flowers in my heart

今日は鴨似田フーズの創立30周年のパーティーだった。
NNホテルの豪華な会場に所狭しと鴨似田フーズの商品で作られた料理の数々が並べられ、招待客達は舌鼓を打っていた。
藤岡は兼ねてからの鴨似田夫人の念願だった『立食パーティーのサンドイッチコーナーで給仕をする』為に立っていた。客の希望のサンドイッチやタルティーヌなどを皿に取り分け渡す、その時笑顔がご希望だそうなのでニコッと笑って商品の説明を加えてから渡す決まりだ。
本来なら絶対やらないが、前回鴨似田夫人に助けて貰ったので今度はお礼に笑顔を振り撒きに来たのだ。
振り返ってみれば過去には俺ももっと爽やかな笑顔を自然にしてたものだ。パンロンドに就職した頃、立花さんを探す為に探偵に頼んだら結局見つからず料金だけ取られて頭に来て自分で探す事にしてパン屋巡りを始めた。自分でもその頃から険のある表情になって来たと気がついていた。
交際中の由梨の優しさと明るさのおかげで最近は笑顔が元に戻りつつあると思う。
会場で写真を撮って回っている歩田がさっきから藤岡の写真をバンバンに撮っている。きっと鴨似田夫人の命令だろう。
同じ会場にリーベンアンドブロートの大坂がいた。修造に頼まれて、周年記念の祝いの品を持って来たのだ。
「この度はおめでとうございます」受付で祝いの品を渡して帰ろうとすると、世話係の兵山に呼び止められる。
「リーブロの大坂さん、折角来られたのですからゆっくりして行って下さい」
「え、俺を知ってるんですか?」
「はい、江川さんの助手としてテレビに出てましたよね。見てましたよ」
「ありがとうございます。じゃあ折角だから少しだけ」
さあどうぞどうぞと会場に案内される。
普段着で着ているし居心地悪かったが、美味しそうな料理を見ているうちに気が変わり、ローストビーフや伊勢海老のグラタンを食べながらまだ何か食べようかななどと会場を見回していると、凄いイケメンがサンドイッチコーナーにいて、マダムがその周りを囲んでいる。
イケメンは皿を渡す時にいちいちマダムに言葉を掛けて笑顔を向けていた。
「あっ!あいつはあの時の、、」
大坂は思い出した。
笹目駅前のカフェで立花と話していて店から出て来た奴だ。
「超絶イケメンがなんでこんな所に」
大坂はコーナーの後ろから藤岡に声をかけた。
「あの、ちょっと話があるんだけど」

藤岡はまったく知らないこの男が自分の事を知ってる風だったので驚いたが、何故か話を聞かなければならない気がして少し離れた窓際にいざなった。
「君は誰?俺の事を知ってるの」
「俺は修造さんの店で立花さんと働いてる者だ」
「え」藤岡は立花の名前を聞いて身体が硬直した様になった。そして思い出した。江川の助手として先日テレビに出ていた男だ。江川となら分かるがあえて立花と言ってきたのは何故なんだろう。
「それで?」
「あんたと笹目駅のカフェで別れた後、あの人泣いてたんだよ、あの人はあんたの事を愛してる様だった」
「なんでその事を知ってるの」
「偶然店から出て来たところを見て」
藤丸パンの事、結婚の事、新生活の事、今はやる事が沢山ありすぎて毎日が目まぐるしく過ぎていく、過去の事はドンドン後ろの方に流れて行って正直分からなくなって来ている。
「俺は今いっぱいいっぱいで」
「だからあの人の事を思い出さないってのか」
「本当に申し訳ないけど、俺はもうあの人を忘れなくちゃならない、それに」
何故この男はこんなにムキになってるんだ。
「今は君がいるだろう」
付き合ってるわけでも無いのにそう言われて大坂は憤りと恥ずかしさが混同して顔が真っ赤になった。
「俺にはわかるんだ、あの人の孤独が透けて見える」
「原因は俺なのか、だったら何故消えたんだ」
「それは」
「知ってるなら教えてくれないか、本当の事を。あの人が消えてからあちこち探した。そうこうしてるうちに俺は顔つきまで変わってしまった。今思えばあの時の俺は心がカスカスしていた」
「そうだったのか」目の前にいるイケメンが立花をなおざりにして来たとずっと思っていたので急に大坂は黙り込んだ。
それに本当の事は自分にも分からない。
その時、サンドイッチコーナーから並んでいたマダム達が呼ぶ声がした。
「ごめん、もう戻らなくちゃ。教えてくれと言ったのは忘れてくれ。あの人を頼んだよ」
大坂は帰る為にエレベーターに乗り下に降りた。
「なんだ頼んだよって、お前に言われなくても俺に任せろってんだ、俺がいるってんだ」自分でそう思いながら虚しい。
大坂の足取りは重かった。
気温が上がり、リーベンアンドブロートのテラス席の横の花々は色採りどりに咲き乱れている。
リーベンアンドブロートに2度目の夏が来ようとしていた。
江川は2階に上がって経理でパン職人の塚田と一緒に1周年記念の計画を練っていた。
「特別メニューをカフェで食べられるとか記念品を作るとかどうかな?」
「良いですね、江川さん」
「特別メニューは世界大会のパンの中から選んだら?」
「どんなのが良いでしょう、みんな食べてみたいと思います。それとカフェでなくても買って帰られるものもあったら嬉しいな」
2人で候補を紙に書き出してあれが良いとかこれが良いとか話してると修造が入って来た。
「修造さんこれ」と言ってパンのメニューを書き出したものを見せようとしたが修造はコックコートと靴を脱ぎ、ソファの真ん中にドスっと座って頭を端に反対側に足を乗せて「うぅ」と呻いて横になった。
その様子を慣れた感じで2人は見ていた。限界まで工房にいて疲れて耐えられなくなったらここで横になって休むのだ。
「お腹が冷えちゃいますよ」もういびきを書いている修造に毛布をかけてやり、ポンポンと軽くお腹を叩いた。

その様子を見ながら
「もうそろそろ年中無休はやめて週一回でも休んだらどうでしょう」と塚田が言った。
「そうだね、でもいつお客様が来ても良い様にしたいんだって」
「長い事家に帰ってないみたいだし、大丈夫なんですかね?独身じゃないんだし、そのう、奥さんが怒ってないのかな」
「どうなんだろう?怖くて家に帰れないのかしら」
「まさか」
2人は顔を見合わせてフフフと笑った。
修造が目が覚めた後、江川は岡田に頼んでアボカドとエビのタルティーヌとコーヒーを持って来て貰い修造に渡した。

食事中の修造に向かって「明日から少し休んで下さい」と言った。
「え?なんで?」
「たまには帰らないと」
「今忙しいからなあ」
「いつも忙しいじゃないですか。それに1周年記念の頃にはもっと忙しくなるかもしれないんだし、今しかないですよ」
「そうかなあ」
「それと、1周年記念のパンですが、Chrysanthemen-Campagne(菊のカンパーニュ)とdreifach geflochtenes Brot(三連編み込みパン)にしようと思っています」
「わかった、じゃあ俺の休暇が終わる頃だからみんなで頑張ろう。俺の居ない間に菊のステンシルを頼んだよ」
「はい」
ーーーー
そんなこんなで心配しながらも修造は1週間休む事にした。
帰りの車の中で色々考えた。
それはこんな風だった。
今出来るだけ頑張って貯えておかないと俺が抜けた後困るだろう。最近は江川がパン職人決定戦の番組で2位になってから江川に会いに来るお客さんも珍しくない。いつも店の中はパンでいっぱいにしておきたいけどあんな風に休んで良いって言われるなんて江川もしっかりして来たな。
店の近くの高速入り口から本線に合流して車を走らせる。

家では律子孝行に勤しんで、土日は久しぶりにみんなで長野にある律子の実家に帰るかな。お義父さんやお義母さんにも長い事会ってないし。そして途中遊園地に行くのはどうだろう。よし!俺はこの期間は家族に張り付いて離れないぞ!
高速を降りて最寄りのスーパーに立ち寄った。律子の好物を色々作る予定だ。おやきにあんかけ焼きそばにソースカツ丼に山賊焼、信州そばに牛乳パン。
「待てよ、これ全部作ったら多分叱られるな。とりあえずあんかけ焼きそばは決定だ!カツ丼の豚肉は冷凍にできるしキャベツは他にも使えるしまあ買っとくか!」結局あれもこれもと買いすぎたが、料理していくうちに減るだろうと思い車のバッグドアを開け荷物を詰め込んだ。
しかし帰る途中で、よく考えてみると「そうだ、男の料理に対して妻がよく後片付けがなってないとか、作りすぎとか高額過ぎるとか苦情が出るのは耳にするな。俺も気をつけよう。そもそも片付けながら調理するとか基本だもんな。帰ったらまず冷蔵庫を掃除するか、いや待てよ、場所が変わったとかそれもまた叱られるから注意しよう。兎に角細心の注意を払って行動しないとな。家に入る瞬間から気をつけよう」江川に知られると「やっぱり怖いんですね」と揶揄われそうだがこっちは真剣なんだ!
と言うわけで車を駐車場に停めて荷物を持って口の端を上げる。
「ただいまーっ」
パンロンドに就職した時から住んでいるアパートは玄関を入ってすぐ右が風呂などの水場、その向かいのドアが台所、その奥がグリーンのソファとテーブルが置いてあるリビング、その右の部屋が寝室だ。家族が4人になって狭くなりすぎたがどうせ引っ越すんだからまあいいかと言うわけでそのまま暮らしている。
「あれ」
みんないないんだな。
律子に連絡してみる『帰ったよ。みんなどこ?』
返信を待ってる間に冷蔵庫の奥に新しいものをしまう。

次に台所のあちこちを気づかれないぐらいに退けて拭く「どけふき」をしておく。
「色々大変だろうなあ」
しかしこう言うと人ごと感があるのでこれはNGワードだ。
そう思いながら床を拭く。大地の食べこぼしもこまめに拭いてくれてるんだろうなぁ。
洗濯も大変だよ。
取り込んで机の上に置き畳んでみるが詳しい場所は分からない。
子供タンスの引き出しを開けては閉めて場所を探す。
続いて寝室兼勉強部屋の拭き掃除。
勉強机の教科書を閉じて隅に置く。
もう緑も4年か、早いなあ。
背も高くなって。
ちょっと感動していると『ピンコン』と音がした。
律子から返信が来た。
「おかえり修造。今日はみんなで緑のお友達の家族とバーベキューしたあとお泊まりさせて貰うの。帰りは明日になります」
「了解」と返信を送った後、気が抜けてソファにゴロリと横になる。
「そう言えば今日は土曜日か」学校も休みだし、明日は遊園地に行けそうもないか」学校があるから次の土日まで長野には帰れないんだな。
そんな事を考えているうちに寝てしまう。
夕方目が覚めた修造はふと親方に会いたくなってパンロンドに行く。
「あら、修ちゃんいらっしゃい」「奥さん無沙汰してます」と言いながら中に入り、他の職人一人一人にペコッペコっと頭を下ると「修造さーん」と杉本が手を振ってきたり他の職人たちも「修造さん」「元気か修造」などと声をかけられる。
親方の横に立つ。
「今日あれ行かないですか?」
「おっ!良いねぇ」
あれとは駅前の居酒屋で2人どちらかが飲み潰れるまで呑んで、残った方が勝ちという勝負なのだが、修造は全然酔わないのでいつも親方が酔い潰れるという会の事だ。
「修造さん、俺も行って良いですか?話したい事があります」
「おっ!藤岡も参加するか!行こう行こう」
というわけで満員で騒がしい居酒屋のテーブルを3人で囲む。
藤岡は修造に藤丸パン食品テロ未遂事件の話をした。
修造は出来事の全てに驚いて口を開けたまま聞いていた。
「杉本が協力してくれて助かりました、風花や由梨も無事連れて帰ってくれたし」
「それと、鴨似田夫人はメイクのせいなのか全然顔が違って見えた。それに若返ってたし」
「美魔女ってやつだな」
「そうなんです親方」
そこに入り口から入って来た男に藤岡が手招きした。

「初めまして、藤丸パン横浜工場長大和田です」大和田は二人に挨拶した。
「どうもね、俺はパンロンドの柚木阿具利」
「リーベンアンドブロートの田所修造です」
「今藤岡に話は聞いたよ」
「そうなんですね、私も全然気が付かずお恥ずかしいです。いつの間にか木田や足打(あしうち)が裏切っていたとは恐ろしいです。そもそも木田がメールのやり取りをしていて先に全員の取り分の20%を振り込まれたそうなんです。みんな借金があって金に困っていた連中ばかりで残りの金欲しさに実行犯になってあの様な事に」
「皆事情は違うけど金に困ってたんだなあ」親方が腕組みをしながらうなづいた。
「どこででも起こりうる話なのかなあ。知らない間に何かが蔓延してたり」
「中々分かんないもんですよね」修造と親方が目を合わせて頷いた。
「それで仲介の犯人が捕まったそうなんです」
「捕まったんですか?それもまだ仲介?その更に奥に企業とかいるのかな?」
「どうなんでしょう?実はそれも鴨似田夫人の部下が炙り出したそうですよ」
「歩田と兵山が?そんなできるタイプだったっけ?」修造はあの『ややお間抜けな2人』を思い出した。
大和田が説明した「鴨似田夫人は資産家の娘さんで、他にも有能な部下が何人かいる様です。投資専門、調査専門、不動産も実は手広くやってる様ですよ」

「へぇ、俺の調査なんて訳ないんだな、日光にも付いて来てたし」藤岡は納得して言った。
「それに」大和田が続けた。
「もしどの企業か知りたいなら本当に引っ掛かってみたら分かると言ってましたよ!冗談じゃない」
それを聞いて皆空虚な笑いを浮かべた。
「まだまだ調査は続きますね」
藤岡は気を取り直して正面に座っている2人に改めて向き合った。
「親方、修造さん、今まで藤丸パンの事を黙っててすみませんでした。俺、今回の事で反省しました。今度由梨を連れて親父に会って来ます」
「ん?由梨?」
「はい、俺達結婚する事になりました。先日プロポーズして」
「それはおめでとう」
「おめでとう藤岡」
「ありがとうございます。それで言いにくいんですが俺と由梨は同時に退職しないといけなくなって」
「由梨は家庭に入るって事?」
「いえ、横浜工場で一緒に働こうかなと思って。そうなると2人共色々と覚えなくちゃいけない事が多くて」
「ゆくゆくは藤丸パン全体を見なくちゃならん訳だな」
「はい、すみませんご迷惑をお掛けします」
「良いって事よ!楽な道のりじゃないかも知れないが大和田さんに教えて貰いながら仕事を自分の物にしていくんだな」
「これで社長も安堵なさるでしょう」
「大和田さん、よろしくお願いします」藤岡は頭を下げた。
「そう!由梨と藤岡を頼んます」
「お役に立てる様に頑張ります」
その後藤岡は言おうか言うまいか迷った挙句切り出した「修造さん、リーブロのガタイのいい、江川さんの助手をしてた奴がいるでしょう?」
「あぁ、大坂?」
「そいつと立花さんはどういう関係なんですか?」
「え」そんな立ち入った事は聞いた事ないし「知らないな、なんで?」
「いえ、なんでもありません」
「2人が何?」
「忘れて下さい」藤岡は立ち上がった。
「お、帰るのか?明日また話そうな」
「はい、修造さんもまた」
そう言って頭を下げた。
藤岡と大和田が帰った後2人は飲み比べをしてやはり親方が酔い潰れる。
「親方、帰りますよ」と言って水を飲ませた。
「うーん修造まだ飲めるぞ」
「もう無理ですって」
親方は机に顔を伏せ、唸るような小声を絞り出した。
「修造の次は藤岡がいなくなるのか、俺はあと何回こんな感じの気持ちを味わうんだ」
いつもはこんな事を絶対言わない親方が酔った勢いで本音を吐露した。
「今は親方の気持ちが分かります」
同じ空間で自分が育てたものが無くなってしまう。
それは人でもあり、形作って来た技術とか人情でもある。
「寂しいですね」
「うん」

「またやり直しましょう。何度でもですよ。また煌めく星を見る瞬間がありますよ」
「なんだ煌めく星って」
修造に抱えられて親方は家路に就いた。
帰り道
夜風が気持ちいい。
今自分の所で働いている者達もいずれ何らかの理由で出ていく事もあるだろう。
「そう思うと寂しいな」
しかしこれは仕方ない事なんだ、それでも自分はパン職人を続けていく。
親方の様に「よし!分かった!これからも頑張れよ」って言わなくちゃ。
修造の目から何故か涙が流れた。
次の朝
泥の様に眠っている修造の腹の上に急にドスン!と衝撃が起こり、顔面に釣るような痛みが起こった。
「うわ」っと目を覚ますと大地がけらけらと笑って腹の上にまたがっていた。
「大地」
大地の脇を抱えて顔を近づけたら今度は「くしゃい」と言って小さな手のひらで酒臭い修造の顔をペチペチ叩いて来た。
「痛い痛い」うつ伏せになって攻撃を避けていると今度は背中の上で立ち上がってグラグラしている。
「すごく可愛くてすごくやんちゃだ」
「修造ただいま、昨日はごめんね」と隣の部屋から声を掛けながら律子はなんとなく小綺麗になってる部屋や冷蔵庫の中を見まわした。
「助かるわあ」洗濯機を回しながら綺麗になって片付けられているベランダを見ながら言った。
拭き掃除をするものの汚れが角に残っていく、それを分かっちゃいるが見て見ぬ振りをする「また年末にでも」なんて具合に。
日常の汚れは徐々に溜まっていくが中々綺麗にするのが億劫な時もある、それがスッキリ片付いていると気持ちいい。
修造の背中に乗り今度は「お馬さん」をしている大地は時々足で修造の両脇をポンポン蹴った「いてて」そう言いながらも息子の成長を背中で感じて嬉しい。
長女の緑は早速テレビの美少女戦隊シリーズを見ている「お父さんただいま」ちょっとだけこっちを見てまた画面の方を向いた「おかえり緑」
「律子、俺しばらく休みなんだよ、来週長野に帰らない?」
「長い休みなのね、じゃあお母さんに連絡しておくわ」
「うん」
大地を膝に乗せながらコーヒーを飲んでいると「お父さん、私お父さんのお城に行きたい、ねえお母さんいいでしょう?」と緑が言った「いいわよ」
緑はリーブロに来た時は必ずお城の様だと言っている。
「気に入ってくれて嬉しいよ。じゃあ後で出かけよう」

リーベンアンドブロートのテラスの花々は風に揺れて見ているだけで癒される。
修造は用事を済ませる為に工房に行ってる間に3人は選んだパンを食べていた。
「美味しいねお父さんのお店のパン」
「本当にいい店ね、お客様もいい表情だわ」
確かに、テラスのテーブルに座っている人々は癒しの空間で寛いでいる様に見える.
「あ、大地」
大地はぴょんと席から飛び降りて他のテーブルに1人で座っている高級そうなワンピースを着たお客の所に行って抱きついた。
ツバの大きい帽子を深々と被った女性客は「可愛いわ」と言って大地を抱き上げ顔を見つめてから抱きしめたが、それがとても長い様に思えて律子は「すみませんうちの子が」と言って大地を自分の所に引き寄せて席に連れ戻した。
「何かしらあの人、1人で店の方を向いて中を覗いてる様だった。ひょっとして他の店の偵察かしら、それに泣いてる様にも見えた」と思ったが、大地が他の席に走って行ったのでもうその事はすぐに忘れてしまった。
修造がテラスに戻って来た時はもう帽子の女性客は消えていた。修造はマーガレットを持って来て律子に渡した。
白い花びらに黄色い筒状花が可愛らしい「ありがとう」
緑と大地がてんとう虫を見つけて他にもいるか探している「癒されるわね」それは修造の目指しているものだった、それを同じ空間で分かってくれる律子がとても愛おしい。
2人はテラスの椅子に座って机の下で手を繋いだ。

「ああやって自分の理想に自分を近づける人間は耐えず努力している」店内から2人の様子を見ていた岡田克美は凄く冷静な目で横にいる中谷麻友に言った。
「その時は努力とは思ってない、もがいてる最中だから」
「修造さんってもがいてるんですか?」
「それは後で分かることであって、動いているうちは努力してるとは思っていない訳だし」
「きっと家庭の事も一生懸命なんでしょうね」
「それが当たり前になってるものだけが成功するのかも知れない。仕事にせよ家庭にせよ趣味にせよ」
「周りもそれに引っ張られて動き出してますよね。私達回転率良いですもの」
「回転率?」
「はい、ここに来てから修造さんや江川さんを見て効率よく仕事したりするクセがついたと言うか。勿論岡田さんもですよ」
「私も?」
「そうです、仕事のできる人なので」
「回転率ではなくて起動力ですよね」
そう言って岡田はその場から離れ布巾を持ってきた。
側から見たら全く分からないが岡田は照れながらテーブルを拭いた。
ーーーー
一方その頃パンロンドでは
親方がみんなを集めて由梨と藤岡を真ん中に立たせた。
「2人は結婚して藤岡の実家の家業を継ぐ事になった」
「えーっつ」皆驚いたが丸子と風花は由梨から聞いて知ってる風だった。
「おめでとう」
「よかったね由梨ちゃん」
「皆さん勝手してすみません」
「2人とも新たな生活を送るんだな」
「頑張ってね」
などと皆言っている中心底驚いている奴がいた。
杉本は目を見開いて「藤岡さんが居なくなるの」と言う言葉が頭の中でグルグル回っていた。

杉本の表情を見て藤岡は「ごめんな、お前のお陰で色々助かったし、これでもう前に進むしかなくなった。親方が求人を出すって言ってるから人員補充できたら俺が教えてから行くから」
なんだか自分のせいで藤岡が居なくなる様な気持ちになる。
夕方
杉本は風花を送って行く途中で慰められていた。
「藤岡さんが辞めるの言わなくて悪かったわよ。私は由梨ちゃんに聞いてたしぃ、龍樹は藤岡さんに聞いてると思ってたのよぅ」
杉本は半泣きで「びっくりした」とまだショックを受けている。
「求人も出してるんだし、まだ期間もあるんだし、ね」
「うぅ、修造さんが居なくなったのに藤岡さんまで」
「まあまあ、すぐ慣れるって」
帰ってから杉本はベッドに横になって考えた。
俺はどうしたらいいんだ。
修造の舎弟で藤岡の付属品
皆にそう思わせる程依頼心が強い
自分でも分かってる
後輩が入って来て「先輩これどうやったらいいんですかぁ」
そう言われてどうやって逃げたらいいんだ。
杉本は天井を見つめていた。
「とりあえず親方に聞けよって言うか」
ーーーー
杉本龍樹はそれ以降明らかに何か思い詰めた様に見えるので母親の恵美子は父親の茂に相談した。
「お父さん、ちょっと見て」と言って2人でそっと部屋を覗くと、電気の消えた部屋でスマホの画面をずっと見ている。
その後2人はこっそり1階に降りて相談した。
「ね、最近ずっとああなのよ」
「なんだろうな、風花ちゃんに振られたとか?」
「えぇ?とうとう見捨てられたのかしら」恵美子はオロオロした。
「よし俺が聞いてみるぞ」
茂は部屋に入ってスイッチを探して電気を点ける。
「なんだよ急に、眩しいな」ベッドで横になってスマホを見ていた杉本は横を向いて目をしばしばさせた。
「おい、何をそんなに真剣に見てるんだ。どうかしたのか」
「別にどうもしねよ」
「なあ」
「は?」
「最近風花ちゃんはどうした?会ってないのか?」
「俺仕事終わったらすぐ帰ってるから、でもパンロンドで毎日会ってるし」
「そうか、2人の恋は順調なのか?」
「なんだよ恋って気持ち悪いな」茂から恋とか言う言葉が出たのでちょっと引く。
「俺用があるから出てってくれよ」
用ってスマホ見てるだけのクセに、そう思いながら茂は部屋から出た。
両親の心配を他所にその後も杉本はずっと画面を見ていた。

作業中
杉本は350gに生地を分割をしていた。
側から見てもモヤモヤと物思いに耽ってるように見える。分割だけを続けていたので台の上にいっぱいになってきた。
見かねた由梨が生地を丸めて箱に入れるのを手伝いながら杉本に話かけて来た。
「あの、忙しいのに2人で抜ける事になってすみません」
「俺どうしたらいいか分かんなくなって、でも藤岡さんには世話になったし幸せになって欲しいと思ってる」
「はい、私も幸せになって欲しいです。だから精一杯手伝おうと思って。凄く大変そうな所も見てしまったし」
「ああ、あれ」2人とも捕まったり走ったり投げ飛ばしたりしている藤岡を思い出した。
「はい、なので絶対にこれからもそばに居ようと思っています」
由梨の瞳からは決心の様なものが漲っていた。
「強いんだなあ」由梨の事を藤岡のひっつき虫と思っていた杉本は感想を洩らした。
「それに引き換え俺は急に足元がぐらぐらしてる気分」
なんだかいつもと違う杉本を見て風花は心配になってきた。
最近は一緒に帰らずに先に帰ってしまう。
「いつもなら待っててくれるのに」
仕事帰り
風花は杉本の家を訪ねた。
「あら、風花ちゃん!いらっしゃい」風花が来たので恵美子は大喜びで迎え入れた。
「龍樹いますか」
「ええ、2階にいてるわよ。ねえ、最近あの子様子がおかしいけど職場ではどうなの」
「はい、元気ないです。だから様子を見に来たんです。家ではどうしてるんですか」
「帰ったらずっと部屋に篭ってスマホ見てるのよ、様子見てくれる?」
「わかりました、お邪魔します」
風花は2階に上がり暗い部屋で何を観てるのかスマホを取り上げて見た。
「パンの動画見てたの」風花も知ってるような有名シェフが懇切丁寧にパン作りの手順を解説している。
「そう、返して」
「ごめん」
「俺1人じゃ結局なんも分かんないから」
「そんなことないよ。試験だって受かったじゃない。どうしたの急に。藤岡さんが辞めちゃうのがそんなに負担なの?」
「俺は俺の馬鹿さ加減に気が付いたんだ。今までのいい加減な俺を思い出すと腹が立つようになったんだ。それだけだよ」
だから毎日先輩の動きを脳内で蘇らせたり、パンの動画を観たりして自分の中に蓄えを作ってたんだ。
ある時 それは脳内で完成した。
「おっ」
親方は杉本の動きが今までとまるで違う事に気がついた。
今までは藤岡の指示通りにしてて1人でやらせると急に失速したりしてたのに「生まれ変わった?」と思わせる程何かが違う。
こいつとうとう自分で考えて出来る様になってきたんだな。今まで人任せでいい加減だったのに。
そして向こうから杉本を見ている藤岡と目があって
2人してニヤリと笑った。
親方と藤岡が見ていたもの。
それは開眼した者だけが掴む『星の輝き』と修造が呼んでいた事象の事だ。
ある日突然悟ったことがあってメキメキと上達したりする。
本人も気が付かないうちに今までの事が全て自分の物になり、技術と実力となって現れる。
親方はあの時酔っ払っていたので修造の言った事は覚えていないし、修造はこの事を知らないし、勿論杉本も知る由も無い。

が、ここに1人のパン職人が誕生した。
土曜日
修造一家は早朝の新幹線はくたかに乗った。
長野駅からレンタカーを借りて計画通りファミリーランドに家族で行く。
乗り物に乗った後、ウサギのふれあいコーナーに行くと大地がウサギを珍しがって追いかけ回した。大地を捕まえて「優しく撫でて」と説得して2人でなでなでしたり、アスレチックを楽しんだりと子供達の楽しそうな顔を見て自分も満足していた。
そうしながらもリーブロでの忙しい最中にいた自分と、このレジャーランドでの自分の違いに戸惑う。パン作りには計画を立て様々な生地の発酵と焼成を組み立てて進めていかなければならない。いつも自分はその事に夢中になって他の事が目に入らなくなる。
だが家族と楽しんでいる自分もまた本物の自分だ。
時々その考えが頭に浮かぶ。
こんな時自分の中にある『違和感』と言う感覚がしっくりくる。
スワンボートに乗って緑と2人でペダルを踏んでいると水のバシャバシャいう音がボートの中に響く。

キラキラした水辺とその周りの木々が煌めいて見える。風に乗って木々の香りがスワンボートに届くと故郷の山の事を思い出す。
そう、自分はもうすぐこの様な山の自然の中で、自分のパン作りに集中すると決めている。
家族と共に自分だけの絶対的なパン作りを追求するのだ。
そんな事を考えながら修造は律子を見つめた。
律子も修造の視線に気付き微笑み返した。
健康な修造の白目はいつも青く光り、輝いている。知り合った頃からよく修造の眼を覗き込んだものだ。
律子もまた、同じ所で修造が長い時間一緒に過ごす毎日が訪れるのを楽しみにしていた。
夕方
律子の父親の巌(いわお)と容子、妹のその子が待ち構えていた。
巌は厳しい表情で修造一家が来るのを待っていたが、孫達の顔を見た途端デレデレと目尻を下げた「みっちゃん、だいちゃーん、いらっしゃい」
「おじいちゃんおばあちゃん、その子ちゃんこんばんは」
「疲れたろう、さあお入り。みっちゃんの好きな御馳走も用意したよ」
孫に取り入る事に全力を注ぎ過ぎて修造は目に入らない。
いつもの事なのでその子に挨拶して中に入る。
大地はドタドタと長い廊下を走って突き当たりの壁にドン!と飛び蹴りを喰らわせた。

「こら、大地」
律子の実家が来られたら一大事だ。
流石に大地を抱き上げて「やっちゃダメ」と叱ると足をジタバタさせて飛び降り、巌の所に走って行ったので「大地!」と律子が叱りつけた。。
「元気でいいじゃないか、だいちゃんはエネルギーが有り余る程あるんだよ。まだ2歳なのにいい蹴りだったな!将来は格闘家になるかい?」巌は膝から背中によじ登る大地を見ながら言った。
修造は壁を調べてどうもないのでホッとした「もうすぐ空手道場に連れて行こうと思っています。緑も通っていますし」
「そうかそうか、空手を習うのかい?だいちゃんなら壁を突き破れるかも知れないよ」
「まただわ、お父さんはいつも子供達に甘すぎるわよ。大地の為にならないわ」と律子に叱られる。
「躾はお前達の仕事だろ、おじいちゃんはたまに会うんだからだいちゃんに嫌われたくないもんねぇ」と巌は膝に座って「うん」と頷く大地に笑顔を向けた。
修造は律子に叱られるから言わなかったが、ジャンプからインパクトまでの的確な蹴りの姿勢が確かに2歳児とは思えない『絶対才能あるな、早く道場に連れて行こう』
食事の後
庭で巌と容子が孫と花火を楽しむ姿を見ながら縁側に座って道の駅で買った北アルプスブルワリーのクラフトビールを飲んでいた。
律子が台所の片付けを終えて花火に参加したので、巌は修造の横に座った。
修造は黙ってビールをグラスに注いで渡した。

「空手はお前の実家の近くにある道場に通わせるつもりなのか」
「はい、そうするつもりです」
「そうか」
そのまま2人は何も話さずに終盤の線香花火が小さく弾けるのを見ていた。
「律子を頼むぞ」
「はい」
茂の方を向くと、暗い中に花火の赤い色がうっすら当たり、以前よりも歳をとり小さく見える巌の横顔があった。
ーーーー
9日間の休暇が終わり
修造が家族と過ごしてリフレッシュして帰って来た。
正直、皆修造が休んで忙しさに拍車が掛かっていたのでホッとした。
「みんな急に抜けてごめん」
明日から1周年記念イベントが始まる、皆準備をしている最中だった。
「大丈夫ですよ」と言いながら重戦車の様な修造の仕事ぶりに皆内心『ポイントの高すぎるシェフ』と思っていた。
しかしそこで修造は言わなくてもいい事を言ってしまう。
発酵カゴを沢山乗せた板を持って立花の横を通り過ぎた後で振り向き「立花さん、藤岡って知ってる?」と聞いた。
丁度ボールを抱えてホイッパーで生クリームを立てていた立花が振り向いた途端にボールを滑らせて下に落とした。ガシャーンと音がして、横にいた江川の顔にクリームがビチャっと飛んだ「きゃっ」慌てた江川は後ろにいた登野の足を踏んだ「痛い」手に持っていた天板が2枚ともバーンと下に落ちてラスクが散乱した。
ボールはクリームを撒き散らした後、グワングワンと音を立ててその場でグルグル回っていた。
大坂はボールをシンクに入れて、立花がホイッパーを手に持って立っているので脇に避けてタオルであちこち拭きながら修造に何か文句めいた事を口パクで伝えている。
惨状を見ながら修造は「ごめんみんな」と言った。
大坂は下を拭いた後ホイッパーを手から離して「休憩行きましょう」と言って2階に連れて行った。
江川が「僕も行くよう」と着替えに行こうとしたので「まあまあ、ほらこれで拭いたらいいでしょう」と皆に引き止められる。
2階の休憩室では
大坂はタオルを洗って立花の手や靴のクリームを拭いてやっていた。
「ごめんなさい、拭き掃除ありがとう。修造さんの口から意外な人の名前が出たから驚いて」
「藤岡って言うんですね」
「そう、もうあまり思い出さない。もう何年も経ってるの」
何からなのか聞かなくても分かってる。
「あの、さっきの事を見ていてこのままだといけない。俺はそう思いました。仕事と好きな人どちらを取るのかと言うとですが、もし振られたら仕事し辛くなると思います。でももっと大事な事なんです。この先の事なんです」
「ありがとう大坂君。この先、私将来は自分のお店を開きたいの。だからそれまでに沢山のことを勉強しなきゃ」立花は話の焦点をぼやかせた。
「俺も一緒に
その
働いても良いですか」
「今の仕事はどうするの」
「修造さんはわかってくれると思います。俺の立花さんに対する気持ち。俺は立花さんを何よりも大切で愛しています」
「私は大坂君にそんな風に言ってもらえる様な人間じゃ無いの」
「どういう意味ですか」
「私は嘘つきだから近寄っちゃダメ」
「確か前にも同じことを言ってましたね」
大坂は立花が藤岡と駅前の喫茶店でお別れした時に泣きながら「私は嘘つきだからこうして1人で歩いてるの」と言っていたのを思い出した。
「嘘つきなんじゃ無くて本当の事を言ってなかっただけでしょう。あの超絶イケメンを愛してるから本当の事がいえないのなら、俺みたいになんとも思ってない奴には言えるでしょう」
その言葉を聞いて立花は堰を切ったように涙が止まらなくなり大坂の胸に縋り付くのと大坂が抱き止めるのが同時になった。

「私胸に傷があるの、でも藤岡君にはどうしても言えなかった」
「もう昔の事ですよ。俺に言ってくれてありがとう。もう大丈夫、自分を苦しめるのとさよならしよう。俺と一緒にもっと自分に優しくしよう。時間が色んな傷を消してくれる」
立花は大坂の胸の中で小さく「うん」と頷いた。
おわり
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おまけ

風花
俺あと2年したら
製パン技術士二級の
資格試験受けるつもり
うん
そしたら俺と
うん、受かったらね
やっぱそうなる?
うん
私待ってるね
うん
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