45パン職人の修造 江川と修造シリーズ 満点星揺れて

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 満点星揺れて

ここは笹目駅から少し離れたリーベンアンドブロート

その工房で江川は修造の例の謎のドイツの歌のハナウタを久しぶりに聴いた。

グーググーグーグーと聞こえてくる。

大坂がパンを焼きながら時々顔を上げながら「これなんの音かなあ」と言っている。

修造は紙に模様をカッターで切り抜いて大きなパンに乗せて粉を振った。そしてステンシルで絵を描きオーブンに入れた。

ああ〜

大地!

もう一歳だ!早いなあ。

ずっとずっと可愛いままだ!

「江川、オトータンって呼んでくれるんだよ!」

江川が「もう一歳なんですね〜」と感慨深げに言った。

「感激だよ!最近あまり会えなかったからこれが焼けたら持っていこうと思って」

「僕その間頑張るから行ってきて下さい」

「ありがとう江川」

「大地ちゃんの一升パンですか?」

「そうなんだよ大坂」と言って修造はオーブンを覗いた。久しぶりにニコニコしている。

大坂と森田は2人でパンを焼きながら話し合った。

「結婚かあ、俺はいつか結婚とかする気がしないなあ」森田が言うと「俺なんてしばらく彼女もいないのに」大坂が答えた。

「身近な女性は?」

「いないよ全然」

「前の所は社内恋愛禁止だったよ」西森が思い出して言った。

「社内恋愛ってどうなるの?」

「上司に呼び出されて色々聞かれて1人移動になってたよ」

「えっそうなの?一店舗しかないと移動もできないね」

「気をつけよ、というか今は恋愛とかする人も少ないんじゃない?」

「そうかなあ」

立花が「はいこれ、話に花が咲きすぎよ」と注意してきた。

「すいません」と西森と大坂は頭をペコっと下げて立花が渡してきたナスと鶏のタルティーヌを受け取ってオーブンに入れた。

黙ったまま作業して大坂は思った『立花さん素敵だなあ、いやいや社内恋愛はいけないらしいし。立花さんと付き合ったらどんな感じかな。やっぱ俺頼りないから叱られたりするのかな。こら!いけないぞ!なんてな』大坂は馬鹿みたいに1人顔を赤らめた。

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「ただいま、ほら見て律子」

家に帰った修造はお帰りなさいのハグをして、ケーキと一升パンを律子に見せた。

「すごいデザインね、ケーキも可愛いし、力作ね」

「だろ、早速大地に一升パンを背負わせてみよう。大地こっちに来て」修造は大地に向かって手を広げた。

「オトータン」大地はヨチヨチと修造の所に来た「パン」「そう、パンだよ」

そう言っていかついデザインの一升パンを座ってる大地にそっと背負わせてみた。初めて重いものを背負ったので泣くかなと思ったが、顔を真っ赤にして、机に捕まって立ち上がった「うわー大地すごい力持ちだね」とはしゃいでいる。

長女の緑(みどり)はそんな両親の様子を写メして江川に送ってやった。

ピロリロリロピロリーン

「あ!メールが来た?修造さんかな?」とメールを開いた江川は笑顔になった「緑ちゃんからだ。ウフフフ、ねえ見て愛莉ちゃん」

店で作業中の小手川パン粉、本名瀬戸川愛莉に修造の写真を見せた。

「えっ、あの渋い修造さんが家ではこんな笑顔になるのぉ」

「そうなんだ、家族の事になると表情がガラリと変わるんだ」江川はイベントの帰りに必ず妻の事や子供の事をのろける修造を思い出して言った。

「修造さんってどんな場面でも全力なのね」

「今度娘さんの緑ちゃんと空手の試合にでるらしいよ。ヌンチャクの型とか言うのを2人でやるんだって」

「ヌンチャクって何?」

「えーと、二つの棒が紐で繋がった武器?」

「ふーんそんな物が武器になるのね」二つの棒を紐で繋げる?ヌンチャクを見たこともないパン粉にはそれがどんな形なのか想像つかなかった。

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その頃

パンロンドでは

「なあ杉本」

「なんですかあ藤岡さーん」

「この漢字知ってる?」とスマホの画面を見せた。躑躅と書いてある。

「なんて読むんですかあ?」

「ツツジだよ」

「へぇ〜むずいっすねぇ」

「手に書いたら覚えられるんじゃない?こういうの得意でしょ?」

藤岡は見本としてホワイトボードに躑躅と書いた。それを杉本が手の甲に書く。

その藤岡を見て、由梨は誰にもわからない様に小さなため息をついた。

藤岡はとうとう修造の店で探していた立花を見つけたが、あれからその事について何も言わない。

チラッと藤岡を見たが、普段と変わらない様に仕事をしている。

どうなったのかな、もう2人は再会したんだろうか、それともまだ何もないままなのかしら。

この半月程気になって仕方ない。

「あの」

「なに?由梨」

最近動画を撮りに行ってないんじゃありませんか?」

「うん、そういえばそうだね」

もう撮る必要が無くなったからだわ。

修造さんの店にいてるあの立花さんを見つけたから。

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リーブロにて

夕方

帰り際、最近では自分から誰にも話さない和鍵に大坂は声をかけた。

「やるならやるでみな同じ向きを見いてた方が仕事しやすいんだ。1人だけ流れと逆に行くのは疲れるだろ。江川さんに負けた以上上手くやっていかないと。初めは愛想笑いでもいつか本気で笑える日が来るって!な!明日から生まれ変わろう!」

明日に向かって拳を振り上げる、声が元々大きい大坂の事を心の中で『ウザ』と思ったが、確かに言われた通りだし、ここではもうそうする以外に無いのはわかっている。

和鍵は江川が仕事しやすい様に型やカップにアルミホイルを引いたりして前日準備を昼の分までやってから帰った。

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東南商店街にある由梨の両親が経営している着物屋『花装(はなそう)』では、明日の浴衣イベントに参加する為に準備で大忙しだった。

東南駅からは随分離れた大きな街の南会館という所で着物屋が集まって行う『夏の大浴衣市』があるのだ。

由梨もこの日はパンロンドを休んで、浴衣を着て手伝いに行く事になっている。

父親と由梨は車に着物やら小物やら展示用のグッズを沢山乗せて前日準備に出かけた。

「あ、ここはリーベンアンドブロートの近くだわ」父親の運転する車は笹目駅の横を通り過ぎ、三つ先の駅を曲がったすぐの所に着いた。

着物を展示しながら由梨は立花の事で頭がいっぱいになった。

こんなにクヨクヨするのならいっそ立花さんに会いに行こうか、それとも藤岡に聞こうかと迷う。

次の日、由梨は浴衣に着替えて親子三人で会場に向かった。

両親は傷ついた由梨の事をとても心配していたので、最近の沈んだ由梨の事が気になっていた。

会場では由梨の浴衣姿を見て同じ物が欲しいと言う客や、帯について色々聞いてくる客の対応に追われていて、しばらくは藤岡の事が頭から離れていた。

忙しい中、客に丁寧に説明して浴衣の種類や履き物まで見て貰った。

「由梨、後は私達でやるから帰って良いわよ。駅はわかるわね?」母親が声をかけた

撤収作業を終えて会場から帰ると夜遅くなるので、明日仕事の由梨を心配して少しでも早く返そうと思ったのだ。

「電車で」

急に笹目駅の事が頭をよぎる。

由梨は電車に乗ったが、三つ目の駅で降りてバスに乗った。

少し歩くと修造の店だ。

「来てしまった」

強い日差しの中、日傘を差して店へのアプローチを歩く。

それをパン粉が見つけて江川に言った「ねぇ、あの人パンロンドの人かな?」

「あっ由梨ちゃん」と言って江川が走って出迎えた。

「わあ、由梨ちゃん綺麗、素敵な浴衣だね」そう言われてまるで勝負服で来た様で恥ずかしい。

「浴衣イベントの帰りなんです。あの、立花さんはいますか?」

「えっ?知り合いなの?ちょっと待っててね、呼んでくるから」

江川は走っていって立花を呼んできた。

全く初対面の浴衣の女の子を見て驚いていた。

「はい、立花ですが何か御用ですか?」

「あの、私藤岡恭介さんと同じ店で働いている者です」

「えっ」

急に藤岡の名前が出てきて立花は驚いてベンチに座り込んだ。

浴衣姿の女の子が藤岡の名前を出してきた事も不思議でならない。

「どういう事か説明して貰えますか?」

「藤岡さんは立花さんを探してパン屋さんを一軒一軒訪ねていました。その事はご存知でしたか?」

「いいえ、知らなかった。あなたはその事を知ってるのね」

「はい、だからって私達何もありません。藤岡さんはここで立花さんを見かけてから様子がおかしかった、でもその後藤岡さんが何を考えていたのかはわかりません」

「だからここに来たのね」

「長い間パン屋さんを見て回るのは大変だったと思います。それがあの人の気持ちです、もしご存知無かったのなら言わなくちゃいけないと思って、その事を伝えたくて来ました」

「貴方はそれで良いの?」

立花は由梨の気持ちを汲み取って質問した。

よくはない、よくはないが

このままにして良いのかもわからない。

由梨が困っていると立花が「わかったわ、一度藤岡くんと話してみるわね」と微笑んだ。

由梨から見た立花は凛とした立ち居振る舞いの素敵な大人の女性だった。

帰り道百日紅(さるすべり)の花の咲く駅への道を歩きながら「私は何をしてるのか」と情けなく思う。

そこへ車が追いかけて来てクラクションを鳴らした。

「由梨ちゃん」

「江川さん」

「由梨ちゃんが浴衣で来たって言ったら修造さんが送っていってあげてって」

「すみません」

「僕も久しぶりにパンロンドに行こうっと」

江川は由梨を乗せて、車を東南商店街に向かって走らせた。

「みんな元気にしてる?」

「はい、藤岡さんが杉本さんに難読漢字を沢山教えてました。この間は躑躅って言う難しい漢字を」

「へぇ、会いたいなあ杉本君や藤岡君」「修造さんのお店はどうですか?とてもお客さんが多いですね』

『そうなんだ凄く流行ってる。車で来る人が多いよ。駐車場が広くて便利みたい」

「パン粉ちゃんがいましたね」

「そうなんだ、僕達仲良しになってリーブロを手伝っってくれてるんだ」

「段々パンロンドの人達の知らない生活になっていってるんですね」

「そう、色々あるけど乗り越えて行けると思うよ」

と、そこで車はパンロンドの前に着いた。

「親方ー!」江川が親方のところに飛んで行った。

「お!江川!元気そうで良かった安心したよ」

「はい、少し痩せたけど段々体重が戻って来ました。今はパンの味見し過ぎかな」とお腹をポンポンと叩いた。

由梨は江川の後ろに立っていて、あははと笑うみんなの向こうにいる藤岡と目があった。由梨にアイコンタクトを送っている気がする。

何故江川と帰って来たのか、一人でリーブロに行ったのか、そして立花に会ったのか?そう思っているのではないだろうか。

心の中で藤岡に

『私、立花さんと会って来ました。勝手にごめんなさい』と詫びた。

「江川さん、ここまで送って貰ってありがとうございました。私片付けがあるので帰ります」江川と皆に会釈して花装に戻った。

それを見送った藤岡は「一度立花さんと話をしないといけないな」と呟いた。

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その日の夕方、誰もいない駐車場で修造はヌンチャクの練習をしていた。

もうすぐ試合なのにあまり練習してないので焦る。

それを見て大坂が飛んで走って来た。

「修造さん、俺も昔空手やってたんです」

「そうなの?」

修造達は急に組み手を始めた。

蹴りを肘で受け止めたり、突きを鉄槌で落として防いだりしてるのを見て、パン粉と安芸川は「ケンカ?ではないですよね?楽しそうに見えます。あははって笑ってますよね」「痛そう」「戦ってる」など遠巻きに見ていた。

パン粉が置いてあるヌンチャクを見つけて「これがヌンチャクなの?想像と全然違ってた」と笑いながら江川に言った「愛莉ちゃん、これを使った演武もあるんだよ」

段々みんなが集まって来て「趣味や特技があるって良いわね、楽しそう」と眺めていた。

大坂はウズウズして「俺にもヌンチャク教えて下さい」と申し出た。

リーベンアンドブロートLeben und Brot通称リーブロは生活とパンという意味で、修造がパンと生活は離すことができないとして付けた名前だ。

初めはどうなるかと思ったが、徐々に落ち着きを見せ始めてきた。

こうして修造の人生にとって新しく近しくなった大坂と空手を楽しむ日が来たのが不思議で、そして温かい気持ちになれるものになった。そしてそれはやっと平穏を取り戻しつつある江川の笑顔のおかげでもある。

今自分の周りを取り囲む、ニコニコとしたり、あきれた顔の皆んなに感謝している。

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さて

藤岡は立花にやっと連絡をとった。

二人は仕事終わりに笹目駅の近くのカフェで待ち合わせた。

遅れて来た藤岡はニコッと笑って

「久しぶりですね、ご無沙汰してましたがお元気でしたか?」と挨拶した。

藤岡は相手に対して理想の言葉をつい言ってしまう習慣があった。

「久しぶりね藤岡君。貴方がパン職人になってるなんて知らなかったわ。修造さんの後輩だったのね」

「今はとても良い雰囲気の職場にいます。先輩にも仲間にも恵まれていますよ」

「修造さんのお店も開店当時に比べて落ち着いて来たわ。仕事しやすいわよ」

「修造さんも始め悩んでたので、軌道に乗り始めて良かったですね」

立花はコーヒーカップに砂糖を入れてクルクルかき混ぜていたが手を止めた。

「この間、パンロンドの花嶋さんが突然やって来たわ。こうやってまた藤岡君と会えるのも花嶋さんのおかげね」

「やっぱり、由梨に会ったんですね」

「ええ、多分凄く勇気がいったと思うわ。貴方が私を探してパン屋さんを一軒一軒訪ねていた事も教えてくれた」

「由梨が」

「ええ。なんでも話せる仲なのね」

「そうですね、由梨には何故かなんでも話してしまうんです」

「心が通じあってるのね」

「そうですよ、俺たちみたいにこんな表面上の腹の探り合いみたいな話しなんてしない。こうやってあった以上貴方は俺に本当の事を言わなくちゃいけない。何故俺に連絡先も知らせずに消える様に去ったんですか」急に藤岡は真相の真ん中に向かってハンドルを切った。

「私を恨んでるのね」

「途中そんな時期もありました。でもそれだけじゃない、俺が転職してパン職人になったキッカケは情報を集めて貴方を探しやすいと思ったからです」

「そうなのね」

立花はまたスプーンでクルクル混ぜていたがやがて切り出した。

「あの時は私達とても忙しかったわね、どんどん人が入れ替わる中二人で乗り切ろうとした」

「俺は信頼し切っていた」

そう言いながら別に恨み言を言う為にこんな話ししてるわけではないと思う。

自分はひょっとしてその事を聞く為に探していたのか、会いたいから探していたのなら自分が勝手にやってただけじゃないか。

「すみません」

「言われて当然よ。信頼を踏み躙ったわ。あの時私は医者に療養を勧められていたの。でも気を遣って何も言わなかったから逆に嫌な思いさせたのよね」

それなら寄り添いたかった。そう言いかけたがやめた。

「俺はあなたの事が好きでした。打ち明けるつもりだったその日に辞めると言われた。俺はすんなり手放した事を凄く後悔して探し求めて彷徨った」

ああ

だから直ぐに連絡しなかったんだ。久しぶりに会ったのにその相手を責める様な事を言ってしまう。これなら表面上の会話の方がましだったと、言った矢先に藤岡は後悔した。

一方の立花にもどうしても言えない、言いたくない事がある。

療養ではなく腫瘍を取る為の手術だった。胸の下から10センチほどの傷が残り、初めは赤く腫れていた。それがとてもコンプレックスだったが、最近になって傷の周りの凹凸もなくなり薄くなってきた。

「時間が必要だったの」

「療養の為ですか?パン屋さんにはいつから勤めてたんですか?」

「一年前よ。その後修造さんのお店に来たの。江川君が面接してくれたわ」

「そうだったんですね、長い事会わないうちに俺にもいろんな事がありました」

そう言いながら由梨の顔が浮かぶ。

俺と由梨は出会うべくして出会ったのかもしれない。

俺があの橋を歩いていたのも

泣いてる由梨を見つけたのも。

俺は彼女を傷つける奴が許せなかったんだ。

なんとか彼女を守らなくちゃ

困難な様に見えたけどあいつはあっさり手をついて謝った。

それ以降いつも俺のそばにいて

もう俺と由梨の間には絆ができている。

「あの子、河に飛び込もうか迷って泣いていたんです。悪いやつに根拠のない噂をばら撒かれて傷ついていた、あの時の俺は由梨を取り囲む様々な問題から俺が守らなくちゃと思った。そして由梨は俺の後を追ってきたんです。今は俺が守って貰ってる、そんな気がします」

「そうなのね」

聞いている立花の瞳にうっすらと涙が浮かんだ。

「私達は長い事合わなかった間にお互いに色々な事があったのよね」

「そうですね。俺、パン屋さんを沢山見たので勉強になりました。まだまだ続けて行こうと思います。立花さんも元気で、良い職人さんを目指して下さい。修造さんがオーナーの店ってちょっと羨ましいけど、パンロンドの親方もいい人なんでこれからも頑張れそうです」

そのあと暫く二人はお互いの顔を見つめあっていたが「元気で」藤岡はそう言って立ち上がった。

店から出て行った藤岡を見送り、一人座ったままで残りのコーヒーを飲みながらさっきの涙が溢れてくる。

それを店の外から覗き込んだり引っ込んだりする大坂の姿があった。

仕事の帰りに駅の近くで食事をして帰ろうと思って店内を覗いたら二人がいたという訳だった。

うわ

俺見ちゃった

立花さんが泣いてるとこ。

どうしよう。

なんだよあの超絶イケメンは。

何を話してたんだろう。

お似合いだったのに、超絶イケメンが帰って急に泣き出したじゃないか。

どうする?

声をかけるか、いやいやかけない方が良いのか。

なんで俺がドキドキしてるんだ。

そう思ってると立花が出てきた。

「あ」

「こ、こんばんは」

「こんばんは」見られたくない所を見られた感じで立花は足早に立ち去ろうとした。

今は人と話したい気分ではない。

「送って行きますよ」大坂が付いてくる。

「一人で帰れます」

「だって」

立花は大坂を無視して歩き出した。

だって心配なんですよ。

こんな時しっかりしてる先輩が儚くて頼りなげだとか言ったら『私の事バカにしてるの?』なんて言われるのかな?

「家は近いんですか?」

大坂は遠くから声をかけた。

立花はちょっと後ろを振り向いてまた前を向いた。

繁華街から住宅街に入る。

「あまり長い事後ろから付いて行ったらストーカーみたいだなと思ってはいます」

「そんな風には思ってないわよ」

「そりゃ良かった」

「私は大丈夫よ、大坂君」

「大丈夫は大丈夫じゃないサインじゃない?」

「そうね、私は嘘つきで本当の事を言わなかったばかりに今こうして一人で歩いてるの」

「さっきの超絶イケメンの事ですか?」

大坂は早く歩いて横に並んだ。

「私は自分の好きな人に心を許してなかった。だから最後にあんな表面上の挨拶をされたのよ」

涙が追いついて来たかの様に頬を伝った。

自分を納得させる為に言ってるんだと大坂には感じた。

傷ついてるんだな。

大人になる程複雑で素直になれない事ばかりだ。

何か言いたいが大坂の恋愛能力ではこれが限界だ。

二人はしばらく黙って歩いた。

8時頃か

開いている家の窓からテレビの音が聞こえた。

昼間は暑かったが、夜になり涼しい風が吹いて立花の前髪を揺らす。

まつ毛を潤す涙も少し乾いてくる。

街灯のオレンジ色の灯りが二人の影を作る。

「もうすぐ私の住んでるマンションなの。ここ、江川さんのマンションの近くなのよ。時々パン粉ちゃんも来てるみたい」

「へぇ、二人は付き合ってるんですか?」

「さあ、そこまで立ち入った質問をした事ないわ。男と女が一緒に歩いたからって別に付き合ってる訳じゃないんだし」

そう言って立花は数歩離れた。

「おやすみ大坂君」

「あ、はい。おやすみなさい。また明日」

立花は頷いて角を曲がって行った。

流石にマンションまで追いかけるのは気が引ける。

「ところでここどこなんだ。俺は地図アプリ見るのが苦手なんだよ」

スマホを見て駅の方に歩いてるのに駅から遠ざかる。

ーーーー

次の日のパンロンドでの作業中

「ねぇ大坂君」

「なんですか江川さん」

「昨日ベランダで洗濯物を干してたらね、スマホを見ながらウロウロしてる大坂君みたいな人がいたんだ」

「え」

それを聞いていた作業中の立花は大坂を見た。

あの後道に迷ったとは言いにくい。

「ちょっと散歩していまして」

「散歩には見えなかったな、必死な感じだったよね。ねぇ何してたの?」

立花の視線と江川の追求を避ける為に「あっもうパンが焼けますので」と丁度ブザーの鳴り出したオーブンの所に飛んで行った。

その夜

修造は大坂にヌンチャクを二つ持ってきて渡した。

二人駐車場で稽古をする。

「猫足立ちでヌンチャクの構えをこう持つと敵は次に上から攻撃してくるか下から攻撃してくるかわからない」

「こうですか」

「そうそう」

手取り足取り教えてもらいながら聞いた。

「あの、修造さん」

「ん?」

「リーブロって社内恋愛禁止なんですか?」と聞いたが、別にまだ『恋愛』にもなっていないのにこんな質問自体厚かましい。

修造はニタっと笑った。

「社内恋愛?フフフフフフ」

修造は勿論そんな事は言えた義理ではない。

18の頃、パンロンドで初めて自分の横を通った瞬間から律子しか見ていなかったので。

「勧めはしないけど控えめにね、ぐらいしか言えないな。誰かと付き合ってるの?」

「いえ全然、森田が言うには厳しい店もあるらしくて」

「確かに周りの人は気を使う事もあるかもね」

「そうですよね」 

「俺もそうだったな、律子に一目惚れしたんだ。いいよ結婚は、二つ年上の賢い妻、可愛い子供」聞きもしてないのに急に修造は惚気出した。

「そうだ大坂、俺とうとう今度の祝日娘と試合に出るんだ。序盤でヌンチャク演武、それと個人の型に出る。休んでごめんね」

「いえ、頑張って下さい」

ーーーー

空手の試合がある日は火曜日だった。

試合には田所家とパンロンドが休みなので由梨達四人組が応援に来ていた。

「頑張って〜緑、修造ーっ」大地を抱っこして律子は応援を続けていた。

「修造さーんファイトーっ」

杉本と風花、由梨も声を張り上げた。

藤岡は黙ったままみんなの様子を動画に撮っていた。

皆2階席から1階の会場を見ている。

その直ぐ後ろで黒い帽子を目深に被った女がひっそりと試合の様子をじっと見ていた。

いや、詳しくはオペラグラスで修造だけを見ていた。

そんな事は全く知らない修造と緑は試合で勝ち進み、次が親子演武の決勝戦だった。

「次の親子は息がピッタリ手強そうだな」修造が向かいのコーナーで試合開始の合図を待っている親子を観察した。修造親子と同じ年頃だ。勝ち上がって来るだけあって動きも正確で所作が決まってる。「お父さん、私、足が震えそう。緊張してきちゃった」

流石に決勝戦ともなるとピリッとする。

修造はしゃがんで緑の目線で話した。

「緑、自分を信じて、今まで練習してきた1番の動きを思い出せば良いよ。それを心の中に留めておいて身体をいつもの様に動かせば大丈夫。一緒に楽しもう。お父さんは緑と空手ができて嬉しいよ」

「うん、お父さん」

二人はうふふと笑い合った。

「そうだ、勝つおまじないを教えてあげよう。名前を呼ばれたら背筋を伸ばして片手をまっすぐ上げて大きな声で返事するんだ。そうするとその勢いで綺麗な動きができるからね」

すると自分達の名前が呼ばれた。

二人は同時に手を高く上げて大きな声で「はい」と言って審判の前に立った。

父親として、テンポが狂わない様緑をリードして、同じ動きでヌンチャク演武を終えた。

15時頃

全ての試合が終わり、大会の成績発表が行われた。

小さい子供達から順に優勝、準優勝などのカップや盾が配られる。

緑と修造も親子ヌンチャクの試合で優勝して大きなカップとメダルを貰った。

応援団から盛大な拍手が送られた。

「大地、オトータンは個人型でも優勝したのよ。凄いね〜」

律子は一階から手を振る二人に手を振りかえした。

大地が眠ってしまったので、田所家四人は車で先に帰る事になった。

「みんな今日は応援ありがとう」

「修造さんカッコよかったっす」

「気をつけて帰って下さい」

修造を見送り四人は帰り道を歩き出したが、風花が気を使って言った「ねぇ龍樹、私達だけで買い物に行かない?」

「え?何を買うの?」

「それは後で考えるからぁ、じゃあ由梨ちゃん達、またお店でね」

風花は由梨達に手を振って、杉本を引っ張って駅に向かった。

由梨は何度も気を遣ってくれる風花に心の中で感謝の手を合わせ、二人を見送ってから藤岡と歩き出した。

二人ともしばらく話さずに黙って歩いていたが、由梨が「あの、私勝手に立花さんに会いに行ってすみませんでした」と切り出した。

「うん、その後こちらからリーブロに連絡して会って来たよ。話してる間に自分の気持ちを確かめられたかな」

「え」

それは立花への気持ちを確認したのか。

それともどっちの意味なのか。

「あの、以前」

「うん」

「自分が辛かった事や今の自分の気持ちもちゃんと言えるよ」って藤岡さんは私に言ってくれました。もし辛かったらそう言って欲しい。気持ちをちゃんと言ってください。どんな言葉でも良い。真実が知りたいです」

「俺の実家の庭には満天星躑躅(どうだんつつじ)があるんだ」

「どうだんつつじ?」

突然花の話をし始めた藤岡の表情をじっと見ていた。

「そう、初夏に白い花が沢山咲き誇って揺れているが、秋になると葉が燃え盛る様に真っ赤になる」

由梨は満点星躑躅の様だ。たおやかに揺れていると思えば情熱的な一面もある。

「この木が好きでね、『私の思いを受けて』と言う花言葉もある。秋になると真っ赤になるから満点星紅葉(どうだんもみじ)とも呼ばれている」

そう言ったあと、由梨を見て微笑んだ。

「由梨ありがとう。心配かけたけど、もう終わった事だったんだ。探し求めていた人に会うのが怖かった。そして立花さんに結果的に嫌な思いをさせてしまった」

だけどその後、心の中にできていた固い砂の塊が時間が経つにつれて段々パラパラと解れて無くなっていった。

あれ以降

俺の中で

何かが変わった

新しい俺に

小麦と水が出会って自己融解を起こす。

由梨と俺の心が溶け合って

「由梨、俺は行きたいパン屋さんがあるんだ。久しぶりに動画を撮りに行くよ。内容も少しリニューアルしようと思ってる。前よりパンの事を詳しく説明したりしょうかな」

「はい」

「リーベンアンドブロートと少し雰囲気が似ててね。テラスがあってそこから湖が見えるんだ。確かそこにもあったんだよ満天星躑躅が。見せてあげたいけど今は丁度葉が青々してるだけだな」藤岡は笑って言った。

「私も行きます」

「遠いよ少し」

「大丈夫です」

「わかった。じゃあ朝から行こうか」

「はい」

ーーーー

早朝

一車両だけの電車は長閑な風景の中を走っていく。車内には二人と、後は何人かの乗客だけだった。

時々二人で何か話して

また沈黙になるけれど

心が通い合っている気がする。

駅から動画を撮って歩きながら

道標や景色を撮る。

湖が見えて来た。

その向こうにパン屋がある。

「素敵」

「雰囲気良いよね湖のほとりのパン屋」

いつもの様に表から外観を撮った後、許可を取ってから買ったパンをテラスで藤岡が撮影して、由梨はパンの角度や暗い時はライトを当てたり光彩を考えたりした。

撮影が終わった後、テラスから綺麗な水面が見える。キラキラと輝く水面をベンチに座って2人で見ていた。

「見飽きないですね、湖に空や向こうの景色が映ってる」

「由梨」

「はい」

「あれが満点星躑躅なんだ」指差した先を見た。

由梨は近くに寄って見てみた。

以前藤岡の言った通り、この季節には青々と葉が茂っている。

これがそうだと言われないと分からない。

「この葉が秋になると真っ赤になるんだよ。そして初夏には小さな可愛い花が沢山咲くんだ」

由梨が葉の先が少し赤くなっていている、もうすぐ秋なんだわと近寄った時、足元の段差で体が傾いた。

「危ない」

藤岡は由梨の手を取って体勢を整え手を繋いだまま歩き出した。

由梨は驚いたが、藤岡に手を引かれて、そのまま二人で歩き出した。

湖面は静かで鴨が数羽泳いでいる。

二人は暫くそれを見ながら、日差しを避けて木陰に移動した。

「俺には本当に大切なものができたんだ。いつかオートリーズについて説明したね」

「はい。水と小麦が出会って初めてグルテンができる話」

「小麦粉に水を加えると、グルテニンとグリアジンが絡み合ってグルテンができる」

「当たり前の事の様だけど、お互いが必要な素敵な出来事です」

藤岡は急に笑い出した。

その笑顔は最近の苦虫を噛み潰したような表情とは違い、すっきりとしている。

「ごめん、何の話をしてるんだ俺は。俺には由梨が必要だって言いたかったんだよ」

「え」

「俺は由梨が好きなんだ」

藤岡は由梨の肩に手を置いて顔を覗き込んだ。その瞳の中には迷いが消えている様に見える。

私はいつの間にか静かに愛されていたんだわ。

由梨は微笑んでまた二人で歩き出した。

愛したいとか愛されたいとか古いですか?

二人で一緒にいるのなら

お互いに守ったり守られたりしたい。

一緒に歩きたい。

大切な人と一緒に。

満点星揺れて おわり

パン屋日和に続きます。

44パン職人の修造 江川と修造シリーズ ロストポジション  トゲトゲする空間

パン職人の修造 江川と修造シリーズ ロストポジション  トゲトゲする空間

このお話は全てフィクションです。実際の人物や団体とは一切関係ありません。

主な登場人物

修造と江川は無事にリーベンアンドブロートをオープンさせた。

最寄りの笹目駅からは少し離れているが近くにバス停もあるし、車は駐車しやすい場所にある。

連日の大賑わいに修造と江川、そしてパン職人たちは皆自分のポジションで頑張っていた。

修造は2階にある事務所に注文書を取りに行く為に階段を上がろうとした時、新入社員の平城山妙湖(ならやまみょうこ)に呼び止められた。

「修造シェフ」

「平城山さん、仕事はどう?もう慣れた?」修造は振り返って穏やかに声をかけた。

「私辞めます。明日から来ません」

「えっ辞める?ちょっと待ってよ、この間はあんなに楽しそうに仕事してたじゃないか」

修造は驚いて言った「それにまだ入って8日でしょう?契約書には辞める3ヶ月前に言いますって書いてあるじゃないか。それに君はここの正社員でしょう?」

「はい」

「急に抜けたらみんなに迷惑がかかるよ?」

平城山は黙って下を向いている。

「何が原因?朝早い仕事だから?」

「いえ、そんなんじゃないです」

「家から遠いから?」

「いえ」

「人間関係で何かあったの?」

「いいえ」

なかなかはっきりと言わないが順に聞いて行くとついに言い出した。

「ここに来る前、転職サイトを色々見て」

「うん?」

「候補が二つあってどちらにするか決めかねたけど世界一のシェフがいると聞いてここにしました」

「うん」修造はなんというのか全く理解できない世界を知りたい様な感じで聞いていた。

「ここは忙しすぎます。もう一軒の方がきっとここよりマシだわ」

「まだ開店したばかりだからね。皆慣れていないし、もう少ししたら落ち着いてペースを掴めると思うよ」

「面倒な仕事を押し付けられてその後延々とそれをやらされるなんてごめんだわ」

「面倒?押し付ける?確かに初めは手が掛かる事もあるかもしれないけど慣れてきたらそうは思わないんじゃないかな」

「私辞めるしもう関係ありません!しつこく聞くなんてパワハラだわ!私もう一軒の方のパン屋に行きます」

キレた感じで言われ、次の日から本当に来なかった。

修造は一旦平城山の為に出した社会保険や労働保険、住民税などの届け出を今度は異動届として出した。

「こういう時は日割り計算なんだな」給料計算をして、その後欠員補充の為に求人広告雑誌掲載の依頼を担当の人にメールしながら頭をよぎる。

きっと他のパン屋の面接を受けるんだろう。

サインをしようがハンコを押そうが知ったこっちゃないんだな。

「規則とか罰則なんて辞めたくない者の為のものなんだ」

修造は初めてその事を知った。

一方その頃

江川は工房と裏庭の間にある倉庫で納品された品物をチェックしていた。今から使う物も集めて工房に持っていく。

「これとこれと、、あれ?」

自分が思ってたよりも減りの早いものがある。

どういう事だろう?

誰かが使い過ぎてるのかな?

工房に戻ってみんなの動きをよーく見てみた。

和鍵希良梨(わかぎきらり)がクロックムッシュの上にこんもりとクリームを塗っている。

「ねぇ、そんなに塗ったら多すぎるよ。決められた量があるんだし。ねっ」

「私ちゃんとやってます」

明らかに塗りすぎなのに、和鍵は平然と言ってきた。

「えっ!でも、、」

和鍵は江川に言われた事を無かったことにしたかの様に無視してまた作業を続けた。仕方ないので江川は和鍵の作ったクロックムッシュを量りで計って見せた。

「ほらね、30gも多いよ。1個や2個と違って沢山作ってるんだから途轍もない量になっていくんだ」

和鍵はムッとして上に塗ったホワイトソースをスパチュラでこそげ取った。

「あっ」

「これで良いんでしょう?」

「何その態度」

江川はびっくりして言った。

和鍵は顔を近づけて小声で言った「偉そうに、私達とそんなに年も変わらないのに上司面して」

「そんなつもりじゃないよ」

「江川さんは良いですよね。修造さんから特別に可愛がられて」和鍵は首をクネっと曲げながら言った。遠くから見てると可愛いポーズで話してるように見える。

「特別じゃないよ。なんでそうなるの?話をすり替えないで」

「でもみんなそう思ってますよ。オーナーに言われるならともかく、江川さんにそんな事言われたくないわ」和鍵は顔を近づけて小声で言った。

「とにかくちゃんとしてよね」

声を震わせながらそう言って、江川は足早に事務所に戻ってきた。

「みんなそう思ってるのかな」ソファに座ってドアの方を見た。

工房に戻りにくい。

言いたい事を言われて情けなくて涙が出る。

そのうち郵便局に行っていた修造が帰ってきた。

「どうした江川!何かあったのか?」
座って泣いている江川に驚いて肩に手を置き顔を覗き込んだ。

「なんでもありません」

「な訳ないだろう?言えよちゃんと」

心配が先立って詰め寄る感じになった。

「実は材料の使いすぎで和鍵さんと揉めちゃって」

修造は江川を事務所に残して1階に降り、工房に入ろうとすると中から立花杏香が出てきた。

「なあ、さっき揉め事があった?」修造は小声で聞いた。

「はい実は、、」

そばで見ていた立花が和鍵の態度については教えてくれたが小声での会話まではわからないと言う。

「えーそれは傷つくなあ。悪いけど和鍵さん呼んできてくれる?」

立花に呼ばれて廊下に和鍵が出てきた。

「さっき江川に材料の量の事で注意されたんだろ?どんな話だったの?」

「はい、、すみません」

和鍵は修造には素直に謝った。

「私ちょっと塗り過ぎちゃったんです。沢山塗った方がお客様が喜ぶと思って。そしたら江川さんが計って多いって、、」

と言って泣き出した。

泣くところなのか?

「わかったよごめんごめん。江川も一生懸命なんだよ。今度からお互い気をつけようね」

工房に戻った和鍵の背中を見送り事務所に戻る。

別に江川が悪いわけじゃないと思いつつも『お互い』と言ってしまったと後悔する。

「江川、気分はどう?少し落ち着いた?」と聞いた。

「はい、すみませんでした。僕和鍵さんになんて言ったらいいのかわからなくなって。でももう大丈夫です」

確かにさっきよりは落ち着いて見える「みんな忙しくてイライラしてるのかもね。俺も工房に行くけど一緒に戻れる?」

「はい」

工房に戻って江川と作業しながら皆の様子を観察した。

江川は孤立しているのか?

立花他数名はそんな事は無いだろうが忙しくてそれどころじゃない様だし、和鍵は登野里緒、平城山と派閥みたいな物を作りつつあったが平城山はさっさと辞めてしまった。

和鍵は誰かが注意されるとすかさずそこに行き、不満などを聞いて味方になり、店や江川が悪いと吹き込んでおかしな信頼関係を築いてる様だが、ハッキリとは聞こえてこないのがやっかいだ。

修造は兎に角やる事が多くて事務所にいて長いこと用事をしている時もあるし。そんな時江川は冷たくされる様だ。

終業後

家に帰って和鍵は母親と話していた。

それは自分の言った言葉以外の見たままの内容だった。

江川さんってNo.2がいて自分には厳しく、計りを持ってきて自分の仕事をチェックした事。

オーナーが来て色々質問してきた事。

その後オーナーが江川と入ってきてジロジロ仕事の様子を観察していた事など。

「鬱陶しいわ」

「可哀想な季良梨、あんたは悪くないんでしょう?」

「うーん」

「だったら毅然とした態度をしてれば良いのよ。そんなおかしなオーナーや従業員に負けないで。また何かあったら教えてね」

「うん」

ーーーー

何日か後

修造は店内で袋入りの焼き菓子やドリップバッグが消える事が度々あるとカフェ担当の岡田克美と中谷麻友から報告を受けた。

「中谷さん、どのぐらいの頻度で無くなるの?」

「まだそれはわからないんですけど、私が担当をしていて、売れてないのに無くなってる物があるんです。気をつけて見てる様にします」

岡田が納品書を持って説明してきた「数量で言えば、例えば初日からこの商品は60個あったんです。レジを見てみるとこの商品は36個売れてる、それなのに実際の残数は24無いといけないのに18個しか無い」

「うわ」修造は驚くと共に岡田が頼りになると感動した。

「ほかの商品10種類も足りない分がこれです。袋入りだからわかりやすいですが」

「中谷さん、岡田君ありがとう。また何かあったら教えて」修造は調査表を受け取って店の様子をよく見てみた。

うーん。

レジでは客が並び安芸川と姉岡が忙しそうにしている。

修造はパン箱をもって「いらっしゃいませ」と周辺の客に挨拶してトレーに焼き立てパンの補充をしながら「こういうのは持ち去りようがないもんな」と呟いた。

そのあと工房で仕事しながら様子を見たが江川と和鍵は距離をとって仕事している。

「うーん、各方面に目配りしないとな」

ーーーー

さて

また新しいメンバーがやってきた。

「白栂雅子(しろつがまさこ)と申します。よろしくお願いします」皆に爽やかに挨拶した。

白栂は和鍵と同じ年齢ですぐに打ち解けた様だ。

上手くいってくれるといいけど。修造はまだ平城山ショックから立ち直っていなかったのでちょっと祈るような気持ちだった。

「明るそうな人で良かった」

ところが

白栂は何度も遅刻してくる。

反省はしてる様だがしばらくするとまた同じ様な遅刻。

そして修造を悩ませたのが白栂とのやり取りだった。

今日は人がいなくて「あ、いいよその仕事は、自分の仕事をしていて」と言うと、もうこれはしなくていいんだとかもう次は要らないのかなと思う様だ。こちらは全体を見て手が足りないかどうかを見てるのだが白栂は自分と自分の仕事だけを見てるからそうなるんだろう。なので次に今日は人がいてゆったりだから、これなら白栂にもできるだろうとやらせると、こないだはやらなくっていいって言ったのになんで?となる。理解できない様だ。

おまけに甘くしてるとそれが当たり前になっちゃうし、厳しく言うとパワハラになっちゃうし。

また和鍵が白栂を慰めてる。これが店の為を思ってやってるならありがたい存在なのに店が悪いという展開になって行く。

最近では和鍵と白栂は江川を無視して、2人のやりたい様にやってる様だ。

ある日

江川が板に※パンマットを乗せてそこに成形したバゲットを波板状に並べ、その板ごと持って奥のホイロに移動しようとした。

「あ」

中央のテーブルの右には最近は仲直りしてうまくやっている西森と大坂が板の上の生地を※スリップピールに並べていて通れない。左は和鍵と白栂がテーブルの前で仕事している。江川は和鍵達の後ろを通るしかなく「ちょっとごめんね」と言って通ろうとした。狭い通路なので和鍵と白栂はテーブルに寄って後ろをあけないといけない。江川が通り過ぎようとしたその瞬間白栂が後ろに下がった。

「あっ」

「いま私のお尻を触りましたよね」

「触ってないよ!ちょっと当たったかもしれないけど」

「ちょっとって何ですか?触った事に変わりないでしょう」

和鍵も白栂に加勢した「セクハラだわ」

「ぼくそんな事してないよ」

西森と大坂はその瞬間は見ていなかったが「そんなわけないだろう」「絶対触ってないと、、、思うけどな」と冷静に言っている。

立花は「その場所は狭い所なんだから今度からあなたも当たらないようにしなさいよ」と注意してきたので白栂は「セクハラ!」と捨てゼリフを江川に言ってまた作業に戻った。

江川は困って事務所にいた修造に相談した。

「僕触ってません」

「お前がそんな奴じゃないってことは俺が一番わかってるよ」

「僕、どうしましょう。居辛いです」

「俺が話してみるから戻っていいよ」

「はい」江川は首をうなだれて戻っていった。

修造は白栂を事務所に呼んだ。

階段を上り、入って来た白栂は不満そうな顔をしている。

「白栂さん、江川がそのう白栂さんのあのう、身体に触れたって事らしいけど誤解だと思うんだよ」

「私が嘘ついてるっていうんですか?」

「嘘とは言ってないよ。当たったんだろうけどセクハラめいた事ではないというか」

「ひどい!泣き寝入りしろっていうんですか?修造シェフはいつも私にばっかり注意してますよね。私の事が嫌いなんですか?」

「ばっかりって事は無いよ。仕事上のやりとりなんだし。嫌いとかそういう事じゃないよ」

「もういいです!私辞めます。和鍵さんも修造さんはえこひいきばかりするって言っていました」

「誤解を解きたいだけなのに辞めるだって?なんでそうなるんだ」

「セクハラを庇うからです」白栂はそう言いながら出て生き様思い切りバタンとドアを閉めた。

これ以上言っても無駄なのか、平城山の事を思い出して追いかけていくのは止める。

修造はガクっとソファに座って首をうなだれながら考えた。

経営って大変だな。パン作りの事だけを考えりゃ良いってもんじゃないんだ。

世界大会での燃えるような気持ちを思い出す。

あー

あの時は良かったなあ。

親方夫妻

大木シェフ

鳥井シェフ

那須田シェフ

パンの高みだけを追いかけて夢中になって

今は江川がセクハラの疑いをかけられてるなんて、しかも自分の所の従業員に。

修造はソファに座って両手で顔を擦りながら考えた。

こんな時親方ならどうするんだろう。

どっしり構えて動じずにみんなの事を見守っていくんだろうな。

なんだかんだいつも世話になってた奥さん、ちょこまかと動いてみんなを束ねてた。チャキチャキみんなを引っ張っていってたな。

懐かしい

それに

杉本はやりやすかったよなあ、殴り合っても次の瞬間には心が通じ合ってたし。

あー会いたいなあ皆に。

修造は久しぶりにパンロンドの親方の所を訪れた。

杉本が飛んできた「あっ修造さん!今日は用があって来たんですか?」

修造は杉本の肩を抱き「杉本~」と笑顔を見せて杉本を怖がらせた「ひっ」

「よう修造!どうだい新しい店は」

「親方、それがあのう。思ってたよりも人の問題が大変で」

「まあ肩の力を抜けよ修造」

親方はうーんと昔を思い出しながら言った。

「俺も始めはそんな感じだったな。遅刻ばっかしてくるやつを叱りつけて首にして、そいつが逆襲に来てお前に迷惑かけた事もあったな。 色々あったが佐久山と広巻みたいに気の合う奴と出会ってあまりでかい不満もなく続けられたよ。若い時は佐久山はギャンブルばっかりしてて、広巻はのんべぇだった。いつ飛んじまうかわからないなあと思ってたらお前が入ってきて、途中で中抜けしてドイツに行くって言った時から2人ともちょっと表情が変わったんだよ。ヨレヨレの格好してたのも治ったな。仕事の事で更に高みを目指すなんて奴はあいつらの人生で初めて出会ったんだろうよ。戻って来て世界大会に出て、、、それを見てるうちに段々仕事に前向きになって来て、飲んだり打ったりするのも減ってきた」

そしてうんうんとうなづきながら続けた「俺にもあいつらにも良い刺激になったんだよ。江川も続けてればまた気の合う奴が巡ってくるって。仕事のリズムを掴めない奴には一緒にやって褒めて様子を見てやるしかないのさ。そしたら自分で出来るようになるってもんだ。大変と思うけどな」

「はい」

修造は帰り道歩きながら考えた。

そうか

俺が親方夫妻みたいになって江川と一緒に色々とやりかたを考えてやらなきゃいけないんだ。

俺も変わらないと。

江川が育つまで俺が奥さんと親方の2人分をやらなきゃ。

修造は事務の時間を夜に回して職人達と一緒に仕事をしてやって出来るようになるまで面倒を見た。出来るようになると「そうそう!その感じ」と励ましてやる気の出る様に努力した。

疲れてソファに伸びてる修造をドアの隙間から見た立花が和鍵に言った。

「このままで良いのかな。私はここにいて少しでも修造さんの技術を学びたい。それが自分の為になるのよ」

次の日和鍵は修造の手元をよく見ていた。それを見た立花が「和鍵さん、やる気出てきたんじゃないですか?」と言った。その言葉を聞いて修造はほっとした。

「修造さん」

振り向くと岡田が立っていた。

「閉店後話があります」

こんな言い方をされた時はろくな事じゃない。

修造はそういう事を察する事が出来る様になってきた。

岡田も辞めるのかな?そう思いながら閉店後に待っていた岡田の所に行く。そこに中谷もいた。

岡田は何枚かA4の紙を渡してきた。

「以前言っていた商品がなくなる件ですが、状態は変わっていません」

「うわ、トータルすると相当な金額だな。こんなにどうするんだろう」

「それで」岡田と中谷は顔を見合わせて頷いて「どうもお客さんじゃないんじゃないのかと」と言った。「レジ閉め後に数を数えて、試しに開店前に数えたら前夜と数が違うんです」

「えっ、てことは」修造は全員の顔を順に思い出していった。

「それで、店内に防犯カメラを付けてはいかがかと」

「わかったよ、ここまで調べてくれるなんてほんとありがとうな」

修造は岡田と中谷に感謝して、江川と防犯カメラを付ける位置を考えた。

「こっそり隠すんですか?」

「いいや、堂々とでいいだろ」

「そうですね」

「じゃあ2つあそことあそこに付けよう!明日業者の人に頼んでおくよ」

「はい」

「ところで江川、白栂さんの件だけど」

そう言うと江川の表情が一変した。

「あ、違うんだ。周りのみんなはあれは誤解だって思ってるって言いたかったんだよ」

「僕、あれから本当に気をつけていて、大声で通るよって言って間を空けて貰ってから通ってます」

「うん、俺もそうするよ、なんせ工房が狭いもんな」

「はい」

ーーーー

「あ、江川職人」

「パン粉ちゃんおまたせ~」

今日は江川と小手川パン粉は駅で待ち合わせてパン屋さん巡りに行く日だ。

2人は電車に乗り一駅ずつ降りてはその駅の近くの名物パン屋を訪れた。

何軒か回った後ブーランジェリーシノミヤに入り、長く続くショーケースに並ぶパンを対面で立っている販売員に指差してトレーに乗せて貰う。

「江川職人、買いすぎじゃない?そんなに食べれるの?」パン粉は江川のトレーを見て驚いて言った。すでに買い物したパン屋の袋が3袋もあるからだ。

「だって美味しそうなパンばっかりでどれも味見したいんだもん」

「その気持ち痛いほどわかるけど」2人は笑いあってレジで今食べるパンを選んでドリンクを注文した。

席に座ると今日行ったパン屋のパンをチェックしたりトレーのパンを味見したりする。

「ここのバゲットはもち麦を使ってるんだね」

「もっちり弾力があるね」

「パン粉ちゃん、もち麦はアミロペクチンを多く含んでいてそこがうるち米と違う所なんだ。粘度が高くて消化しにくいから腹持ちがいいんだって」

「さすが江川職人ものしり~」

「修造さんの受け売りだよ」江川はちょっと顔が赤くなった。

「江川職人はパン職人になって何年になるの?」

「4年だよ。もうすぐ5年、その間色んな事があったな。僕ずっと修造さんの背中を追いかけてたんだ」

「ザ・師弟愛」

「修造さんは強いんだ、なんでも乗り越えていける。そんな時修造さんの背中が光って見えるんだ」

「うん、なんか分かる気がする。輝いてるよね修造シェフ」

「うん。僕いつかあんな風になれるかな」

「江川職人は力(リキ)あるんじゃない?パンリキ」

「パンリキ?」

「そうパンリキ!」

2人はテーブルを挟んで向かい合い顔を近づけて笑いあった。

ーーーー

次の日

パン粉とパン屋巡りに出かけてリフレッシュした江川が楽しそうにやって来た。

それを見た和鍵がイライラした。

修造にパン屋の説明をしながら楽しそうに仕込みしている江川を見ていた和鍵は『辛く当たってるのにまた復活したわ。目障りだからここからいなくなればいいのに』と思っていた。

なぜこんなに江川が嫌いなのか自分でも不思議だ。

修造は※サワードゥの種継ぎをしながら江川に話しかけた「あのさあ江川、言いにくいんだけど大木シェフからゴルフの誘いがあって今度行ってくるんだけど、いいかな」

「はい、僕もおでかけして気分転換できたんで修造さんも行ってきて下さい」

「大丈夫かな」

「はい、僕いつもより早く来ます」

修造が心配していたのは江川と和鍵の事だったんだが。

心配しつつも修造は粗目ゴルフ場に出かけた。

道具は全て大木が貸してくれる。

修造が来たので大木は嬉しそうにしていた「ルール知ってんのか?」

「いえ、あまり」

「そうか、じゃあ今日は練習ということで」

そう言って大木はティーインググラウンドに立ちドライバーを構え、力を入れずにクラブを振りぬいた。スーっと伸びたボールは打ち上げのフエァウエー中央に落ちた。

「無難だな」鳥井に言われたが「これがベテランってもんだ。さあ、次修造!俺みたいに打てよ」

「はい」よし!要するにあのグリーン目掛けて打ちゃあいいんだな!修造は思い切り素振りをした。ティーアップして出だしから怪力でドカーンと打ち飛ばし、ボールは右へスライスしてグーンと伸び隣の5番ホールへ飛んで行く。

「うわ!」

その途端キャディの声が「ファーーーーッ」と響いた。

ーーーー

一方リーベンアンドブロートの工房では修造が抜けてる分皆忙しく働いていた。

江川は修造の分も仕事しようと張り切っていて、仕込み成形仕込み成形を繰り返していた。

ふと見ると洗い物が随分溜まっている。白栂が辞めた後、和鍵は修造の前では率先して洗い物をしてたのに今日は全然やらない、気になるけど今は自分も手が回らない。

「あのさ和鍵さん、ちょっとあれ片付けてくれない?今手が空いてるでしょう?そろそろ溢れて落ちそうなんだ、ねっ」

和鍵は聞こえないふりをした。

「和鍵さん」

「、、、」

「和鍵さん!今聞こえないふりしたよね?」

「なんの事ですか?今忙しいんです」

「無視しないで、何故僕に嫌な態度を取るの?」和鍵に言った言葉を和鍵が返してきた。

「無視しないで、何故僕に嫌な態度を取るの?」

「それ僕の真似だよね?やめて」江川は苛立ちを抑えながら言ったが突然脳内で何かが切れた。

「もういいよ」

江川は和鍵にはそれ以上言わずにもっと早く仕事を終わらせて片付けにかかった。

そして誰とも話さずに黙って帰った。

夕方

ゴルフで散々だった修造ががっくりして戻って来た。

工房には江川の姿はなく、他の者が明日の準備をしていた。

「あれ?江川は?」

和鍵が答えた「江川さんなら誰にも挨拶なしで帰っちゃいました」

「えっ、そんな奴じゃないのになあ」

「そうですかね」呆れた様に言う和鍵の言葉に不安がよぎる。

廊下で何度も電話をかけた「でない」

修造は裏口の方を見ながら後悔した。

今日呑気にゴルフに行くべきじゃなかった。

江川は最近リーブロのある笹目駅の近くに引っ越してきた。

自分のマンションに向かい自転車を漕ぎながら涙が止まらない。

あの時と同じだ。

高校の時と。

僕だけみんなと違うのをみんな意識してる、中には和鍵さんみたいに僕の話し方を真似する失礼な子もいた。

僕は学校に行くのが嫌になって、パンロンドに逃げたんだ。でもパンロンドでは修造さんやみんなが僕を普通に受け入れてくれていた。自然で何も聞かない、だからって関心が無いわけじゃない。僕はやっととても自由な気持ちになれたのに。

江川はその次の日から店に来なくなった。

ーーーー

「立花さん、江川は今日も休みなの?」

「はい修造さん、体調悪いと連絡がありました」

「全く、こんなに忙しいのに何日も休まれたら困るわ」そばで作業をしていた和鍵がすかさず言った。

「俺が江川の代わりに入るからね」

「はい、お願いします。助かります」

それを聞いていた立花が、和鍵を冷静な目で見ていた「修造さんの前でも江川さんに対する態度を見せたら?」

「何言ってるの?立花さんが変な事言い出しました」

和鍵は修造に困った顔を見せた。

修造は違和感のある和鍵の態度を見て江川に本当の事を聞かなくちゃと考えていた。

その夜

雨が激しく降っていた。

修造は江川の住んでいるバンブーグラスマンションを訪ねた。

「あ、修造さん。すみません休んで」

「江川、大丈夫か?痩せたんじゃない?何かあったんだろ?俺にも教えてくれよ」

江川は全て言いたい気持ちをグッと抑えた。今まで言わなかった事を改めて修造に言うのは恥ずかしくて耐えられない。「なんでもありません」と言う言葉と裏腹に涙が止まらない。

「なあ、頼むよ、江川だけが辛いのは俺も辛いんだ」

「僕、みんなと違うんです」

「何が」

「話し方や服装とか」

「俺だって違うぞ、ダサいし話も苦手だし、それに比べて江川はオシャレで明るいだろ?」

その時初めて修造が江川の事をそんな風に思ってた事に気がついた。

「仕事がキツイのか?それとも和鍵さんが原因?」

修造は今日職場で見た事を話した。

「僕、和鍵さんに言われて、昔のことを思い出して身体が動かなくなったんです」

「昔?」

「高校の時の事です」

「不登校の事?」

「はい、また和鍵さんに会うのは怖いです。しばらく休ませて下さい」

「わかったよ江川。仕事のことは心配するな。疲れが溜まっていたせいもあるんだろう、ゆっくり休めよ」

「すみません」

帰り際、冷たい雨の中。

あんな江川初めて見たな。

いつも前向きな奴なのに。

「和鍵さんの件なんとかしなくちゃ」と呟く。

修造は大木シェフを尋ねた。

「よう、こないだは散々だったが練習したらちょっとは上手くなるって」大木は全てスライスする修造のゴルフを思い出して言った。

「俺、ゴルフは向いてなくて」

「クラブフェースが開いてるんだよ、肩の位置とグリップを直しゃいいんだよ」それは何度も言われたが治る気がしない。

「ご相談があって」

「なんだよ」

「シェフは大勢の職人を束ねていますが、どうやって軌道に乗せてるんですか」

「軌道」と言って大木はそばにあったケーキ用の回転台に試し焼きで余っていたクッキーを等間隔に乗せた。

そしてそれを太い指で素早く回すとクッキーは振り落とされて数個残った。

「早く回しすぎるとポロポロ落ちる、ま、丁度良く回す事だな」

「はあ」抽象的な事を言い出した。

「分からんでもないだろ?」

「はい、なんとなく」

「何を困ってる?やってみると大変だろ?」

図星で何とも言い難い。

「あちこちボロボロです」

「お前は全体を見なくちゃならんからな、一つのことに執心すると他が疎かになる。全体を満遍なく見るんだ」

「江川がいじめにあってる様なんです、中々俺の前ではどちらの様子もハッキリしなくて」

「お前な、いつまでも江川のおもりをするつもりか?もっとしっかりした奴だと思うぞ。あいつに自分で何とかさせるんだ。そんなことであいつを独り立ちさせようったって無理だろ」

「はい」

大木にはっきりと言われて今後の課題を言われた気がする。それは自分自身への課題でもあった。

ーーーー

さて、修造にはもう一つ困っている事があった。

レジや品出しをしている姉岡志津香は初めのうち真面目にやっていたが、最近は職場に慣れて本性が露わになって来たのか中々に反抗的だ。接客中パンの事で質問されてわからないから聞きにきたので、それなら説明しようとお客さんの所に行くと別に来なくてよかったのにとこちらを向いて煩そうにして、修造を不思議がらせた。

また、注文を受けた際には店と工場の両方に注文書を貼らないといけない。さっき注文を受ける所を見かけたのにいつまでも来ないから注文書持ってきてというとしばらくして持ってきたのは良いが何も言わずに無言で紙を貼り付けていく。

その他お店の事を仕切り始めてこちらに聞かずに勝手に行動する様になってきた。

なんなんだ姉岡さんって。

修造は工房からしばらく姉岡をマークすることにした。

一つ一つ直していかないとな。

その日の夕方

「修造さん、工事の人が来ました」岡田に呼ばれて防犯カメラを取り付けに来た業者にこことここにお願いしますと言う。「クラウド型にしたんですね」「うん、どこにいても見れるからね」

しばらくして工事が終わり業者に画面の角度を見る様に頼まれたので「もう少しこちら」とか言っていると、レジの姉岡、安芸川も画面をのぞきに来た。

「こんな風に映ってるんですね」

「結構映像がはっきりしてますね」

「うん」

「音は出ないんですか?」

「聞こえないな」

「ふーん」姉岡がそういった。

そんな時黒い噂と言うか、変なものを中谷が見せてきた。

「これ見て下さい」中谷のスマートフォンを覗いて店の評価が載ってるサイトの細かい文字列を読んだ。

「あ!」

『リーベンアンドブロートのシェフって奥さんと生まれたての子を置いて外国に行っちゃったんだって。酷いエゴイスト』

別に炎上してるわけじゃ無いけど気になるし傷つく。

「なんなんだ、これ」

「店のエゴサしたらこんなものが出てきて。酷いですね。書き方に悪意を感じます」

「本当だ、中谷さん教えてくれてありがとう。俺こういうのに疎くて」

「また何かあったら言いますね」

「うん」

家族が心配だ、また律子に迷惑をかけてしまった。

その夜

修造は久しぶりに家に帰った。

「修造おかえり」

「ごめんね中々帰ってこれなくて、子供たちは?」

「もう寝てるわ」

愛妻律子とただいまのハグをして、修造は今日の事を話した。

「律子ごめんね、迷惑かけて」

「そんなに謝ってばっかりしなくてもいいのよ修造」

律子は修造の顔を覗き込んだ。

修造、疲れてる。クタクタなんだわ。

なのに無理してる。

こんな修造見たの初めて。

修造はいつだって情熱に燃えて生きてきたのに。

律子は膝枕をしながら修造の言っていた店の評判を調べた。

これね

フン

エゴイストですって?

他人に私達の何が分かるって言うの?

バカみたい。

「私達こんなの全然平気よ、これってお店の評判を下げようとしてるのよ。そっちの方が心配だわ。気を付けてね」

ーーーー

次の日

小手川パン粉が江川に会いに店へやって来た「あれ、江川さんは休みですか?」

江川の姿が見えない。

「江川さんは一週間程来てませんよ」安芸川が返事した。

横にいた姉岡も「あんまり来ないと忘れちゃうよね」と言った。

「体調悪いとか言ってましたか?」

姉岡はそっけなく「さあ」とだけ答えた。

パン粉はすぐに買い物をして江川のマンションを訪れた。

「パン粉ちゃん」

江川はパン粉の顔を見てほっとした様だった。

「ねえ、もう何日も休んでるの?体調悪いのかと思って来たの」

「ありがとうパン粉ちゃん」

「何か作るから座ってて」

パン粉はキッチンで玉ねぎを薄切りにした。それをバターでゆっくりじっくり炒めている間にコンソメスープを作り、玉ねぎと合わせて煮込んだ後、器に入れてバゲットの輪切りとチーズをのせてオーブンに入れた。

あたりはスープのいい香りに包まれた。

チーン

出来上がったオニオンスープを江川の前に置いた「食べよう、これ食べたら元気出るよ」

「あつ」カットしたバゲットとチーズがフタの様になって冷めにくいスープをスプーンで掬ってフーフーしながら食べる。

「美味しい」江川はパン粉の顔を見た。

「でしょう」パン粉は江川の顔に沢山ついた涙のスジを見ていた。

「ありがとうパン粉ちゃん。僕の為にこんなにしてくれる人がいるなんて凄く嬉しい」

「ねえ、江川職人、何か困ってる事があるんでしょう?私にも分けてよ。でないと私も辛いよ。話してくれない?」

「うん」

江川はしばらく黙ったあと話し出した。

「僕、高校の時不登校になったんだ」

「そうなんだ」

「僕、周りの人と違うんだ同級生の誰とも違うんだ。男とも女とも」江川はパン粉に心情を打ち明けた。

「今もそうなんだ、みんなの事が大好きで仲良くはできるけど愛とか恋とかっていう気持ちがないんだ。ひょっとしたら誰も愛せないまま終わるかもしれない。だからってみんなが嫌いなんじゃないんだ。修造さんやパン粉ちゃんの事が大好きなのにそういう事とは少し違うんだ」江川は両手を握りしめた。

「僕は僕の事がよくわからない、身体は男だけど男でも女でもないんだ」

パン粉は泣いてる江川の頬を両手でそっと包んだ。

「僕にはそれをどうすることも出来ない」

「ねぇ江川職人、別に誰かを好きになったり結婚したりみんながしてる訳じゃないじゃ無い?1人の方が気楽って人もいるし、今って前よりも色々な選択肢があるのよ。男だからとか女だからとかもうどうだっていいのよ」

そう言いながら両方の親指でとめどなく流れる江川の涙を拭った。

「まだ出会ってないからなのか私にはわかんないけど。恋愛なんて言葉、それだけが人生じゃないもん。今の世の中って別に誰とも結婚しないでも良いし、ずっと1人で生きてる人も沢山いるのよ。自分だけが孤独とか1人って訳じゃないよ。自分の分類みたいな事は誰にもして欲しくない。自分の事を誰にも決められたくない。人は人よ、その人達が勝手に自分と違うとか思ってるだけ、江川職人は江川職人なのよ」

「パン粉ちゃん」

急に江川の目の前がパッと輝いた。

今までどこにもなかった道が急に見えた様な気持ちになる。

「私は江川職人と出会って良かった。この間みたいにさ、また映画に行ったりカフェに行ったりしようよ。私達友達でしょう?まだまだ見てない事や知らない事が沢山あるのに勿体ないじゃない」

「パン粉ちゃん」道が開けたのと同時に今まで探していた宝箱まで見つけた。そんな気持ち「本当にありがとう」

「私本当の名前は瀬戸川愛莉って言うの」

「そうなんだね、愛莉ちゃんって呼んでも良い?」

「うん、卓ちゃん」

「私達の未来って私達が思ってる程決まってないじゃない?これからの事は誰にも分からない、でも私達が親友って事、それだけは確かよね」

2人は手を握り合い顔を見合わせてウフフと笑った。

そうか

僕自分の事を型にはめようとしてはみ出してるのが辛かったんだ。

こんな風に思ってくれる人も居るんだ。

「僕愛莉ちゃんと居る時とても気が楽だな」

「私もよ、だって私達親友じゃない」

親友というとても素敵な言葉に江川は凄い強いアイテムを受け取ったような気がした。

心に温かい何かが芽生えた。

ーーーー

その頃

岡田と修造は事務所で話していた。

最近の岡田への信頼は著しい。

「こんなものを見つけました」と言ってマーケットプレイスの画面を見せた。

「このリボンをよく見てください、グリーンの」なんだか見覚えのあるドリップバッグをガン見する。

「あ!うちのリボンじゃないか!このまま売るなんて雑な事するなあ」

「いい様にされてますね」

「だらしなくて恥ずかしいよ全く」

2人はその後防犯カメラを見ながら怪しい人物を特定していた。

「あ、これ見てください」

なんとカメラギリギリの所から白い手が見えて5個入りのドリップバッグを2つ持っていくのが映っている。

「とうとう見つけた!でも誰かまではわからないな」

「そうですね、動画のこの部分の時刻は朝6時。完全に店の者です、しかもカメラの死角を知ってるんじゃないですか?」

「あ、カメラを付けた時に2人にカメラの範囲を見せたよ」

「その2人のうちどちらかかも知れない」

「だな」

「会話は何か撮れていませんか?」

「音は出ないんじゃない?」

「そうですか?」

岡田はアイパッドの音量を上げた。

「修造シェフ」登野が改まった感じで話しかけて来た。

「あ、じゃあ僕はこれで業務に戻るので」

「うん、岡田君ありがとう」

修造は岡田を見送ってから登野の方を向いた。

「登野さんも辞めるの?」

「えっ?いいえ」

「あ、ごめん。勘違いしちゃった。えーと何かな」

「江川さんが来なくなって気になってはいましたが、今まで黙ってた事があったんです」

「江川の事?」

登野は体育会系なのかスポーツマンらしいキリッとした態度で言った。

「はい、私、和鍵さんが白栂さんに江川さんの事を悪く言ってるのを聞いてた事があったんです」

「そうなの!」修造は初めてはっきりと和鍵のやっていたことを聞いた。

「白栂さんはそそのかされて江川さんを傷つける事をしたんですが、みんなに白い目で見られたり、修造さんに呼ばれた時に焦ってました。それで分が悪くなったので辞めたんです」

「和鍵さんの目的はなんなの?」

「それは、江川さんが気に入らないと言っていました。追い出そうとしてるんだと思います」

「なんだって?」

修造はすぐに1階へ降りて行った。

臓物の底からじわっと怒りが込み上げる。

いやいや、冷静にならないと。

深呼吸してから工房のドアを開ける。

「和鍵さん、ちょっといいかな」

「何ですか?修造シェフ」和鍵はニコニコと廊下に出てきたが、修造の怒りに耐えた表情を見て真顔に戻った。

「ここは俺と江川の店なんだ」

「でも社長は修造シェフですよね?」

「そうだけど。江川はずっと俺について仕事していた。誰よりも俺のパン作りをわかってるんだ。江川や江川の仕事を馬鹿にするのは俺のパン作りを馬鹿にしてるのと同じことなんだよ。もしそうならもう一緒には仕事できない。ここから出ていって欲しい」

和鍵は全てばれたと思い黙って聞いていた。

「俺たちは店と言う同じ船に乗ってるんだ。よく考えておいてね。今日はもう帰っていいから」

いつもより早く帰宅した和鍵は、台所のテーブルで求人誌を見ていた。

それを見た母親が心配そうに声をかけた。

「希良梨どうしたのそれ?転職するの?」

「私辞めさせられるかも。私なりに一生懸命やってたのに」

「え?ねえお父さん希良梨が辞めさせられるかもしれないって」

「なんだって?どういう事なんだ。入社した時はあんなに張り切ってたのに」リビングにいた父親がやって来た。

「パワハラかなんかか?」

「ある意味そうかも。江川って人とそりが合わなくて、そしたら辞めて欲しいって」

「なんですって?私達にまかせておきなさい。学校でも塾でも何かあったらすぐに先生にねじ込んで文句いってやったら言いなりになってたんだから同じ調子でやればいいのよ」

「解雇だと?訴えてやる。弁護士の先生に電話しなさい」

「えっ」

和鍵はこんな時の親の瞬発力を何度か見てきた。

何かあったらすぐに学校に意見したり先生を泣かせたりしていた。それが和鍵が自分を守る為の嘘でも何でもだ。

「元気を出して!パワハラ裁判!勝てるわよ絶対!」

和鍵はそんな親の顔をじっと見ていた。

この人達が私を育てたんだわ。

和鍵が過去に学校で注意された事や、最近では職場で修造に言われた事を親に言う時、一部は言うが全貌を言う事は無い。常に自分を庇うように習慣付いている。自分の性格について知ってはいるが認めたくは無い。それでも両親は自分の事をまるで疑ってはいない。

立花の言葉を思い出す。

『このままで良いのかな。私はここにいて少しでも修造さんの技術を学びたい。それが自分の為になるのよ』

そう、修造を裏切りたい訳では無かったのに。

ーーーー

誰もいない工房で修造は1人パンの分割をしていた。

分割した生地を丸めてどんどん箱に入れていく。

いざとなったら自分1人でも仕事できるんだ。全員がいなくなっても。でもそれだと俺は何の為にこの店を作ったんだ。

静かな工房で1人考えを巡らせる。

コンコン

裏口から人が?音の方を振り向く

「誰?」

「久しぶりだね修造君」

「那須田シェフ!」

「開店おめでとう」

「ありがとうございます」

「そろそろキテると思ってね、やってみると色々大変なことばかりだろう?」

「はい」

「誰でも通る道なのさ。今日は手伝いに来たんだよ、以前手伝って貰ったお返しにね」

「その節は勉強になりました」

修造は今の職場の状態を話しながら仕事をして、那須田は慣れた手つきでクロワッサンの成形をしていった。

「すごい!お客さんに那須田シェフの作ったクロワッサンって言いたいです」

那須田は何も言わずに微笑んだ、そんなこと良いじゃないかって感じに、そして言った「昔は結婚したら幸せになれると思ってた時代があった。今は何だろうね『転職したら幸せになれる』かな?実際幸運度の増した人も沢山いるだろうし後悔してる人も多いだろう。結局みんな人それぞれの理由があるんだよ。君のせいじゃ無い。そうだ、俺めちゃくちゃ仕事早いんだ。だから早く片付けて一杯やろううよ」

「はい」

本当に那須田はパンの仕込みを素早く済ませて片付けにかかった。

「神業だ」

「俺も君みたいに夜一人で仕事してんだよ。雑念を振り払ってね」

2人で外のベンチに座り買って来た酒やつまみを広げた。

「まあ飲めよ」

「はい、那須田シェフ、雑念を振り払うってどうやってんですか」

「そうだな、僕はいつも日本海に向かって叫んでる」

「叫んでる?」

「そう!すっきりするぞ」そう言って那須田は上を向いて叫んだ。

「うおーーーっ馬鹿やろーーーーーっ!ってな」と言って修造を促した。

修造は濃いハイボールを煽りやおら立ち上がって駐車場の向こうに通っている夜の高速道路に向かって叫んだ。

馬鹿やろーーーッ

経営者ってなんだ!

経営者ってなんだ!

俺はパン職人の修造だ!

文句あるかーっ!

ーーーー

2時

修造は事務所のソファで目が覚めた。

那須田はもう帰った様だった。

「タクシーを呼んだのかな?」

トントンと階段を上る音がする「那須田シェフ」

ドアが開いた時修造は驚いた。

「修造さん」

「あっ!江川!」

「修造さんすみませんでした。僕もう大丈夫です。それで、パン粉ちゃん、瀬戸川愛莉ちゃんがテレビや取材のない日にお店で働いてくれるって言うんですが良いですか?」

「うん、助かるよ」

修造は江川をめちゃくちゃ心配していたが、江川が自分で乗り切って表情も変わったのを見て心からほっとした。

「俺、心配で」

「すみません」

ごめんなさい修造さん。大変なのに迷惑とか心配とかかけちゃったな。自分で店をするのってこういう「人」の事は避けられないんだ。常に色んなことが起こって、人の入れ替わりも当たり前なんだ。パンロンドが安定感ありすぎてわからなかっただけなんだ。昔は当たり前だった事が全然無くなって、常識を守るっていう意識も薄くなって自由になったんだ。

数ヶ月前の僕はパンの世界のキラキラした物を修造さんと一緒に追いかけていた。

江川はトロフィーを手に取った。

ずっしりと重い。

これを受け取った時の気持ちを忘れないようにしなくちゃ。

「僕もう平気だよ」

江川は久しぶりに工房で仕事をしていた。

一人、また一人と職人がやって来る。

「おっ!江川さん。もう体調は良くなったんですか?」

「心配したんですよ」森田と大坂が声をかけた。

「みんな心配かけてごめんね。僕もう大丈夫になったんだ」

5時

江川の様子を見に1階へ降りた修造は何げなく店の方を見た。

すると

誰もいない暗い店の中で、白い手が5個入りのドリップバッグをひとつまたひとつ掴んだ。

その瞬間修造は走っていってその手を掴んで「お前だったのか」と言った。

「何するんですか修造さん、落ちかけていたから直したんじゃないですか」

「えっ」

修造はやらかしてしまったのだろうか?

そんな事は知らずに和鍵が出社してきて江川に気が付いた。

以前とは何かが違う。

和鍵は江川に近づいて行って顔を寄せて言った。

「うざあ」両手を耳の上にあげてピョンピョン跳ねる仕草をして見せた。どうせ修造に見限られて退職を余儀なくされているんだし、誰に何と思われても構わない。

「そんな風に思ってるの和鍵さんだけだよ。他の人はそんな事思ってないもんね。可愛いのが好きなのも、この性格も生き方も、これが僕の個性なんだ。人にとやかく言われることじゃないよ。僕はこれからも変わるつもりはないし、僕は僕に合う人と付き合っていくつもり。和鍵さん、自分の性格を見直した方がいいんじゃない?」

「なんですって?」

こうもはっきり言われるとなんと言って良いかわからない。

江川と和鍵は睨み合った。

「修造さんに取り入ってるだけのくせに」

「それはそっちも同じでしょう?僕より経験浅いのに偉そうに言わないで。僕前も鷲羽君と編み込みパンで勝負して勝ったんだ。なんなら今やってやるよ。和鍵さんの得意な事でいいよ」

江川は急に和鍵に勝負を挑んできた。

それを聞いていた立花が説明する。

「昇進や昇格試験の時に速さを競う所もあるのよ。包餡やドーナツとかパンの成形とか、どちらが早くて綺麗か。和鍵さん、何にする?あなたの得意な事で良いって」

こないだまで味方だった人達はもうとっくに辞めてしまっていない。和鍵の吹き込みのせいで職場の印象が悪くなったのだから。

和鍵は周りのものに助けを求めた。

「こんなの急に言われても出来っこないわよね。無茶言うわこの人達」

「和鍵さん、私達ここに来て何日か見てたけど、やっぱり人を束ねる人っていうのは悪い方より良い方に導く人だと思うよ。何か貶して自分をよく見せるのは無理があります。結局それって自分に帰ってくるもん」初めは仲の良かった登野にもそう言われた。

「何よ!やればいいんでしょう?じゃあこれ」

と言ってコルネの型を持って来た。

前の職場で何ヶ月間かいた時、コルネの成形が得意だったのを思い出した。

「これを早く綺麗に成形できた方が勝ちよ。そして負けた方はここを辞める」

「良いよ」

2人とも絶対勝ってやると心の中で言った。

「コルネならこの店でも人気のダブルコルネの成形にしましょう、2人ともそれで良いわね」

「ああ、良いよ」

立花は間を取り持ってダブルコルネにして形を競う様に決めた。片方は抹茶クリーム、もう片方はチョコクリームを絞ったパンが引っ付いていて、一つで両方楽しめる可愛くて満足感のあるパンだ。2個組なので普通のコルネより生地は小さくて、その分巻くのは難しい。

数は20個

2個組なのでコルネの生地を40個使う。

「では始めて」立花の合図で江川と和鍵は2人とも生地を伸ばし出した。

一方の端を細く、もう片方は少し太く伸ばし、形の太い方に太い方の生地を巻き始めてクルクルと巻きつけていき、最後に細い所に巻いて留める。

いくつもの数を作っていったが2人とも甲乙はつけ難い。

同じ様に作り進めて行った。

「同じスピードだ」みんな驚いて見ている。

最後に天板に並べる時に急に江川が早く並べ出した。

あっ!

和鍵がまだ並べ終わっていないうちに江川が「はい!僕できたよ」とはっきり言い放った。

その声を聞いてからやっと和鍵は全てを並び終えた。

「初めからふたつをセットで持って並べやすい様に、向きを決めて並べていけばすごく早くできるんだ」

途中から戻ってきて黙って見ていた修造が口を開いた「何度も何度もやってるうちに気がつくことが沢山ある、それが経験値なんだ。そうやって色んな経験値を積んでベテランのパン職人になっていく。普段江川が仕事が早いのは材料を戻すときに次の材料を順に重ねて持ってくるからだ、当たり前の事だけど仕事の中に工夫を重ねることが本物の『時短』だ」

それを聞き終えて、負けた方の和鍵が「いいわよ別にやめればいいんでしょ?」と江川に言った。

「違うんだ和鍵さん、僕達せっかく一緒の職場にいるんだ。僕達修造さんの為に協力してやろうよ。明日からも一緒に仕事してよね」

「えっ」それを聞いて修造は感動していた。

江川、俺は嬉しいよ。

お前の事をみくびってたよ。

お前はきっと素晴らしいパン職人になれる。

江川が勝ったその夜

修造はこの一週間分の店の防犯カメラの録画を見ていた。

今朝は、姉岡がドリップバッグを持っている所を見つけて人気のない店の外で言い争いになったのだ。

「私が持って帰ったって言うんですか?」

「以前も防犯カメラに全く同じ調子の動きが映ってたんだよ」

「私の手って証拠がどこにあるんですか?もし証明できないなら訴えますよ」

「今『手』なんて言ってなかっただろう、『動き」って言ったんだよ」

「どっちでもいいでしょう。私は映っていませんでしたよね」

「姉岡さんって証明出来たら?」

「できません絶対」

という会話があったので今こうして動画をチェックしている。

「うーん、とりあえず姉岡さんが来てる時間に集中しよう」

閉店直後、姉岡はよく安芸川に話しかけていた。

修造はもう一台のカメラを見てみた「こっちはレジ側なんだ、2人はレジ係なんだからやっぱこっちかなあ」」

これは

修造はある会話に気がついた。

そして次の日に姉岡を呼び出す。

「なんの用ですか?今日弁護士の所に行きますから。裁判の準備があるので」

開き直った様にも見える姉岡に修造は言った。

「姉岡さん、防犯カメラに姉岡さんが安芸川さんと話してる会話の内容が撮れてたよ」

「会話?音なんて入ってないんだから会話なんて関係ないですよ」

「そうでもないよ」岡田に教えて貰わなければ音量の事など気にもしなかったのは我ながら恥ずかしい。

修造はちょうど姉岡と安芸川の会話の所を見せた。

『私さあ、デザインの専門学校に行ってた時奨学金を借りてて返済が結構残ってるんだよね』

『そうなんですね』

『だから店の商品を売り飛ばしてでも返済に充てなきゃ』

『そんなことしたら捕まりますよ』

『大丈夫よ、どうせわからないって』

修造は姉岡の顔を見て言った。

「まだあるよ」

と言ってその日のその時間にカーソルを合わせた。

姉岡が安芸川にスマートフォンの画面を見せている。

『これ私が書き込んだのよね、店の評判がさがったら少しは暇になるわよ』

という画面を見せて「これは安芸川さんに裏をとってあるから。俺の事を書き込んだよな」と画面を人差し指でトントンと叩いた。

「家に帰ったら家族に言えよ。裁判中お前がドリップバッグ持って帰ったり職場でペラペラ喋ってる所を証拠の動画で見ることになるだろうってな」

「グッ」

「俺を晒してちょっとは店が暇になって楽になるって?それも言わせて貰うからな」

修造は耐えきれなくなってテーブルをダン!と叩いた「俺の前から消えろ」

姉岡は黙ってドアの方に行き、出ていこうとして振り返り「訴えませんから」と言った。

当たり前だ全く!厚かましい!

修造は岡田に顛末を報告しに降りた。

「こういうのって追跡が大変なので助かります」

「ありがとうな、ほんとに」

「いいえ」

修造は一見クールで何を考えてるのかわからないのに滅茶苦茶頼りになる岡田という青年を心から信頼していた「何かお礼できないかな」

ところで

修造はみんなが働いている工房や店の様子を見ながら仕込みをするのが習慣付いてきた。

和鍵は江川に負けた後もずっと来ている。その次の日も次の日も。そして訴えると言う事は無くなったし、もう江川には以前のような事は言わなくなった。

今はなんと江川が和鍵の面倒を見てやっていて和鍵もそれに従っている。

人の心って不思議だな

それぞれの考えや環境も違う

那須田シェフの言う通りだ

結局みんな人それぞれの理由がある

ひとつひとつ解決していくしか無いんだ。

そうだ

今後の事も考えて

有無を言わさぬ立場にしちゃおう

岡田を店のリーダーにして、江川を株式会社リーベンアンドブロートの専務にするぞ

この店の為に2人で力を合わせて貰おう

修造はそれを印刷して掲示板に貼った。

早朝

「修造さん」

江川が芝生の所にいた修造の所に走って来た。

「何だよ専務」

「ぼ、僕専務ですか?」修造が貼り付けた辞令を持っている。

「そう!頑張ってくれよ専務」

「は、はい!」

江川と2人朝日を見ながら言った。

「まだまだこれからなんだから」

おわり

※サワードゥの種継ぎ 残ったサワー種にライ麦粉と水を足して継いでいくこと

※スリップピール  直焼きのパンを窯に入れる為の道具。シングル布団より小さい物からその半分の大きさの物など大きさは色々ある。パンを乗せた後、奥まで入れてオーブンの入り口の出っ張りに引っかけて引っ張ると中にパンだけが残る仕組み。

43パン職人の修造 江川と修造シリーズ リーブロプレオープン

パン職人の修造 江川と修造シリーズ リーブロプレオープン

新しくお店を構える時

それが初めての時

様々なトラブルが起こる。

そしてそれは大抵お客様の目に入らない裏側で起こる。

あの古びた建物は塗り替えられ、壁紙も床も綺麗になった。棚もテーブルも椅子も、そしてレジ台も整った。

外にはまだ植えたばかりの花が咲いていてドイツ風のタイルと芝もカッコいい。

そんなパン屋

Bäckerei Leben und Brot(生活とパン)がとうとう出来上がった。

江川はリーベンアンドブロートは長いので『リーブロ』と呼んでいる。

ピカピカのオーブンがある工房でスタッフが集められた。

皆真ん中の台の周りに立っている。

江川がみんなに向かって手を上げた。

「はーいみなさん。お仕事の役割を伝えますので修造さんから順に言っていきますね」

皆に役割を伝える為だ。

「田所修造さんが統括、生地の仕込みその他、事務、店舗管理。僕、江川卓也は生地の仕込みと材料管理。立花杏香さん登野里緒さんが仕込みや成形担当。和鍵希良梨(わかぎきらり)さんと平城山妙湖(ならやまみょうこ)さんは成形と仕上げ担当。西森昌也さんと大坂芳樹さんが焼成。そして店のスタッフのレジや品出しは安芸川御世理さんと姉岡志津香さん。カフェ担当の岡田克也さんと中谷麻友さんです」

「よろしくお願いしまーす」

皆江川が面接した経験者ばかりだ。これからみんなでバリバリパン作りをして行くのだ。

今日はオープンに向けて慣れていく為に試運転。

それぞれが与えられた表を見ながら仕事していた。

それを見て修造は心からホッとしていた。

あー

苦労した甲斐があったな。

良い店ができたよ。

ーーーー

「修造さ〜ん」

和鍵と平城山が寄って来た。

「では一緒にブレッツエルにラウゲン液をつけていくから平城山さんは見ててね」

「はい、お願いしまーす」2人は明るく返事をした。

手袋をした和鍵がまずラウゲン液の入った容器に冷蔵庫から出してきたブレッツエルの生地を漬ける、やはり手袋をした修造が液に潜らせてからベーキングシートを引いた天板に並べていく。

それをどんどん作ってラックに差していく。

その後はカットして粗塩をかけたりチーズをトッピングして焼成の担当が焼いていく運びになる。

和鍵は修造にピッタリ寄って液に生地を入れていった。

平城山も修造に近過ぎる距離で見ている。

なんだか狭い「危ないからもう少し離れてね」

「だってシェフの手元をよく見ておかないと」

それはミキサーの前の江川から見ても近過ぎると思った。
「ねえ、もう少し離れないと修造さんが困ってるよ」
江川に注意されて2人からチッと声が聞こえて来そうだった。

「じゃあ平城山さん手袋をして続きをお願いね」

「はーいシェフ」

2人はちょっとだけ江川を睨んでから作業を始めた。

ーーーー

3日後にプレオープンを控えていてその件でNNテレビのディレクター四角志蔵がやって来た。

「どうも修造シェフ、想像を超えた良い店ですね、都心からは遠いですが広くて癒しの空間ができている。外のベンチに座って美味しいパンをのんびり食べてピクニック気分を味わえる」四角は店の入り口に立って周りを見渡した。

「どうも」

「早速ですがこれ」と言って四角は台本を渡して来た。

「俺こういうの苦手で」

「当日は桐田美月とマウンテン山田さんが来て店の外観を案内した後シェフにお話を伺います。もし苦手なら台本は参考程度にして思いの丈を仰って下さい。当日は11時から始まるプレオープンまでに収録を終えるつもりです」

ーーーー

さて、プレオープンの日は直ぐにやって来た。

9時頃、江川が「修造さん、NNテレビの人達が来ました〜」というので外に出てみる。

駐車場に停まった大型車から人が何人も降りて来た。

スタッフに囲まれて芸能人オーラバリバリの美しい女性が立っている。「あの人が」と、修造と律子が同時に言った。

「桐田さんって綺麗ね」刺す様な感じで律子が言って来た。「えっ」全く身に覚えがないのに愛妻からヤキモチを焼かれる。


桐田はすぐに入り口で立っている修造をロックオンした。

前から熱い眼差し、後ろから刺す様な視線を感じて足元が冷たく感じて身震いする。

「桐田さーん」江川も出て来て出迎えて声をかけた。

「シェフ今日はよろしくお願いします」

「どうも」

「江川さん、約束通り連絡ありがとう」

「こちらこそ来てくれてありがとう」2人はニコッと笑い合った。そこに律子が「お世話になります。修造の妻です」と言って来た。

「あら修造さんって結婚なされてたのね。オホホ存じませんでしたわあ」

と言ったが後で江川に聞いた「ねぇ、なんでシェフは結婚指輪をしてないの」

「だって生地に引っ付いて抜けると困るから」

「そうなのね、全然知らなかったわ」

ーーーー

さて、撮影が始まった。

マウンテン山田と桐田が駐車場の入り口から駐車場が広いとか花が咲いてて綺麗とか説明しながら建物に近づいて来る。

スタジオではみんなが見ている画面に「パンの世界大会の覇者のお店リーベンアンドブロート」とか画面に大写しにされているのだろう。

マウンテンがやっとこっちに辿り着いた。修造と江川が入り口に立っている。

「はい!こちらが世界一の男!田所修造シェフと助手の江川卓也さんです!シェフ、いい店ですね〜」マウンテンが話しかけた。

「どうも」修造は前で手を組んで丁寧に頭を下げた。

「早速店内を見てみたいと思います」マウンテンと桐田が順にパンを見ていると「修造さん」と販売員の中谷がこっそり言ってきた「これ」

見ると自分の造作した棚の端が外れて落ちかけている。

修造は声を出さずに思い切り目を見張った。

中谷が力を込めて棚が落ちないように持っていたので慌てて自分が後ろ手で持つ。

身体をカメラの方に向けたまま立っていると、桐田とマウンテンが店内を一周してカフェの所に座った。

そこに用意したパンの乗ったトレーを修造が持っていく事になっていたらしく、スタッフが渡しに来た。仕方ない!修造は四角に目配せして棚を少しだけグラグラして見せた。

今度は四角が慌てて代わりに持ってこっそり言った「シェフ出番です」

手が離れた修造は急いでトレーを持って2人にパンの説明をしに行った。

「このお店のこだわりは何ですか?」

「この店でお勧めしたいのはドイツのパンと前にいた店のパン、大会で作ったパンなどが並んでいます、これはブレッツエル、そして自分がNNテレビさんの番組に出てる時に考えたスパイシーなカレーパン、そして」と言って振り向くと江川が黒いパンにチーズを格子状に乗せたパンとゼリー寄せを用意しているので、修造がパンを開くとさっと江川がゼリー寄せをカットして素早く間にはさんだ。

「どうぞ」と言ってテーブルの2人に出すと「おーっ」と声が出た「これは何でんのシェフ」

「珍しいパンですね?ゼリー寄せ?」

「カフェ専用のパンなのですが、これは何種類もの野菜を使ったゼリーで昆布と鰹の出汁を使ったタルティーヌです」

「あ!ほんまや!出汁の味がするわ」

「パンも美味しいです、この黒いのは何ですの?」

「こちらは竹墨を使っています、焼きたての薄いパンに急いでチェダーチーズを乗せています」

「へえ〜変わっててほんで美味しいなあ」

「本当にどれも美味しかったですわシェフ」

とそこで一旦カットになったので麺棒を持ってきてつっかえ棒にして棚を支えた「ふ〜重かった」

「すみません四角さん」自分で作った棚が外れるなんて恥ずかしい。

「いえいえ、音が立てられなかったんだから仕方ないですよ」

「後で自分で直しておきます」と麺棒の横にパン箱を差し込んで棚を支えた。

「さ、次は江川さんの番なので先に撮っていきましょう。江川さんお願いします」

江川も2人に修造の作ったパンについて詳しく説明した。受け売りでは無い自分の言葉で説明している、そんな江川を店員に紛れてお手伝いに来ていた小手川パン粉が微笑ましく見ている。

「パン粉ちゃん」江川がパン粉を呼んだ「実はパン粉ちゃんにも駅前のチラシ配りや今日のお手伝いもかって出て貰いました」

「あ!意外なところにパン粉ちゃんやん」マウンテンはさっき挨拶したのに知らなかった感じで言った。

「こんにちは〜パン粉で〜す。最近のパン粉のお気に入りはリーブロなんですが、江川職人とはテンションが合うんです」

「パン粉ちゃんから見てこのお店はどう?」

「頑張ってパン作って、お店作って、お客さんが喜んで、素晴らしいじゃないですかあ。特にこのお店の凄いところは修造シェフと江川さんって世界大会にでてこの店でもタッグを組んでるんです、そのパンをここに来るだけで食べられるなんてなかなか無いと思います、今日お勧めしたいのはドイツで修行してきたパンとパンロンドのパン、世界大会の3つの流れが楽しめる所なんです。それって修造さんが江川さんの為に考えて、修造さんと江川さんのパン作りの歴史を辿ったものなんです」

「へええ〜」桐田とマウンテンはパン粉のリーブロへの思い入れに対して感嘆の声を上げた。

長尺だったがパン粉が熱く語ったのをカメラでバッチリ撮っていた。

さて

撮影も終わった頃、工房の中からボールや麺棒が落ちた様な音が聞こえてきた。

ガラガラバーン!

「なんだ?」修造が見に行くとオーブンの前で西森と大坂が摑み合いの喧嘩をしている

「やめてやめて!どうしたんだ一体」

「こいつがパンを焼くタイミングが遅くて」

「お前が速いんだ!まだ発酵してないだろ!」

その理由で掴み合いの喧嘩になるのか?

「とにかく落ち着いて」

「もういいです!こいつとは仕事できません」西森が2階に上がった、きっと帰る為に荷物をとりに行ったんだろう。

「私見てきますから」立花が追いかけて行った。

修造は大坂を店のテーブルに座らせてコーヒーを飲ませた「みんな前の店のやり方があるんだな、この店のやり方とかまだ身についてないから揉めたんだよ」

「すみません、カッとなって」大坂ががっくりパワーダウンしてきた。

「俺、すぐカッとなるんです」

「うん」

「前の所でも喧嘩して」

「それで辞めたのか」

「はい、でも折角入ったリーブロ、俺辞めたく無いです」

「うん」

ところで今パンを焼く人間がオーブンの前にいない。

「撮影は江川に任せて俺がパンを焼いてくるから落ち着いたら戻ってきてね」

「はい、すみませんでした」

そこへ立花が戻ってきた「あの」

「うん」

「引き止めたけど帰ってしまいました。もう来ないかもしれません。力及ばずですみません」

「立花さんが悪いんじゃないよ。忙しい時にごめんね、後で電話してみるよ」

「はい」

「予想もしない事ばっかり起こるな」そう思いながら修造はどんどんパンを焼いていった。

ところでまだあの争いは起こり続けていた。

芝生のところで子供達とボールで遊んでいる律子と待機中の桐田の目が合った、お互いに会釈したが目は笑っていない。

「私、男の人は自分の事だけ見てくれなきゃと思うわあ」

横に立っていたマウンテンは桐田の言葉を聞いて、なんかバチバチになっとるで、奥さん平凡そうやけど気がキツそうやし、あの気位の高い桐田美月がこんな顔するなんてシェフも罪作りやなあ、それにしてもどこがええねん、いつも遠くばっかり見て!どこ見とんねん。

そうや前や!真っ直ぐ立って前だけを見て生きとるねん。ちょっとも他所見せえへん、そこが惹かれるんかもなあ。

「そういえばね、桐田さん。僕以前パンロンドでロケやった時に奥さんの作った料理を目隠しで当てるっちゅうやつをやった時、シェフが奥さんの為に必死で当てにいってたのを思い出しましたわ」と言った。

「え、すみません見ていなくて」

「そんな2人を見て、やっぱ今までずっと支えてきはったから絆があるんやなあと思いましたわ」

それには桐田は返事をしなかったが、十分に説得力があった様にマウンテンには見えた。

「さ、僕らは僕らの場所へ帰りましょか」

「そうね」

2人はリーベンアンドブロートから遠ざかりながら話した。

「僕の方が独身やしええ男やのに」

「バカね」

「バカやないねんアホやねん」

「フフ」

ーーーー

ロケ隊が帰った

11時からは本格的に招待客が来る。

大坂はしばらくすると窯の前に来て「すみませんでした」と言って修造と一緒にパンを焼き出した。今度は修造の焼くタイミングをよく見ていた。

「修造さん、今日遅番だった登野さんが体調悪くて来れないと連絡ありました」

「わかった、江川、登野さんのポジションに行ってくれない?」

「わかりました」江川は早速冷蔵庫からバターを折り畳んだ生地を出してきてパイローラーで伸ばしてそれを長い三角にカットして成形を始めた。時間が押している、なるべく素早くやりたい。

和鍵と平城山は同じ台の上で作業していた。2人は気が合うのかおしゃべりしながら成形している。もう2人も欠けてるのにこの呑気さはなんだろう。目の前にいてる江川には不思議な光景だった。

「あのさ、お話をしたらいけないとは言わないからもう少し早く手をうごかさないと、ね」結構優しく言ったつもりだったのに2人の表情は急に引きつってそれ以降何も話さなくなった。

江川は急いでデニッシュとクロワッサンの成形を済ませてホイロへ入れた後、本来の自分の持ち場に戻りミキサーで生地を捏ねだした。

あの2人は江川を見ながら何か言っていた。

ーーーー

11時になった

開店当日さながらにパンが並び、招待状を出した人達がやって来た。

「よう修造」

「大木シェフ、鳥井シェフ、どうも」

「良いパンが並んでるじゃないか」

「ありがとうございます」

「落ち着いたらゴルフに連れて行ってやる」

「ゴルフ、、俺やった事なくて」

「俺が教えてやるよ。道具も貸してやるからな」

「大木は修造とゴルフに行きたいらしいよ」と鳥井が大木をからかった。

「フン!また連絡するからその時は来てくれよ!他所のシェフが集まるコンペでお前を紹介するからな」

「はい」

招待客が外に並んだ、

新しい店のオーナーが挨拶するのを聞いている。

まあ、話すのは修造なので「どうも、この度は、あの、ゆっくりしていって下さい」で終わりだったので、代わりに大木が皆に挨拶して、修造のプロフイールについて話していた。

修造が挨拶しに来た基嶋機械の後藤と話している間に、パンロンドの杉本や藤岡達4人を見つけた江川が走って来た「みんな久しぶり~」

「今日来れなくてごめんねって奥さんと親方が言ってたわよ」と風花が言った。
「仕方ないよ今日定休日じゃないんだし、さ、お店に入ってパンを選んで!パン粉ちゃんを紹介するね」

「え?パン粉ちゃん?」みんなの目にはパン粉は江川にとって特別な存在に見えた。江川の隣に立って時々目が合うとお互いにニッコリしている。

「とっても気が合うんですねパン粉ちゃんと」

「うん、そうなんだ藤岡君、今度の休みもパン屋さん巡りに行くんだ」

「楽しんできて下さいね」

「うん」

4人がパンを選んでいると修造がやって来た。

「修造さん、素晴らしいお店ですね、いいパンが並んでる」

「今日、パンの発酵の事で喧嘩が起こったり欠員があったりで江川にも忙しい思いをさせたけど頑張ってくれたおかげで助かったよ」

「発酵の事で喧嘩するなんてあるんですね」

「なまじっか経験者が多いから自分の意見を通そうとするんだろう、その内ここのやり方がお互いに定着するんだろな」

「もうすぐオープンですものね、力を合わせて頑張って貰わないと」

「俺も気を配るよ。帰った方も明日来るってさ、当分は日をずらして別々に教えていくよ」

ーーーー

昼すぎ

いい天気で時々爽やかな風が吹き抜ける。

藤岡達はそれぞれ選んだパンとコーヒーを外のテーブルに持っていって食べていた。

「美味しい~このクロワッサンパリパリだあ~」

「このタルテイーヌも最高!」

「俺さっき江川さんにゼリー寄せのパン作って貰った」

「あ、龍樹!半分こして、それ食べてみたかったやつ」

「オッケー風花」

仲良くパンを分けっこする杉本と風花の向かいに座って、隣の藤岡に聞いた。

「あの」

「何、由梨」

「さっきの発酵の事で喧嘩が起こったってどういう意味でしょうか」

「そうだな、パンを焼くのにも範囲があるんだ」

「範囲」

「そう、成形が終わってホイロに入れた時の状態から過発酵までの間で丁度いいところで焼く、その範囲の事だよ」

由梨はそう話す藤岡の顔をじっと見ていた。

「例えば菓子パンなんかは焼く前にパンの端を少し押してみると、丁度いい時は指の跡が少し残るんだ。まだだとすぐ戻るし、行き過ぎてると潰れたままになる。食パンなんかは型の8割まで発酵させて窯に入れるんだけど早過ぎると角が丸くなり過ぎるし過発酵だと上がり過ぎてケービング(腰折れ)してしまう」

「そんな事で喧嘩に」

「ま、多分『範囲』の基準が違ってお互い許せ無かったんだろうな。凄く微妙な事と思うけど」

「はい」

「今度焼くときに実際に見せてあげるよ、慣れてくると見たら分かる様になるから」

「はい!」由梨はにっこり笑った。

それを見ていた風花が「ちょっとちょっと龍樹」とパンを頬張っている杉本を引っ張ってこっそり言った。
「あ?何?風花」

「あっち行こうよ」

「え?なんでよ」

「だって由梨ちゃん達いい雰囲気じゃない?」

「そうかなあ」

その時丁度近づいてくる風花達を見つけて店の中から修造が手を振りかけた。

「あ」

その後ろの駐車場から歩いてくる3人に気がつき「鴨似田フードの奥さん!」と小声で言った。

以前藤岡のイケメンぶりに惚れ込んで連れ去ろうとした人だ。

鴨似田夫人はいつものお付きの2人を従えてこちらに向かって歩いてくる!

少々破天荒な人なんだ
改心したとはいえ会えばどうなるかわからない!

修造は自分に視線が来るように「鴨似田の奥さーん」と手を振りながら走っていった。

「あら、修造さん。先日は本当にご迷惑をおかけ致しました」

「いえ、あのう、開店に先駆けてご協力ありがとうございました。本当に感謝しています。さあ店内へどうぞ」とお店に案内してから藤岡に隠れろと合図した。

藤岡もそれに気がついて咄嗟に建物の裏手に隠れた。

「修造さん、今日はあの方はいらっしゃいませんの?」

「はい、いませんいません全然いません」修造は手を左右にプルプル振った。居てると言ってるようなものだ。

「お渡ししたい物があったんですのに」

「旦那さんに叱られますよ」

「大丈夫と思いますわ」

自由すぎる鴨似田夫人は例の手下2人に周辺を探させた。どちらにせよもうすでに招待客がSNSに載せていたプレオープンの挨拶に藤岡が写り込んでいたか調べてあるのだ。

裏手に回って隠れていた藤岡とそれについて来た由梨は足音に気がついた。

「藤岡さん、こっちです」そう言って掃除用具の入った小さな物置に入った。

由梨が戸の隙間から覗くと男2人が素早く通って行った。

「何故探すのでしょう?」

「以前俺のことを気に入って攫おうとしたのはあの人だよ」

「あの人が」

すると藤岡が由梨の腕を掴んできた。

えっ?藤岡さん?

ひょっとして

献身的に過ごしてきた由梨の思いがついに通じたのか?

ドキッとして由梨は振り向いた。

「怖い、無理」

「え」

藤岡は暗いのが怖くて震えている。

飛び出したい気持ちを抑えて必死の藤岡を見て由梨はキュンとした。

可愛い

「昼間だし怖くないですよ」そう言って両手を握った。

「ゆっくり息を吸って、吐いて」

藤岡は子供のように言われた通り息をゆっくり吸って吐いた。

「由梨」

少し落ち着いてきた、そう言おうと思った時扉が開いた。

「見つけましたよ、藤岡さん」

ーーーー

藤岡はベンチに座って優雅にお茶している鴨似田夫人の前に連れてこられた。

「藤岡さん、こんにちは」

藤岡は何も言わずにその場に立っていたので修造が説得した。

「奥さん、あの後反省してたってメリットストーンの有田さんに聞きましたけど」

「はいその節はすみませんでした」

「じゃあなんで」

「お渡しして」鴨似田はお付きの男に合図した。

「こちらどうぞ」

藤岡は箱を持たされた。

「これは?」

「はい、それで洗うとどんな足の匂いもスッキリ爽快になる石鹸ですの。フランスから取り寄せました、足りなくなったらまたおっしゃって下さい」

その瞬間藤岡が修造を睨みつけた。

以前藤岡に入れ込んだ鴨似田夫人の熱を下げる為に「藤岡は足が臭いし性格も悪い」と吹き込んだことをまた蒸し返えされたのだ。

折角収まった怒りがまた込み上げてくる「クッ」

立場無く修造が「あれは違うんです、あれは俺がその場しのぎで口から出まかせを」

「あら、そうなんですの。私てっきり悩んでらっしゃるのかと思いましたわ」

「それなら心配ありません。足も臭くないし性格は凄くいい方です」誤解されたままだと気の毒なので由梨が突然割って入った。

「この方はどなたですの?」

「俺の」

俺の?みんなが藤岡を見た。

とその時

「修造さーん」

立花が店の中から呼んでいる。

「どうしたの立花さん」

「エスプレッソマシンが調子が悪いそうです」

「すぐいくよ」

そう言って鴨似田に頭を下げて「すみませんちょっと見てきます」と言って走って行った。

由梨は『俺の』の続きが気になって振り返って藤岡を見た。

「え」

さっきまで立っていた藤岡は急にベンチに座り込んで店の方を見ていた。

そして少し下を見たまま黙り込んだ。

鴨似田達は違和感を感じたが由梨にそんなに興味がなかったのか「それではこれで」と言って駐車場に向かった。

「由梨ちゃん」風花が話しかけてきた。

「はい」

「龍樹がそろそろ帰ろうって」

その言葉に促されて4人で歩き出したが藤岡は考え事をしてるのか心ここにあらずでただ歩いてるだけになってしまっている。

さっきまでの藤岡とはまるで別人だ、それはあのお店から顔を出した女の人を見た時から?

「立花さんって言いましたね」由梨は試しに名前を言ってみた。

関係ないなら無反応、もし的を得てたら藤岡がずっと探していた女性だ。

「うん」

「そうなんですね」

帰りの電車で由梨は杉本と風花に、藤岡は調子が悪いのだと言って座らせた。

あの人が

とうとう見つけたんだわ。

こんなに心を支配されるぐらいの存在なんだわ。

由梨は吊り革につかまって藤岡を見ていた。

ーーーー

エスプレッソマシンは故障とかではなく、挽きが細かすぎて抽出が遅いせいだった。

全員がまだ慣れていないので仕方ないが原因がわかればなんの事はない。

「粉を挽く荒さを調整する事で解決だな」ほっとして外に出るとみんな帰っていていない。

「もう夕方だもんな」

そう言って帰路に着く招待客に丁寧に挨拶していった。

「修造シェフ」駐車場から呼ぶ声がする.

「はーい?」

「車の鍵が見当たらないんですの」
パン好きビクトリィの会長横田元子が車の周辺をキョロキョロ探している。

「鞄の中では?」

「違うようです」

見ると鞄の中身がぶちまけられている。

「俺、店の中を見てきます。」

「すみませんシェフ」

修造は誰かがキーを蹴っとばしたりしてないかと這いつくばって探した。

「店の中じゃないのかなぁ」

一応皆んなが片付け中の工房も見てみる「ないなあ、車の鍵知らない?」

「見ませんでした」「見ませんでした」と皆んなに言われる。

じゃあ外か、、、

「横田さん、見つかりましたか?」

「まだなんです」

「何れかのテーブルに座られましたか?」

「はいそこのテーブルに」

ひょっとしたらこの近くの芝の中か?

手の平で丁寧に探してるうちに腰が痛くなってくる「イタタ」

「すみませんシェフ。こんな時にお願いが」

「なんでしょう」

「今度シェフの独占インタビューをさせて頂けませんか?」

「はい、良いですよ。喜んで」と言ったが自分の事を話すのは苦手だ。

その後なんだか気が重くなって何も話さなくなっていく。

黙ったまま探す範囲を拡大する。

江川が来た「ねえ、何やってるんですか?」

「横田さんが車の鍵を無くされたんだ」

「僕も探します」

江川は何故か横田の近くで探し出す。

「横田さんって凄い超有名人ですよね」

「いえいえ大した事ないですよ」

「いつもテレビ出てますよね、僕休みの日はお昼の番組のパン屋紹介のコーナーチェックしています」

「私のコーナーね」

「そうそう」

「長い事コーナーを維持するのって大変なのよ。でもこうして良いお店ができて自分の紹介したものを観て色んなお客さんが来てくれるとパン屋さんの為になるしパンを買った色んな人が喜んでくれるの」

「あ、それパン粉ちゃんも言ってました」

「パン粉ちゃんと仲良しなのね」

「はい!とっても」

「そう、今度ここの紹介をする時にパン粉ちゃんをゲストで呼べるか聞いてあげる」

「え!ほんと?パン粉ちゃーん」江川が店に向かってパン粉を呼ぶと、パン粉がパンの袋を持って出てきた。「江川職人!これ誰か忘れて帰ったよ」持って走ってる途中、ガサガサとパンの袋の下の方で重いものが入っている「何これ?」袋から取り出したのは車の鍵だった。

「あ!」

「それ」

「私のパン!」

「見つかった〜」と3人が叫んだ。

もう薄暗い駐車場、車の中から横田と送ってもらえる事になったパン粉が「じゃあまた」と挨拶した。

「シェフ、本当にすみませんでした。近いうちにインタビューにきますね」と横田が何度も頭を下げた。

「どうも」

「またね」

と2人も見送った。

ーーーー

やっと片付いて職人たちはみんな帰った。

大地はベビーカーの中でぐっすり寝ていてその横で緑は絵を描いていた。

小さな緑にとって新しい店はまるでお城の様だった。

素敵

お父さんは王様みたい
じゃあお母さんはお妃様で

ってことは私はお姫様ね。

少々厚かましいが夢見る少女はこの建物が大のお気に入りだった。

その光景を見ながら愛妻の律子が「修造お疲れ様、今日大変だったわね」と労った。

「律子も疲れただろ?」昼間外れた棚を修理しながら愛妻に返事した。

「平気よ子供達と遊んでただけだったし」

あの女優も帰っちゃったし、何事もなくて良かったわ。

律子はホッとしていた。

「さあ、私達も帰りましょうか」

「うん」

もうすぐ本当のオープンだ

そして修造は今日のバタバタなんて大した事なかった。

そう思う日が来る。

おわり

42短編小説 OLのお菓子

バレンタイン特別短編

このお話は2021年1月末から2月14日までの間Twitterで書いていた、チョコとアツのお話をリメイクしたものです。期間も短く、140文字ずつでしたが楽しかったです。



最近はオフイスレデイという言葉はあまり聞かなくなってきましたがここでは主人公の事をOLと言わせて頂きます。

だってOLの机の中にはお菓子と恋の秘密が詰まっていそうなので。





OLのお菓子

西口千洋子(にしぐちちよこ)は今日は久しぶりに目覚めが良かった。

千洋子は商社に勤めて7年目になる

最近は自分の仕事と中途採用で入ってきた後輩の早田敦(はやたあつし)の面倒を見ていて忙しくしている。それでも早田敦は仕事を覚えるのが早くて楽になってきた。

今は敦のミスを防ぐ為に陰ながら見守っているところ。

実家暮らしの千洋子はパン好きで、出勤時には昼食の為のパンを東南駅の近くのパン屋『パンロンド』で買っている。

今朝は店内の焼き菓子コーナーの前で悩んでいた。

*クロッカンは昨日渡したし、ジンジャークッキーはその前。

今日は何にしようかな。

そう思ったがポルボローネとプレッツエルをトレーに乗せてレジに向かう。

お会計が済んだあと、パンロンドの奥さんは千洋子にチラシを渡しながら

「もうすぐバレンタインデーだから良かったらこれ」と笑顔で言った。

「はい」

千洋子は電車の中で貰ったチラシを見た。

『バレンタインメッセージ入りハートパンあなたの気持ちをメッセージに込めてみませんか?』と書いていて、真ん中にはハート型のパンの写真があって、「あいしてる」と書いてある。

申込書だったのね、、

メッセージをパンロンドの職人さんがパンに書いてくれるらしい。

「どうせ渡す人なんていないわ」

自分には関係ない、そう心の中で呟いてコートのポケットに入れた。

ーーーー

「はいコレあげるわよ」

昼時、パンを食べた後、千洋子は朝買ったポルボローネを敦に渡した。

「え? なんだよ俺にくれるの?ひょっとして俺のこと好きなの?」

敦は振り返って言った。

敦の後ろが千洋子のデスクなので敦はよく用もないのに話しかけていた。

「別に、、、 そんなんじゃないし」

と千洋子は冷静な感じで答えた。

「この軽いお菓子は何?クッキー?」

ポルボローネの軽さに驚きながら敦にそう聞かれて、千洋子は値札に書いてあった説明文を思い出しながら言った。
「ポルボローネってスペインの祝い菓子なんですって、口に入れて溶けるまでに『ポルボロン・ポルボロン・ポルボロン』と3回唱えると願いが叶うそうよ」

「へえ!やってみようよ」

敦は丸くて白い小さなポルボローネを口に入れて祈るポーズをしてみせた。

その後目を開けて千洋子の顔を覗き込みながら悪戯っぽく笑った。

「うま、これ」

「ここのパン屋さんはハズレがないの」

「へ〜」

そこで会話が途切れてしまった。

千洋子は敦にそっけないが、いつも敦がミスをしない様にさりげなくサポートしてくれる。

時々千洋子が敦の机に置いてくれているクッキーには付箋が貼ってある。会議は何時からとか何時にA社に電話する様にとかそんな事でも入社して間もなかった敦にはありがたい事だった。

ーーーー



俺は知っている 。

俺のデスクの後ろに座ってる西口さん。

振り向くといつも目が合うんだ。

だからわざと1日に何度か後ろを振り向いて見る。

俺は知りたいんだ

口調は冷静だけど 態度のやさしい彼女

いつも陰ながら仕事のミスを 防いで貰ってる

知りたいんだ どんな所から来て

どんな生活をしているんだろう。


「西口さん」

「はい」

「いつもお昼に食べてる パン美味そうだね。どこで買ってるの?」

「うちの近所のなの東南駅の近くにあるのよ。この前パンが好きって言ってたから今度買って来ようか?」

「え! マジ? 嬉しい!そう!俺パン好きなんだ」



ーーーー


千洋子は通勤の為にいつもの道を歩いていた。

家の前の道は人気がなく駅に向かって歩いてるうちにどんどん人が増えて来る。

他の人に紛れて個性なく歩くうちに諦めの様な気持ちが強まることがある。

朝起きて仕事して帰って また朝が来て

そうしてるうちに いつのまにか忘れていたけど

今朝はパン屋さんで

誰かの為にパンを買う

その人の顔が浮かんで 何が好きか考える

そんな気持ち また思い出した。

「以心伝心ってあるのかなあ!すごい西口さん!
何で俺の好きなもの全部分かったの?」

「だっていつも お惣菜のパン、ハード系のパン、甘いパンの順番で食べてるもの」

2人は食堂に移動してコーヒーとパンを食べながら話した。

「私のうちの近くには商店街があってその先には東南神社があるの。神社の裏の公園で 小さい頃よく遊んでた。このパンは朝、駅に行く途中の パン屋さんで買ったの」

「へ~ 今度俺も行きたいよ! 案内して!」

「いいけど」

「じゃあ今度の休みの日にね」

ーーーー

初めて外で会って 近所のパン屋さんへ

「私ここのパンをパンロンドが出来た時から 食べてるの」

「へぇ~ 良い匂いがするなぁ~!ここ絶対美味いでしょ!」

敦は店に入ってすぐに大きな声を出してパンの香りを嗅いだ。

パンロンドのベテラン販売員の風花が「ベーコンエピ焼きたてでございまーす」と言いながら敦に見える様にトレーを持って歩いて来た。

「うひゃ〜〜!これが良い!」

敦がトングでアツアツカリカリのベーコンエピをトレーにのせた。

その後出てきたショコラクロワッサンもトングで掴もうとしたので

「そっとね!」と慌てて言った。

「あ!そうそうソ〜っとね」と言いながらトングで触れる程度の力で薄い外側の部分を壊さない様に掴んだ。

その後あれもこれもトレーに乗せてしまい、千洋子が驚くほど買って店を出た。

「さっきのお店に座る所がなかったから家行っていい?そこでパン食べようよ」

「えっ?いきなりうちに来るの?ダメよ」

家の者が驚くというより自分自身が緊張する。

「近所の公園でいいじゃない」

「え〜じゃあまた今度行くね。今日は公園ね」

千洋子に断られて仕方なく公園に向かう。

お昼前、天気は良いが時々北風が吹く東南神社の裏にある公園に行き、端の方にいくつかあるテーブルまで近寄って行った。

木のテーブルを挟んでベンチが置いてある。

そこに向かい合わせで座って敦は早速パン屋の袋を開けた。

「うわ〜美味そう!」

「本当に美味しいのよ。はいこれ」

千洋子にウエットテイッシュを貰って手を拭きながら「今日は嬉しいな」

と子供の様に微笑んだ。

それを見て気後れする。

何年か前にいつの間にか置き去りにしてきた気持ちを自分の中に取り戻していいものかどうか迷う。

だけど

何気ない会話が楽しい



2人で食べたベーコンエピ

これって麦の穂の形なの

一つ一つを外しながら 分けあって

ブラックペパーが効いてて美味い!

尖ったところがパリパリね





私小さい頃 チョコって呼ばれてて

チョコデニッシュを食べる度に

その事を思いだすの


あまり人のいない公園

思い出話



「俺は小さい時アツって呼ばれてたよ。今度からチョコって 呼んでいい?」

「良いけど、恥ずかしいわ」

「チョコって呼ぶのが?」

「ええ」

「じゃあ俺の事はアツって呼んで良いよ」

「職場以外でね」




続いて敦は今度はジャンドゥーヤを袋から取り出した。

「ジャンドゥーヤってチョコとヘーゼルナッツの混合でね、これは上にジャンドゥーヤと※プラリネが乗ってるチョコデニッシュなの」



敦は千洋子の話をニコニコして聞いている。

会社と違って新鮮な気持ちがする。

パン屋さんの袋にの下の方に、またあのメッセージ入りハートパンの注文書が入れられていた。

「なになに?愛してるだって?」
敦がその紙をシゲシゲ見ている。

「これはパン屋さんで 配ってるもので2月の初めにお店に並ぶって書いてあるわね」

「へえ〜!見てみたい!2月の1回目の休みの日にまた行こうよ!」

ーーーー

敦はまた会う口実にあのパン屋に行く約束をした。

一人暮らしのワンルームマンションで、今日買ったハートのステンシルで模様をつけたカンパーニュを切ってみた。チーズを乗せてトースターに入れ、焼けるのをじっと見ながら考える。

チョコが俺の事を好きなんじゃないかって確かめるために

わざと「俺の事好きなんじゃないの?」 って 聞いたんだ。

そしたら「別に」 って 返事が来たんだ。

俺は知りたいんだ。

アツって呼んで良いのかしら


楽しかった 

公園で食べたパンと

まさか子供の頃遊んだ公園で

あんな風に自分の話をして

キラキラした目で私の話を 聞く人がいるなんて

「西口さーん」

新入社員の中田が食堂で話しかけてきた。

はっきりとした顔立ちに綺麗な髪色が羨ましい。

「何? 中田さん」

「もうすぐバレンタインですね」

「そうね」

「昨日大量の友チョコを作りました〜」

「友チョコ、、、それはお疲れ様」

「今年はチョコクッキーの詰め合わせにしました。勿論西口さんの分も用意してありまーす」

「え?それはありがとう。私も用意しておくわね」

「本当ですか!楽しみにしていまーす。あ、でもぉ早田さんにはどうしようかなあ。。」

「え?あげればいいじゃない?」

「あの人軽くないですか?西口さんにも頼り切ってる感じだし」

「え」
アツがそんな風に思われてるなんて、、

千洋子は困って「あの人初めは要領がわからなかったみたいだけど最近は頑張ってるわよ。同じチームなんだし、ね」と、やや説得口調で言った。

「えー、、分かりました。おんなじチームなんだしですね」

そうよ。アツにだけ渡さないなんて気の毒な。
千洋子はアツの肩を持った。

アツは

軽いんじゃないのよ
私が明るいタイプではないから
場が暗くならない様にしてるだけ

頼ってるんじゃないの
私がついアツの事を考えてしまうから

だから差し入れだって付箋のメモだって
私がしてる事に応えてくれているだけ

2月の始めの金曜日

オフィスにて アツが後ろを振り返り

あのチラシをヒラヒラさせて 口パクで何か言ってきた

チョコ! 明日は休みだ

行こう あのパン屋さんへ

千洋子は誰にも気付かれない様に 小さく頷いた。

店に入るとすぐに メッセージが描かれたハートのパンが置いてある

THANK YOU
大好き
LOVE
感謝
ありがとう

アツは文字の書いてあるハート型のパンをじっと眺めた

これは

夢のようなパンだ

注文者の気持ちを端的に貰った相手に伝える事ができる

いつもこんな風に思ってくれてたんだ、そんな風に。

アツは

「チョコはどれをくれるのかな~」

と言ってみた

最大限わざとらしくなく

自然に

千洋子もじっとパンを見ていた

こんな時 テレパシーみたいなものが あればいいのに

メッセージが入れられる

あのパンの事は知ってたわ

どこかの誰かが誰かに渡すもので

自分には関係ないと思ってた

今日初めてまじまじ見た

もし自分がアツに渡すなら

どんな文字のものを選ぶの

2月になってバレンタイン前のパンロンドは大忙しだった。

由梨は可愛い文字が書けるのでハートパンにうまく文字を入れていった。

「由梨、上手いね、見やすくてスッキリしている」

「ありがとうございます」

藤岡に褒められてちょっと照れる由梨だった。

メッセージの内容は様々で、子供の名前や旦那さんや彼氏の名前。

お母さんと子供がパパにあげる言葉を選んでいる時は微笑ましくてほっこりする。

2人にしか分からない合言葉などもある。

「ねぇ藤岡さーん」


「なんだよ杉本」


「俺も風花に頼もうかなあ。大切な龍樹、あなただけが好きよ。とかどう?」


「そんなに文字が入れられるのか?」


「いけるよね?由梨ちゃん」


「はい、なんとか」由梨は苦笑いしながら答えた。


「それって風花がメッセージを考えるんじゃない?」藤岡にクールな表情で突っ込まれて「他にもいてるんじゃない?長セリフの人」と杉本がメッセージ一覧を覗きに来て驚いた。

え?

「ねえ藤岡さーん」

「何だよ」

「これ変わったメッセージですよね?」

「本当だ」

「短けー」

2人は由梨がチョコクリームで書いている注文のメッセージの中にあった、一際変わった言葉を見て色々推測した。一体この言葉にはどんなロマンチックな意味が込められているのか?

2月14日夕方
この日は平日だった。

チョコはアツとの約束通りパン屋さんでパンを受け取り近くの公園で渡す為にパンロンドにやって来た。

この間来た時よりもハートのメッセージパンは沢山並んでいて、前回はなかったメッセージのものも並んでいる。店内には注文した人達も受け取りに来てレジの前に列ができている。

千洋子もトレーを手に取りハートパンの前に立った。


たった5文字の言葉でも

こんなに意味を含んでるのね

もし私が ありがとう

を選んだら 同僚の1人に戻ってしまう

後ろの席に座って 同じ空間で仕事している人





LOVE なんて柄にない

中田さんなら 似合うかも

恥ずかしいな

大好き はどうなの

それは どうなの





その時 チョコの心の中に

自分を見つめる アツの顔が浮かんだ

真正面から向き合ってくれた

アツに自分も応えなきゃ

チョコはひとつのハートパンをトレーにのせた。


これ下さい。


ーーーー


「アツ」

約束の公園に立って、入り口から走って来たアツに合図した。

「チョコ、遅くなってごめん』

「私も少し前に来たところ、、それであの、これ」

アツにハート形のパンを渡した。

「2人で行った時は並んでなかった大きなハートのパンがあったの」

アツはパンに描かれた メッセージを見て 微笑んだ

今日は千洋子もアツの顔を 前から見て微笑んだ



愛してる


「ありがとう。俺からもあの後パン屋さんに戻って 頼んだ文字があるんだ。パン屋さんがビックリしてたけど」

2人はコレを見て笑いあった

やっと2人の心がピッタリ合った


「ポルボローネの願いが叶ったな」

そう敦は千洋子に言った。





おわり



アツはバレンタインデーの前の日にパンロンドに来て「俺も」と描いたハートパンが欲しいとお願いしました。
パンロンドは言われた文字は引き受ける! 
おまかせください!

アツは考えました。俺と言う文字はなんというおしゃれさゼロの漢字、、、そこでカタカナの方がしっくりくるなと思ったのです。アツはチョコが義理っぽい文字を選んだらどうするつもりだったのでしょう? その時は丸めて口の中にほりこんで食べてしまうつもりでした。愛してるで良かった。ハッピーバレンタイン。

この話は2021年の2月にパン屋のグロワールのTwitterで発表したお話を小説に書き直したものです。あの時は2月14日にぴったり終わるように毎日140文字づつ書いていきました。そのお話の雰囲気を大切に考え、千洋子をチョコと、敦をアツと呼ばせて頂きます。

実はその後ホワイトデーラブストーリーを考えていて5年間帰ってこないお父さんについて考えているうちにマイスターに行き着いてその瞬間グワーーーっとパン職人の修造のお話ができました。それからずっと書き続けています。今後ともよろしくお願いします。
次回は修造が店をオープンするまでに悪戦苦闘しますが果たして?


※クロッカラン・クロッカン  ナッツなどを混ぜて焼いたメレンゲのお菓子。とても軽い食感。

※ローストナッツを煮詰めた砂糖に加えてキャメリゼしたもの。

41パン職人の修造 江川と修造シリーズ リーベンアンドブロートができるまで

パン職人の修造 江川と修造シリーズ リーベンアンドブロートができるまで

パン屋開業の為に修造は江川と一緒に色々な土地を探した。

「安くて交通の弁が良くて人が通いやすい、広くて落ち着ける場所を。そこはきっと花が咲き乱れてみんなパンを食べながらほっと一息つける所。そんな場所を探そう」

2人は東南駅の近くのアイリス不動産の小島百年子(こじまもとこ)と一緒に車でファミレスやカフェなどの居抜き物件や空き地を探した。

なかなかしっくりくる物件には当たらない。
遠すぎる、高すぎる、広すぎる、狭すぎるなど理由は様々


休みの日に何軒も見に行ったり、ネットで不動産屋の出している物件情報を漁った。

「そろそろ決めたいところですね」
「はい」
小島にも毎回物件を紹介して貰って申し訳ない。

アイリス不動産のネームが車体の横に入ったカローラに乗って物件を何件か見た後、3人が幹線道路沿いを走っていると、白い鳥が車について来た。
何気なく江川がその鳥を目で追っているとその鳥は左に曲がってひと気のない駐車場へ入って行った。

「すみません、今のところに戻って貰っても良いですか?」江川は小島に頼んで戻って貰った。
鳥は飛んでいってしまった様だ。

3人はその駐車場に車を停めた。そこは木々に囲まれた広い駐車場の奥に空き店舗らしい建物があって築年数はそんなに古くない様だったが壁の色は燻んでいて雑草が建物のぐるりを囲んでいる。

「長い事使われてないみたいですね」

「ここって空き物件ですか?」修造が小島に聞いた。「調べてみます」そう言ってアイリス不動産に電話をした。

「ちょっとお待ちくださいね」
そう言われて2人は建物の方へ歩いて行った。

駐車場の向こうの小道を歩いて暗い空き店舗の中を目を凝らして見た。カフェかレストランだったのか?

そんな感じのスペースがある。

そこに机と椅子を置いて、その奥はパン棚が沢山置けそうだ。

その左のドアの奥は工場が作れそうかな?

2人は建物の周りを回った。この窓の奥が工房で、2階には休憩室に事務所ができそうだ。などと色々な話がどんどん進んでいった。

一周して戻ると小島が※「ここ、元レストランで子供さんが相続したらしいんですが話し合いによっては売却しても良いそうですよ」と言った。

すぐに場所を押さえて貰った。

これからは不動産屋を通じて売主との交渉が始まる。「詳しいことはまた決まり次第お知らせします。それと、、、」

「はい」

「もし借入金で購入されるなら見積書が必要になりますから知り合いの所で心当たりがあったら頼んでみて下さい」

「わ、分かりました」

その何日か後に不動産屋に敷地と建物の図面を貰う。

それを元に、無料見積もりの工務店を探して内装はああでもないこうでもないと相談して見積もりを書いて貰った。

その後,基嶋機械の後藤に連絡して駅前の喫茶アメリカンのテーブルに図面を広げる。

厨房を少しいじってオーブンやミキサーを置くスペースを作るとなるとそれは何センチでとか、特に中古にするか新品にするかとか何と何がいるのか2パターンの見積もりを書いてもらうことに決めた。

後藤は張り切って「とうとうここまで来ましたね!開店してお客さんがパンを買ってる所を想像してワクワクしますね」と白い歯を見せて言った。

「はい。よろしくお願いします」

「一応新品の方の資金計画書を出して通らなければ一緒に考えましょう」

「はい」

基嶋機械のベテラン営業マンの後藤は一緒に考えましょうと言ったが、もうちゃんと中古も押さえてある、だが資金によっては全部新品にしたり一部を中古にしても良い。

次に修造は後藤の車で店舗の外観を見に行った。

「経費を浮かす為に細かい補強は自分でやりますのでいい配置を一緒に考えて下さいね」

後藤はおでこをつけて窓の中の暗い厨房を見ながら「あそこにオーブンを置いてそこにパイローラーを置きましょう!ミキサーはこっち、その隣がドゥコン」と指差して興奮気味に言った。

その後もあちこち見て回った。木が鬱蒼と駐車場の日当たりの良いところに伸び放題だ。庭師を呼んで木を剪定したりここに花壇を作りたいと相談したりと。。まだまだ色々やることはある。

ーーーー

興善フーズの五十嵐にも開店当時に要りそうなものの見積もりを書いて貰って、なんだか見積もりが分厚くなって来た。。

不動産屋には売主との手付けの日にちを決めたいので資金繰りが決まったら教えてくれと言われている。なので不動産屋にも正式な土地の測量図と売却金額の乗った書類を貰わなくては。

修造は小島に連絡した「あの、土地代っていくらぐらいなんですか?」「いくらなら買って貰えますか?」などと言う腹の探り合いをする。土地の相場は都心から離れているし駅からも遠いので1200万〜1500万と言われる。結局いくらお金を借りれるかまだわからないと言う話になる。

修造は後藤から※新創業融資制度というのがあると教えて貰った。無担保・無保証人で融資が受けられる。ただし自分の持ち金が創業資金総額の10分の1以上の自己資金を持っていなければいけない。それと、勤めている企業と同じ業種を始める者に限る。などの取り決めがある。

色んな見積もりや創業計画書、申し込み書類を持って金融公庫に行く。受付の人に個人か法人かと言われて、逆に相談した。そして後々の事を考えて、途中で代表を代わるなら株式会社をと勧められ、そうする事にした。その時に名前を決めなくちゃいけないので色々考えるが、結局生活とパンの関連性を考えて株式会社リーベンアンドブロート(Leben und Brot生活とパン)にする。

株式会社にするならするで法務局に行って用紙を貰い、登録するのに書類を作る。しかし会社の概要とか定款とか、、やっぱここは司法書士に頼まなければ俺には無理だ、、そう思い、法務局の近くの束根{たばね)司法書士を訪ねて、今はこんな感じだとか相談した。会社ができて金融機関に書類を出して、後戻りはできない感じが強くなる。もうこうなったら全てを前向きに進めないと。。修造は足元にジワジワ押し寄せる不安を蹴飛ばして振り払った。

不動産屋の小島から連絡がある「地代ですが都心からも離れていますし、元々土地代は安かったです。建物の解体をしなくて良いなら1500万で良いそうですよ。ですので手付金は10分の1の金額で150万になります。駐車場と広場と店舗でこのお値段はお買い得でしたね!あの〜、他にも土地を買いたいと申し出るものがいるんですよ〜金融機関から振込の日がわかったら知らせて下さいますか?勿論1番に申し込んだ田所様が優先ですので。安心して下さい。それ以降はネットで販売を告知することになってるんです。なのでなるべくお早めにお願いしまーす」

電話を切った後「何が安心なんだ。今までほったらかしだった土地なのに急にライバルが現れるもんか!」と独り言を言ったが本当の事は電話のこちら側の修造にはわからない。しかしそう言われたり、期限を切られると焦る。

ーーーー

「あぁ」

1500万という金額にビビる。何せ生まれて初めての事ばかりだ。仕事中ぐるぐる頭を心配事が巡る。

その横で杉本が呑気に昨日観たテレビの話を楽しそうにしている。

こんな心境の時には呑気な奴や呑気な CMなんかを見ると心から羨ましい。

こっちは審査が通るまではそれどころじゃないんだ。
眉間に皺を寄せて製造を続ける。

仕事しながら親方を見た。

親方も同じ思いを創業の時にしたんだろうな、まだお給料が貰える状態で良かった。

ホッとしながら親方の懐のデカさに感謝する。

程なくして金融公庫から審査が通ったと電話があった。

修造は今まで準備して来たことが無駄にならずにホッとした。

束根司法書士から登記ができた知らせが来だので急いで受け取る。とうとう全ての書類を揃えて持って行った。

株式会社リーベンアンドブロートで新規事業として3000万円のお金を借りた。代表は田所修造。金利は2.01% 

生まれてはじめての高額な借入金だった。

契約の瞬間震える手で印鑑を押す。

「やばい、俺不眠不休で働かなきゃ。」と冷や汗が垂れ、足元がヒヤッとした。係のものに冷静に淡々と今後の事を説明される。

今後の事とは返済計画書の返済金額と金利の合計金額が書いてある用紙についての説明と、もう一つ、団信(だんしん)とは団体信用生命保険の事で返済中借主が亡くなる事があった時はローンがゼロになる。考えるとゾッとするが残された者に迷惑がかからずに済む。これも証書が送られてくる旨を申し伝えられる。

帰りの電車で眉間に皺を寄せ、腕組みをして座りながら「うぅ」と呻く。

もう後には引けない。何がなんでもやらなきゃ。と頭の中で繰り返す。

1週間以内に資金が振り込まれると言われていたので、全てはそれからだ。

次は手付けの日取りを決める。

相手先と対面して現金で全体の10%を持参するのだ。

修造はアイリス不動産に指定された日時にやって来た。

「田所様お疲れ様です。まず店長から購入の流れをご説明致しますのでこちらへどうぞ」と小島に応接室に通された。

横の座席に穏やかそうな夫婦が座っている。この人達かな?と思いながらそことは仕切られた横のテーブルに案内される。程なくして1人の貫禄ある男が現れた。

「田所様、初めまして、私店長の副馬武和と申します。

「どうも」

近頃は沢山の人に会い、沢山名刺を貰ったが覚えきれ無くありつつある。机の脇に置いて名前が見える様にした。

副馬は分厚いファイルを修造に渡した。購入時の決まりとか流れについてひとつひとつファイルをめくりながら丁寧に説明された。
その後売主と対面。やはり隣の2人だった。

「あの土地は何に使われるんですか?」

「はい、ドイツパンが中心のパン屋をやる予定です」

「へぇー!パン屋さんになるんですね。うちの父があの土地でレストランをやっていましたが、父も引退してからは手付かずでした。また活躍できて良かったです」

「大切に使わせて頂きます」結構和やかな会話ができてホッとする。

そこへ店長と交代で小島がやって来た。

「それでは今から印鑑を押す場所ををご説明させて頂きます」

急に皆ピリッとする。

それではこちらとこちらに印鑑を押して頂きます。こちらに割り印も」

初めてで緊張するし押す場所を間違えたら面倒なことになりそうだし。

失敗のないように付箋が貼られた箇所に小島が指差して印鑑を押させた。金融公庫の用紙もそうだったが、最近のこういう紙は印鑑が実に上手く押せる。

修造は手が震えたがなんとかブレずに綺麗に押せた。

無事印鑑を押した後のホッとした事と言ったら!

修造は誰にも分からない様に安堵の溜め息をつく。

その後手付金の受け渡しだ。丁寧に150万を数える。更に不動産屋への手数料を払い「もうこれであの土地は田所様が買う意思を示されましたので。今後田所様が土地建物購入をやめられる場合はこちらの金額は戻りません。もしも売主様がやめると言われた場合は割り増しての返金になります」

「へぇー」っと全員が言った。

「ここまで来て購入をやめるなんて事はありませんので」そう言って領収書を受け取る。

「今後の流れなんですが」副馬がまた説明を始めた。

そうだった、今日無事に済んでホッとしたが残金はこれからだ。

「はい」

「田所様がご指定の銀行で売主、アイリス不動産の小島、司法書士が集まって残金の1350万円をお支払い頂きます」

「わ、わかりました」

「司法書士の手続きが終わったらご連絡致します」ここでも不動産屋と司法書士の人への手数料がいる。

一旦通帳に入金されてホッとしたのも束の間、もうこれ以降はどんどんそれを使って開店への運びとなる。

使いすぎに気をつけよう。

小島は分厚いファイルに書類を挟んでアイリス不動産の紙袋に入れて「お疲れ様でした」と修造に渡した。

「ふぅ〜」帰り道自転車を漕ぎながらなんだかわからない大きな息をつく。

「緊張したな」

ーーーー

さて1番に買うものは高額なオーブンなどの機械ではないかと思っていた。内装は自分でやろう、そしてエントランスや外観もだ。

修造は後藤に連絡した。

正直に土地代を差し引いた残高の事を話す。おそらく全額を自分の所の機械代に使わせるとは考えないだろうと思ったからだ。

後藤から見たら残高はそんなに無い。諸経費を甘くみてはいけない。

残高なく開店するのは危険な事だ。

特に何回かの仕入れの支払い分は残しておかなければと考えていた。

なのでオーブンもそうだが、新品と集めた中古の中から良いのを吟味した。

「修造さん、このカタログのこちらとこちらのオーブン中から良いのを選んで下さい」

「ハード系に強いのはこっちですよね?」「はい」

オーブンだけではない、ホイロ、ドゥコン、ミキサー、パイローラー、モルダー、ラック、ガス台、生地用冷蔵庫、台下冷蔵庫、冷凍庫、生地用冷凍庫などなど、、

正直これを中古にすると料金的に抑えられるがこれは!というものを新品にしたい。

「オーブンとミキサーは新品でお願いします。あとは見てから決めても良いですか?」

「えっ?うちとしては嬉しいですが、予算的に大丈夫なんですか?」

「はい、何もかも中古っていうのになんか気がひけるんです」

「自分の物なのに誰に対して気がひけるんです?」

「またそのうち分かりますよ。後藤さん、俺2年のうちに利益を出して借りた殆どを返す予定なんです」

「繰上げ返済の事ですか?割と返済金も10年で返せる緩やかなものだと思いますが」

「とにかくその新品のオーブンにはバリバリ働いて貰う予定です」

後藤は若く燃える目の前の男を見て、確かにこの男ならやってくれるかも知れないと思う。

「どのぐらい値引きできるか会社(基嶋)と話し合ってみます」

基本一括払いなので気を使うが、正式な見積もり書を作ってくると言って後藤は帰った。

ーーーー

さて、今日はとうとう土地建物代の残金を払う日だ。

待ち合わせの10時にNN銀行東南支店に行く。

すると皆が銀行の前で待っていた。

「お待たせしました」

「こちらへどうぞ」アイリス不動産の小島が奥の個室を予約していた。

「司法書士の田嶋です」「どうも」

先方の司法書士が挨拶してきた。

今日は土地建物代の残金、司法書士への手数料、不動産屋への手数料を支払う。

またしても双方が言われた通り慎重に用紙に記入する。

不動産屋とATMの前に行き、目の前で振り込む。画面を押す手が震えた。

司法書士と不動産屋に手数料を現金で手渡し領収書を受け取る。

無事終わった!

変な汗をかき、フゥと息をつく。

その後全員で土地を見に行き、手落ちがないか確認し合う。

「それではこれで」と東南支店まで送ってもらい、なんだかスッキリした様な、バランスが悪い様な変な気持ちで自転車を漕いで帰る。

ーーーー

こうなったらもう後には引けないのだ。

そしてとうとうパンロンドから去る時がきた前日。

江川と修造はパンロンドの閉店後、2人だけで裏口から入ってきた。

「さあ、始めようか」

「はい」

2人は今までの感謝を込めて工場の機械を掃除しに来た。

デバイダー(分割丸め機の事。真ん中の赤いレバーを下げると生地に30個分のスジがつく。その後1番上のレバーと下についているレバーを同時に下げると機械が回転して生地が丸々仕組み)を手入れしてピカピカにしながら今までのみんなとの思い出を振り返えって涙が出てくる。

「みんなありがとう」その言葉は人にも機械にもかけられた。

「江川」

「はいなんですか」江川はオーブンのガラスをピカピカにしながら応えた。

「ここで色んな事があったな。色んなパンも作ったし」

「今までで1番楽しかったのはなんですか?」

勿論律子との出会いなのだがそれは恥ずかしいので他のにする「親方と2人でヘクセンハウスを夜中まで作ったり、みんなと催事に出たり色々あったな」

「じゃあ1番辛かった事は?」また律子を置いてドイツに行った時の事を思い出したが他にも色々ある。

修造はがっくり頭を下げてから言った「おれ、ここに来た当初はめちゃくちゃパンを焦がしたんだよ。ブザーがなったから開けてみて、もうちょっとだなと思って閉じたらタイマーの追加を忘れて結局全部焦がしたり。でも親方が全然俺を責めないんだよ。俺はそれが1番辛かったな」やるせなくそう言った。が実は半分は律子に見惚れていたからだがそれも内緒だ。

「おれは親方が大好きなんだよ」

江川はわかりますと言った感じでうんうんと頷いた。

2人で思い出話をしながら夜中まで機械の手入れは続いた。

工場が綺麗になって2人は働いていた場所に一礼した。

「明日でパンロンドともお別れだな」

修造の言葉に江川も感極まった「はい」

ーーーー

次の朝

早番の藤岡と杉本がやってきた。

「あ、これは」

藤岡は周りを見回して言った。

「なんですかあ」

「俺が帰る前より綺麗になってる。機械が光ってる」

「言われるまでわかんなかったな」

「お前はな」

「サンタさんかなあ」

「時期もやる事も違うだろ」

藤岡は修造達だと気がついた。

「立つ鳥跡を濁さず」

2人が機械を拭いてるところを思うと泣けてくる。

「いよいよなんだ」

藤岡は寂しさで胸が締め付けられた。

「藤岡さんほら見て!お鍋がピカピカ!」

2人は自分達の顔が写る鍋を見ながら言った。

「もうあの2人ともお別れだな」

「寂しいっすね。俺、修造さんのおかげでやる事見つけたし」

「俺も目標が見つかったよ」

2人が昼前に挨拶にやってきた。

鍵を返すと親方は男泣きに泣いている。

「元気でな、また店にも行くよ。今までありがとうな」

「お世話になりました。親方、奥さん、皆さん」「また店にも来てくださいね」

「困ったら相談に来いよ」

「はい」

皆涙涙でお別れが辛いが、2人で頭を下げて歩き出した。

その時

跡をつけている者がいた。そしてそのまた跡をつけてる者が1人。

だがそれはまたのお話。

江川は見えなくなるまで見てくれているパンロンドのみんなに何度も振り向き手を振った。

ーーーー

ベッカライリーベンアンドブロートのオープンの日にちを決めた。

もうこの土地建物は修造のものなので出入りは自由だ。
2人は駐車場から建物を眺めた。

「江川!あと3ヶ月で開店だ!」

「凄い!ワクワクしますね!僕出来るだけ手伝います」

「まずは内装からやっていく。明日から工務店の人が工場の設備をやりに来てくれるから、その後すぐに機械の搬入!」

「はい」

「今から車を見に行こうと思うんだ」

「配達の車ですか?リーベンアンドブロート号ですね!」

「そう」

江川と修造は中古車センターに行き、配達用の車を選んだ。予算が気になるのでなるべく安くて丈夫そうな軽を真剣に見て回る。

注文は全て受けてこの車で納品する予定だ。車屋の人に車の横に店名を入れてくれる様に頼んだ。

工務店に頼んでガス、電気、水道の設備を整える。配管は元々あったので点検と一部新しいものにする。

その間に修造は江川と2人でまず建物の周りの雑草を全て綺麗に抜き、ホームセンターでタイルを買ってきて、工務店の人に教わりながら、店へのアプローチにドイツ風のタイルを散りばめた。

内装はシンプルでパン棚は見やすく沢山パンを並べたい。

工場の中は何人かで立ち回れる様に考えて作った。拭けばすぐ汚れの取れる鏡面張りの壁の素材を買ってきて取り付ける。

工事代を浮かすために自分でパン棚を作りながら「江川、パンはパンロンド時代のものと、ドイツパン、そして世界大会で作ったものを取り入れようと思うんだ。」

「はい!」江川は目をキラキラさせてこのパンはここであのパンはここでと張り切って考えていた。

さて、工場の感じができて来たら忘れちゃならないものがある。保健所に行って営業許可証の申請に行く。江川と2人で食品衛生責任者の講習会に行き、証書と札を貰う。

シンクは2槽でお湯と水が分かれたもの!ラッキー!保健所の許可に必要な物は流石元レストランだけあってちゃんとしていた。

こうして必要なものを一つ一つクリアしていく。

元々あったものはなんでも使い、庭の机と椅子は修理して塗り直したり、カフェ部分は中古でお洒落な机と椅子を探したりした。探してみれば中古のものも良いティーセットとかトレーとかあるものだ。

ーーーー

家族を連れてきて、ホームセンターで買ってきた花をこことここに植えて欲しいと頼んだ。

律子と緑は楽しそうに色とりどりの花を植えていった。そして庭に元々あった白いアーチの枯れ草を取り、蔦を這わせた。

緑が「これって何に使うの?」と聞いたので「結婚式とかに使ってたんじゃない?」と答えた。

緑は花嫁の真似をして花を手に持ち「ほら見て、こんな感じ?」とアーチの前でポーズした。

修造は大地を抱っこしながら「いつか緑がお嫁さんに行く日が来るなんて考えられない」と涙を浮かべた。

修造はこの店を道路の入り口から見て、ドイツ式のタイルに悦にいったが、ちょっと寂しいかなと思い芝生を両脇に植えることにした。店の前のアプローチの両端の地面に地道に四つん這いで芝を植えながら

店を作るってこうやって少しずつお金が出ていくんだなと呟いた。

俺は山の上にパン屋を作ったら機械以外は全部自分で作るぞ。

勿論薪窯もだ。今は勉強の時期なんだ。

自分で作って自分の城にして自分だけのパン作りをするぞ。

その前にここでドーンと当ててやる。

「よしっ!」タイルと芝生をみて満足げに言った。

ーーーー

機械の搬入の日

後藤が芝居がかった大袈裟な感じで「とうとうこの日がきました!」と言ってオーブンやミキサー、モルダー、パイローラーなど次々搬入した。「基嶋の新品のオーブンがリーベンアンドブロートにやって来ました」やや大声で張り切って言いながら写真を沢山撮ってるのでまたホームページに載せるつもりなんだろう。

「ここまで来るのに色々あったからお疲れでしょう」

後藤は修造の顔を見て「色々心配が尽きませんが大丈夫!もうダメだと思った瞬間また他の所から助けがやって来る、商売ってそういうものですよ、私はそんなシェフを何人も見て来ました」とベテランの営業マンらしい事を言った。

「悲喜交々、これから色んな事があると思いますが、お二人で力を合わせていってください。何か困ったら直ぐにこの後藤を呼んでくださいね」

閉店開店
後藤はその度に立ち会いその『色んな事』を見て来たんだろう。

「これからも力になって下さい」修造は頭を下げた。

ーーーー

その後もまだまだやる事はある。

仕入れ、用具の購入、店のレジはどんなものにするのか、事務所の机や椅子、更衣室のロッカーの手入れ、従業員募集、制服決めなどなどキリがない様に思えた。

さて、従業員募集の件だが、修造は広告を出す事にした。料金表を見ながら「結構値が張るがこの大きい枠にしよう」と面接の全てを江川にやらせた「お前の合いそうな人を探すんだよ」

とはいえ実際一緒にやってみなければこればっかりはわからないしなあ。

3ヶ月の工事期間を経て、いよいよ工場で仕事出来る様になった。プレオープンは1週間後。

パンロンドのみんなや鳥井シェフや大木シェフにも来てもらうことにして律子に招待状の葉書を書いて貰った。「なにこれ!桐田美月って?本物の?来てくれるわけないじゃ無い!それに売れっ子お笑い芸人のマウンテン山田さんまで招待状出すの?厚かましい。それにこの住所あってるの?」「江川が出してくれって言うんだよ。絶対来てくれるって」

「え〜」律子は笑いながら半信半疑でハガキを出した。

程なくして修造に電話がかかってきた。

「はい」

「修造シェフお久しぶりです。NNテレビのディレクター四角志蔵です」

「あ、お久しぶりですね、四角さん」

「実は女優の桐田さんからお話を頂きましてね、是非桐田さんの進行でリーベンアンドブロートの取材をさせて頂きたいんですが」

「えーーっ」

全く思いもしない事で修造は驚いた。そして桐田の顔を必死で思い出そうとしたが何となくしかわからない。

「有名な女優さんなのは知ってるけど顔と名前が一致しないんだよ江川」「修造さん何言ってるんですか、ほら!パン王座決定戦の時に審査員席に座ってた赤い衣装の女優さんじゃないですかあ。その時また会いたいって言ってたし、こないだテレビに出た時もわざわざ握手しに来てくれたでしょう?」と言ったらすぐ隣にいた律子に聞こえていた。

「それほんとなの?修造。また会いたいですって?」その時の事を思い出した修造は汗をかきながら「えっそんな事あったっけ?」と誤魔化した。

修造はディレクターの四角と話し合ってプレオープンの日に撮影に来る事になった。

プレオープンの日は5月11日

グランドオープンは15日に決めた。


「修造さん、ホームページとかSNSとかやった方がいいですよね?」
「簡単なやつでいいよ江川」
「安く作ってくれる人達の載ってるサイトから頼んでみましょうか?」
「そんなのあるんだ!探してみてよ」
「わっかりました〜」

そうだ!2階の更衣室や休憩室、事務所の事も考えなきゃ。
と言う訳で壁紙は前のを使う事にして他の物をホームセンターに買いに行く。

カーペットと机、椅子、ロッカーにマガジンラックを更衣室と休憩室に。

事務所には江川がネットで買ったパソコンデスクと来客用の机と椅子を置くつもりだったが可愛らしいピンクのソファが届く。

「ちょっとこの色、、」

「可愛いでしょう?」江川は恥ずかしがる修造を横にならせた。色はともかく3人掛けのソフアに横になってみるとフカフカで寝心地が良い。
「こりゃいいや」と言ってそのままいびきをかきだした。

「お疲れ様です」と言いながら江川は上着をかけてやった。

ーーーー

「修造さん、パン好き女子の小手川パン粉ちゃんが何日間か僕と一緒に駅前でチラシを配ってくれる事になったんです」

「えっつ本当?助かるよ江川」

「僕たちとっても仲良しになったんです」

いつの間に、、、江川の社交性に驚きながら本当にオープンに向けて真っ直ぐ突っ切る感じが強まってきたと実感する。

保健所の施設検査も合格したし、1回目の仕入れも済んだ。

明日からは本格的にパン作りを行う。

「本当にいよいよだな江川」

「はい!僕頑張りますね」

「うん」

ところが

修造は事務所机のセットの椅子に座って機械代やら店舗補修費その他諸々がこんなに嵩むとは、、と頭を抱えた。

チリも積もれば山となる。

後藤に言われていた通り2ヶ月分ぐらいの分の支払いの金額は残しておきたい。

修造は細かく何がいるか計算するために粉屋とか資材屋、包装紙屋などに貰った見積書をもう一度見直して計算してみた。そして人件費、光熱費、社会保険料、税金、その他諸々。

「全然足りないじゃないか。開店の時は行列を見越して大量仕入れしないと。こんなんでやってけるのか?」そう言いながら仕方ないなんとか回していかないとと覚悟を決める。初めの売り上げを支払いに回していくしかない。

不安だな。

そこに一本の電話が修造に掛かってくる。

「はい」

「修造さんですか?ご無沙汰しております。私株式会社メリットストーンの有田でございます」

え?あー!あのヘッドハンティングする為に付き纏ってた人!

「あのー何か御用ですか?俺今度こそ店を開店するんですよ」

「存じております。その事で電話しました」

「はあ」

「実はあの時お騒がせしていた鴨似田フードの奥様なんですが」

「まだ藤岡を追い回してるんですか?やめてやって貰えますかね?」

「勿論ですよ修造さん、あの時ご迷惑をおかけした事を反省されていますし、波風が立たない様にして下さった事をいたく感謝されておりまして、御開店の時の材料等3ヶ月分をお使い頂きたいとの事です」

「え!」

「私が繋ぎ役を買って出ました!」

顔と名前が一致しないんだよ江川」「修造さん何言ってるんですか、ほパン王座決定戦の時に審査員席に座ってた赤い衣装の女優さんじゃないですかあ。その時また会いたいって言ってたし、こないだテレビに出た時もわざわざ握手しに来てくれたでしょう?」と言ったらすぐ隣にいた律子に聞こえていた「それほんとなの?修造。また会いたいですって?」その時の事を思い出した修造は汗をかきながら「えっそんな事あったっけ?」と誤魔化した。はディレクターの四角と話し合ってプレオープンの日に撮影に来る事になった。

そうだ!2階の更衣室や休憩室、事務所の事も考えなきゃ。
と言う訳で壁紙は前のを使う事にして他の物をホームセンターに買いに行く。

カーペットと机、椅子、ロッカーにマガジンラックを更衣室と休憩室に。

事務所には江川がネットで買ったパソコンデスクと来客用の机と椅子を置くつもりだったが可愛らしいピンクのソファが届く。

「ちょっとこの色、、」

「可愛いでしょう?」江川は恥ずかしがる修造を横にならせた。色はともかく3人掛けのソフアに横になってみるとフカフカで寝心地が良い。
「こりゃいいや」と言ってそのままいびきをかきだした。

「お疲れ様です」と言いながら江川は上着をかけてやった。

ーーーー

「修造さん、パン好き女子の小手川パン粉ちゃんが何日間か僕と一緒に駅前でチラシを配ってくれる事になったんです」「えっつ本当?助かるよ江川」「僕たちとっても仲良しになったんです」

いつの間に、、、江川の社交性に驚きながら本当にオープンに向けて真っ直ぐ突っ切る感じが強まってきたと実感する。

保健所の施設検査も合格したし、1回目の仕入れも済んだ。

明日からは本格的にパン作りを行う。

「本当にいよいよだな江川」

「はい!僕頑張りますね」

「うん」

ところが

修造は事務所机のセットの椅子に座って機械代やら店舗補修費その他諸々がこんなに嵩むとは、、と頭を抱えた。

チリも積もれば山となる。

後藤に言われていた通り2ヶ月分ぐらいの分の支払いの金額は残しておきたい。

修造は細かく何がいるか計算するために粉屋とか資材屋、包装紙屋などに貰った見積書をもう一度見直して計算してみた。そして人件費、光熱費、社会保険料、税金、その他諸々。

「全然足りないじゃないか。開店の時は行列を見越して大量仕入れしないと。こんなんでやってけるのか?」そう言いながら仕方ないなんとか回していかないとと覚悟を決める。初めの売り上げを支払いに回していくしかない。

不安だな。

そこに一本の電話が修造に掛かってくる。

「はい」

「修造さんですか?ご無沙汰しております。私株式会社メリットストーンの有田でございます」

え?あー!あのヘッドハンティングする為に付き纏ってた人!

「あのー何か御用ですか?俺今度こそ店を開店するんですよ」

「存じております。その事で電話しました」

「はあ」

「実はあの時お騒がせしていた鴨似田フードの奥様なんですが」

「まだ藤岡を追い回してるんですか?やめてやって貰えますかね?」

「勿論ですよ修造さん、あの時ご迷惑をおかけした事を反省されていますし、波風が立たない様にして下さった事をいたく感謝されておりまして、御開店の時の材料等3ヶ月分をお使い頂きたいとの事です」

「え!」

「私が繋ぎ役を買って出ました!」

ーーーー

有田は事務所にやってきて遠慮する修造にあれこれ使いたい材料を聞きだして、あれよあれよという間に鴨似田フーズからやって来た例の2人の男と共に大量に材料を並べた。「これが奥様からの開店祝いでございます、また来月も持って来ますんで」2人から言われて唖然として見ていると「御伽話みたい」と江川が言うので、「だな」と、やっと声が出た。

「こんなにして貰って感謝してますが、大丈夫なんですか?奥さんは?旦那様に叱られるのでは?」

「社長は奥様に自由過ぎるほど好きにさせておられるので」と2人が声を揃えて言っていた。修造は薄っすら残る鴨似田フーズの奥さんとやらの記憶を辿って可愛い奥さんだしそうなるんだなあとぼんやり納得。

「俺、絶対良いものを作るんで感謝してるって言っといて下さい」修造は頭を下げた。

これが後藤さんの言ってたそれか。

このチャンスを無駄にせず全て美味いパンに変えるぞ!

そう固く誓う。

さて、プレオープンの前に2人で試し焼きを夜通し続けた。

「今日は従業員さん達が初めてリーベンアンドブロートで作業を始める日ですね」

「うん」

ここまで長い長い道のりだった。

だが今日からが本当の始まりだ。

「江川、外に出ようか」

「はい」

窓の外が明るくなり、空が赤く染まって来た。

2人は駐車場の入り口から敷石とその向こうの店舗を見ながら言った。

「やっと俺達の店ができたな」

おわり

何とか無事に開店の運びに至った修造と江川
オープンはもうすぐだ修造!

※新創業融資制度 https://www.jfc.go.jp/n/finance/search/04_shinsogyo_m.html 後藤が勧めた制度

日本政策金融公庫 国民生活事業より。新たに事業を始めるとか事業開始後税務申告を2期終えていない人に無担保・無保証人で利用できる「新創業融資制度」条件をクリアしないと受けることはできない。

※今時は建物を相続しても解体費用に二の足を踏んでこのような空き物件があることがあるので辛抱強く居抜きや空き家を探してみるといい物件が見つかる可能性がある。

鴨似田フーズの奥さんが出てくる話はこちら

パンの職人の修造 江川と修造シリーズ  Annoying People

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