53パン職人の修造 江川と修造シリーズ赤い髪のストーカー

赤い髪のストーカー

葛城麻弥(かつらぎまや)の生家は古風な家柄だが、だからと言って特別裕福でもなく、父親はモラハラ気質の人間だった。

父親は大抵において外面は良く、他人に気を使う分、家に帰ると不満を溜めて愚痴を言い続ける。

自分の子供の事を他人に自慢するのを恥ずかしい事だと思い込んでいて、その為客人の前で麻弥に厳しい態度を取り、叱責することも多かった。

母親は厳格で口うるさい父親の機嫌を損ねるのを嫌い、麻弥に「お父さんの嫌がる事はしない様に」とよく言い含めていた。

唯一ましな点は父親が直接麻弥に手をかける所が無かった所だろうか。その代り毎日毎日つまらない愚痴が日常に纏わりついて麻弥の心を蝕んでいった。

ある日麻弥が幼稚園から帰るとそれはそれは可愛らしいワンピースと外国製だと一目でわかる可愛らしい木の人形と家具のセットが机の目につく所に置いてあった。麻弥はワンピースをそっと手に取り身体に当てて鏡に映してみた。ニコッと笑ってみるとおそらくどんな子供が着ても上品でお金持ちの家の子の様に見えるだろう。その後綺麗な箱の中の木のおもちゃを覗いてみた。触ったら叱られるのか分からないが可愛いお人形が2個、小さなピアノ、ベッド、スタンド、クローゼット、テーブル、椅子が2つ、キッチンセットが一つ。

麻弥はお人形にあやかちゃんとまきちゃんという幼稚園のクラスで人気者の子供の名前を付けた。地味で大人しい麻弥にとって生まれた時から明るくて派手な立ち居振る舞いができるあやかとまきは羨ましい存在だった。

麻弥があやかちゃんに手を伸ばそうとした時「帰ったのか?」と父親の声がした。麻弥はビクッとして手が痙攣したかの様になり、急いで手を後ろに隠した。

父親は母親に向かって、この人形と服は出張でドイツに行った上司がくれたものだと言う。

麻弥はドイツという言葉を初めて聞いたが、何となく国の名前なのかと言う事はわかった、なのでこの言葉にはそれ以降も憧れを抱く事になる。

父親は慎重にワンピースを袋から取り出し、丁寧にタグを外してタンスの上に置いた。母親に「着せてみろ」と言ってそっとワンピースを渡した。

母親は丁寧に麻弥に洋服を着せると「可愛いわね」と言った。

ドイツ製のワンピースは白と青のチェックで半袖はパフスリーブになっており、胸にはレースと青いリボンが付いていた。スカート部分はウエストから膝までの長さで中にクリノリン(針金)が施されていてお姫様のようにふんわりと広がっている。

地味な顔立ちで自分があまり可愛いと思っていなかった麻弥だったが、この時は絵本のお姫様のような気持ちを味わえた。

だが何故か父親はその服をすぐに着替えさせるように母親に言った。

「汚れるといけないから着替えましょうね」と母親に言われ、麻弥は人形のように大人しくワンピースから普段着に着せ替えられた。

次に儀式のようにお人形に触っても良いと言われたが父親はまた箱に傷が付かない様にそっと開け、人形が留めてある黒いゴムを慎重に外した。

遊んでも良いと言ったものの、汚さないように麻耶の横で見張っていた。

幼稚園では麻弥はあの洋服と人形セットが気になり、帰ってすぐに手に取って遊んだが、母親も人形が汚れないように慎重に遊ばせていた。麻弥はワンピースを手に取り着ても良いかと母親にアイコンタクトを送ったが「またお出かけの時にね」と言われる。人形は汚さずに気をつけて遊ぶ高級品だとか、ワンピースもまた然りだと子供ながらに自分を納得させて次の機会が来るのを待った。

しかしその機会は無かった。

10日程経った月曜日、麻弥が幼稚園から戻り、部屋に入るといつもの所に人形も洋服も無くなっていた。

麻弥は部屋から、家の端々へと順に探したが見つからず、母親に潤んだ瞳で訴えた。母親は麻弥に「あれはね、お父さんの会社の偉い人が返してって言って来たの」とだけ伝えた。麻弥が部屋で泣いているといつものように帰宅した父親の愚痴が始まる「あいつの娘が色が嫌だと俺に渡してきたくせに、娘の気が変わったから返せと言ってきやがった」こう言うと嫌そうに聞こえるが実際には平身低頭。急いで元の状態に戻して渡したのだ。いつでも自分が気に入られたい誰かの為に「お嬢さんに」と言って渡せるようにしていたくせに。

一旦麻弥の物だった、しかし今は他人のものだ。麻耶にはどうすることも出来ない。

他の家の子供なら父親に文句を言って泣き喚いたり、母親が父親を叱責したりしたのだろうが、麻弥の家にはそんな出来事は無かった。

このことは麻弥の心にシミのように小さな黒い色を付けた。

麻弥は成長するにつれ、徐々に自分というものを見失いつつあり、父親の言いなり人形の様になっていた。しかしまだ自分を大切に思う気持ちも無いわけでは無かった。

麻弥がある日小学校の子供達が読む雑誌のお菓子特集の中のクッキーのレシピを見て家にあった材料でお菓子を焼いた時、母親がとても褒めて美味しいと言ってくれた時の事が後を引いて記憶に残った。それは幼少期の麻弥にとって数少ない成功体験で、後々唯一自信の持てる特技になっていった。

中学になると家庭科クラブに入り、料理やお菓子作りをするのが楽しく皆に混じって作っては出来上がりが良いのを心の中では嬉しく思っていた。

高校生になると料理クラブに入部する。ここでも大人しく、誰にも注目されなかったが、クラブのある日は少し心が躍った。

顧問の先生が「今日はシュトロイゼルクーヘンを作りましょう」と言って皆にレシピを渡してきた。シュトロイゼルクーヘンはドイツのお菓子で季節の果物とシュトロイゼル(そぼろ)を載せて焼いた物。

型に生地を敷き、上にスライスしたりんごを並べてシュトロイゼルを上に敷いて焼く。麻弥は作っている間ドイツのお菓子なんだという事に強い憧れを抱いた。

カットしたクーヘンを皿に乗せて皆に配り、試食をした時、焼きたてのサクサクのシュトロイゼルとイチゴのジューシーな酸味とその下のふんわりした生地が順に口に広がり、麻弥はこの時親ではなく自分でならこのように実現が可能な事を知る。

いつかお菓子作りを仕事にしたい、麻弥の心に将来への道ができた。

しかし日本にいてはあの父親が束縛するのではないかと気が重く麻弥はどこか遠くに行く決心を固めた。

この家から逃れ、単身ドイツに渡る事を夢見て色々調べた。言葉を勉強したり、アルバイトに精を出してお金を貯めた。

麻弥は本当に声が小さく何を言っているのか耳を欹てないと聞こえない程だった。

だが意を決して先生に進路の相談をする時、お菓子の資格を取りに海外へ行く方法を聞き、先生も語学の勉強や受け入れ先を探す為に色々調べる約束をしてくれた。

先生にすれば単身乗り込んで困ることが多いように思えてサポートをしてくれる受入れ先は無いかと探してくれた。だが先生が言ってきた留学の費用は麻弥にとっては高額でとてもじゃないがお金が足りない。

先生が一括で払う訳では無いからお父さんとお母さんに相談する様に言ってきた。なので先に麻弥の有り金全てを支払い、後はドイツで働いて生活する、いわば捨て身の計画を立てた。

お菓子の修行をする為と、その資格を取るのを理由に家を出ると言った時も、父親は「お前みたいな気の弱い娘に外国でやっていけるわけが無かろう」と言葉をぶつけて来た「どうしても行きたいなら金を貸してやる、毎月働いた金で返済しろ、もし一度でも遅れたらその時は戻って来い」その系の言葉を何度も何度も高校を卒業するまで言い続けた。

母親は不憫な娘のためにドイツ行きの準備を一緒にして、なけなしのへそくりも持たせてやった。

麻弥がたどり着いた所はとても寒い地方で、日本人街もある都市で、そこで語学学校に通い、自分でヘフリンガーというベッカライのマイスター(親方)に自己紹介の手紙を書いた。自分はお菓子作りを12歳からやっていて、今では『黒い森のケーキ(シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテというさくらんぼのケーキ)』も作れますという内容を丁寧に書いた。

程なくして働いても良いと言う内容の手紙がマイスターから届いた。

ベッカライヘフリンガーはライン川が真ん中を通っている町の右にあり、店の周りはドイツの観光地のイメージとは違い白い四角いピルが多い。

店内には多くの人が働いていた。
ドイツ人以外にも色々な国の人がいる。工房の奥には浴槽ぐらいの大きなパン用のミキサーボールが沢山あり、運ぶ時は専用の台車に乗せていた。その手前にはパンがどんどん流れてくるモルダーという製パン機械が見えていて、その機械で流れて来たパンを成形して板の上に乗せて発酵したら焼くのだが、日本のパン屋さんでは中々見たことのない何段もあるオーブンが数台並んでいて、そこでパンが焼かれラックに乗って運ばれて来る。

麻弥はあまり建物の奥に行ったことは無い、ケーキを作る部屋に行くとき通路の奥に見える程度だった。
麻弥の働いている所には真ん中に大きなテーブルがあって、その台の上でクーヘンやクッキーなどの菓子類を作っているのだ。麻弥の仕事は初め掃除と包装だけだったが、徐々に製造を教えて貰う事が増えて来た。

ーーーー

またみんながサッカーの事で盛り上がっている。推しのチームが昨日の試合で勝ったのだ。麻弥はサッカーに興味がなくてそんな時は黙って見ていた。

大人しくて個性が無く居なくなっても誰にも気付かれない。

麻弥は静かな子と呼ばれていた。

例の通路の奥に見えるパン部門に背の高い日本人の青年がいるが話した事はない。

第一こちらを見る事もないので顔見知りと言えるかどうかもわからないが時々日本語が聞きたくなって『あの人がこちらを向いて笑って一緒にカフェで話す所』を妄想した。

スタッフ全員で集まる事があるが日本人の青年は奥の方に黙って立っていて、ノアと言う職人が話しかけると何か返事する程度で目が合う事はない。
自分も話しかけたいが全くスキがないし、自分も勇気が出ない。

ノアは初めのうちはよく背の高い青年に怒鳴っていた、言葉の壁がありイライラする時がある様だが青年はそんな時も平静を装っている様だ。

麻弥は青年に対してシンパシーを感じてとても気になる存在になっていく。

同僚のモニカは顔立ちも派手で髪は黄色で赤いメッシュを入れている。明るい性格で、皆とよく話しをしていた。

みんなに馴染むために髪を同僚のモニカと同じ色に染めた。

鏡に向かって微笑んでみた。

地味な自分には全く不似合いだったがモニカの様に堂々と生きているのが羨ましい。メイクもモニカに似せて目の周りを一周アイシャドウで囲った。

そんな日々の中、父親への返済が滞ると直ちに帰らされるのを恐れてキツキツの中送金していた。麻弥は残ったパンを貰って帰って寮で食べ、天気の良い休みの日はライン川の近くの公園で過ごした。

川沿いの歩道沿いの並木の下に所々ベンチがある。そこからはこの街の観光スポットで有名な変わった形のアパートや電波塔が見える。

塔の上には回るレストランがあって、街を眺めながら食事ができるらしい。その横の広場ではクリスマスマーケットの準備をしているのが見えた。そしてどうやって運んでいるのかは分からないがいつの間にか巨大な観覧車が聳え立っていた。麻弥はその観覧車を見ながらあの背の高い男の人と観覧車の上から遠い所まで眺めて、あれは何の教会だとか隣町が見えるとか話せたら良いのにと妄想していた。

お金もなくもうドイツにいるのも辛くなってきた頃、麻弥にとって心を大きく支配する重大な出来事が起こった。

麻弥はへフリンガーに来てすぐの頃は力も速さも劣り中々種類も覚えられなかった。概ねは通年同じ物を作る繰り返しだったが季節によっっては延々とお祭りの為の物を作る事もある。

どんどん流れてくるチョコレートにアイシングで線描きして行く時などは終わりがあるのかしらと思うぐらい大量にできるのでその時は驚きの連続だった。

クリスマスの準備で店内も工房も商品が変わりつつあった。麻弥はエンゲルスアウゲンというジャムを上に乗せた小型のクッキーを大量に作って可愛い包装紙に手早く袋詰めをした後店に並べていた。

その時突然グレーの帽子で黒いパーカーの男が鋭いナイフを持って入って来た。「Gib mir das Geld!」と叫んでいる。

「強盗だわ!」運悪く麻弥は一番近くにいた。

男は麻弥の手首を掴んでナイフを喉元に突きつけたり、そのナイフでレジを指して金をよこせと言っている。

ナイフの先は喉の皮膚を傷つけて少し血が出てきた。怖くて声は出ない。このまま鋒が突き刺さると死ぬんだわ。

運が悪い、まさにその言葉通りだわ。

いい事なんて無かった人生が終わるんだという気持ちと死ぬのは怖いという気持ちが交錯した。騒ぎになり奥に何人かが叫びながら走っていった。

その時、工場から例の背の高い男が現れた。

「常吉さんはどうなんですか?良いんですか?嫌なんですか?」

工場の奥で働いている田所修造さんだわ。

修造は細長いピールを手に持ち、一瞬ドンとピールで床を突いた。そして強盗をよく観察してピールの先を強盗に向けた。その時モニカが麻弥を引き寄せて遠ざけた。強盗の刃先が修造に向けられたからだ。

修造は右足、左足と直線上を真っ直ぐ男の方に進み、思い切り踏み込んでバンバンと左手のナイフを弾いて右肩を思い切り突いたので、ピールの先は左肩にめり込んで男は喚いた。その間はひとつ息を吸って吐くぐらいの短い間の出来事だった。いつの間にか修造は男を裏返して上に乗り、長いピールの柄(え)男の右袖から左に通して麻弥の足元を見て「紐ある?」と聞いた。

修造に包装用の紐を渡して男が縛り付けられる様を見ていると、足を縛りながら今度は「警察に電話して。」と言われたので他のものが慌てて電話しに行った。

ノアが「スゲェこいつ忍者みてぇ」と言ったのでその後修造はみんなから忍者と呼ばれる様になる。

修造はカカシの様に通した棒に足を縛った紐を無心ですぐに工場に消えて行った。

その時からだ。

麻弥の心の全てを修造が埋めた。

嫌な事で埋め尽くされていた麻弥の脳内は甘くて温かいもので満たされた。

工房から店への移動中、用もないのに工場の奥を覗いて、修造がチラッと見える度に胸が熱くなった。

修造の写真を隠れて撮り、部屋に貼り付けた。

話しかけたいわ。

こちらを見て欲しい。

それは生まれて初めての感情だった。

でも両方ともできそうで全然出来なかった。

麻弥は男性と話をして気を引く様な事は全く出来ず、修造は麻弥の方を見る事は無かった。

そこで麻弥が考え出したのは「明るい同僚」の設定だった。

高校で見た『クラスの中心的人物で華やかで明るく友達も多い素敵な女の子』それを真似ることにした。

まずメイクを明るめにして、いい匂いをさせ、修造がカゴに入れたブロッチェンを運んでいる時に「修造元気?」と言って腕にチョンとタッチする事から始めた。

修造はろくに返事もせず素早く通り過ぎた。

麻弥は顔が引き攣っていたが、修造はその引きつった顔を見る事は無かった。

麻弥はそれ以降すれ違う度にそれを実行した。

修造が嫌がっているとも知らずに。

クラスの中心で一際派手な女の子が修造の最も苦手とする女性像だった。

修造の高校時代には同級生から空手男とか、無口な修造と言われてからかわれていた。修造はなるべく馴れ馴れしい麻弥と関わらない様に務めたが、麻弥は修造の渡すプレッツェルの入ったカゴを受け取る時抜け目なく手を握ったりした。

秋も終わる頃店内はクリスマスの用意でもっとも忙しくなった。クリスマス用のレープクーヘンに可愛い絵を描いたものを延々とラッピングして箱詰めを続けた。そのうちにいいアイデアを思いついた。クリスマスマーケットにみんなで行く体(てい)にして接近すれば良いんだわ。素敵なクーヘンがあるから見に行きましょうとかなんとか。

「修造、次の休みにみんなでクリスマスマーケットに行ってみない? 珍しいレープクーヘンが沢山売ってるから勉強に行きましょうよ。」麻弥は計画通り明るい同僚の言い方で修造を誘った。

修造は麻弥の肩のあたりを見て『うん」と言った。

これが2人の初めての会話だった。

麻弥達何人かと修造はクリスマスマーケットに出かけた。

生まれて初めてこんなに煌びやかで飾りの凝ったマーケットを見た。

美しい建物が沢山立ち並び、その広場には屋台というよりも、しっかりとした作りの小屋が沢山並んでいて、まるでひとつの街みたいに広い。

木作りの小屋(ヒュッテ)にはそれぞれの店に所狭しとクリスマスのものが並んでいる。

食べ物の店も沢山あるし、クリスマスのグッズがびっしり並んだ店もある。

「凄いなあ」

寒さに震え、みんなで甘くて酸っぱいシナモン味のホットビールを飲んだ。

ほろ酔いになり、会場の店を見て廻った。

『明るい同僚の麻弥』は何かと修造にボディタッチしたが修造にはずっと気がつかないふりをされていた。

修造が他の人とはぐれて1人で会場の奥にある綺麗な観覧車を見ていた。

告白するなら今しかない。

麻弥は今までの人生の自分の中の勇気のかけら全てを集めて言った。

「修造、私修造のことが好きなの。私と付き合って」と色々振り絞って言ったが修造からはこんな返事が返って来た。

「自分は結婚していて、奥さんと子供がいるんだ。もし麻弥と付き合ったら、自分の性格では麻弥のことも自分の奥さんのこともどちらも裏切れないと思う。自分は日本に戻って律子とパン屋をする為にここにいるんだ。だからごめん」

その時初めて修造が自分の方を見た。目力の強い信念の籠った目で。

麻弥はバッサリと振られた。

その瞬間まで、そんな答えが返ってくるとは夢にも思わなかった。何故なら麻弥の中では明るい同僚が振られる事は無い筈だからだ。

途方に暮れ、どうやって帰ったのかもわからない。

麻弥はまた遠くから修造を見てるしかなくなった。

麻弥の心の中は昨日迄の『温かい幸せ』と言うよりは『辛く打ちひしがれた気持ち』に変わり、本来なら修造の事なんて忘れてもっと優しい、麻弥の全てを認めてくれる男性を探すべき所だが、麻弥はまだ探せば修造と自分の間に『温かい幸せ』を得られるのではないかという期待が強かった。

麻弥は辛抱強くその時を待っていたが、そうしてるうちに修造がヘフリンガーを去る時が来てしまった。

マイスターの試験の為に本格的にFachschulen(ファッハシュレ)と呼ばれる高等職業学校で勉強に専念する為だった。勿論麻弥も将来的にはそうするつもりだった。

修造は合格したら日本にいる奥さんと子供の所に帰ってしまうんだわ。そう思うと凄く悔しくていくらでも涙が出てきて止まらない。

ヘフリンガーには修造はいなくなってしまった。

麻弥に残されたのは自分も一刻も早く修造の跡を追ってコンデイトライの試験に合格して日本に帰る事だった。

生活は相変わらずだったが、麻弥には目標が出来た。

勉強を怠らず真剣に打ち込んだその道の先に修造が光り輝いていた。

麻弥の心にはありもしない妄想を繰り返したり、実際に会ったらまたバッサリと振られてしまうと言う恐れが交互にやって来た。

麻弥はやっとゲセレの試験に合格した。

もうこれで日本に帰っても良いが、父親の顔を思い出してゲンナリし、何がなんでも修造と同じマイスターの試験を受けようと密かに考えた。

麻弥は休みの日になると修造の通っている学校の近くで待ち伏せした。就業時間になると修造が学校から自転車で出て来て遠ざかって行く。

一瞬しか見る事は出来ない。

何故かというと麻弥が自転車で追いかけても追いつくなんて事は一度も無かったし、もし声をかけたところで聞こえないフリをされたかも知れない。

それでもそれが麻弥の唯一の楽しみだった。

大人しく、自己表現に乏しい個性のない麻弥だったが髪の色は明るく染め続けた。

修造はある時を境に学校から姿を消した。麻弥は日本に修造が帰った事をそれで知ったのだ。

ノアに修造はマイスターになったのか聞いたら「そうだよ、忍者は日本に帰ってパン屋をするって言ってたよ」と聞かされた。

何年か後、麻弥もヘフリンガーを去り、修造のいた学校に通う様になって、この山場を越えたら修造のいる日本に帰れるんだわと勉強にも打ち込む事が出来た。

そんな頃、麻弥がSNSで修造を探していると、NNテレビに出ていた時の画像を見つけた。

パンロンド田所チームの動画を何度も何度も見た。見ている瞬間は麻弥の脳内に温かい幸せが少し芽生えた。

私の方を見て欲しい。

麻弥の願いはそれだけだった。

今のところは。

ーーーー

麻弥はやっとマイスターの試験に合格した。

その後お洒落なコンディトライで働き、自分が店を持った時の為にいろんな事を教わった。

日本に帰ったらお店を持つわ。そしてお洒落で素敵な自分を修造に見てもらいたい。

麻弥は両親への返済をとうとう完了させた。

日本に帰る前に実家に電話して、もう2度と戻らないと告げた。驚く母親の後ろで、誰のおかげでとか言う父親の声が聞こえたので電話を切った。

その後、日本で生活を始めた麻弥は、まず銀座の一等地にあるケーキ屋で働き始めた。店主はケーキ作りをしたいと言う麻弥の容姿を見て「まだ見習いだから店で働くように」と言う。

麻弥は化粧映えして、子供の頃とは違いスタイルが抜群に成長していた。

豪華な店構えのケーキ屋で働いている店員としてとても見栄えのする麻弥に、リッチな男性が何人も言い寄って来た。

どうしても付き合って欲しいと言う男性が現れて断りきれずに少しだけ付き合った。言いなり人形の様な自分がまた出てしまい、言われるがままに振る舞ったが好きにはなれず、自分が言いなりになってるにも関わらずそれが当たり前になって来た彼の中に大嫌いな父親の姿をみつけ、段々嫌になり逃げる様に去った。

店も辞め、住んでいるマンションも引っ越した。

横浜の職場でも同じ事が起こった。

ケーキ工房で働き始めたが、同僚の青年が麻弥に夢中になり、麻弥もまた相手の言いなりになった。言いなりになりながら相手の中に嫌悪する父親像を見つけたが、憧れの修造の姿は見つけられなかった。そしてまたプロポーズされたのをきっかけにお別れを言いその店から去った。

麻弥にとって最大の重要な事は修造を時々遠くから見つめる事だけだった。

自分に夢中になり、追いかけてくる男性と、ドイツで冷たい態度できっぱりと自分をはねつけた修造を比べて、麻弥は修造にかなり冷たくされたと段々わかってきた。

なので近寄るのはリスクが多すぎた。

うろついてるのがバレるとストーカーとして警察に通報されるかも知れない。そうなると接近禁止命令が出て、2度と修造の姿を見る事はできなくなるのだ。

麻弥は慎重に修造の跡を追った。

そのうちに修造がパンの世界大会というパンの世界ではトップクラスのコンテストに出るのを知り、毎日の様にネットでの情報を探した。

基嶋機械のホームページの画面に映る修造の凛とした眼差しにうっとりと何時間も眺める事もあり、いつの間にか大粒の涙が麻弥の頬を濡らす。

そんな時、1人目の付き合っていた男が麻弥のマンションを探し出してドアをドンドンと叩き男は暫く大声で説得していた。

麻弥は男が諦めるまで息を潜め、「また来るよ」と大声で言って帰った後は心底ホっとした。

暗い部屋で一人、麻弥には友達もいなく、両親の元には帰る気持ちはなかった。

ヘフリンガーのモニカを思い出して電話をした。とにかくドイツに来るように言われて身支度をして男がいないうちに電車に乗って飛行場へ行った。

「私はいつもこうだわ」飛行機の中でため息を漏らす。

麻弥はへフリンがーに挨拶に訪れた。

「修造って今丁度フランスで世界大会に出てるよ、今から表彰式だから見よう」食堂に手を引かれて皆とネットで世界大会のライブ映像を見ながら優勝を祈る。


自分もフランスに行くか行かないのか迷ったが、今こうして応援出来るなんてそれはそれで嬉しい。
修造が優勝した。江川と言う助手の男の子が全身で喜びを表している。
じっと立ったままの修造を見て「忍者は渋い」とノアが誇らしげに言った。

麻弥もまるで自分の事の様に誇らしい気持ちになる。

そして工房の奥に修造がいて、長い足でこちらに歩いてくるのを思い出した。

こんなに愛してる人がいるのに何故他の人と付き合ったりしたのかしら、麻弥はその時深く後悔した。

自分は修造だけを愛してるのだと思い両の手を合わせて強く握りしめた。

ーーーー

日本に帰って来た。

だが職は失っていて引っ越しもこっそりしなければならない。

そしてこれから修造が自分を見てくれるのか分からず途方に暮れる。

「これから私はどうすればいいのかしら」

飛行場から電話してアルバイトを探す。

そんな麻弥に転機が訪れた。

ケーキ屋の製造のアルバイトを掛け持ちしてなんとか生計を立てていた時、人づてに麻弥がコンディトライの資格を持っているのを知った実業家の常吉光宣(つねよしみつのぶ)が、自分の経営しているケーキ屋で麻弥に店長をやらないかと言ってきた。

麻弥は男性から逃げる生活に疲れて、常吉さんとは付き合わないし女性だけの従業員を雇って良いのならと条件をつけてOKした。

常吉は喜んで、お店をリッチなお菓子屋を真似て改装して、Glänzender Kuchen(光るケーキ)と自分の名前から一文字取って名付けた。

麻弥はドイツで習った規定の配合で作る本格的なお菓子を置き、コツコツと仕事を続けた。

お菓子を作っている時、自分はこの為に生まれて来たんだと言う気持ちになれた。

店が段々繁盛して人手が足らなくなった時、麻弥の人生にとって重要な人物が現れた。

佐山歩(さやまあゆむ)を面接した時

佐山は眼鏡の奥から真っ直ぐ麻弥の目を見つめていた。

「佐山さん、うちは女性しか雇ってないのよ」

「それは性差別ではありませんか?」

「そうかしら、、」

「僕がここにいる事で何かトラブルが起こりますか?」

「それは、、もしもトラブルを起こさないと誓ってくれるなら貴方を雇うわ」

「了解致しました。必ず尊守致しますボス」

それから佐山は店のあちこちを調べて回り、物の場所をすぐに覚えた。
そして客の顔や好みを覚えておき、次に来店した時は声かけを忘れなかった。

麻弥の前で何を思っていたとしても顔には出さず、麻弥が仕事で困らない様にあれこれ手配したり、在庫の管理や店のあちこちを細やかに目配りしてくれた。

特にお店を訪れるお金持ちのマダムの機嫌を損ねない様に丁重に扱ってくれるのが有り難かった。

麻弥は他の事は気にせず安心してお菓子を作れる様になった。

オーナーの常吉は手広く飲食、アパレル関係の店舗を複数持つ実業家で、繁華街の店舗で複数店ヒットさせている。
最近は仕事の手が空くと店にやって来て、隅のテーブルに陣取って厨房の麻弥を覗きながらコーヒーを飲んでいる。まるで新しく手に入れた珍しいおもちゃを眺めている様に。

佐山はその事に気がついていたが決して顔に出さなかった。

近くのテーブルを拭いていると常吉が「いいねえ」と麻弥を見ながら言ってきた。

「オーナーは以前から麻弥さんとはお知り合いだったんですか」と、トルテが乗った皿を渡しながら聞いた。

「いいや」と言いながら麻弥の作ったフロッケンザーネトルテという薄く伸ばしたシュー生地と生クリームを重ねてクランブルと粉糖をかけたトルテを無神経にフォークで引きちぎり頬張った。

こいつはオーナーのくせに麻弥の身体だけ見て、ケーキを見もせずにこのお菓子がどうやって作ってるのかとか、作り手の苦労とか1ミリも考えていない。

そう思いながら心から軽蔑していた。

ーーーー

常吉が熱心なのを見て、佐山は麻弥はどう思ってるのか気になった。

そして麻弥が工房に行ってる間にレジの横に裏返して置いたスマホをそっと持ち上げ待ち受け画面を見た。

コックコートを着た眼光の鋭い凛々しい男が写っていた。

背が高く髭面のその男は男の中の男の様に見えた。

常吉とは人としての成分が違いすぎる。

「これは、、どこかで見た事がある」その後その事が仕事中ずっと気になる。

佐山は帰ってからその男の事をお菓子業界から調べ出した。様々なハッシュタグをつけてお菓子に関連する事を調べた。

するとパンの所にその男はいた。

『パン好きの聖地』というパンの名店特集の雑誌の切り抜きを、基嶋機械の後藤という男が個人垢に載せている。
そこには探していた男の家族4人の写真があった。

「パンロンドの田所修造か。既婚者じゃないか」佐山はパソコンを閉じた。

麻弥が仕事一本で男を寄せ付けないのはあの男のせいなんだ。

しかしそのうち常吉は麻弥に言い寄って来そうだった。

「面倒臭いな」ソファに座って足を組み、ワイングラスをユラユラ揺らせながら佐山は呟いた。

次の日

「ボスはずっとここで仕事をするおつもりですか?」と聞いた。

「わからないわ。私嫌な事以外は何も決められないの」と蚊の鳴く様な声で答えた。

「それは、、」麻弥は答えにくい様だった。

「好きじゃないって事なんですね。僕も金を出すからジロジロ眺めても良いだろう、と言う様な男は最低と思いますよ」

単刀直入な佐山の言い方に麻弥は顔が赤くなった。

「嫌だわ」麻弥も小さな声で言った。

帰宅後
佐山はワインを飲みながら修造の情報を探してみた。
「こうして見ると画像も動画も結構あるもんだな」

NNテレビの過去の動画の所にに修造を見つける。照れ臭そうに映る修造を佐山は表情ひとつ変えず見ていた。

そしてつまみのローストアーモンドを一粒凄い勢いで弾き、画面の修造の顔に当てた。。

次の日

佐山は仕事中の麻弥のところに行き、納品数の説明をして壁に紙を貼った。

そして

「ボス、鶏口牛後ってご存知ですか?」と聞いた。

「いいえ、知らないわ」

「鶏口(けいこう)となれども牛後(ぎゅうご)となるなかれ『たとえ鳥の頭の様に小さな店でも、その方が良い』と言う意味です」

佐山は『牛後』つまりずっと常吉の所で働くのかどうかと言うところを省いて麻弥を誘導した。

「小さな」

「はい。僕がどこまでもお供しますよ」

「考えとくわ」麻弥は聞き取れないぐらいの小さな声で答えた。

ーーーー

休みの日

麻弥は東南駅で降り、パンロンドの周りをウロウロした。

商店街の店の看板の影から見ていると、修造と髪の茶色い男の子が出てきた。

パン屋の店の奥さんや他の従業員達が出てきた。

ひときわ大きな男が泣きながら修造の手を取り何か言っている。

修造も男の子も泣いている様だ。

「お別れなんだわ」

手を振ってパンロンドから遠ざかる2人を見て麻弥はそう思った。

修造はここを出てどこかに行くんだわ。

どこに行くのかしら。

麻弥は修造の後をつけた。

修造、一緒に歩きたいわ。

麻弥が歩を進めてつい修造に近寄ってしまった時、佐山が麻弥の肩に手をかけた。

麻弥は心底驚いて振り向いた「なぜここにいるの?」偶然ここに居合わせるわけなどない。それは麻弥にもわかった。

麻弥はバツが悪そうに下を向いた。

佐山に連れられ2人は駅前のカフェに入った。

佐山は「ホット2つ」と入り口で店員に頼み、窓際の席に座った。

「ここは賑やかな駅なんですね。東南駅に来たのは初めてですよ」

「そう」

別れ話をする男女の様に2人は気まずく、言葉少なだった。

「いつからさっきの方とお知り合いなんですか?」

「19の時からよ」

その間ずっと好きだったんだろうか?

その間ずっと好きだったんだろうか?と佐山は考えた。

「ドイツで?」

「ええ、彼は同じ職場の人だったの。マイスターになる為に修行しに来ていたわ。」

それで。

「8年も」と呟いてしまった。

そうか、あの家族写真の子供の年が随分離れてるのは男の方がドイツに行く前に結婚していた、だから気持ちが通じなかったんだな。

「鶏口の話を覚えていますか?」

「ええ」

「僕はボスの牛後で構いません。なのでどこか小さな店から始めて鶏口になりませんか?いや、鶏口どころか牛の額にして見せますよ」

麻弥は薄く笑って「牛の額って座り心地悪そうね」と言った。

ーーーー

程なくして、修造の店リーベンアンドブロートは開店した。

修造は世界大会に一緒に出た江川と言う弟子っ子を連れてパン屋を開店したのだ。

麻弥はまたそのニュースをネットを通じてしか知る事は出来なかった。

修造の店は関東の外れの幹線道路沿いの、駐車場がある2階建ての建物だった。広いパン棚の横にカフェスペースがある。外にもテーブルがあり、客は自由に使える様になっていた。

麻弥は明るい色に染めた髪の毛を帽子の中に全部入れて立ち寄った。

店には修造はいなくて従業員が何人かレジ係をしたり、パンを棚に並べたりしている。歩くのも大変な混み具合で、お客達はカフェに座りきれず外の至る所でパンを食べていた。

こんなに客の入りがいいなら借入金があってもすぐに返せそうね。おまけに年中無休だなんて。麻弥は商売人の様にパンの値段と地代や店の作りなど観察して収益を計算した。

ところで

麻弥は免許を取り、修造の店に通いやすい様に小さな車を買った。

臆病な性格でも修造の近辺を調べる為ならその執念の方が勝つ。

帰り道、麻弥は車でそこら辺をよく見て廻った。

佐山に鶏口の事を何度となく言われて麻弥の頭にも独立の2文字が浮かび上がった。

それもあの、リーベンアンドブロートの近くに店を出したらいつでも修造の事を見に来ることができる。

ーーーー

店を持ったらどんな風にするか佐山に相談した。

壁の色は何色が良いか、広さはどうする、内装は何色かアイテムは何を置くのか。

麻弥は人生で初めてウキウキしたかも知れない。

そして佐山にここはどうかと言った土地を聞いて佐山は驚いた。

リーベンアンドブロートの近くにある空き店舗だった。

「強豪店から近くないですか?」

「そう?」麻弥はとぼけた。

「他ならぬその強豪店から叩き潰されますよ?」

麻弥は黙っていた。

あんなに売れてる店と勝負する気はないが自店が無くなると困る。

「ここはどうですか?笹目駅近くの空き店舗で、駐車場も付いています。厨房を作って内装を変えるだけで良いと思いますよ」

「そうね。ここなら駅からのお客さんも流れて来るわね」

手持ちのお金も無いのに麻弥はまた捨て身の計画を立てた。

ーーーー

店を辞めたいと常吉に言った。

「辞めるだと?辞めてどうする?」

常吉は、優しいフリをして金を出していればいつか大人しい麻弥がいいなりになって手に入ると思い込んいたので、自分勝手な怒りが込み上げ激高した。

「なんの力もないお前に金を出してやったのに恩を仇で返すのか!」手のひらを返して叱責してきた男に、麻弥はまた父親の影を見た。嫌悪感が込み上げる。

「すみません。もう決めた事なので。次の人は自分が探します」麻弥には珍しくキッパリと言い放った。

以前アルバイトしていたケーキ屋の職人を2人呼び寄せて仕事を教え、佐山と一緒に退職した。

新しい店を作る資金繰の事を商工会議所に相談して、これだけいるから自己資金と借入金を合わせてこのぐらいの改装費でいきましょう。などなど。そして見積もりをとり、金融公庫に提出した。

ーーーー

麻弥は新しい店をZuckerbäckerei Mayaツッカベッカライマヤと名付けた。

とても小さな店なので入り口の横に木製の焼き菓子用の机を設け、その向かいにクーヘン用のショーケース、その横にクラプフェンなどを置くオープン型のショーケースを置いた。

佐山は店のマークを本場ドイツのツッカベッカライのマークを模して豪華なマークにして高級感を持たせた。

麻弥がお菓子を作り、佐山はそれを並べて販売し、焼き菓子を高級感のある材質のもので丁寧に包んだ。手提げも高級感のある物を作り、地元のマダムにも丁寧に接して好感を得た。

佐山は通信販売を始めて進物用のお菓子のセットをいくつか繰り出した。

冬場にはシュトレンの通販を始め、百貨店の催事にも出て社員と顔見知りになり、定期的に出店する様になった。

お店は儲かり、麻弥は生まれて初めてまとまった金を手に入れた。通帳の金額を見ている時気分が高揚した。

麻弥はカードを作り、高級な洋服店に入り自分にピッタリで格をあげてくれるセットの洋服を何点かとネックレスとイヤリングなどの貴金属、それにハイヒールを買った。

綺麗にメイクして鎧の様にその服や貴金属を身につけ、「セレブでバイタリティのある女」と言う設定に仕上げた。

マダム向けの冊子にお金を出して、裏表紙の目立つ所に高級な箱のお菓子とツッカベッカライマヤの広告を載せた。「雑誌の表紙と言うのは表表紙か裏表紙しか無いのですから裏に広告を載せるのは人の目に触れる機会が多くなると佐山に言われていた。

佐山は催事で知り合いになったNN百貨店のバイヤーの趣味などを調べ、ゴルフ場でばったり出会うなどの出来事を増やし、「子供さんに」と言ってゲーム機などをプレゼントしたりした。ゴルフ場のレストランでは「どこかにもう少し販売できる場所が欲しい、できれば百貨店の洋菓子売り場があれば」と呟いた。

程なくして百貨店からブースが一箇所空く予定なのでそこに入らないかと打診があり、佐山は収益と人件費を細かく計算して、人を雇う事にしたり、百貨店の空いたブースをデザイナーを呼んで個性的な雰囲気に作り替えて貰い、後ろの壁面の真ん中に店のマークを大きく付けてもらった。

ネットニュースの記事を書いてる所に連絡して、大きくツッカベッカライマヤについて書いて貰った。

ブースがオープンする初日は店を休んで麻弥も店頭に立ち、「セレブでバイタリティある女社長」として並んだお客さん一人一人に愛想良く頭を下げた。

忙しくなってきた麻弥は時々しかリーベンアンドブロートに行けなくなったが、こっそり空手の大会でオペラグラスで修造だけを追った。

たまに暇を見てパンを買いに行ったが修造の姿をちらっとでも見る事は出来なかった。きっと奥の工房でパンを作ってるんだわ。その代わり麻弥は修造の妻と子供らしき3人を見つけた。白いエプロンドレスで茶色い髪の女と小学低学年ぐらいの女の子と小さな男の子だ。

もし私があの女だったら今頃は。そう思って深々と被った帽子の隙間からじっと見ていた。

するとその小さな男の子がタタタッと走って来て、座っている麻弥の膝に抱きついた。

まあ、この子修造に似てるわ。

麻弥はその子を抱きあげ顔を見回して抱きしめた。

柔らかで良い匂い。

「可愛いわ」

私も修造の子供が欲しい。

私がこの女の代わりに一緒に家に帰って過ごせたら。

「すみません、うちの子が」

すると男の子はさっと母親の方を向きそちらへ行ってしまった。

「いいえ」

麻弥は弱々しい声でそれだけしか言えなかった。

麻弥の胸の内は雷の様に痛みの電流が光った。

自分の店に戻ってお菓子を作りながら涙がポタポタ落ちそうだった。

他の物に見られない様にするのは至難の業で、皆が心配するので「ここの所忙しかったから疲れたのよ」と誤魔化した。

佐山が麻弥に「何かあったんですね?あの男の事ですか?」と聞いた。

麻弥は佐山に背を向け、通路の奥の小さな窓の方を向いて少しだけうなづいた。

「僕にできる事はありますか?」

例えばあの男を仕留めて麻弥の心を楽にしてしまうとか、と佐山は考えた。

麻弥は小さく首を横に振った。

佐山はいくらでも麻弥を誘導できるのにひとつだけ『あの男の事』は絶対に変えられない。

「もうやめませんか?あのパン職人の男はボスとは違う次元や空間にいて、自分とは違う人生を歩いていると思うと気が楽になりませんか?」

「そうね」それができたらもうとっくにやってるの。

ーーーー

麻弥はしばらくの間リーベンアンドブロートに行くのをやめた。

新たな鎧を手に入れる為に更に高級ブランドの服や靴を買い、それを着て街を歩いた。こうしていると何か他の人物になれた様で少し勇気が出る。

ショーウインドウに写る自分を見て他の誰かが乗り移ってる様にも思える。

「麻弥」

振り向くと黒い車から常吉が顔を覗かせている。

「常吉さん。その節はどうも」

「麻弥、君変わったね」常吉は心から後悔した、この美しい女を何故手放したのか自分を疑った。

素早く車から出てきて言った「俺が悪かったよ麻弥。あの時は君に手を出さない約束をしてたから俺は我慢してたんだよ。今なら君に交際を申し込んでも良いだろ?」

麻弥は常吉の本性を見ておいて良かったと思った。自分を叱責していたくせに。麻弥はセレブの設定で気高い感じでそのまま「今忙しいのよ」と言って立ち去った。その高飛車な態度がまた常吉を夢中にさせた。

その日から常吉の電話とメール責めが始まった。どうしても会いたいとか渡したいものがあるとか言ってきた。

麻弥はため息をついて「常吉が」「はい?」「常吉が毎日連絡してくるの」と言った。

佐山は「そんな時はすぐに言ってください」派手な麻弥が余計に常吉をそんな風にしたんだろう。危険な人だ、と麻弥を見て思った。

帰宅して座ってワインを飲みながら頬杖をつき、机を指でトントン叩き、あのパン職人と常吉、パン屋と常吉、、、佐山は色々悩んだ挙句「おっ!」と一瞬声を出して目を少し見開いた。

そうだ!常吉をあの修造ってやつと。。。

次の日

佐山は麻弥のメールから常吉に連絡して「明日15時に駅前のカフェで待ち合わせましょう」と書いて、それを麻弥にわからない様に削除した。

楽しみに待っていた常吉の前に佐山が現れた。「何でお前が来るんだよ!」佐山を見て一気に不機嫌になった。「あれ、すみません、なんて書いてましたっけ?」ととぼけて常吉からスマホを取り上げ麻弥の名前のメールを削除した。

「麻弥さんは今日の約束の事は知りませんよ。僕から相談がありまして」「なんだ!早く言え!」「実は麻弥さんはある男に片想いしてましてね。だからなかなかなびいてくれないんですよ」

「なに?どんなやつだ」「それがひ弱そうな男で、何であんな男がいいんだか」とチラつかせた。

「どこの奴なんだ!」「それを教えるにはその男をどうするか先に僕に教えてからですよ」「殴ってやる!」「背が高いから届くでしょうか?」「じゃあ棒で」「かわされたらどうします?怪我しないで下さいよ」「じゃあ何人かで行く!」「殴ったぐらいじゃ麻弥さんの恋心は継続ですよね」「うーん。わかった!」常吉は佐山にひそひそ声をひそめた。

佐山は何食わぬ顔で戻ってきた「今度視察にドイツに行きましょう。僕はドイツに行った事ないので案内して下さい」

「ドイツに」

「はい。気晴らしにミュンヘンに行ってホフブロイハウス(歴史のあるビアホール)に行ったり、マキシミリアン通りでお買い物でもどうですか?」

「素敵」

「勿論部屋は別々ですから安心して下さい。僕はボスとの間にトラブルは起こさないので」

「分かったわ」そう言って、麻弥と佐山は決行の前日にドイツへと旅立った。

麻弥はドイツにいた時お金がなくて中々よその土地に行けなかったのでミュンヘン行きを楽しみにしていた。

何も知らずに。

ーーーー

決行の夜

笹目駅から少し離れたリーベンアンドブロートでは、従業員が皆帰った後修造と江川が2人で明日の準備をしていた。

江川は次の朝に使う生地の計量を済ませてたので、洗い物をしてそれを拭いていた。

※これ以降はアクションが多めになりますので漫画でお送りします。

赤い髪のストーカー おわり

次のお話に続きます。

パン職人の修造これまでのあらすじ

これまでのあらすじ

このあらすじはnote専用のあらすじになっていますがワードプレスでも同じ内容で進行しています。

150話を前に、これまでずっと読んでいただいていた方にも、これから読む方も、これまでたまに読んでた方にも148話分を振り返ってあらすじを書いてみたいと思います。

パン職人の修造は、口数の少ない主人公の田所修造(たどころしゅうぞう)がパンにまつわる色々な出来事に出会うお話です。元は2021年3月20日に始まりました。お話は全てフィクションで、実在するお店や団体とは何ら関係ありません。各お話毎にテーマや主人公が変わります。noteでは、パン職人の修造というお話の第3部のあたりから始まります。このお話は連載なのですが、例えば「初めての面接」というお話で、『おわり』と最後に書いてあってもそのパートが終わったって事で、パン職人の修造の話の本筋はずっと続いています。最終回は修造がお亡くなりになる時、、最後に「最終話」って書いておきますね。

毎回テーマを変えているのは出てくるパンの世界をちょっと練り込んであるからです。そして説明しきれないのでイラストも入れています。最後まで読んでる人はいなくなるかもと心配していますが(もし最後まで読んだ方がおられたら天才!偉人!凄い!)
よろしくお願いします。

このお話の主人公 田所修造

剛毅木訥、仁に近し 口数の少ない男 実直な性格
九州から関東に出てきてパンロンドというパン屋に就職した田所修造は、妻の律子(りつこ)と緑(みどり)を日本に残してドイツにパンの修業に行き、26歳で日本に戻って2人と再会。またパンロンドの店主柚木(通称親方)の元で働き始めました。そして江川卓也(えがわたくや)や仲間達と出会います。息子大地も生まれました。夫として、父として、パン職人として日々成長する毎日です。現在はリーベンアンドブロートのオーナーとして頑張っています。

江川卓也

優しくておしゃべり、明るい性格で修造の心も明るくする。江川と一緒の時の修造は表情も明るくなる。パン好き女子の瀬戸川愛莉(通称パン粉)と仲良しでお互いの家を行き来している。実は心の奥底に悩みを抱えているが、修造とパン粉のおかげで克服しつつある。

パンロンド

修造が上京して来て初めて就職したパン屋。東南商店街の人気店。店主の親方(柚木亜久里)はおおらかで器のでかい人物で、修造の良き協力者。妻の丸子は明るい働き者で、細い身体でみんなを引っ張っていくしっかり者。古くから働く古参や、元ヤンの杉本龍樹、店員の森谷風花などが働いています。

Leben und Brot(生活とパン)

修造が奔走して江川と一緒に作った店。ドイツパンが主流。広い駐車場の奥に花の咲くテラスがあり、その奥に店舗がある。その奥のパン工房では今日も様々な人間模様がある。

1.初めての面接 https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/215 (ブログ)

https://note.com/gloire/n/n313e7bee5f33 (note1~4話)

江川との出会いから始まる。

修造が考えた段ボールを使った面接で江川は合格しました。

修造は江川に「お前は優秀だって言ったんだよ。最後までやり遂げたじゃないか」と言います。

え!

優秀⁉︎

この僕が、いつも浮いてて友達もいない僕が。

「パターン認識って言葉聞いたことあるか?」

「いえ、ありません」

「パターン認識ってテクノロジー業界用語なんだ。もともと人間が出来る事をコンピューターにさせる情報処理の事なんだけど、逆に人に当てはめて言うと、急な変化に対応できる力って事だよ。これは前にやったことがある、あの時はこのやり方で成功した、このやり方で失敗したとか、自分で経験を振り分けて当てはめられるどうかなんだよ。パン職人の仕事を何年もしていれば、大抵この能力に長けて来て現場対応能力が養われていくもんだ。お前にはその力が強くて、パンの世界でも上達が早そうだ」

修造はさっきまでと違って突然滔々と話をしだした。

「パン屋の仕事っていうのは毎日同じ様でも違うんだよ。だからそのパターン認識を使って対応できる能力があるかどうかで、理解度が違ってくるんだ。過去にあった出来事から最適なやり方を導くんだ。勿論レシピを基本として、今日はこの温度だからこういう水温で、今日は少し長めにミキサーを回す、どのぐらいパシナージュ(水分追加)するかとか。パン作りって毎日同じじゃないんだよ。だからパターン認識が凄く大事になっていくんだ、江川、お前はこのやり方で現場対応能力があるかどうかを試されたんだ」「失敗を回避して成功に導くんだ。つまり一言でいうと『咄嗟の判断で失敗を回避する能力』の事なんだ」

と江川を認める発言をします。

この時から江川は修造についていく決心をしてパンロンドに入って来ました。

2.新人の杉本君 https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/217

https://note.com/gloire/n/ndc4162e0920e (note5~8話)

パンロンドにふざけたむかつくやつが入って来ました。全然親方の言うことを聞きません。生意気なので修造が杉本を説得?してる間、江川と親方はこんな話をします。

「俺は修造に会ってから少し考えが変わったんだよ。それまでは諦めと言うか、職場も人の出入りが激しかった事もあって自分1人がしっかりしなきゃって思ってたけど、ああいう信頼できる奴がいるのは良いもんだよね」

「心がしっかり繋がってるんですね」

江川と親方は目を合わせてニコッと笑った。

「あいつがドイツから帰ってきてパン職人としての格が上がってるのを見て俺は思ったね。多分あいつはどこに行って何をやっても上手くいくんだろう。人から教わったものを自分のものにして更に上に押し上げていける奴だよ」

うんうんと江川はうなずいた。

こんな話をしてる間に修造も杉本にこう言っていました。

「多くのパン屋が『何人かが狭い空間で働いてる』んだ。その全員がメインのシェフの意思通りに動かなきゃならないと俺は思ってる。勝手なことをすると全員に迷惑がかかるんだよ。今の作業の全ては、『こうなる事に理由があった』んだ。すぐに決まった訳じゃない。工場の中で起こった出来事や、お客さんの流れ、パン作りの工程、作業する人間の数、季節や温度、その全てが影響しているんだ」

「それはまだ入ったばかりのお前にはわからない事なんじゃないのか?」

杉本は黙って聞いていた。

修造の話す全てに説得力があった。

それは長い経験に裏打ちされた言葉だったからだ。

「それが嫌ならやめなきゃならない、ここから去って勝手に自分の思う店を作れよ」

「、、、店を?」そんな事できっこないのは杉本も分かっていた。

「でもな、それは多分お前にはまだ早いんだよ」

「今のお前は何も出来ないのに等しい、1人でやるとたちまち困るぞ。

だから、色んな先輩の中に混じって色んなことを教わるんだ」

修造は指折り数えながら言った。

「共同体感覚を養って」

「ベストコンディションで挑めば」

「満足のいくパフォーマンスを発揮できるんだ」

指を3本見せながら「だからみんな体調を整えてくるんだよ。遊びすぎて体調悪いなんてカッコ悪いぞ」

修造は隣に座って下を向いてる杉本の顔を覗き込みながら言った。

こうして良い加減ながらも杉本はパンロンドの一員になりました。

3.パン王座決定戦(前編後編)というお話で、修造はアテンドされた職人達に出会います。

この先心の触れ合うブーランジェリータカユキの那須田シェフ、そして選考会で戦う事になる佐々木シェフ、超大物シェフ佐久間は所々出てくる背の高い男の親友でした。

4.催事だよ全員集合! https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/273

https://note.com/gloire/n/n04e49dcfad94(note18~22話)

経験の浅い杉本は段々仕事が身について来ていたが、まだ辛い時がある様だ。

「俺、修造さんについて行こうって決めてますけど、パン屋って大変で全然仕事が楽しくないです」

修造はカレーを包みながら言った。「言われるがままにやってるとつまらないものだよ。お前はまだ仕事を自分のものにしてないんだろう。今はまだ出来ないことが多くて、できない事をさせられてると錯覚してるだけだよ」

「はい、させられてるって感じです。ここの先輩達とは違うんです」

「先輩ができてる事をできないのは経験が足りないからってだけで、マックスの自分を知ればそれがそんなに大変じゃないってわかるんだよ。

ずっとマックスでいろって話じゃないんだ。一度自分の限界に挑戦してみたら、今やってる事がそれに比べてどのぐらいだってわかるだろ?

まだまだ頑張れるのか、もう限界ギリギリなのか。それを知る為にもう少し頑張ってみたらどうだ」

修造は「無口な修造」と小さい頃から言われていて、普段あまり話さないが、こんな時は長い話をしたりする。

「生地の面倒をいい感じに見てやって、最高の状態の時に焼く、それが俺たちの仕事なんだ」

修造はカレーパンの生地をポンポンと手のひらで弾ませて言った。

「でも〜」

「お前は今まで何かの限界に挑戦したことがあるか?」

「う〜ん」

修造の問いかけには答えられなかった。

限界なんて言葉なかなか自分の生活の中になかったし。そんな一生懸命熱く生きるなんてカッコ悪いと思ってたし。

俺、初めはパン屋で働くなんて簡単だと思ってて、漫画に出てくるパン屋さんみたいに手を動かしてたら生地が勝手にできると勘違いしてたもんな、と杉本は思った。

そして運命の19話では「藤岡恭介(ふじおかきょうすけ)です。よろしくお願いします。僕レストランで働いていました」と、藤岡君が現れるがこの時の扉絵が今まで描いて来たお話の中で1番閲覧数が高かったです。

この時は藤岡君爽やかイケメンだったのに(また戻そうかな)

https://note.com/gloire/n/n5d4fa12e4e4c

このお話の中で親方は修造に対する信頼を見せます。

しばらくして親方がやってきた。
「親方、これ全部成形してどんどん揚げていきますね」

「はーい、よろしく」

親方は、生地を修造に渡して後ろから一歩下がってテキパキ指示してカレーパンを販売していく修造を見ながらちょっと感動していた。

みんな上手くまとまって仕事してるな。頼もしいぜ修造。俺は今日のこの、みんなが和気あいあいとしてる所を忘れないぞ!

修造はそのうち独立するだろう。残念だけどお前はうちでずっといてる器じゃないんだ。感謝の印に俺はどんなわがままでも聞いてやるからな。

この誓い通りに親方は世界大会の練習を好きなだけさせてやります。

そしてこの催事中、休憩時間に修造は隣のあんぱんだけを売っているおじさんの所に江川を行かせてどんな拘りがあるから聞いてごらんと言います。

「あの〜、おじさんはここのオーナーの人ですか?」

「あー隣の子だね?そうだよ」

「このあんぱん、すごく美味しかったです。どんな所に拘ってるんですか?」

「これはね十勝産の小豆から作ってる極上餡(あん)なんだよ。うちのあんパンはね、豆本来の甘味を存分に堪能できる餡が包んであるんだ。豆の選別は重要だし、渋きりで渋をよく取ったり、味がさっぱりとしてキレがいい様にザラメを使ったり。生地は国産小麦に米粉を少し配合して柔らかさを出してあるんだ。全部の工程に拘ってこのあんぱんができているんだよ」

「それにこれ、そんなに大きくないのにずっしりしてるだろ?」

「はい」

「薄皮に包んで餡子を堪能できるようにしてるけど、大きかったら食べるの辛いだろ?」

「はい」

「ところが俺はそう思って作ってるけど、みんながみんなそうじゃない。世の中にはあんぱんひとつ取ってみてもそれはそれは沢山種類や作り方があるんだ。その店のシェフの拘りがあるのさ」

「ここに来てるお店はみんなそうやって拘りがあるんですね」

「そうなんだよ。催事は初めてかい?」「はい」

「そのうちこの業界の色んなことを見たり体験したりするようになるよ」

「ありがとうございました」

すごく良い人だったな、それにあんなに真面目にあんぱんだけを作ってるんだ。

僕もこれから色んなパンに挑戦して最後には自分のパン作りを見つけるのかな。

何かわかった感じになって江川が戻ってきたので修造が「どうだった?」と聞いた。

僕は学校に行くのが嫌になって、パンロンドに逃げたんだ。でもパンロンドでは修造さんやみんなが僕を普通に受け入れてくれていた。自然で何も聞かない、だからって関心が無いわけじゃない。僕はやっととても自由な気持ちになれたのに。

「僕多分ずっとパンを作ると思います。最後の自分のパン作りを自分で見てみたいので」

「いいね、俺も見てみたいよ」

ここで2人は『最後の自分で作るパンを自分で見てみたい』という生きる目標を立てます。

そしてこの思いは後々まで続きます。

5.背の高い挑戦者  https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/310

https://note.com/gloire/n/n177cd14d61be(note23~27話)

その次のお話背の高い挑戦者ではベッカライボーゲルネストの鳥井シェフと行ったパンの機械が並ぶ展示会に2人で行った事から世界大会の事を知ります。

そこに並べられた選手達の作った作品、特に飾りパンと呼ばれる大型のパンの芸術作品を見ていても立ってもいられない様な程心が逸ります。

そしてパンロンドに戻り江川に「世界大会に出よう」と持ちかけます。

そしてこの時、ベッカライ大木とその後ろに隠れる背の高い男が現れます。

6.フォーチュンクッキーラブ https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/320

https://note.com/gloire/n/nb6929643b2dc (note28~31話)

店員の風花が店で切り裂き魔に服をカッターで切られてしまいました。

修造と風花達が話をしていて修造がこんな事をいいました。

何かに引っかかったならこんな切れ方しませんよね?切り口がギザギザしますもん」

「店にそんな切れ方するところがないもんな」

「誰か変な人は入ってこなかった?」

「それが全然見てなくて」と風花が言うと、奥さんが「何人かお客様がいらっしゃったけどそんな怪しい人いたかしらね」と首を傾げた。

修造は風花に「お店っていうのは不特定多数の人が入ってくるんだ。こちらは何も知らなくても向こうは何かしら思って入ってくる時もある。ほとんどの人が普通にパンを買いに来ている、でも、中には敵意を持ってきたりする人もいる。それが露わになってる時はわかりやすいが、隠し持ってる時は中々わからない。笑顔でお迎えして挨拶する瞬間にどんな表情か見ておくと良いよ」と忠告した。

「わかりました」風花は目つきが鋭い修造が怖かったが、アドバイスはなる程なと思った。

たしかにお店にいるとどんな人が来店するかは顔を見るまでわからない。

とは言え敵意を隠し持ってる人なんて分からないかも。

そしてその後杉本は風花を守る為に犯人を捕まえます。

それが風花が杉本に好意を抱くきっかけになりました。

7.筆者が気に入っているお話「六本の紐」https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/347

https://note.com/gloire/n/ne6dceeb1f03c (note32~35話)

修造と江川は世界大会の前にある選考会の為の練習に大木シェフの店ベッカライホルツの『別室』に行きます。

そこには後々まで江川のライバルになる鷲羽と園部がいました。

鷲羽は修造に強い憧れを抱いていて、江川をライバル視しています。

修造が練習に来れない時、編み込みパン(ツォプフ)の試合を挑みました。

それにはこんな悔しいやり取りがありました。

ハン!」と鷲羽は言い放ち「こんな奴が世界大会!笑わせるなあ!舐めすぎでしょ」

「まだ9ヶ月あるんでしょう。分からないじゃない」

「分かるだろ!無理だよな?」と江川の顔を覗き込んで言った。

「俺と勝負して負けたらここに2度と来ないでくれる?」

江川は顔を引きつらせながら「そんな、僕1人で決められません」

「そんな事も自分で決められないって事か?」

園部と名札に書いてある職人が江川と鷲羽に生地を渡した。

それは丸められた生地が何個もバットに並べられた菓子パン用の生地で、江川に1枚、鷲羽の前に1枚置かれた。

「これを使って編み込みのパンをやって貰おう!」

「僕、何回かしかやった事ありません」

「仕方ないなあ。じゃあ俺が見本を見せてやるよ」

そして出来ない江川に無理矢理勝利します。

強引に勝ったと言い張る鷲羽でしたが、

江川は見事リベンジを果たしました。

編み込みパンはできる人には簡単だけど、4本、5本、6本と増えるにつれ訳がわからなくなります。結局江川はそこをついて勝利を収めるのでした。

その時の鷲羽の悔しそうなお顔にご注目。このお話は筆者の好きなお話です。

8.お父さんはパン職人 https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/351

https://note.com/gloire/n/n056d071c8921(36~38話)

修造は27歳になりました。

お誕生日の会の時、可愛い娘の緑(みどり)にこんな事を言われます。

「ねえ、お母さん」

「なあに?緑」

「よりってなあに?」

「より?なになにより大きいとかのより?」

「ううん」緑は首をふりながら言いにくそうに言った。

「あのね」

「うん」

「昨日紗南ちゃんのうちに洋子ちゃんと遊びに行ったらね、紗南ちゃんママがね、緑ちゃんパパは家出してたけど最近帰ってきて奥さんとよりが戻ったのねって一緒に来てた洋子ちゃんママに言ってたの」

一瞬、緑ちゃんパパって誰の事かわからなかった。

緑ちゃん

パパ

俺?

「ええっ!」

丁度フライドポテトを揚げていた修造は、驚いて網付きバットを持った自分の指に熱々のポテトを置いた。「うわっち!」

あわてて冷水で指を冷やしながら律子を見た。

律子は修造にすまなさそうに「ずっとそんな噂があるのよ。保育園のお友達のお母さんは今ではみんなわかってるんだけど、近所でもお父さんは出て行ったのねって言われてたし、小学生になってからまたその噂が再燃したみたい」

なんだか立つ瀬がなくて立ってる床が抜けそうな錯覚に陥った。

「律子ごめん」と謝るしかない。

「紗南ちゃんと洋子ちゃんも最近お友達になったから、何も知らなくて噂を信じてるのよ。私から言っておくわね」と言って早速電話の受話器を手に取った。

その後律子はなんとかママの誤解を解く。

そんな時、一次審査が迫って来ました。

江川と修造は電車で何度もホルツに通いました。

いつもの様にホルツでの練習中に江川は大木に言われます。

「江川」

「はい」

「分かってると思うが一次審査は誰でも応募できる」

「はい」

「勿論、鷲羽や園部もだ」

「え」

「つまり沢山の職人が応募するってことだ。一回一回の練習を大切にな」

「はい!」

一次審査は全国から技術の高いパン職人が大勢応募してくるだろう、それに選ばれるようにならないと。

修造と江川はそれぞれ決意を新たにしていた。

そんな時、修造の元に一冊の分厚いパンの本が届く。

送り主は不明だったが、それにはメモが挟まっていた。

本の内容はフランスの高名なシェフがパンの歴史や製法、作り手の心構えについて細かく書いてあるものだった。

発酵のところにメモが挟んであった。

『必ず一番良いポイントがやってくる。 その時をじっと待つ事だ』

この字、誰の字だろう。このメモの文字、、、

これって丁度江川の悩んでいるところだけど関係あるんだろうか?

修造はその後夢中になって本を読み耽った。

緑はそんな父親を見ながら父の日の作文を書いていた。

授業参観の日

先生が緑に声をかけた「次は田所さーん」緑が立ち上がって作文を読み出した、

それはこんなタイトルだった。

【お父さんはマイスター】

「私のお父さんはパンロンドというパン屋さんで働いています。お父さんはパンを作るのが大好きです。大好きすぎて外国に行って勉強していました。毎年クリスマスになると民族衣装を着たテディベアを送ってきてくれました。そのあとテストがあってお父さんはマイスターになりました。そして私が保育園に行ってる時に帰ってきました。外国にいて、きっとお父さんが1番寂しかったと思います。だって日本に帰ってきて走って私達に会いにきた時、とても泣いていたからです。その時に作ってくれたクラプフェンというジャムの入った揚げパンがとてもおいしかったです。お父さんの作るパンはとても美味しいです。私も大人になったらパン職人になりたいです」

読み終わったあと、緑は修造の方を見た。

「お父さん泣いてる」

修造の眼から大粒の涙が溢れていた。

その日からしばらくみんなから泣き虫パパと呼ばれていた。

9.ジャストクリスマス https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/362 

https://note.com/gloire/n/n3cdc587f36c9 (note39~42話)

このお話もアクセス数が多かったので、登場人物が楽しそうって重要なんだなあと思わされたお話です。

クリスマスの時期、パンロンドの女将さん丸子は風花にアドベントカレンダーを見せました。

「これね、アドベントカレンダーって言うのよ。毎日この小さな窓を開けていくのよ。そしてクリスマスを心待ちにするの」

「わあ〜可愛い!丁度開け終わったらクリスマスなんですね。ロマンチックだわあ」

それを聞いて修造も緑にアドベントカレンダーを手作りしようと思います。

そのおかげで修造と緑はクリスマス前の温かな思い出ができました。

クリスマスは色んなところで暖かかったり熱かったりする会話があります。

12月のはじめ

夕方職人達が帰った後、修造はヘクセンハウスを作り出した。

パーツは作ってあったので、Puder-Zucker(粉砂糖)でアイシングを作り、家の形に組み立てて飾りを付けていた。

「修造、まだ帰らないのか?」配達から帰った親方が聞いた。

「親方、これ作ったら帰ります」

「すまんな、これ。パンロンドの売上あげる為だろ?」

「俺、勝手させて貰ってるのでこのぐらいさせて下さい」

「俺もやるよ」

「はい」



「どうだい?ホルツの修行は」

「はい、大会を見越して練習しています。まだまだ未完成な事ばかりですが」

「江川はどう?」

「頑張ってますよ。着実に進歩しています」

「俺、修造が大会に出たところ想像したらゾクゾクするなあ。楽しみだよ」

「そうなる様に頑張ります」

修造は砂糖菓子のサンタをハウスの前につけながら言った。

「これからみんなにドイツパンを教えて、お客さんにもっと来て貰おうと思ってるんです」

「美味いもんな、お前のブレッツェル」

「それしか恩返しの方法がわからないんです。今の俺があるのは親方のおかげなんで」


こっちこそ感謝してるぜ修造。

こうやってお前と仕事できるのも限りがあるんだ、寂しいけど俺はお前を心から応援してるぜ。

「親方、泣いてるんですか?」

「いいやあくびしたんだよ、守っていくよお前が残してくれたものを」

親方の小さな瞳にキラッと光る水分が滲んでいた。

そしてこの回で心を入れ替えた杉本と風花は交際を始めます。

10.Sourdough Scoring  https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/386

https://note.com/gloire/n/n8c43d006104f (note43~45話)

このお話ではいよいよ本格的にホルツでの修行が始まります。

大木が修造・江川・鷲羽・園部に説明し出した。

「今日から一緒に練習する事になったからな。狭いけど協力しあってできる様に無理のないスケジュールを3人で組めよ。修造は第一審査用のレシピを書いて見せろよ、詳細はここに書いてあるからな」

皆それぞれ考えてやり始めた。

江川、鷲羽、園部達はそれぞれカンパーニュをつくって表面にカミソリの刃先で模様を付けていく。

出来上がり後の審査の時大木に言われる。

江川、カットがガタガタじゃないか。引っ張りながら
カットしたらこうなるから次から気をつけろよ。」

「はい」

鷲羽はうっすら笑いながら江川をまた穴の開くほどじっと見た。

威嚇か!江川の顔の辺りに視線が粘りついて鬱陶しい。

大木は鷲羽と園部のものには「うん、少しぎこちないところもあるがまあ良いだろう」

江川は2人のカットをマジマジと見た。

2人との実力の差が激しい。

江川は消耗して倒れてしまうが、病院で草原の夢を見てカンパーニュの柄を考えつく。

その時見舞いに来ていた江川の姉美春と修造は挨拶を交わす。

「あの」

「はい」

「弟は高校生の時、3ヶ月ほど不登校だったんです。なのに急にパンロンドに面接に行って働くと決めてきた時は驚いて、随分心配したんです。でも修造さんと約束したからと言って学校にも真面目に行きだしたし、ちゃんと卒業してホッとしました。あの子が変わったのは修造さんのおかげだと思っています」

そうだった、あの時俺が面接して就職が決まった時、あいつすぐ来るって言ったから、学校は卒業する様に言ったんだ。

「電話でも修造さんの話ばかりしているから、私も初めて会った気がしません」

「そうだったんですね、実は俺、江川に会ってから随分変わりました。仕事中何も話さない事が多かったけど。毎日あいつと話ししてるうちに口数も増えてきた。江川と一緒にいると楽しいですよ」

「良かった、本当に。卓也も明るくなったって母も喜んでいます」

美春は嬉しそうに笑った。

「そりゃ良かった」

「あの子、以前は寂しかったんだと思います、父と母は別れてしまって」

「そうだったんですね」

「父親はあまり家にいない人でした。卓也はそんな父親に懐いてなかったんです。反抗ばかりしていました」

「え!あの江川が反抗?想像つかないなあ」

「笑うことなんてあまりなかったわ」

信じられない。

あんなに明るいやつなのに、、

きっと俺と江川は良い相性なんだろう。

安定してお互いを良い方に高めて

いけるようになってるんだ。

修造はそう思った。

復帰後

江川は意外なプレゼントを修造から貰う。

修造が使っていた2種類のカミソリのホルダーと新しいカミソリの両刃を受け取った。

江川はホルダーを持ってパン生地に刃を入れた。

嘘の様に気持ちよくスッと刃が通る。不思議なほど指先の震えがおさまった。

「絶対負けない。ぼく頑張ります」

江川は病院で夢に出てきた情景を忘れないように生地に刻んだ。

そして江川はこの時から格段に上達する。

練習の時、いつまでも江川をライバル視している鷲羽に修造は言い放った。

「美味いパンって言うのはいつも食べられる当たり前の存在であってほしいと俺は思ってる。だから天候や気温に合わせて種や生地の面倒を見て良い状態で焼成まで持っていく、そうすると美味いものができるんだ」

「はい」

「お前は江川の事をライバルで、戦わなきゃならないと思ってるのかもしれないが、お前がこれから戦うのは自分自身なんだ。お前の作ったものを選んで食べてもらう為にな。それは必ず美味いものでないといけない。形だけ勝っても意味はないんだ」

「誰が見ても美しく、誰が食べても美味しいもの。世界大会ってその頂点なんだよ。それが俺たちが目指してるものなんだ。その為に練習してるんだろ?」

鷲羽はさっきとは大違いの姿勢で項垂れて修造の言葉を聞いていた。なんなら縮んでいきそうだった。

その時鷲羽の心にも何かが芽生える。

そこへ、滅多に喋らない園部が鷲羽に言った「さっきのって、江川への敵対心のボルテージをなんとか自分自身のパンへの熱量に変えろ、そう言う意味なんだな」

「ああ、できるかな俺に」

鷲羽は自分のパンを見ながらその遠くにある自分の10ヶ月後の姿を見ていた。

11.スケアリーキング https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/392

https://note.com/gloire/n/nf63fd203c73c (note45~48話)

このお話では少々不遜な所のある修造が最も恐れる人物が出て来ます。それは、、、

(このお話は修造にヴィエノワズリーの訓練をさせる為に作りました)

修造、律子、緑の3人は長野にある律子の実家を訪れます。

そこには律子の両親巌、容子と妹のその子が出迎えてくれました。と言っても両親は可愛い孫の緑にだけ笑顔を向けて、修造の事は無視していました。

2人はドイツに行く為に律子と緑を置いて行った修造をあまりよく思っていません。なので修造に辛く当たる巌と律子はよく対立しています。

みんなでテレビを見ていると偶然ブーランジェリータカユキの那須田が映っていました。修造と律子はアイコンタクトをとって那須田のところを訪れるの律子に許して貰いました。

修造は急いで那須田のところに行きすぐに店を手伝わせて貰いました。

テレビに出て忙しくなるのが予定されるので那須田も助かったと思っていました。

那須田は華麗なテクニックを修造に教え、製造は一晩中続きました。

一夜明けて那須田は玉手箱の様に始めに作ったクロワッサンと修行後のクロワッサンが入った二つの箱を土産に持たせました。

巌は一晩帰ってこない修造に怒っていましたが、二つの箱の中のクロワッサンの断面を見比べて、修行に行ってたのだと納得したその時、律子が第二子ができたと告げ、2人は顔を見舞わせて喜んでいました。

12.イーグルフェザー https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/412

https://note.com/gloire/n/n995ccfe6ce28(note49~51話)

出会いというのは不思議で、その時はすぐに過ぎ去っても、また再開したのち不思議なぐらい時間を共にする者もいる。それを運命とか言うのかもしれない。

このお話は鷲羽秀明の人物紹介から始まります。パンの専門学校では不遜な性格から煙たがられていたがホルツに入社してから園部に出会う。

結構楽しい毎日を過ごしていた時、ホルツに修造と江川がやって来る。

鷲羽は江川に対して嫉妬心を抱き、足を引っ掛けて倒す様な事をやっても、いつの間にか起き上がって、なんなら自分よりも高いところから見下ろされている。

そして修造にこう言われる「お前がこれから戦うのは自分自身なんだ。お前の作ったものを選んで食べてもらう為にな。それは必ず美味いものでないといけない。形だけ勝っても意味はないんだ」

ライバルに勝とうとしているのに、本当の戦いは自分自身と?俺が俺に打ち勝つのは一体どんな時なのか。

毎度大木が出してくる課題に誰よりも良いものを出す。そう言う事なのか?

鷲羽は頭をかかえた。

何度練習して結果を出しても、最後は江川が追い越していく。

とうとう一次審査のパンを送る時が来た。

修造は選考会に

江川と鷲羽は助手を選ぶ為の選考会に選ばれた。

江川が「鷲羽君、入選おめでとう。頑張ろうね」と言ってきた。

澄み切った水辺に輝く宝石の様に瞳がキラキラしている。

自分には全くキラキラした所が無い。思えば自分と江川のパン作りの違いもそんな所では無いのか。ふとそんな事に気づく。

白い鳥の羽の様な、青い空に浮かぶ白い雲の様な、鷲羽から見た江川はそんな風に見えた。

鷲羽は江川の言葉に対して斜に構え少しだけうなづいた。

大木は仲の悪い2人にベーカリーベークウェルというパン屋にヘルプに行く様に言った。

ベークウェルは江川と鷲羽が体験したことのない店だった。

三田、辻、塚田と店長と呼ばれる男で作業場を回していたが、店長はいつも工房にいないらしい。

話していくうちに塚田があるお願いをしてきた。

なんで俺がそんな事しなくちゃいけないんだ。

嫌がる鷲羽だったが、江川と『パンロンドで研修を受ける』事を約束して渋々協力する事になる。

三田と辻が2人で仕事してる間に3人は店長が横流ししている現場を押える。すると今まで弱々しく振舞っていた塚田が急にキリッとした顔立ちになった、と言うか本来がこっちでさっきまで芝居をしていたのが本当らしい。

3人で三田と辻のところに戻る時、まるで3人は元からの友達みたいになっていた。

13.Prepared for the rose https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/427

https://note.com/gloire/n/n111b82b00948 (note52~53話)

ベッカライホルツで大木と背の高い男が電話している。どうやら2人がベークウェルに行ったのは背の高い男の差し金だった様です。

そうとは知らない鷲羽はウキウキしてパンロンドに修行に行きました。

がそこで親方に失礼な事を言ってしまいます。

親方はリズム良く生地を分割しながら聞いた。

「パンロンドで勉強したいんだって?で、どんな事を聞きたい?」

と聞かれ「はい、俺不思議だったんです。なんでこんな小さな店で一生を終えようとしてるんですか?」

一瞬周りが凍りつくが親方だけ頭から湯気がでていた。

「小さな店?敷地面積の事かよ?」

鷲羽はキョロキョロして「それもありますけど、商店街のパン屋で良いんですか?」

「おう!俺は俺の作りたいパンをここで作り続けるさ。じゃあ逆に聞くが、なんなら良いってんだよ」ちょっとスケッパーにかける力が強くなった。

「もっと一等地に店を出したらどうですか?例えば外国で修行して、帰って来たらそこで習って来たパンを作るとか、俺ならそうするな」

「はあ?パン屋がみんなそうするとは決まってねぇだろうが」

なんだか生き方を否定された様な気がして来て腹も熱くなって来る。

そこに修造が割って入った。

「鷲羽、店の方を見てみろ。お客さんの様子を」

鷲羽は工場の奥から窯の前に立って作業をしている親方のもっと向こうを見た。

狭い店の中にいきいきとパンを選んでトレーに乗せているお客さんの姿が何人か見えた。

自分だけの好きなパンを選ぶ人もいれば、家族の好きなパンを選ぶ人もいる。
皆お気に入りのパンをトレーに自由に乗せている。

「みんなここのパンのファンなんだ。どんなお客さんにも好きなパンがあって、ここのパンで大きくなった大人もいるんだ。今店にいる風花もそうだよ。ここのパンが好きで働いている。街のパン屋さんっていうのは他の店同様なくてはならない存在なんだ。みんな通勤の時、昼食、贈り物、夕方、夜食などそれぞれがそれぞれの理由で買いにくる。パンロンドのパンが好きで買いにくる人々の為に親方はパンを作り続けているんだ」

眼光の鋭い目で修造は言った「俺は誇らしい事だと思うよ」

修造は続けて鷲羽に言った「そんなお客さんの気持ちが分かっていてパンを作ってるかどうかでまた違ってくる。お前はどうなんだ。お前だってパン作りに携わっているだろう」

そして修造はこう続けた。「鷲羽。今の俺があるのは親方のおかげなんだ。

親方が俺が帰ってこれる様に大切なものを守ってくれたんだ。もし親方がいなかったら今頃俺の家族はバラバラになって俺は帰るところなんてなかった。エーベルトの所に残るか、ひょっとしたらもう糸の切れた凧の様になって他の国に行って帰ってこなかったかもしれない。そしたらみんなともお前とも出会わなかっただろう。今ここにいるのはみんな俺の大切な仲間なんだよ」

修造に言われて鷲羽は親方に詫びを入れた。すると親方は優しく話しかけた。

「太々しい様に見えてお前本当は自信ないのか?さっきの態度も江川の件もあるし。だからいつも必死なんだろう」性格の悪さを技術でカバーか。と親方は鷲羽を見て感じとった。

「それ、本当はわかってるんじゃないのか?自分で認めなきゃお前は前に進めないぞ」

「鷲羽、俺はこれからもここにいてパンを作り続けるよ。

ここに来たいお客さんの為にな。だからお前もいつでもここにきて良い。

俺とお前の心が通い合うまでな」

鷲羽はパンロンドについての誤解が解けた気がした。

同時刻

江川は大木に飾りパンを教わっていた。

「綿密に必要なものの大きさ、長さを計算する。どこに何色を持ってくるかも重要だ。見た感じの色のバランスなどもな。自分の技術を立体にしてる様なものなんだ」

と説明を受けた後、飾りパンのテーマを考える様に言われた江川は故郷で見た菩提樹とセイヨウミツバチをモチーフにデザインを描いて大木に見て貰います。

デザインは褒められましたが、江川は驚く言葉を耳にします。

江川と鷲羽は若手コンテストに、そして園部には修造の助手をして貰うと。

「えっ?園部君?大木シェフ、僕が修造さんの助手をやります」

「お前な、最終日にコンテストが控えてるんだからできっこないだろう?自分の事で精一杯で修造にも迷惑がかかるからダメだ。園部もこれまで特訓していたんだし、これから修造と息を合わせていかなきゃ」

「絶対ダメです。僕やれます!僕しか修造さんの助手はいません」

「無茶言うなよ、修造と練習して自分の分も最高の出来栄えにしなきゃいけないんだぞ!」

無理だと言う大木に食い下がり、とうとう江川は若手コンテストと修造の助手の二つをやる事になりました。

江川は修造との勝利の為に薔薇の飾りパンに誓いを立てました。

14.honeycomb structure https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/438

https://note.com/gloire/n/nc3ddc5b1275d (54~55話)

選考会までの日にちがいよいよ1か月をきり、緊張も高まって来た頃。

3人で飾りパンの練習中

鷲羽は修造が焼成後の円盤形のパンの裏に拍子木の様な生地を貼り付けていくのを見ていた。

「これを向こうで組み合わせる時に引っ掛かりがないと輪が落ちるからあらかじめ茎の部分と凹凸をつけておく。十字相欠き継ぎ(じゅうじあいがきつぎ)みたいなやり方だな。それと旋盤に付ける花の裏には仕掛けをして、そこを引っ掛ける様にして水飴で留める。立てても落ちないし時短にもなる」

修造はピッタリ木の幹と旋盤の凹凸がはまったので悦にいった表情をした。

鷲羽は生地を細く細く伸ばしてマクラメ編みを作っていた。コンテストではそれを使って長方形と曲線で立体的なパンデコレを作る予定だ。鷲羽の作品はらせん状の板の組み合わせで構成されていて、正面にはマクラメ編みが取り付けられた物で、鷲羽の技術の程度が良くわかるものだった。

その頃、修造の対戦相手で、北麦パンのオーナーシェフの佐々木が工房の奥でパンデコレの仕上げをしていた。


「先生にコーチして貰ってここまで来たなあ」
と佐々木は自分の技術の始めと今を思い比べてしみじみと言った。

佐々木の後ろに立っていた先生と呼ばれる背の高い男は「シェフの元々の腕前が良いんですよ」と、こことここを変えてと指で指示しながら言った。

「俺、修造さんには負けませんから」とまるで宣言する様な言い方を聞いて背の高い男は「何故その修造さんだけ?選手は他にもいるでしょ?」と作品から目を離さずに聞いた。

「あの人は生まれる前からパン作りをしてたんじゃ無いだろうか?そのぐらいパンにピッタリ寄り添ってる。俺はそれに勝ちたいんです。俺のパンに対する気持ちの方が上だって証明して見せますよ」

「生まれる前からですか?面白い。シェフには是非頑張って貰わないとね」背の高い男は何故かおかしくて腹筋を2回ほど揺らした。

「勿論です。俺、明日から選考会が終わるまで店を休んで集中します」

15.Mountain View https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/452

https://note.com/gloire/n/n5ed29eed544f (note56~58話)

とうとう選考会の前日

江川と修造はバンに荷物を詰め込み会場のある関西へと向かっています。

パーキングエリアで休憩中2人はこんな会話を交わしました。

天気はよく、駐車場と雑木林の向こうに富士山が綺麗に見える。

「僕、神奈川より西に来たの初めてです」

「江川、日本の山って言うとまず富士山を思い浮かべるだろ?」

「はい」

「九州の真ん中にでかい火山があってその周りを外輪山ってものが取り囲んでるんだ。その火山と外輪山の間には普通に鉄道や国道が走っていて町があったり畑や田園があって人々が暮らしてる。で、それを取り囲む外輪山の上を車で一周してるとあまりのデカさに自分は山の上じゃなくて普通の地面を走ってると錯覚する程なんだ。時々崖の上から下が見えて、こんな高い所を走ってたのかって気がつく」

「えーすごいスケール。富士山とはまた違った自然の造った形なんですね」

「俺の実家はその外輪山のまた遥か遠くの山の上なんだ」

「へぇー」

「俺は大会が終わったらそこで俺のベッカライを作ろうと思う」

「えっ、じゃ僕もパンロンドを辞めてそこで働きますね」

「えっ?」

「えっ?」

この会話がきっかけで修造は江川に大きなプレゼントをする事にします。

そして大会当日の朝

修造は綺麗に髭を沿った。

江川は髭の無い修造の顔を不思議そうに見ていた。

「とうとう当日になったね。悔いのないように今までの練習の成果を、全力を尽くして出そう」試合の度、空手の師範に言われていた言葉だった。試合には何度も出て、途中からはよくトロフィーを手にした。試合で勝ってもけして動じず相手に敬意を払い己を律する。そんな風に育てられた。

集中力を身につけて、より精進する。

これが今迄の、そしてこれからの修造の生きていく上での理念であった。

選考会

どのみち隣のブースはよく見えないし、気にしても仕方ない。やはりこれは己れとの闘いなのだ。

粛々と素早く己れの最大の力を出す。

江川は修造が欲しいと思うものを用意して

次の段階を準備していく。

人々からは、静かに進行していくパン作りを見ているように感じるかも知れない。

だが実は工程が幾つも編み込まれていて網目のひとつも狂わせない様に2人で動いていた。

親方に教わったチームワークと優しさ、大木に教わったバゲット、那須田に教わったクロワッサンとヴィエノワズリー、佐久間との戦いで色々考えたタルティーヌ、妻律子と考えたパンデコレの原案。その全てを編み込ませて形にしていった。

旋盤の仕掛けに花につけた「カギ」が上手く合わさりそれを水飴で取れない様にしていく、修造はまたうまくいった瞬間したり顔をした。

修造のパンデコレは編み込みの旋盤に花を施した紫が主体のもので「和」と言うのにふさわしいものだった。

一方その頃、隣の北麦パンの佐々木は

修造がパンデコレに取り掛かってから追いかける様に始めた。

パン王座選手権で佐々木と修造に負けて

北麦パンに戻ってから真剣にパン作りについて悩んだ。

そんな時知り合った「先生」に半年間教わった事を

思い浮かべながら次々と仕上げていった。

北の海の荒波に揉まれて大波が来た瞬間

それを乗り越えようとするボート

その瞬間を切り取って表現した。

波のしぶきを立体的に作るのに苦労したが

迫力ある仕上げを心がけていた。

ただただ一生懸命に。

損得など考えず。

わき目もふらず。

16.broken knitting https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/473

https://note.com/gloire/n/ne07f54d06764(note59~61話)

選考会が終わりました。

結果発表は三日目の若手コンテストの後なので、中日の二日目は修造は製パン機械の展示会を練り歩いていました。

江川は修造を探して会場を歩いていると、鷲羽を見ている1人の青年に気がつきます。選手の1人かと思っていたらどうやら違う様です。

若手コンテストの選手に与えられたブースは4メートルに区切られていて、その中にミキサー、パイローラー、オーブン、ドゥコンなどが設置されている。

先に始める生地の材料や必要なのものからブースの中に入れて、その他の後でやるものは次々出していく計算だ。

明日は修造があれこれ手前から注意してくれたり必要なものは後ろから用意してくれるからその点は安心だ。

種を作った後、ホッとして「修造さん、明日はよろしくお願いします」と言った。

次の日の早朝から若手コンテストは始まった。鷲羽と江川は隣同士ではなく、間に沢田茉莉花がいたのでお互いの気配は全くわからない。

緊張してなにかの工程を飛ばさない様に気をつけてスケジュール通りに慎重に進めていった。

江川!お前は個性的な奴だ。

その個性とセンスを最大限に生かしてはじけるんだ。修造は江川を見守り続けていた。

江川の持ち物の中には修造に貰ったカミソリとホルダーがあった。

江川はそれをまるでお守りの様に思い、握りしめて手の震えを抑えるのに役に立った。

鷲羽も着々と理想通りのパンが出来上がってきた。

いい出来だ。

鷲羽は勝利を意識しだした。

その時、テーブルがバターンと倒れた様な音がした。

鷲羽のパンデコレの部品が乗ったテーブルが倒れている。

「うわーっ」


鷲羽の叫び声が聞こえたので修造が駆けつけた。

箱の中に入っていたマクラメ編みが割れている。

修造は「諦めるな!まだ時間はある!修復するんだ」と言って犯人を追いかけ走り出した。

園部と修造は犯人を追いかけて捕まえた。

犯人は鷲羽と同じ専門学校に通っていた者だった。

修造は「努力の結晶に敬意を払わない者はこの俺が許さない!」と一喝した。

鷲羽の所に戻る道すがら、園部は珍しく口を開いた「みんなは英明の事を悪く言うし、英明は口が悪いけど根性は腐っていない。あいつはいつも熱い奴です。それは俺が保証します」

「だな、園部。あいつは良い友達を持ったよ」

鷲羽の粉々になった飾りパンは一部修復は無理だったがなんとかつなぎ合わせ、大木が色々アドバイスしながら仕上げることが出来たが、完成予想とは格段に劣る。元通りに完全には治せない。それが余計自分自身をガッカリさせた。

一方江川の作品は案外カッコいい。

蜂の巣と菩提樹の花をモチーフにしたパンデコレ、夢に出て来た草原のサワードウ、親方の教えてくれた「ぶちかましスペシャル」とか言う編み込みパンなど工夫が凝らしてある。

「あいつの勝ちだな」そう思った。

結果発表の時間が来た。

鷲羽が憔悴してぼんやりと立って見ていると、修造の名前が呼ばれる。

修造は段の上に立ち、前回の優勝者からトロフィーを受け取った。

すごく眩しくてキラキラして見える。やっぱカッコいいな修造さん。

江川が両手を上げてやったーと叫んで人一倍拍手している。

大勢の人が修造の写真を撮っていた。

その向こうにそれを見ている佐々木が自分と同じ様な表情で立っている。

俺分かりますよ。あなたの気持ち。

俺、絶対優勝するはずだったんですよ。

結局江川がコンテストで優勝した。鷲羽は審査員特別賞。

少し涙が出てきた。

疲れてるだけだ。

鷲羽は少し離れたところに座り込んだ時、横に立った人影を見た。

「大木シェフ」

「俺、自分の性格が原因で色々とダメになってしまいました。練習を最後まで見てくれたのにすみません」

「おい、がっかりするな」

大木は座り込んだ鷲羽の二の腕を大きな手で掴んで起き上がらせた。

「お前はまだ若いんだ。一度負けたぐらいでなんだ。まだまだこれからチャンスはたんまりある。園部と切磋琢磨して修造の跡を追え。フランスに行きたいんなら先に修行に行け、帰ってきたらまたうちで練習しろ。俺が練習を見てやる」

「えっ」

「俺が目をかけてるのを忘れるな」

その言葉を聞いて鷲羽は天井の無数のライトを見上げて言った。

「下を向くのは俺らしくない」

17.バゲットジャンキー https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/486

https://note.com/gloire/n/nc5b987b5a80f (note62~63話)

表彰式の後、2人は会場の裏にある駐車場に荷物を運びパンロンドの配達用の車に積み込んだ。

「控室に戻って大木シェフに挨拶して帰ろう」

「はい」

2人が駐車場から通用口に入り長い廊下を歩いている時、向かいから帰路につく沢山の会場スタッフが長い列を作って歩いてきた。

修造はぶつからない様にそれをよけて

廊下の端を素早く行き過ぎた。

その時江川と少し距離ができた。

スタッフに紛れてオレンジ色の大きなスーツケースを押した背の高い男が歩いて来る。

そのトランクには沢山の国のものと思われるシールがベタベタと不規則に貼ってあり、中には剥がれたあとや、剥がれかけのものもある。

江川はそのトランクを見て、剥がれかけたシールなんて外せばいいのにと男の顔を嫌悪感のこもった目で見た。

男は立ち止まり「おめでとう、頑張ったね」と労をねぎらった。

江川が一瞬頭を下げて行きすぎようとした時、男がメモを渡してきた。

「これ、お兄さんに渡しておいて」

江川は、話したこともないのにお兄さんなんて言い方は軽すぎると思って苛立った。

不機嫌に黙ったままメモを受け取りそのまま遠ざかった江川をしばらく見ていたが、やがて駐車場を通り外に出てタクシーを捕まえようと歩道に立った。

江川はその後修造にメモを渡す。

人生は数奇なり

己の運命に流されても己は流されるなかれ

修造はそのメモを見てあ!この字!本に挟んであったメモと同じ文字だ!と思います。

フランスパンの理論について書いてある分厚い本の送り主と同じだったのです。

でも気になる

なんだ

流されても流されるな

って

どういう意味だ。

俺は順調だ。

愛する妻と可愛い子供

数奇な事なんて何もない

なんだ名乗りもせずに

修造は気になって大木にこの事を聞きました。

「この本とメモを書いた人について少しでも何かご存知なら教えて頂けませんか?」

「さあなあ」と言った後、大木はしばらく何か考えていたがやがて話しだした。

「修造、伝説の流れ職人って聞いたことあるか?」

「伝説の?いいえ」

「伝説のなんて大袈裟だし、少々盛ってると思うんだが」

「はい」

「昔山間部に住んでいて、造園を生業にしていた若者がいたんだ。そいつは客の意志を読み取るのか上手くて相手の望む通りの庭作りをする事ができた。その噂は広がって遠くまで呼ばれて庭の手入れに行ったりしていた。ある日軽井沢に呼ばれて、金持ちの別荘の庭の手入れをしていた。その素晴らしい庭作りに客が喜んでお代以外にも礼をしようとそいつを懇意にしてる近所のフレンチレストランに連れて行った。

そこは剛気な性格のフランス帰りのシェフがやっている店で、食事が2品ほど出た時、シェフがテーブルに挨拶に来た。そして焼き立てのバゲットを持って来て包丁とまな板をテーブルに乗せパンをカットしだした。

「今窯から出たばかりだよ。このルヴァン種のバゲットは俺の自慢なんだ」

客に「美味いから食べてみなさい」と勧められてその造園業の若者はカットされたバゲットを口に入れた。途端にルヴァンの風味と小麦の旨味が、クラストの歯応えとクラムの水分を含んだ食感が、そして窯の熱気を含んだエアが口に広がった。

大袈裟だが脳内で美味さが爆発したんだ。

出会ったことのない美味さに衝撃を受けてその場でシェフに弟子入りしたいと言い出した。シェフは驚いたが、男が自分の作ったバゲットを全部食っちまって本気で感動しているのが気になって、その男を弟子にしてやったんだ。

男には家庭があったんだが、突然パン職人になると言って、造園業を廃業して長野県に行ったまま帰らなくなった夫に愛想を尽かした奥さんは、男に離婚届を送りつけて実家に帰ったんだよ」

  

大木は遠い過去を思い出しながら言った。

そして修造はパンロンドに戻り、仕込み中の親方にも「伝説の流れ職人って聞いた事ありますか?」と聞いた。

「ああ、そういえば昔そんな噂を聞いた事あるな、色んな店を渡り歩いてヘルプに入って従業員を牛耳って技術を教え込み、店の格が上がると噂になってあっちこっちで呼ばれてるとかなんとか。でもそれ、俺が修行時代の事だから15年以上前のことでさ、その後世界各地に呼ばれるようになって殆ど日本にはいないから連絡もつかないって話さ」

「その人パンの世界に没頭したんですね」

「そうだな、他のものを全て捨てても欲しいものがあったんだろな」

パンの製法も概念も時とともに変わりつつある。それを追い求めて広めたい。

修造はまた少し分かった気がした。

18.リングナンバー7(前編後編) 

https://note.com/gloire/n/nff32cc0e0152(note64~69話)

仕事中、藤岡はひょんな事から杉本は書いたものならなんでも覚えられる事に気がつく。なのに勉強も文字を書くのも嫌いな杉本。

職場の慰安旅行で京都に行くパンロンド一行。

思い出の1枚

風花はなんとかパン職人としての格を上げたいと願うが、杉本はやる気にならなくて2人の心はすれ違うが徹底的に喧嘩した後、やっと杉本は製パン技術士の試験勉強をしだす。

19.A fulfilling day 修造 https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/517

https://note.com/gloire/n/n9facf2856a51 (note70~72話)

最近の修造はウキウキして喜びで胸がはち切れそうだった。

修造は2人目の子供が無事産まれて

大地と名づけた。

自分の育った山から見える緑の大地のイメージだそうだ。

「なあ聞いてくれよ江川!ほんとちっちゃくて可愛いんだよ」

あのイカつい修造さんがあんなに笑顔で」と杉本が言った。

「誰よりも早く帰って赤ちゃんとお風呂に入るのがなによりも楽しいんだって」

「へぇ〜」

家では大地をお風呂に入れて寝ている間に世界大会の飾りパンのデザインを考える日々。

おかげで着物の女性の飾りパンを考えつく。

そんな時、修造の苦手な義理の父高梨巌がお泊まりに来る。

巌は緑の案内で仕事中のパンロンドを訪ねた。

そしてパンロンドのショーケースに飾られている選考会で作った飾りパンを見て驚く。

え!

これ手作りなのか?

「パン?」

パンでできてるのか?

これをあいつが?

修行に行ってこれを造ったんだな。

巌は親方と話をした。

2人は売り場の棚を見ながら話した。

「うちのパンも変わりました。なんというか修造が運んできた空気がうちをそうさせるんです。前向きにと言うか、いい方向に流れていますよ」

「へぇ」

「もうすぐ大会がある。フランスでの試合があります。誰でも出られるってもんじゃない」

巌は親方の真剣な顔つきをじっと見ていた。

「色んな事のちょっとずつがあいつの時間を奪ってる気がします。大会前は修造にはガッチリ修行に行かせるつもりです」

巌は修造のパンを沢山買って店を出た。

確かに親方の言う通りだ。

生半可な事をしていては

頂点は目指せないだろう。

山の上に立てるものも立てなくなるのか。

そして巌は夏休み中子供達を預かるから練習に専念する様に修造に言った。

巌に言われた様に本当の修行の日々が始まったがそんな時ベッカライボーゲルネストの鳥井がえかと修造をビストロに招いた。

鳥井は2人に説明した「例えば肉の下拵えは前の日にやるのかやらずに始めるのかで随分違ってくる。勿論パン作りも同じだ。会場では沢山のことを忘れずにやらなきゃならん。初段階のうちにタルティーヌの具材の下拵えをしておきなさい。修造はサワードウに何が合うのか考えておきなさい」

「はい、素材の下処理一つでもそれぞれ理由があり、キチンと準備することで味が調和し美味さを整えられるんですね」

食べるのは美食家の審査員ばかりだ。工程のどの部分にも油断はならない。鳥井が言いたかったのはそこなんだろう。

「美味いものを記憶に刻みなさい。もっと自分の可能性を高めるんだ」

鳥井はそう言って、次に食材の豊富な輸入専門店に連れて行った。

「世の中には沢山の食材がある。それらの味をなるべく沢山覚えておくんだ。自分の中に味の引き出しを沢山持て。何と何を合わせると何に合うのか、いくらでも計算出来るようになるんだ」

修造は、その様子を見ながら鳥井の言う『前日準備の重要性』について覚悟した。前の日の下拵えと種の準備、当日の段取りが勝利の8割だ。後の2割はいかに失敗なく他にない自己表現をするか。

「前の日の1時間にどれだけできるか何度も練習をしておけよ」

そう言って鳥井は袋いっぱいのおすすめ食材や香辛料を渡してきた。

「応援してるぞ修造」

「ありがとうございます」

「江川もな」

そして修造はあるパンを思いつく。

「江川、明日からこれを練習して貰う」

紙を受け取り「えっ」と声を上げた。

「大会前日の1時間にやって貰う」

「僕やったことありません」

江川の顔が引き攣った。

20.One after another https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/526

https://note.com/gloire/n/nb3c33662d68b (note73~74話)

江川は修造の立てた「大会前日のプラン」を練習し続けていた。

大会では前日に割り当てられた時間は1時間。

手順を覚えて準備をして、野菜を切り並べる。型に入れてそして、、

「江川バラバラにならない様に丁寧に重ねてね。固さに注意して」

「はい」

時々江川を見ながら修造は細かい柄の精巧なステンシルを彫っていた。

茶色い厚紙に鋭いカッターで彫り進めていく。

少しでも手先が狂うと切れてしまう。

修造は刃先に全神経を集中させていた。

「江川、味の事なんだけど旨みがもう少し欲しいと言うか、もっと和風に近づける味に寄れないか考えてみるよ」

車の中で「江川には無理させちゃってます」と胸の内を打ち明けた。

「なんとか乗り越えて貰わんとな」

「まだまだやる事があって」

「登り始めだな」

何かを成し遂げるのは大変な事だよ。今やっている事は無駄にはならん。

江川もいつかきっとわかる日が来るだろう。

大木は留木板金の前に車を停め入り口に向かって歩きながら誰に言うともなしに言った。

「投げ出すのが1番の無駄だ」

修造にはまだまだ課題が残っていた。

大木との外出時立ち寄ったうどん屋で出汁を使う事を思いつく。

「これだ」

これをベースにすれば添加物なんてなくても和風のうまい味が出せる。

これを江川の作ってる物に使えば!

移りゆく修造の表情を見ながら大木はふふふと笑った。

そして修造は大木に打ち明け話をします。

「俺、もし大会で勝ったら江川に恩返ししようと思うんです」

「もしってなんだよ。勝つんだろ?」

「はい、やるからにはそのつもりですが、、これまでにも大木シェフや鳥井シェフ、親方、うちの義父にも世話になっていて、その分を江川に返して、そしてまた江川が次の世代に何かしてあげれば良いと思ってます」

「自分が受け取った分を江川にしてやる訳だな」

このお話の最後に修造が滝行をするのですが、筆者はこのエピソードが大好きです。

21.Annoying People https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/538

https://note.com/gloire/n/n066287d07125 (note75~78話)

大地は日に日に大きくなり可愛い限りだ。夕方緑と一緒にスーパーに買い出しに行く。そこで修造は跡をつけて来たメリットストーンという中堅のパン屋の営業有田に引き抜きの話を持ちかけられるが一蹴して帰る。

飾りパンの練習はいよいよ大詰めになって来ました。

1番難しいのは流れる帯の模様の土台の生地に、色違いの生地をピッタリ嵌め込むところ。上手く行くかどうか。

出来るだけ滑らかな曲線を大切にしたい。

修造は大工の様に、嵌め込む生地の膨らみを計算して設計図を作り台紙をその通りにカットした。それを元に生地をカットして焼成後また引っ付けると2色の帯の出来上がりだ。地味だけど案外難しい。

次に土台作り。平らで安定感が大切だし、本体をセットしてぐらつかないようにしないと。

出来るだけ練習しないと頭で覚えただけでは動きが染み付かない。あとはもうギリギリまで何度もやってみることだ。バドミントン選手の様に与えられた場所で2人で入れ替わり立ち替わり自分の作業をして、お互い邪魔にならない様にしなくてはならない。

現場での機械の置き場を大木に教わって動けるように考えた。

そんな時、パンロンドでの作業中、配達に行ったが二人組に捕まってしまう。

実はそれは鴨似田フーズのマダムが部下の歩田と兵山を使って藤岡を捉えようとしたのに間違えて修造を捕まえてしまったのだった。

それを跡をつけて来たメリットストーンの有田が見つけて藤岡と一緒に探す事になる。

その時修造は2人を相手に暴れて、その音に藤岡達が気がついた。

修造と藤岡は鴨似田マダムを読んで説教する事にしたが、なんだか説教しづらい女性が来た。

高級菓子折りを渡されて修造は頭をかきながらつい受け取ってしまった。

「色々誤解があった様で申し訳ございません」幸代はややくねりながら頭を下げた。

「藤岡さんには次のパーティーに花を添えて頂ければと思ってお願いしようと考えておりましたが、この様な事になってしまい申し訳ございません」

すると修造にアイデアが閃き、「奥さん、こいつ性格も悪いし足も臭いですよ」とわざと嫌われる様に仕向けた。すると藤岡が本気で怒って帰ってしまう。

修造の思いつきで藤岡への興味を薄れさせたものの中々藤岡には許して貰えなかった修造だった。

22.Preparation for departure https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/547

https://note.com/gloire/n/nb6c115cf9a12 (note79~81話)

もうすぐフランスに行く、世界大会のその日が近づいて来た。

最終調整の為

朝、修造と待ち合わせして電車に乗った。

もう何度となくこの電車に乗ってパンの修行に行き、そして帰る。

毎回困難な課題にぶち当たり、解決してまた一段階段を登る。

そうやって随分登った気がする。なのにまた次の段がある。

「今日は一から通しでやってみよう」

「はい」

「まあ理解を深めるって感じで」

修造はプレッシャーを与えないように軽そうに言った。

江川の目の下にクマができているからだ。

これから二人三脚でと言いたいところだが、シェフ側から見たら助手は同じ力では決して無い。

アルチザン(職人)

ブーランジェ(パン職人)

そしてその下で働く者はコミ(助手)と呼ばれる。

ちなみに「職人の・職人的な」はアルチザナルだ。

ブーランジェとコミは力のあり方が違う、だが心を合わせて頂上を目指すのだから同じ方を向いて力を合わせなければならない。

翌日ホルツに来た2人に、大木が「紹介するよ」と言って何人かを連れて来た。

「修造シェフ!ご無沙汰しています.いや~またお会いできて嬉しいです」

紺色のスーツを着た男が白い歯を見せて声をかけてきた。

「あ」見覚えがある。

「基嶋機械の後藤です。選考会の会場でお会いしましたね」

「修造、基嶋機械さんは今回の大会の後押しをして下さるからな」大木が基嶋機械がスポンサーになっていることを伝えた。

そして修造と江川は、この時初めて世界大会で着用するユニフォームを貰う。

江川は大喜びでユニフォームを着て基嶋機械のホームページ用の写真撮りに協力したが修造は苦手な様子だった。

カタログなどを持ってきた後藤と五十嵐と他数名がフランスに応援に来てくれるらしい。現地で知り合いが多いのは心強い事だ。

「よろしくお願いします」

修造も何度も営業の人達と話すうちにそんな挨拶が身についてきた。

そしてとうとう2人はフランスに旅立った。

23.surprise gift https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/556

https://note.com/gloire/n/n5b852bb0c530 (note82~83話)

フランスで2人を出迎えてくれたのはなんと鷲羽と園部だった。

2人のアパートに泊まらせて貰い、翌朝窓の外を見ている江川に鷲羽がこう言った。

「俺は今までお前のパン作りを見てきたよ。だからお前の底力も分かってる。俺の分も上乗せして修造さんを助けてくれよな。俺はお前を信じてるぞ」

「鷲羽君」

信じてる、、そんな言葉が鷲羽の口から出て来るなんて!

江川の大きな瞳がみるみるうちにウルウルしてきたのを見て鷲羽もちょっとウルっときた。

江川は鷲羽と握手して「ありがとう。そんな風に言ってくれて僕本当に嬉しいよ。今になって、鷲羽君は僕の事ずっと見てきた理解者なんだってわかった」

思いがけない鷲羽の言葉に江川が本気で感動しているのを見て「やめろよ照れ臭い奴だな」と背中を向けたら、話を聞いてニコニコして見ている修造と園部と目が合う。

「え、江川に喝を入れてただけですよ!」と言い訳した。

江川は鷲羽の「信じてる」と言う言葉に勇気を貰いました。

24.stairway to glory https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/568

https://note.com/gloire/n/n0f92e01b0282 (note84~86話)

とうとう前日準備の日が来た。

江川はこの前日の1時間の為に野菜と出汁を使った寒天のゼリー寄せを作る練習をしてきたのだ。そして包丁も研ぎ澄ませてきた。

材料がキチンと手に入ったのは下調べをしてくれた2人のおかげだよ。ありがとう鷲羽君園部君。そう思いながら江川は小さくガッツポーズをした。

そのあとは江川は素早い動きの邪魔にならないように生地の仕込み中の修造の欲しいものを用意したり、後片付けをしていく。

その様子を審査員がつぶさにチェックしていた。

1時間でクタクタだ。

明日どうなるかな?

きっと8時間マラソンみたいなんだろうな。

帰ったらもう一度スケジュールを確認しよう。

なんだか緊張でガチガチになってきた。

大会当日

後藤と五十嵐が声をかけにきた「修造シェフ、江川さんどうぞ頑張って下さい」

「皆さんのおかげでここに来れました。感謝してます。集中力途切れさせずにやります」

修造は決意の様な言葉を2人に対して言ったが、修造を取り囲む全ての人に対する誓いの様にも聞こえた。

さて、とうとう開始の時間を審査員長が告げた。

昨日の準備で手近に置いたラックに必要な用具は全て揃えてある。

例えば鉄板に敷く板や紙一つ、上に乗せるシートひとつとっても大切なのだ。

全ての作業が『これにはこれを』と決まっている。使う順に置いて上から使って使い終わると陰に置いた箱にしまう。

江川は修造の素早い動きに沿って、いるものを準備したりしながら自分の作業をしていく。

僕今修造さんと世界大会に出てるんだ。

いつもの練習と違う、本番中だ。顔が紅潮してドキドキするがいつもの練習を思い出して手を動かす。冷静に冷静に。

成形を済ませ、発酵した生地が焼きあがって行くと審査員達が厳かにテーブルに着く、

各国の選手が作るバゲット、ブリオッシュ、クロワッサンの審査が始まった。

バターの効いたブリオッシュは親方の言うところの『ぶちかましスペシャル』

生地の一本にラズベリー生地とマンゴーの生地を使ったカラフルな編み込みパンを作った。

クロワッサンはブーランジェリータカユキの那須田に教えて貰った月形のパリッとしたものを。

焼成後イメージ通りの出来栄えを見てホッとした。

ここからがこのお話の見どころ↓

各選手のタルティーヌがカットされて審査員に配られ出した。

それを見た江川が焦ってきた。

自分達のチームだけタルティーヌはまだできていない!

「もうカットしましょうよ」

「まだまだ」 

「まだ?」

「まだだ」

と言いながら

修造は編んだ竹墨の生地で包んだスペルト小麦の薄型のタルティーヌに朝仕込んだ豚肉の薄切りを挟んでスタンバイした。

「もういい?」

「まだ」

とうとう次は日本チームの番が回ってきた。

「よし!素早くカットして江川」

「はい」

練習の賜物だ。顔が引き攣ったが、江川はとても薄く上手に濃い味付けの方の8種の野菜のゼリー寄せをカットしてパンと※アイスプラント、ローストポークの上に置いた。竹墨配合の薄い生地の焼き立てに燻製のチーズを四角く切って素早く並べて格子状にしたものを斜めに立てかける。ゼリーにピンと角があるうちに修造は素早くそれを前のテーブルに並べた。それを係の者がカットして、ピールに乗せて審査員に順に配っていく。審査員達はピールに置いた現物の見本を見ながらカットされたパンを手に取り口に運んでから点数をつける。

固めに仕込んであるので溶ける心配はないが、時間が経つとゼリーの余計な水分が少しずつパンに染み込んでいくだろう。なのでぎりぎりまでカットしたくなかったのだ。

さあ!

ぼやぼやしてる暇はない。

とうとう江川と修造はパンデコレを仕上げる時間に差し掛かった。

まず土台を用意して着物の生地を貼り付けていく。

生地の接地面に水飴をつけてから帯やら編笠やらを修造得意の十字相欠き継ぎでしっかりと組み合わせる。それを冷却スプレーで固めていくのだ。

そのあと飾りをつけていく。帯の模様の違いを表面が平らになる様に付けていき、本体に後輪をつける。

「あと5分」の声が上がる

最後まで諦めない。

江川は練習しすぎて随分実力がつき、修造と言葉を交わさなくても同じように動き、2人で完成させた。

江川、ありがとうな。感謝してるよ。

修造さんは今、世界最速だ。

2人とも心の中でピッタリと気持ちが合っていた。

やる事はやった。

全力を尽くした。

江川と一緒に

25.Awards ceremony https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/580

https://note.com/gloire/n/n7a4fe9d1ca7f (note 87~88話)

審査員のパンの試食が終わった。

選手たちは控え室に戻って休憩する様に言われる。

修造は椅子にどかっと座って机に臥せながら、工程に反省点があるか考えていた。

そして顔を上げて言った。

「江川」

「はいなんですか」

「全部の工程でお前の世話になった事しか思い出せないよ。野菜のゼリーと言い、他の工程の全ても。俺の我儘を叶えてくれてありがとうな」

「僕、役に立てたなら良かったです」

「俺は俺の考えたパン作りの全てを思った通りにしたかったんだ。それが実現したのは江川のサポートのおかげだよ」

さっきまで目元が引き攣ったままだったので江川は目尻を摩ってマッサージしながら言った。

「本当に良かった」

さて、表彰式ではどんどんと他の国の選手が受賞してトロフィーを受け取っている。そんな中

ジャポネって呼ばれた気がする。

ワーっと日本チームの応援団から拍手が起こった。

大木に合図されて修造と江川は真ん中に立った。

自分達にライトが当たっている。

修造は透明のずっしりしたトロフイーを受け取った。

修造は表情を変えなかったが嬉しくないわけじゃない。空手の試合の時、勝った方は相手に敬意を表して、おおげさに喜んだりせず己を律しなければならない。

和装のパンデコレが賞を貰った。

「うわーすごーい!修造さん!おめでとうございます〜」

貰ってホッとした。

元の場所に立ってると今度は大木が江川に「おめでとう」と言った。

「えっ?」

「江川真ん中に立つんだ」

呼ばれてセンターに立ち、大木と修造が拍手する中、江川はトロフィーを受け取った。

「最優秀助手賞だ」

大木の言葉にびっくりした。江川の助手としてのサポート力が評価されたのだ。

「えーっ!僕が?みんなー!僕賞を貰いました〜」

うわーっと叫びながら、江川はトロフィーを高く上げて応援席に向かって叫んだ。

そのあと

オリンピックで言えば金銀銅のメダルと同じ授賞式が始まった。

3位の国、2位の国の名前が呼ばれて、1位はどこかしらとキョロキョロしていたら「ジャポネ!」と言うワードが聞こえた。

大木と通訳の人が大喜びして修造と江川を真ん中に連れて行った。1番高い台の上に立ち、修造は1番大きなトロフィーを受け取った。

バゲットを切り取った様な形の黄金のトロフィーを持って真ん中のライトを見ている修造の横で江川は大木とハイタッチして、両腕を高く上げて「やったー!」と大声を張り上げた。

全身に全部の拍手とライトを浴びた。壮大な音楽が鳴り響き、感動を盛り上げた。

色んな人におめでとうと言ってもらってありがとうを何度も言う。

うわあ嬉しい!僕このままライトに当たり過ぎて白くなって消えていくんじゃないかしら。江川は存分にライトを浴びて、修造の代わりに倍みんなに手を振った。

「修造、せっかく優勝したんだからもっと喜べよ」

修造はあまりに直立不動だったので、大木にそう言われる程固まっていた。

基嶋機械の後藤は大喜びで足が浮きそうな程だった、早速江川を作品の後ろに立たせ、写真を撮リまくった。

修造はそのあと、恩師のエーベルトと再会しました。

そして帰りの飛行機でこう言います。

「江川」

「はいなんですか」

「俺はドイツにいた頃、エーベルトに言われた事があるんだ」

「はい」

「修造よ、マイスターとは若手に製パン技術を教え、知識を教える立場なんんだよ。伝統的な技術や決められた製法を守るんだ。いつかお前もお前が教わった様に下の者に継承して行くんだ。ってな」

「はい」

「俺は日本に帰ったらそれを実現しようと思う」

「あ!僕にも教えて下さいね」

修造は江川をまっすぐ見て「そういう事だ」と言った。

26.Emergence of butterfly https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/586

https://note.com/gloire/n/n3271424619bb (note89~93話)

パンロンドでは修造と江川の祝勝会をする計画を立てていた。

このお話では、パン屋を巡って動画を撮る藤岡が、偶然河に飛び込もうとする由梨を助けたところから始まります。事件を解決して帰ろうと思った藤岡を由梨は追いかけて、パンロンドにも就職する事になりました。

27.the dough is alive https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/611

https://note.com/gloire/n/nc65d06f6797d (note94~97話)

修造と江川はNNテレビで世界大会に出た職人としてテレビに出ます。

江川はそこでパン好き女子の「小手川パン粉」と意気投合します。

収録中に司会進行の埴原が質問した。

「シェフの世界大会での思いと、これからの展望をお聞かせ下さい」

「自分はずっと自分のイメージした通りのパン作りをできるようにしてきたし、それを追い求めてきました。自分はパン作りに対してすごく我儘だと思っています。出来るだけ全力を出したい。今回もそれが実現したのは助手である江川のお陰です。微に入り細に入り手助けしてくれました。これからも自分と、自分の周りの人達のために1日1日を大切にパンを作って行きたい」

それを聞いた江川の顔がパッと赤らんで涙が溢れた。

「僕実家からパンロンドに来て良かったです。あの頃と今の僕とは全然違うぐらいパンの事を教えて貰ったし、僕も大切にパン作りをしていきたいです。修造さんと僕とは何度となく自分で最後の最後に自分のパン作りを見てみたいって言ってきました。これがこれからずっと先の展望だと思っています」

「お二人は肝胆相照らす仲なんですね」

埴原も桐田も目から涙が溢れた。

「このお二人なら最後まで極めて行って下さると思います」

28.some future https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/621

https://note.com/gloire/n/nf6cb15a53789 (note98~100話)

街で偶然律子と由梨があった時、律子は修造との馴れ初めを話しました。

結婚してすぐに修造がドイツに行くって言いだした時、凄く反対したわ。緑も小さかったし。

でも目の奥に覚悟が段々できてきて、絶対行くんだわって悟った。

5年間ずっと修造が帰ってくるのを待ってたの。

パンロンドで働きながら長女の緑を保育園に預けて、仕事が終わったら2人で帰ってまた次の朝が来る。

修造が大好きで会いたくて、でも意地を張ってメールの返信もしなかった。

ずっと後悔してるのよ。

追いかけていけば良かった

一緒にドイツで暮らせばよかった。

だからこれからずーっと一緒にいようと思ってるの」

はい」

「私達ね、山の上でパン屋さんをするの。修造がパンを作って私が販売して修造を支えるの。修造がパンを作ってる所がお客様にも見えるようにしようかな」

「素敵」

由梨は自分と藤岡の未来をちょっと夢見てみた。

「結婚って良いですね」

「ホント毎日が楽しいわ」

その姿は堂々としていて自信に満ち溢れ輝いてるように見えた。

子供達から必要とされる存在で、夫から絶対的に愛されている証拠のようにも見えた。

そんな時

法事の為、修造の実家に4人で帰りました。

ねぇ修造。ここにオーブンを置きましょうよ」と左の部屋で両手を広げて言った。「ここに工房」そして入口の土間を指差して「ここがショーケース」こっちに棚を置いてこっちに台を置いて」

と律子は張り切って言った。

「裏に畑を作って野菜を育てるわ、修造はそれを使ってパンを作ってね」

信州の実家が農家の律子は自慢げに言った。

「素晴らしいなあ。いい考えだよ律子」

今は昼間は別々だけどここなら昼夜なく同じ空間で一緒に過ごす事ができる。

俺の俺だけの工房で俺のパン作りをして、最愛の律子と毎日パン作りをここで。

二人は出会った頃の様に見つめ合った。

ここにいて2人で同じものを見て同じ様に感じて毎日を過ごして2人で歳をとろう。

ここら辺の湧き水は潤沢な硬水よりの水でパン作りに適してる。遠くに見える山の周りは牧場と農家が沢山あって良い材料が手に入る。

山を降りた所にある小麦農家と話して粉を卸して貰おう。

修造の夢はギラギラと膨らみ胸いっぱいになった。

外に出れば目の前は林の続く斜面でその下には広大な景色が広がり、その向こうはまた山が見える。その向こうは空だ。夕焼けが真っ赤になり何もかも赤く染まる。

ほったらかしの山だったがそこそこ手入れしてある「誰が手入れしてくれてるんだろう」そう独り言を言いながら鉈で細長く切っていく。2年後に使う薪窯様の薪を準備して工房ができるであろう場所に大量に積み上げた。

パンロンドに戻った修造は神妙な面持ちで親方の前に立って話しかけた。

「親方!俺、、」

うわ、ついに来たこの時が。

親方は修造の表情を見て悟った。

「修造、俺はお前に感謝しかしてないよ。お別れは寂しいけどお前ならどこででもなんでもやれる。応援してるからな」

「ありがとうございます」

「それとさ、あいつきっとついていくんだろ?」親方は由梨と一緒に楽しそうに分割をしている江川を見た。

親方、その事なんですが。俺と江川は店作りをするつもりです。でも俺、その後田舎に帰って一人で工房に籠るつもりです。それで江川には今までの感謝を込めて俺からのプレゼントを徐々に持たせようと思うんです」

「なるほどね。お前は本当にギブアンドテイクの男だよ。お前の思う通りにやってみろよ」

「はい」

「しばらくはまだ準備ができるまでうちにいるんだろ?」

「はい、すみません、勝手ばかりで。よろしくお願いします」

親方との話し合いで休みの日を平日に週2日にして貰った。手続きに動くなら平日の方が良いからだ。

家に帰って律子に親方との話を説明して、「あと2年待って欲しい。必ずその期間に開店資金を作ってみせるから」と頼んだ。

修造は律子に2度目の土下座をした。

「そんな格好やめてよ修造ったら、わかったわ。ダメって言ったらまたどこかに行っちゃうんでしょう?」

「そんな訳ないよ。山の上に行ったら律子と2人の時を増やす様に誓うよ」

その日から修造の頭の中は新店舗開設の事でいっぱいになります。

場所、開店資金、機械の購入などパン屋の開店は他の店の開店より結構かかるなんだろうなあ。

基嶋機械の営業の後藤さんにも聞いてみようかな。あの人なら何でも知っていそうだし。

あとは立地だな。。駅前の不動産屋さんに相談してみよう。

「どんな場所が良いかなあ」

マガジン100〜148話までは主に職場の人間模様が中心にお話が展開していきます。店を開く大変さや様々な人の生き方があります。

29.リーベンアンドブロートができるまで https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/643

https://note.com/gloire/n/ne750a5fa9a4c (note101~105話)

このお話は実際に店作りをするならと言う手順を考えて修造がもがいていく話です。成程こんな感じで開店するんだなと感じ取って貰えるとありがたいです。

勿論千差万別、色んな方法、色んなパターンがあると思いますが、若いシェフにとって本当に勇気がいる事ばかりでしょう。修造は不安と闘いながら開店の日を迎えます。

パン屋開業の為に修造は江川と一緒に色々な土地を探した。

「安くて交通の便が良くて人が通いやすい、広くて落ち着ける場所を。そこはきっと花が咲き乱れてみんなパンを食べながらほっと一息つける所。そんな場所を探そう」

そしてついに2人ともとても気に入った物件に巡り合います。

資金繰り、設計、補修、庭づくり駐車場作りなど山の様にやる事はありました。

もちろん店で働いてくれるスタッフも探します。

相談した基嶋機械の後藤は大喜びで協力した。実際この様な人が居てくれると心強い。

後藤は後々まで江川と懇意にする。

「あぁ」

借入金数千万円という金額にビビる。

何せ生まれて初めての事ばかりだ。仕事中ぐるぐる頭を心配事が巡る。

その横で杉本が呑気に昨日観たテレビの話を楽しそうにしている。

こんな心境の時には呑気な奴や呑気な CMなんかを見ると心から羨ましい。

こっちは審査が通るまではそれどころじゃないんだ。

眉間に皺を寄せて製造を続ける。

仕事しながら親方を見た。

親方も同じ思いを創業の時にしたんだろうな、まだお給料が貰える状態で良かった。

ホッとしながら親方の懐のデカさに感謝する。

そしてとうとうパンロンドから去る時がきた前日。

江川と修造はパンロンドの閉店後、2人だけで裏口から入ってきた。

「さあ、始めようか」

「はい」

2人は今までの感謝を込めて工場の機械を掃除しに来た。

デバイダー(分割丸め機の事。真ん中の赤いレバーを下げると生地に30個分のスジがつく。その後1番上のレバーと下についているレバーを同時に下げると機械が回転して生地が丸々仕組み)を手入れしてピカピカにしながら今までのみんなとの思い出を振り返えって涙が出てくる。

「みんなありがとう」その言葉は人にも機械にもかけられた。

「江川」

「はいなんですか」江川はオーブンのガラスをピカピカにしながら応えた。

「ここで色んな事があったな。色んなパンも作ったし」

「今までで1番楽しかったのはなんですか?」

勿論律子との出会いなのだがそれは恥ずかしいので他のにする「親方と2人でヘクセンハウスを夜中まで作ったり、みんなと催事に出たり色々あったな」

「じゃあ1番辛かった事は?」また律子を置いてドイツに行った時の事を思い出したが他にも色々ある。

修造はがっくり頭を下げてから言った「おれ、ここに来た当初はめちゃくちゃパンを焦がしたんだよ。ブザーがなったから開けてみて、もうちょっとだなと思って閉じたらタイマーの追加を忘れて結局全部焦がしたり。でも親方が全然俺を責めないんだよ。俺はそれが1番辛かったな」やるせなくそう言った。が実は半分は律子に見惚れていたからだがそれも内緒だ。

「俺は親方が大好きなんだよ」

江川はわかりますと言った感じでうんうんと頷いた。

2人で思い出話をしながら夜中まで機械の手入れは続いた。

工場が綺麗になって2人は働いていた場所に一礼した。

「明日でパンロンドともお別れだな」

修造の言葉に江川も感極まった「はい」

そして2人は涙ながらにパンロンドを去り、新しい店作りに専念します。

機械搬入の後、後藤が修造に言った言葉があります。

「ここまで来るのに色々あったからお疲れでしょう」

後藤は修造の顔を見て「色々心配が尽きませんが大丈夫!もうダメだと思った瞬間また他の所から助けがやって来る、商売ってそういうものですよ、私はそんなシェフを何人も見て来ました」とベテランの営業マンらしい事を言った。

「悲喜交々、これから色んな事があると思いますが、お二人で力を合わせていってください。何か困ったら直ぐにこの後藤を呼んでくださいね」

閉店開店

後藤はその度に立ち会いその『色んな事』を見て来たんだろう。

「これからも力になって下さい」修造は頭を下げた。

修造は細かく何がいるか計算するために粉屋とか資材屋、包装紙屋などに貰った見積書をもう一度見直して計算してみた。そして人件費、光熱費、社会保険料、税金、その他諸々。

「全然足りないじゃないか。開店の時は行列を見越して大量仕入れしないと。こんなんでやってけるのか?」そう言いながら仕方ないなんとか回していかないとと覚悟を決める。初めの売り上げを支払いに回していくしかない。

そこにメリットストーンの有田から電話がかかってくる。

修造さん、鴨似田フーズのマダムがあの時ご迷惑をおかけした事を反省されていますし、波風が立たない様にして下さった事をいたく感謝されておりまして、御開店の時の材料等3ヶ月分をお使い頂きたいとの事です」

「え!」

「私が繋ぎ役を買って出ました!」

「俺、絶対良いものを作るんで感謝してるって言っといて下さい」修造は頭を下げた。

このチャンスを無駄にせず全て美味いパンに変えるぞ!

そう固く誓う。

さて、プレオープンの前に2人で試し焼きを夜通し続けた。

「今日は従業員さん達が初めてリーベンアンドブロートで作業を始める日ですね」

「うん」

ここまで長い長い道のりだった。


だが今日からが本当の始まりだ。



「江川、外に出ようか」

「はい」

窓の外が明るくなり、空が赤く染まって来た。


2人は駐車場の入り口から敷石とその向こうの店舗を見ながら言った。


「やっと俺達の店ができたな」

30.リーブロプレオープン  https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/653  

https://note.com/gloire/n/n1aabfc551a0c(note106~110話)

新しくお店を構える時

それが初めての時

様々なトラブルが起こる。

そしてそれは大抵お客様の目に入らない裏側で起こる。

3日後にプレオープンを控えていてその件でNNテレビのディレクター四角志蔵がやって来た。

「どうも修造シェフ、想像を超えた良い店ですね、都心からは遠いですが広くて癒しの空間ができている。外のベンチに座って美味しいパンをのんびり食べてピクニック気分を味わえる」四角は店の入り口に立って周りを見渡した。

テレビでも紹介しで貰って開店準備はバッチリだ。

さて、プレオープンの準備の真っ最中

工房の中からボールや麺棒が落ちた様な音が聞こえてきた。

ガラガラバーン!

「なんだ?」修造が見に行くとオーブンの前で西森と大坂が摑み合いの喧嘩をしている

「やめてやめて!どうしたんだ一体」

「こいつがパンを焼くタイミングが遅くて」

「お前が速いんだ!まだ発酵してないだろ!」

その理由で掴み合いの喧嘩になるのか?

「とにかく落ち着いて」

「もういいです!こいつとは仕事できません」西森が2階に上がった、きっと帰る為に荷物をとりに行ったんだろう。

「私見てきますから」立花が追いかけて行った。

西森は帰り大坂は反省しだした。

そこに登野が体調悪いと欠席の連絡が。

江川が代わりに入った。やれ忙しい。

和鍵と平城山は同じ台の上で作業していた。2人は気が合うのかおしゃべりしながら成形している。もう2人も欠けてるのにこの呑気さはなんだろう。目の前にいてる江川には不思議な光景だった。

「あのさ、お話をしたらいけないとは言わないからもう少し早く手をうごかさないと、ね」結構優しく言ったつもりだったのに2人の表情は急に引きつってそれ以降何も話さなくなった。

江川は急いでデニッシュとクロワッサンの成形を済ませてホイロへ入れた後、本来の自分の持ち場に戻りミキサーで生地を捏ねだした。

さっきの2人は江川を見ながら何か言っていた。

そのあと平城山は急に辞めてしまい、和鍵はしつこく江川に辛く当たる様になる。

31.ロストポジション https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/682

https://note.com/gloire/n/n1989743c2bab (note111~119話)

私辞めます!明日から来ません!

平城山にキレた感じで言われ、次の日から本当に来なかった。

修造は一旦平城山の為に出した社会保険や労働保険、住民税などの届け出を今度は異動届として出した。

「こういう時は日割り計算なんだな」給料計算をして、その後欠員補充の為に求人広告雑誌掲載の依頼を担当の人にメールしながら頭をよぎる。

きっと他のパン屋の面接を受けるんだろう。

サインをしようがハンコを押そうが知ったこっちゃないんだな。

「規則とか罰則なんて辞めたくない者の為のものなんだ」

修造は初めてその事を知った。

一方

日に日に和鍵の江川に対するイジメは酷くなる。

江川は最近リーブロのある笹目駅の近くに引っ越してきた。

自分のマンションに向かい自転車を漕ぎながら涙が止まらない。

あの時と同じだ。

高校の時と。

僕だけみんなと違うのをみんな意識してる、中には和鍵さんみたいに僕の話し方を真似する失礼な子もいた。

そして江川はリーブロに来なくなってしまった。

そんな時カフェの岡田から物が無くなると知らせがあった。

修造は各方面に目配りしないといけないんだと気づく。

修造はパンロンドの親方に相談に行きました。

俺も始めはそんな感じだったな。遅刻ばっかしてくるやつを叱りつけて首にして、そいつが逆襲に来てお前に迷惑かけた事もあったな。色々あったが佐久山と広巻みたいに気の合う奴と出会ってあまりでかい不満もなく続けられたよ。若い時は佐久山はギャンブルばっかりしてて、広巻はのんべぇだった。いつ飛んじまうかわからないなあと思ってたらお前が入ってきて、途中で中抜けしてドイツに行くって言った時から2人ともちょっと表情が変わったんだよ。ヨレヨレの格好してたのも治ったな。仕事の事で更に高みを目指すなんて奴はあいつらの人生で初めて出会ったんだろうよ。戻って来て世界大会に出て、、、

それを見てるうちに段々仕事に前向きになって来て、飲んだり打ったりするのも減ってきた」

そしてうんうんとうなづきながら続けた。

「俺にもあいつらにも良い刺激になったんだよ。江川も続けてればまた気の合う奴が巡ってくるって。仕事のリズムを掴めない奴には一緒にやって褒めて様子を見てやるしかないのさ。そしたら自分で出来るようになるってもんだ。大変と思うけどな」

「はい」

修造は帰り道歩きながら考えた。

そうか

俺が親方夫妻みたいになって江川と一緒に色々とやりかたを考えてやらなきゃいけないんだ。

俺も変わらないと。

江川が育つまで俺が奥さんと親方の2人分をやらなきゃ。

修造は事務の時間を夜に回して職人達と一緒に仕事をして、出来るようになるまで面倒を見た。

出来るようになると「そうそう!その感じ」と励ましてやる気の出る様に努力した。

岡田からは店のものがなくなるのは閉店から開店迄の間なんだと知らされる。

そこで店に2台防犯カメラを取り付けた。

その夜

雨が激しく降っていた。

修造は江川の住んでいるバンブーグラスマンションを訪ねた。

「あ、修造さん。すみません休んで」

「江川、大丈夫か?痩せたんじゃない?何かあったんだろ?俺にも教えてくれよ」

江川は全て言いたい気持ちをグッと抑えた。今まで言わなかった事を改めて修造に言うのは恥ずかしくて耐えられない。「なんでもありません」と言う言葉と裏腹に涙が止まらない。

なあ、頼むよ、江川だけが辛いのは俺も辛いんだ」

「僕、みんなと違うんです」

「何が」

「話し方や服装とか」

「俺だって違うぞ、ダサいし話も苦手だし、それに比べて江川はオシャレで明るいだろ?」

その時初めて修造が自分の事をそんな風に思ってた事に気がついた。

「仕事がキツイのか?それとも和鍵さんが原因?」

「僕、和鍵さんに言われて、昔のことを思い出して身体が動かなくなったんです」

「昔?」

「高校の時の事です」

「不登校の事?」

「はい、また和鍵さんに会うのは怖いです。しばらく休ませて下さい」

「わかったよ江川。仕事のことは心配するな。疲れが溜まっていたせいもあるんだろう、ゆっくり休めよ」

「すみません」

こんなやりとりがありました。

そして修造は大木の元を訪ねます。

「よう、こないだは散々だったが練習したらちょっとは上手くなるって」大木は全てスライスする修造のゴルフを思い出して言った。

「俺、ゴルフは向いてなくて」

「クラブフェースが開いてるんだよ、肩の位置とグリップを直しゃいいんだよ」それは何度も言われたが治る気がしない。

「ご相談があって」

「なんだよ」

「シェフは大勢の職人を束ねていますが、どうやって軌道に乗せてるんですか」

「軌道」と言って大木はそばにあったケーキ用の回転台に試し焼きで余っていたクッキーを等間隔に乗せた。

そしてそれを太い指で素早く回すとクッキーは振り落とされて数個残った。

「早く回しすぎるとポロポロ落ちる、ま、丁度良く回す事だな」

「はあ」抽象的な事を言い出した。

「分からんでもないだろ?」

「はい、なんとなく」

「何を困ってる?やってみると大変だろ?」

図星で何とも言い難い。

「あちこちボロボロです」

「お前は全体を見なくちゃならんからな、一つのことに執心すると他が疎かになる。全体を満遍なく見るんだ」

「江川がいじめにあってる様なんです、中々俺の前ではどちらの様子もハッキリしなくて」

「お前な、いつまでも江川のおもりをするつもりか?もっとしっかりした奴だと思うぞ。あいつに自分で何とかさせるんだ。そんなことであいつを独り立ちさせようったって無理だろ」

「はい」

大木にはっきりと言われて今後の課題を言われた気がする。それは自分自身への課題でもあった。

さて

修造にはもう一つ困ってることがありました。

レジと品出しの姉岡が段々反抗的な態度をとる様になって来ました。

その他にもお店の事を仕切り始めてこちらに聞かずに勝手に行動する様になってきた。

なんなんだ姉岡さんって。

修造は工房からしばらく姉岡をマークすることにした。

これ見て下さい」中谷のスマートフォンを覗いて店の評価が載ってるサイトの細かい文字列を読んだ。

「あ!」

『リーベンアンドブロートのシェフって奥さんと生まれたての子を置いて外国に行っちゃったんだって。酷いエゴイスト』

別に炎上してるわけじゃ無いけど気になるし傷つく。

「なんなんだ、これ」

「店のエゴサしたらこんなものが出てきて。酷いですね。書き方に悪意を感じます」

「本当だ、中谷さん教えてくれてありがとう。俺こういうのに疎くて」

「また何かあったら言いますね」

「うん」

家族が心配だ、また律子に迷惑をかけてしまった。

その夜

修造は久しぶりに家に帰った。

「修造おかえり」

「ごめんね中々帰ってこれなくて、子供たちは?」

「もう寝てるわ」

愛妻律子とただいまのハグをして、修造は今日の事を話した。

「律子ごめんね、迷惑かけて」

「そんなに謝ってばっかりしなくてもいいのよ修造」

律子は修造の顔を覗き込んだ。

修造、疲れてる。クタクタなんだわ。

なのに無理してる。

こんな修造見たの初めて。

修造はいつだって情熱に燃えて生きてきたのに。

律子は膝枕をしながら修造の言っていた店の評判を調べた。

これね

フン

エゴイストですって?

他人に私達の何が分かるって言うの?

バカみたい。

「私達こんなの全然平気よ、これってお店の評判を下げようとしてるのよ。そっちの方が心配だわ。気を付けてね」

気丈夫な妻律子は嫌がらせを一蹴した。

小手川パン粉はずっと仕事を休んでいる江川のマンションを訪ねました。

「ねえ、江川職人、何か困ってる事があるんでしょう?私にも分けてよ。でないと私も辛いよ。話してくれない?」

「うん」

江川はしばらく黙ったあと話し出した。

「僕、周りの人と違うんだ同級生の誰とも違うんだ。男とも女とも」江川はパン粉に心情を打ち明けた。

「今もそうなんだ、みんなの事が大好きで仲良くはできるけど愛とか恋とかっていう気持ちがないんだ。ひょっとしたら誰も愛せないまま終わるかもしれない。だからってみんなが嫌いなんじゃないんだ。修造さんやパン粉ちゃんの事が大好きなのにそういう事とは少し違うんだ」江川は両手を握りしめた。

「僕は僕の事がよくわからない、身体は男だけど男でも女でもないんだ」

パン粉は泣いてる江川の頬を両手でそっと包んだ。

「僕にはそれをどうすることも出来ない」

「ねぇ江川職人、別に誰かを好きになったり結婚したりみんながしてる訳じゃないじゃ無い?1人の方が気楽って人もいるし、今って前よりも色々な選択肢があるのよ。男だからとか女だからとかもうどうだっていいのよ」

そう言いながら両方の親指でとめどなく流れる江川の涙を拭った。

「まだ出会ってないからなのか私にはわかんないけど。恋愛なんて言葉、それだけが人生じゃないもん。今の世の中って別に誰とも結婚しないでも良いし、ずっと1人で生きてる人も沢山いるのよ。自分だけが孤独とか1人って訳じゃないよ。自分の分類みたいな事は誰にもして欲しくない。自分の事を誰にも決められたくない。人は人よ、その人達が勝手に自分と違うとか思ってるだけ、江川職人は江川職人なのよ」

「パン粉ちゃん」

急に江川の目の前がパッと輝いた。

今までどこにもなかった道が急に見えた様な気持ちになる。

「私は江川職人と出会って良かった。この間みたいにさ、また映画に行ったりカフェに行ったりしようよ。私達友達でしょう?まだまだ見てない事や知らない事が沢山あるのに勿体ないじゃない」

「パン粉ちゃん」道が開けたのと同時に今まで探していた宝箱まで見つけた。そんな気持ち「本当にありがとう」

「私本当の名前は瀬戸川愛莉って言うの」

「そうなんだね、愛莉ちゃんって呼んでも良い?」

「うん、卓ちゃん」

「私達の未来って私達が思ってる程決まってないじゃない?これからの事は誰にも分からない、でも私達が親友って事、それだけは確かよね」

2人は手を握り合い顔を見合わせてウフフと笑った。

そうか

僕自分の事を型にはめようとしてはみ出してるのが辛かったんだ。

こんな風に思ってくれる人も居るんだ。

「僕愛莉ちゃんと居る時とても気が楽だな」

「私もよ、だって私達親友じゃない」

親友というとても素敵な言葉に江川は凄い強いアイテムを受け取ったような気がした。

心に温かい何かが芽生えた。

「修造さん」

「あっ!江川!」

「修造さんすみませんでした。僕もう大丈夫です。それで、パン粉ちゃん、瀬戸川愛莉ちゃんがテレビや取材のない日にお店で働いてくれるって言うんですが良いですか?」

「うん、助かるよ」

修造は江川をめちゃくちゃ心配していたが、江川が自分で乗り切って表情も変わったのを見て心からほっとした。

「俺、心配で」

「すみません」

ごめんなさい修造さん。大変なのに迷惑とか心配とかかけちゃったな。自分で店をするのってこういう「人」の事は避けられないんだ。常に色んなことが起こって、人の入れ替わりも当たり前なんだ。パンロンドが安定感ありすぎてわからなかっただけなんだ。昔は当たり前だった事が全然無くなって、常識を守るっていう意識も薄くなって自由になったんだ。

数ヶ月前の僕はパンの世界のキラキラした物を修造さんと一緒に追いかけていた。

江川はトロフィーを手に取った。

ずっしりと重い。

これを受け取った時の気持ちを忘れないようにしなくちゃ。

「僕もう平気だよ」

そして江川は和鍵にコルネ対決をして打ち勝ちつ。

先に出来上がった江川は

はい!僕できたよ」とはっきり言い放った。

その声を聞いてからやっと和鍵は全てを並び終えた。

「初めからふたつをセットで持って並べやすい様に、向きを決めて並べていけばすごく早くできるんだ」

途中から戻ってきて黙って見ていた修造が口を開いた「何度も何度もやってるうちに気がつくことが沢山ある、それが経験値なんだ。そうやって色んな経験値を積んでベテランのパン職人になっていく。普段江川が仕事が早いのは材料を戻すときに次の材料を順に重ねて持ってくるからだ、当たり前の事だけど仕事の中に工夫を重ねることが本物の『時短』だ」

それを聞き終えて、負けた方の和鍵が「いいわよ別にやめればいいんでしょ?」と江川に言った。

「違うんだ和鍵さん、僕達せっかく一緒の職場にいるんだ。僕達修造さんの為に協力してやろうよ。明日からも一緒に仕事してよね」

「えっ」それを聞いて修造は感動していた。

江川、俺は嬉しいよ。

お前の事をみくびってたよ。

お前はきっと素晴らしいパン職人になれる。

その夜

修造は防犯カメラの音量を上げてから録画をチェックした。

そしてとうとう犯人を捕まえる。

姉岡が返済の為に店の商品を売り飛ばしたり、店が忙しすぎるので暇にする為にネットに炎上しそうな事を書き込んでいたのだった。姉岡は自ら辞め、修造は岡田に顛末を報告しに降りた。

「こういうのって追跡が大変なので助かります」

「ありがとうな、ほんとに」

「いいえ」

修造は一見クールで何を考えてるのかわからないのに滅茶苦茶頼りになる岡田という青年を心から信頼していた「何かお礼できないかな」

ところで

修造はみんなが働いている工房や店の様子を見ながら仕込みをするのが習慣付いてきた。


和鍵は江川に負けた後もずっと来ている。その次の日も次の日も。そして訴えると言う事は無くなったし、もう江川には以前のような事は言わなくなった。

今はなんと江川が和鍵の面倒を見てやっていて和鍵もそれに付いていってる。



人の心って不思議だな

それぞれの考えや環境も違う

那須田シェフの言う通りだ

結局みんな人それぞれの理由がある



ひとつひとつ解決していくしか無いんだ。



そうだ

今後の事も考えて

有無を言わさぬ立場にしちゃおう

岡田を店のリーダーにして、江川を株式会社リーベンアンドブロートの専務にするぞ

この店の為に2人で力を合わせて貰おう

修造はそれを印刷して掲示板に貼った。江川は専務、岡田は店長だ。



早朝



「修造さん」

外に出てホースで花に水をやっている最中の修造の所に江川が走って来た。

「何だよ専務」

「ぼ、僕専務ですか?」修造が貼り付けた辞令を持っている。

「そう!頑張ってくれよ専務」

「は、はい!」



江川と2人高速道路の向こうから登ってくる朝日を見ながら言った。

「まだまだこれからなんだから」


32.満点星揺れてhttps://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/716

https://note.com/gloire/n/n1e29cabc0855 (note120~124話)

修造の息子大地が1歳のお誕生日を迎える。
修造は大喜びで渾身の一升パンを作った。

それを見ていた焼成担当の大坂と森田は

大坂と森田は2人でバヌトンというカゴから生地を出してスリップピールに並べながら話し合った。

「結婚かあ、俺はいつか結婚とかする気がしないなあ」森田が言うと「俺なんてしばらく彼女もいないのに」大坂が答えた。

「身近な女性は?」

「いないよ全然」

「前の所は社内恋愛禁止だったよ」西森が思い出して言った。

「社内恋愛ってどうなるの?」

「上司に呼び出されて色々聞かれて1人移動になってたよ」

「えっそうなの?一店舗しかないと移動もできないね」

「気をつけよ、というか今は恋愛とかする人も少ないんじゃない?」

「そうかなあ」

立花が「はいこれ、話に花が咲きすぎよ」と注意してきた。

「すいません」と西森と大坂は頭をペコっと下げて立花が渡してきたナスと鶏のタルティーヌを受け取ってオーブンに入れた。

黙ったまま作業して大坂は思った『立花さん素敵だなあ、いやいや社内恋愛はいけないらしいし。立花さんと付き合ったらどんな感じかな。やっぱ俺頼りないから叱られたりするのかな。こら!いけないぞ!なんてな』大坂は馬鹿みたいに1人顔を赤らめた。

その頃


由梨は両親の経営する『花装』が出店している浴衣イベントで手伝いをしていたが、藤岡の探し求めていた女性立花がリーブロに勤めているので足が向いてしまう。
藤岡さんは立花さんを探してパン屋さんを一軒一軒訪ねていました。その事はご存知でしたか?」

「いいえ、知らなかった。あなたはその事を知ってるのね」

「はい、だからって私達何もありません。藤岡さんはここで立花さんを見かけてから様子がおかしかった、今の立花さんみたいにこのベンチに座り込んでいました。でもその後藤岡さんが何を考えていたのかはわかりません」

「だからここに来たのね」

「長い間パン屋さんを見て回るのは大変だったと思います。それがあの人の気持ちです、もしご存知無かったのなら言わなくちゃいけないと思って、その事を伝えたくて来ました」

「貴方はそれで良いの?」

立花は由梨の気持ちを汲み取って質問した。

よくはない、よくはないが

このままにして良いのかもわからない。

由梨が困っていると立花が「わかったわ、一度藤岡くんと話してみるわね」と微笑んだ。

由梨から見た立花は凛とした立ち居振る舞いの素敵な大人の女性だった。

帰り道百日紅(さるすべり)の花の咲く駅への道を歩きながら「私は何をしてるのか」と情けなく思う。

そんな訳で立花は駅前のカフエで藤岡と会うが、結局時間が藤岡は由梨が自分の運命の相手だと言い出す。
それを見ていた大坂は立花を慰めるが立花は大坂を突き放す。

後日
由梨と藤岡は二人になるチャンスが出来た。
二人ともしばらく話さずに黙って歩いていたが、由梨が「あの、私勝手に立花さんに会いに行ってすみませんでした」と切り出した。

「うん、その後こちらからリーブロに連絡して会って来たよ。話してる間に自分の気持ちを確かめられたかな」

「え」

それは立花への気持ちを確認したのか。

それともどっちの意味なのか。

「あの、以前」

「うん」

「自分が辛かった事や今の自分の気持ちもちゃんと言えるよ」って藤岡さんは私に言ってくれました。もし辛かったらそう言って欲しい。気持ちをちゃんと言ってください。どんな言葉でも良い。真実が知りたいです」

「俺の実家の庭には満天星躑躅(どうだんつつじ)があるんだ」

「どうだんつつじ?」

突然花の話をし始めた藤岡の表情をじっと見ていた。

「そう、初夏に白い花が沢山咲き誇って揺れているが、秋になると葉が燃え盛る様に真っ赤になる」
由梨は満点星躑躅の様だ。たおやかに揺れていると思えば情熱的な一面もある。

「この木が好きでね、『私の思いを受けて』と言う花言葉もある。秋になると真っ赤になるから満点星紅葉(どうだんもみじ)とも呼ばれている」

そう言ったあと、由梨を見て微笑んだ。



「由梨ありがとう。心配かけたけど、もう終わった事だったんだ。探し求めていた人に会うのが怖かった。そして立花さんに結果的に嫌な思いをさせてしまった」
だけどその後、心の中にできていた固い砂の塊が時間が経つにつれて段々パラパラと解れて無くなっていった。

あれ以降

俺の中で

何かが変わった

新しい俺に

小麦と水が出会って自己融解を起こす。

由梨と俺の心が溶け合って

そして藤岡は湖のほとりのパン屋に立ち寄り、美しい眺めの中由梨に交際を申し込みました。

33.パン屋日和 https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/731

 https://note.com/gloire/n/naba2ab4aaaad (note125~129話)

「パンが沢山売れるのは晴天の日とは限らないんだ。今日みたいに25度前後で少し曇ってると買い物してる奥さんは「まあこのぐらいの気温で天気なら買ったものが痛まないからゆっくり帰れるわよね」と言うわけで、いつもより店内をゆっくり回って多めにトレーに入れる事になる。俺はそれをパン屋日和と呼んでいる、まさに今日みたいな天気の事なんだよ江川」と秋口にお客さんで溢れ返る店内を見て修造は言った。

江川も確かにそう言われてみればその通りだと思った。夏場や冬場はテラスもあまり使われていないし、春や秋はすごくのんびりしている。

そう言うのも含めてパン屋日和だ。

「じゃあかき氷日和とかたこ焼き日和とかもありますね」
「だな」
そこに70歳ぐらいの女性が声をかけて来た。
「お医者さんに糖質を減らせって言われてるのだけど何がお勧めなのかしら」

色々と迷っていたらしいので、修造はSAUERTEIG-ROGGENBROT MIT FRÜCHTEN UND NÜSSENと言うフルーツとナッツの入ったライ麦パンを選び、岡田にパン切り包丁とまな板を貰ってテーブルで薄くカットして一切れ渡した。
「あまり馴染みがないかもしれませんが、ライ麦パンは低GI食品と呼ばれていて血糖値の上昇が起こりにくい。ミネラルや食物繊維も含まれていて、ドライフルーツはマグネシウムやカリウムなどのミネラルを多く含んでいます、そしてナッツもミネラル、食物繊維、不飽和脂肪酸が含まれている。これを食べたから健康になれるとは言いませんが、お腹が空いたらこれを食べるのは良いことかもしれません」修造は普段無口だがパンの説明になると饒舌になる。

「そうなのね」と言って渡されたパンを食べてみた。

思っていたより固くなくて生地には水分が多く、パサついておらず酸味が旨味に感じられ、それがマッチしてフルーツとナッツがより美味しく感じられる。



「あら、美味しいわ」ご婦人は修造が気に入った様だった。婦人は笹目市長のお母さんだった。市長はイベントで修造の飾りパンを飾りたいと申し出た。
市長のお母さんの為なら頑張りたい気持ちはある、だけど他にもっとあるだろう、ブロンズ像とか油絵とか。と言いながら修造の中ではアイデアが大きく膨らんでいく。

頭の中でどんな形でどんな大きさで、どこに置くんだろう、どんな人が見るんだろうなどなど考えが止まらなくなっていく。

そして作る工程を考え出すともう止まらない、イラストを描いてここのパーツはこんな風にして、ここはこんな色にして。



そしてとうとう作り始めてしまう。

そんな時、従業員になりたいと言う江川の知り合いからの電話を受け取る。「一人は製造もできて事務もできるの?有難いなぁ!そして仕込みの専門と焼きの専門がいるの?すぐ面接に来てよ!」

と電話を切って江川に知らせた。

「僕の知り合いですか?」

パンロンドかベッカライホルツの職人しか知らないので、誰かと思っていたら「あっ!塚田さん、三田さん、辻さん」以前(イーグルフェザーと言うお話で)鷲羽とヘルプに行ったベークウェルと言うパン屋で知り合った職人達が入って来たので江川は大喜びだった。

三人は江川を囲んで再会を喜んだ。

それを見ていた修造は江川にとって良い環境になって来たと安堵していた。

そんな訳で修造の芸術作品は公会堂のイベントに飾られる事になった。

沢山の人に分かりやすい物をと考えて、パンのヴィーナスというテーマにする。

生命の息吹と未来への羽ばたきだ。

しかし修造のイメージを実現化するにはパーツの数が半端ないしとにかく重くなるだろう。それを支える為に土台も重くした。

「完成してから運んだんじゃ壊れそうだから現場で組み立てたいんですよ」

修造は秘書に電話した。

そしてイベントの何日か前に土台を現場に運んだ。

イベント会場は公会堂の外にあり、舞台と観客席がある。その上の大きな屋根は白いテントでできている。仮設ではないのでそこでは度々音楽ショーや野外映画会などが行われている様だ。


今回は地域おこしのイベントなので、リーブロはその町にある店という事で修造のパンの作品(パンデコレ)は舞台の後ろの真ん中に飾られる。
土台の形は修造得意の組み立ての技法で複雑な形を成し、細かなパーツは執念によって作られ組み立てられた。宝石の様な色合いは色を変えた飴細工によって成されていて、輝きを添えている。

イベント当日、「あの、田所と言います。リーベンアンドブロートは生活とパンと言う意味で名づけました。毎日の生活にパンは欠かせない、そこには色んなライフスタイルがあって、色んな場面で色んなパンが食べられている。縁あってこの笹目市に店を構えたんですから、地元のお客さんの生活にリーベンアンドブロートのパンを取り入れて頂けたらと思っています。パン屋さんの仕事は過酷と思ってる人が多いかも知れません。たとえ作ってる所が誰にも見えなくても出来たパンがお客さんといい出会いがあればそれでいい。これからも俺はその為に努力を惜しまないつもりです」
と言って頭を下げた。


剛毅木訥、仁に近し

修造は頑張った。

嵐が近づいて来た。
飾りパンが心配な大坂、立花、和鍵は舞台に設置してあったパンの女王に衝立を取り付けに行ったが、飾りパンが倒れて和鍵は怪我をしてしまう。

和鍵の両親は病室で修造を責め立てるが、和鍵は両親を追い出してしまいます。
「今俺を庇う為に辞めるって言ったんだろう。本心じゃないじゃないか」

「いえ、もういいんです」

和鍵はそれ以降、下を向いて何も言わなかった。

大切と言った事に返事が欲しかったが、聞かなくても分かっている。修造にとって律子が一番なのは見ていて分かる。

病室で一人窓の外の吹き付ける風の音を聞きながら「もう色々無理だから」と呟く。

修造は両親の所に行って和鍵の作ったミッシュブロートを見せた。しかし二人とも話が通じない「問題をすり替えないで下さい。本当の事に目を背け過ぎだ。そんな発想子離れしてないのが原因でしょう。娘さんは職人として自立しかけている、俺はその事を話しに来たんだ。その為にパンを見せたのに」修造にすれば自分のところの職人を大事に育てたいからやってきたのに。

「このまま和鍵さんが成長するのを邪魔してばかりではうちも辞めてご両親とも上手くいかなくなるんじゃないですか?もう変わらないといけない所まで来てるんですよ。あなた達が捻じ曲げてきた結果でしょう」

二人とも黙ってしまった。

心当たりがあり過ぎて困っている様だ。

「俺は明日和鍵さんともう一度話してみます。今日このパンを前にして、今後の事をよく考えてみて下さい」

そう言って出て行った修造をそのまま見送り2人ミッシュブロートを前に座る。

「希良梨は大人になってきたんだな。あの男がさっき希良梨は段々変わって仕事に向き合ってると言っていた」

「そうね」

「あの男の言う通り私達も考え直さないといけないな」

和鍵の父親はパンを母親に渡した「これを切ってくれよ。希良梨の作ったパンだ」

「そうね、頂いてみましょう」

和鍵の母親はパン切り包丁でカットしたミッシュブロートを皿に乗せてだした。

クラストは力強く、クラムはしっとりとしている。

「美味しいわね」

「そうだな、こういうパンって固いと思っていたが意外と甘いもちもちした食感なんだな」

「これを希良梨が作ったのね。私達あの子を子供扱いして、気持ちも良く聞かずに決めつけてた所があったわね」

「段々色んな経験を積んで大人になっていくんだな」

二人は生地の断面を見ながらしみじみと言った。

嵐が過ぎ去り修造と江川は飾りパンの補修をしていた。
急に江川が打ち明け話を始める。

「僕本当は男の身体なのになんだか男でも女でもなくて、それで心が不安定なんです。愛莉ちゃんだけがこの事を知っています」

「うん?」

修造は手を止めて頭の中でもう一度江川の言う事を復唱した。

修造にとって予想もつかない事だった。

「そうだったんだ。俺は鈍いから江川の悩みを全然気が付いてやれなかった。きっと辛かったんだろうな。だけど俺にとって江川は江川なんだ。今までと変わらず接するよ。教えてくれてありがとうな」

「僕もこれからもずっと今まで通り修造さんとパンが作りたいです。面接で修造さんと初めて会った時、修造さんは丁度生地を捏ねていて、凄く無心で誰が自分の事をどう思ってるかとかそんな事関係ない生き方もあるんだって思いました。僕もそんな風にに生きられたら良いと思います」

これからもと聞いて、修造は2年でお前を一人前にする計画を練っているんだからと心の中で思った。

「ふふふ」修造が建てている計画、それはどんな事なのか。

34.製パンアンドロイドと修造 https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/800

https://note.com/gloire/n/ncb4145db969b (note130~131話)

N大学のロボット工学科のアンドロイドを研究している鷹見崇(たかみたかし)教授と助手の三輪みわ子さん、常磐城親(ときわしろちか)がやって来た。製パンアンドロイドの開発をするのに修造に協力して欲しいと言うのだ。


「工場で働くパン用のロボットアームなんかは既にありますよね?」
「そうですね、製パン工場にはあります。しかし町のパン屋さんにそれを置くというのは費用も掛かり場所も無い場合が多い。一般のパン屋では殆ど導入例がありません。高齢化で店じまいするのも体力に自信が無くなるからと言うのが理由の中の一つです。なのでそれを補って少しでも町のパン文化を残したいのです」

後藤は修造の表情を読み取り付け足した「シェフ、私も辛いんですよ。ご高齢でお店を閉められる時はお店の周りも寂しくなりますし、常連で高齢のお客様もお困りになってるのを見ています。この企画は色んな方の為に考えたものなんです」

成程、高齢化が原因で閉める店を少しでも減らしたり、無くなるその日を遅くしたりできるなら協力しても良い。
そう思って製パンアンドロイドができる。



このお話はhttp://www.gloire.biz/all/3877製パンアンドロイドのリューベm3というお話に続きます。少し未来にリューべは未亡人の所に現れて手助けします。

工房で江川と仕事をする英パンアンドロイド

35.パン職人NO,1決定戦 https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/824

https://note.com/gloire/n/n302ab1681b1a (note132~136話)

「江川」

「はいなんですか」

「これからお前にはちょっとした試練を乗り越えて貰う事になる」

「えっ?!な、何ですか試練って」
江川は突然修造が試練と言ったのが怖くなり身を竦めながら聞いた。

「どうなるんですか僕」

「今はまだ言えない」

「ちょっとぐらい教えて下さいよう」

「何があっても俺を信じろ!そして自分を信じるんだ」

「えー」

NNテレビ主催のパン職人NO,1決定戦という番組に20人の選手には先日招待状が送られていた。

それを受け取った者達は当日控室でスタッフから受け取ったコックコートに着替えて、荷物は全部ロッカーに仕舞う様に言われる。江川も招待状を受け取り、修造に行くように言われていた。コックコートの左胸の所には『18』と書いてある。

全員が部屋に入る前にお題を確認して、部屋で出題された内容に取り組んで次の部屋の前でお題を確認してまた次へという感じだ。


一つ目の部屋は秤無しでの生地作り。

次の部屋は秤無しでの分割

三つ目の部屋は巨大なボールから出来るだけ早く取りだす。

対戦しているうちに江川は鷲羽がいることに気付きます。


そして次の対戦の部屋では3組で戦う。
江川の助手として大坂が待っていた。
鷲羽には園部が、もう一組の佐久間には咲希がいた。
3組でタルテイーヌ対決をして次の部屋に急いで行こうとしたが次の部屋ではなく、そこは大勢の観客のいるステージの上だった。


採点の結果鷲羽が僅かの点差で優勝して大喜びだった。
試合の裏側では背の高い男が職人達を招待して、スタッフにも自分の仲間と弟子を集めていた。その中には那須田もいたが修造はその事を知らない。

後日江川の準優勝を皆喜んでくれたが、江川はしょんぼりしていた。

大坂だけが立花に「フルーツソースが上手くいって良かったわね」と言われて有頂天になった。というのも助手としての特訓を見て貰ったのが立花で、勿論フルーツソースも教えて貰っていたからだ。

江川は修造に会うために事務所のある2階への階段を足取り重く登った。

「修造さん」

「江川、昨日はお疲れさん」

「僕負けちゃいました」

「江川、秤なしでちゃんと生地ができた。惑わされず分割できた。生地を取り出せた。美味いタルテイーヌが作れた。お前のタルテイーヌが1位だった。なんか文句あるか」

それを聞いて江川のモヤモヤは吹き飛んだ。

「1位は鷲羽にプレゼントしてやれ」

36.Prevent a crisis https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/893

https://note.com/gloire/n/n65c1842e7fee (note137~142話)

杉本の両親は息子の龍樹とその彼女の風花を結婚させようと、藤岡と由梨も呼んで食事会を開いていたが杉本だけは全然気が付いてもいない。

この中で結婚に対して憧れの気持ちがあるのは由梨だった。
パンロンドの奥さんは風花に結婚の三つの条件を言う。
「私は杉本君良いと思うけどなあ、ほら、以前も風花ちゃんの為に犯人を突き止めて捕まえてくれたじゃない?一緒に暮らして気楽な事と、何かあったら相談できる人、自分を裏切らない人。その3つがあればオッケーよ」

丸子はなんだか結婚式の挨拶の3つの袋みたいな話をした。

大金持ちでも居心地悪くては長く一緒にはいられない。

由梨と藤岡は日に日に心の交流を深めお互いの信頼関係を築いていた。その内実家に行くことも約束した。


日光に行ったその日の夜藤岡に一本の電話がかかってくる。
「はい、ああどうも、え?何故それを俺に?そうなんですね。じゃあ調べに行きますよ、それじゃあ」

そう言って電話を切った後「さてどうするかな」と大きな窓の夜の街を見ていた。

2日後
杉本は藤岡に頼まれて藤丸パン横浜工場にやって来た。
そこで不審な4人組を見る。
4人は打ち合わせ中らしく真剣な面持ちだ。

年齢はばらつきがあり、50歳ぐらいの目が細くて釣り上がった男の名札には足打と書いてある。その隣の40ぐらいの男は最上、後の2人は若くて大島と京田。

「あの〜すみません、今日からここで働くらしい杉本なんですけどぉ」

「今日から?らしいってなんだ」

「聞いてないな」

「大和田って人に会えば分かるって言われて」

「大和田工場長の事かな」

「他にいないだろ」

「じゃあ入れよ」

杉本が中に入って建物のドアを目掛けて歩き出すと「待て」と年配の男が引き留めた「お前俺達のさっきの会話聞いてただろ」

「何の事ですかぁ」

「聞いてなかったのかな」

「何の事かわからないのでは?」

「まあいい行け」

杉本は大和田工場長に会ってパン工場の中を案内して貰う、
その日は小田という母親ぐらいの女性職員についてパンの仕分けをした。
次の日もあの4人組に出くわした。その中の一人が落としたメモを見ると数字と英文字が沢山書いてある。
杉本はそれを忘れない様にホワイトボードに書き写したが見つかって消されてしまい、倉庫に閉じ込められる。

藤丸パンの表玄関の方では若と言われる藤丸パンの息子が来ていた。大和田と木山課長が若を出迎えて「怪しい4人組と話し合う為に呼んできてくれ」と探しに行くが逆に木田の裏切りで4人にしまう。
それを助けたのが杉本の心配をして様子を見に来た風花と由梨、そして何故かそこにいた鴨似田フーズの歩田と兵山だった。事件は5人の社員の起こした食品テロだった。

「すみませんが大和田さん、センサーは止めさせて貰いましたよ。もう14時だ、最上達が生地に金属片をばら撒いた頃です、このまま生地はレーンの流れに乗ってケースに入れられ発酵した後焼成、冷却包装、出荷だ」

「なら今からまだ止めるチャンスはある!

「そう、だからもう少しお前らを何処かに閉じ込めておかないと」

「出荷が終わって販売されるまでな」木田はもう一度ナイフを取り出した。
切先を藤岡に向けた瞬間「あぶない!」と由梨が前に立ちはだかったが、その横を擦り抜けて「防ごう異物混入!食の安全宣言!」と叫んだ杉本のパンチが木田の顔面に当たり「ふがっ」っともんどり打って床に倒れた。

それを見ていた杉本が「俺は怒ったぞ!大体普段から異物混入を防ぐために修造さんからうるさく言われてたのに、人様の口に入る物に何て事を!」と犯人を怒鳴りつけた。


「おい!パスワードを教えろ!金属片除去のセンサーを作動させるんだ!」藤岡は足打の襟を掴んで揺さぶった「教えませんね〜」と憎たらしい言い方に藤岡がむかついたその時「あ、俺それならわかるかも」と、まだしかめ面の杉本がセンサーの前に進んだ。
杉本がセンサーのパスワードを覚えていたので未然に防いで結局犯人を2人捕まえる事が出来た、と思えたが実際に裏で動いていたのは鴨似田夫人だった。夫人は事件を調査して表玄関から小田達に声をかけて逃げてくる犯人3人を捕らえた。

藤岡は鴨似田夫人に「おそらくさっきの者達も仲介の者の偽名と電話番号しかわからないと思いますわ。それに気をつけないとこれから先もいくらでもこのような事がありましてよ。いつまでも今のままで良いのかしら」と言われて藤丸パンを守っていかないといけない事に気が付く。
藤岡はその足で由梨の所に行き結婚を申し込み共に歩んで欲しいと頼む。

37.flowers in my heart https://wordpress.com/post/pannosyousetsu.art.blog/1097

https://note.com/gloire/n/n60c45f9efa59 (143~148話)

鴨似田フーズのパーテイーで藤岡は大坂と会う。
大坂は藤岡がこれまで立花をないがしろにしてきたと思っていたがどうやらそうではないらしいと知る。
リーベンアンドブロートで一周年記念の日が近づいて来ていた。江川は働き過ぎの修造を心配して、長い休暇を取るように言う。

親方の所に行き飲み比べに誘うと、藤岡も参加してきた。
飲み屋にて藤岡は親方と修造に藤丸パン食品テロ未遂事件の話と、由梨と結婚する事を報告してきた。

そして由梨と二人でパンロンドを退職する事も告げた。
親方は「良いって事よ!楽な道のりじゃないかも知れないが大和田さんに教えて貰いながら仕事を自分の物にしていくんだな」と言ったが酔っぱらった親方は机に顔を伏せ、唸るような小声を絞り出した。「修造の次は藤岡がいなくなるのか、俺はあと何回こんな感じの気持ちを味わうんだ」「今は親方の気持ちが分かります」

同じ空間で自分が育てたものが無くなってしまう

それは人でもあり、形作って来た技術とか人情でもある。

「寂しいですね」

「うん」

次の日
修造は家族を連れてリーブロに来ていた。
緑はこの店を「お城の様だ」と言ってくれるし、律子は「癒される」と言ってくれるので嬉しい限りだ。机の下でこっそり手を繋ぐ2人を見て、店内から「ああやって自分の理想に自分を近づける人間は耐えず努力している」店内から2人の様子を見ていた店長の岡田克美は凄く冷静な目で横にいるカフエ部の中谷麻友に言った。

「その時は努力とは思ってない、もがいてる最中だから」

「修造さんってもがいてるんですか?」中谷は首を傾げて言った。

「それは後で分かることであって、動いているうちは努力してるとは思っていない訳だし」

「きっと家庭の事も一生懸命なんでしょうね」

「それが当たり前になってる者だけが成功するのかも知れない。仕事にせよ家庭にせよ趣味にせよ」

一方パンロンドでは藤岡と由梨が結婚退職をするのを聞いて杉本がショックを受けるが、結果的に猛勉強して新星のパン職人が誕生する。それを見て親方も藤岡も大喜びだった。

結局修造は9日間休みを取り、ずっと一緒に過ごした。
家族の信頼、絆などはやはり一緒にいた方が得られるのではないかと思った修造だった。

リーブロに戻った修造は立花に「藤岡って知ってる?」と声をかけた事から工房がハチャメチャになってしまう。
大坂は立花を休憩室に連れて来て、汚れた服を拭いていたが、とうとう大坂は告白する。

そして立花もいつも一緒にいてくれて信頼のおける大坂に思いを寄せていたのを態度で示した。

そしてとうとうこの男もやっと次のステップへと踏み出そうとしている。

風花

俺あと2年したら

製パン技術士二級の

資格試験受けるつもり

うん

そしたら俺と

うん、受かったらね

やっぱそうなる?

うん

私待ってるね

うん


ここまで読んで頂いて誠にありがとうございました。
小説パン職人の修造はまだまだこれからも続きます。。

ここまでで50300文字ほどありました。

いや、ほんまにありがとうございます。

150話からはあのヤバい女が出てきます。

つづく

52パン職人の修造 江川と修造シリーズflowers in my heart

flowers in my heart

今日は鴨似田フーズの創立30周年のパーティーだった。

NNホテルの豪華な会場に所狭しと鴨似田フーズの商品で作られた料理の数々が並べられ、招待客達は舌鼓を打っていた。

藤岡は兼ねてからの鴨似田夫人の念願だった『立食パーティーのサンドイッチコーナーで給仕をする』為に立っていた。客の希望のサンドイッチやタルティーヌなどを皿に取り分け渡す、その時笑顔がご希望だそうなのでニコッと笑って商品の説明を加えてから渡す決まりだ。

本来なら絶対やらないが、前回鴨似田夫人に助けて貰ったので今度はお礼に笑顔を振り撒きに来たのだ。

振り返ってみれば過去には俺ももっと爽やかな笑顔を自然にしてたものだ。パンロンドに就職した頃、立花さんを探す為に探偵に頼んだら結局見つからず料金だけ取られて頭に来て自分で探す事にしてパン屋巡りを始めた。自分でもその頃から険のある表情になって来たと気がついていた。

交際中の由梨の優しさと明るさのおかげで最近は笑顔が元に戻りつつあると思う。

会場で写真を撮って回っている歩田がさっきから藤岡の写真をバンバンに撮っている。きっと鴨似田夫人の命令だろう。

同じ会場にリーベンアンドブロートの大坂がいた。修造に頼まれて、周年記念の祝いの品を持って来たのだ。

「この度はおめでとうございます」受付で祝いの品を渡して帰ろうとすると、世話係の兵山に呼び止められる。

「リーブロの大坂さん、折角来られたのですからゆっくりして行って下さい」

「え、俺を知ってるんですか?」

「はい、江川さんの助手としてテレビに出てましたよね。見てましたよ」

「ありがとうございます。じゃあ折角だから少しだけ」

さあどうぞどうぞと会場に案内される。

普段着で着ているし居心地悪かったが、美味しそうな料理を見ているうちに気が変わり、ローストビーフや伊勢海老のグラタンを食べながらまだ何か食べようかななどと会場を見回していると、凄いイケメンがサンドイッチコーナーにいて、マダムがその周りを囲んでいる。

イケメンは皿を渡す時にいちいちマダムに言葉を掛けて笑顔を向けていた。

「あっ!あいつはあの時の、、」

大坂は思い出した。

笹目駅前のカフェで立花と話していて店から出て来た奴だ。

「超絶イケメンがなんでこんな所に」

大坂はコーナーの後ろから藤岡に声をかけた。

「あの、ちょっと話があるんだけど」

藤岡はまったく知らないこの男が自分の事を知ってる風だったので驚いたが、何故か話を聞かなければならない気がして少し離れた窓際にいざなった。

「君は誰?俺の事を知ってるの」

「俺は修造さんの店で立花さんと働いてる者だ」

「え」藤岡は立花の名前を聞いて身体が硬直した様になった。そして思い出した。江川の助手として先日テレビに出ていた男だ。江川となら分かるがあえて立花と言ってきたのは何故なんだろう。

「それで?」

「あんたと笹目駅のカフェで別れた後、あの人泣いてたんだよ、あの人はあんたの事を愛してる様だった」

「なんでその事を知ってるの」

「偶然店から出て来たところを見て」

藤丸パンの事、結婚の事、新生活の事、今はやる事が沢山ありすぎて毎日が目まぐるしく過ぎていく、過去の事はドンドン後ろの方に流れて行って正直分からなくなって来ている。

「俺は今いっぱいいっぱいで」

「だからあの人の事を思い出さないってのか」

「本当に申し訳ないけど、俺はもうあの人を忘れなくちゃならない、それに」

何故この男はこんなにムキになってるんだ。

「今は君がいるだろう」

付き合ってるわけでも無いのにそう言われて大坂は憤りと恥ずかしさが混同して顔が真っ赤になった。

「俺にはわかるんだ、あの人の孤独が透けて見える」

「原因は俺なのか、だったら何故消えたんだ」

「それは」

「知ってるなら教えてくれないか、本当の事を。あの人が消えてからあちこち探した。そうこうしてるうちに俺は顔つきまで変わってしまった。今思えばあの時の俺は心がカスカスしていた」

「そうだったのか」目の前にいるイケメンが立花をなおざりにして来たとずっと思っていたので急に大坂は黙り込んだ。

それに本当の事は自分にも分からない。

その時、サンドイッチコーナーから並んでいたマダム達が呼ぶ声がした。

「ごめん、もう戻らなくちゃ。教えてくれと言ったのは忘れてくれ。あの人を頼んだよ」

大坂は帰る為にエレベーターに乗り下に降りた。

「なんだ頼んだよって、お前に言われなくても俺に任せろってんだ、俺がいるってんだ」自分でそう思いながら虚しい。

大坂の足取りは重かった。

気温が上がり、リーベンアンドブロートのテラス席の横の花々は色採りどりに咲き乱れている。

リーベンアンドブロートに2度目の夏が来ようとしていた。

江川は2階に上がって経理でパン職人の塚田と一緒に1周年記念の計画を練っていた。

「特別メニューをカフェで食べられるとか記念品を作るとかどうかな?」

「良いですね、江川さん」

「特別メニューは世界大会のパンの中から選んだら?」

「どんなのが良いでしょう、みんな食べてみたいと思います。それとカフェでなくても買って帰られるものもあったら嬉しいな」

2人で候補を紙に書き出してあれが良いとかこれが良いとか話してると修造が入って来た。

「修造さんこれ」と言ってパンのメニューを書き出したものを見せようとしたが修造はコックコートと靴を脱ぎ、ソファの真ん中にドスっと座って頭を端に反対側に足を乗せて「うぅ」と呻いて横になった。

その様子を慣れた感じで2人は見ていた。限界まで工房にいて疲れて耐えられなくなったらここで横になって休むのだ。

「お腹が冷えちゃいますよ」もういびきを書いている修造に毛布をかけてやり、ポンポンと軽くお腹を叩いた。

その様子を見ながら

「もうそろそろ年中無休はやめて週一回でも休んだらどうでしょう」と塚田が言った。

「そうだね、でもいつお客様が来ても良い様にしたいんだって」

「長い事家に帰ってないみたいだし、大丈夫なんですかね?独身じゃないんだし、そのう、奥さんが怒ってないのかな」

「どうなんだろう?怖くて家に帰れないのかしら」

「まさか」

2人は顔を見合わせてフフフと笑った。

修造が目が覚めた後、江川は岡田に頼んでアボカドとエビのタルティーヌとコーヒーを持って来て貰い修造に渡した。

食事中の修造に向かって「明日から少し休んで下さい」と言った。

「え?なんで?」

「たまには帰らないと」

「今忙しいからなあ」

「いつも忙しいじゃないですか。それに1周年記念の頃にはもっと忙しくなるかもしれないんだし、今しかないですよ」

「そうかなあ」

「それと、1周年記念のパンですが、Chrysanthemen-Campagne(菊のカンパーニュ)とdreifach geflochtenes Brot(三連編み込みパン)にしようと思っています」

「わかった、じゃあ俺の休暇が終わる頃だからみんなで頑張ろう。俺の居ない間に菊のステンシルを頼んだよ」
「はい」

ーーーー

そんなこんなで心配しながらも修造は1週間休む事にした。

帰りの車の中で色々考えた。

それはこんな風だった。

今出来るだけ頑張って貯えておかないと俺が抜けた後困るだろう。最近は江川がパン職人決定戦の番組で2位になってから江川に会いに来るお客さんも珍しくない。いつも店の中はパンでいっぱいにしておきたいけどあんな風に休んで良いって言われるなんて江川もしっかりして来たな。

店の近くの高速入り口から本線に合流して車を走らせる。

家では律子孝行に勤しんで、土日は久しぶりにみんなで長野にある律子の実家に帰るかな。お義父さんやお義母さんにも長い事会ってないし。そして途中遊園地に行くのはどうだろう。よし!俺はこの期間は家族に張り付いて離れないぞ!

高速を降りて最寄りのスーパーに立ち寄った。律子の好物を色々作る予定だ。おやきにあんかけ焼きそばにソースカツ丼に山賊焼、信州そばに牛乳パン。

「待てよ、これ全部作ったら多分叱られるな。とりあえずあんかけ焼きそばは決定だ!カツ丼の豚肉は冷凍にできるしキャベツは他にも使えるしまあ買っとくか!」結局あれもこれもと買いすぎたが、料理していくうちに減るだろうと思い車のバッグドアを開け荷物を詰め込んだ。

しかし帰る途中で、よく考えてみると「そうだ、男の料理に対して妻がよく後片付けがなってないとか、作りすぎとか高額過ぎるとか苦情が出るのは耳にするな。俺も気をつけよう。そもそも片付けながら調理するとか基本だもんな。帰ったらまず冷蔵庫を掃除するか、いや待てよ、場所が変わったとかそれもまた叱られるから注意しよう。兎に角細心の注意を払って行動しないとな。家に入る瞬間から気をつけよう」江川に知られると「やっぱり怖いんですね」と揶揄われそうだがこっちは真剣なんだ!

と言うわけで車を駐車場に停めて荷物を持って口の端を上げる。

「ただいまーっ」

パンロンドに就職した時から住んでいるアパートは玄関を入ってすぐ右が風呂などの水場、その向かいのドアが台所、その奥がグリーンのソファとテーブルが置いてあるリビング、その右の部屋が寝室だ。家族が4人になって狭くなりすぎたがどうせ引っ越すんだからまあいいかと言うわけでそのまま暮らしている。

「あれ」

みんないないんだな。

律子に連絡してみる『帰ったよ。みんなどこ?』

返信を待ってる間に冷蔵庫の奥に新しいものをしまう。

次に台所のあちこちを気づかれないぐらいに退けて拭く「どけふき」をしておく。

「色々大変だろうなあ」

しかしこう言うと人ごと感があるのでこれはNGワードだ。

そう思いながら床を拭く。大地の食べこぼしもこまめに拭いてくれてるんだろうなぁ。

洗濯も大変だよ。

取り込んで机の上に置き畳んでみるが詳しい場所は分からない。

子供タンスの引き出しを開けては閉めて場所を探す。

続いて寝室兼勉強部屋の拭き掃除。

勉強机の教科書を閉じて隅に置く。

もう緑も4年か、早いなあ。

背も高くなって。

ちょっと感動していると『ピンコン』と音がした。

律子から返信が来た。

「おかえり修造。今日はみんなで緑のお友達の家族とバーベキューしたあとお泊まりさせて貰うの。帰りは明日になります」

「了解」と返信を送った後、気が抜けてソファにゴロリと横になる。

「そう言えば今日は土曜日か」学校も休みだし、明日は遊園地に行けそうもないか」学校があるから次の土日まで長野には帰れないんだな。

そんな事を考えているうちに寝てしまう。

夕方目が覚めた修造はふと親方に会いたくなってパンロンドに行く。

「あら、修ちゃんいらっしゃい」「奥さん無沙汰してます」と言いながら中に入り、他の職人一人一人にペコッペコっと頭を下ると「修造さーん」と杉本が手を振ってきたり他の職人たちも「修造さん」「元気か修造」などと声をかけられる。

親方の横に立つ。

「今日あれ行かないですか?」

「おっ!良いねぇ」

あれとは駅前の居酒屋で2人どちらかが飲み潰れるまで呑んで、残った方が勝ちという勝負なのだが、修造は全然酔わないのでいつも親方が酔い潰れるという会の事だ。

「修造さん、俺も行って良いですか?話したい事があります」

「おっ!藤岡も参加するか!行こう行こう」

というわけで満員で騒がしい居酒屋のテーブルを3人で囲む。

藤岡は修造に藤丸パン食品テロ未遂事件の話をした。

修造は出来事の全てに驚いて口を開けたまま聞いていた。

「杉本が協力してくれて助かりました、風花や由梨も無事連れて帰ってくれたし」

「それと、鴨似田夫人はメイクのせいなのか全然顔が違って見えた。それに若返ってたし」

「美魔女ってやつだな」

「そうなんです親方」

そこに入り口から入って来た男に藤岡が手招きした。

「初めまして、藤丸パン横浜工場長大和田です」大和田は二人に挨拶した。

「どうもね、俺はパンロンドの柚木阿具利」

「リーベンアンドブロートの田所修造です」

「今藤岡に話は聞いたよ」

「そうなんですね、私も全然気が付かずお恥ずかしいです。いつの間にか木田や足打(あしうち)が裏切っていたとは恐ろしいです。そもそも木田がメールのやり取りをしていて先に全員の取り分の20%を振り込まれたそうなんです。みんな借金があって金に困っていた連中ばかりで残りの金欲しさに実行犯になってあの様な事に」

「皆事情は違うけど金に困ってたんだなあ」親方が腕組みをしながらうなづいた。

「どこででも起こりうる話なのかなあ。知らない間に何かが蔓延してたり」

「中々分かんないもんですよね」修造と親方が目を合わせて頷いた。

「それで仲介の犯人が捕まったそうなんです」

「捕まったんですか?それもまだ仲介?その更に奥に企業とかいるのかな?」

「どうなんでしょう?実はそれも鴨似田夫人の部下が炙り出したそうですよ」

「歩田と兵山が?そんなできるタイプだったっけ?」修造はあの『ややお間抜けな2人』を思い出した。

大和田が説明した「鴨似田夫人は資産家の娘さんで、他にも有能な部下が何人かいる様です。投資専門、調査専門、不動産も実は手広くやってる様ですよ」

「へぇ、俺の調査なんて訳ないんだな、日光にも付いて来てたし」藤岡は納得して言った。

「それに」大和田が続けた。

「もしどの企業か知りたいなら本当に引っ掛かってみたら分かると言ってましたよ!冗談じゃない」

それを聞いて皆空虚な笑いを浮かべた。

「まだまだ調査は続きますね」

藤岡は気を取り直して正面に座っている2人に改めて向き合った。

「親方、修造さん、今まで藤丸パンの事を黙っててすみませんでした。俺、今回の事で反省しました。今度由梨を連れて親父に会って来ます」

「ん?由梨?」

「はい、俺達結婚する事になりました。先日プロポーズして」

「それはおめでとう」

「おめでとう藤岡」

「ありがとうございます。それで言いにくいんですが俺と由梨は同時に退職しないといけなくなって」

「由梨は家庭に入るって事?」

「いえ、横浜工場で一緒に働こうかなと思って。そうなると2人共色々と覚えなくちゃいけない事が多くて」

「ゆくゆくは藤丸パン全体を見なくちゃならん訳だな」

「はい、すみませんご迷惑をお掛けします」

「良いって事よ!楽な道のりじゃないかも知れないが大和田さんに教えて貰いながら仕事を自分の物にしていくんだな」

「これで社長も安堵なさるでしょう」

「大和田さん、よろしくお願いします」藤岡は頭を下げた。

「そう!由梨と藤岡を頼んます」

「お役に立てる様に頑張ります」

その後藤岡は言おうか言うまいか迷った挙句切り出した「修造さん、リーブロのガタイのいい、江川さんの助手をしてた奴がいるでしょう?」

「あぁ、大坂?」

「そいつと立花さんはどういう関係なんですか?」

「え」そんな立ち入った事は聞いた事ないし「知らないな、なんで?」

「いえ、なんでもありません」

「2人が何?」

「忘れて下さい」藤岡は立ち上がった。

「お、帰るのか?明日また話そうな」

「はい、修造さんもまた」

そう言って頭を下げた。

藤岡と大和田が帰った後2人は飲み比べをしてやはり親方が酔い潰れる。

「親方、帰りますよ」と言って水を飲ませた。

「うーん修造まだ飲めるぞ」

「もう無理ですって」

親方は机に顔を伏せ、唸るような小声を絞り出した。

「修造の次は藤岡がいなくなるのか、俺はあと何回こんな感じの気持ちを味わうんだ」

いつもはこんな事を絶対言わない親方が酔った勢いで本音を吐露した。

「今は親方の気持ちが分かります」

同じ空間で自分が育てたものが無くなってしまう。

それは人でもあり、形作って来た技術とか人情でもある。

「寂しいですね」

「うん」

「またやり直しましょう。何度でもですよ。また煌めく星を見る瞬間がありますよ」

「なんだ煌めく星って」

修造に抱えられて親方は家路に就いた。

帰り道

夜風が気持ちいい。

今自分の所で働いている者達もいずれ何らかの理由で出ていく事もあるだろう。

「そう思うと寂しいな」

しかしこれは仕方ない事なんだ、それでも自分はパン職人を続けていく。

親方の様に「よし!分かった!これからも頑張れよ」って言わなくちゃ。

修造の目から何故か涙が流れた。

次の朝

泥の様に眠っている修造の腹の上に急にドスン!と衝撃が起こり、顔面に釣るような痛みが起こった。

「うわ」っと目を覚ますと大地がけらけらと笑って腹の上にまたがっていた。

「大地」

大地の脇を抱えて顔を近づけたら今度は「くしゃい」と言って小さな手のひらで酒臭い修造の顔をペチペチ叩いて来た。

「痛い痛い」うつ伏せになって攻撃を避けていると今度は背中の上で立ち上がってグラグラしている。

「すごく可愛くてすごくやんちゃだ」

「修造ただいま、昨日はごめんね」と隣の部屋から声を掛けながら律子はなんとなく小綺麗になってる部屋や冷蔵庫の中を見まわした。

「助かるわあ」洗濯機を回しながら綺麗になって片付けられているベランダを見ながら言った。

拭き掃除をするものの汚れが角に残っていく、それを分かっちゃいるが見て見ぬ振りをする「また年末にでも」なんて具合に。

日常の汚れは徐々に溜まっていくが中々綺麗にするのが億劫な時もある、それがスッキリ片付いていると気持ちいい。

修造の背中に乗り今度は「お馬さん」をしている大地は時々足で修造の両脇をポンポン蹴った「いてて」そう言いながらも息子の成長を背中で感じて嬉しい。

長女の緑は早速テレビの美少女戦隊シリーズを見ている「お父さんただいま」ちょっとだけこっちを見てまた画面の方を向いた「おかえり緑」

「律子、俺しばらく休みなんだよ、来週長野に帰らない?」

「長い休みなのね、じゃあお母さんに連絡しておくわ」

「うん」

大地を膝に乗せながらコーヒーを飲んでいると「お父さん、私お父さんのお城に行きたい、ねえお母さんいいでしょう?」と緑が言った「いいわよ」

緑はリーブロに来た時は必ずお城の様だと言っている。

「気に入ってくれて嬉しいよ。じゃあ後で出かけよう」

リーベンアンドブロートのテラスの花々は風に揺れて見ているだけで癒される。

修造は用事を済ませる為に工房に行ってる間に3人は選んだパンを食べていた。

「美味しいねお父さんのお店のパン」

「本当にいい店ね、お客様もいい表情だわ」

確かに、テラスのテーブルに座っている人々は癒しの空間で寛いでいる様に見える.

「あ、大地」

大地はぴょんと席から飛び降りて他のテーブルに1人で座っている高級そうなワンピースを着たお客の所に行って抱きついた。

ツバの大きい帽子を深々と被った女性客は「可愛いわ」と言って大地を抱き上げ顔を見つめてから抱きしめたが、それがとても長い様に思えて律子は「すみませんうちの子が」と言って大地を自分の所に引き寄せて席に連れ戻した。

「何かしらあの人、1人で店の方を向いて中を覗いてる様だった。ひょっとして他の店の偵察かしら、それに泣いてる様にも見えた」と思ったが、大地が他の席に走って行ったのでもうその事はすぐに忘れてしまった。

修造がテラスに戻って来た時はもう帽子の女性客は消えていた。修造はマーガレットを持って来て律子に渡した。

白い花びらに黄色い筒状花が可愛らしい「ありがとう」

緑と大地がてんとう虫を見つけて他にもいるか探している「癒されるわね」それは修造の目指しているものだった、それを同じ空間で分かってくれる律子がとても愛おしい。

2人はテラスの椅子に座って机の下で手を繋いだ。

「ああやって自分の理想に自分を近づける人間は耐えず努力している」店内から2人の様子を見ていた岡田克美は凄く冷静な目で横にいる中谷麻友に言った。

「その時は努力とは思ってない、もがいてる最中だから」

「修造さんってもがいてるんですか?」

「それは後で分かることであって、動いているうちは努力してるとは思っていない訳だし」

「きっと家庭の事も一生懸命なんでしょうね」

「それが当たり前になってるものだけが成功するのかも知れない。仕事にせよ家庭にせよ趣味にせよ」

「周りもそれに引っ張られて動き出してますよね。私達回転率良いですもの」

「回転率?」

「はい、ここに来てから修造さんや江川さんを見て効率よく仕事したりするクセがついたと言うか。勿論岡田さんもですよ」

「私も?」

「そうです、仕事のできる人なので」

「回転率ではなくて起動力ですよね」

そう言って岡田はその場から離れ布巾を持ってきた。

側から見たら全く分からないが岡田は照れながらテーブルを拭いた。

ーーーー

一方その頃パンロンドでは

親方がみんなを集めて由梨と藤岡を真ん中に立たせた。

「2人は結婚して藤岡の実家の家業を継ぐ事になった」

「えーっつ」皆驚いたが丸子と風花は由梨から聞いて知ってる風だった。

「おめでとう」

「よかったね由梨ちゃん」

「皆さん勝手してすみません」

「2人とも新たな生活を送るんだな」

「頑張ってね」

などと皆言っている中心底驚いている奴がいた。

杉本は目を見開いて「藤岡さんが居なくなるの」と言う言葉が頭の中でグルグル回っていた。

杉本の表情を見て藤岡は「ごめんな、お前のお陰で色々助かったし、これでもう前に進むしかなくなった。親方が求人を出すって言ってるから人員補充できたら俺が教えてから行くから」

なんだか自分のせいで藤岡が居なくなる様な気持ちになる。

夕方

杉本は風花を送って行く途中で慰められていた。

「藤岡さんが辞めるの言わなくて悪かったわよ。私は由梨ちゃんに聞いてたしぃ、龍樹は藤岡さんに聞いてると思ってたのよぅ」

杉本は半泣きで「びっくりした」とまだショックを受けている。

「求人も出してるんだし、まだ期間もあるんだし、ね」

「うぅ、修造さんが居なくなったのに藤岡さんまで」

「まあまあ、すぐ慣れるって」

帰ってから杉本はベッドに横になって考えた。

俺はどうしたらいいんだ。

修造の舎弟で藤岡の付属品

皆にそう思わせる程依頼心が強い

自分でも分かってる

後輩が入って来て「先輩これどうやったらいいんですかぁ」

そう言われてどうやって逃げたらいいんだ。

杉本は天井を見つめていた。

「とりあえず親方に聞けよって言うか」

ーーーー

杉本龍樹はそれ以降明らかに何か思い詰めた様に見えるので母親の恵美子は父親の茂に相談した。

「お父さん、ちょっと見て」と言って2人でそっと部屋を覗くと、電気の消えた部屋でスマホの画面をずっと見ている。

その後2人はこっそり1階に降りて相談した。

「ね、最近ずっとああなのよ」

「なんだろうな、風花ちゃんに振られたとか?」

「えぇ?とうとう見捨てられたのかしら」恵美子はオロオロした。

「よし俺が聞いてみるぞ」

茂は部屋に入ってスイッチを探して電気を点ける。

「なんだよ急に、眩しいな」ベッドで横になってスマホを見ていた杉本は横を向いて目をしばしばさせた。

「おい、何をそんなに真剣に見てるんだ。どうかしたのか」

「別にどうもしねよ」

「なあ」

「は?」

「最近風花ちゃんはどうした?会ってないのか?」

「俺仕事終わったらすぐ帰ってるから、でもパンロンドで毎日会ってるし」

「そうか、2人の恋は順調なのか?」

「なんだよ恋って気持ち悪いな」茂から恋とか言う言葉が出たのでちょっと引く。

「俺用があるから出てってくれよ」

用ってスマホ見てるだけのクセに、そう思いながら茂は部屋から出た。

両親の心配を他所にその後も杉本はずっと画面を見ていた。

作業中

杉本は350gに生地を分割をしていた。
側から見てもモヤモヤと物思いに耽ってるように見える。分割だけを続けていたので台の上にいっぱいになってきた。

見かねた由梨が生地を丸めて箱に入れるのを手伝いながら杉本に話かけて来た。

「あの、忙しいのに2人で抜ける事になってすみません」

「俺どうしたらいいか分かんなくなって、でも藤岡さんには世話になったし幸せになって欲しいと思ってる」

「はい、私も幸せになって欲しいです。だから精一杯手伝おうと思って。凄く大変そうな所も見てしまったし」

「ああ、あれ」2人とも捕まったり走ったり投げ飛ばしたりしている藤岡を思い出した。

「はい、なので絶対にこれからもそばに居ようと思っています」

由梨の瞳からは決心の様なものが漲っていた。

「強いんだなあ」由梨の事を藤岡のひっつき虫と思っていた杉本は感想を洩らした。

「それに引き換え俺は急に足元がぐらぐらしてる気分」

なんだかいつもと違う杉本を見て風花は心配になってきた。

最近は一緒に帰らずに先に帰ってしまう。

「いつもなら待っててくれるのに」

仕事帰り

風花は杉本の家を訪ねた。

「あら、風花ちゃん!いらっしゃい」風花が来たので恵美子は大喜びで迎え入れた。

「龍樹いますか」

「ええ、2階にいてるわよ。ねえ、最近あの子様子がおかしいけど職場ではどうなの」

「はい、元気ないです。だから様子を見に来たんです。家ではどうしてるんですか」

「帰ったらずっと部屋に篭ってスマホ見てるのよ、様子見てくれる?」

「わかりました、お邪魔します」

風花は2階に上がり暗い部屋で何を観てるのかスマホを取り上げて見た。

「パンの動画見てたの」風花も知ってるような有名シェフが懇切丁寧にパン作りの手順を解説している。

「そう、返して」

「ごめん」

「俺1人じゃ結局なんも分かんないから」

「そんなことないよ。試験だって受かったじゃない。どうしたの急に。藤岡さんが辞めちゃうのがそんなに負担なの?」

「俺は俺の馬鹿さ加減に気が付いたんだ。今までのいい加減な俺を思い出すと腹が立つようになったんだ。それだけだよ」

だから毎日先輩の動きを脳内で蘇らせたり、パンの動画を観たりして自分の中に蓄えを作ってたんだ。

ある時 それは脳内で完成した。

「おっ」

親方は杉本の動きが今までとまるで違う事に気がついた。

今までは藤岡の指示通りにしてて1人でやらせると急に失速したりしてたのに「生まれ変わった?」と思わせる程何かが違う。

こいつとうとう自分で考えて出来る様になってきたんだな。今まで人任せでいい加減だったのに。

そして向こうから杉本を見ている藤岡と目があって

2人してニヤリと笑った。

親方と藤岡が見ていたもの。

それは開眼した者だけが掴む『星の輝き』と修造が呼んでいた事象の事だ。

ある日突然悟ったことがあってメキメキと上達したりする。

本人も気が付かないうちに今までの事が全て自分の物になり、技術と実力となって現れる。

親方はあの時酔っ払っていたので修造の言った事は覚えていないし、修造はこの事を知らないし、勿論杉本も知る由も無い。

が、ここに1人のパン職人が誕生した。

土曜日

修造一家は早朝の新幹線はくたかに乗った。

長野駅からレンタカーを借りて計画通りファミリーランドに家族で行く。

乗り物に乗った後、ウサギのふれあいコーナーに行くと大地がウサギを珍しがって追いかけ回した。大地を捕まえて「優しく撫でて」と説得して2人でなでなでしたり、アスレチックを楽しんだりと子供達の楽しそうな顔を見て自分も満足していた。

そうしながらもリーブロでの忙しい最中にいた自分と、このレジャーランドでの自分の違いに戸惑う。パン作りには計画を立て様々な生地の発酵と焼成を組み立てて進めていかなければならない。いつも自分はその事に夢中になって他の事が目に入らなくなる。

だが家族と楽しんでいる自分もまた本物の自分だ。

時々その考えが頭に浮かぶ。

こんな時自分の中にある『違和感』と言う感覚がしっくりくる。

スワンボートに乗って緑と2人でペダルを踏んでいると水のバシャバシャいう音がボートの中に響く。

キラキラした水辺とその周りの木々が煌めいて見える。風に乗って木々の香りがスワンボートに届くと故郷の山の事を思い出す。

そう、自分はもうすぐこの様な山の自然の中で、自分のパン作りに集中すると決めている。

家族と共に自分だけの絶対的なパン作りを追求するのだ。

そんな事を考えながら修造は律子を見つめた。

律子も修造の視線に気付き微笑み返した。

健康な修造の白目はいつも青く光り、輝いている。知り合った頃からよく修造の眼を覗き込んだものだ。

律子もまた、同じ所で修造が長い時間一緒に過ごす毎日が訪れるのを楽しみにしていた。

夕方

律子の父親の巌(いわお)と容子、妹のその子が待ち構えていた。

巌は厳しい表情で修造一家が来るのを待っていたが、孫達の顔を見た途端デレデレと目尻を下げた「みっちゃん、だいちゃーん、いらっしゃい」

「おじいちゃんおばあちゃん、その子ちゃんこんばんは」

「疲れたろう、さあお入り。みっちゃんの好きな御馳走も用意したよ」

孫に取り入る事に全力を注ぎ過ぎて修造は目に入らない。

いつもの事なのでその子に挨拶して中に入る。

大地はドタドタと長い廊下を走って突き当たりの壁にドン!と飛び蹴りを喰らわせた。

「こら、大地」

律子の実家が来られたら一大事だ。

流石に大地を抱き上げて「やっちゃダメ」と叱ると足をジタバタさせて飛び降り、巌の所に走って行ったので「大地!」と律子が叱りつけた。。

「元気でいいじゃないか、だいちゃんはエネルギーが有り余る程あるんだよ。まだ2歳なのにいい蹴りだったな!将来は格闘家になるかい?」巌は膝から背中によじ登る大地を見ながら言った。

修造は壁を調べてどうもないのでホッとした「もうすぐ空手道場に連れて行こうと思っています。緑も通っていますし」

「そうかそうか、空手を習うのかい?だいちゃんなら壁を突き破れるかも知れないよ」

「まただわ、お父さんはいつも子供達に甘すぎるわよ。大地の為にならないわ」と律子に叱られる。

「躾はお前達の仕事だろ、おじいちゃんはたまに会うんだからだいちゃんに嫌われたくないもんねぇ」と巌は膝に座って「うん」と頷く大地に笑顔を向けた。

修造は律子に叱られるから言わなかったが、ジャンプからインパクトまでの的確な蹴りの姿勢が確かに2歳児とは思えない『絶対才能あるな、早く道場に連れて行こう』

食事の後

庭で巌と容子が孫と花火を楽しむ姿を見ながら縁側に座って道の駅で買った北アルプスブルワリーのクラフトビールを飲んでいた。

律子が台所の片付けを終えて花火に参加したので、巌は修造の横に座った。

修造は黙ってビールをグラスに注いで渡した。

「空手はお前の実家の近くにある道場に通わせるつもりなのか」

「はい、そうするつもりです」

「そうか」

そのまま2人は何も話さずに終盤の線香花火が小さく弾けるのを見ていた。

「律子を頼むぞ」

「はい」

茂の方を向くと、暗い中に花火の赤い色がうっすら当たり、以前よりも歳をとり小さく見える巌の横顔があった。

ーーーー

9日間の休暇が終わり

修造が家族と過ごしてリフレッシュして帰って来た。

正直、皆修造が休んで忙しさに拍車が掛かっていたのでホッとした。

「みんな急に抜けてごめん」

明日から1周年記念イベントが始まる、皆準備をしている最中だった。

「大丈夫ですよ」と言いながら重戦車の様な修造の仕事ぶりに皆内心『ポイントの高すぎるシェフ』と思っていた。

しかしそこで修造は言わなくてもいい事を言ってしまう。

発酵カゴを沢山乗せた板を持って立花の横を通り過ぎた後で振り向き「立花さん、藤岡って知ってる?」と聞いた。

丁度ボールを抱えてホイッパーで生クリームを立てていた立花が振り向いた途端にボールを滑らせて下に落とした。ガシャーンと音がして、横にいた江川の顔にクリームがビチャっと飛んだ「きゃっ」慌てた江川は後ろにいた登野の足を踏んだ「痛い」手に持っていた天板が2枚ともバーンと下に落ちてラスクが散乱した。

ボールはクリームを撒き散らした後、グワングワンと音を立ててその場でグルグル回っていた。

大坂はボールをシンクに入れて、立花がホイッパーを手に持って立っているので脇に避けてタオルであちこち拭きながら修造に何か文句めいた事を口パクで伝えている。

惨状を見ながら修造は「ごめんみんな」と言った。

大坂は下を拭いた後ホイッパーを手から離して「休憩行きましょう」と言って2階に連れて行った。

江川が「僕も行くよう」と着替えに行こうとしたので「まあまあ、ほらこれで拭いたらいいでしょう」と皆に引き止められる。

2階の休憩室では

大坂はタオルを洗って立花の手や靴のクリームを拭いてやっていた。

「ごめんなさい、拭き掃除ありがとう。修造さんの口から意外な人の名前が出たから驚いて」

「藤岡って言うんですね」

「そう、もうあまり思い出さない。もう何年も経ってるの」

何からなのか聞かなくても分かってる。

「あの、さっきの事を見ていてこのままだといけない。俺はそう思いました。仕事と好きな人どちらを取るのかと言うとですが、もし振られたら仕事し辛くなると思います。でももっと大事な事なんです。この先の事なんです」

「ありがとう大坂君。この先、私将来は自分のお店を開きたいの。だからそれまでに沢山のことを勉強しなきゃ」立花は話の焦点をぼやかせた。

「俺も一緒に

その

働いても良いですか」

「今の仕事はどうするの」

「修造さんはわかってくれると思います。俺の立花さんに対する気持ち。俺は立花さんを何よりも大切で愛しています」

「私は大坂君にそんな風に言ってもらえる様な人間じゃ無いの」

「どういう意味ですか」

「私は嘘つきだから近寄っちゃダメ」

「確か前にも同じことを言ってましたね」

大坂は立花が藤岡と駅前の喫茶店でお別れした時に泣きながら「私は嘘つきだからこうして1人で歩いてるの」と言っていたのを思い出した。

「嘘つきなんじゃ無くて本当の事を言ってなかっただけでしょう。あの超絶イケメンを愛してるから本当の事がいえないのなら、俺みたいになんとも思ってない奴には言えるでしょう」

その言葉を聞いて立花は堰を切ったように涙が止まらなくなり大坂の胸に縋り付くのと大坂が抱き止めるのが同時になった。

「私胸に傷があるの、でも藤岡君にはどうしても言えなかった」

「もう昔の事ですよ。俺に言ってくれてありがとう。もう大丈夫、自分を苦しめるのとさよならしよう。俺と一緒にもっと自分に優しくしよう。時間が色んな傷を消してくれる」

立花は大坂の胸の中で小さく「うん」と頷いた。

おわり

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

おまけ

風花

俺あと2年したら

製パン技術士二級の

資格試験受けるつもり

うん

そしたら俺と

うん、受かったらね

やっぱそうなる?

うん

私待ってるね

うん

51パン職人の修造 江川と修造シリーズ prevent a crisis 杉本

パン職人の修造 江川と修造シリーズ prevent a crisis 杉本

東南駅から西に続く東南商店街

その真ん中にある人気パン店パンロンドでは今日もオーナー(通称親方)がパン工場の真ん中に立ってパンを成形していた。その周りには元ギャンブラーの佐久山浩太、のんべえの広巻悠二という古株の職人が2人と、イケメンで仕事のできるタイプで実はYouTuberの藤岡恭介、最近また髪の色が『肌の色に合うから』と明るめになってきた元ヤンキーの杉本龍樹、実家が呉服屋の花嶋由梨が忙しそうに働いていた。

由梨は綺麗な湖のほとりで藤岡に告白されて以降、夢の様なふわふわした毎日を送っていた。誰かから大切にされるってこういう事なんだわなんて実感している所だ。

先日も2人で動画を撮りに行って楽しく過ごした。

ーーーー

さて

今日はその由梨と藤岡、そしてパンロンドの店員で杉本の彼女の森谷風花が杉本の家にお呼ばれで来ていた。

3人を呼んだのは杉本の両親茂と恵美子だった。

恵美子は一際明るい声で「まぁーみなさん今日はよくお越し下さいました。ゆっくりしてって頂戴ね」と言ってテーブルに頑張って作った料理の数々を並べた。

この場合1番気を使うのは杉本と付き合っている風花だ。

「私も手伝います」と、一緒に小皿や箸を並べた。

「あら、風花ちゃん助かるわあ。龍樹なんて帰ってきたらなーんにもしないのよ」そう言って渾身の笑顔を風花に向けた。

それを見ていた藤岡は「こりゃ取り込もうとしてるよね」と言葉に出したが

「取り込むって何をですかぁ藤岡さーん」自分の前にいっぱい皿を置いて鶏の照り焼きを頬張っている杉本に言われる。

「聞こえてたんなら言わせて貰うけど、お前がだらし無いから風花ちゃんを自分達の力でお前と結婚させようとしてるって事」

「えー、俺が結婚する日が来るとは思えないなあ」

「確かにな、ほんとに何も考えてないもんね」

「そんな事ないですよぉ」

「何がそんな事ないんだ龍樹、みんなで食べよう!風花ちゃん龍樹の横に座って!さあどうぞどうぞ。ローストポークもあるよ」父親の茂も笑顔を振りまいた。

茂が皿を差し出すと「風花ちゃん、私が取り分けるわね」と恵美子も連携プレーを取った。

みんなが談笑しつつ、と言うかさながら司会のように恵美子と茂が代るがわる話を振ってくる。

「由梨ちゃんは藤岡さんとお付き合いしてどのぐらいなの?まあ、フレッシュで良いわねぇ」

「藤岡君タワマンに住んでるんだって?眺め良いだろうなあ」

などと会話を広げた後、茂が最大限さりげなく「ところで風花ちゃんは結婚とかいつ頃したいとかあるのかなあ」と切り出した。

「えっ結婚ですか?」風花は疑問いっぱいの顔で隣に座って今度はピザをモグモグ食べている杉本を見た。

「まだまだと思います」杉本が結婚について考えてるとは到底思えないし、大事にはして貰ってるものの、真に信頼に値するかどうかはわからない。

まだまだと聞いて茂と恵美子は小皿か何かを取りに行くふりをして台所に集合した「お父さん、風花ちゃんの気持ちも分かるわね」「もし風花ちゃんに逃げられたらあいつに風花ちゃん以上の彼女が見つかるとは到底思えない!ラストチャンスかもしれないぞ母さん」

こそこそ話す2人を見て藤岡は笑いそうになった「大変だな」

食事会も終盤、藤岡は気の毒な2人の為に話を振ってやった「若くして結婚するカップルも珍しくはない。みんなでいい旦那さんを育てるという方法もあるよ」と、風花の方を見て言った。

それを聞いた茂と恵美子もウンウンと目を輝かせて頷いた。

それを聞いた由梨は「結婚」と呟いた。今のは杉本と風花の事と分かってるが、藤岡は自分の事をどう思ってるんだろう。いつか結婚とかする時が来るのかしら。

ーーーー

次の日

昨日は特に茂達に何か答えを出した訳でもなく杉本に対して期待もしていないまま風花はいつもの様に仕事をしていた。

「風花、仕事終わったらもんじゃ焼き食べ行こう」

「良いけど」

「じゃあ後でな」

そう言ってパンを焼きに戻った杉本を見て風花は「本当に何も考えてないよね」と呟いた。そして横にいる柚木の奥さん丸子(まるこ)に昨日の事を話した。

「私は杉本君良いと思うけどなあ、ほら、以前も風花ちゃんの為に犯人を突き止めて捕まえてくれたじゃない?一緒に暮らして気楽な事と、何かあったら相談できる人、自分を裏切らない人。その3つがあればオッケーよ」

丸子はなんだか結婚式の挨拶の3つの袋みたいな話をした。

大金持ちでも居心地悪くては長く一緒にはいられない。

夕方

東南駅の裏側の通りにある行きつけのもんじゃ焼き屋で向かい合って座る。

風花はもんじゃ焼きをコテで掬ってフーフーしながら食べている杉本に「私達ずっと同じ空間に何年も一緒にいられるかな」と聞いてみた。

「俺は風花とならいられるな」

「そうかな」実際にやってみないとわからない。

「そういえば修造さんも結婚前に律子さんと同棲してたって言ってたな」

「知ってる、律子さんが修造さんのアパートに移り住んで来たのよね」

「2人とも1人暮らしだったから」

「それは素敵だと思うけどお、自分達の事になると話は別よね」

「なんでぇ」

「だって、ずっと自分の旦那さんを叱ったり注意したりするのって大変そうだわ、生活とか子育てとかあるのよ?」

「叱られるの前提かあ確かに大変そうだなあ」

「他人事じゃない」

明太餅もんじゃをふーふーしながら杉本はちょっと考えてみた。『結婚を申し込んだら絶対風花は俺に「〇〇したら結婚してあげる」とか言うんだろな』

「今度は何だろな」

「何だろなって何の事よ」

「えっ何でもないない、すみませーん!おばちゃーんチーズ追加」

話を誤魔化す為に杉本は店の女将に大声で追加注文した。

ーーーー

休みの日、由梨と藤岡はYouTube用の動画「各駅停車パン屋巡り」を撮る為に日光に来ていた。

電車を降りる前から動画を撮り始める。

電車が去って行くのを撮った後、観光客の流れに乗って一緒に日光街道を動画を撮りながら歩き始めると、すぐに目的のパン屋さんにやって来た。

1階はベーカリー、2階はカフェで2人は可愛らしい小花柄の皿に乗って運ばれてきた厚切りのパンを3切れに切ったシナモントーストを分け合って食べた。

コーヒーを飲みながら2人はこれからの行き道について話したり、さっき撮った動画をチェックしたりしていた。

「この先の神橋の手前にも同じベーカリーがあるんだ、その横の坂を登った所にあるホテルにもパンが置いてるよ」

「はい、そのホテルって150年も前にできたんですか?」

「そうらしいよ、そのホテルでのパンの外販が始まったのが1968年だから55年以上になるよね」

「すごい歴史がある所なんですね」

「そこも後で覗いてみようか」

2人は店を出て、また歩いて赤い屋根で2階建ての建物の角にあるパン店に入った。

確かに歴史を感じる佇まいで陳列も上品だ。

「横浜の歴史のあるパン屋さんを思い出すな。雰囲気が似てる」

「そのお店も随分前に出来たんですか」

「確か明治半ばにできたんだよ、130年以上経つよね。そうだ、今度行ってみよう、言いたい事が伝わるかも」

「はい」

「そこ俺の実家の近くなんだ、ほら、こないだ言ってた満天星躑躅(どうだんつつじ)がある所」

「行ってみたいです」と言ってから藤岡の実家に行ってみたいと言っている事に気がつく「あの」ちょっと赤くなった由梨を見て、藤岡は微笑みながらねじりパンの『フレンチコッペ』をトレーに乗せた。

由梨は同じトレーにフルーツケーキ風の中味が入っている『ブランデー』という甘いパンをを照れながら乗せた。

「そこにも今度行ってみよう」

その後2人は神橋から川の流れを眺めながら話した「まだまだ行ってないパン屋さんがあるね」

「はい、どの店もお客様をお迎えする為に朝早くから色んなパンを作るけれど、どんな地域のどの店も同じパンじゃない、さっきのパン屋さんみたいに初代の製法を大切に守り続けて結果的にそれが地域の歴史を作ったり、パンロンドみたいに商店街に根付いて自ら作っていっている客層もあるんだなと最近になって気がつきました」

「そうなんだ!いい事言うなあ。そういう意味でも奥が深いよね、知らない事も沢山ある」

「はい」

そう言いながら信号を渡り、東照宮に向かって坂道を歩き出した。

「結構人が多いね」

最近は歩く時は手を繋ぐのが習慣付いていて、お互いの手の温もりが伝わり心も温かくなるのを感じていた。

幸せと言う言葉は最近になって初めて気がついた程、由梨は嫌な子供時代を過ごしてきた、街の人達に根も葉もない悪い噂話をばら撒かれて外を歩くのも辛かった。

「あの」

「うん」

「す、好きです藤岡さん」

「ありがとう、俺もだよ」

人に聞かれると恥ずかしいが、どうしても今伝えたかった。

「今日は由梨の写真をいっぱい撮ろう」

「はい、藤岡さんの写真も撮りたいです」

日光から帰った夜

藤岡がタワマンの自室で動画を編集していた時電話がかかってきた。

「はい、ああどうも、え?何故それを俺に?そうなんですね。じゃあ調べに行きますよ、それじゃあ」

そう言って電話を切った後「さてどうするかな」と大きな窓の夜の街を見ていた。

ーーーー

次の日

パンロンドで作業中

藤岡は親方にお願い事をした。

親方の返事は「勿論いいけど杉本は何て言うかな」

「何も言わずに協力すると思います」

「そう?」

親方は杉本に手招きした。

「何ですかぁ親方」

「お前な、転職しろ。明日から横浜の工場へ行ってもらうから」

「えっっっっ」目を見開いた杉本の額から汗が流れた。

「パンロンド2号店?」という問いかけに親方と藤岡が違う違うと手を横に振った。

ーーーー

その翌日

親方の言った通り本当に横浜の工場にやって来た。

1人で工場の裏側みたいな所に立った。

「ここ?」工場の周りは高い塀で覆われて入り口がよくわからない。

「広いな」やっと裏門みたいな所を見つけた。この周りだけはブロック塀では無く白い鉄製の柵になっていて、植え込みの間から中が見える。

門の向こうに4人男が立っている。

「ユニフォーム着てるからここの人だよね」杉本は隙間から顔をつっこんで覗いた。

「明日、分かってるな」

「はい」

「14時決行だ」

「はい」

4人は打ち合わせ中らしく真剣な面持ちだ。

年齢はばらつきがあり、50歳ぐらいの目が細くて釣り上がった男の名札には足打と書いてある。その隣の40ぐらいの男は最上、後の2人は若くて大島と京田。

「あの〜すみません、今日からここで働くらしい杉本なんですけどぉ」

「今日から?らしいってなんだ」

「聞いてないな」

「大和田って人に会えば分かるって言われて」

「大和田工場長の事かな」

「他にいないだろ」

「じゃあ入れよ」

杉本が中に入って建物のドアを目掛けて歩き出すと「待て」と年配の男が引き留めた。

「お前俺達のさっきの会話聞いてただろ」

「何の事ですかぁ」

「聞いてなかったのかな」

「何の事かわからないのでは?」

「まあいい行け」

そう言われると気になる。

何て言ってたっけ?明日14時ケッコウ?

ケッコウです?

「コケコッコー」と言いながら工場の裏口らしい鉄のドアを開けた。

振り向くと4人の姿は消えていた。

「大和田工場長いますかー」

小学校程の大きさの施設の中は概ね2つに仕切られていて、一つは工場に入らなくても通れる様になってる入口から出口まで続く通路で、もう一つは工場だ。ガラスで仕切られていて通路からも中で作業をしているのかよく見える。工場は奥の機械の所から大型の装置が延々と繋がってそのまた奥へと伸びている。

「大きな工場、それにいい匂い」

機械の部屋の方からライトグリーンの作業着を着た体格のいい50代ぐらいの男が走って来た。

「杉本龍樹君?」

「そうっす」

「君天才って聞いてるけど」大和田悟は上から下まで杉本を見回した。どう見てもアホっぽい元ヤンだ。

「そう、俺天才なんすよ。書いたら色々覚えられるんで、でも勉強は嫌いかな」

(ご存知の方もおられるかもしれないが、杉本は書けば何でも覚えられる、なので取り敢えず何でも書くように藤岡に躾られている。ただし本人も言っているように勉強する気は無い)

「へぇ、杉本君ここの施設について説明するよ」大和田は天才の話は嘘だったと思いもうそれ以上は聞かず、施設の説明をする為に歩き出した。

「ここって何を作ってるんですかぁ」

「何も知らずに来たのか?ここは藤丸パン横浜工場だよ」

「えっ俺小学生の時の給食のパンが藤丸パンでした!すげ〜」

「藤丸パンは3代続く製パン工場なんだ。横浜は勿論関東一円にパンを卸している」

「スーパーでお母さんが買って来てます」

「そう?」大和田は満足気に頷いた。

大和田と杉本はまず宇宙服のような繋ぎに長ぐつ、マスクとネット帽子に着替えた。その後風を浴びて消毒液の上を歩いて中に入った。

巨大な漏斗から材料がミキサーに流し込まれて生地が大型のミキサーで捏ねられる所を見学。生地が捏ね上がると巨大なボックスに流し込まれる「すげー」もう少し進むと分割された生地が絶え間なく流れてくるレーンをみた「すげー」そして長い長いオーブンから焼きたてのパンが流れてきて、最後は自動で袋に入れられた後、箱詰めされて出荷されていく「すげー」

「面白いだろ?」

「初めて見たな、パン工場」

「今日は何しに来たか分かってる?何か分かったらメモして私に渡すようにね」

「はあ」

「あ、ここで待ってて、電話がかかって来たから。はい大和田でございます」と、ちょっと離れた所に走って行った。

「俺、何しに来たんだっけ?」昨日藤岡に指定された住所に行って何か探って来いと言われた「無茶言うな」とりあえずそこにあったホワイトボードに今日の事を書き出す。

明日だから18日

14時結構、血行、ケッコウ、決行

4人

大和田工場長

トンネル型オーブンは長い

俺はイケメン

「このぐらいかな」とペンを置くと同時に

「あんた何やってるの?」と50ぐらいの女性が声をかけてきた。名札の名前は小田だ。

「今日のトピックを書いてて」

「あんた見かけない顔だね、新人かい?年はいくつなの?」

「今日初めてここに来ました、新人の杉本君です。21です」

「あれ!おばちゃんの息子と同じだよ。可愛いねぇ」

「可愛いでしょ」

「ところでこの4人って何の事だい」

「裏にいた4人の男が相談してて、明日14時ケッコウだって」

「何を?」

「わかんない、何だと思う?」

「うーん多分この4人は足打達だね。あたしゃこいつにお金を貸しててね。なかなか返さないんだよ」

「悪いやつだなあ」

「多分何か悪巧みしてるんだよ」

「そうかなあ」

「そうだ、これも書いておこう」ホワイトボードに4人組の名前を書いた。

そこへ大和田が戻ってきた「小田さん、今日は杉本君を面倒見てくれない?色々教えてあげてね」そして杉本には「頼んだぞ」と言ってきた。そして杉本が書いた文字を写メで撮って何処かに送信した後慌てて消していた。

「わかりました、じゃあ行こうか杉本君」

「はーい」

2人は流れてきたパンをチェックする所に行った。

6レーンで流れてくる小型のあんぱんの変な形のものをはねるのだ。

小田はこういうのとかああいうのはダメとか説明して一緒に作業を開始した。元ボクサー志願者だった杉本は動体視力を鍛えていただけあってすぐにベテラン級の仕分けをして周りにいるパートのご婦人方を驚かせた。

「あんたできる子じゃないの」

「でしょ」

「ここが包装前の最後のチェックポイントなのよ、この前にも異物混入を防ぐふるいにかけたりX線で異物がないか見てるの、コンピューター制御されててね、それは工場長だけがパスワードを知っていて厳重に管理されているのさ」

「へぇーっすごーい」

「もしこんな大きな工場で異物が混入してたら怪我や健康被害への賠償金とか商品の自主回収、営業停止になってニュースに出て会社が傾いたらあたしゃ路頭に迷うよ」

「こわーい」

「だから気をつけないとね」

「はーい」

ーーーー

夕方

杉本がパンロンドに戻ってきた。

親方が声をかけた「よう、お疲れさん」

「ウイッス」

「今日どうだった?」

「藤岡さ〜ん、自分で行けば良いじゃないですか〜」

「それがダメなんだよ、だからお前が行ったんだろ」

「そうなんですか〜」

「で、何かわかった?」

「明日14時ケッコウ、って4人が言ってました。それと金を返して欲しいおばちゃんが1人」

「明日なのか、、、その4人ってどんな奴?」

「50歳ぐらいの足打と40ぐらいの最上と、大島と京田です」

「それと?」

「それと今日俺は(おばちゃん達に)モテモテでチヤホヤでした」

「それは良かったね。明日も行ってくれな。何かわかったら俺と大和田さんに電話してくれよ」

「はーい」

「モテモテでチヤホヤってどういう意味かしら」と話を聞いていた風花が由梨に聞いてきた「さあ、私にもわかりません」しかし藤岡が何を考えてるのかもわからない。

「風花、もう帰る時間だろ?送ってってやるよ」

「うん、龍樹、今日どこへ行ってたの?」

「藤丸パン横浜工場」

「えっ藤丸パン?なんで?」

「わかんない。見聞きした事を言うように言われたな」

「明日も行くの?それともずっとそこで働くの?まさか危険な事じゃないよね?そんなスパイみたいな事」

「スパイ?今日は変な形のパンを仕分けしてたけど?じゃあ俺明日早く出かけるから」

「わかったおやすみ」風花は繋いでいた手を離して杉本を見送った後無性に心配になってきた。

知り合ってからパンロンドでずっと一緒に働いてたのに急に他所で何をしてるのかわからない。凄く距離が離れた気がする。

「大丈夫なのかしら」

ーーーー

次の朝

横浜工場の朝は早い。

もうとっくに皆働いているが杉本は6時出社と言われていた。

丁度昨日の4人が裏庭で屯している。

植え込みの影に隠れてちょっと話を聞いてみる。

「昨日パスワードを書き換え済みだ」足打が言うと

「その後で機械を操作してあれをばら撒くぞ」最上も残りの2人に言った。

「はい」

パスワード?ばら撒くの?何をばら撒くの?

4人が歩き出したのでとりあえずつけて行く事にする。

工場の中に入り、歳上の2人と若者2人は別れて歩き出したので歳上の方について行く。

足打の持っていたファイルからメモらしきものが落ちた。

「おっ」

それをすかさず拾う。

大文字小文字と数字がいっぱい書いてあるのでまたそこにあったホワイトボードに書き写した。

「おい!何やってる!」

「あ、探しに戻って来た」

「こいつ昨日の」

「やっぱり怪しい奴だったんだ!メモを返せ!」と言ってメモを取り上げてホワイトボードの文字を慌てて消した。

「あんた達の方が怪しいでしょーよ」

「うるさい!来い!」

「そうは行くか!」

杉本は足打の手を振り払い拳を握って2人にファイテイングポーズを取った途端後ろにいた男に棒の様な物で頭を殴られた。

「いたたた」

足打達は倉庫の隅の扉付きの収納部屋に杉本を連れてきて口をガムテープで塞ぎ、両手を後ろで縛って閉じ込めた。

「時間までここで大人しくしてろ」

ーーーー

藤丸パン横浜工場の表玄関では大和田工場長と木山課長が並んで立っていた。

「もうそろそろ来られるな」

「後何年かしたら次期社長になるんですかね」

「そうなると社長もお喜びになるんだが、今の所そんな気はなくて困っていらっしゃる」

「ふーん、あ、あれ来ましたよ」

スーツが決まっている次期社長が早足で歩いてきた。

「ようこそお越し下さいました」

「大和田さんご無沙汰しています。昨日メールありがとう。早速行きましょう」

そういうと工場に入って行った。工場の裏側は昨日杉本が入って行った通りだが、表から入ると事務室や応接室があり、その横は配送の為の広い施設がある。その場所から関東一円にトラックでパンが運ばれていく。

「足打達4人を呼んで下さい」

「はい」木山課長が4人を呼びに行った。

ところが

待てど暮らせど木山が戻ってこないし4人も来ない。

「遅いな」

「どうなってるんでしょうね」

「見に行こう、案内して貰えますか」

「あっちです」

館内にある工場の横道から作業中の従業員を見ながら探したが「いないですね」とうとう裏の扉までたどり着く。

「外に出てしまいました」

「何処に行ったんだ」

「ここだよ若様」

「お前が足打?」

ーーーー

話は少しだけ遡るが

藤丸パン横浜工場の裏口付近にあまりにも杉本を心配し過ぎている風花とそれに着いて来てと頼まれた由梨の姿があった。

「ここのはずなんだけどいるかな龍樹」裏口付近の鉄柵から顔を突っ込んで覗く。

「中で働いてるんじゃないですか?」

「スパイなんて大丈夫なのかな?」

そう言われると心配だ、しばらくの間2人はじっと建物を見ていた。

するとここの従業員らしい4人が出てきた。

「ねえ、あれって龍樹の言ってた4人組かな?」

「どうなんでしょう、何を話してるんでしょうか?」

由梨が聞き耳を立ててると風花が「ねえ、あれ見て?あの陰から見てる2人」

「あっ」由梨が驚いたのも無理はない「鴨似田夫人のお付きの2人だわ」

その2人とは鴨似田フーズの従業員歩田と兵山だ。何故か木の陰から4人の様子を窺っている。

「何してるのでしょう」

風花は2人に近づいて小声で「ちょっと」と合図してみた。

歩田が気がつき由梨に頭を下げた。

「何してるの」

「奥様に言われてあの人たちを見張ってる所です」兵山も顔を近づけて来て小声で言った。

「何で」

「それは」と言いかけた時、1人の作業員が出てきて4人に声をかけた「次期社長がお前達を呼んでこいとさ」

「あの新人の杉本って言うのからやっぱり情報が伝わったんだ」

「そいつは?」

「倉庫に閉じ込めてます」

「そうか」

それを聞いて風花は死ぬほどびっくりして心臓がバクバク言い出した。

「龍樹が」足が震えて止まらない。それを見た由梨が、騒いで捕まるより4人の後を付けようと思ったその時、大和田達が裏口から出て来た。

「あっ」それを見て由梨も心底驚く。

そしてさっきの会話に続く。

「ここだよ若様」

「お前が足打?」

「あっ!木田!何やってる。お前は何でそっちにいるんだ」

「工場長、あんた何も知らなかっただけなんだよ、計画はずっと前から始まっていたんだ」

「馬鹿野郎!何をする気だ!」大和田は木田に掴みかかったが逆に足を引っ掛けられて押さえつけれる。

「やめろ木田!」

「若様なんて言われるのも今のうちだよ。お前の父親には悪いがこれから藤丸パンは終わりを迎える。大量に細かい針先の入ったパンを販売して失脚して貰う」足打が上擦った声を出した。

「そうはいくものか!AIセンサーがついてるんだ、金属片などの異物が入った物は跳ねられる」

「反応しない様にすればいいだけの話だからな」

「パスワードが無ければ変更できないんだから無理だろう」大和田も言った。

「大和田さん、あんた油断して俺と一緒の時にもパスワード打ってただろう」

「うっ」

「もうすでにパスワードを変更してある」

大和田は押さえつけている木田を跳ね除け制御室に走って行こうとしたが京田達に取り押さえられ、刃渡り10センチのナイフを首に当てられる「ううう」

「おっと、もう13時を過ぎている、14時からはいよいよ藤丸パンで1番売れているバターシュガーブレッドの※本捏ねの時間だ、俺たち準備があるからそれまで大人しくしてて貰おうか。おい!若様。お前も来い!大和田が怪我してもいいのか」なんと2人は捕まって連れて行かれた。

風花と由梨は慌てふためいて歩田に裏門の鍵を開けて貰い急いで裏口から入った。

「どこの倉庫?」

ーーーー

倉庫で縛られていた杉本は誰かが鍵を開けている音を聞いて口を塞がれながら「ふがふが〜(助けて〜)」と騒いで足をバタバタしたが、押し込まれた2人を見てびっくりした」「ふがふがふが(藤岡さん)」

「杉本」口を塞いでいたガムテープを取ると「藤岡さん何で捕まってんですかあ?得意の一本背負いで投げ飛ばしてやれば良かったのに」と巻くし立てた。

「スーツが苦手なんだよ、動きにくくて。それを言うならお前だって何捕まってんだよ」

「だって後ろから両腕を捕まえられたんだもん。俺前からの攻撃しか無理ですよお」

「全く」

「若様、何とかここから出ないと」大和田がドンドンと扉を叩いた。

鍵が付いてるが開けようとしても両開きのドアの取っ手は外側から針金が巻かれていて動かない。

「警察は?」

「スマホを取られた」

「クソ!おーい!誰かいないのかー」

ドンドンと扉を叩く音を聞いて風花が「由梨ちゃんあれ!」と走って行った。

由梨と風花が必死になって針金を外そうとしたが結構硬い「ペンチ探して来て!」とすごい形相の2人に言われて歩田が「はい」と走り出した。

「待ってられない」由梨はドアノブを拳で叩き続けた。

平田がパイプを持って来た「これ」と言ったが早いか由梨が受け取ってドアノブに叩きつけた。

「龍樹!内側からも何かできないの?」風花がドアに向かって叫んだ。

「え?何でいんの風花!」

「後で言うから早くして」

「はいよ」

と鉄製の棚に乗っていた資材急いで除け、3人で持ち上げてドアノブに叩きつけた「うおりゃあー!」

外からと内からの攻撃でドアノブを破壊した「よし!開いたぞ」

「藤岡さん」急いで出て来た所に由梨が立っていた。

「由梨」

と言いながらそのままの勢いで大和田と藤岡は制御室に走って行った。

「待って〜」と杉本達他の者も続く。

「足打!許さん」

ーーーー

丁度制御室から足打と木田が出て来た。

「木田思い直せ!機械を停止させろ」

「すみませんが大和田さん、センサーは止めさせて貰いましたよ。もう14時だ、最上達が生地に金属片をばら撒いた頃です。このまま生地はレーンの流れに乗ってケースに入れられ発酵した後焼成、冷却包装、出荷だ」

「なら今からまだ止めるチャンスはある!」

「そう、だからもう少しお前らを何処かに閉じ込めておかないと」

「出荷が終わって販売されるまでな」木田はもう一度ナイフを取り出した、切先を藤岡に向けた瞬間「あぶない!」と由梨が前に立ちはだかったがその次には「防ごう異物混入!食の安全宣言!」と叫んだ杉本のパンチが木田の顔面に当たり「ふがっ」っともんどり打って床に倒れた。

「俺は怒ったぞ!大体普段から異物混入を防ぐために修造さんからうるさく言われてたのに、人様の口に入る物に何て事を!」杉本は足打ちを怒鳴りつけた。

「本当だ」大和田も説得にかかった「足打!ギャンブル癖はあるが普段真面目に働いてたお前が何だってこんな大それた事をするんだ、今ならまだ間に合う、やめなさい」

「大金が手に入るんだ、借金も返せる。何だってやるさ」

落ちたナイフを足打が拾って再び藤岡に向けた時、今度は由梨を杉本の方に避けた後ナイフを持った手を払い左手で襟を掴んで投げ飛ばした。

壁に打ち付けられた足打のナイフを兵山が隠して歩田と一緒に取り押さえネクタイで後ろ手にして手首を結んだ。

「おい!パスワードを教えろ!金属片除去のセンサーを作動させるんだ!」藤は足打の襟を再び掴んで揺さぶった「教えませんね〜」と憎たらしい言い方に藤岡がむかついたその時「あ、俺それならわかるかも」と、まだしかめ面の杉本がセンサーの前に進んだ。

「龍樹、ほんとなのそれ?」

「うん、工場長、どこにパスワードを打つの?」

杉本に促されて大和田がパスワードを入力する画面を出した。

「えーとぉ」ぽちぽちと長い長いパスワードを打ち大和田に「次へ」のボタンを押して貰った。

「開いた!」全員が驚いてる中大和田が急いでセンサーを作動させた後、バターシュガースコッチブレッドのレーンの機械を全て停止させた。

「これで一安心なのかな」機械の動きが止まって工場で働く従業員が驚いてざわめき始めたのを見ながら杉本が言った。

「念の為今日の午後からの出荷分はストップさせて下さい」

「はい、若」大和田が制御室から作業員に連絡した。

「大和田さん、急いで他の奴らの所に行きましょう、捕まえないと」

「僕たちさっき奥様に電話しました」足打を捕まえたまま歩田と兵山が声を揃えて言った。

藤岡は一瞬由梨の方を見て「杉本!あぶないから由梨と風花を連れて帰ってくれ」そう言って走り出しながら何故2人がいるのか不思議だった。

「それに何故鴨似田夫人なんだ」そう思いながら表玄関まで走った時、平静を装って入口から逃げようとしている最上たちに追いついた。

「あっあいつら何で出て来れたんだ」大和田と藤岡を見て3人は走り出した。

その時

「ちょっと待ちな!」

工場からエントランスに出る廊下の途中で、向こうから20人小田達パートさん軍団が最上達を取り囲んだ「あんた達容赦しないよ」

「レーンが止まったのはあんた達のせいらしいじゃん」

そしてその向こうから鴨似田夫人がゆっくりと歩いてきた。

「皆さんお待ちになって」

突然現れモデル歩きでやって来た鴨似田夫人を藤岡達も最上達も口を開けて見ていた。

大和田は「鴨似田さんどうなさったんですか?うちのパートさんを引き連れて」と聞いた。

「私(ワタクシ)今日のことは随分前から知っておりましたの」

「えっ!木田たちの悪巧みの件をですか?」

「ええそうですわ、大和田さんに電話でお知らせしたのはうちの歩田ですもの」

「確かにうちの中の何者かが何か企んでると電話があって若にお知らせして今に至りますが一体何故」

「定期的に藤岡さんにお変わりがないかうちの者に調べさせておりましたの、なので小娘と日光東照宮に行ってた事も、藤丸パンが乗っ取られようとしている事も存じていましたわ」

「乗っ取り?どういう事ですか、て言うか日光に行ってた事も知ってるじゃないか」藤岡は心底驚いて言った。破天荒とは思っていたが度を越している。

「誤解のない様に言っておきますが、私ストーカーではございませんの、あくまでも藤岡さんのお幸せを願っての事ですわ」

「それで?乗っ取りのことを説明して頂けますか」と大和田が本題に戻した。

「買収ですわ、異物混入事件を起こした企業が回収の為に世間にその事を知らせなければならず、企業への不信感が生まれて株価が下がった所を買い占めて乗っ取るんですの」

「株主総会で解任議決がなされて経営者が解任させられるし従業員も生活の不安にさらされる」と大和田も言った。

それを聞いた小田達も「冗談じゃないよ!私達は誇りを持ってここで働いているんだよ、あんた達にしょうもない邪魔されてたまるかってんだよ」

「そうじゃんそうじゃん」

「観念しなよ!警察に突き出してやる」と言いながら4人を連れて行った。

藤岡は鴨似田に初めて向き合って「ありがとうございました」と頭を下げた「乗っ取ろうとした企業名を知っていますか」

「それは分かりませんの。おそらくさっきの者達も仲介の者の偽名と電話番号しかわからないと思いますわ。それに気をつけないとこれから先もいくらでもこのような事がありましてよ。いつまでも今のままで良いのかしら」

そう言っていつの間にか夫人の横にいた歩田と兵山に「帰りますよ」と言ってモデル歩きで去っていった。

「かっこいい」と大和田が呟いた。

実際、売れ筋のバターシュガースコッチブレッドは午後からできた分は出荷停止になり販売店や卸先に迷惑をかけたが大和田が機械の故障と連絡していた。

「若、会社が買収されることを考えたら安い物ですよ」

「大和田さん、今日はお疲れ様でした。俺今日は考えさせられました」

「後のことはお任せ下さい」と機械類の徹底清掃の為に大勢の従業員が集まっている所に指示をする為に戻っていった。

藤岡は1人駅まで歩きながら鴨似田夫人が最後に言った言葉について色々考えた。

ーーーー

夕方

由梨は杉本と風花と東南駅に戻ってきた。

「ほんとよくパスワードを覚えてたわよね、役に立てて良かったわ」と赤い顔をした風花が何度目かの心からの安堵を杉本に示した。

「かっこよかったでしょ」

「まあね、すごく心配だったから龍樹達が助かって良かったし、由梨ちゃんも安心したでしょ」

由梨はさっき藤岡から電話があって解決したと聞いてホッとしたが自分が不甲斐なく、何も力になれなかった事で落ち込んでもいた。

「それにしても藤岡さんが藤丸パンのご子息だったなんて驚きよね、タワマンに住んでても不思議じゃないか」風花が興奮冷めやらぬ感じで言った。

それは由梨も思っていた、動画配信やパンロンドのお給料では無理なのではないかと薄々考えてはいた。

「良いわね由梨ちゃん、イケメンでリッチよね藤岡さん」

「あっ何風花!俺の方がイケメンなのに」

「ちょっと!どこがよ?」

なんだかんだ言っても結局仲の良い2人は、駅で由梨に挨拶して手を繋いで歩き出した。

「あのさあ風花」

「ん?」

「今日俺が心配で横浜に来たの?」

「うん、そう」

「あぶないから今度からしちゃだめだよ」

「だって」

風花は気が強いがこんな時いじらしくて可愛らしい。

「そこがキュンとする所」

杉本は風花の手をグッと握って聞いた「あのさあ風花、もし俺が結婚したいって言ったらその代わりに何をする感じになるの?」ずっと聞きたかった事だった。

「何をする感じって、、、?」

「あっ良いのいいの。また今度ね」

「もう、何よそれ」

「ははは」

夜の涼しい風に吹かれながら2人遠回りして帰った。

ーーーー

仲の良い2人と別れた後、由梨は家路についた。

部屋で1人自分の思っていた藤岡とは違う姿の『若』と呼ばれる人は一体誰だったのか考える。強くて問題解決の為に走っていく所を思い出し、それに比べて自分が何も出来ないコンプレックスでいっぱいの存在な気がする。

今迄ガムシャラに着いてきたけれどそれは厚かましかったのかな。

日光で見た人とは違うの?

それに、必死だったとは言え外れもしない針金を素手で叩いたり、藤岡を助ける為に前に出たもののすぐ後ろに押し戻されたりと思い出しても恥ずかしい。

由梨が物思いに耽っていると母親がドアをノックした「由梨、藤岡さんが見えたわよ」

「え」

由梨が部屋から出るとリビングに藤岡が立っていた。

「由梨、今日はなおざりにしてしまって悪かったね」

「私今日は邪魔ばかりしてしまって」

「邪魔?まあ何故来たのかは電話で杉本に聞いたよ」藤岡はいつもの笑顔で言った。

「今日は俺が閉じ込められた扉の針金を外す為に凄い形相で鉄パイプを握ってたと聞いたけど」

「凄い形相、、、ひたすら恥ずかしいです」

「それに俺を庇った」と言って由梨の手を握った。

「由梨ありがとう、また俺を守ってくれたね」

ドアノブを叩いた時、手が傷だらけになって絆創膏が各指に巻かれている。

藤岡はそれを見ながら手を優しく包み直した「由梨、俺は今まで4代目になって責任を負うのが嫌で逃げ回っていたんだ。だけど今日は考えさせられたよ。やはり守らなくちゃいけないものはあるんだ、今のままではいられないんだと」

今のままではいられない、それを聞いて藤岡が遠くに言ってしまうのかとドキッとした。

もしそうならパンロンドの様にもう追いかけていくことは出来ない。

もし藤丸製パンに入るなら正社員への道はのりは遠いし、パートでお勤めすると次期社長に中々会えないだろう。

「だから由梨」

「はい」由梨は覚悟して聞いていた。

「この先はもっと助けて貰う事になるかもしれない」

「え」由梨はびっくりした「わ、私会社の事は何も分かりません」

「それは俺も同じだよ。これから何もかも新しい生活を2人でやっていかないかと思って」

「一緒に」

「そう、俺には由梨が必要なんだ」

いつか湖で同じ言葉を聞いたその時のままで藤岡は言った。

同じなんだわ、今日の藤岡さんもいつもの藤岡さんも「わかりました、事務でも何でも頑張ります。私でよければお手伝いさせて下さい」

リビングの陰で聞き耳を立てていた由梨の両親は

「ん?あれってプロポーズじゃないのかな」

「そうよねぇ」と小声で言った。

おわり

お話の中のパン屋さんは日光の金谷ホテルベーカリーです。
日光の駅の近くには5軒販売所があります。
金谷ホテルベーカリーは1873年(明治6年)にカッテジインが開業されるところから始まりました。その後日光金谷ホテルとして営業を開始。
1925年に入社してきた川津勝利さんが村上新一さんと共に最高のパンを追求され、以降パンとクッキースの伝統は守り続けられて行きます。
お盆の時期の夕方に訪れたので神橋店ではパンは全て売り切れでしたが、その後泊まった金谷ホテルの売店にパンが売られていましたのですかさず購入。17時からの館内ツアーに参加したり夕食にも朝食にもパンが楽しめたので満足でした。

そして藤岡が既視感を味わったのは横浜のウチキパンでした。
2軒とも伝統を作り上げたパン屋さんです。
ウチキパンは初代打木彦太郎さんが1888年(明治21年)元町『横浜ベーカリー宇千喜商店』を開始。山食パンのイングランドは130年以上の伝統を守り続けたイギリスパンです。

尊重されるべき歴史がありすぎてパン屋に入った時の雰囲気が似ています。

由梨と藤岡が2人で東照宮にいるイラストですが、彫刻が凄すぎてそのまま使わせて頂きました。

2人で3切のトーストを分け合う、一つずつ食べて残りの一つは手で半分にして、大きい方を相手に渡す。そんな2人は微笑ましいですね。

49やのやのやのと見習いの俺

やのやのやのと見習いの俺

最悪の夜だった母親が男と出て行ったその日

俺、間光太郎は義理の父親と狭いアパートに取り残された。

深夜1時

「高校は辞めてきたんだろうな」

「ああ」

「お前みたいな奴顔を見るのもうんざりなんだよ、あいつは何処の男と出て行ったのか本当に知らないのか」

「知らねえよ」

義理の父、間廣記は俺の胸ぐらを掴んで頬に二発パンチを繰り出した。

「働き先を見つけてるから申し込め。受け子だよ、受け子。それとも臓器を売り飛ばすか。お前なんて生きてても仕方ないんだから、死んで俺の役に立つのも悪くない。お前の母親もクズの男と出て行きやがって。クズ親子めが」

「クズはお前だろ、俺はそんなバイトやらねえから、死ぬのも嫌だね」そう言って廣記の腕を振り解いた。

「何!口答えしやがって」

廣記はいつになくしつこく俺を殴った。

これ以上殴られると死ぬ、そう思った俺は肘でパンチを弾いて足を蹴り飛ばし、アパートから飛び出した。階段を駆け降りて振り向くと廣記は追いかけて来ていた。

「待て!このガキ」

「やばい」

捕まったら叩きのめされる、そう思う様な形相で追ってくる義理の父親から逃れる為に暗い夜道を走った。

はあ

はあ

息を切らせて振り向くと廣記はあと数メートルの所まで来ていた。

全力で走って狭い小路に入る。自分に当たりそうになったゴミ箱を倒してまた逃げた。走っていると段々道幅が狭くなって行く。

「このままだと捕まる」一軒だけ灯りの付いている家の裏口が少し開いている。ガタガタのボロい木の引き戸を開けて急いで鍵を閉めた。

はあ

はあ

はあ

息を潜めようとしてもどうしようもない。口に手をやって入り口から見えない左手の部屋に入った。

電気の消えたその部屋はどうやら台所らしい、その横は階段だ。

その様子を奥にある電気の着いた部屋から見ていた五十歳ぐらいのおっさんがいた。

訝しそうに見ている。

俺はシーっと人差し指を口に当てて『静かに』のジェスチャーをした。

廣記が通り過ぎたら反対側に逃げるつもりだった。

廣記の足音が聞こえてきた。

通り過ぎて行く音を聞いて、この音が聞こえなくなったらすぐに飛び出す。

と思っていたら足音は引き返してきた。

廣記が扉をガチャガチャ動かしたり叩いたりして「開けろ!開けろ!」と騒いでいる。

奥からおっさんが出てきた。じっと俺を観察しながら横を通り過ぎ、扉を開けた。

「ここにガキが隠れてるだろ!この道の先は行き止まりじゃねえか」大きな廣記の声に身をすくめて見えない様に壁にぴったり張り付いた。

おっさんは「なんだおめえは!こんな時間に」と語気を強めて言った。

「見せて貰うぞ」と廣記が勝手に入ってこようとするのを制止したのかドン!と壁が震える。

「いたたた」

廣記の痛がる声が聞こえる。

「ここにいるのはワシ一人だ。分かったらさっさと他所へ行け」

廣記は俺には暴力を振るうが、身体も細く、いつも何かに怯えている。一方おっさんは肩と腕の筋肉がモリモリだった。

揉み合っても勝てそうにないのか、廣記は「わかったよ」と言って腕を振り払い出て行った。

他を探す為か急いで遠ざかる足音を聞いて、俺はその場に座り込んだ。

おっさんはタオルを持ってきて「すぐ出ていけよ」と渡して奥の部屋に戻った。

俺は顔についた鼻血を拭きながら黙って頷き、座って奥の部屋に目をやった。

古びた建物の古びた部屋には、見慣れない機械が狭い空間に置いてある。

ウンウンウンウンという連続音が聞こえてくる。

おっさんは部屋の真ん中の平たい台の上にプラスチックの大きな箱から何か出して、それを右手に持った金属のもので切り分け出した。

あ、あれパンの生地なのかな。

全て同じ大きさに分けたあと、太い両手で丸めて箱に入れ、その箱がいっぱいになるとまた次の箱へ入れて行くのを見てるうちに猛烈に眠くなってくる。

時計に目をやるともう4時だ。連続音を聞いてるうちに目を閉じてしまう。

ーーーー

バン!

という金属の音がして目が覚めた。

どうやらここは昨日隠れていた台所の横にある六畳間の様で、仏壇やら箪笥が置いてある。

「八時か」

俺の身体には布団が掛けられていた。

しばらくそのままで何度か続くバン!という音を聞きながら「これからどうしよう」と考える。

母親はどこに行ったのかわからない。廣記に見つかると面倒だ。頼れる親戚も友達もない、学校は辞めてしまった。

「最悪だ」

しばらくするとおっさんが覗きにきた。

「起きたのか?洗面所は階段の奥だ、顔を洗ってこい。朝飯を置いといてやる」

俺は返事をせずに洗面台に行く。

戻ってくるとちゃぶ台にパンがニつと牛乳が置いてある。

俺はパンは給食のパンしか知らないが、これはフワフワのいい香りがする。

俺は一つ目のパンを手に取った。

パンにチーズが巻いてある。

「うま」

俺は貪る様に食った。

もう一つのパンに手を伸ばす。

「柔らか」

プルプルと揺れるパンをニつに割るとクリームがこぼれてくる。

ああ

なんていい香りなんだ。

割れた所のクリームを啜ってパンを端から食べて行く。

「なんだこれは」

安堵と優しさに包まれて涙が溢れる。

「美味い」

この空間の安堵感はなんだ、昨日までいた所となんて違いだ。

食い終えて俺はパンを作っている所を廊下から覗きに行った。

パンを作る部屋の向こうに2畳ぐらいの狭い売り場がある。

昨日は気がつかなかったが表は市街地に近い通りなんだな。

「この道の裏だったのか」

「ん?なんか言ったか?もう行くのか?」おっさんが俺の声に気がついた。

「俺外に出るのが怖いんだ」

「昨日のひ弱そうな奴の事か?あいつはなんなんだ」

「俺の義理の親だよ。実の母親は他所の男と逃げたんだ」

「なんで追いかけられてた」

「俺の臓器を売り飛ばすって言ってたな」

「それで逃げてきたのか」

俺は頷いた。外に出るのが怖いのは本心だし出来ればもうニ度と廣記には会いたくない。

「大人だから分かると思うけど、こんな時どうしたら良いの?」

「えっ俺に聞くのかよ?お前歳はなんぼなんだ」

「十七」

「そうだな、警察に言う、一応義理の父親が取り調べられるがすぐ帰ってくる。お前は一時保護されるがそのうちに優しい義理のお父さんの所に帰れるだろうよ」

「冗談じゃねえよ」

「後一年すりゃ十八歳だろ、すぐ大人じゃねえか、友達の家にでも隠れておけよ」

「友達なんかいないよ、、そうだここは?作業員募集中?」

「迷い込んできて厚かましいな。それに此処はそのうちやめるつもりなんだ」

「あと一年はやってる?」

「さあな」

ーーーーー

閉業のその日まで働くという約束で俺はここ、矢野屋に隠れて過ごす事にした。

できるだけ表に出ないで奥の方で手伝う事にしたい。

おっさんの名前は矢野寛吉。今年で五十五歳だそうだ。

五十五歳って今時はまだまだ働けるんじゃないのかな。

寛吉は、この矢野屋というパン屋を若い時からやってたらしい。

朝はと言うか、夜は一時から仕事している。そういえば俺が逃げ込んだ時も夜中だった。

それからあのバンという音は食パンを出す時に寛吉が台の上に食パン型を叩き付ける音だった。

その後色んなパンを一人で作って八時に店を開ける。

ラッキーな事に店の前には矢野屋の暖簾がかかっていて外からはショーケースは見えてもその上はよく見えない。

パンを作り終えたら明日の準備をしながら店番をして夕方閉店。

いつ寝てるんだろう。

俺の仕事は生地作り以外の事をやるって感じだ。

「俺が良いと言うまでこの鍋をかき混ぜるんだ」
「うん」

ホイッパーというかき混ぜ器で大きなボールの中の物をまぜ続ける。

「それをこれで漉すんだ」

大きな漉し器をバットの上置いてクリームをヘラで漉して滑らかにする。

「あ!これがクリームパンの中身?」

「そうだよ」

「あちち」

「気をつけろよ」

こんな風に寛吉の言う通りにやらないと全部の作業のやることやタイミングが全くわからない事だらけ。

計量の作業も種類によって全然量が違っていて間違えると膨らまなかったり、めちゃめちゃ膨らんで麩みたいにスカスカになる。

「また塩の量を間違えてるじゃないか」寛吉が計り直してる。

こんな事はしょっちゅうだ。

「兎に角計量を間違えるとまともなパンにはならないんだな」

それは分かった。

俺はなるべく紙に書いてある通りに計る様にした。

時々店の方で客がしつこく文句を言って、寛吉が宥めているがそれでもまだ言ってるのでついに寛吉の「分かったよ!全くしつけえな。もう帰れ」という声が聞こえる。

寛吉が客が見せて来た食べさしのカレーパンを持ってきて「おい、こりゃなんだ」と俺に言った。

「えっ」

「味が全然違うじゃねえか、マイルドなはずがメチャクチャ辛れえ」

あ、そういえば赤い色のスパイスを鍋に落として引き上げるときに随分溢れたっけ。

「あはは」

「全くお前は」

俺は矢野屋の売上にダメージを与えるような失敗をするが寛吉が俺にキレるような事はない。

ただ、俺への監視の目は厳しくなって、口やかましくはある。

ある日

寛吉は仕事と生活のリズムが狂って疲れると言って来た。

椅子に座って俺に指図していて、俺は俺のせいだという自覚はあるから黙って言われた通りにする。

店の方から客の呼ぶ声がする。

「おい、行って来い」

「えっ俺が?」

「お前しかいねえじゃねえか」

俺はまさかこのタイミングで廣記が現れる事はないだろうと思いつつも恐る恐る店に出る。

「いらっしゃい」

白い肌着を着た総白髪で75歳ぐらいのお爺が立っていた「お前か?いつも失敗ばっかりしてる奴は」

「え」俺は反省はしてはいるのでちょっと頭を下げた。

「何にしますか」

「コッペパンをくれ、それとカレーパンだ。今日はまともだろうな」

「多分」

「多分だと?お前みたいな良い加減なやつはやめちまえ!」

俺はその言葉を無視してコッペパンとカレーパンを包んで渡した。

お爺は「もう来ねえからな!」と代金を将棋の駒の様にピシャリと置いて出て行った。

ああ

本当に来ないのかな。

流石にしょげる。

戻ってきて元の作業をしているとまた客が来た。

今度は紺色に白地の花柄ワンピースのお婆だ、こっちは70歳ぐらい。

「食パンの八枚切りをおくれ」

「俺切った事なくて」

「そこのスライサーってやつがあるだろ?」

振り向くとそれっぽいのがある。

食パンを切る機械に食パンを乗せる。

「ここでいいのかな?」

「スイッチを上げるんだよ」

言われた通りにスイッチを上げると刃(は)がすごいスピードで回り出す。

「こわ」

「指を近づけるんじゃないよ」

「うん」

食パンを乗せて刃の方に押す様に言われるので押してみる。

八枚?

八回押すと刀の隙間から食パンがポロポロ出てきて横に転がってきたのでそれを纏めて袋に入れた。

「何だいこりゃ!」確かにおかしいのは分かる。

ニ斤分はあるし上を向いてるのもあれば下を向いてるのもある。

お婆も将棋の駒の様にお金を置いて「バカだねあんた!もう来ないからね」

と言って出ていった。

一日にニ人も客を失う。

俺はひょっとしたら物凄い役立たずだったのかも知れない。

戻ると寛吉は立ち上がってパンを焼いていた。

「ニ人ももう来ないって」

寛吉は笑って「いい経験になるから今度は気をつけりゃいいんだよ」と言ってスライサーの使い方を教えてくれた。

一番初めに切ったパンの耳の上に、次に切ったパンを置く

勿論目盛ってものがある。

四枚切りとか五枚切りとか違うんだ。

「知らなかったな」俺はハンドルを回して五枚切りの目盛に合わせてから食パンを五枚切って袋に入れた。

見習いには次々やる事がある。

「おい、このカレーパンを揚げてみろ」

「うん」

「油に入れたらすぐ裏返して、泡を箸の先で潰して裏返して、良い色になったら両面の色を揃えて揚げるんだ」

「え?はいはい」俺は一応寛吉のやっている動作を見てはいたが、うろ覚えとはこの事だし、予想外の動きをカレーパンがする。

クルン

勝手に裏返る

おいおい

それを集中して裏返してると

また他の奴が勝手に裏返る。

「何だよ」

そうこうしてるうちに両面の色が全然変わってしまった。

「何だこりゃ」寛吉もカレーパンを見てびっくりしていた。

「油に入れる時に変な風に掴んだな?」

「そうかも」

これがいつか上手く揚げられる様になる日が来るとは到底思えない。

次にカレーパンを揚げた時にはカレーパンがフワ〜っと膨らんだと思うと真ん中から隙間ができて裏返った。

「え」

すると中身が出てきて跳ね出した。

バチバチバチィバチッ

「うわ」

中身が全部出てきてそれが全体に広がって他のカレーパンに焦げが沢山ついた。

「あーあ、お前の煮込んだルーが緩かったんだよ。原因があって結果があるんだ」

え!俺がカレーをいい感じに煮詰めていれば弾ける事はなかった?

「知らなかったな」

次の時

カレールーの炊き具合を寛吉に見て貰う。

「このぐらいの煮込み具合を覚えとけよ」

「うん」

次の日カレーパンを揚げていると、店からこないだのお爺とお婆が寛吉と談笑している声がする。

「何だまた来てるのか」俺はほっとした。

トレーに揚げたてのカレーパンを乗せて店に持って行く。

「おっ新入り!美味そうに揚げたな」お爺が「これをくれ」と言ったのでお婆も「私も、孫の分もおくれよ」と寛吉に言った。

俺はこの時初めて自分で作った物を人に売ることの意味が薄っすら分かった気がする。

その日の寝る前

俺は布団の中でもう来ないと言ったくせにまた来てる人達のことが不思議で、その事について考えていた。

「ああ、そうか」

俺のやった事が嫌だっただけで店やおっさんが嫌なわけじゃないんだな。

人の心って不思議だな。

次の朝もバンという音で目が覚める。

俺は身支度をしてパンを作る部屋、つまり作業場に入る。

「おい、これを塗ってみろ」

俺は液卵を塗る刷毛を手にとった。

オーブンに入れる前の発酵したパン生地は、捏ね終わった時の生地とはまるで違うがそれが何でかは俺は知らない。

プルンプルンになった生地に刷毛で卵を塗るんんだが、刷毛の角が当たるとパンがへこんでしまう。

「ああ」

「早く塗らないと次のパンの順番が詰まってくるだろうが」

「うん」

そうは言ってもひとつの天板に十五個載っているパンが八枚あるんだから百二十個じゃないか!

俺はパンを潰さない様に必死で息を詰めて塗っていった。

四枚できたら寛吉は急いでオーブンに入れた。

こんな大変な作業素早くできるもんか。

ふうふう

「できたか?」

「うん」

寛吉はパンを全てオーブンに入れてやがてそれが焼き上がる。

当然の事だが卵の塗り方がムラムラだ。

「ここは刷毛に卵をつけ過ぎ、ここは薄過ぎ」と寛吉が指差していった。

「うん」

次はクリームパンに卵を塗る番だ。

さっきみたいにならない様に、寛吉の見本の通りに刷毛に卵を含ませて何個かの生地にてんてんてんとつけて量を均等にしてそれを塗り広げていく。

「そうそう」寛吉が言った。

塗りながら、寛吉は俺のコーチなんだ。って思う。

「おっさんはパン屋さんになって何年?」

「三十二年だよ」

「長えな、そんなにやってて飽きないのかよ」

「もうやめようもうやめようと思いながら随分立っちまったもんだ、うちの客は増えも減りもしねえ、ずっと俺の所のパンが食生活の一部なんだ。一緒に年をとってるのさ。そう思うと中々踏ん切りがつかなかったな」

「ふーん、一番楽しかった事は何?」

「さあな」

「じゃあ一番辛かったことは?」

寛吉はその質問には答えなかった。

「おい、この鉄板を拭いとけよ」

「うん」

寛吉は店に行って椅子に座ったまま腕組みをしてじっと何かに囚われた感じになった。

「何だよ」もう今の質問はしない方がいい、鉄板を拭きながら俺はそう思った。

寛吉は晩飯を食った後、たまに仏壇の前でぼーっとしてるけどその時と同じだな。

ーーーー

俺がここに来て三ヶ月が経った。まだ廣記から隠れて、外に見えない様に隠れて暮らしていた。

ただ、最近は店を開けたり閉めたりする時に外に出たりする。

「初めに比べりゃ随分マシになったもんだ」俺の液卵塗りを見ながら寛吉が言った。

「今日から生地の仕込みを少しずつ教えてやる」

「えっ」

そんな大事な事をやって大丈夫なんだろうか?ただでさえ数々のダメージをこの店に与えてたのに。

俺はビビったが先に進みたい気持ちもある。

コーチである寛吉の動きを観察する日々、言われた通りにやろうと言う気持ちはある。

「クロワッサンの生地の捏ね方を見ておけよ」

「うん」

「後でロールインするからあまり捏ねちゃいけないんだ。グルテンを出しすぎない様にな」

ロールイン?

グルテン?

何だそりゃ

不思議に思いながらも見よう見真似でやっていく。

「生地が固いと思ったら足し水をやってみろ」

「え?」

ドバッと入れっちゃった。

「あっ足し水ってのはちょっとずつ様子を見ながら入れるんだよ」

「え?」

俺は水を入れすぎたらしい。寛吉はドロドロになったその生地をミキサーから出した。

「新しく作るからもう一回計ってこい」

「うん」

俺は計量の重要性について今ではよく分かってるので慎重に計ってもう一度ミキサーに入れた。

初めは低速、その後中速にレバーを動かす。

一旦ミキサーを止めて生地をまとめる薄いプラスチックのカードでかき集める。

「まだ固いな、よく見ておけよ」

「うん」

ちょっと水を入れて様子を見る。そうやって理想の固さにしていく。

「触ってみろ」

「うん」

寛吉のバゲットはパリっとエッジが効いている。

俺のはスジがついているだけ。


「お前のカットは刃が立ってるんだよ、次は寝かせて皮を削ぐように切ってみろ」そう言ってサッサッと切って見せた。

ザ・天下一見よう見真似。

コーチ寛吉の動きを真似る。

「今度は少しマシになってるじゃないか、まあ練習だな。間隔を同じに保てよ」

「うん」

日々進歩

俺は毎日少しずつマシになっている。



慣れと言うのは油断とも言うのか、寛吉が手を離せない時は徐々に店番もする俺。

店には毎日色んな客が来る。

あのお爺は相川、お婆は土山というらしい、他にも近所のお母さんと赤ちゃん。毎朝同じ時間に来るサラリーマンなど、確かに同じメンバーが買いに来る。



暖簾の隙間から通りを見ていると、廣記が外を歩いている。

「やば」慌てて隠れたが廣記はこちらに気がついていないし、この建物の裏があの道とは知らないんじゃないかな。

「バカなやつだ」

ーーーー

俺はアパートから逃げ出してから今日までの五ヶ月間矢野屋のコーチと過ごして、なんとなくこの仕事が気に入ってきた。

寛吉の方を見てみるとバゲットのカットが始まる所だった「俺にやらして」と言うと寛吉はカミソリをパンにスッスッと滑らせた「やってみろ」

「うん」日々これ勉強。ついにコーチ寛吉の動きをマスターした。

「いいのが出来たじゃないか」

褒められた!単純に嬉しい。俺はバゲットを高々と持ち上げた「やったー」

俺の上達と逆に寛吉は腰痛がたまに出る様になってきた。

「いたた」

と言うわけでコーチは椅子に座りながら店番をして、奥の部屋の俺に指図する毎日。

とはいえ寛吉は深夜から仕事を開始して、俺はあのバンと言う音で目が覚める。

「なんで食パンのケースを台に叩きつけんの?」

「焼けたあと、このままにしておくと中の蒸気でパンが腰折れするから、ショックを与えて蒸気を逃がすのよ」

「へー」

「試しにひとつこのまま置いておいてやる」

出来の悪い見習いの為に実験用に置いておいた食パンは確かに真ん中にスジが入り片側に折れてきた。ソフトで水分を含んでる気がする。

「知らなかったな」

ある日寛吉と俺は朝から生地作りをして焼いて袋に詰めたり並べたりしていた。

「いたた」寛吉が椅子に座った。

「腰が痛いのかよ」

「今日保育園の配達があるから行ってきてくれよ」

「えっ廣記に見つかったらどうするの?」

「そんときゃあ逃げろよ。まいて帰ってこいよ」

俺は帽子を目深に被りマスクをして裏口に止めてあった自転車を持ってきた。

荷台にパンの箱を積んでゴム紐で結んだ。

配達の間もずっとキョロキョロしていたが無事保育園に到着。

「暑いな」

パンの箱を抱えて園庭の真ん中を横切ると子供達が寄って来た。

「やのやのやのは?」

「ねぇ、やのやのやのは」と口々に言ってくる。

「やのやのやの?」何だそれは、と思ってると奥の調理場にたどり着く。

狭い調理室に給食のおばちゃん達がひしめき合って昼食の用意をしている。

「配達に来ました」

俺は手前の台の上にパン箱を置いて帰ろうとした。

「ちょっとあんた」なんだかものすごく迫力のあるおばさんに声をかけられる。

きっとここのボスだ。俺はなんとなくそんな気がした。

こわ。

「パンの箱が嵩張るから持ってお帰り」

「中のパンは?」と聞こうとする前におばさんはパンをくるんでいる大きめのシートごとパンを箱から出した。そして端を結んで台の下にほりこんだ。

「あっ」驚いて見ていると、三箱分全部を同じ感じで重ねて台の下に入れた。

焼き立てパンをそんな風に雑に扱うとは!しかも下の方はペチャンコじゃないか!

俺は驚いて「朝早くから」と言った。

「は?」聞き返すおばさんに「朝早くからおっさんが作ってるのにそんなに雑に扱うなんて!」

「置くところが無いんだから仕方ないじゃないか!」

「無ければ作ったらいいだろ?子供達が食べるんだぞ」周りの人達はハラハラしている。

そのうちに園長達先生も教室から出てきた「何事?」

「こんな生意気な配達が来るところなんか出入り禁止だよ!明日から違うパン屋でとるからね」

おれは『こっちから願い下げだ!』と言う言葉と、寛吉になんて言ったら良いんだの二つが出てきてモゴモゴした。


戻った後寛吉に「給食のおばさんを怒らせた」と顛末を話した。

寛吉はみるみるがっかりしていく。

「給食のおばさんが出入り禁止にするなんて行き過ぎだ。なんの権限があるんだ」俺はまだ腹が立っていた。

「あの保育園ではな、調理場のおばさんの方がキャリアも長くて偉いのさ。園長も気を悪くさせないようにしているぐらいだしな」

俺が黙って首を項垂れてると

「謝ってこい」と寛吉が促した。

「いやだよ」

「お前は悪い奴じゃねえ、謝り方を知らねえだけなんだよ」

「おっさんが作ったパンをあんな雑に扱うなんて、それを食べる子供達も可哀想だろ」

「まあな、だけどうちのパンじゃなきゃダメなんだよ」

「何で」

「そりゃあな、あんな小さな頃に食べたパンを大人になっても覚えてるもんだからだよ。だから安心安全な物でなきゃダメなんだよ」

なんだか自分のパンが世界一みたいな言い回しだが、確かにおっさんのコッペパンは美味いし、材料にも気を配っている。

それに給食のパンって結構味を覚えてるよな。

「記憶に残るパンは美味しいものであって欲しい」俺は悟った。

「だろ?だから行ってこい」

そう言われると仕方ない、俺はイヤイヤ自転車を漕いであの保育園のチャイムを押した。

「はーい」インターホンから声がする。

「あの、パン屋です、矢野屋です。給食室に用があります」

「ああ、今朝の。今開けますね」

カチャッとドアの鍵が開いた。

閉じるとまた自動で鍵がかかる。俺は後ろのカチャッという音に押されて、園庭を歩く。

今はお昼寝の時間なのか各教室のカーテンが閉まっている。

調理場への道をスリッパに履き替えてノロノロ歩き出した。

「あの」

調理場の人達は忙しそうに洗い物や片付けをしていた。ボスと目が合う。

「なんだい!出入り禁止って言ったろ!」

ボスが前のめりに言った。

俺は謝りたくないけど、おっさんの顔を思い出して謝るまで帰れないのでじっと立っていた。

「矢野さんが謝ってこいって言ったんだろ」おばちゃんは廊下に出てきて俺の前に立った。

俺は頷いた。

「あの、すんませんでした。おっさん、朝早くからここのパンを準備してて、何時間もかかって安全安心な物をここの子供達の為に作ってるんで、それで、それを知ってるからカッとなったんです」

そう

「はーい」インターホンから声がする。

「あの、パン屋です、矢野屋です。給食室に用があります」

「ああ、今朝の。今開けますね」

カチャッとドアの鍵が開いた。

閉じるとまた自動で鍵がかかる。俺は後ろのカチャッという音に押されて、園庭を歩く。

今はお昼寝の時間なのか各教室のカーテンが閉まっている。

調理場への道をスリッパに履き替えてノロノロ歩き出した。

「あの」

調理場の人達は忙しそうに洗い物や片付けをしていた。ボスと目が合う。

「なんだい!出入り禁止って言ったろ!」

ボスが前のめりに言った。

俺は謝りたくないけど、おっさんの顔を思い出して謝るまで帰れないのでじっと立っていた。

「矢野さんが謝ってこいって言ったんだろ」おばちゃんは廊下に出てきて俺の前に立った。

俺は頷いた。

「あの、すんませんでした。おっさん、朝早くからここのパンを準備してて、何時間もかかって安全安心な物をここの子供達の為に作ってるんで、それで、それを知ってるからカッとなったんです」

初めて人に謝った。

「おっさんは言ってました『人によってはパンを物と思ってる者もいる、一旦渡したらこっちはどうこう言えねえのさ』そう言われました」

そう言って俺はおばちゃんの顔をじっと見た。できるだけじっと見た。

おばちゃんはバツが悪そうな顔をした。

「あの人はね、昔はもっと元気だったんだよ。子供を亡くしてね。それ以降もここに通って子供達の姿を眺めてたよ。嬉しそうな次には悲しそうな顔をするのさ。もう何年もそうやってたんだよ。あんたちょっとは矢野さんの事がわかってるんじゃないか。さっきは他の業者にするって言ったけど、せっかく謝りに来たんだから帰って『やっぱり矢野屋のパンが一番だ』って言っておくれ」

「うん」

「園長には私から言っとくよ」

俺はぺこっと頭を下げて帰った。

帰ってきて店の前に自転車を停めた。

店の前の暖簾に書いてある矢野屋の文字を見て「あっ」と思った。

「矢野屋の矢野!」やのやのやのって寛吉の事だったんだ。

俺はちょっと笑って中に入った。

「機嫌良いじゃないか、上手くいったのか?」

「うん、また矢野屋のパンにするってさ」

「そうか」

それ以降この話はしなかったが俺も寛吉の調子が良くない日や雨の日は配達する事にした。

しばらくはそんな日が続いた。

俺は出来ることが増えて来た。

今では粉に水を混ぜるとグルテンという伸びたり粘ったりするものができるし、酵母を入れると発酵しだす。そんな事もうっすら分かってきた。

そしてロールインとはバターのシートをクロワッサンやデニッシュの生地に挟んでシーターとかパイローラーとかいう機械で伸ばす事だ。

「見とけよ」

「うん」

「生地の硬さとバターの硬さを揃えろよ」

「うん」

寛吉は伸ばした生地にバターを挟んで伸ばし、それを折りたたんで向きを変え薄くなるまで伸ばした。

「こんな感じだ」

俺は生地にバターを挟んで下にある足踏みスイッチを踏んだ。

生地はガーッと言う音と共にそのまま下に落ちた。

「あ」

「何やってんだ、足踏みから足を浮かさないとそのまま動かした方向にグルグル回るんだ」

「知らなかったな」

もう一度やり直し。

俺は生地にバターを包んで、シーターを動かした。

生地は右に左に動く事に薄く伸ばされて行く。

それを2人で見ながらちょっと不思議な気持ちになる

「なんで怒んないの?こんなに失敗してるのに」

「お前はまだ若いんだ、失敗してもまた取り返せるってもんよ。取り戻せない様なことはまだ起きてないだろ」

「うん」


練習を繰り返す日々。

俺は多少進歩して、ある時ついに大発見をする。いや詳しくは人様がとっくに発見してることなんだが。

ひとつ目はついにバゲットのカットが上手く出来た事。

寛吉の言う通りカミソリの刃を傾むけて等間隔にリズムにのって切る。

すると見本の様なバゲットが「出来たーー」俺は両手で高々と掲げた。

「上手く出来たな」と寛吉も言ってくれた。

何だか嬉しそう。

ふたつ目はグルテンと発酵の事が分かった瞬間。

「イーストがガスを作って、パンの骨格を支えるグルテンってやつが気泡を作って、そのどっちもが上手く行ってはじめてちゃんとしたパンになるんだ」俺はケースの中の生地がどんどん大きくなってよく見ると気泡が大きくなって行くのを見つけた。そりゃ前から寛吉にグルテンの説明は聞いてたけど、気泡の事は気づいてたけど。

今日この日改めて分かったんだ。

「そうだ、伸びやかなグルテンの気泡に炭酸ガスとアルコールが作られて生地を膨らませる」と寛吉。

「その為に俺が条件を整えて捏ねてやらなけりゃならないんだ」俺は納得した。

「そう」

そうなってからは俺はパン作りが面白くなって行く。

色んな種類のパンがあって作り方があるんだ。

俺は様々な疑問が湧いて出て毎日寛吉に質問を続けた。

寛吉は嬉しそうだし、またいつもの様に寂しそうでもあった。

月曜日

俺は配達に行くところだった。

信号の所に自転車を停め青になるのを待っていた。

突然誰かが腕を掴んだ!俺は廣記と思って「うわ!」と叫んだ。

「光太郎、探したわよ」

「あ、母さん、何で?」

「ずっと探してたのよ。ここら辺で見かけたって人がいてね」

そうなんだ、油断は禁物。

「今どこにいるの?」

「母さんこそ今どこにいんの?」

「隣の街で藤縄って人と住んでるんだよ。お前を迎えに何度か来たんだけれど、あの男が乱暴でね、未だに離婚届に判を押さないしね」

「廣記の奴か」

「お前がどこにいるのか聞いてたから気をつけてね、これ私の連絡先」

連絡先を受け取る。

俺はスマホも持って出て来なかったので、電話は納品書に押してあった判子を見て矢野屋の番号を教えた。

「藤縄さんは良い人だから今度紹介するよ」

その言葉は廣記の時にも聞いた気がする。

「いやいいよ、俺配達の途中だからもう行くね」

母親は何度も俺に謝って帰って行った。


俺は寛吉に母親の事を話した。

「母親と一緒に住まねえのか」

「もうすぐ十八だし、俺ここで働いてるし」そう言いながら寛吉との約束は矢野屋閉店のその時までというのを思い出した。日々は早く流れ、いつの間にか半年が過ぎている。

寛吉も俺も閉店のその日の事は口にしない。

寛吉が楽なように力仕事や焼成は俺がやり、重い食パンの型は俺が用意する。


寛吉はよく晩酌の時つい飲み過ぎて食卓で寝てしまう事がある。

秋になり夜は寒い、俺は寛吉の部屋に布団を取りに行った。

ニ階には部屋が三つある。電気をつけて押入れのある部屋から布団を出す。

箪笥の上に目をやると、古い写真立てが置いてある。

寛吉と奥さんと小さい子供が店の前で写ってる写真や子供一人の写真だ。

若い頃の寛吉は今と違ってなんて言うのか輝いてるし勢いがある感じだった。

「家族が亡くなって一人になったんだな」

本棚のアルバムを探して勝手に開く。

子供の生まれた時の写真だ。命名翔太と書いてある紙と並んでいる子供の写真がある。翔太って言うんだな。色んな思い出を作りに色んな所に行ったんだ。ちょっと羨ましい。一歳の誕生日ケーキは大きいのを作ったんだな。俺はページをめくった。

だけどアルバムはそこで終わってた。

俺は一階に降りて寛吉に布団を掛けて、自分も布団に入って考え事をした。寛吉の辛い思い出について想像を巡らせたり、母親の離婚届の事、アパートに置いてきた俺のスマホや財布の入ったバックパック、いつまでも隠れ住んでる自分の事なんか。

寂しい寛吉の為に何かできないかな、でも俺がこんなに引きこもってたらダメな気がする。

「俺はひょっとして廣記と対決しなきゃいけないんじゃないのか」あんな奴と戸籍が繋がってるなんて冗談じゃない。だけど廣記の所に行って捕まったら元も子もないしなあ。

「対決か」

これを克服しないと俺は自由になれない気がする。遠くに逃げても追いかけてくるんじゃないかと心配だし。

生地を伸ばす長めの麺棒を背中に仕込んで行くかな。窮地の場合はそれで反撃だ。



火曜日の休みの日、寛吉に「俺は自分に決着をつけなきゃだめなんだ」と言って出かけた。

本当に背中に麺棒を入れて上着を羽織る。

もう夕方だ。

廣記の部屋に灯りがついてるのを確かめて安アパートの階段を音を立てずに登る。

廊下の小窓を少し開けて中を覗いた。

テレビの音や人のいる気配がする。

俺の心臓はうるさいぐらいドキドキと音を立てている。

入り口のドアの取手を回すと鍵はかかっていない、俺は静かに中に入った。

靴はいつでも逃げられる様に履いたままだ。

手が震える。

廣記は俺に背を向けてテレビの方を向いている。

今だ!俺は麺棒を振り下ろした。

「うわ」咄嗟に廣記が転がって横に逃げたので俺は麺棒を座布団にドスンと振り下ろす事になった。

「何しやがるてめえ!」

「おい!さっさと離婚しろ」俺はもう一度麺棒を構えた。

「離婚届を出せ!サインして印鑑を押せ」

「クソガキが!お前に指図はされねえ」廣記が語気を強めた。

仕方ない、俺はテーブルを思い切り叩いた「ガチャーン」という音が響く。

その時廣記が俺の腹にタックルしてきた。馬乗りになって殴りかかってくる。これじゃ前と同じじゃないか。そう思ったが、あれ?俺は廣記の手首を掴んだ、廣記は振り払おうとしたがビクともしない。俺の手はいつの間にか毎日のパン焼き生活で相当鍛えられたんだ。

腕と胸の筋肉が発達した。特に指の力が凄い。

廣記の手を捻ってギューっと押さえつけた「イタタタ」廣記が間抜けな声を出した。

耳元で言ってやった「俺は負けないぞ!早くしろ!」首根っこを掴んで離婚届を引き出しから出させた。

「早く書け」ほんと早くこいつと縁が切りたい一心でここまできて良かった。

書く寸前廣記がまた暴れ出した「しつこいな」もう一度首根っこを左右に振った「分かった、書くよ書く」字が震えている、俺も震える声を悟られない様に「今度会ったら叩きのめすからな」と耳元で凄んだ。

俺の鞄は箪笥の隙間に挟まれたままだった。中を覗くとスマホが見えた。

よし!これでもう用はない。部屋から出て行く瞬間が一番怖い。

俺は廣記の目を睨んでドアを閉めた。そして急いで階段を駆け降りる。

離婚届を握りしめて俺は走った。

今度は追いかけてこない。

俺は徐々にスピードを緩めて歩き出した。

夜の風を久しぶりに感じながら「自由だ」と呟く。


矢野屋に逃げ込んでからの寛吉の神のような対応にどんな感謝をして良いのやら。

俺を拒んだりせず何でも受け入れてくれてたな「仕事でもミスしまくってたしな」とりあえず全部言われた通りにするよう努力はしよう。

いやいやそれ以上のことって何かな。

それはおいおい考える事にする。


息が整ってきたので母親に電話して今日の事を伝えた。

「ありがとうね、置いて出て行ったりしてごめんよ、許してね」

「もう良いよ、怒ってねえし」

俺は日々更新してる所なんだ、楽しいんだよ。



矢野屋の裏口に灯りが漏れている「ただいま」

「お、帰ってきたのか」寛吉は驚いて俺を見た。

「あ!ひょっとして戻って来ないと思ってた?」

「まあな」寛吉はちょっと嬉しそうだった。

「そんなに飲んだら明日起きられねぇよ」やけ酒中だったのか酔っ払った寛吉にそう言った。

そして外出中何をしてたか寛吉に話した。

寛吉は俺の話を聞きながら「そうかい」「そうかい」と相槌を打っていた。


ーーーー


俺は間光太郎から母方の姓になった、大河光太郎だ。なんか漫画の主人公みたいなカッコいい名前だ。早く廣記の苗字から開放されたかったので慣れない名前でも構わない。

寛吉は俺に本格的にパン作りを教え出した。寛吉の知ってる理論や技術を。

特にこうすると何故こうなるのかを順に解説してくれて分かりやすかった。

俺は液卵塗りが綺麗に早くできる様になり、バゲットのカットがうまくできる様になった。足し水を上手く理想の固さにできる様になり、パイローラーだって上手いもんだ。

保育園に配達に行くと相変わらず子供達が「やのやのやのは?」と語呂を面白がって言ってくる。

「俺のことはやのやのこうちゃんと呼んでくれよ」と子供達に言ったのでみんなで大声で「やのやのこうちゃーん」と呼んでくれた。それを調理室のボスがニコニコして見ている。

「まいど」俺は頭を下げてパンの箱を台の上に置いた。

最近は箱の中のパンはこのままで前回の箱を持って帰って良いということになっている。

「はい、こんにちは。あんた随分しっかりしてきたね。矢野さんも嬉しそうにあんたの事を話してたよ」

「なんて言ってた?」俺は聞きたい気持ちを抑えられない。

「一生懸命やってて可愛いってさ」

「はあ?」と言ったが悪い気はしない。

「顔立ちもしっかりしてきたね、頑張んなよ」

「うん」

寛吉が俺を可愛いってさ、照れるが人からそんなことを言われたのは初めてだ。

「悪くない気分」


帰り際自転車を走らせていると「矢野屋の人だね」と俺を呼び止めた真面目そうなスーツの男がいた。

「私はそこの商工会議所の者です。君のいてる商店街の近くにあるんだよ」

「はあ」俺はその男に名詞を貰った「和田さん」人から名刺を貰うなんて生まれて初めての出来事だ。

「ちょっと寄って見て行かないかい?昔の商店街の写真展をしているんだ」

「うん」

俺と和田は商店街の空き店舗を利用したオープンスペースみたいな所に行った。

「この商店街もだんだん空き店舗が増えてきてね、君みたいな若者がもっと集まって商売をしてくれると良いんだけど」

「うん」俺は生返事をして写真をぱっと見て帰るつもりだった。


昔からの商店街の写真が展示されている。

右からぐるっと明治、大正、昭和、平成、令和と順に並んでいるみたいだな。

「ほら、これ」と言って和田が指差した写真は矢野屋のある通りだった。

客の相川ってお爺が写ってる「若いな、大工だったのか」矢野屋の写真もあった「あ!おっさん」俺は寛吉の写真を見つけた。

その写真は店の前で職人四・五人で立っていて真ん中が寛吉だ。

「若いしイケメンだな寛吉」自信と若さに溢れた表情をしている「今と全然違う」

和田が「矢野さんも君が来てから元気にやってらっしゃるようで安心しました、まだまだ頑張って頂かないと」と声をかけてきた。

「うん」俺がいたらまだ矢野屋を続けるかな、若返る訳じゃないけど俺の頑張りで。

俺は和田に「何か困った事があったら相談に来て下さい」と言われる。

「うん、俺帰るね」



ところが矢野屋に戻ったら寛吉が意外なことを言い出す。

寛吉と並んで座って待っていた四十五ぐらいの見知らぬ男に俺を紹介している「こいつが光太郎だ」

「え?」

「どうも、ブーランジェリーケイの嶋田慶太です」

「はあ」なんだこいつ。

「おい、そろそろうちは卒業だ。お前は自由の身になったんだからもっと大きい人間になれ」

すると嶋田が「うちに来たら大きくなるってのは責任重大じゃないですか」と寛吉に言った。

「まあな、頼んだぞ」

「え、何のこと?俺はどうなるの?この人の所で働くの?」

「言っただろ、ここはもうやめようと思ってるってな、だからここに居てもしょうがねえのさ」

「うちに寮がある、そこに引っ越して来たら良い」

「まだ行くって言ってねえじゃん」とは言え矢野屋にはもういられないのか。

「今度の日曜日に迎えに来ます」そう言って嶋田は帰って行った。

「まあ、そういう事よ。それとも母ちゃんの所に行くか?」

「嫌だよ、俺やっとここで頑張るつもりになったのに」

「まあな、一度嶋田の店を見せてもらうと良い、考えも変わるって。それとな、お前はいい奴だが礼儀作法が全く出来てない。はい、ありがとう、すみません、お願いします、おはようございます、失礼します、なんかがお前の口から出てきたことなんか1回もない。練習してみろ」

「うん」

「うんじゃない『はい』だ」

なんと挨拶の練習をさせられる。カッコ悪いが仕方ない。

「はい」

ありがとうな寛吉

ブーランジェリーってパン屋の事なんだ「知らなかったな」

嶋田の店は明るくて広くてパンが店中に並んでいる。店の人が四人、作業場に六人働いている。

「矢野のおやっさんは光太郎が心配で俺に預けようとしてるんだよ」

「え?心配?」

「そう、このまま育って欲しいんだよ。自分から離れた後の事を気にしてるんだろうな」

「うん」

俺は作業場を見せて貰う「カッケー」

かっこいい製パンの機械に囲まれて次々焼けてくるカッコいいパン達。

そして矢野屋とは違うオシャレなお客達が店内に沢山いて、それぞれトングとトレーを手に持ち、買う気満々でパンを端から順に持ち切れなくなるぐらい盛りに盛ってレジに到達する。

俺にとって初めて見る風景ばかりだ。嶋田が俺の背後に立って「どうだい、良い感じだろ」と言ってきた。全くその通りだ。


その後寮も見せて貰う。何と嶋田の建てたワンルームマンションで俺だけの部屋にはミニキッチンや風呂もある「良いなあ」最高だ。

「どうだった?」嶋田が俺に聞いてきた。

「うん」俺は頷いた。

「そうか、じゃあ帰ったら準備して」

「えっ」随分早いな。

とはいえ大した荷物もない。

その日の晩は寒くなった。

こたつで晩酌している寛吉に聞いた「矢野屋はいつまで営業?」

「さあな、そのうちな」

「じゃあ俺もその日までいていい?」

「お前は嶋田の店にいてもっと色々見てこい。その後自分の人生について考えろ」

人生だって、廣記と母親が一緒になった時もその前の父親の時も俺には未来なんて無かったのに、急に広くて見晴らしのいい所に来た気分。

「うん」

その日の晩酌は一層酒の量が増えていた「あんまり飲むなよ」

「そうだな」とか言いながらまた酒を注いでいる。

「あの嶋田って人はおっさんの弟子?」

「八年間ここで働いてたんだ、それより五歳若い岩井もそうだ。今日ブーランジェリーケイに岩井もいただろ」

「そうだっけ」

「ここができた当時は職人が沢山いてな、そいつらはみんないいパン屋になってるよ」

「へえ」あの写真の奴らもそうなんだと俺は思った。

「ま、昔の話よ」

それ以降は寛吉は奥さんとニ人で細々と矢野屋をやってたんだ。

「またそんな所で寝て、風邪ひくよ。今度から布団をかける奴は居ないよ」

こたつに足を入れて寝ている寛吉に布団をかける。

静かな夜だった。

ーーーー


俺は今度はブーランジェリーケイの見習いになった。


ブーランジェリーケイの社長は背の高い嶋田で、その次に偉いっぽいのが岩田だ。

 

矢野屋と違って出退勤の時間や休みの日が決められている。

「せめて10分前には来いよ」岩井に言われる。
「はい」俺は寛吉に教わった礼儀の言葉をパターンに分けて繰り出していった。

「大河さん、ここに置いておきます」の時は「ありがとうございます」

「書類書いて来ましたか」の時は「お願いします」と言って渡すなど。

毎日これだけで生きていけるんじゃないか?

帰る時は「失礼します」

寛吉のお陰で礼儀はまあまあ、そして仕事では大量に何かを作り続けるのは苦手だけど『色んな事の基本が身に付いてる子』と言われている。

とはいえ新しく覚える事は山ほどあって毎日があっという間に過ぎて行く。

以前との違いは例えばここではカレーパンはドーナツ用の網に乗せて揚げるので途中で勝手に裏返ったりすることは無いとか、一人で全ての作業をやるのではなく色んな人が分業でやるとか、食パンはお店の人が切ってくれるとか、そういう事が色々ある。

今頃寛吉はどうしてるんだろう、そう思う間隔が長くなっていく。

矢野屋はもう閉じてしまったのかな。
日々覚える事やできる事も増えてあっという間に次の日が来る。

五月中旬

ブーランジェリーケイは世間のお盆休みが過ぎた頃、連休をとって従業員達の中の希望者何人かでキャンプに出かけた。

俺は大自然とかキャンプとか初めてでテンションが上がる。

嶋田の車と岩井の車に五人ずつ分乗して湖のほとりのキャンプ場に到着。

湖より一段高い所で、大きな木の陰にテントを張る。

テントは男子用と女子用の二手に分かれるが俺は嶋田の仕切りで二つのテントの設営を手伝う。グラウンドシートをしっかり広げて固定したり、言われるがままにポールを通してピンに差し込んだり、60度の角度でペグを差し込んだりする。

作業の合間時々湖に目をやる、とにかく景色がいい。
嶋田が「夜は星空も綺麗だぞ」と言っている。そう言われると楽しみだ。

その前に夕食だ、バーベキューなんて初めてだ。

俺は肉を焼く係。

焼けた肉を網の端に置くといつもお店で働いている岬文代が皿に乗せてみんなに持っていく。

いい匂いなので皿を貰って自分の分ものせる「岬さんこっち来る時焼肉のタレ頂戴」

「いいわよ」俺の皿にタレを注いで箸も持ってきた。

「まだ食べてないだろ?これあげる」俺はその皿と箸を渡した。

「ありがとう、じゃあ私もお箸を持ってくるから2人で食べよう」

「うん」ありがとうっていい言葉だな。

俺は肉を焼いたり一つのお皿で一緒に食べたり文代の後姿を見たりと忙しかった。

片付けの後、本当に星が綺麗だった。


その後で嶋田と岩井はテーブルを囲んでビールを飲んでいる。

「おい大河、ここに座れよ」

「はい」

俺は真ん中に座った。

二人は夕方からずっと飲んでいて酔っ払っている。

「大河の仕事を見てると矢野屋を卒業した頃の自分を思い出すなあ」

「俺もです嶋田さん、根気よく仕込んでますよね」

「おっさん元気かなあ」俺も寛吉を懐かしく思い出す「よくヤケ酒みたいになってそのまま寝てました」

その時ニ人は顔を見合わせたんだ、それで急に何か言いたそうにした。

「大河、お前に言わなきゃならない事があるんだ」

「酔っていう話じゃないけど今なら言える」

二人は交互に話し出した。

何だろう?俺はじっと聞いていた。

嶋田が先に話し出した「あれは十八年前の冬。俺は矢野屋で修行して八年、岩井はまだ入ったばかりの見習いだった。寒い日が続いていてインフルエンザが大流行していたんだ。おやっさんの一人息子翔太ちゃんも感染して高熱が出ていた、そして俺もその時高熱が出て休んでいた」

岩井がその続きで話す。「翔太ちゃんは少し熱も治ってきていて薬を飲んで安静にしていれば治ると医者に言われてた。その日は店を開けていて、奥さんは奥の部屋に寝ている翔太ちゃんの様子を見に行っていたんだ。景気の良い時代で店は大忙しだった。奥さんは店番をしながら心配そうに何度も翔太ちゃんのいる奥の部屋の方を振り返って見ていた。間の悪いことにお客さんが数珠繋ぎで途切れなかった。寛吉さんもオーブンが詰まってて手が離せなかった」

「翔太ちゃんは吐いたものを詰まらせてね」嶋田が思い出して泣きながら言いにくそうに言った。

「あの時俺がもうちょっとできる奴だったらあんな事にはなってなかった」岩井も泣き出した。

二人は随分自分を責めている様だった、そして乾吉が一番自分を責めていたんだ。何年もの間。

あともう少し、もうちょっとって思ってるうちに手遅れになったんだ。その後あのアルバムは途切れたんだ。

「おやっさんがパン屋を辞めたいって気持ちわかるぜ」嶋田が俯いて言った。

「だけど矢野屋のお客さんの為に細々と続けて来たんだ。翔太ちゃんのことで奥さんに何度も謝ってたよ、でもその奥さんも何年か前病気で亡くなったんだ」

「あの時は本当に申し訳なかった。そう思うとなかなかおやっさんに会えなかったのに向こうから連絡くれたんだよ。大事なものを託すってな」

「大事なものって俺の事か!」

俺は椅子を後ろに倒して勢いよく立ち上がった。無性に寛吉に会いたい「帰ったらおっさんに会いに行ってきます」

「分かった、おやっさんによろしくな、それからおっさんはやめろよ」二人は俺を見上げながら注意した。


キャンプの帰り際、文代に「ねえ、昨日なんでオーナーと岩井さんは泣いてたの?」と聞かれた。俺達は番号を交換して帰る道中別々の車の中でずっとメッセージをやりとりして経緯を伝えた。

全て文にして俺は最後に本心を書いた『俺は矢野屋に戻ろうと思う』

別に嶋田の所で働くのが嫌じゃない、矢野屋が俺のホームグラウンドなだけなんだ。

で、文代の返事が「もう会えなくなっちゃうの」だった。

これには車内にも関わらず「えっ」と顔を赤らめる。

文代と離れがたくて戻ってからもファミレスに行って今イチオシとか言うパフェを食べた。

何時に寝てるのとかどんな食べ物が好きとかすごく他愛も無い話を何時間もして俺はその間ずっと文代の笑顔に釘付けだった。



帰り際、文代の家のすぐ近くまで来た。

「俺明日矢野屋に行ってくるよ、この先の話をしないと」

「うん、そうだね矢野屋さんの話も聞かないとわからないもんね」

その時後ろから咳払いが聞こえた。

振り向くとスーツ姿の男がこっちを見てる。

「お父さん」

「文代、誰と話してるの」ちょっと厳し目の言い方だ。

「俺、これから文代と付き合う予定の大河光太郎です」と咄嗟に本心を言っちゃた。

「大河君」

「文代は驚いてるじゃないか、今思いつきで言ったのか知らないが君はちょっと短絡的なんじゃないか」

「思いつきじゃありません、ちゃんと話したのは昨日初めてでけど、文代の明るい笑顔と優しい接客態度に好感を持ってました、やっぱ人となりは伝わると思います」

「昨日初めて話したのに交際は早いだろう、文代は大河君をどう思ってるんだ」

「私も」父親の前で中々恥ずかしそうだけど「私も大河君とお付き合いしたいと思ってる」と俺を見て言ったてくれた。

「うむう」お父さんが悔しそうに唸ったので「交際の先は、俺が一人前になって迎えに来ますから待っていて下さい」と言ったら「待ってろと俺に言ったのか!何故俺が待っていないといけない!」とキレてきた。

話が変になっったが「兎に角、俺は明日大事な話があるんで行ってきます。俺を信じて下さい。文代、また連絡するね!」俺は文代に手を振ってから父親に頭を下げて「失礼します」と寛吉仕込みの挨拶をした。

次の日

俺は矢野屋の近くに戻ったが一旦商工会議所にいた和田に会いに行く。それでどうやったら1番良いのかを聞いてみる。

「久しぶりですね大河さん。お客さんの要望もあって矢野さんはまだパン屋さんをお続けになっていましたよ。しかし近いうちに本当に閉店するらしくてね」

「えっそうなの?」俺は間に合ったと思ってホッとした。

「で、最近の取り組みではこんなのがあるんです。私は君にあったらそれを言おうと思っていてね」

和田に聞いた一番良いアイデアを聞いてすぐ矢野屋に走って行った。

途中でいつも矢野屋に買いに来ていたお爺が歩いているのを見つける「相川のお爺!」俺は手を振った。お爺は矢野屋のパンの袋を持っていた。

「あ!矢野屋の見習いじゃないか、閉店の知らせを受けて来たのか?」

「俺には日にちは教えてくれなかったよ」

「とうとう今日閉めるって言ってだぞ、俺もさっき行ってきたんだよ。寂しくなるなあ、俺はこれからどこでパンを買えば良いんだい」

「えっ」俺は叫びながら走った。
「待ってくれ」

寛吉は丁度シャッターを閉めている所だった。勢いよく中に滑り込んでショーケースにぶつかった。

バーーーン

寛吉は「うわ」と叫んだ「お前か、びっくりさせるなよ」

「やめるのはちょっと待って」

「前から言ってあっただろうが。そんな事より嶋田の店はどうだ、勉強になるだろ?」

「勿論勉強になったよ。そんな事って何だ、ここは俺が引き継ぐんだからな」

「何を引き継ぐだって?」

「だからそれがあれだよ」

「事業承継ですよ」後から自転車で追いかけてきた和田も飛び込んで来て言った。

「矢野さん、経営者の高齢化で従業員や他社に事業を承継するケースが多くなって来ています。実際この商店街も検討中の経営者が多いですよ。中には探しても結局見つからずに断念する店舗もあります。こんな熱意を持っている若者が街を活性化すると私は思います、だから追いかけて来ました」

「そんな事言ったってまだ若すぎるだろう。こいつはもっと色んな勉強をしなきゃ一人では無理だよ」

「俺に作業場と店の二間だけ引き継がせてくれよ。おっさんは裏に住んでるんだから俺のコーチをしてくれなきゃ。俺はおっさんと知り合って本当に救われたんだよ。ここのパンを無くさずにお客さんに食べて貰いたい。本当はパン作りが好きなおっさんの意志を継いでいきたいんだ」

和田が頷きながら「それですよ!『事業所の経営理念を引き継ぐ』のが事業承継の基本理念です。そして事業の発展を目指すんです」と助け舟を出してくれる。

「おっさんは俺に言ったよな『お前はまだ若いんだ、失敗してもまた取り返せるってもんよ。取り戻せない様なことはまだ起きてないだろ』って、きっとおっさんは俺を見守り続けていってくれる」

「全くお前って奴は厚かましい野郎だ、和田さん、こいつはパッと懐に飛び込んでくるんですよ、だからつい甘やかしてしまう」

「矢野さん、こうしましょう。大河君が他で経験を積んで戻ってきたら認めてあげるというのはどうですか」

俺は寛吉に顔を近づけて言った「俺の事『大事なもの』って言ってくれたんだろ」

寛吉は観念したように言った「まあな」

寛吉は心配しつつも俺の為にもう少し営業を続けてくれる事になった。

その後和田に「承継するなら寛吉さんに保証をしてあげる為に金を貯めておきなさい」と言われる。

そうかそりゃそうだよな!「知らなかったな」俺って厚かましいな。



ーーーー

三年後の春


俺はちゃんと嶋田の所で色々覚えた。
まだまだ頼りないけど、コーチと一緒にまた頑張るつもり。



そして今日俺は俺のファミリーとホームグラウンドへ帰る。

おわり

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