13パン職人の修造 江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!後編

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!後編

前回のあらすじ

江川と修造はNNテレビのパン王座決定戦の2回戦で4軒のパン屋でそれぞれ1品ずつ出し合い、NNパーク広場で300人のお客さんが選ぶ人気投票で1位に選ばれる為に奮闘中だった。修造が用意したのは牛すじカレーパンだったが果たして。


さて

300人のお客さんは行きたいパン屋のパンから食べて行き、4種類のパンの中から1番と思うものに投票していった。

今のところ佐久間チームが圧倒的に人気だった。

そろそろ終盤、パンロンド田所チームのブースでは修造が丁寧にカレーパンを揚げ続けていた。

修造のカレーパンは衣がカリッとカレーはトロトロとスパイシーで牛スジがトロリプリンとして最高だった。

お腹一杯の人達まで牛すじカレーパンを完食し、その足で投票に行った。

口の中は他のパンは消え、スパイシーで頭とお腹が一杯だった。

全ての人が投票を終えて300人分の投票用紙は各店舗別に掲示板に貼られていった。

司会の安藤良昌(あんどうよしまさ)が出てきた。

「さあ!お待ちかねの集計です。いったいどの店が何枚あるのでしょうか?決勝戦に進むのはどの店なのか!」

係のお姉さん達が集計をした紙を安藤に渡した。

「さあ!それでは第4位は!62票!ブーランジェリータカユキ!那須田チーム残念でしたがまた次回頑張って頂きたいと思います!クロワッサンサンド美味しかったです!そして第3位は!67票!北麦パンです!佐々木チーム残念でした!クロックムッシュ僕も頂きましたが本当に美味しかったです」

「さあ!では1位の発表ですー!」

安藤は2位は言わずに1位を言った。

「1位は102票!佐久間チーム!」

と同時にドーン!と音がなった。そのあと音楽が鳴り、安藤が更に大きな声で言った。

「おめでとうございます!決勝戦に進むのは!佐久間チームと田所チームです~~!」

「ふ~!僕たちのチームって69票でしたね、4位から盛り返したとは言え佐々木チームと2票しか変わらなかったな~」江川がとりあえずほっとして言った。

「ギリギリだったね」

佐久間チームには全然及ばなかったが、修造にしてみれば人が集中せず分散したことで、無理に急いで揚げたりせず自分のペースでいいカレーパンを揚げることができた。

販売のお姉さん達に「ありがとう」と言った。お姉さん達は修造に言われた通り、「カレーが熱いから注意して下さいね」と一人一人に言っていた。

勝敗に関係なく熱々を提供して、火傷しない様にフーフーして食べる楽しさをお客さんに味わって欲しかったからだ。

このカレーパン、パンロンドでも販売しよう。

放送が終わったら大量に仕込むぞ。

そうだ、カレーパンロンドって名付ける!

修造はそう決めていた。

佐々木シェフと那須田シェフに挨拶して、お互いに「また会いましょう!」と言って控室に戻った。

そこへディレクターの四角が佐久間シェフとやってきた。

「いや〜お疲れ様でした。次の決勝ですが、スタジオでパンを作って頂き、5人の有名人が審査して優勝を競って貰います!優勝賞金は100万円!テーマはパンのフルコース対決です!フルコースに見立てて4品のパンを5人分作って頂きます。フルコースと言ってもどんな形でも構いませんし、自由な発想の方が面白いのでそこら辺はよろしくお願いします。時間の都合でパンはお店で焼いて来て下さい。スタジオでは盛り付けからやって貰います」

クタクタの修造も佐久間シェフも内心『まだやるのかよ』と顔を見合わせた。次の収録の前にまた何を出すか考えなければいけない。

「収録は次の火曜日、NNテレビのスタジオですのでよろしくお願いします。資材は全てこちらで用意します。材料費もこちら持ちですので」

やれやれ、次は審査員5人が相手か。

何を出すかな、、審査員は多分パンの世界の人と、文化人、調理師学校の校長、タレント、なんかかな。

さて、佐久間シェフは何を出してくるだろう。

「修造さん!優勝賞金100万って何に使います?」

片付けながら江川はまだ優勝してもないのに聞いてきたが修造は「う~ん」と生返事をした。もはや頭の中は決勝の4品でいっぱいだったからだ。


修造は家に帰って黙って部屋に入って来た。

「修造おかえりなさい。お疲れ様」律子が台所からでてきてお帰りのハグをした。

「どうだった今日」

「佐久間チームと決勝に出る事になったよ。」修造はソファに座ってふ~っと息を吐きながらもたれた。

律子は隣に座ってネットでブーランジェリーサクマについて調べた。ホテルのベーカリー部門でブーランジェをしてから開業。店の評価は4.9。過去にパンのグランプリも受賞している。人気の品も沢山有る様だ。

修造はその画面をじっと見ながら、強敵だな。今日も圧勝だったよ。向こうからしたら俺たち雑魚(ざこ)かっただろうな。と思っていた。

律子は考え事に入り込む修造の手の平に自分の手を置いて「修造なら大丈夫よ」と言った。

「律子ありがとう。俺絶対勝つよ」

大きな手でそっと律子の手を握り返した。


修造は仕事中もずっとフルコースについて考え続けた。

ミキサーが回ってるのを見ながらこんな風に考えていた。

フルコース対決か、、

前菜はさっぱりと、、

ロッゲンブロートでエビや生ハムのタルティーヌはどうだろう。サワードゥのタルティーヌの上でオードブルを再現みたいな、、それともバゲットでブルスケッタ調とどっちがいいだろう。何種類か小さいものを展開してもいい。

律子の実家の近くで一緒に行った信州の農家のトマトが驚くほど美味かった。トマトってこんなに美味しかったかと思ったけど帰ってから冷蔵庫のトマトを食べたら味が全然違うんだ。

あれはやっぱ新鮮さなんだな。トマトの旨み。

朝採れのトマトを律子の妹のその子ちゃんに持ってきてもらうか、、ついでに他の野菜も!

オードブルで口をさっぱりさせて食欲増進しといて。

次は本来ならスープが来てから魚料理か?

メインの前にくどくなくてオードブルよりは食べ応えがあってパンに挟むもので、、

そうだ!ドイツにいた時エーベルトと北ドイツに行って魚の燻製料理を食べたっけ。

たしかKieler Sprottenキーラー・シュプロッテン(ニシンの薫製)って言ったな。

燻製の香りが美味しいニシンを軽いバインミーみたいにするのはどうだろう。カイザーにレバーペーストを塗って野菜のマリネとニシンの燻製のレモンソース添え、その上にパクチーか?

燻製の香りと旨みの後、爽やかな香りがする様にしよう。

次はメインの肉料理。

肉といっても色々あるけどさっぱり系の次はガツンといきたい。

肉料理はチャバッタみたいにしっかりしてるけど噛みやすいものがいい。肉の噛みごたえに負けず、肉の味の邪魔をしないものがいいかな。それともパンの味を強くしといて中身を食べやすい肉料理にするか。サワードゥで酸味がある方が肉が旨く感じるだろうか。。

肉はどうするか。。

ドイツ風牛肉の煮込み料理は美味い。ビール煮込みは炭酸で肉が柔らかくなるのと味が深まり苦味と旨みが残るところだ。しかもアルコールは飛ばすので酔っ払う心配もない。コーヒーかチョコを隠し味に使うか?

最後はデザート。

何にしようかなあ〜

パンを使うんだからアイスは溶けたらフニャフニャになっちゃうし、、硬く立てた生クリームとフルーツを使うか、洋酒を使うか。そうだ!サヴァランはどうだろう?などと考えていた。

ずっと心配そうに観察していた江川だったが、急にすっきりしてきた修造の表情を見て「親方!何を出すか決まったようですよ!」と報告してきた。

「へー楽しみだな」2人でワクワクして修造を見た。

「親方!江川と決勝戦の練習をしたいので買い物に行ってきて良いですか?」

「勿論だよ。色々決まったの?頑張ってね」

「はい!絶対勝ちますよ」

修造は時間の許す限り江川と練習して時間内にキッチリ仕上げる様にした。

そしていよいよ決勝前日

「江川、これ明日忘れ物の無いように用意してくれな」と持ち物の書いた紙を渡した。

「はい!」


さて決勝の火曜日がやってきた。

修造と江川はNNテレビのスタジオに様々な厳選した食糧と午前中作って来たパンを持ってきた。

「その子ちゃんに持ってきて貰った超新鮮野菜もあるし、あとは段取通り進めるだけだ」

スタジオでは審査員の席が5つ、その前にパンロンドとブーランジェリーサクマのキッチンブースが並んで2つある。

その後ろには大画面のデイスプレイが置いてあって色んなものが大写しにされる。

江川と修造は調理の為の準備を始めた。

「きっちり決めて最高のパフオーマンスを見せるぞ」

「はい!」

観客席ではどんどん人が増えてやがて満員になった。

ざわざわする中、審査員5人が着席して、司会の安藤良昌も出てきた。緊張が込み上げてくる。

安藤がカメラに向かって話し始めた。

「さあ!始まりました!パン王座決定戦。いよいよ決勝戦になりました。ここで審査員席の皆さんの紹介をしたいと思います。まず1番右が赤いドレスの印象的な女優の桐田美月(きりたみつき)さん、お隣が文化人の有田川ジョージさん、原料理学校校長の原隆(はらたかし)校長、アイドルの羽山裕香(はやまゆうか)さん、そしてお笑い芸人のマウンテン山田さんの5人です!」

モニターには5人が順に大写しになった。

「決勝戦は関東のパンロンド田所チームと関西のブーランジェリーサクマ佐久間チームの対決です。決勝のお題は『パンのフルコース』!合図の音と共に2チームが調理を開始します!審査員の皆さん5人で4品に点数をつけて貰い優勝者を決定して頂きます!結果は最後に発表になります!試食の順は人気投票で1位の佐久間チームのパンを先に行いまーす」

「それでははーじーめーーーっ」

プアーーン!と音が鳴り2チームはそれぞれ1品目の前菜を作り出した。

3種類のパンにそれぞれ違う具材をのせながら「まさかまた被ってないだろうなあ」と修造と佐久間シェフはお互いに作ってるものをみて驚いた。佐久間シェフも3種類のパンのオードブルを作ってる!

江川も横目で見ながら「この人達気が合うのかも」と思っていた。

佐久間シェフは修造を見た。「ドイツで5年修業してきたそうだが、しょせん私の実力には及ばないんじゃないのか。ちびっ子が助手みたいだし。悪いが決勝でも私が勝つよ」

2チームのパンがそれぞれ5人の審査員の前に並べられた。

「さあ!それでは一品目のパンを審査して頂きましょう!試食はじーめー!」

佐久間シェフは、バルケット(舟形)のミニパイを使ったアミューズを作った。トッピングはパプリカとズッキーニ、レンコンとヒジキのサラダ、海老と玉子の3種だった。

修造の前菜は3種のタルティーヌを出した。トッピングはカブと柚子と生ハムをのせたサワードゥのカンパーニュ、干柿とクリームチーズのロッゲンブロート、トマトのブルスケッタ。

「美味しい取り合わせを考えました。」と修造が、

「うちのカフェでも人気の取り合わせです。」と佐久間シェフが説明した。

司会の安藤が赤いドレスの桐田を指しながら「では女優の桐田美月さん、感想はいかがでしたか?」と声を張って言った。

「はい、こちらの生ハムのパンや柿のパンはフルーティーで美味しかったです、パンとの取り合わせも素晴らしいです。このブルスケッタのトマトも美味しいですね」

「田所シェフ、説明をお願いします」

「はい。トマトは長野県の標高が高いところでできたんですが、朝晩の気温の差が激しい所で育ったトマトは昼太陽の光を浴びて光合成で貯めた糖分が夜消費されにくいのでとても甘いんです。ブルスケッタにはサクッとしたクラスト(皮)のバゲットを使いました。パンは3種類とも小麦の香りが引き立つ様に石臼挽きの全粒粉を配合しています」

「素材を生かした美味しさでしたね」桐田と安藤のコメントを聞いて江川は祈るような気持だった。「どうかパンロンドのボタンを押してくれてますように!」

「それでは2品目のパンを審査して頂きましょう!試食はじ~め~!」

佐久間シェフはシャンピニオンというキノコの形のフランスパンを使ったアンチョビとジャガイモのファルシ(詰め物)を。修造はニシンの燻製バインミーを出した。

またしても魚料理が被っている!

5人が試食をしてる間、真ん中に座っている原料理学校の原校長は食べながら分析していた。「ニシンの燻製は皮と骨を取り薄くカットしてレモンハーブソースで和えてある。乾燥したニシンがレモンソースを吸ってソフトになっていて、燻製の香りが香ばしく、ニシンの油をレモンとパクチーの爽やかさが良い感じに中和してくれる。そしてサクッとしたカイザーゼンメルの胡麻の風味が噛む事に口の中に広がる」

うんうんとうなづいてるのを見て江川はほっとしていた。「校長先生うちを選んでくれないかな」

「さあ!それでは審査をお願いします」

全員が自分の前の2つのボタンから美味しいと思う方を押した。

「皆さん押しましたか?それではお笑い芸人のマウンテン山田さん、感想をお願いします」

「はい、僕正直甲乙つけがたかったんですわ〜。どっちもめっちゃ美味しかったです。キノコの形のパンの詰め物もおしゃれやし、ニシンもサッパリしてて美味しかったなあ!うまうマウンテンですわほんま」

江川は「マウンテン山田さん、どっちのボタンを押すかな」とハラハラした。

その時、女優の桐田美月は感動していた。

「パンの審査ってどんなのかと思ってたらレベル高いわ。あの目力の強いシェフのパン、美味しかったわあ。次も楽しみ。ウフフ」

江川はあと2品の準備をする為に材料を手元に寄せた。「あっ」

「修造さん!大変です!あの機械がありません!」

「えっ!ちゃんと用意できるように紙を渡したろ?」

「確かに用意して車に積んだのを覚えています!」

2人は自分達のテーブルの周りをよく探した。

「無い」江川が半泣きになってきた。「どうしましょう修造さん」

その時安藤が叫んだ「お次はもう3品目ですね!何が出てくるのか楽しみです!それでは作って頂きましょう」

画面に修造と佐久間が交互に大映しになった。

「江川、俺が盛り付けをしてる間に四角さんに事情を話して一緒に探して来てくれよ。広いから迷うなよ」

「分かりました」江川はべそをかきながら四角の所に走っていった。

四角は安藤に合図してこっそりと引き延ばしのサインを送った。

四角と江川は走って駐車場へ行ったが車の中を隅々まで探したのに無い!

「どうしよう!あれがないとデザートの味が変わっちゃう!」

「どんな入れ物だったんですか?」

「30センチほどの茶色いダンボールに入ってるんです。パンロンドってマジックで書きました」

「この車からスタジオまでの間に落としたかも知れない。他のスタッフも呼んで手分けして探しましょう」そういって道々キョロキョロと探した。

江川が通路の椅子の陰やごみ箱まで探していると「あら?あなたパンロンドの人よね?」と声をかけてきた人がいた。

「え?」

「私、1回戦で会ったBBベーグルの田中よ。今日は料理番組に出てたの。何を探してるの?」江川はあちこち探しながら事情を説明した。

「私も探してあげる」江川の表情を見てただ事じゃないのを察して田中が言った。


一方スタジオでは、修造の3品目は牛肉のビール煮込みのチャバッタ、佐久間シェフは全粒粉の食パンを使ったトンカツのサンドイッチだった。

「はい!それでは先に佐久間シェフのトンカツサンドをどうぞ!佐久間シェフ、こちらはお店でも人気なのでしょうか?」

「はい、こちらは当店ではとても人気の品です。分厚いトンカツを低温でじっくり揚げています。出来立てが何よりのご馳走です。ソースには赤ワインとリンゴを使っています。」

それを聞いてマウンテン山田が「なるほどね〜!揚げたて最高!」と言った。

時間を引き延ばすように言われた安藤はゆっくりと言った。「それでは食べながら田所シェフの説明をお聞き下さい!」

「はい、ライサワー種でスペルト小麦を使った長時間熟成の生地を使いました。パンにはバターを塗り、オニオンソテーの上に牛肉のビール煮込みと、ガーリックとジャガイモを細かくさいの目切りにして炒めた軽いポテトサラダをのせて紫キャベツとタイムの小さな葉を散らしました。パンと具材のマッチングを楽しんで頂きたいです」

すかさず桐田が感想を述べた。「パンがもっちりしてとても良い香りだわ。具材の全てをパンが引き立ててくれていますね」

「ありがとうございます」

「修造シェフ。ライサワー種ってなんですかね?ここで皆さんにちょっと説明して頂きましょう」時間稼ぎに安藤が聞いた。

「はい、ライサワー種はライ麦と水からおこした種の事です。ドイツは痩せた寒冷地が多く、,昔から小麦の代わりにライ麦を多く育てていました。なのでドイツパンはライ麦の比率が多いパンが多いのです。そのライ麦を使ったライサワー種は酵母の中の美味しい菌の割合が概ね乳酸菌:8、酢酸菌:2の割合が理想的と言われています。つまり風味豊かで美味しい酸味って事です。それは作り手の好みによって変わります。とても風味が良いので香りを楽しんでみて下さい」

そう言って修造は審査員にライ麦パンを渡して行った。まろやかな酸味と風味で、生地はしっとりとしている。

みんなへぇ〜という感じでパンを噛み締めた。

修造にしてはちょっと口数が多かったが内心いい時間稼ぎになったと思っていた。「江川どうしてるのかなあ」

その時、佐久間チームの助手が佐久間シェフにささやいた。「え?アイスクリームが固まらない?」

佐久間シェフはアイスクリーマーを覗いてみるとまだ液体のままグルグル回っている、上手く温度が下がってない様だ。「どうしましょう?次もうデザートを出さないといけないのに」ちょっとだけ固まりかけたアイスをみてうろたえた。「もう少し待ってみよう」

「さあ!それでは3品目の審査はいかに?」

審査のボタンを押しながらマウンテン山田は2チームの異変を見て「あの人らどないなってんねん。左のチームは助手が泣きながらディレクターとおらんようになったし。もう一方のチームは顔面蒼白やで」と呟いた。

佐久間シェフは焦った。「次はこっちの番だ。隣はまだ何も作ってないぞ!」先に修造にデザートを出させてアイスが出来るのを待とうと思ったがそれも出来ない。

安藤が慎重な面持ちで言った「さあ、泣いても笑っても次が最後です。4品目を作って頂きましょう!」

佐久間シェフはわざとのろのろと作った。そして少しゆるいアイスをスプーンですくって添えて出したが、スタジオの熱気で徐々に溶けていく!額から汗が噴き出した。

江川は機械がなくなった責任を感じてスタジオ前の長い廊下で膝をがっくりついていた。

「僕がもっとちゃんと見ていればこんなことにならなかったのに。修造さんごめんなさい」また半泣きになっていると田中が走ってきた。

「江川く~ん!これじゃない?」

「あ!それです!」箱の中身を見た!


佐久間シェフは冷や汗を拭きつつデザートの説明をしていた。「オレンジを使ったパネトーネにシナモンたっぷりのりんごとアイスを添えました」.残念だがアイスと言うよりは冷たいバニラソースになったがそれはそれで美味しい。

文化人枠の有田川ジョージが「オレンジの爽やかな生地とりんごのスパイスの味がソースに染みて美味しいですね。」と感想を述べた。

修造の番が来た。「江川どうなったかな。もし帰って来なければこのまま出すしかないか。」水色のふちの可愛い皿にパンを並べ始めた。

「修造さん!」

「おっ江川!間に合ったな!」修造は箱の中身を出してすぐにコンセントに刺した。起動して暖めるまでに3分かかる。

「わたあめメーカーだったのか」江川を追いかけてきた四角と田中は呟いた。

修造のデザートは、ブリオッシュにサクランボのリキュール『キルシュヴァッサー』を染み込ませたサヴァランで、その上に生クリームを加えたカスタードを絞り、表面をバーナーで焼いてアイシングクッキーで作った王冠を添えた。

あとはあれを乗せるだけだ。

「もう少し待って下さいね」

と、その間にわたあめメーカーが温まり、修造は真ん中の窪みに赤い飴を入れた。

「江川、のせたらすぐにお出しして。 」

「はい」

そのうちに赤い色の甘いわたがフワフワと出てきてそれを箸で巻いて小さなわたあめをつくり皿に乗せ、その上にラスベリーを砕いたものを少し振りかけた。

江川は全員に順にお皿を配り「お早目にお召し上がり下さい。」と言った。

バーナーで温めたカスタードの上でじわっとわたあめが溶けていく。計算通りになって修造は悦にいった。

「さあ!それではこれが最後になります。パンロンド、田所チームのデザートを召し上がって頂きましょう!」

食べながらアイドルの羽山裕香が「うわ〜っ赤いワタアメが可愛くって美味しいですぅ〜」と言ったので被せて桐田が感想を述べた。

「しっとりしたパンとわたあめの甘酸っぱさとそれをマイルドにするカスタードの味が一体化してとてもバランスがいいと思います」

「ありがとうございます。ラズベリーでキャンデイーを作り、それをわたあめにしました」修造は頭を下げた。

桐田美月は王冠の小さなクッキーを食べながら「これで王座は決まりね」と呟いた。

江川はほっとして、後ろで見ている田中にグッとこぶしを握って見せたので、田中も小さくガッツポーズをした。「江川君かわいい」

さっき箱を探していた時、江川が下ばかり探したので、背が高い上にハイヒールの田中は上を探していた。

台車に道具を沢山積んで運ぶ時に、1番上に乗せていた箱の上の隙間に廊下の木の枝が刺さりそのまそのまま引っかかっていたのだ。


全員が4品の試食を終え審査は点数発表だけになった。

司会の安藤が真ん中に出てきて特別声を張って言った。「さあそれでは最後の審査と参りましょう!皆さんどちらが美味しかったでしょうか?ボタンを押して下さい」

「桐田さん、いかがでしたか?」

「はい、悩みましたがどれも美味しかったのでその分も含め付けさせて貰いました。」

急にスタジオが暗くなり安藤と2チームにだけライトが照らされた。

「さあ!わたくしの元に審査結果の書かれた紙が届きました。5人の審査はどうだったのでしょうか。パン王座に輝くのはどちらのチームでしょう!!?」

デレレレレレ、、、と小さくドラムロールが鳴りだした。

江川は心臓がドキドキした。額から汗が垂れる。

「1品目パンロンド2点!ブーランジェリーサクマ3点!」

大画面に2と3が大きく出た。「サクマさんがまず1品目をゲットしました。さあ!次は?」

「2品目パンロンド2点!ブーランジェリーサクマ3点!」

ジャーン!と音が鳴り画面に4と6が映し出された。

江川は修造を見て背中に冷や汗が垂れた。

「うわ!ちょっとワナワナしてめっちゃ悔しそうなのに顔に出してない。こわ〜!」

修造は反省と悔しさで血圧が上がってぶっ倒れそうだったがグッと耐えた。

「さあ、まだまだ分かりません!さて次は?」

「3品目パンロンド3点!ブーランジェリーサクマ2点!」

画面には7と8が出た!

「次でとっちかが優勝か引き分けだ!どうなるぅ〜?!」

さあ!4品目は!?

デレレレレレレ!!ドン!

「パンロンド!4点!優勝は田所チームです!11対9点でパン王座決定戦はパンロンドの勝ち〜!佐久間シェフもありがとうございました~!」

バーンと音楽が鳴って金色の紙が降りライトが当たった。

安藤が「おめでとうございます〜」と言って修造にトロフィーと賞金を渡した。

「やったー!やりましたよ修造さん!」

「ありがとうな、江川」

修造は泣いてる江川にトロフイーを持たせて、手持無沙汰になったので仕方なくどこかしらを向いていた。

2人が大写しになったままテレビはカットになった。

優勝して喜ぶところだが、修造の頭の中はさっき作ったパンの成功と失敗を反芻していた。「前菜とカイザーのどこがいけなかったんだ、、」

そこへ桐田が挨拶に来た。「修造シェフ、とっても素晴らしかったわ。またお会いしましょうね」

「あ、はいどうも」考え事中に話しかけてきた桐田に修造は生返事をした。

控室に戻ると佐久間シェフがいた「修造君優勝おめでとう、よく勉強してるね。こちらも色々学ばせて貰ったよ」

「佐久間シェフ、俺たち似たもの同士なんですかね?カレーパンと前菜は驚きました。それとフルコースの流れも一緒でしたね」

佐久間シェフも同じ事を考えてたらしくうなずいて微笑んでいた。


世話になった人達にお礼を言って、帰り道の車の中で「修造さん、桐田さんって綺麗でしたね〜。僕あんな近くで芸能人見たの初めてです」

「きりたって誰だ?」

「えー信じられない。あんな美人を。修造さんって頭の中パンでできてるんじゃないんですか?」

「だとしたら美味いな!絶対!」修造はフンと笑って言った。

だがふっと表情が変わり「江川、、俺はドイツに行く時律子から条件を出されたんだ。絶対女の人と目を合わさなきゃ行ってもいいってな」

「ええ~!?」

「俺が眼で女の人を落とすって思ってるのかもしれないがそんな事あるわけないんだよ」

江川は律子の厳しい言いつけに背筋がぞっとしながら「そんな事できるんですかぁ?ていうかやったんですか?」と聞いた。

「そうだよ。律子と緑のところに帰るのが大前提だから、もし俺が裏切ったら律子の鋭い勘で一発で見抜かれる。そしたら俺は帰る所がなかった」

「ひえ〜厳しい!」

「俺にとっては女性は律子しか考えられない。と同時にパンの修行に行きたいって気持ちも通してしまったんだ。律子との約束を守るのが自分の見せられる最大の誠意だった。だから自信を持って律子のところに現れる事ができたんだ。今もそれは変わらない。江川。俺は律子とは本当に相性が良いんだ。律子以外は考えられないんだ」

急にのろけだした!「はあ」

「今日は早く帰ろう」

「はあ?」

「一回だけちゃんと目を見て話をした事があったな。告られた事があって、流石に目を逸らしたままじゃいけないからと思ってね。そしたらえげつない美人だったよ。でももうどんな人だったか忘れたな〜」

「概ね約束を守ったって事ですね。僕が表彰してあげますよ。約束を守ったで賞!」

「嬉しいね」

2人は疲れていたが爽快な気分でふふふっと笑った。

「さあ、もうすぐパンロンドだ。放送が終わったら忙しいぞ!」

「はい!」

進め!パン王座決定戦後編おわり

このお話は8月27日金曜日パン屋のグロワールのブログに投稿したものです。


 


12パン職人の修造 江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!前編

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!前編

このお話は新人の杉本君  Baker’s fightの続きです。

下町の商店街にあるパン屋のパンロンドは今日もお客様が絶えない。お客さんがパンを買って帰ったらまた次のお客さんが来る。

大人気のとろとろクリームパンを成形しながらパンロンドの店主柚木(通称親方)は仕込み中の職人田所修造を見て思っていた。

修造が修業に行っていたドイツから帰ってから急にやる気に満ち溢れた職人が増えてパンロンドは爆上げになったな。

あいつは本当に大したもんだよ。

律子さんと緑ちゃんをおいてドイツに行くって言った時はどうなるかと思ったけど、帰ってきたら相変わらず律子さんと超仲良し夫婦だし、丸く収まるもんだなあ。

杉本は修造の舎弟みたいだし、江川は金魚の〇〇だな。

そこへ電話がかかってきた、親方は人一倍太い指で受話器をとった。

「はい、パンロンドです」

「初めまして。わたくしNNテレビのディレクターの四角志蔵と申します。この度夕方の特番でパン王座決定戦というのをやるんです」

「へぇ〜、、えっ?うちが出るんですか?」

「はい、最近人気の店を調べてパンロンドさんのお名前が上がってきましたので」

「何をやるんですか?パンのクイズとか?」

「それもあります。勝ち進むと更にテーマがあるんですが、それは現場でのお知らせという事になります」

親方は修造を見ながら言った。

「四角さん!うちに相応しい人材がいますよ。ぜひやらせて下さい」

「本当ですか?全て録画になりますが、お茶の間の視聴者はみな釘付けになりますよ。各チーム2人ずつペアで参加なんですがどうですか?1回目の撮影は来週の火曜日です」

「わかりました」

「修造くーん」電話を切って親方は修造に声をかけた。

親方がこう言ってくる時は大体頼み事が多い。

いやな予感しかしない修造は親方を見た。

「来週火曜日に修造と誰かもう1人がNNテレビのパン王座決定戦に出る事になったんだよ」

「もう決めちゃったんですか?俺テレビとか苦手なんですが」

人前で何かするとか嫌だな。特に目立つのは苦手だな。そう思ってると

「修造さんとですか?だとしたら誰かもう1人って僕しかいないですよね!」

修造と一緒と聞いて気が大きくなって修造の弟子っこの様な江川卓也が立候補してきた。

「じゃあ頼むな」

親方はさらっとそう言ってまた仕事に戻ってしまった。

杉本は倉庫に材料を取りに行ってて出遅れて悔しがった。

「え~!江川さ~ん!変わってくださいよ」

「嫌だよ。僕が修造さんと一緒に出るんだもんね」

そんなやりとりを聞きながら修造は凄く嫌そうにしていた。

うわ、俺どこかに逃げ出そうかな。

そう思いながら火曜日はすぐにやって来た。

修造と江川はNNテレビに向かう車の中で

「なんで俺がテレビに出なくちゃいけないんだ」

「まだそんな事言ってるんですか?僕なんて何も知らないのに出るんですからよろしくお願いしますね」

「お前、、信じられない図々しさだなあ」

そんなやりとりをしながら2人はNNテレビに到着した。

「うわー!僕テレビ局初めてです。広いなあ」

ADらしい人に控室に通されて「こちらに座ってしばらくお待ちください」と言われた。

自分たちの他に5組いるんだ。修造は腕を組んで椅子に座りながら凄い目力でジロジロ観察した。

1番右、あれは北海道のパン屋北麦(ほくばく)パンの佐々木シェフだ。ここの自慢は自家製酵母を使ったハード系。

2番目が東北のブーランジェリータカユキの那須田シェフ。ここの自慢は見た目も美しいデニッシュとクロワッサン。

3番目は関東の俺たちパンロンド。

4番目は関西のブーランジェリーサクマの佐久間シェフ。ここは豊富な惣菜パンが有名な人気店だ。

5番目は中国地方のBBベーグルの田中シェフ。ここはベーグルの種類が豊富で、華やかなベーグルフルーツサンドが人気なんだ。

そして6番目は九州の酒種パンのロングハッピー藤原シェフ。

「それぞれ持ち味出してる店ばっかだな」

うちが1番無名かなあと言ってるとディレクターがやって来た。

「どうもみなさんお待たせしました。ディレクターの四角と申します。今から皆さんでクイズの勝ち抜き戦で争って頂きます。パンにまつわる問題が出ますのでどんどん答えて行ってください。6組中4組までが勝ち抜いて第2ステージに向かいます。全10問しかありませんので頑張って下さい。お2人のうち、わかった方が答えて構いませんよ」

説明のあとスタジオに案内された。1番やる気のない修造はだらだらと最後について行き「さっさと負けて帰ってやる」と小声で呟いた。

スタジオは広くてセットのところだけ凄くライトアップされていた。

「セットの裏側ってベニヤ板なんですねぇ」江川が嬉しそうにあちこち見ている。

スタジオのセットはクイズ番組でよく見る1番から6番のマークのあるブースに仕切られていて、2人は3番のマークのところに案内された。

「このボタンを押すんですね。早押しなんでしょ?」

「そうらしいな」

ピンポン!江川は赤い丸いボタンを押す練習を始めた。なかなか素早い。

とそこへ、売れっ子司会の安藤良昌(あんどうよしまさ)が真ん中に立って挨拶して来た。「皆さん、今日はよろしくお願いします」そしてマイクをつけたり、セットを直して貰ってる。

「あれ、安藤良昌ですよね!芸能人見たの初めてだな」

江川おまえの好奇心は天井知らずだな。

そう思ってると音楽がなり、とうとう番組が始まった。

皆緊張の面持ちで立っている。クイズが始まった。安藤が問題を読み上げた。

ジャジャン!

「第一問!パンを発酵させるパン種の中でも有名と言われるホップ種はイギリス、ルブァン種はフランス。ではライサワー種はどこの国?」

修造はすぐに押したが、既にブーランジェリータカユキの方が押していた。

「はい!2番の那須田チーム」

「ドイツ!」

「正解です。一問目はブーランジェリータカユキの那須田シェフです」

江川は修造の顔を見た。

あ!ドイツが答えなのに!

修造さんめっちゃ悔しそう!

これ外すか?って問題を答えられなかったので修造は意地になってきた。

「おい江川、ボタンの方に立って俺が背中を押したら反射的にボタンを押せよ。素早くな!」

「はい」

ジャジャン!

「第二問!パンを膨らませるための原材料のペースト状や生地状の発酵種の中で、サワードゥは直訳するとどんな意味?」

ピンポン!最後まで聞き終わらないうちに修造が江川の背中を押して、江川が素早くボタンを押した。

「はい!3番の田所チーム!」

修造が江川にささやいた事を江川が言った。

「酸っぱい生地?」

「正解!パンロンド田所チームにポイント10点!残りはあと8問です!」

ジャジャン!

「第三問!粉の20%から40%程度に同量の水と酵母を混ぜ込んでつくる液種法は水種法と何?」

また素早く背中を突いて「ポーリッシュ法!」「はい正解!」

次々と答えていき、パンロンドは素早さだけで50点稼いだ。勿論他のパン屋もわかってはいるのにという感じだった。そこでディレクターの四角の指示で司会が「田所チーム!あと4問あるのでちょっとここでお休み下さい。他のチームの争いになります。もし那須田チームが50点稼いだ場合はもう一度参加して頂きます」と言った。

修造がチェっとなったので、江川はそんな修造を見て、初めは嫌がってたのにこんなに熱くなって、この人ギャンブラーじゃなくて良かったよと呆れた。

結果

1位はパンロンド

2位は20点稼いだブーランジェリータカユキ

そして3位は10点のブーランジェリーサクマと北麦パンだったのでもう一問を2チームで争う事になった。

ジャジャン!

「問題です。一般的なライ麦の発芽温度は次のうちどれ?1番1℃から2℃。2番5から6℃。3番7から8℃」

タッチの差でブーランジェリーサクマが押した。

「はい佐久間チーム!」

「1番!」「はい正解!おめでとうございます。3位決定!これで4位は北麦パンに決定しました」

音楽と共に番組は一旦締められた。

ディレクターの四角は控室で4軒のチームを集め「お疲れ様でした。次は4軒のパン屋で人気対決をしていただきます。各店舗のブースを設けます。機材はこちらで用意するので何を作るのか考えてください。材料費はウチがお支払いします。出す品は各店舗1品ずつ」

四角は説明を続けた。

「お客さんの数は300人。皆さんに4店舗の名前が書いてある紙を持って頂いて美味しかった店を決めて、投票所にある各店舗の投票ボックスに投票していって頂きます。投票数の多かった2店舗が決勝進出です」

「準備があると思いますので、1週間後、NNパーク広場で行います。それではよろしくお願いします」

「うわ、人気対決ですって。どうするんですか修造さん」

「絶対勝ってやる!帰ったら早速考えるぞ!」

他のパン職人達も同じ様に思ってたらしく早々に全員帰った。


親方は行きと帰りの修造のテンションの違いを見て驚いた。息巻いている。

「江川君、どうだった?今日のクイズ」

「はい、うちの圧倒的勝利だったんです。次も絶対勝つって言ってます」

「うへ!それは凄いね」


翌日、修造の頭の中は何を作るかでいっぱいだった。

対戦相手は那須田チームのデニッシュかクロワッサン、佐久間チームの惣菜パン、佐々木チームのハード系が自慢の店か、、もっとも食べたくなるパンってなんだろう。他所は何を持って来るのか?やっぱ知名度では勝てないか

ああいう屋台だと知名度と看板の写真なんかがものを言うよな

カレーやラーメンならなあ

そうだ!

カレーパン!

スパイシーで香り立つカレーはどうだろう?カレーがトロトロで皮がカリッとして。具沢山かそれとも肉の種類で特徴を出すか。

「あ、親方。修造さん何か思いついた様ですよ」クリームパンの生地を綿棒で伸ばしながら修造を観察していた江川が報告した。

「親方、買い出しに行きたいんですが」

「勿論行ってきていいよ。頑張ってね」

「はい!」

そう言って修造は駅前のスパイス専門店に走って行った。

そこには缶に入ったプロ仕様のスパイスが沢山並んでいる。

「えーと、ターメリック、クローブ、オールスパイス、コリアンダー、クミン、シナモン、カルダモン、チリペッパー、カイエンペッパー、ローリエなどなど、、」カゴに沢山スパイスを入れ、お店の人に「人気の出るカレーを作りたい」と言うと「そうですねぇ。これなんてどうでしょう」と、ししとう、パプリカ、セロリを指さした。

「沢山入れると気になる味ですが、旨みと香りが良くなりますよ。要は比率が大切なので色々試して見て下さい。スパイスをオイルでテンパリングして冷蔵庫で寝かすと丁度いい感じに馴染むんです」

「はい」

「それともう一つ。カレーができたら追いスパイスをするんです。ホールをすり潰すといい香りが立ちます。自分で好みの調合をして見て下さい」

「どうもありがとう!」とお礼を言って、帰りにスーパーでトマトと生姜とニンニクも買った。

次に肉屋に行った。うーん、ここは牛のステーキ肉かそれとも豚の厚切り肉か、それとも牛スジか、、よし!これにする!

修造はある肉を買った。

パンロンドに戻った修造は、早速スパイスのテンパリングを始めた。サラダ油でホールスパイスをじっくり炒める。あたりはスパイスのいい香りで包まれた。次にそのオイルに生姜、ニンニク、玉ねぎ、を入れてじっくりと炒める。そこにトマトとセロリをミキサーでピューレにして鍋で他の具材と合わせる。その後こげない様に水分を飛ばし、追いスパイスを入れたら粗熱をとって冷蔵庫で寝かせて馴染ませる。

その後修造は肉屋で買った牛すじを取り出した。

まずは硬い牛スジを大きめの鍋に入れ、煮込んだ後雑味を除くために一度湯を捨ててもう一度鍋に入れて生姜と煮込んだ。

始め固かった牛スジは徐々に柔らかくなっていき、そのうちにトロトロプルプルと柔らかくなって来る。そこに酒と醤油、味醂を入れて味付けした。

衣をどうするかな。

カレーパンの美味いのはルーは勿論だが、皮のカリカリした感じも欲しい。あーんと衣を噛んでカリッとした後、トロトロのカレーを迎え入れ、口の中で両方の食感と旨みを味わいたい。

次の日、サクい食感の生地にスパイスを馴染ませたカレーペストを包み、真ん中に牛スジを包んた。

それを水溶きの小麦粉と米粉を配合したペーストに潜らせてローストしたパン粉をつけた。

パン粉は親方自慢の山食パン「山の輝き」をパン粉にしたものだ。

カレーパンを揚げて「親方これ、食べてみて下さい」と渡した。

「うわー!美味い!」

「このカレーを持って2回戦に挑みます!」

修造は2回戦の前の日、300人分のカレーと牛スジを用意した。カレーのルーを炊き、最後に追いスパイスをして馴染ませた。そして寸胴にカレーを入れて冷蔵庫に入れた。

江川はお店から持っていくもの一覧を見て真剣に用意した。「えーとカレーのタッパと生地用の容器と牛すじにボールにパン粉に餡ベラにと、、うちわも?」

江川は全て準備したか確かめた後声をかけた「修造さん明日は頑張りましょうね」

「勿論だ!今日は早く寝ろよ!」


次の日はいい天気だった。NNテレビの広場には沢山の人がイベントの始まりを待って並んでいた。

4店舗のブースが並んでいる。それぞれ提供した写真と店名が各店舗の看板に大きく描かれている。今並んでる300人の人達は看板を見ながらどの店から行くか悩んでいた。

「修造さん、まさかでしたね」

「うーんまさか佐久間チームもカレーパンとはね」

「向こうも驚いてますよきっと」

1番ブースの田所チームは牛スジカレーパン。2番の那須田チームはクロワッサンサンド。3番佐々木チームは北海道産小麦の食パンにチーズとハムを挟んだクロックムッシュ、そして4番の佐久間チームは野菜たっぷりキーマカレーだった。

「うろたえてる暇はないぞ!そろそろ揚げる準備をしないと」

と、そこへ「おはようございまーす」とやって来たのはNNテレビが用意した販売員のお姉さん達だった。

「あのーお姉さん達どうぞよろしくお願いします」修造は珍しく爽やかに話しかけた。そしてお姉さん達にあるお願いをした。

江川には「さあ!どんどん揚げていこう!」と勢いよく言った。

すでに作業中のチーム達の前でロケが始まった。司会の安藤良昌が出てきた「さあ!パン王座決定戦第2回戦の始まりです。来場者に店名の書かれた紙をお配りしています!美味しかった店に投票して頂き、投票用紙の多い店の中の1番と2番が決勝進出になります!私の合図と共に300人の観客が好きなパンを選びます。それでははじーめー!」

プアーーーン!

合図の音と共に人々はそれぞれ自分の食べたいブースに並んでパンを食べ始めた。

江川は他のブースを覗いて「うわ!佐久間チームの所にあんなに沢山の人が!先にカレーパン食べられちゃったらお腹いっぱいになっちゃうな」と焦った。

佐久間チームのカレーパンはサラッとした口当たりで食べやすく、野菜の味がキーマカレーとの相性が良いと評判だった。

人々は皆メジャーな順に食べて行った。それはこの店なら安心という信用でもある。

マイナーなパンロンドは少々不利だ。

修造は手鍋にカレーを入れてコトコト炊いてうちわで仰ぎ出した。

「うわ!いい香り〜、ここに行こうよ」と言って、並ぶ人数が少し増えてきた。

江川はカレーパンを揚げながら通路を通る人に声をかけた。「牛スジカレーパン揚げたてで美味しいですよ〜」

「ちょっと、あの子可愛くない?」と言って並ぶ人も増えてきた。

江川はトレーにカレーパンを乗せて呼び込みをし出した。

「こちらパンロンドでーす」

「うちの牛すじカレーパンの方に投票して下さいね、パンロンドの田所チームをお願いしまーす。」

と、目をキラキラさせて言って回った。

修造はカレーパンを包んだり揚げたりしながら「俺にはできないなあ、あんな真似」と感心していた。

江川は一人一人に丁寧に説明して、わざと列を作り、どんどん長くして行った。

待たされると美味しく感じるものかもしれない。

他の店はどんな感じなんだろうか?

司会の安藤が中央に出てきた。

「さて!ここで途中経過の発表です!」安藤は4店舗の集計表を見て「はい!1位は今のところブーランジェリーサクマです!2位が北麦パン!3位ブーランジェリータカユキ!そして僅差でパンロンドです!まだまだ4店舗回ってない方が多いので全部食べ終わってから投票して行って下さい」

うわ、僕たちのチーム4番目だって、頑張らなきゃ。

来場者は3店舗回って結構お腹一杯の人達ばかりになってきた。

江川はカレーパンを渡すとパンロンドの店名が書かれた紙ををお客さんの手に持たせて「これ、パンロンドの所に投票お願いします」とニコッと笑って言った。

江川、そんなことしなくても俺のカレーパンは美味いんだ。

修造は焦らず最適の揚げ方に集中した。

後編に続く

この作品は2021年8月9日月曜日にパン屋のグロワールのブログに投稿したものです。

11パン職人の修造 江川と修造シリーズ 新人の杉本君  Baker’s fight

このお話は江川 to be smart の続きです。

18歳になったばかりの江川卓也は、修造と面接の時約束した通りに高校を無事卒業して、北国から関東の商店街にあるパン屋のパンロンドにやって来た。

入社してからはずっと先輩の田所修造と組んで毎日仕事を教えて貰っている。

「修造さーんおはようございまーす」

「よお」

明るく爽やかに挨拶した江川に対して言葉少なに修造が挨拶仕返す。

これが江川の毎朝の始まりだ。

パンロンドの朝は早い。

オートリーズの後、計量を済ませていた粉と材料をミキサーに入れて生地作り。

「オートリーズって先に粉と水とモルトを加えて20~30分置いておくんだ、その後塩とイーストや発酵種を入れて捏ねる。そうする事で粉が水を吸って伸びの良いパリッとした生地に仕上がるんだよ」

江川は修造の動きを食い入る様に見ていた。

「パートフェルメンテっていうのはパート(生地)フェルメンテ(発酵)って意味で前日にとってた生地を使うやり方なんだ。オートリーズとった後、本捏(ほんごね)の時に入れる。生地が安定して風味が良くなり時間短縮にもなるんだ」

江川は毎日様々なパンの製法について説明を受けていた。

「こうやって生地の状態を見るんだ。生地を伸ばしても破れずにグルテンの薄い膜ができてるか確かめる」

「はい」

「まだまだ知らないことが沢山あるなあ。僕は修造さんにぴったりついて修造さんのパンの知識を少しでも覚えたいんだ」と張り切っていた。

江川が修造と生地を仕込む為の計量をしていると

入社したての杉本君と親方が何か話してる

江川はじっとみた。

「杉本君、これってみんなこんな風に天板に置いてってるから君も同じ様にやってね」

杉本は成形したパン生地を置く長方形の鉄板にいい加減な置き方をして親方に均等に置く様に指導されていた。

「親方ぁ、僕には僕のやり方があるんです。ちゃんとやりますから大丈夫です」と言ったので試しにどうなるか焼かせてみた。

案の定 火通りがかたよる。

「鉄板に生地を均等に置かないと火通りが悪いところと火が通り過ぎるところが出るからね。ほら、こっちは白くてこっちは焦げてるでしょ?」

「分かってます分かってます」

江川は驚いた。

何?今の返事。

親方ってとても温厚な人だけど、だからって今の返事は聞いててストレスが溜まるな。

「修造さん、あの人って修造さんが面接したんですか?」

修造は杉本君を見た。そして目線を計量中のメモリに戻した。

「いいや」

「面接の時はニコニコしてたんですかね?今はちょっと違うんじゃないかなあ?」

「知り合いの紹介らしいよ」

「ふーん」

「人の事はいいから。よそ見してると計量を間違えるぞ」

「はい!すみません」

そう言いながら江川は杉本君が気になって仕方ない。

杉本龍樹(たつき)は親方の先輩の知り合いの子らしく、紹介で入ってきて3週間経つ。

やんちゃだったのか通勤の服装も派手で言葉も荒めだった。

少々無茶なタイプらしく、ちゃんとした数を聞きもしないで仕込みの野菜を切り出した。量が多く皮は分厚い。

「杉本君、野菜って多く切り過ぎちゃったら残った分の色が変わっちゃうからね」

とか。

「杉本君、絞り袋にまだクリームが残ってるのに洗っちゃったら勿体ないからまだ洗わないで最後まで使ってね。物は大切に使おうね」

とか親方の言い方がとても優しいのに反して杉本君がはめんどくさそうで段々返事しなくなってきてる事に気がついた。

江川は段々不満が募ってきた。

親方が何々の次にこれやってって言ってるのに順番を変えるし、、杉本君って困ったやつだなあ。

その時修造は自分の仕事に集中していた。

様に見えた。


次の日

修造と江川は大量にシュトレンのフルーツを洋酒に漬け込んでいた。

フルーツをボールに入れ、洋酒を多めに回しかける。スパイスを足してそれをタッパに入れて倉庫の涼しいところに置いていく。

秋頃になると段々洋酒が染み込んで熟成されたフルーツをシュトレンに使うのだ。

シュトレンはドイツではクリスマスの時期に様々なお店で売られている。クリスマスを待つ4週間にアドヴェントという期間があり、少しづつスライスして食べていく。

漬けこんだフルーツをたっぷり入れて作ったシュトレンはひと月ほど置いておくと生地にスパイスとフルーツの風味が移り格段に味わいに深みが増します。

薄くカットして食べながらクリスマスを心待ちにして過ごす。

「僕シュトレンって食べたことないです」

「出来たらすぐに試食して、同じものを何週間かしてから食べたら熟成していて全然風味が違うのが分かるよ」

「楽しみだな」

仕込みながら江川はチラッと杉本を見た。

杉本君、今朝は凄く眠そうで成形しながらうとうとしてる。

「杉本君眠そうだね」

前に立って仕事している親方が声をかけた。

「昨日夜遅くて」

「朝早いんだから早く寝ないとね」

「いちいち言わなくても分かってますよ」

杉本は少し声を大きめに言ってしまった。

あ、今修造さんが杉本君をロックオンした。めっちゃ観察してる。

「江川、これ一人でやっといて」修造は洋酒のボトルを江川に渡した。

「はい」

「おい、ちょっと来いよ杉本君」

修造はなるべく爽やかに言ったが元々爽やかなキャラでもないし、目力による圧力が凄い。

修造は杉本を店の裏に連れて行った。

「お前どうしたんだあんな言い方して。親方も先輩の紹介で入ってきたお前を無下にはできないだろ?それともあれか、まだお子様だから反抗期で親方に偉そうに言ってんのか?」

「反抗期ってなんだよ!ガキじゃねーんだよ」

「パン屋での仕事は初めてなんだろ?前は何やってたんだ」

「俺はボクシングやってたんだよ。なんなら絞めてやろうか?先輩さん!」

こいつなんでこんな反抗的なんだ、、

こんなんでよく、他所で働こうと思ったな。

「やれるもんならやってみろ」

そういったものの修造は思った。

しまったな、ここで喧嘩してもし騒ぎになったら店に迷惑がかかる。

そうだ、、隣の空き店舗の裏なら目立たないかも。

パンロンドの隣の空き店舗の裏には庭がある。朽ち果てた花壇と枯れ木があり、木材の塀で囲われている。そこはよく野良猫の溜まり場になっていた。

2人が倉庫の裏口から出て、隣の塀の隙間から入ると、野良猫達が一目散に逃げて行った。

野良猫達を見送ったあと、2人で対面で立って睨み合った。修造は上着を花壇を囲っているブロックの上に置いてピョンピョンと飛び跳ねた、首を左右に振りフッフッと息を吐きながら肩を上げ下げした。空手の試合前にそうやってから気持ちを上げるのを思い出した。

杉本は携帯で誰かに電話している。

「今から偉そうな先輩さんを絞めて店の裏の壁に張り付けるから来てみろよ」

そういって電話を切った後、脇を締めて修造を睨みつけた。

こいつ拳で攻撃してくるな。

いつでも前に後ろに動けるように足取り軽く動いた。

拳の速さで勝てるか分からないから蹴りで足とか攻撃するか。。

修造はなるべく狙う予定の方を見ないように杉本の顔をみた。

2人とも相手の隙を伺っている。

杉本の目を見ながら、そうだ、先に攻撃させなきゃ正当防衛にならないな。と思った時、杉本が初めのパンチを仕掛けて来た。

修造は左手で顔をガードしてわざと杉本の拳を腕に当てた。

「いたたた、お前が先に攻撃して来たんだからな」

修造の言い方がわざとらしく、杉本は頭に血が上った。

「舐めんなよ!」

修造は杉本のパンチをかわして刻み突きして相手の胸を押して距離を取る動作を何度か繰り返した。

その後杉本の左手からのパンチを肘を曲げて右に巧みにかわして背中が空いた瞬間後ろに重心をかけて裏回し蹴りを入れ、そのまま左のつま先の内側を引っ掛けて倒した。

「うわっ!」

素早く杉本の背中に乗っかり動けなくすると、

杉本は背骨の中央をロックされ、手も届かず足で蹴ろうとしたが修造の足で防がれている。

まだ修造に蹴られた背中が痛い。

「うぅ、、」

背中をさすりたいがそれもできない。

可哀想だと思ったが、このまま手を離すとこっちがやられる、修造は左手で杉本の顔を抑えた。

「動けないだろ?」

「くそっ!」

そして杉本の耳元で言った。

「俺は空手の師範について色々教えて貰ってたんだ。道場では師範の言う事は絶対なんだよ!」

杉本は寝不足の疲れもあって暴れるのをやめた。

「観念するなら離してやる」

そう言って修造は立ち上がった。

こいつもう攻撃してこないだろうなあ。

そう思って少し離れて杉本を観察した。

負けたのがショックだったのか座り込んでしょんぼりしだした。

「杉本、ちょっと待ってろよ」そう言って近くの自販機に向かった。


その頃江川は仕込みを終え、いっこうに戻ってこない修造と杉本が気になって倉庫を何度か覗いたりした。

「親方、修造さん達どこ行っちゃったんですかね?帰ってきませんね」

「大丈夫でしょ。それよりどう?仕事は慣れた?」

「はい、僕ここに来て人生が変わりました。とても良い先輩に恵まれたし。楽しいです」

「そう、それは良かった」

「親方って修造さんをめちゃ信頼してますよね」

「宝物だ」

僕のね、と江川は思った。

親方は続けた。

「俺は修造に会ってから少し考えが変わったんだよ。それまでは諦めと言うか、職場も人の出入りが激しかった事もあって自分1人がしっかりしなきゃって思ってたけど、ああいう信頼できる奴がいるのは良いもんだよね」

「心がしっかり繋がってるんですね」

江川と親方は目を合わせてニコッと笑った。

「あいつがドイツから帰ってきてパン職人としての格が上がってるのを見て俺は思ったね。多分あいつはどこに行って何をやっても上手くいくんだろう。人から教わったものを自分のものにして更に上に押し上げていける奴だよ」

うんうんと江川はうなずいた。


一方、隣の裏庭では修造が缶コーヒーを杉本に渡していた。

「暴れたら喉が渇いたな」

空き家のペンペン草が沢山生えた花壇を囲っているブロックに腰をおろして一緒に缶コーヒーを飲みながら「少し落ち着いたか?」と聞いた。

杉本は何も言わずに黙っていた。

修造は話し始めた。

「多くのパン屋が『何人かが狭い空間で働いてる』んだ。その全員がメインのシェフの意思通りに動かなきゃならないと俺は思ってる。勝手なことをすると全員に迷惑がかかるんだよ。今の作業の全ては、『こうなる事に理由があった』んだ。すぐに決まった訳じゃない。工場の中で起こった出来事や、お客さんの流れ、パン作りの工程、作業する人間の数、季節や温度、その全てが影響しているんだ」

「それはまだ入ったばかりのお前にはわからない事なんじゃないのか?」

杉本は黙って聞いていた。

修造の話す全てに説得力があった。

それは長い経験に裏打ちされた言葉だったからだ。

「それが嫌ならやめなきゃならない、ここから去って勝手に自分の思う店を作れよ」

「、、、店を?」そんな事できっこないのは杉本も分かっていた。

「でもな、それは多分お前にはまだ早いんだよ」

「今のお前は何も出来ないのに等しい、1人でやるとたちまち困るぞ。

だから、色んな先輩の中に混じって色んなことを教わるんだ」

修造は指折り数えながら言った。

「共同体感覚を養って」

「ベストコンディションで挑めば」

「満足のいくパフォーマンスを発揮できるんだ」

指を3本見せながら「だからみんな体調を整えてくるんだよ。遊びすぎて体調悪いなんてカッコ悪いぞ。」

修造は隣に座って下を向いてる杉本の顔を覗き込みながら言った。

「今いてる従業員の殆どが、親方と一緒に作業の理由について体感してるやつばかりだよ。お前も俺たちと一緒にやろう。そして慣れたら親方に良い考えを提案して受け入れられたらやりゃあいい」

修造は珍しく言葉多めに話し続けた。

「それでももっとやりたい事があるなら自分の店を持った時にああしようこうしょうと自分の中に貯金をしておけよ。その時に初めて花開く事が多いんじゃないのか?」

「花開く」

杉本は手のひらを見つめながら言った。

「俺、偉そうに言ってましたけどボクシングも中途半端で負けてばかりで辞めてしまったんです」

「そうなのか」

「はい、パン屋での作業を軽く見てて、ここなら全然いけるんじゃないかと。でもやってみたら手順も多いし覚えなきゃいけない事ばかりでした」

「うん」

「それで我流でやってみたんです」

「通用しなかったろ?」

「はい」

「今日それが分かっただけでも良かったよ」

「俺もやり続けると花咲く事があるんですかね」

杉本は初めて希望とか夢とかについて少しだけ考えてみた。

「この先のもっと先に夢があるんですかぁ」

「そうだ杉本、その間にはお前が覚えなくちゃいけない事が沢山あるだろう?」

「はい」

修造は泥のついた手を綺麗に洗い、洗ったタオルで杉本の服の汚れを拭き取って工場の扉を開けた。

「それがここには沢山あるんだ。」

そこでは親方や職人達がテキパキとパン作りをしていた。

無駄な動きなく働いている。

「ここの全てを覚えるんだ。一つ一つな」

「それにはまず正しい丸めからだ。来いよ、俺が教えてやる」

「はい!」

そうして2人は楽しそうに分割を始めた。

修造は杉本の手の速さに合わせて生地を分割して渡して行った。

そこには修造に教わった通りの丸めを忠実にこなそうとする杉本の姿があった。

その時裏の戸をドンドン!と叩く音が聞こえた。

「はい、どなた?」江川が戸を開けた。

するとやんちゃそうな少年が3人立っていた。

「裏口が分からなくて迷ったわ。杉本く~ん。先輩がつるされてるのはどこ?」と言って江川を押しのけた。

修造が「なんだお前ら」と言って前に出ようとしたら、いきなり3人のうちの1番背が高いのが修造の胸ぐらを掴んできた。

杉本は3人の友達を見てびっくりした。

遅いのでもう来ないんだろうと思っていたからだ。

「お前らやめろよ。もういいんだよ」と杉本が言ったが修造ともみ合いになっている3人には聞こえない。

そこへ親方が珍しく仕事の手を休め「君たちここは工場だから外へでようね」といって3人を掴み、分厚い大きな両手で押し出して倉庫に行った。

そして修造の胸ぐらを掴んだ少年の手首を持って全身をぶら下げた。ぶら下がった方は手や足で攻撃しようとしたが親方に届かない。蹴ろうと足を前に出す度に親方がゆらゆらさせたからだ。

親方は残りの2人に少年をぶつけ「パン屋の腕力なめんなよ!」と言った。

それを見た修造、杉本、江川は同時に叫んだ。

「い、いかつう~」


3人が帰ったあと江川は杉本と散らかった倉庫を片付けながら「ねぇ杉本君」と話しかけて来た。

「さっき修造さんから何を教わってたの?」

「はい、貯金の話です」

「貯金?」

「心の貯金」

「もーう!なんの事かちゃんと教えてよ」

江川は悔しがった。

なにかかけがえのないものを手に入れた気がして杉本の心はワクワクしていた。

「親方、すみませんでした。俺まだここで働いてもいいですか?」

杉本は親方に頭を下げた。

親方はクリームパンを包みながら「はい、がんばろうね」と言った。

内緒だが、修造はしばらくの間杉本のパンチを受けた左手がめっちゃ痛かったと言う。

おわり

このお話は2021年08月01日(日)にパン屋のグロワールのホームページに投稿したものです。

10江川と修造シリーズ 短編小説 江川To be smart 初めての面接

江川と修造シリーズ 短編小説 江川To be smart 初めての面接

こんにちは、僕は江川卓也(えがわたくや)。

関東のとある郊外にあるLeben und Brot(リーペンアンドブロート)というパン屋のオーナーです。

Leben und brotって生活とパンって意味で前のオーナーが名付けたんだ。

生活にパンは欠かせないんだって言う事なんだ。

前のオーナーは田所修造さん。

僕たちは元々は商店街のパン屋さん「パンロンド」って言う下町のパン屋さんで働いてたんだ。

今日は僕が初めてパンロンドで修造さんに会った時の話をしますね。

————

「江川シェフおはようございます」

Leben und Brotで働いている西畑茂が挨拶して来た。

「今日は面接に来る人がいるので、その時立ち会って下さいね」

「うん、分かったよ西畑君」

「江川シェフもこの業界に入って長いですよね、もう15年ぐらいですか?」

「そうだね、そのぐらいになるね。僕がパンロンドに入ったきっかけはパン特集の雑誌で修造さんを見かけたからなんだよ」

「本当ですか?実は僕もそうなんです」2人はフフっと笑い合った。

懐かしいなぁ。

あれは15年前、僕は北国にある地元の高校に通ってたんだ。

僕は小さい頃からちょっと変わっていて、他人の考える事が人より敏感に分かったり、普通人がそんな事で悩まない様な事で悩んだりする様な子だった。

学校が荒れてたせいもあって、毎日みんなが自分勝手に生きてたり、わがままを人にぶつけたり、他人を馬鹿にしたり利用してたりするのを見てるのが段々嫌になって来て、高3の受験時期なのに学校へ行かなくなったんだ。

誰も僕のそんな敏感な所なんて知らなくて、みんなとの意識のズレがあってそれが嫌だったんだ。

本当に孤独で、学校にいてもいなくてもそれは変わらなかった。

その日は部屋にいたけど、家族がみんな仕事に行っちゃってて誰もいなかった。

リビングに行ったら誰かが買った雑誌がテーブルに置いてあったんだ。

関東のパン屋で特徴のある店が何軒か載っていたページが開いていたのでパンを食べながら本当に何気なく見てたんだ。

そのうちの一軒にめちゃくちゃ目力のある人が載ってて、ドイツで修行してたって書いていた。

僕は何故かその記事が気になって食い入る様に見ていた。

僕にはわかったんだ、この写真の人は正直で真っ直ぐな感性で、こんな人が近くにいたら僕ももう少し楽なのにって。

記事の端に一緒に働く仲間を探してるって書いてたからすぐにそのパン屋に電話して面接をお願いしたんだ。

—————

誰にも言わずに飛行機に乗って関東のパンロンドにたどり着いた。

そこは駅から5分ほど歩いたところにある商店街の中にあって、下町のパン屋って感じだった。

入ってすぐお店の奥さんっぽい人に話しかけたんだ。

「あの、僕電話した江川卓也と言います」

「あ、面接の方ね。工場の中にいる横幅のでかいのがここの親方よ。柚木(ゆずき)って言うの」

「はい」

「ちょっとー!面接に来てくれたわよ」すると中にいた大きな男の人が「入って貰って」と言ってきた。

僕は中に通されて、親方と話をした。

「よう、わざわざ北国から来てくれたんだって?ここには南から来たやつもいるよ」

親方は凄く気さくな感じの人だった。

良かった、優しそうな人で。

「江川君はパン屋でバイトした事あるの?」

「ありません、僕バイトした事なくて」

「今日はせっかく来たから少しパン屋の様子を見せてやるよ」

「はい」

江川は帽子とエプロンを借りて、更衣室で着替えた。

工場の中には親方と他に職人が三人いた。

パンの工場には店の近くに大きな窯があり、横には細長い機械が2台。後で知ったけどそれはホイロとかドウコンっていうパンを発酵させるものだったんだ。他にも生地を伸ばすパイローラーや生地を細長くするモルダーがあって、奥に生地を捏ねるミキサーがあった。

僕はみんなの様子を見ていた。

一人はずっとパンを焼いていて、一人は鉄板にパンを乗せて機械に入れたり出したり運んだりしてる。

親方はパンにクリームみたいなのを詰めていて、そしてもう一人がパンを捏ねるミキサーの前に立ってその中の様子を見ていた。

あ、この人だ写真の。。

江川は背が高く目力の強いその人の顔をじっと観察していた。無心にパンを作ってる感じだな。僕はパンって機械が作って流れてくるパンを袋に詰めてスーパーに並べて売ってるとこしか知らなかったな。

でもなんかパンと向き合ってると言うか、こんなに真剣に作ってるんだ。

工場の人達もみんな自主的に動いてる。

みんなやるべき事が決まってるんだ。

やがてパンが練り終わったらしく、目力男はミキサーから生地を出して、ケースに入れた。そしてまた次の生地を作るために計ってあった粉をミキサーに入れた。水と他の材料を入れてまた生地を練り出した。

へぇ〜パンってああやって作るんだ、知らなかったな。あ、また粉を計り出した、きっとまた次の生地を練るんだ。前もって用意しとかないと間に合わないからなんだな。凄い無心だな。きっと生地の事しか考えてないんだ。誰が自分の事をどう思ってるとかそんな事関係ないこんな生き方もあるんだ。

江川があまりに目力男の方を見たので、目力男も江川の方を見た。

「こんにちは。江川って言います。今日は面接に来ました」江川がにっこりして挨拶したが、男の方は表情も変えず「どうも」と言っただけだった。

そしてそれっきり生地が練り終わるまで江川の方を見なかったが、やがて生地ができたのでケースに入れて、それから裏の倉庫へ行ってしまった。

親方はそれを見て「もうすぐ採用試験が始まるからね」と言った。

「あ、はい」なんか緊張して来たな。

試験ってどんな事を書いたりするんだろう?履歴書を見ながら色々聞かれるとかもあるのかな?

江川がみんなの様子を見てると目力男が倉庫から「こっち。」と言って合図して来た。

————-

江川は倉庫について行った。

「俺は田所修造。みんな修造って呼んでるよ」

「修造さん、よろしくお願いします」

「今から試験をするよ。これから三分間でこのダンボールを3つに仕分けして俺のところに持ってくるんだ。途中与えられるヒントは一回だけ」

「えっ!」

倉庫を見ると床にシートが敷いてあってその上に沢山のダンボールが積まれている。大小形の違う三十個ほどあるダンボールを三つに仕分ける?

一体どうやってやるんだろう?

しかも三分で?!

江川は緊張で心臓の鼓動が速くなった。

「靴を脱いでシートの上に立って」

「はい」

なんのヒントもなく修造は「始め!」とやや大きめの声で言った。

え?どう言う事だろう。

これを三つに?

江川はウロウロした。

どうしよう?

とにかく運ばなきゃ

でもどうやって?

頭が真っ白になり一瞬立ち尽くした。

僕なんてダメなやつなのになんでわざわざ飛行機に乗ってまでこんな試験を受ける事になったんだろう。

江川はなんだか自分がクイズ番組のオーディションが何かに落ちた様な気持ちになって来た。

「ヒントを言うよ!『速くしなきゃ溶けるよ』」

速くしなきゃ溶ける?

どう言う意味だろう。

あ!

わかった!

この中のどれかが溶けるんだ、三種類あるんだから冷やすものとそうでないものが答えかも。

江川は近くの段ボールを触っていった。

あ!これ冷たくないや!て事は常温!

そう言って修造の所に常温と思われる箱を置いた。

修造の顔を見たが、なんの反応もない。

試しにもう一つ常温の箱を選んで重ねて置いた。

「正解」

正解だったんだ!

でも後の二種類は?

江川はとりあえず触って常温のものを修造の所に走って運んで行った。

運びながら、わかったぞ!冷凍と冷蔵だ!

でもどうやって見分けをつけるのかな?じゅう

そう言って箱を横目で見てるうちにある事に気がついた。

水滴がついてるのとついてないのがある!

そうか!表面の水分が気化して水蒸気が発生して水滴になったんだ!

て事は水滴のついてないのが冷蔵だ!

時間が経って冷凍の箱からは段々水分が滲み出てきた。

修造は、一生懸命な江川の表情の一部始終を見て少し微笑みを浮かべた。

「これ!冷蔵ですね?」

「正解」

あってるんだ!

とりあえず水滴の付いてないのを先に運んで、あとは残った冷凍の箱を運ぶだけだ!

「あと二十秒!」

時間がない!

江川は出来るだけ速く運んだ。三

修造がカウントダウンを始めた。

「十・九・八・七・六・五・四・三・二・一」

まだ運び終わらなかった。

「ゼ〜〜〜〜〜〜〜〜ロ!」

修造は運び終わるまでゼロの長いやつを言った。

最後の一つをつまづきながら運んで修造の前にドサッ!と置くことになった。

「す、すみません」

「大丈夫」

—————

今ので合格かどうか決まるのかな。。

江川は箱を素早く片付ける修造を、息を切らしながら見ていた。

「さっきのところに戻ってて良いよ」

「はい」

靴を履いて工場に戻るとさっきと同じ動きを皆んながしていた。

親方が「どうだった?」と聞いた。

「はい、時間が足らなかったんです」

江川は正直にいった。

「そう」と言って親方はまた前の作業に戻った。

え?

どうなるんだろう僕。

不採用なのかな?

学校でもここでも浮いちゃって居場所がないんだ。

江川はここにいるのが辛くなって来た。

心細くてこの世のどこにも居場所がない様な気持ちにさえなって来た。

もう帰ろうかな。。

僕が帰っても誰も気が付かないかも。

そう思った時、片付け終わった修造が戻ってきた。

親方は「どうだった?」と聞いたら修造が「ええ。」と返事した。

そして江川に「来いよ。」と言ってまた倉庫に呼び出した。

どうしよう怖い!

「良くやったな。」

「えっ?」

お前は優秀だって言ったんだよ。最後までやり遂げたじゃないか。」

え!

優秀⁉︎

この僕が、いつも浮いてて友達もいない僕が。

5   いついかなる時でも

「パターン認識って言葉聞いたことあるか?」

「いえ、ありません。」

「パターン認識ってテクノロジー業界用語なんだ。もともと人間が出来る事をコンピューターにさせる情報処理の事なんだけど、逆に人に当てはめて言うと、急な変化に対応できる力って事だよ。 

これは前にやったことがある、あの時はこのやり方で成功した、このやり方で失敗したとか、自分で経験を振り分けて当てはめられるどうかなんだよ。

パン職人の仕事を何年もしていれば、大抵この能力に長けて来て現場対応能力が養われていくもんだ。

お前にはその力が強くて、パンの世界でも上達が早そうだ。」

修造さんはさっきまでと違って突然滔々と話をし出した。

「パン屋の仕事っていうのは毎日同じ様でも違うんだよ。だからそのパターン認識を使って対応できる能力があるかどうかで、理解度が違ってくるんだ。過去にあった出来事から最適なやり方を導くんだ。」

「勿論レシピを基本として。今日はこの温度だからこういう水温で、今日は少し長めにミキサーを回す、どのぐらいパシナージュ(水分追加)するかとか。パン作りって毎日同じじゃないんだよ。だからパターン認識が凄く大事になっていくんだ。

江川、お前はこのやり方で現場対応能力があるかどうかを試されたんだ。

失敗を回避して成功に導くんだ。つまり一言でいうと『咄嗟の判断で失敗を回避する能力』の事なんだ。」

江川は修造の言葉を口を開けてポカーンと聞いていた。

僕がそんな能力に長けてるとは全然知らなかった。もしこの人に会えてなかったら僕は一生自分の事を誤解したまま引きこもっていたかもしれない。

僕は認めて貰えたんだ。

「お前は冷たい熱いという自分の手の感覚で本当の事を見抜いたんだ。手の感覚って言うのはパン職人にとって凄く大切なんだ。」

「それともう一つ。」

「はい。」

「試験の前に工場での人の動きを観察してたろ?なんだか分析力に長けた奴だなと目つきで思ったよ。」

何も言ってないのにそんな事わかったのかな。

逆に修造さんって凄いんじゃないかなあ〜

僕この人と仕事ができるなら良いのに。

「で、お前は合格したんだよ。パンロンドにいつから来れるんだ。」

「すぐ来ます。」

「えっ?」

「帰って支度したらすぐ引っ越して来ます。

帰りに不動産屋に寄って住むところを探します!」

「お前行動派だなあ。じゃあ来たら俺が色々教えてやるから一緒にパン作りを始めよう。」

「はい!」

「だけどな。」

「え?」

「お前は卒業までまだ日にちがあるだろう。帰ったら卒業まで毎日誰よりも勉強しろ、出来るだけ沢山知識を詰め込んで来い。授業についていけないんなら先生に隠れて一から教科書を読んで来い」

「僕友達がいなくて学校に行くのが嫌なんです」

「いじめられてたのか?」

「そういうわけじゃ無いけど、最近学校を休んでたから今更行きにくいな、、」

「お前が学校に行って何かに一生懸命打ち込んでたら人は寄ってくるもんだよ。もしそうならなかったとしても、俺がお前を待ってるからな。ここで働くのを目標にしてやれば良いんだよ。だから、勇気を持って学校へ行け!」

この人が僕を待っててくれる。

江川にはそれが未来への一筋の道に思えた。

もし今日ここに来なかったら、分からなかった事だらけだった。

この日から修造さんは僕の目標になったんだ。

ーーーーー

江川は懐かしい十五年前の採用試験を思い出して西岡に話した。

「江川さん、そんな事があったんでね」

「ねえ、西岡君、修造さんらしい面接でしょう?」

「はい、本当に」

「うちの面接なんて履歴書見てちょっと話するだけだもんね。」

「そうでしたね。僕もそれで江川さんに採用して貰いました」

そこへ修造が黙って入ってきて事務所の来客用の椅子に座った。

「修造さん。僕、今西岡君にダンボール面接の話をしてたんです」

「あーあれか、あれは準備と片付けが大変だったんだ。本物の冷凍の段ボールを使って溶けたらいけないから中身を水を凍らせたペットボトルに入れ替えて、シートの上に並べてさあ、面倒だから五回ぐらいしかやってないよ」

「え!中身はペットボトルだったんだ、知らなかったな」

江川は今頃真相を知って口をあんぐりと開けた。

「中には僕は箱を運びに来たんじゃありません!って怒って帰ったやつもいたぞ」

そこへ「面接の人が来ましたよ。」と連絡があった。

中に入ってきた若い子に江川はこう言った。

「こんにちは、僕は江川。うちは髪色自由のお店ですよ。」

江川To be smart おわり

読んで頂いてありがとうございます。

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

修造は普段は何も話さないのに時々スイッチが切り替わると解説しだします。

お話に出てきた現場対応能力ですが、筆者が見た凄い人達は百貨店に来ているマネキンさんです。

マネキンさんとは、マネキン会社に所属している方達で、催事の前にお願いすると週替わりの催事やパンの販売の時に来て下さいます。当日30分前に来て、並んでいるパンの値段をメモに書き、売れ筋のパンの特徴を聞き、開店時間には大体頭に入っていて、何年も務めた従業員さんの様にお客様に説明したりします。沢山売ってくださるので感謝しています。

9製パンアンドロイドのリューべm3


短編小説 製パンアンドロイドのリューべm3

60になったばかりの立米利佳(たちごめりか)は35年連れ添った5歳年上の主人の立米竜平(たちごめりゅうへい)を亡くしたばかりだ。

突然心不全で倒れ、急な葬儀となった。

30年前にパン屋「リットルパン」を開業して、2人で仲睦まじく営業を続け、今では街になくてはならない存在のパン屋になっていた。

赤ちゃんの頃にお母さんとパンを買いに来ていた子供がもう社会人になり、また朝のパンを買って会社に行ったりしている。

「長いこと続けていると子供も大きくなるわね。」利佳はいつも竜平にそう言っていた。

すると必ず竜平は「そうだね利佳」と返して来た。

竜平は静かな男で、声を荒げたりせず黙々と仕事を続けるタイプだった。

晩酌の時に酔って口数が増えたりするぐらいで、休みの日は公園まで散歩して花を見に行ったり、買い物をする程度で取り立てて金遣いが荒いわけでなく、比較的平和に人生を過ごしてきた方だった。

「ねぇ利佳、明日は昼から雨になるそうだよ。」

「ねぇ利佳、明日は昼から暑くなるそうだよ。」

客足と天気がとても関係するので、いつも竜平は天気を調べては教えてくれたり、作るパンの量を増やしたり減らしたりしていた。


葬儀は慌しく、後であの人を呼んでいなかったとか、あの人に連絡してなかったなど色々手落ちもあったが、バタバタしていて悲しみも少し紛れた。

立米夫婦には子供がいなかったので、跡取りもなく、パン屋は閉店するのかと道行く人達はシャッターの閉まったままのリットルパンを見て思った。

葬儀の後日、竜平の死亡保険金の手続きにアール保険の営業木村が来た。

「この度は本当に残念です。お気を落とされません様に」

いつもこう言ってるんだろうなと利佳は木村の言葉をぼんやり聞きながら考えていた。

すると「パン屋さんはどうなさるんですか?」と聞かれた。

「流石に私1人ではちょっと」と濁して答えた。

「ではこちらは老後の資金として大切にお使い下さい」入金の手続きをして、木村を帰らせてから利佳は1人で考える時間ができた。

これから

これからどうしよう。

先週迄はリットルパンは普通に営業していたのに。竜平も元気だったのに。

これから1人で生きていかなくちゃならないの。

急過ぎるわ。

そこへ

電話がかかって来た。

「はい立米です」

「立米さん、ミーテンリースの平方です。この度は本当に急な事で、ご葬儀にも行けず申し訳ございません。お仏壇にお線香だけでもよろしいですか?」

ミーテンリースの平方米夫(へいほうよねお)は近くから電話して来たらしくすぐにやってきた。

平方は良い人が浮き出た様な顔立ちの性格の優しい男で、ミーテンリースに入社して以降リットルパンにも長いこと営業に来ていた。

ミーテンリースはパン屋など食品業へのラベルプリンターのリースやレジのリースを行なっている会社だ。

平方はお仏壇に手を合わせて丁寧に亡き竜平への冥福を祈った。

「奥さん、本当に残念です」

「お気遣いありがとうございます」

「これからどうなさるんですか?」

「急だったのでまだ何も、それに流石に私1人では、、パンを作っていたのは主人ですし」

「ご近所の人達も残念でしょうね」

「はい」

「立米さん、今こんな事を言うのは不謹慎ですが、こんな時に営業か?とか思わないで下さいね。あくまでも悪気ない世間話と思って聞いて下さい」

「はい?」

「僕は昨日研修を受けて来たばかりなので、まだ興奮冷めやらないんですが、製パンアンドロイドっていうのが今僕のいる業界では出始めたんです」

「聞いたことあります。でも粉が詰まって故障したり、結局動作が鈍いとか、同じ場所でないと動けないとか。あまり良い噂は聞いてません」

こっちは主人の葬儀が終わったばかりなのにもう営業に来たのかしらと少し腹を立てて利佳は厳し目に言った。

「今まではね、でも昨日僕が見たのは全然違う最新型のアンドロイド『アンコンベンチナルm3』なんです」

「写真見てみますか?」

「完全に人型なんですね」

「はい、ちゃんと人間の様に歩いて動いて、流石に表情はありませんが声は以前は機械音って感じでしたが、少し滑らかに人っぽく聞こえます」

利佳はカタログを見て驚いて言った。「男の人と女の人の2タイプが?」

「そうなんです。機械としてではなく仲間として迎え入れるのがコンセプトです。より人間らしくできていますよ」

「それで?」

「はい」

「一体何ができるんですか?丸めだけ?」

利佳はアンドロイドと言っても機械なんだしせいぜい分割と丸めとか、荷物運びぐらいだろうと思っていた。

「それがね、僕が昨日驚いたのはそのアンドロイドの性能なんです。パン作りのあらかたをやってのけていましたよ」

そしてタブレットを取り出して利佳に見せた。

タブレットに映し出されていたのは、人型のアンドロイドが動いているところだった。

「これ、昨日僕が撮ったんです。今までは外国製が多かったんですが、日本の大学の教授がアンドロイドの開発に力を入れてましてね。ついに色んな職業のアンドロイドを作り出したんです。」平方は興奮気味に言った。

「パン職人の動きを徹底的に研究して、ついにパン作りができる様になったんです。」

「本当にそんな事ができるんですか?上手く映してるだけでは?」

「まあ見ていて下さい」

そのアンドロイドは材料の計量、ミキサーへの移動と混捏、ミキサーからの生地の取り出し、台の上に生地をあげての分割と丸め。そしてホイロへ入れてからの取り出し。窯へ入れてからの取り出し。

この作業を全てやってのけた。

「えー!凄い」計量ぐらいかと思っていたので、利佳は本当に驚いた。

「一連の動きが決まってるので、細かい入力は必要ですが、何種類かのパンはできますよ」

「でもお高いんでしょう?」と利佳は通販番組みたいな事を言ってしまった。

「そこなんですが、手付け金が結構高額なんです。それと毎月のリース料がかなり。とはいえ人件費より安いと考えれば」

利佳は一瞬頭に保険金の事が浮かんだ。

「本当に凄いので一度見学に来ますか?」とアンドロイドの性能に興奮してつい言ってしまったが、こんな時に不謹慎なと思って営業っぽい言葉は謹んだ。

利佳も先のことはまだ決まってないので「またそのうちに」とお決まりの断り文句を言ったその時、タブレットの画像にアップになった男型のアンドロイドが映った。

「これは?」

「こちらがさっき言ってた男型のアンドロイドです。男型、女型、声の質、声の高さ、話す速度とかも選べますよ。あとは入力次第では結構動けると思いますがそれはとても細かいので入力は僕が面倒みます」

平方の説明そっちのけで利佳はタブレットを食い入る様に見ていた。

その理由は

男型のアンドロイドが知り合った頃の竜平にそっくりだったからだ。

丸みを帯びた鼻と温和な顔立ち「決めたわ」

「えっ?」

「私このアンドロイドとパン屋を再開します」

平方は驚いた。

そんな急な。

いや、でも営業としては嬉しいかも。

しかし急な。

平方は「奥さん、入力内容を話し合う為にまた来ます」と言って会社に報告しに帰った。

新しいアンドロイドを迎えるのには色々準備が必要だった。

まず

充電の場所

アンドロイドが動きやすいところを作る

初期費用とリース料を用意する

アンドロイドが作れる生地で利佳がバリエーションを考えたトッピングを決める

入力内容を決める

この入力内容を決めるのが1番大変だった。

どの生地を作らせるのか決めたり、季節ごとの水温など配合を変える入力、リットルパンの店内での普段の動きの行動パターンなど、平方は専門家とやってきて何日間かつきっきりで設定をした。

そして最後に利佳に「声はどのぐらいのトーンにしますか?」と聞いた。

利佳は「もう少し低く、、今度はもう少し高く。」と竜平の声に限りなく近づけた。

「あとは、このm3の名前を決めましょう。勿論m3でも良いですが、奥さんが呼ぶと反応するニックネームが決められますよ」

「こういうのはどうですか?立米って体積の単位でリューべって言うじゃないですか?リューべはどうですか?」

利佳は

それが良い!

それが良いわ

竜平みたいな名前

リューべ

と平方の案に賛成した。

「それにして下さい」

「了解です」

いよいよ始動の時が来た。

ウイーンと音がして製パンアンドロイドリューべの首の後ろの辺りが赤く光った。

ピカピカピカピカピカピカと点滅を繰り返した後緑色に光った。

「リューべ、今日からここがお前の職場だよ」

「これが利佳さんだ。絶対服従だよ」

平方はまるで儀式の様にもうすでに入力済みの事を改めて言葉に出して言った。

「初めまして利佳さん」

利佳は改めて驚いた。入力が上手くて竜平の声そのものだったからだ。

専門家が「何か話しかけてみて下さい」と言った。

「リ、リューべ初めまして」

アンドロイドに話しかけるなんて中々ない。それどころかこれから一緒に仕事するんだわ。

ところがこれで設定は終わりではなかった、リューべの動きを見ながら計量の動作からまた細かく設定をしていって最終的にはパンを焼き上げるまでの一連の動作をチェックしていった。

「株式会社ミーテンリースとしても初めてのアンコンベンチナルm3のリースなので感慨深いものがあります」

「立米さん、記念にリューべと写真を撮ってパンの専門誌のミーテンの宣伝枠に使っても良いですか?」

「ええ、勿論です」

平方は利佳とリューべを並ばせて写真を撮った。

その日から利佳とリューべの生活が始まった。

毎朝利佳は家からタブレットで、店で充電中のリューべにその日のお天気とパンの量を設定した。

リューべは決まった時間に動き出して仕事をしていて、利佳がパン屋に着くと[おはようございます利佳さん。今日は良い天気ですね」と挨拶をした。

パンが焼けると辺りは以前の様に良い香りが立ち込めた。

久しぶりに店を開けたので、お客さんがパンを買いに来て利佳にお悔やみを言った。そして中を除いて「新しい職人さん?早く見つかって良かったわね」と言って帰った。

動きはぎこちないが遠くから見ると人そのものだ。

とはいえ竜平の様に全てのパンが作れるわけではない。以前とは違った商品構成にして、リューべのできるパンに合わせて具を挟んだりクリームを詰めたりとやる事は多かった。

納品業者には、仕入れた材料は必ず同じ場所に置く様に納品の時何度も説明して置いて貰った。

利佳はこれでまた毎日静かにパン屋ができると思っていたが、ミーテンリースがパンの専門誌に利佳とリューべの写真を載せると、それを嗅ぎつけたNNテレビがやって来て、リューべを映して帰った。それは夕方のニュースに流れ、翌日からアンドロイドの作ったパンを買いに沢山の人が訪れた。

人々はレジから奥には入れないので、奥にいるリューべをスマートウオッチのカメラで写して帰った。

利佳はリューべに話しかけた。

「凄い沢山のお客さんがリューべを見に来たわね」

「そうですね利佳さん」

リューべが返事をしたので驚きと違和感があったが、話しかけたら返事するんだわと気がついて「利佳って呼んで良いわよ」と言ってみた。

「はい。利佳」

「竜平、、」亡き夫そっくりの声。

「何故突然いなくなったの?」

「私を置いて」

「いなくなっていませんよ利佳。私はここにいます」

リューべの声は優しい声だった。


利佳はリューべとの生活に慣れてきた。

入力と清掃を怠らず、リューべが仕事しやすい様にそこら辺を整えた。

私はリューべがいるから寂しくないんだわ。

リューべは毎日1度は利佳に優しい言葉をかけた。

「利佳、今日もありがとう」

「利佳、いつも頑張ってるね」

など声をかけられるので、これってサービスみたいなものなのかしら?アンドロイドってすごいわね。と思っていた。

平方は初めのうちはリューべが心配でしょっちゅう様子を見に来ていた。

「どうですか?立米さん。リューべは上手く動いていますか?」

「平方さん。はい、とても優秀よ」

「それは良かった」

「立米さん、僕定年を迎えるんです」

「え?それは寂しいわ」

「でも大丈夫なんです。再雇用って事になって」

「そうなんですか」

「ええ、だからまたリューべの様子を見に来ますよ。何か困ったことがあったらいつでも駆けつけますから」

「はい、お願いします」

「利佳、カンパーニュが焼けましたよ」

焼成が完了した報告をリューべがして来た。

「呼び捨て、、?」

アンドロイドが利佳を呼び捨てにした事に、平方は違和感があって呟いた。

「あの、私がそう呼ばせてるんです」

なんだか恥ずかしくなって利佳は顔が赤くなった。

「親しみやすくて良いでしょ?」

利佳は言い訳した。

「そうですね、古くからペット用アンドロイドなどもあるぐらいですから、アンドロイドは仕事だけでなく、人の心にある程度寄り添う事ができます。色々話しかけたら情報量が増えて良いですよね」

平方はリューべの設定の所を見て

「朝の設定入力の時に、リューべが返信してくれますよ」

と説明した。そして何か色々入力していた。


アンドロイドと仕事していると絶対にない事

「奥さん僕今月いっぱいで辞めさせて貰います」

そんな心配も無くリューべとの毎日は過ぎていった。

利佳はリューべになるべく色々話しかける事にした。

「リューべってどのぐらい話せるの?」と聞いたら「元々は2万語ですが、会話するごとに覚える機能もあります」と答えた。

それ以来、利佳はリューべになるべく話しかけるようにした。自分の生い立ち、初恋、初めての仕事や悩み、竜平との出会い。

などなど

朝はリューべにメールした。

「おはようリューべ」すると「おはよう利佳、今日はいい天気ですよ」と返事が来た。

恋人同士みたい。

利佳はちょっとだけ思った。

ちらっとだけ。

生地のアイテムは少ないが細々とリューべと二人三脚で利佳の毎日は続いた。

その日は利佳の誕生日だった。

「利佳、誕生日おめでとう」

「リューべありがとう」

そしてハッピーバースデートゥユーと歌い出した。

ちゃんと「ハッピーバースデーディアリカ〜」

と名前を入れて歌ってくれた。

利佳は驚いた。

「こんな事までやってくれるなんて本当によくできてるわね」

そんなある日

利佳とリューべはいつもの様に仕事をしていた。

突然棚がキシキシと揺めき出した。

「地震だわ!」見るといつも安定感のあるリューべもグラグラとしている。

支えなきゃ倒れる!

そう思ってまろびながら利佳はリューべに近づいていった時、最も建物がグラグラと揺れ出した。

リューべが倒れかけた時、利佳はリューべを支えようとしたが、上からリューべが倒れてくる感じになった。

リューべの左脛(すね)の部分が利佳の右の脛に当たり下敷きになった。

揺れが収まりあたりは静かになった。

建物はどうもないが電気が消えて、棚から落ちたものが散乱している。

痛い。

何とかリューべの下から抜けだして立とうとしたが打った所は激痛が走る。

「折れてるんだわ」工場から外に出るのもなかなか大変な事だった。

そこへ平方から電話が掛かってきた。

「こんな時にすみません。そちらは大丈夫ですか?m3は大丈夫でしょうか?」

利佳は何とか周りのものをどかせて床に横になりながら「リューべが倒れてしまったんです。今は動いていません。すぐ来れませんか?」と無茶なお願いをした。

利佳の周りにも物が散乱しているのだから、平方もどんな状況かわからない。

「平方さんは無事ですか?」

「はい、咄嗟に机の下に隠れたから何も頭に当たらず無事ですよ。そちらはどうですか?」

「それが足が折れたみたいで痛くて」

「ええ!それは大変!すぐに行きますね」

平方は取るものもとりあえずという感じですぐに来てくれた。

「すみません。動けなくて」

平方は利佳を病院に送り届けた。病院の廊下は地震で怪我した人が何人か来ていた。廊下で医師が臨時の診察を行い、利佳の足を診た。

「脛が骨折の疑いがありますね。レントゲンが今混んでるので先に手続きをして病室にいて下さい。応急処置をしておきますね」

平方は利佳を車椅子に乗せて病室まで付き添った。入院の手続きをして「僕は今から店に行ってリューべを調べてきます。何かいるものが有れば持ってきますよ」と言った。

「すみません、すっかり甘えてしまって」

「良いんですよ。怪我してるのに。いるものと場所をここに書いて」

利佳は紙にいるものを書きながらなんだか不思議だわ。と思った。彼氏みたい。

薄く笑いながら平方は営業マンだからと自分を納得させた。

とはいえこんな親切な営業マンがいるのかどうかも疑問だった。

リューべのために来て、私はついでに病院に運ばれたのよ。

平方に紙と家の鍵を渡した。

利佳は1人しかいない肉親の2つ上の姉、真由に電話した。

「もしもし姉さん、今骨折して病院にいるの。そう、さっきの地震よ。遠いのに悪いけど来てくれない?」

とにかく店が心配なので姉に見に行って貰う事にした。

片付けなきゃいけないのに入院になってしまったわ。

リューべはどうなったのかしら。私の大切なパートナーリューべ。

「立米さーん、レントゲン室へすぐに移動します」

順番待ちが来て利佳はレントゲンを撮り「骨折ですね、3ヶ月で退院の予定です。早いうちにリハビリを始めましょう」と言われた。

手術を終え、仕方なくベッドに何日か横たわっていると平方が報告に来た。

「立米さん、リューべを細かく検査しました。一部ショートしたところがあって部品を変えなきゃいけない。その時に初期化しないといけなくなるんです」

「えっ!初期化?」

利佳は「今までの事が消えてしまうの?」と込み上げる喪失感に泣いた。竜平を重ね合わせたリューべの記憶が消える。

平方は困った。

長い間一緒にいると情も移るよな、それが人間ってもんだよ。それに俺がパン屋で故障を確かめるために起動した時、一瞬m3は目を開けて首を右左に動かして「利佳」って言ったんだ。

人間みたいに。

驚いた。

平方は考えた。

そして会社に戻り、技術担当の岡野に掛け合ってリットルパンでの記録を一旦全て取り出してまた戻す事にして、それを利佳に報告した。

「何とか記録は残せそうです」

「平方さん、こんなにして頂いてありがとうございます」

「いやあ」

あんな涙を見てほっとけるもんか。

でもこれ、えらい高くつくから会社に内緒でやって貰ったんだ。技術とは長い付き合いで弱点も知ってるからな。そこをついてやらせたんだ。会社にバレたら俺はクビだな。

とは言えうちのm3をこんなに可愛がってくれてるんだ。このぐらい当然だよ。

「そうだ立米さん、m3は退院したぐらいに治ってきますよ。だからリハビリ頑張って下さいね」

「はい!頑張ります」

「それと、、」

「はい?」

「実は次にリューべが故障した時の事なんですが、初めは新型だったm3も今では随分旧式になってしまいまして、部品がもうないと言う事態になる事を覚悟しておいて下さい。折角治ったんですから大事に使いましょうね」

平方はにっこりした。

「わかりました。大切にします」

ベッドから平方の背中を見送りながら利佳は思った。

部品がもう無いなんてよく聞く話だわ。いつも本当に部品が無くて治せないのかしら?と思ってるけどどうなのかしら。

平方さんにはお世話になってるし、そんな事考えちゃいけないわね。


リハビリを頑張り、やっと退院して店に戻った利佳はリューべと久しぶりに再会した。

「リューべ、ひどい目にあったわね私達」

「利佳、久しぶりですね。私は長い事お休みしていました」

「なんだかチグハグな会話だわね」

それを聞いていた姉の真由が言った。

「あら、ちゃんと話せるわよ」

利佳はリューべを庇って言った。

「ねぇリューべ」

「はい、利佳」

「呼び捨てだわ」

「私がそうさせてるのよ」

「ええ?」

「その方がフレンドリーじゃない」

「まあいいわ。利佳がそれで良いなら。ところでね、あなたいつまでパン屋を続けるの?今回みたいな事になったら困るでしょ?そろそろ引退したら?もう年金がもらえる様な年なんだし」

「だんだん治ってきてるわよ。リューべもいるし。まだ頑張れるわ」

姉が心配するので利佳は開店を遅くして閉店の時間を早くした。

アール保険の木村がやってきた。「こちらが入院と手術費用の請求の申し込み用紙です。こちらに医師の証明を記入してもらって下さい。それにしても大変でしたね。結構怪我された方も多いです」

「地震、怖かったわ」

「気をつけて下さいね。年齢とともにこけただけで骨折なんて事になる方も多いんですから」

次は気をつけないとと、リューべと同じ様な事を言われて、利佳はリューべに「保険屋の木村さんがこんな事いうのよ」とか「今日は雨だから足が痛いわ」とか話した。

するとリューべは「そうなんですね、利佳、今日も頑張ってるね」と返事をした。

時々トンチンカンな返事をするリューべ、でもあなたのおかげで毎日楽しいわ。

利佳とリューべの毎日は静かに進んでいった。


何年かして、リューべは時々動きが止まる様になって来た。生地を練ったり、分割の時はまあいいが、焼成の時に止まってしまうと、リューべが動くまで窯の扉が開けられない時があって利佳を困らせた。

今度故障したら部品がないとか本当かしら、、

そうなったらリューべはどうなるの?

恐る恐る利佳は平方に相談した。

平方は「うーん経年劣化ですね」と言いながらリューべを調べた。

やはり、以前平方の言った通り見通しは厳しいらしい。リューべは今ではすっかり旧式になり、初めは新型ともてはやされていたのにもはや忘れられた存在になっていた。

「m3を使ってるのはリットルパンだけになってしまいました」

そうなのね、私も覚悟を決めないと。

あの、、

聞くのが怖かった。

「いよいよ故障して動けなくなったらどうなってしまうのでしょう?」

「そうですね、機密漏洩の観点からも基本引き上げて処分になります。つまり回収と言うことで、、」言いにくいなと思いながら平方は説明した。


工場でリューべといる時に、利佳は「リューべ、故障しないでね。いつまでも私と一緒にいて」と話しかけた。

「はい、利佳。今日も頑張りましょう」

リューべがまだ動くうちは私もリットルパンを意地でも続けるわ。

利佳の決意も虚しく、リューべの動きの鈍さは日毎に回数が増していく。

一度電源を切ってまた入れ直したり、入力を変えてみたりだましだまし仕事を進めた。もういっそ生地の量を減らす方がいいかしら。利佳は悩んだ。

リットルパンは休みが多くなり、パンは少ししか棚に並ばなくなって来た。

そしてある日とうとう

リューべは動かなくなった。

ところが

「利佳、おはようございます。今日も頑張りましょう」

身体の動かなくなったリューべはまだ話ができる様だった。

「おはようリューべ、私達とうとうパン屋さんを辞める日が来たわね」

平方がやって来て「会話の回路と身体の動きの回路が違うんですよ。だから話はできるんです。ですが、、言いにくいんですが、とうとうm3を連れて帰らないといけなくなりました」

「分かっています」

そう言いながら平方の前にも関わらず、利佳はリューべにすがりついた。

「リューべ、今までありがとう。大好きなリューべ」

来た時はツルツルだったリューべの肌は今やカサカサで破れかけのビニールの様だった。

「丁寧に使っていただいたからこんなに長持ちしたんですよ」

涙が溢れかえる利佳からリューべを引き離していいものかどうか平方は困ったが、パン屋を閉店したらリューべがいる理由は無くなる。

業者が来てリューべを車に乗せた。

その間も利佳はずっと泣いていた。

運転席で配送のものが言った。「あんなに泣くなんてよっぽど大事にしてたんですね。長いこと使ってると情も移りますよね。もらい泣きしそうになりました」

俺がミーテンリースに入社して以降、リットルパンには随分通った。初めて挨拶に行った時、あの奥さんは弾ける様な笑顔でよろしくねって言ったんだ。俺はずっとあの笑顔の為に生きて来たのに、あんなに泣かせるなんて。なんて因果な仕事なんだ。

今まで俺はこの会社の為にどれだけ頑張って来たか。それが最後はあんな風に泣かせる形で終わりになるとは。

このままで良いのか

このままで。

m3がたどり着いたのは廃品になったアンドロイドを置いておく安藤部品工場の倉庫だった。

そこはミーテンリースの委託の会社で、安置されたアンドロイド達は順にバラされて使える部品を海外に販売される。

社長の安藤に挨拶して「あのさ、頼みがあるんだけど」と言った。

「俺と社長の仲じゃんか」


リットルパンは閉店になり、周辺に住んでいるお客さん達は残念がった。

お客さんによって好みが違い、あのパンが良かった、このパンが良かったと様々に食べられなくなったパンの事を懐かしんだりした。

利佳はもう年なので、業者に頼んで中のものを整理して改装し、またお店を誰かに貸すことにした。

がらんとなった店の内部は綺麗に壁紙を貼り変えられ、以前の雰囲気はもうない。

以前工場の奥でリューべがいた場所も、機械は全て取り払われた。

終わりってこんな感じなのね。

利佳の胸に寂しさだけが残った。

竜平もリューべもいなくなったわ。

家に帰って塞ぎがちの毎日が始まった。

もうこれからはこうして1人静かに暮らすのね。

お茶を入れて机の前に1人座っていた時。

ピンポーン

と玄関のベルが鳴った。

平方が何か大きな荷物を背負ってやって来た。

「いや〜こんにちは立米さん」

「平方さん!こんにちは。それはなんですか?」

と言って布に包まれた荷物を指さした。

「これはね」

平方は荷物を縛っていた紐を解いた。

「あっ!」利佳は思わず叫んだ。

「リューべ!」

「そうなんです。廃品解体の社長に頼んで身体の中の部品以外をもらって来たんです」

そう言って首の後ろのボタンを操作した。

「残念ながら身体は動かせなくなったけど、話せるんですよ」

「ええ?」利佳は驚いてリューベと平方をかわるがわる見た。

赤いランプがしばらくして、緑に変わった。

平方はしばらく操作していたが、やがて

「これで大丈夫ですよ」と告げた。

「利佳、こんにちは。今日はいい天気ですね」

「リューべ、そうね、今日は本当にいい天気だわ。これでいっぱいお話ができるわね」利佳の瞳は涙でいっぱいになった。

「平方さん、なんと感謝していいか。本当にありがとうございます。私ずっと思ってました。あなたが私の誕生日や優しい言葉をリューべに入力してくれたんでしょう?」

「いやあ。あれはサービスですよ」

そう言いながら照くさそうに笑った。

「奥さん、僕も会社を退職する事になったんです。それでなんですが、僕も暇ができるので、こうしてリューべの様子を見に来てもいいですか?というかお茶しに来ても構いませんか?」

「はい、勿論」

ボディの部分が空になりすっかり軽くなったリューべに利佳は男物の服を着せて、食卓に座らせた。

もう休みの日とか日曜日とか関係なく、平方はしょっちゅう訪ねて来て、3人で仲良く会話をして楽しんだ。

おわり

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