意識はしています。の、はずです」

「他人に対して敬意を払っていない」

「それは、俺、修造さんに凄く敬意を払ってます」

「なんでだ。外国で修行したからかよ」

「始めはよく知らなかったからそうでしたが、修造さんは仕事に対して凄くストイックです。俺はそれに憧れてます」

修造が三角にカットした生地を鷲羽は巻き続け、バットに並べていく。

その様子を時々見ながら修造は話し始めた。

「鷲羽。今の俺があるのは親方のおかげなんだ。

親方が俺が帰ってこれる様に大切なものを守ってくれたんだ。もし親方がいなかったら今頃俺の家族はバラバラになって俺は帰るところなんてなかった。エーベルトの所に残るか、ひょっとしたらもう糸の切れた凧の様になって他の国に行って帰ってこなかったかもしれない。そしたらみんなともお前とも出会わなかっただろう。今ここにいるのはみんな俺の大切な仲間なんだよ」

誰かのおかげとか仲間とか鷲羽の頭には無いワードが出て来た。

「修造さん、さっきの質問の答えですが。俺、わかってるも何もそもそも人の思惑通りに動くのなんて嫌だし、従う気もありません。だけど自分の為になる事ならいくらでも頑張れます」

それが俺って人間なんだ。

言葉に出して、鷲羽は改めて自分の腹の中を覗き見た気がした。

「俺、前向きな人でなしって言われた事があります」

「普通人ってそう言うダメな所を隠して生きるものだがお前って正直な奴だな」

ストイックな職人には少なからずそんな所があるのかも知れないな。他に目もくれず一心不乱に打ち込むその先に美味いものが生まれるのかもな。

修造はそう考えてからきっぱり言った。

「だからって失礼な事をズケズケ言っていい訳じゃ無い」

「はい、すみません」

「俺に謝るんじゃ無いだろ?」

鷲羽は少し潤んだ目で親方を見た。

おっ鷲羽が見てる。なんだよ。とりあえず笑っとくか?親方は大きな木のスコップで焼けたパンを窯から出す手を休めずに、余裕の微笑みを称えた。

「あの、さっきはすみませんでした。無神経な事言ってしまって」

「わかりゃいいんだよ、鷲羽。いつかお前も俺と修造みたいに大木シェフと気心が知れる様になったら良いな」

「そんな日来ない気がします」

「なんでだ。自信ないのか?」

ーーーー

一方その頃

大木の車で江川は留基板金に着いた。

平屋建ての古い建物で壁はトタンで囲われている。

中からはカチャンカチャンと機械の音がしていた。

「ここは板金屋さん?」

「そうだ。さっきの設計図を出して」

「はい」

「どうもこんにちは。大木さん」

機械の音が止まり、古びた木の横開きドアが開いて一人のお爺さんが出てきた。

「こんにちは留基さん、ご無沙汰しています。ちょっと頼みたい事があってね」

留基丈治(とめきじょうじ)はおでこの上に付けていた老眼鏡をかけ直して江川の書いた紙を見た。

「これ、パンの抜き型なんだけどできるかな?」

「ふん」

留基はうなづいて工場の中に入って行った。

しばらくゴソゴソする音がして、大木と江川はその中をじっと見ていた。

「これこれ、これを曲げたら丁度良いですよ」

と言って手頃な大きさのステンレスの板を持ってきた。

「これによると色んな大きさで六角形なんですね」

「高さは五センチぐらいでお願いします」

「了解です」

留基は歯の抜けた口角を上げて笑ってみせた。

ーーーー

パンロンドでは

親方が鷲羽に優しく話しかけていた。

「太々しい様に見えてお前本当は自信ないのか?さっきの態度も江川の件もあるし。だからいつも必死なんだろう」性格の悪さを技術でカバーか。と親方は鷲羽を見て感じとった。

「それ、本当はわかってるんじゃないのか?自分で認めなきゃお前は前に進めないぞ」

そんな会話を工場の奥で見ていた藤岡は「性格矯正」と呟いた。

「鷲羽、俺はこれからもここにいてパンを作り続けるよ。ここに来たいお客さんの為にな。だからお前もいつでもここにきて良い。俺とお前の心が通い合うまでな」

鷲羽はパンロンドについての誤解が解けた気がした。

ここはホルツともベークウェルとも違う。

ここにあるのはほのぼのとした温かい空気だ。

そしてそれの大元になるのはこの親方なんだ。

「おれ、親方みたいな人に初めて会いました」

もう一人尊敬できる人ができた。

鷲羽の心にこれまでにない何か、少しだけ温かい小さな塊ができた。

ーーーー

ホルツに戻って出かける前に焼成した花籠の飾りパンの部品を、水飴でボンドの様にして付ける練習を始めた江川は、大木に細かいコツを教わっていた。

その時大木がコンテストの日程についての話を始めた。

「パン職人選抜選考会は業界最大の展示会場で行われる。三日間あって、一日目が修造達四組の職人の選考会だ。そこで選ばれると世界大会に挑戦できる。三日目がお前と鷲羽の出る若手コンテストだ。修造の助手には園部に出てもらうつもりだよ」

「えっ?園部君?大木シェフ、僕が修造さんの助手をやります」

「お前な、最終日にコンテストが控えてるんだからできっこないだろう?自分の事で精一杯で修造にも迷惑がかかるからダメだ。園部もこれまで特訓していたんだし、これから修造と息を合わせていかなきゃ」

「絶対ダメです。僕やれます!僕しか修造さんの助手はいません」

「無茶言うなよ、修造と練習して自分の分も最高の出来栄えにしなきゃいけないんだぞ!」

江川は懇願する様な真剣な目で大木を見た。

「僕その為にこれまで練習してきました」

江川の潤んだ目を見て大木は困った

「お前にはあきれるよ」

江川の奴こんな事言い出すとは思ってもいなかったな。

うーん、修造の勝利に重点を置いて、鷲羽と江川、どちらが勝っても助手になるんだからまあ良いか。代表選考会が先で良かったよ。

「どちらも出来るって言うんだな!お前が勝てなかった時は他の選手が世界大会に行く事になるんだぞ!」

「はい!僕やれます!みんなに迷惑をかけません。絶対やってみせます」

「頑固な奴だな。勝手にしろ!」

大木は強めの言葉を残して事務所に行き、選考会の提出書類を出してきて修造の助手の欄の園部の名前を江川に書き換えた。

事務所から出て別室と工場の間に立ち「江川も鷲羽も同じぐらい個性がキツいな」大木は花籠の仕上げをしている江川をドアのガラス越しに見ながらそう思っていた。

おわり

Prepared for the rose(薔薇の覚悟)

江川は修造との勝利の為に薔薇の飾りパンに誓いを立てました。

必ずやり遂げると。

このお話は2022年02月27日(日)にパン屋のグロワールのブログに投稿した物です。

24パン職人の修造 江川と修造シリーズ  イーグルフェザー

鷲羽秀明(わしゅうひであき)は東京NN製菓専門学校パンコースを首席で卒業した。

在学中は学科、実技ともに他を圧倒する実力でその名を学校中に轟かせた。

教室の中では何もせずとも楽にトップでいるそぶりだったが、心の中では絶対に誰にも自分の前を行かせまいと躍起になり、陰では人一倍パンに関する何事でも頭に入れようと努力していた。

にも関わらず、トップを走り続けていると自分は何かのエリートではないかと思える、そして自分より遥かに後ろを走ったり歩いたりしている同学年の生徒がなんだか小さな存在にしか見えず、段々不遜な性格が強く出て、小馬鹿にする態度を取ってくる鷲羽に話しかけるものは誰もいなくなった。

だが講師達はパンコンテストに出品させては賞を取ってくる鷲羽にとても目をかけていた。中には褒めそやして「君なら若手コンテストに出られるよ」と言う講師もいた。何度か言われているうちになんだかそれは未来に必ずやってくる出来事として鷲羽の心に刻み込まれていった。

ブーランジェリーホルツの入社試験に無事合格した。入社してからも野心家の鷲羽は先輩の真似をしては自分のものにしていった。

ある時ホルツのオーナー大木シェフに「今度からパンロンドの職人が奥の別室で特訓するから」と聞いてからは、やってくるであろう田所修造の事を調べて憧れを抱いた。修造の事をなんだか遠く手の届かない、ハイブランドな存在に感じていたのだ。

そしてその当日、修造と一緒に来た江川と言う若者は学校で見た誰よりも性格が頼りなく実力のない様に見えたので、一体何故こんな奴が大切にされるのか不思議で、踏みつけてやりたいと言う気持ちに駆られた。ところが足を引っ掛けて倒す様な事をやっても、いつの間にか起き上がって、なんなら自分よりも高いところから見下ろされている。

おまけに修造に凄く可愛がられていて、世界大会に出ようとしている。は?俺だよ俺だよ。お前じゃない。俺の予定を狂わせるなよ。

そう思って敵視していたその時、修造に言われた言葉がこうだった。

「美味いパンって言うのはいつも食べられる当たり前の存在であってほしいと俺は思ってる。だから天候や気温に合わせて種や生地の面倒を見て良い状態で焼成まで持っていく、そうすると美味いものができるんだ。お前は江川の事をライバルで、戦わなきゃならないと思ってるのかもしれないが、お前がこれから戦うのは自分自身なんだ。お前の作ったものを選んで食べてもらう為にな。それは必ず美味いものでないといけない。形だけ勝っても意味はないんだ」

ライバルに勝とうとしているのに、本当の戦いは自分自身と?俺が俺に打ち勝つのは一体どんな時なのか。

毎度大木が出してくる課題に誰よりも良いものを出す。そう言う事なのか?

鷲羽は頭をかかえた。

何度練習して結果を出しても、最後は江川が追い越していく。

そんな折

鷲羽と江川のパン作りはとうとう他人の手によって審査される時が来た。

「次来た時、一次審査のパンを送るから」

大木は皆の顔を見ながらそう言った。

締め切りから逆算して日にちを決めたのだ。

そう聞いた途端、なんだか身体の血の巡りが早くなり瞼が痙攣する。

鷲羽は仕事中も出品する事を心がけて命を込める気持ちだった。

今までこんなにまで打ち込んだ事はない、そのぐらい。

配送の日が来た。

自分達の作ったパンを焼けてすぐに良いと思ったものを選んでフリーザーで凍らせた。

完全に凍るまで工場で仕事を手伝う。パンロンドから来た二人にとってとても勉強になる時間だ。そしてついに梱包をする時間が来た。丁寧に梱包して、大木が手配した配送業者に渡す。

「工芸品の様に大事な物が入ってるんだ。頼むよ」どうやらこの時のために知り合いに頼んだ様だ。大木に馴染みの配送業者は丁寧に頷いて冷凍車に積み込んだ。

「緊張するな」「はい、僕心臓がドキドキします」配送業者がパンを持って行った後の修造と江川の会話だった。

園部は黙ったままだったが、一体どんな事を考えていたのか。

冷凍で配送されたパンは会場に並べられて審査される。

さて、審査が終わり、大木が選考会への切符を受け取る選手の名前を述べた。

まずは選考会には修造が選ばれていた。

それを聞いた時修造は「ふぅー」っと息を吐き、緊張を解きほぐす仕草をした。そして他の選手の名前を覗き込んだ。「あ、北麦パン!」パン王座決定戦で一緒だった北麦パンのチーフシェフ佐々木の名前があった。他にも有名店で働いている職人の名前が二人。

「北麦パンは凄い特訓をしてるよ」大木は何かと色々知ってる様だった。

次に大木は気になる若手コンテストの選手の名前を述べた。

「江川と鷲羽が選ばれたよ。園部、残念だったがこれを機に更に飛躍する様に」

「はい」

相変わらずポーカーフェイスの園部を見て、学校時代の自分なら気にもしない所だが、鷲羽はやっと、自分と同じ立場でさっき迄同じ心配をしていた園部の心中がわかる様になってきた。

「園部ごめんな、俺、お前の分も頑張るよ」

この言葉がこの場にあってるのかどうか鷲羽には分からなかったが、何か声をかけずにはいられなかった。

「俺、この場にいて良かったよ。勉強にもなったし。応援してるからね秀明」

「うん」

人に向かって何かしらの優しい言葉をかけたのは生まれて初めてだった。

江川が「鷲羽君、入選おめでとう。頑張ろうね」と言ってきた。

澄み切った水辺に輝く宝石の様に瞳がキラキラしている。

自分には全くキラキラした所が無い。思えば自分と江川のパン作りの違いもそんな所では無いのか。ふとそんな事に気づく。

白い鳥の羽の様な、青い空に浮かぶ白い雲の様な、鷲羽から見た江川はそんな風に見えた。

鷲羽は江川の言葉に対して斜に構え少しだけうなづいた。

大木が帰ろうとする鷲羽と江川を呼び止めた。「お前達には修行も兼ねてベーカリーベークウェルのヘルプに行ってもらう、江川が次に空いてる日に鷲羽も行ってきて良い。江川、決まったらメールくれよ」

「はい」

帰りの電車で江川は修造に質問した。

「ヘルプってどんな事をすれば良いんですか?」

「そうだな。ベークウェルって五店舗ある町のパン屋さんなんだけど、そのお店がイベントとかしたら沢山のお客さんに来てもらえるからその分沢山パンがいるだろ?だから手の足りなさそうな所を手伝ったりするんだよ。店の人にに頼まれた仕込みや成形をするんだ」

「へぇ〜僕初めてです。どんなのかなあ。。それに、、鷲羽君と一緒なんですよ」

江川は不安そうに少し涙目で言った。

「それは、、頑張ってね」そこに呼ばれていない修造はそう言うしかなかった。

さて、江川は空いてる日を大木にメールした。するとベークウェルの地図と持ち物、日時を書いて送り返してきた。

大木はホルツで仕事中の鷲羽に、この日に江川とベークウェルに行く様にと言ってきた。

なんで俺が江川と行かなきゃいけないんだ。

鷲羽は心の中で愚痴をこぼした。あのキラキラした江川をずっと見てなきゃいけないのか。うんざりだ。

ベークウェルはお洒落な設計で、敷地が四十坪、店と工場は半分ずつに分かれており、店部分の三分の一はイートインスペースだ。お店にいる三人の店員さんに挨拶して中に案内して貰う。

江川と鷲羽は別々に着いてその店の店長に挨拶した。

「店長の杉野です。来てくれて丁度良かったよ。明日から三日間、開店五周年の創業祭があるんだよ。今日は二人ともよろしくな、あそこにいる塚田って子が指示してくれるから」

二人は同時に塚田を見た。

細身の塚田の制服はうす汚れていてヨレヨレしている。それがなんだかやる気のない様子に見えた。表情もどこか頼りなげだ。

塚田はぺこっと頭を下げて二人にバゲットの成形を促した。

「おい!ちゃんとやっとけよ!」塚田に罵声とも言える言葉を残して店長がどこかへ行ってしまったので、工場の中には塚田と焼成のところに三田、仕込みのところに辻と言う従業員、そして江川と鷲羽の五人になった。

「塚田さんって幾つなんですか?」と気さくに江川が質問した。

「ニ十五です。元は本部にいたんです、、こちらに来て一年目になるんですがもう辞めようと思っていて」まだ話し出したばかりなのに塚田は何故かやめる事を言い出した。

「なんで?」なんだか自分が普段目指してるものと違いすぎて帰りたくなった鷲羽が聞いた。

「それは、、」塚田はチラッと店長が出て行った跡を見た。

「あの人が嫌なの?」江川もそちらを見て言った。

「はい」

パワハラかなんかか?もうさっさと仕事をやってしまって帰ろうと決めた鷲羽は「何が修行だよ、一日損した」と呟いて突然黙々と仕事をしだした。

鷲羽の険しい表情を見て、江川はそこからなるべく遠ざかって塚田と一緒に成形しながらしつこく質問した。

「何が嫌なの?」ホルツやパンロンドにはいないタイプの塚田が珍しかったのだ。

「ここにいても何も解決しない」

「例えば?」

「おい!江川。そんなやつほっといてさっさとやろうぜ。やる気のない奴は辞めたらいい」

「鷲羽君、そんな言い方しないで」江川はオロオロした。

修造ならこんな時なんて言うだろうと考えていると塚田が言った「やる気ないわけじゃないんです」

「ならなんで辞めるんだ」要領を得ない会話に鷲羽はイライラした。

「ここには問題が沢山あるんです」と突然後ろから声がした。

仕込みをしていた女性が話しかけて来たのだ。

「あ、急にごめんなさい。塚田さんもヘルプの人達に中途半端に言わないでよ」

「ごめん」

「ここは経営者は別にいるんです。店長は目が行き届かないのをいい事にサボってばかりいて」

「注意すればいいだろ?」

「無駄ですよそんなの」

もう一人の焼成の担当三田も話しかけて来た。

「店長はすぐにキレるんです、注意なんてしたら一日中機嫌悪いですよ、それに二言目にはお前達は効率が悪いってキレてます」

「えー!嫌だなあそんなの」

「だから辞めるのか」

「それもあります」

「問題を解決しないと次に入ってきた人も同じ事になるんじゃないかなあ」江川の言葉に乗せて、鷲羽は塚田に言った。「例えばお前が受験生だったとする。第一志望に受からなくて第二もダメでヂ第三なら受かった。こんなとこに入りたくなかったとずっと不満に思うか、自分がこの学校のトップを追い抜いて更に上を目指して学校の格を上げるか。要は気持ち次第だろ」

「ここって色々問題あるんだよ。例えばさ、それ、店長どうのこうのより袋の中のクリームは綺麗に使い切ろうよ。ほらこれを使うとすごい綺麗に使い切れるぞ」

鷲羽は窓拭き用の小さな四角いワイパーを持ってきて洗って搾り袋を持っている三田に渡した。

ワイパーの薄くなっている部分で搾り袋を押していくと袋の中のクリームが綺麗に使い切れた。

「スケッパーって使い込んでるうちに先が凸凹してくるけどこれなら密着する。さっきから気になってたんだよ」

「ほんとだ!」

三人はしぼり袋の中のクリームが綺麗に使いきれているのを見て「へぇ〜」っと言った。

「僕もちょっと良いですか?」江川も口を挟んだ

「ほら成形してるところとバゲットを乗せる板が離れすぎてて運んで置いてると形が悪くなっちゃう。近くに置いてやればいいのになんでわざわざ遠くに置くのかちょっと思っちゃいました」

「作業する時にさ、同じ事を繰り返す瞬間があるんだよ。その時に手は動かして頭の中では次にする事どころかその日の行程をすでに考えておく、するとえーととか言って次に何するかその時になって考えなくてもいいのさ、それが効率化だよ」調子に乗ってきた鷲羽の口が軽くなってきた。

「あとはこっちの仕事とこっちの仕事、どっちを優先させるか考えるのも大切だよね」

「店長が殆どサボってて私達何も聞いてないので我流が多くてお恥ずかしいです。貴方達みたいなのがうちにもいたらな」三人は顔を見合わせ頷いた。

「あの、実は。。」「えっ?なに何?」三人が言う事を江川が乗り出して、鷲羽も仕方なく聞いていた。

「鷲羽君、僕たちも協力してあげましょうよ」

「嫌だよ。俺に関係ねえし」

「怖いんでしょう」

「そんな訳ないに決まってるだろう」

「じゃあお願いね」

「フン」

鷲羽は嫌な顔をしたが、江川の前で怖そうにもしていられない。

「協力しても良いけど条件があるぞ。俺をパンロンドで一日勉強させてくれよ。インターンシップってやつだよ」

「えっ」鷲羽がまさかパンロンドに来るなんて想像もしてなかった江川はどうなるか想像して足が震えた。みんなの鷲羽に対する印象はあまり良くない「お、親方に聞いておくね」

「よし!やる気でてきたぞ!」

鷲羽は勢いで乗り切る決意をして、店長が戻って来る前に時間を組み立て全員で力を合わせて仕事を片付けた。

店長が戻ってきて誰かと電話で話している。「始まりますよ」塚田が言った。「うん」二人は返事して、江川は「塚田君、電話した?」と聞いた。「はい、すぐ来るって言ってます」

そのうち納品業者が来て、店長と外に出て行った。

「よし」鷲羽は江川と二人で静かに外に出た。店の横のレンガ調ののタイルを敷き詰めた階段が下へと続いている。店長達は倉庫のある地下一階のドアを開けて入っていった。

「江川、行くぞ」

「うん」

二人がそーっと小さな窓を覗くと業者と店長が話している。そして封筒を受け取ったところに鷲羽がドアを勢いよく開けた。

「見たぞ!ワイロ受け取るところ!」

店長が、ギクッとした。

「あんた横流ししてるだろ!」

「何言ってるんだ、納品書を受け取ったところだよ」

「嘘つけ」

「何が嘘だ」

「封筒の中を見せてみろ」

店長より背の高い鷲羽は上から封筒を取り上げた、店長が取り返そうと揉み合いになりそうになり、その隙に業者が慌てて帰ろうとしたので江川が「ちょっと待って!帰らないでね。どうせ会社の名前もわかってるんですよ」と引き留めた。

と、そこへ

「そこまでだ!」と社長と塚田が入って来た。

「あ!」店長が社長を見て叫んだ。

「在庫製品を倉庫から間引きして転売していただろう!俺はずっと塚田に頼んでお前の様子を見てもらってたのさ。お前には選ばせてやる。業務上横領で訴えられるか自ら辞めるかだ」

江川と鷲羽はそれを後ろで見ていた。

「鷲羽君あれ」

「うん」

塚田が急に顔つきと姿勢がが変わってしゃんとし出したのを。

「店長、あなたはこの職場に相応しくない、指揮が下がります」

「塚田!お前裏切ったな?」

「裏切ったのはお前だ!僕はずっと不正を暴くために詳細な在庫管理をしていたんだ、続きは社長と事務所でするんだな」

塚田が社長の代わりに強い口調で言ったので社長は転売業者に「お前もな、もうすぐお前の上司がここに来るってさ」

そんな顛末を見守ってから二人は階段を上がった。

「江川、片付けて帰ろうぜ」

「うん鷲羽君」

いつのまにか二人は元々二人で一組の様な感じになっていた。

「鷲羽君ってさ、リーダーシップあるんじゃない?今日カッコ良かったよ」

江川は、そう言われて照れる鷲羽の顔を覗き込んだ。

「何言ってんだよ!」

「うふふ」

二人が話していると塚田が追いかけて来た。

「変な役をやってもらってごめんね、おかげで助かったよ。月一回業者が来て商品を横流しする日が今日だったんだ。高額な物を仕入れるから怪しいって思って調べていたんだ。それに、、江川君が色々聞くからつい言っちゃったんだ」

「えっそうなの?ごめんねなんか」

「おかげで勢いでスピード解決したよ。ありがとう」

「お前辞めるなんて嘘だったのか?それとも社長のいてる本部か何かに戻るのか?」鷲羽が聞いた。

「僕、ここに残るって社長に言ってみるよ。今抜けたらみんな困るし。そうだ!まだ時間あるから今から工場を改善する方法をみんなで考えようよ」

三人は口々に色々案を出しながら工場に戻って行った。

おわり

このお話は2022年02月15日(火)にパン屋のグロワールのブログに投稿した物です。

23パンロンドの職人さんのバレンタイン Happy Valentine

パンロンドの職人さんのバレンタイン

Happy Valentine 律子と修造

今日は2月14日

仕事の帰りに修造は東南駅の横の

巨大モールの入り口にある花屋に立ち寄った。

「いらっしゃいませ、今日はどの様なものをお探しですか?」

「あの、妻が妊娠中で、あまり香りのキツくないものが欲しいんです」

「奥様にプレゼントですか?それでしたらこちらなんかいかがですか?」

修造は店員さんと色や量について決め

可愛くラッピングして貰った。

そして雑貨屋さんでレモンやカモミールなどの配合された

爽やかなテイストのハーブティーを選んだ。

アパートに帰ると律子は

グリーンのソファに座って雑誌を読んでいた。

それを見て修造は生まれてくる

赤ちゃんの事を想像してワクワクした。

妊娠中のホルモン分泌の高まりからか

律子は美しく神々しくさえ感じた。

律子これ

わあかわいいチューリップ

これ私に?

うん

ドイツにいた時

バレンタインには

男性から女性に

プレゼントしてたんだよ。

俺もいつもそれを見てて

律子にそうしようって

決めてたんだ。

愛を込めて

いつもありがとう

いつもありがとう

誰よりも大切な

俺の宝物

私こそありがとう修造

初めて見た時から

あなたの瞳を見て

本当はわかっていたわ

あなたが私の事を

好きでいてくれる事を

Happy Valentine

ずっとずっとずっと大好き

ーーーー

杉本と風花

あのさ風花

何?龍樹

これ勿体無くて食べられない

飾っとく

だから予備のやつない?

あるけど、、

それって正解なの?

だって可愛いんだもん

また作ってあげるわよ

毎日がバレンタインならいいのに

ばかね

Happy Valentine

ーーーー

藤岡君の毎日

来たわよ

22パン職人の修造 江川と修造シリーズ スケアリーキング

パン職人の修造 江川と修造シリーズスケアリーキング

*このお話を読む前に

パン職人の修造は全てフィクションです。実在の人物や店舗、団体などとは関係ありません。ここには素晴らしいパンの世界が毎回違った形で出てきます。読んでいるとひょっとしてパンに詳しくなれるかもしれません。今回はどんなパンが出てくるのでしょうか。

田所一家は、修造の妻律子の実家がある長野県長野市に来ていた。

律子の実家は東京駅から北陸新幹線はくたかに乗り長野駅で降りてから、レンタカーを借りて、車で一時間の山の上にある。

トマトやレタス、セロリなど育てている農家だ。

修造にとって義理の父 高梨厳(たかなしいわお)と義理の母 高梨容子(ようこ)は内心修造をよく思っていない。修造がドイツに行ってる間、しょっちゅうアパートに来て律子に離婚して実家に帰ってくる様に言っていた。なので修造も足が遠のいていたが今回律子の勧めもあって「嫁の実家にお泊り」なのだ。

律子の妹その子だけは優しい。

「修造兄さん、運転お疲れ様。お姉ちゃん、緑ちゃん、久しぶり」その子が明るく声をかけてくれるのでホッとして修造は車から降りた。「その子ちゃん、パン王座決定戦の時は野菜を持ってきて貰ってごめんね」

「良いのよ、役に立てたなら嬉しいわ。中へどうぞ」

「緑ちゃんや〜こっちおいで、さあさあお入り。ケーキを買ってあるんだよ」

厳と容子は修造を無視して緑を中に招き入れた。可愛い孫にぞっこんメロメロだ。

あの」

「はあ?」

修造が挨拶しようとしたが、振り向いた厳の目は三角になっている。

こわ

そこで容子に挨拶する事にした。

「ご無沙汰してすみません」

「ほんと、久しぶりだわね。長い事どこに行ってたのか知らないけど。ま、お入りなさいよ」

こわ

もう帰りたい。

しょんぼりしている修造の背中を律子が押して中に入れた。

「ごめんね、うちの親が」

「律子、違うんだよ。悪いのは俺なんだ」

「いつまでも言ってるうちの親に問題があるわよ」

「お父さんお母さん!修造は緑の大切なお父さんなのよ」

「わかってるわかってる」二人の返事はおざなりだ。

律子の生家は広い敷地の農地が見渡せる真ん中にある三階建てだ。

皆、一階にある和室の居間に移動して座った。

大きめの机が置いてあり、その周りに座布団が敷いてある。

修造は厳と対極の端っこに座った。

「はい、どうぞ」その子はお茶を入れてきて配った。

律子はみんなが座ったのをみて「あの」と切り出した。

「どうした、とうとう帰ってくる気になったのか?」

「まだ言ってるの?」

「ちょっと、なんなの会ったばかりなのに!」

その子はテレビをつけて場の空気を変える事にした。

「ほら、パン屋さんがテレビに出てるわよ。あ、この人NNテレビのパン王座決定戦で一緒に出てた人じゃない?」

お昼前の奥様向けの情報番組にブーランジェリータカユキのオーナー那須田シェフが出ている。

美しいクロワッサンや、目にも鮮やかなバイカラークロワッサンを紹介している。

バイカラークロワッサンは生地の表面に赤や緑の色付きの生地を重ね、巻くと色付きの生地とバターの層がくっきりと綺麗なパンの呼び方だ。

修造は急に顔つきが変わり、真剣に見だしたのを律子は見逃さなかった。

律子の解析はこうだ

那須田シェフだ!

この店はクロワッサンが有名なんだよ。

今度の一次審査にもヴィエノワズリーがあるんだ。

店の場所は上越妙高駅近くか。

ここから結構近いな。

行って色々教わりたいけど、今それを言うわけにはいかないな。。

律子は超能力者の様に全ての表情を見てとった。

「良いわよ修造」

「えっでも」

急に始まった二人の会話に驚いた厳が修造を睨んだ。

「何が良いんだ」

「いえ、なんでもありません」修造は小さくなってペコっと頭を下げた。

「修造は今から上越妙高駅に用があるんですって」

「長野駅に車を置いて行けば良いわ。私達はここでのんびりしてるわよ」

それを聞いて厳は急に気が変わった。

大嫌いな修造がいなくなるし緑を独り占めできるし。

「行ってきなさい。用が済んだらすぐ帰ってこいよ」

「はい」

修造は言うが早いか長野駅で借りたレンタカーのキーを握った。

「律子ごめんね」

ふふ。良いわよ修造。

どうせ行っちゃうんだから。

あなたはパンの事になるといてもたってもいられないのよ。

「気をつけてね、戻ったら話したい事があるの」

「うん」

律子は修造の背中を見送った。

ーーーー

修造は長野駅に着いてすぐ那須田の店に電話をした。

「今から行って良いですか?テレビに出たばかりでお忙しいでしょうからお手伝いします」

「ありがたいなあ修造君。じゃあ頼むよ」

話は早い。

テレビに出たその日から店が賑わうのを修造もパンロンドで経験済みだった。

長野駅から北陸新幹線はくたかに乗り、二十二分で上越妙高駅だ。

南側ロータリーのイベント広場にある上杉謙信の像を横目に修造は急いだ。

ブーランジェリータカユキは駅から近い立地で、広い敷地に郊外向けのレンガ作りの建物が建っている。すでにパンを求める人達の行列が出来ていた。

修造君久しぶりだね」

「那須田シェフ、すみません急に。俺、テレビを見てていてもたってもいられなくて来ました」

那須田は笑いながらエプロンと帽子を修造に渡し、冷蔵庫を指差して「ここの生地の折り込みを頼むよ」と言った。

折り込みとはクロワッサンやデニッシュの生地でバターを挟んで、パイローラーで伸ばす作業の事だ。冷蔵庫で生地を冷やし、バターと同じ温度で折り込む。そして再び冷蔵庫で寝かせた生地を反物の様にパイローラーで伸ばして切って成形する。

「初めに少し見本を見せて貰えますか」

「そうだよね」

と言って那須田はキッチリと美しい折り込みをしてみせた。

チャンスは少ない、修造はじっと見ていた。

そのあとは折り込みをしながらずっと那須田の成形を見ていた。

よその店は勉強になる。

いつもとは全然違うみんなの動き。

全部覚えておかなきゃ。

「修造君、少し休憩しようか」

「はい」

那須田はコーヒーを入れて、出来立てのクロワッサンを持ってきた。

「味見しろよ」

さすが那須田のクロワッサンは巻きの美しさが秀いでている。

噛む前から良い香りに包まれ、パリパリと薄皮が剥がれて落ちた。

噛むとジュワッと口の中に小麦とバターの味が広がる。

美味いの極地だ.。

「ルヴァンですね」

「そう、うちのクロワッサンは材料にも拘ってるんだよ。塩とバターはフランス産。種はルヴァン。粉は国産なんだ。他は妥協できても商品への妥協は許されない」

「凄い」

修造は人でごった返す店の隙間から棚のパンを垣間見た。

補充しても補充しても無くなっていく。

「本当はうちにはクロワッサンを教わりにきたんだろ?なんでも聞いてくれよ」

「実はそうなんです。俺にあのクロワッサンの成形とカットを教えて下さい」

「君。選考会に出ようとしてるんだろ?」

「なんで知ってんですか?」

「なんでも耳に入ってくるのさ、この業界にいるとな」

那須田は自分のパンを見ながら言った。

「今日、夜中まで延々と仕事があるんだ。ちゃんとやってくれないと俺が教えたのに落ちちゃったらたらカッコ悪いからなあ」

「だから真剣にやってくれ!」

「はい!」

ーーーー

一方高梨家では。

「なに!今日帰らないだと!あいつめどこで何やってるんだ」

厳が激昂していた。

容子は「ちょっと!居間にいる緑に聞こえるからやめてよ」と小声でなだめた。

「大丈夫よ何も心配要らないわ。修造は今頃パンの成形をしてるのよ」律子も厳に言った。

「わかるもんか」

「いいえ、分かるわ。あの人の目を見たら」

私だけを愛してくれてるかどうか私にだけは分かるの。

「律子、、」

厳はシュンとした。

律子は俺の可愛い娘だったのにいつのまにかあいつが現れて散々苦労させた、なのに凄く心が結びついている。一体あんな男のどこが良いんだ。

「私、どこまでも修造と一緒に行くから」

「またどこかに行くのか?」

「ええ、そのうち修造と店を持つの。約束したもの」

「どこに?松本か?」

「修造の実家よ」

「あんな山奥に!」

厳は行った事ないがその子にグーグルアースを見せてもらって驚いた事を思い出した。

山以外何もない。

巌だって山の上で農家をしているが、この場合は集客が出来るのかと心配しているのだ。

「あんな所誰もくるわけないだろう?山のてっぺんじゃないか」

「来るわよ。色んな人が修造のパンを求めて来るの」

律子は自信満々で言った。

「あなた、律子はもう修造さんの奥さんなのよ」

律子が強い口調で言うので二人の対立が深まらない様に容子が火消しにかかった。

「二人で決めたんなら仕方ないじゃない」

「うーん」二体一になったので部が悪い。

厳はうめいてから緑のいる部屋に移動してしまった。

「緑ちゃん学校は楽しい?」

「うん!おじいちゃん、楽しいよ。聞いて、私空手が八級になったのよ。お父さんと行ってるの」

「へえ、凄いね。おじいちゃんにも見せてよ」

「良いわよ」緑は平安二段をしてみせた。

なかなか決まっている。

厳は拍手をして緑を褒めちぎった。

「お父さんはもっと上手いのよ」

「、、、」またあいつの話か

「お父さんとお母さんは仲良しなの?」

「うん、お父さんもお母さんも楽しそう」

「ふーん」

容子もああ言ってるし、ちょっとは認めてやるか。。

娘の幸せが大前提なんだ。。。

厳は少し気が変わってきた。

「今日はおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に寝ようね」

「うん」

その頃ブーランジェリータカユキでは。

伸ばした生地に色の付いた生地を重ねてカッターでカットする所を見せて貰っていた。表面の部分だけをカットして巻くと、焼成後その編み目が鮮やかに出る。

修造は、那須田の手捌きを見つめながら「なんて精巧なんだ、神だなこの人」と思っていた。

「練習しかないよ修造君」

「俺、那須田さんと知り合いになれて良かったです」

「嬉しいなあ。なんでも聞いてよ」

「はい、もっと色々教えて下さいよ」

「はいはい、ひとつひとつ教えるから成形は任せたよ」

「はい」

いや~那須田シェフの手元をよく見られるし来て良かったなぁ!

律子ありがとう!本当に素晴らしい妻だよ。俺、感謝しかないよ。

修造はひとつひとつ丁寧に生地の表面に切り込みを入れていった。

そしてクロワッサン、バイカラークロワッサン、パンオショコラと朝方まで次々に仕上げていった。

きっと明日の朝もブーランジェリータカユキには行列ができて、開店と同時に沢山の人が入ってきてこのパンを買うかもしれない。

人の店に来て変な成形のパンを売らせるわけにはいかない。

修造はひとつひとつのクロワッサンを素早く丁寧に仕上げていった。

翌朝、沢山のお客さんで溢れ返る店内を見ながら修造は感無量だった。

成形したクロワッサンも次々にお客さんがトングでソーっとトレーに乗せてレジへと運ばれて行く。

「良いもんだなあ」

ところが

帰る時になって、修造は段々表情が暗くなってきた。

「修造君、どうしたんだ疲れたのか?帰りの新幹線では東京駅までゆっくり休んでくれよ」

「俺、実は長野にある嫁の実家から来てるんです。それで戻ったらなんて言い訳しようかと」

「そりゃあ気を使うね」

「はい」

「言い訳ってね、婿が意識高くスキルアップしてるのにそんな事する必要あるのかなあ。そうだ、誰が見てもわかりやすい説明あるだろ?使用前使用後じゃないけど、論より証拠って事だよ」と言って那須田はお土産のパンとは別に、二種類のクロワッサンをそれぞれ別の箱に入れて渡した。

「正直に本心を言えば良いんだよ」

一方高梨家では

「遅い!あいつは何をしてるんだ!?」

厳は昨日の夜一旦軟化したにも関わらず、修造が朝になっても帰らないのでまた腹が立ってきた。

「もう戻らなくて良い!あいつには俺からそう言っておく」

「何勝手な事言ってるの?そんなんだから普段から中々帰って来る気になれないのよ」

「うっ」それは困る。

「修造は私達が帰ろうと思った時に戻って来るわよ」

「なんでわかるんだそんな事」

そう言ってると玄関の向こう側からエンジンの音が聞こえた。

「修造だわ」

律子がすぐに玄関にむかったので厳も急いだ。

一喝してやろうと思ってたのに先を越される。

なので

「修造おかえり」と

「どこ行ってたんだこんな時間まで」

が同時に修造に発せられた。

「律子ただいま、すみませんお父さん。俺、見て欲しいものがあるんです」

修造は居間のテーブルにクロワッサンを置いた。

「これ、俺が昨日ブーランジェリータカユキに着いた時にやってたものです。そしてこっちが特訓後です」

特訓前は綺麗なクロワッサンだったが、特訓後はさらに美しくなっていた。

「あら、綺麗だわ」容子が感心して見ている。

「どう違うんだこれ、食ったら同じだろうが」

厳が違いがわからない様だったので、律子が生地とバターの間の間隔の美しさについて説明した。

ほらここを見て、層が綺麗に出てるでしょ」と言われて厳は老眼鏡を持ってきてよーく見た。言われてみれば層が少し綺麗な気がする。

「ふーん、これの特訓に行ってたのか?」

「はい」

厳はおそらく凄いのであろうクロワッサンをジーッと見た。

「素材に関しても教えて頂きました。選考会頑張れよって言ってました」

修造はパンナイフでクロワッサンの頂点から下に向かってカットして断面を見せた。

理想通りの巻きだ。

修造の凛とした表情を見て、これが律子の言う「色んな人が修造のパンを求めて来る」理由なのか。

俺にはわからんがきっとこいつ凄い奴なんだな。

得心がいったのか、厳の表情は少し緩和された。

「俺、父親の事を知らなくて育ったんです。母親もあまり家にいなくて。なので世間ずれしていて、お父さんにどう接していいのかわからなくて、、ドイツから戻ったのに挨拶が遅れてすみませんでした」

修造は頭を下げた。

そうだったのか、なんも喋らん無愛想な奴と思ってたが、孤独な育ち方をしたんだな。。

律子は厳の表情が急に変わったのをつぶさに見ていた。

「あのね、みんな聞いて。私、二人目が出来たの。緑はお姉ちゃんになるのよ」

「ほんと?律子」修造の目が輝いた。

「一番に言わなくてごめんね」

その時、修造と厳は目を見合わせて、お互いの喜びを確認してしていた。

おわり

このお話は2022年01月24日(月)にパン屋のグロワールのブログに投稿した物です。

21パン職人の修造 江川と修造シリーズ Sourdough Scoring 江川

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Sourdough Scoring 江川

「あっ鷲羽君と園部君!」

ベッカライホルスの別室に入るなり江川は叫んだ。

一次審査への練習もそろそろ仕上がってきた頃、いつもの様に修造と江川はホルスにやって来ていた。

入ってきた二人をオーナーシェフの大木、二十歳で同期の鷲羽と園部が見ていた。

「どうも」修造が三人に挨拶した。

「修造さん!おはようございます」鷲羽は憧れの修造に一歩近づけて、嬉しさのあまり目を爛々と輝かせている。

大木が説明し出した。

「今日から一緒に練習する事になったからな。狭いけど協力しあってできる様に無理のないスケジュールを三人で組めよ。修造は第一審査用のレシピを書いて見せろよ、詳細はここに書いてあるからな」

「はい」

修造は大木がダウンロードした審査の詳細を受け取った。そこには出品する種類毎の細かい決まりが書いてある。

修造は早速奥の事務机と椅子が置くいてあるところに行き、座ってじっくり読み出した。

「お前達三人は今日はカンパーニュを作るんだ。発酵種はうちのを使って良い。生地の具合、発酵、スコーリング、焼成のできをみる。空いた時間があったらそれぞれ工房に行って成形を手伝って来い」

「はい」

「では始めて」

江川は焦った。まだ練習中の事を鷲羽と園部の前でやるなんて!

失敗したら再びもう来なくて良いと言われそうだ。

鷲羽は大木と憧れの修造の手前、笑顔を作って「協力しながらやろうね、江川君」と言ったがとても本心からとは思えない。

顔が引き攣ったまま「うん」と言った。

その時大木に電話がかかってきた。

「あいつからだ」

大木は小声で言いながら別室から外に出て、修造達に聞こえない様に電話した。

「あぁ、言われた通りにしたよ。三人とも顔が引き攣ってるよ。うんうん、そう。揉め事が起こるんじゃないのか?別々に練習した方がいいだろ?」大木は室内を除いて、また隠れる様に話し出した。

「何?これで全員爆上がりになるって?特にあの若い子が?お前は相変わらずだなぁ。まあ、こっちも職人達の技術が上がって良いよ。そっちはどうなんだ、随分仕上がって来たって?こっちも負けてられないからな。はいはい、じゃあまたな」

あの三人にハッパをかけてドーンだな!あいつめ。

大木はフフフと笑った。

大木が指示を出したスコーリングとは本来は歯車などの損傷に関する言葉だが、この場合は発酵した生地にカミソリの刃を入れる作業(クープ)のことで、さまざまな模様がカミソリひとつで作れる。

三人はじゃんけんでミキサーの順番を決めて、勝った江川が初めに生地を練り始めた。

生地を作り発酵させて成形、そしてそれをバヌトン(発酵カゴ)に入れる。

「誰が誰のか間違えない様にな。それぞれ自分の生地にスコーリングしてみろ。窯は三段あるから一段ずつ使えよ」

「はい」

江川と二人が牽制しあって作業してる間、修造は椅子に座ってどんなパンにするか考えていた。

それはこんな風だった。

選考会ではバゲット、ヴィエノワズリー、タルティーヌ、パンスペシオ、飾りパンがあるんだ。

修造はその五種類を紙に書き出してペンで机をトントンと叩いた。

バゲットはパキッとエッジの効いたものにしたい。パンスペシオは味わいを大切に。

ヴィエノワズリーは色合いと種類に気を使いたいな。飾りパンは他にない、見たことのない形にしつつ、日本の文化的なものを取り入れたい。

今日は形はともかく生地の配合を考えよう。

選考会までの審査は日本人のシェフがやるんだからあまりライ麦重視に走らない方がいいだろうか。それに前回までの傾向もあるし。そこもよく考えておかないと。

大会ではヨーロッパの審査員が審査するんだから、向こうの生地も意識しつつ日本らしさを出していかなきゃならない。

そして生地のベースはよりナチュラルで、滋味に満ちた味わいのものだ。

よくよく考えて

最終的に修造はバゲットは国産小麦で起こしたルヴァン(発酵種)で、パンスペシオとタルティーヌはザワータイクを使って国産のライ麦の分量を調節して配合を書き始めた。

集中して配合を書き綴る修造の横では、いよいよ焼成の時間が来ていた。

一番の江川が生地をスリップピールに乗せてカットしていた。

スリップピールとは沢山の生地を窯に入れる時に使う業務用の道具で、布を張った板に生地を乗せてそのまま窯に入れ、窯の入り口に引っ掛けて引っぱり出すと布が回転して生地だけが窯に残る。

鷲羽が江川の手元を穴の開くほど見ている、そうなると緊張して、手が震えてきた。

江川は震える刃先で生地に少し強引にグイグイと真ん中に筋目を入れた。

負けるのは嫌だ、だがそう思うと余計に手が震える。

江川が窯にパンを入れたあと、鷲羽が自分の生地を並べてカットし出した。

自分と比べて刃の滑りがいいように思える。

鷲羽は長い指先で器用に6種類の基本的なスコーリングを展開した。

そして園部も。

焼成後、大木が並べられた三人のカンパーニュを審査した。

「江川、カットがガタガタじゃないか。引っ張りながらカットしたらこうなるから次から気をつけろよ。」

「はい」

鷲羽はうっすら笑いながら江川をまた穴の開くほどじっと見た。

威嚇か!江川の顔の辺りに視線が粘りついて鬱陶しい。

大木は鷲羽と園部のものには「うん、少しぎこちないところもあるがまあ良いだろう」

江川は二人のカットをマジマジと見た。

二人との実力の差が激しい。

大木がカットして三人のパンをそれぞれに試食させた。

断面を見せて「江川、断面の気泡に偏りがある、成形の時に絞め過ぎるなよ」

そして「うん、味も悪くないだろう。これが一番気泡がいい感じだね」と鷲羽のパンを指した。

「ありがとうございます」

「次の時もう一度やるから次回までに三人とも練習してこいよ」

大木の指示に三人が返事した「はい」

「江川君、次も頑張ろうね」鷲羽はまるで大根役者の様な大袈裟でわざとらしい言い方で言った。

その夜、江川はベッドに入ったが、疲れているのに頭の中に鷲羽の視線がこびりついて眠れなかった。

ーーーー

次の日の朝

杉本が出勤してきてみんなに挨拶した。

「おはようございまーす」

「いつも元気だな」

「藤岡さんおはようございます〜」

「おはよう、最近顔色も良いしなんか顔つきも変わってきたよね」

「俺ですかあ?俺今充実してるんで」

「へぇ、仕事に愛に的な?」

「俺、この中で一番幸せなんで!」

「はあ?まあ本人がそういうんだからある意味幸せで仕方ないよね」

そう言って杉本のお腹あたりを指して

「そういえば腹の当たりも福々しくなってきたよね、幸せ太りかな?」

「気のせいですよ!」

そう言われて杉本がお腹の周りを見せない様に手で隠した。

その時、後ろでガッシャーンと音がした。

「あっ!江川!」修造が慌てた声を出した。

「親方!!江川さんが倒れました!」杉本が大きい声で親方を呼んだ。

「なに〜!!」親方は飛んできて江川をひょいっと車に担ぎ込んで病院に素早く行ってしまった。

江川は倒れてしまった。

修造は自分が江川に無理をさせたと思い後悔していた。

九時頃

杉本はパンに使うローズマリーを計って小さなボールに入れ棚の上に置いたが、置き方が悪く丁度修造が通りかかった時に裏返って頭の上に落ちた

カポッ!

「あっ!」杉本は背中に三筋ほどの冷や汗を垂らした「すみません修造さん!」

修造はいいよいいよのジェスチャーをしてコック帽と頭や肩についたローズマリーを払っていた。

その時親方が病院から戻ってきた。

「過労だろうってさ。病院のベッドが空いてたんでめまいが治るまで検査して入院することになったよ」

「俺、後で見舞いに行ってきます」

「うん、頼んだよ修造」

仕事終わり、五階建ての東南中央病院に来た。

江川の病室は四階の四人部屋で比較的軽症の患者が集められていた。

病室の入り口横のベッドで寝ている江川の顔を見ながら、これから先も無理をさせるだろう。でも絶対やめるって言わないだろうなと思っていた。

薄暗い病室で江川の顔を眺めてるうちに修造も疲れが出て眠くなってきた。

うとうとして江川の布団の縁で居眠りを始めてしまったが、そのことは全く知らないで寝ている江川はこんな夢を見ていた。

あ、草だ、、草原の草がザワザワと風になびいている。太陽の匂いと草花のいい匂いがする。

広がる草原、遠くに見える山々が美しく空は青い。江川は草の間を走っていた。

それは小さい頃故郷で見た景色だった。

と思っていたが、実は修造の頭にかかったローズマリーの香りがそうさせていた。

「はっ」

江川の声で修造も目が覚めた。

「おぉ、江川、具合どお?」

「僕、いい事を思いつきました。スコーリングの柄を」そう言って立ち上がろうとした。

「おい、まだ休んでろよ」

「もう治りました」

「何言ってんだ」

修造が江川をベットに戻そうとしていると、そこへ女の人が荷物と花を持ってやってきた。

「卓也、調子はどう?」

「あ、姉さん」

江川ってお姉さんがいたのか。自分のこと何も話さないから知らなかったな。江川より少し年上ぐらいかな?

「修造さん、美春って言います」

身体のでかい修造はベット周りが急に狭くなったので「じゃあ俺帰ります」と江川に目で挨拶して病室を出た。

すると美春が追いかけてきた。

「あの」

「はい」

「弟は高校生の時、三ヶ月ほど不登校だったんです。なのに急にパンロンドに面接に行って働くと決めてきた時は驚いて、随分心配したんです。でも修造さんと約束したからと言って学校にも真面目に行きだしたし、ちゃんと卒業してホッとしました。あの子が変わったのは修造さんのおかげだと思っています」

そうだった、あの時俺が面接して就職が決まった時、あいつすぐ来るって言ったから、学校は卒業する様に言ったんだ。

「電話でも修造さんの話ばかりしているから、私も初めて会った気がしません」

「そうだったんですね、実は俺、江川に会ってから随分変わりました。仕事中何も話さない事が多かったけど。毎日あいつと話ししてるうちに口数も増えてきた。江川と一緒にいると楽しいですよ」

「良かった、本当に。卓也も明るくなったって母も喜んでいます」

美春は嬉しそうに笑った。

「そりゃ良かった」

「あの子、以前は寂しかったんだと思います、父と母は別れてしまって」

「そうだったんですね」

「父親はあまり家にいない人でした。卓也はそんな父親に懐いてなかったんです。反抗ばかりしていました」

「え!あの江川が反抗?想像つかないなあ」

「笑うことなんてあまりなかったわ」

信じられない。

あんなに明るいやつなのに、、、

「俺、謝らなきゃいけない事があるんです。入院したのは俺のせいなんです。休みの日はよその店に修行に行っていて、そこでもライバルがいて気が抜けない。体力が持たなかったんです」

「それ、あの子がやりたくてやってる事でしょう?私から無理しないように言ってはおきますが、元々頑固だから多分聞かないわ」

美春は頭を下げた。

「きっと修造さんと一緒にいたいんだと思います。これからも卓也をよろしくお願いします」

「こちらこそ」と修造も美春に頭を下げて長い廊下を歩き出した。

美春はその背中を見つめながら「本当に初めて会った気がしないわ」と呟いた。

エレベーターに乗りながら修造は考えていた。

反抗的で不登校の江川か、そんなところ全然見た事ないなあ。一生懸命でいつも明るいやつなのに。

きっと俺と江川は良い相性なんだろう。安定してお互いを良い方に高めていけるようになってるんだ。

本当はこの調子で大会まで持っていきたいけど、もう無理はさせないようにしなきゃ。

ーーーー

江川は二日後退院してパンロンドに戻ってきた。

みんなが江川を取り囲んで声をかけた。

「おっ!江川!大丈夫なのか?もう治った?」

「親方、すみません休んじゃって」

「お前の分は修造が頑張ってくれたよ」

「修造さん、すみません」

「江川、これから辛くなったら言ってくれよ」

「はい」

はいと言ったが、江川の頭の中はライバル鷲羽との対決で頭がいっぱいだった。

その鷲羽と園部は二人でスコーリングのデザインを研究したり、先輩の生地作りや技を穴が開くほど見たりして、次に江川が来る時に備えていた。

パンロンドでは、江川はスコーリングの練習をみて貰いながら鷲羽の視線を思い出してイライラしていた。

「江川、怒りながらじゃちゃんとしたスコーリングはできないよ。ギューギュー引っ張るんじゃない」

「すみません、つい力が入っちゃいました」

鷲羽が頭をよぎる

指先がブレる。

落ち着いて落ち着いて、自分の思い描いたラインにカミソリを繊細に入れていくんだ。

「強弱を考えて。

同じラインは同じ深さと速度に気をつけて」

「はい」

「ほら、これをあげるよ」

江川は修造が使っていた二種類のカミソリのホルダーと新しいカミソリの両刃を受け取った。

それは当たり前の形でどこにでも売っているかも知れないが、江川にとって特別貴重なものの様に感じた。

修造さんのホルダー!

これ僕の宝物になると思うな。

江川はホルダーを持ってパン生地に刃を入れた。

嘘の様に気持ちよくスッと刃が通る。不思議なほど指先の震えがおさまった。

「絶対負けない。ぼく頑張ります」

江川は病院で夢に出てきた情景を忘れないように生地に刻んだ。

「おっ!これ凄いじゃないか」

修造に褒められて江川はストレスが吹き飛んだ様な気がした。

ーーーー

そしてまたホルツに行く日がやってきた。

今日は修造も加わって四人でスケジュールを組み、仕込み、成形、スコーリング、焼成を行う。生地の発酵中はホルツの職人に混じって成形を手伝ったが、皆修造に色々話を聞きたかったようで話しかける者が次々現れた。

さて、スコーリングの時間がやって来た。

修造が一番にスリップピールに生地を六つ並べてそのうちの三つに持ってきたステンシルを生地に貼り付けたあと、粉を振って剥がした。ステンシルの後が綺麗に残り、そこにひと筋カミソリを入れる。

三人はそれを見ながらどんな風になるのかワクワクした。それを3種類やった後、残りの3つはカミソリのみで素早くカットを入れていった。

修造の窯入れを見た後、江川の番がやってきた。

江川も六つの生地をバヌトンを裏返して並べ、粉を振りかけていき、修造に貰ったホルダーに新しいカミソリを付けたものを滑らせた。滑らかな指の動きで理想の柄をつける事ができた。

実際に焼けてみないと出来栄えは分からないが、江川の動き自体が前とちがう事に鷲羽は焦りを感じていた。

以前編み込みパンで負けた時の事を思い出したのだ。

鷲羽も順番が来て、先輩や、今見た修造の動きを思い出しながらカミソリを入れた。なるべく同じペースを守りイメージ通りのものを意識した。江川には絶対負けたくない!何か意地の様なものが表情に出ていた。

園部はあまり二人の争いには引っかからない様にフラットな気持ちで基本に忠実にカミソリを入れた。

焼成後

四人はそれぞれのパンを並べて前に立った。

大木はひとつひとつをしげしげ見て心の中で思っていた。

うーん前回に比べると飛躍的に伸びてるな。半端ねぇ。いい刺激になるんだろうよ。昔ホテルのベーカリーで働いてた時、あいつと佐久間と鳥井とでよく練習したもんだ。懐かしいなあ。

修造のは繊細で表現力は文句ない。

江川はよく仕上げてきたものだ、修造とはまた違う繊細なカットで表現できている。

鷲羽は基本に忠実だし、園部は力強い。

「よし、良いだろう。次は全員真ん中でカットして見せてくれ」

「はい」

皆、パンナイフで真ん中をカットして大木に見せた。

「うん、修造はまず悪いところはないだろう、この調子で審査まで持っていけよ。申請書もよく書けてた。あとは飾りパンのデザイン画を描いて持って来いよ」

「はい」

「江川はスコーリングは格段にマシになってる。まだ断面の所々気泡が詰まってるから気をつけろ」「はい、気をつけます」

「鷲羽と園部は先輩のをよく見て勉強していたらしいな、その調子で練習していけ」

「はい」

鷲羽は江川のスコーリングを一つ一つ見て行った。綺麗だな。クソっ!あいついつも課題をめちゃくちゃ練習して来てる。こいつに勝てる様になんとか俺も上に立たないと。

鷲羽は江川と目があった。

そのままお互いジーッと見ていたその時。

「おい鷲羽」

「はい!」

鷲羽は初めて憧れの修造に声をかけられたので驚いて姿勢がどんどん真っ直ぐになっていった。こういうのを『直立不動』と言う見本の様になった。少し顔が赤くなってきた。

「美味いパンって言うのはいつも食べられる当たり前の存在であってほしいと俺は思ってる。だから天候や気温に合わせて種や生地の面倒を見て良い状態で焼成まで持っていく、そうすると美味いものができるんだ」

「はい」

「お前は江川の事をライバルで、戦わなきゃならないと思ってるのかもしれないが、お前がこれから戦うのは自分自身なんだ。お前の作ったものを選んで食べてもらう為にな。それは必ず美味いものでないといけない。形だけ勝っても意味はないんだ」

江川はそれを聞いて鷲羽に悟られない様に心の中で反省した。自分も形だけにとらわれていた。

なんとか上手くつくろって鷲羽に打ち勝とうと。

僕は僕自身にこれからも打ち勝って行かなきゃならない。

「誰が見ても美しく、誰が食べても美味しいもの。世界大会ってその頂点なんだよ。それが俺たちが目指してるものなんだ。その為に練習してるんだろ?」

鷲羽はさっきとは大違いの姿勢で項垂れて修造の言葉を聞いていた。なんなら縮んでいきそうだった。

自分自身!

鷲羽は自己愛が強い反面、自分が他人からよく思われてないことが多いのも分かっていた。不遜で傲慢なので女性社員からはことごとく嫌われて告げ口もされる。先輩も自分の事を可愛いとは思っていない。職場では皆に当たらず触らずにされている。気の合うのは園部だけだった。

修造に可愛がられている江川を見ただけで腹が立つ。

「なんとか努力します」

そう言ったものの、修造の言葉通りにできる気がしない。

まだまだ長い道のりを考えて気が遠くなりそうだった。

そこへ、滅多に喋らない園部が鷲羽に言った「さっきのって、江川への敵対心のボルテージをなんとか自分自身のパンへの熱量に変えろ、そう言う意味なんだな」

「ああ、できるかな俺に」

鷲羽は自分のパンを見ながらその遠くにある自分の十ヶ月後の姿を見ていた。

帰りの電車の中

「江川、疲れたろ?体調はどうなんだ。大丈夫なのか?」

「はい、もう平気です。姉さんに聞きました。修造さんが僕と出会って口数が増えたし楽しいって言ってくれたんでしょ?」

「そ、そうだけど」修造は照れながら言った。

「だからお姉さんに言いました、世界大会に修造さんと出るから見ていてねって」

「へぇ、親方も楽しみにしてるって言ってたよ」

「そうなんですね、絶対絶対行きましょうね」

「うん」

二人の夢を乗せてというか

運行スケジュール通りに

電車は東南駅に向かって行った。

おわり

このお話は2022年01月07日(金)にパン屋のグロワールのブログに投稿した物です。

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