12パン職人の修造 江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!前編

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!前編

このお話は新人の杉本君  Baker’s fightの続きです。

下町の商店街にあるパン屋のパンロンドは今日もお客様が絶えない。お客さんがパンを買って帰ったらまた次のお客さんが来る。

大人気のとろとろクリームパンを成形しながらパンロンドの店主柚木(通称親方)は仕込み中の職人田所修造を見て思っていた。

修造が修業に行っていたドイツから帰ってから急にやる気に満ち溢れた職人が増えてパンロンドは爆上げになったな。

あいつは本当に大したもんだよ。

律子さんと緑ちゃんをおいてドイツに行くって言った時はどうなるかと思ったけど、帰ってきたら相変わらず律子さんと超仲良し夫婦だし、丸く収まるもんだなあ。

杉本は修造の舎弟みたいだし、江川は金魚の〇〇だな。

そこへ電話がかかってきた、親方は人一倍太い指で受話器をとった。

「はい、パンロンドです」

「初めまして。わたくしNNテレビのディレクターの四角志蔵と申します。この度夕方の特番でパン王座決定戦というのをやるんです」

「へぇ〜、、えっ?うちが出るんですか?」

「はい、最近人気の店を調べてパンロンドさんのお名前が上がってきましたので」

「何をやるんですか?パンのクイズとか?」

「それもあります。勝ち進むと更にテーマがあるんですが、それは現場でのお知らせという事になります」

親方は修造を見ながら言った。

「四角さん!うちに相応しい人材がいますよ。ぜひやらせて下さい」

「本当ですか?全て録画になりますが、お茶の間の視聴者はみな釘付けになりますよ。各チーム2人ずつペアで参加なんですがどうですか?1回目の撮影は来週の火曜日です」

「わかりました」

「修造くーん」電話を切って親方は修造に声をかけた。

親方がこう言ってくる時は大体頼み事が多い。

いやな予感しかしない修造は親方を見た。

「来週火曜日に修造と誰かもう1人がNNテレビのパン王座決定戦に出る事になったんだよ」

「もう決めちゃったんですか?俺テレビとか苦手なんですが」

人前で何かするとか嫌だな。特に目立つのは苦手だな。そう思ってると

「修造さんとですか?だとしたら誰かもう1人って僕しかいないですよね!」

修造と一緒と聞いて気が大きくなって修造の弟子っこの様な江川卓也が立候補してきた。

「じゃあ頼むな」

親方はさらっとそう言ってまた仕事に戻ってしまった。

杉本は倉庫に材料を取りに行ってて出遅れて悔しがった。

「え~!江川さ~ん!変わってくださいよ」

「嫌だよ。僕が修造さんと一緒に出るんだもんね」

そんなやりとりを聞きながら修造は凄く嫌そうにしていた。

うわ、俺どこかに逃げ出そうかな。

そう思いながら火曜日はすぐにやって来た。

修造と江川はNNテレビに向かう車の中で

「なんで俺がテレビに出なくちゃいけないんだ」

「まだそんな事言ってるんですか?僕なんて何も知らないのに出るんですからよろしくお願いしますね」

「お前、、信じられない図々しさだなあ」

そんなやりとりをしながら2人はNNテレビに到着した。

「うわー!僕テレビ局初めてです。広いなあ」

ADらしい人に控室に通されて「こちらに座ってしばらくお待ちください」と言われた。

自分たちの他に5組いるんだ。修造は腕を組んで椅子に座りながら凄い目力でジロジロ観察した。

1番右、あれは北海道のパン屋北麦(ほくばく)パンの佐々木シェフだ。ここの自慢は自家製酵母を使ったハード系。

2番目が東北のブーランジェリータカユキの那須田シェフ。ここの自慢は見た目も美しいデニッシュとクロワッサン。

3番目は関東の俺たちパンロンド。

4番目は関西のブーランジェリーサクマの佐久間シェフ。ここは豊富な惣菜パンが有名な人気店だ。

5番目は中国地方のBBベーグルの田中シェフ。ここはベーグルの種類が豊富で、華やかなベーグルフルーツサンドが人気なんだ。

そして6番目は九州の酒種パンのロングハッピー藤原シェフ。

「それぞれ持ち味出してる店ばっかだな」

うちが1番無名かなあと言ってるとディレクターがやって来た。

「どうもみなさんお待たせしました。ディレクターの四角と申します。今から皆さんでクイズの勝ち抜き戦で争って頂きます。パンにまつわる問題が出ますのでどんどん答えて行ってください。6組中4組までが勝ち抜いて第2ステージに向かいます。全10問しかありませんので頑張って下さい。お2人のうち、わかった方が答えて構いませんよ」

説明のあとスタジオに案内された。1番やる気のない修造はだらだらと最後について行き「さっさと負けて帰ってやる」と小声で呟いた。

スタジオは広くてセットのところだけ凄くライトアップされていた。

「セットの裏側ってベニヤ板なんですねぇ」江川が嬉しそうにあちこち見ている。

スタジオのセットはクイズ番組でよく見る1番から6番のマークのあるブースに仕切られていて、2人は3番のマークのところに案内された。

「このボタンを押すんですね。早押しなんでしょ?」

「そうらしいな」

ピンポン!江川は赤い丸いボタンを押す練習を始めた。なかなか素早い。

とそこへ、売れっ子司会の安藤良昌(あんどうよしまさ)が真ん中に立って挨拶して来た。「皆さん、今日はよろしくお願いします」そしてマイクをつけたり、セットを直して貰ってる。

「あれ、安藤良昌ですよね!芸能人見たの初めてだな」

江川おまえの好奇心は天井知らずだな。

そう思ってると音楽がなり、とうとう番組が始まった。

皆緊張の面持ちで立っている。クイズが始まった。安藤が問題を読み上げた。

ジャジャン!

「第一問!パンを発酵させるパン種の中でも有名と言われるホップ種はイギリス、ルブァン種はフランス。ではライサワー種はどこの国?」

修造はすぐに押したが、既にブーランジェリータカユキの方が押していた。

「はい!2番の那須田チーム」

「ドイツ!」

「正解です。一問目はブーランジェリータカユキの那須田シェフです」

江川は修造の顔を見た。

あ!ドイツが答えなのに!

修造さんめっちゃ悔しそう!

これ外すか?って問題を答えられなかったので修造は意地になってきた。

「おい江川、ボタンの方に立って俺が背中を押したら反射的にボタンを押せよ。素早くな!」

「はい」

ジャジャン!

「第二問!パンを膨らませるための原材料のペースト状や生地状の発酵種の中で、サワードゥは直訳するとどんな意味?」

ピンポン!最後まで聞き終わらないうちに修造が江川の背中を押して、江川が素早くボタンを押した。

「はい!3番の田所チーム!」

修造が江川にささやいた事を江川が言った。

「酸っぱい生地?」

「正解!パンロンド田所チームにポイント10点!残りはあと8問です!」

ジャジャン!

「第三問!粉の20%から40%程度に同量の水と酵母を混ぜ込んでつくる液種法は水種法と何?」

また素早く背中を突いて「ポーリッシュ法!」「はい正解!」

次々と答えていき、パンロンドは素早さだけで50点稼いだ。勿論他のパン屋もわかってはいるのにという感じだった。そこでディレクターの四角の指示で司会が「田所チーム!あと4問あるのでちょっとここでお休み下さい。他のチームの争いになります。もし那須田チームが50点稼いだ場合はもう一度参加して頂きます」と言った。

修造がチェっとなったので、江川はそんな修造を見て、初めは嫌がってたのにこんなに熱くなって、この人ギャンブラーじゃなくて良かったよと呆れた。

結果

1位はパンロンド

2位は20点稼いだブーランジェリータカユキ

そして3位は10点のブーランジェリーサクマと北麦パンだったのでもう一問を2チームで争う事になった。

ジャジャン!

「問題です。一般的なライ麦の発芽温度は次のうちどれ?1番1℃から2℃。2番5から6℃。3番7から8℃」

タッチの差でブーランジェリーサクマが押した。

「はい佐久間チーム!」

「1番!」「はい正解!おめでとうございます。3位決定!これで4位は北麦パンに決定しました」

音楽と共に番組は一旦締められた。

ディレクターの四角は控室で4軒のチームを集め「お疲れ様でした。次は4軒のパン屋で人気対決をしていただきます。各店舗のブースを設けます。機材はこちらで用意するので何を作るのか考えてください。材料費はウチがお支払いします。出す品は各店舗1品ずつ」

四角は説明を続けた。

「お客さんの数は300人。皆さんに4店舗の名前が書いてある紙を持って頂いて美味しかった店を決めて、投票所にある各店舗の投票ボックスに投票していって頂きます。投票数の多かった2店舗が決勝進出です」

「準備があると思いますので、1週間後、NNパーク広場で行います。それではよろしくお願いします」

「うわ、人気対決ですって。どうするんですか修造さん」

「絶対勝ってやる!帰ったら早速考えるぞ!」

他のパン職人達も同じ様に思ってたらしく早々に全員帰った。


親方は行きと帰りの修造のテンションの違いを見て驚いた。息巻いている。

「江川君、どうだった?今日のクイズ」

「はい、うちの圧倒的勝利だったんです。次も絶対勝つって言ってます」

「うへ!それは凄いね」


翌日、修造の頭の中は何を作るかでいっぱいだった。

対戦相手は那須田チームのデニッシュかクロワッサン、佐久間チームの惣菜パン、佐々木チームのハード系が自慢の店か、、もっとも食べたくなるパンってなんだろう。他所は何を持って来るのか?やっぱ知名度では勝てないか

ああいう屋台だと知名度と看板の写真なんかがものを言うよな

カレーやラーメンならなあ

そうだ!

カレーパン!

スパイシーで香り立つカレーはどうだろう?カレーがトロトロで皮がカリッとして。具沢山かそれとも肉の種類で特徴を出すか。

「あ、親方。修造さん何か思いついた様ですよ」クリームパンの生地を綿棒で伸ばしながら修造を観察していた江川が報告した。

「親方、買い出しに行きたいんですが」

「勿論行ってきていいよ。頑張ってね」

「はい!」

そう言って修造は駅前のスパイス専門店に走って行った。

そこには缶に入ったプロ仕様のスパイスが沢山並んでいる。

「えーと、ターメリック、クローブ、オールスパイス、コリアンダー、クミン、シナモン、カルダモン、チリペッパー、カイエンペッパー、ローリエなどなど、、」カゴに沢山スパイスを入れ、お店の人に「人気の出るカレーを作りたい」と言うと「そうですねぇ。これなんてどうでしょう」と、ししとう、パプリカ、セロリを指さした。

「沢山入れると気になる味ですが、旨みと香りが良くなりますよ。要は比率が大切なので色々試して見て下さい。スパイスをオイルでテンパリングして冷蔵庫で寝かすと丁度いい感じに馴染むんです」

「はい」

「それともう一つ。カレーができたら追いスパイスをするんです。ホールをすり潰すといい香りが立ちます。自分で好みの調合をして見て下さい」

「どうもありがとう!」とお礼を言って、帰りにスーパーでトマトと生姜とニンニクも買った。

次に肉屋に行った。うーん、ここは牛のステーキ肉かそれとも豚の厚切り肉か、それとも牛スジか、、よし!これにする!

修造はある肉を買った。

パンロンドに戻った修造は、早速スパイスのテンパリングを始めた。サラダ油でホールスパイスをじっくり炒める。あたりはスパイスのいい香りで包まれた。次にそのオイルに生姜、ニンニク、玉ねぎ、を入れてじっくりと炒める。そこにトマトとセロリをミキサーでピューレにして鍋で他の具材と合わせる。その後こげない様に水分を飛ばし、追いスパイスを入れたら粗熱をとって冷蔵庫で寝かせて馴染ませる。

その後修造は肉屋で買った牛すじを取り出した。

まずは硬い牛スジを大きめの鍋に入れ、煮込んだ後雑味を除くために一度湯を捨ててもう一度鍋に入れて生姜と煮込んだ。

始め固かった牛スジは徐々に柔らかくなっていき、そのうちにトロトロプルプルと柔らかくなって来る。そこに酒と醤油、味醂を入れて味付けした。

衣をどうするかな。

カレーパンの美味いのはルーは勿論だが、皮のカリカリした感じも欲しい。あーんと衣を噛んでカリッとした後、トロトロのカレーを迎え入れ、口の中で両方の食感と旨みを味わいたい。

次の日、サクい食感の生地にスパイスを馴染ませたカレーペストを包み、真ん中に牛スジを包んた。

それを水溶きの小麦粉と米粉を配合したペーストに潜らせてローストしたパン粉をつけた。

パン粉は親方自慢の山食パン「山の輝き」をパン粉にしたものだ。

カレーパンを揚げて「親方これ、食べてみて下さい」と渡した。

「うわー!美味い!」

「このカレーを持って2回戦に挑みます!」

修造は2回戦の前の日、300人分のカレーと牛スジを用意した。カレーのルーを炊き、最後に追いスパイスをして馴染ませた。そして寸胴にカレーを入れて冷蔵庫に入れた。

江川はお店から持っていくもの一覧を見て真剣に用意した。「えーとカレーのタッパと生地用の容器と牛すじにボールにパン粉に餡ベラにと、、うちわも?」

江川は全て準備したか確かめた後声をかけた「修造さん明日は頑張りましょうね」

「勿論だ!今日は早く寝ろよ!」


次の日はいい天気だった。NNテレビの広場には沢山の人がイベントの始まりを待って並んでいた。

4店舗のブースが並んでいる。それぞれ提供した写真と店名が各店舗の看板に大きく描かれている。今並んでる300人の人達は看板を見ながらどの店から行くか悩んでいた。

「修造さん、まさかでしたね」

「うーんまさか佐久間チームもカレーパンとはね」

「向こうも驚いてますよきっと」

1番ブースの田所チームは牛スジカレーパン。2番の那須田チームはクロワッサンサンド。3番佐々木チームは北海道産小麦の食パンにチーズとハムを挟んだクロックムッシュ、そして4番の佐久間チームは野菜たっぷりキーマカレーだった。

「うろたえてる暇はないぞ!そろそろ揚げる準備をしないと」

と、そこへ「おはようございまーす」とやって来たのはNNテレビが用意した販売員のお姉さん達だった。

「あのーお姉さん達どうぞよろしくお願いします」修造は珍しく爽やかに話しかけた。そしてお姉さん達にあるお願いをした。

江川には「さあ!どんどん揚げていこう!」と勢いよく言った。

すでに作業中のチーム達の前でロケが始まった。司会の安藤良昌が出てきた「さあ!パン王座決定戦第2回戦の始まりです。来場者に店名の書かれた紙をお配りしています!美味しかった店に投票して頂き、投票用紙の多い店の中の1番と2番が決勝進出になります!私の合図と共に300人の観客が好きなパンを選びます。それでははじーめー!」

プアーーーン!

合図の音と共に人々はそれぞれ自分の食べたいブースに並んでパンを食べ始めた。

江川は他のブースを覗いて「うわ!佐久間チームの所にあんなに沢山の人が!先にカレーパン食べられちゃったらお腹いっぱいになっちゃうな」と焦った。

佐久間チームのカレーパンはサラッとした口当たりで食べやすく、野菜の味がキーマカレーとの相性が良いと評判だった。

人々は皆メジャーな順に食べて行った。それはこの店なら安心という信用でもある。

マイナーなパンロンドは少々不利だ。

修造は手鍋にカレーを入れてコトコト炊いてうちわで仰ぎ出した。

「うわ!いい香り〜、ここに行こうよ」と言って、並ぶ人数が少し増えてきた。

江川はカレーパンを揚げながら通路を通る人に声をかけた。「牛スジカレーパン揚げたてで美味しいですよ〜」

「ちょっと、あの子可愛くない?」と言って並ぶ人も増えてきた。

江川はトレーにカレーパンを乗せて呼び込みをし出した。

「こちらパンロンドでーす」

「うちの牛すじカレーパンの方に投票して下さいね、パンロンドの田所チームをお願いしまーす。」

と、目をキラキラさせて言って回った。

修造はカレーパンを包んだり揚げたりしながら「俺にはできないなあ、あんな真似」と感心していた。

江川は一人一人に丁寧に説明して、わざと列を作り、どんどん長くして行った。

待たされると美味しく感じるものかもしれない。

他の店はどんな感じなんだろうか?

司会の安藤が中央に出てきた。

「さて!ここで途中経過の発表です!」安藤は4店舗の集計表を見て「はい!1位は今のところブーランジェリーサクマです!2位が北麦パン!3位ブーランジェリータカユキ!そして僅差でパンロンドです!まだまだ4店舗回ってない方が多いので全部食べ終わってから投票して行って下さい」

うわ、僕たちのチーム4番目だって、頑張らなきゃ。

来場者は3店舗回って結構お腹一杯の人達ばかりになってきた。

江川はカレーパンを渡すとパンロンドの店名が書かれた紙ををお客さんの手に持たせて「これ、パンロンドの所に投票お願いします」とニコッと笑って言った。

江川、そんなことしなくても俺のカレーパンは美味いんだ。

修造は焦らず最適の揚げ方に集中した。

後編に続く

この作品は2021年8月9日月曜日にパン屋のグロワールのブログに投稿したものです。

9製パンアンドロイドのリューべm3


短編小説 製パンアンドロイドのリューべm3

60になったばかりの立米利佳(たちごめりか)は35年連れ添った5歳年上の主人の立米竜平(たちごめりゅうへい)を亡くしたばかりだ。

突然心不全で倒れ、急な葬儀となった。

30年前にパン屋「リットルパン」を開業して、2人で仲睦まじく営業を続け、今では街になくてはならない存在のパン屋になっていた。

赤ちゃんの頃にお母さんとパンを買いに来ていた子供がもう社会人になり、また朝のパンを買って会社に行ったりしている。

「長いこと続けていると子供も大きくなるわね。」利佳はいつも竜平にそう言っていた。

すると必ず竜平は「そうだね利佳」と返して来た。

竜平は静かな男で、声を荒げたりせず黙々と仕事を続けるタイプだった。

晩酌の時に酔って口数が増えたりするぐらいで、休みの日は公園まで散歩して花を見に行ったり、買い物をする程度で取り立てて金遣いが荒いわけでなく、比較的平和に人生を過ごしてきた方だった。

「ねぇ利佳、明日は昼から雨になるそうだよ。」

「ねぇ利佳、明日は昼から暑くなるそうだよ。」

客足と天気がとても関係するので、いつも竜平は天気を調べては教えてくれたり、作るパンの量を増やしたり減らしたりしていた。


葬儀は慌しく、後であの人を呼んでいなかったとか、あの人に連絡してなかったなど色々手落ちもあったが、バタバタしていて悲しみも少し紛れた。

立米夫婦には子供がいなかったので、跡取りもなく、パン屋は閉店するのかと道行く人達はシャッターの閉まったままのリットルパンを見て思った。

葬儀の後日、竜平の死亡保険金の手続きにアール保険の営業木村が来た。

「この度は本当に残念です。お気を落とされません様に」

いつもこう言ってるんだろうなと利佳は木村の言葉をぼんやり聞きながら考えていた。

すると「パン屋さんはどうなさるんですか?」と聞かれた。

「流石に私1人ではちょっと」と濁して答えた。

「ではこちらは老後の資金として大切にお使い下さい」入金の手続きをして、木村を帰らせてから利佳は1人で考える時間ができた。

これから

これからどうしよう。

先週迄はリットルパンは普通に営業していたのに。竜平も元気だったのに。

これから1人で生きていかなくちゃならないの。

急過ぎるわ。

そこへ

電話がかかって来た。

「はい立米です」

「立米さん、ミーテンリースの平方です。この度は本当に急な事で、ご葬儀にも行けず申し訳ございません。お仏壇にお線香だけでもよろしいですか?」

ミーテンリースの平方米夫(へいほうよねお)は近くから電話して来たらしくすぐにやってきた。

平方は良い人が浮き出た様な顔立ちの性格の優しい男で、ミーテンリースに入社して以降リットルパンにも長いこと営業に来ていた。

ミーテンリースはパン屋など食品業へのラベルプリンターのリースやレジのリースを行なっている会社だ。

平方はお仏壇に手を合わせて丁寧に亡き竜平への冥福を祈った。

「奥さん、本当に残念です」

「お気遣いありがとうございます」

「これからどうなさるんですか?」

「急だったのでまだ何も、それに流石に私1人では、、パンを作っていたのは主人ですし」

「ご近所の人達も残念でしょうね」

「はい」

「立米さん、今こんな事を言うのは不謹慎ですが、こんな時に営業か?とか思わないで下さいね。あくまでも悪気ない世間話と思って聞いて下さい」

「はい?」

「僕は昨日研修を受けて来たばかりなので、まだ興奮冷めやらないんですが、製パンアンドロイドっていうのが今僕のいる業界では出始めたんです」

「聞いたことあります。でも粉が詰まって故障したり、結局動作が鈍いとか、同じ場所でないと動けないとか。あまり良い噂は聞いてません」

こっちは主人の葬儀が終わったばかりなのにもう営業に来たのかしらと少し腹を立てて利佳は厳し目に言った。

「今まではね、でも昨日僕が見たのは全然違う最新型のアンドロイド『アンコンベンチナルm3』なんです」

「写真見てみますか?」

「完全に人型なんですね」

「はい、ちゃんと人間の様に歩いて動いて、流石に表情はありませんが声は以前は機械音って感じでしたが、少し滑らかに人っぽく聞こえます」

利佳はカタログを見て驚いて言った。「男の人と女の人の2タイプが?」

「そうなんです。機械としてではなく仲間として迎え入れるのがコンセプトです。より人間らしくできていますよ」

「それで?」

「はい」

「一体何ができるんですか?丸めだけ?」

利佳はアンドロイドと言っても機械なんだしせいぜい分割と丸めとか、荷物運びぐらいだろうと思っていた。

「それがね、僕が昨日驚いたのはそのアンドロイドの性能なんです。パン作りのあらかたをやってのけていましたよ」

そしてタブレットを取り出して利佳に見せた。

タブレットに映し出されていたのは、人型のアンドロイドが動いているところだった。

「これ、昨日僕が撮ったんです。今までは外国製が多かったんですが、日本の大学の教授がアンドロイドの開発に力を入れてましてね。ついに色んな職業のアンドロイドを作り出したんです。」平方は興奮気味に言った。

「パン職人の動きを徹底的に研究して、ついにパン作りができる様になったんです。」

「本当にそんな事ができるんですか?上手く映してるだけでは?」

「まあ見ていて下さい」

そのアンドロイドは材料の計量、ミキサーへの移動と混捏、ミキサーからの生地の取り出し、台の上に生地をあげての分割と丸め。そしてホイロへ入れてからの取り出し。窯へ入れてからの取り出し。

この作業を全てやってのけた。

「えー!凄い」計量ぐらいかと思っていたので、利佳は本当に驚いた。

「一連の動きが決まってるので、細かい入力は必要ですが、何種類かのパンはできますよ」

「でもお高いんでしょう?」と利佳は通販番組みたいな事を言ってしまった。

「そこなんですが、手付け金が結構高額なんです。それと毎月のリース料がかなり。とはいえ人件費より安いと考えれば」

利佳は一瞬頭に保険金の事が浮かんだ。

「本当に凄いので一度見学に来ますか?」とアンドロイドの性能に興奮してつい言ってしまったが、こんな時に不謹慎なと思って営業っぽい言葉は謹んだ。

利佳も先のことはまだ決まってないので「またそのうちに」とお決まりの断り文句を言ったその時、タブレットの画像にアップになった男型のアンドロイドが映った。

「これは?」

「こちらがさっき言ってた男型のアンドロイドです。男型、女型、声の質、声の高さ、話す速度とかも選べますよ。あとは入力次第では結構動けると思いますがそれはとても細かいので入力は僕が面倒みます」

平方の説明そっちのけで利佳はタブレットを食い入る様に見ていた。

その理由は

男型のアンドロイドが知り合った頃の竜平にそっくりだったからだ。

丸みを帯びた鼻と温和な顔立ち「決めたわ」

「えっ?」

「私このアンドロイドとパン屋を再開します」

平方は驚いた。

そんな急な。

いや、でも営業としては嬉しいかも。

しかし急な。

平方は「奥さん、入力内容を話し合う為にまた来ます」と言って会社に報告しに帰った。

新しいアンドロイドを迎えるのには色々準備が必要だった。

まず

充電の場所

アンドロイドが動きやすいところを作る

初期費用とリース料を用意する

アンドロイドが作れる生地で利佳がバリエーションを考えたトッピングを決める

入力内容を決める

この入力内容を決めるのが1番大変だった。

どの生地を作らせるのか決めたり、季節ごとの水温など配合を変える入力、リットルパンの店内での普段の動きの行動パターンなど、平方は専門家とやってきて何日間かつきっきりで設定をした。

そして最後に利佳に「声はどのぐらいのトーンにしますか?」と聞いた。

利佳は「もう少し低く、、今度はもう少し高く。」と竜平の声に限りなく近づけた。

「あとは、このm3の名前を決めましょう。勿論m3でも良いですが、奥さんが呼ぶと反応するニックネームが決められますよ」

「こういうのはどうですか?立米って体積の単位でリューべって言うじゃないですか?リューべはどうですか?」

利佳は

それが良い!

それが良いわ

竜平みたいな名前

リューべ

と平方の案に賛成した。

「それにして下さい」

「了解です」

いよいよ始動の時が来た。

ウイーンと音がして製パンアンドロイドリューべの首の後ろの辺りが赤く光った。

ピカピカピカピカピカピカと点滅を繰り返した後緑色に光った。

「リューべ、今日からここがお前の職場だよ」

「これが利佳さんだ。絶対服従だよ」

平方はまるで儀式の様にもうすでに入力済みの事を改めて言葉に出して言った。

「初めまして利佳さん」

利佳は改めて驚いた。入力が上手くて竜平の声そのものだったからだ。

専門家が「何か話しかけてみて下さい」と言った。

「リ、リューべ初めまして」

アンドロイドに話しかけるなんて中々ない。それどころかこれから一緒に仕事するんだわ。

ところがこれで設定は終わりではなかった、リューべの動きを見ながら計量の動作からまた細かく設定をしていって最終的にはパンを焼き上げるまでの一連の動作をチェックしていった。

「株式会社ミーテンリースとしても初めてのアンコンベンチナルm3のリースなので感慨深いものがあります」

「立米さん、記念にリューべと写真を撮ってパンの専門誌のミーテンの宣伝枠に使っても良いですか?」

「ええ、勿論です」

平方は利佳とリューべを並ばせて写真を撮った。

その日から利佳とリューべの生活が始まった。

毎朝利佳は家からタブレットで、店で充電中のリューべにその日のお天気とパンの量を設定した。

リューべは決まった時間に動き出して仕事をしていて、利佳がパン屋に着くと[おはようございます利佳さん。今日は良い天気ですね」と挨拶をした。

パンが焼けると辺りは以前の様に良い香りが立ち込めた。

久しぶりに店を開けたので、お客さんがパンを買いに来て利佳にお悔やみを言った。そして中を除いて「新しい職人さん?早く見つかって良かったわね」と言って帰った。

動きはぎこちないが遠くから見ると人そのものだ。

とはいえ竜平の様に全てのパンが作れるわけではない。以前とは違った商品構成にして、リューべのできるパンに合わせて具を挟んだりクリームを詰めたりとやる事は多かった。

納品業者には、仕入れた材料は必ず同じ場所に置く様に納品の時何度も説明して置いて貰った。

利佳はこれでまた毎日静かにパン屋ができると思っていたが、ミーテンリースがパンの専門誌に利佳とリューべの写真を載せると、それを嗅ぎつけたNNテレビがやって来て、リューべを映して帰った。それは夕方のニュースに流れ、翌日からアンドロイドの作ったパンを買いに沢山の人が訪れた。

人々はレジから奥には入れないので、奥にいるリューべをスマートウオッチのカメラで写して帰った。

利佳はリューべに話しかけた。

「凄い沢山のお客さんがリューべを見に来たわね」

「そうですね利佳さん」

リューべが返事をしたので驚きと違和感があったが、話しかけたら返事するんだわと気がついて「利佳って呼んで良いわよ」と言ってみた。

「はい。利佳」

「竜平、、」亡き夫そっくりの声。

「何故突然いなくなったの?」

「私を置いて」

「いなくなっていませんよ利佳。私はここにいます」

リューべの声は優しい声だった。


利佳はリューべとの生活に慣れてきた。

入力と清掃を怠らず、リューべが仕事しやすい様にそこら辺を整えた。

私はリューべがいるから寂しくないんだわ。

リューべは毎日1度は利佳に優しい言葉をかけた。

「利佳、今日もありがとう」

「利佳、いつも頑張ってるね」

など声をかけられるので、これってサービスみたいなものなのかしら?アンドロイドってすごいわね。と思っていた。

平方は初めのうちはリューべが心配でしょっちゅう様子を見に来ていた。

「どうですか?立米さん。リューべは上手く動いていますか?」

「平方さん。はい、とても優秀よ」

「それは良かった」

「立米さん、僕定年を迎えるんです」

「え?それは寂しいわ」

「でも大丈夫なんです。再雇用って事になって」

「そうなんですか」

「ええ、だからまたリューべの様子を見に来ますよ。何か困ったことがあったらいつでも駆けつけますから」

「はい、お願いします」

「利佳、カンパーニュが焼けましたよ」

焼成が完了した報告をリューべがして来た。

「呼び捨て、、?」

アンドロイドが利佳を呼び捨てにした事に、平方は違和感があって呟いた。

「あの、私がそう呼ばせてるんです」

なんだか恥ずかしくなって利佳は顔が赤くなった。

「親しみやすくて良いでしょ?」

利佳は言い訳した。

「そうですね、古くからペット用アンドロイドなどもあるぐらいですから、アンドロイドは仕事だけでなく、人の心にある程度寄り添う事ができます。色々話しかけたら情報量が増えて良いですよね」

平方はリューべの設定の所を見て

「朝の設定入力の時に、リューべが返信してくれますよ」

と説明した。そして何か色々入力していた。


アンドロイドと仕事していると絶対にない事

「奥さん僕今月いっぱいで辞めさせて貰います」

そんな心配も無くリューべとの毎日は過ぎていった。

利佳はリューべになるべく色々話しかける事にした。

「リューべってどのぐらい話せるの?」と聞いたら「元々は2万語ですが、会話するごとに覚える機能もあります」と答えた。

それ以来、利佳はリューべになるべく話しかけるようにした。自分の生い立ち、初恋、初めての仕事や悩み、竜平との出会い。

などなど

朝はリューべにメールした。

「おはようリューべ」すると「おはよう利佳、今日はいい天気ですよ」と返事が来た。

恋人同士みたい。

利佳はちょっとだけ思った。

ちらっとだけ。

生地のアイテムは少ないが細々とリューべと二人三脚で利佳の毎日は続いた。

その日は利佳の誕生日だった。

「利佳、誕生日おめでとう」

「リューべありがとう」

そしてハッピーバースデートゥユーと歌い出した。

ちゃんと「ハッピーバースデーディアリカ〜」

と名前を入れて歌ってくれた。

利佳は驚いた。

「こんな事までやってくれるなんて本当によくできてるわね」

そんなある日

利佳とリューべはいつもの様に仕事をしていた。

突然棚がキシキシと揺めき出した。

「地震だわ!」見るといつも安定感のあるリューべもグラグラとしている。

支えなきゃ倒れる!

そう思ってまろびながら利佳はリューべに近づいていった時、最も建物がグラグラと揺れ出した。

リューべが倒れかけた時、利佳はリューべを支えようとしたが、上からリューべが倒れてくる感じになった。

リューべの左脛(すね)の部分が利佳の右の脛に当たり下敷きになった。

揺れが収まりあたりは静かになった。

建物はどうもないが電気が消えて、棚から落ちたものが散乱している。

痛い。

何とかリューべの下から抜けだして立とうとしたが打った所は激痛が走る。

「折れてるんだわ」工場から外に出るのもなかなか大変な事だった。

そこへ平方から電話が掛かってきた。

「こんな時にすみません。そちらは大丈夫ですか?m3は大丈夫でしょうか?」

利佳は何とか周りのものをどかせて床に横になりながら「リューべが倒れてしまったんです。今は動いていません。すぐ来れませんか?」と無茶なお願いをした。

利佳の周りにも物が散乱しているのだから、平方もどんな状況かわからない。

「平方さんは無事ですか?」

「はい、咄嗟に机の下に隠れたから何も頭に当たらず無事ですよ。そちらはどうですか?」

「それが足が折れたみたいで痛くて」

「ええ!それは大変!すぐに行きますね」

平方は取るものもとりあえずという感じですぐに来てくれた。

「すみません。動けなくて」

平方は利佳を病院に送り届けた。病院の廊下は地震で怪我した人が何人か来ていた。廊下で医師が臨時の診察を行い、利佳の足を診た。

「脛が骨折の疑いがありますね。レントゲンが今混んでるので先に手続きをして病室にいて下さい。応急処置をしておきますね」

平方は利佳を車椅子に乗せて病室まで付き添った。入院の手続きをして「僕は今から店に行ってリューべを調べてきます。何かいるものが有れば持ってきますよ」と言った。

「すみません、すっかり甘えてしまって」

「良いんですよ。怪我してるのに。いるものと場所をここに書いて」

利佳は紙にいるものを書きながらなんだか不思議だわ。と思った。彼氏みたい。

薄く笑いながら平方は営業マンだからと自分を納得させた。

とはいえこんな親切な営業マンがいるのかどうかも疑問だった。

リューべのために来て、私はついでに病院に運ばれたのよ。

平方に紙と家の鍵を渡した。

利佳は1人しかいない肉親の2つ上の姉、真由に電話した。

「もしもし姉さん、今骨折して病院にいるの。そう、さっきの地震よ。遠いのに悪いけど来てくれない?」

とにかく店が心配なので姉に見に行って貰う事にした。

片付けなきゃいけないのに入院になってしまったわ。

リューべはどうなったのかしら。私の大切なパートナーリューべ。

「立米さーん、レントゲン室へすぐに移動します」

順番待ちが来て利佳はレントゲンを撮り「骨折ですね、3ヶ月で退院の予定です。早いうちにリハビリを始めましょう」と言われた。

手術を終え、仕方なくベッドに何日か横たわっていると平方が報告に来た。

「立米さん、リューべを細かく検査しました。一部ショートしたところがあって部品を変えなきゃいけない。その時に初期化しないといけなくなるんです」

「えっ!初期化?」

利佳は「今までの事が消えてしまうの?」と込み上げる喪失感に泣いた。竜平を重ね合わせたリューべの記憶が消える。

平方は困った。

長い間一緒にいると情も移るよな、それが人間ってもんだよ。それに俺がパン屋で故障を確かめるために起動した時、一瞬m3は目を開けて首を右左に動かして「利佳」って言ったんだ。

人間みたいに。

驚いた。

平方は考えた。

そして会社に戻り、技術担当の岡野に掛け合ってリットルパンでの記録を一旦全て取り出してまた戻す事にして、それを利佳に報告した。

「何とか記録は残せそうです」

「平方さん、こんなにして頂いてありがとうございます」

「いやあ」

あんな涙を見てほっとけるもんか。

でもこれ、えらい高くつくから会社に内緒でやって貰ったんだ。技術とは長い付き合いで弱点も知ってるからな。そこをついてやらせたんだ。会社にバレたら俺はクビだな。

とは言えうちのm3をこんなに可愛がってくれてるんだ。このぐらい当然だよ。

「そうだ立米さん、m3は退院したぐらいに治ってきますよ。だからリハビリ頑張って下さいね」

「はい!頑張ります」

「それと、、」

「はい?」

「実は次にリューべが故障した時の事なんですが、初めは新型だったm3も今では随分旧式になってしまいまして、部品がもうないと言う事態になる事を覚悟しておいて下さい。折角治ったんですから大事に使いましょうね」

平方はにっこりした。

「わかりました。大切にします」

ベッドから平方の背中を見送りながら利佳は思った。

部品がもう無いなんてよく聞く話だわ。いつも本当に部品が無くて治せないのかしら?と思ってるけどどうなのかしら。

平方さんにはお世話になってるし、そんな事考えちゃいけないわね。


リハビリを頑張り、やっと退院して店に戻った利佳はリューべと久しぶりに再会した。

「リューべ、ひどい目にあったわね私達」

「利佳、久しぶりですね。私は長い事お休みしていました」

「なんだかチグハグな会話だわね」

それを聞いていた姉の真由が言った。

「あら、ちゃんと話せるわよ」

利佳はリューべを庇って言った。

「ねぇリューべ」

「はい、利佳」

「呼び捨てだわ」

「私がそうさせてるのよ」

「ええ?」

「その方がフレンドリーじゃない」

「まあいいわ。利佳がそれで良いなら。ところでね、あなたいつまでパン屋を続けるの?今回みたいな事になったら困るでしょ?そろそろ引退したら?もう年金がもらえる様な年なんだし」

「だんだん治ってきてるわよ。リューべもいるし。まだ頑張れるわ」

姉が心配するので利佳は開店を遅くして閉店の時間を早くした。

アール保険の木村がやってきた。「こちらが入院と手術費用の請求の申し込み用紙です。こちらに医師の証明を記入してもらって下さい。それにしても大変でしたね。結構怪我された方も多いです」

「地震、怖かったわ」

「気をつけて下さいね。年齢とともにこけただけで骨折なんて事になる方も多いんですから」

次は気をつけないとと、リューべと同じ様な事を言われて、利佳はリューべに「保険屋の木村さんがこんな事いうのよ」とか「今日は雨だから足が痛いわ」とか話した。

するとリューべは「そうなんですね、利佳、今日も頑張ってるね」と返事をした。

時々トンチンカンな返事をするリューべ、でもあなたのおかげで毎日楽しいわ。

利佳とリューべの毎日は静かに進んでいった。


何年かして、リューべは時々動きが止まる様になって来た。生地を練ったり、分割の時はまあいいが、焼成の時に止まってしまうと、リューべが動くまで窯の扉が開けられない時があって利佳を困らせた。

今度故障したら部品がないとか本当かしら、、

そうなったらリューべはどうなるの?

恐る恐る利佳は平方に相談した。

平方は「うーん経年劣化ですね」と言いながらリューべを調べた。

やはり、以前平方の言った通り見通しは厳しいらしい。リューべは今ではすっかり旧式になり、初めは新型ともてはやされていたのにもはや忘れられた存在になっていた。

「m3を使ってるのはリットルパンだけになってしまいました」

そうなのね、私も覚悟を決めないと。

あの、、

聞くのが怖かった。

「いよいよ故障して動けなくなったらどうなってしまうのでしょう?」

「そうですね、機密漏洩の観点からも基本引き上げて処分になります。つまり回収と言うことで、、」言いにくいなと思いながら平方は説明した。


工場でリューべといる時に、利佳は「リューべ、故障しないでね。いつまでも私と一緒にいて」と話しかけた。

「はい、利佳。今日も頑張りましょう」

リューべがまだ動くうちは私もリットルパンを意地でも続けるわ。

利佳の決意も虚しく、リューべの動きの鈍さは日毎に回数が増していく。

一度電源を切ってまた入れ直したり、入力を変えてみたりだましだまし仕事を進めた。もういっそ生地の量を減らす方がいいかしら。利佳は悩んだ。

リットルパンは休みが多くなり、パンは少ししか棚に並ばなくなって来た。

そしてある日とうとう

リューべは動かなくなった。

ところが

「利佳、おはようございます。今日も頑張りましょう」

身体の動かなくなったリューべはまだ話ができる様だった。

「おはようリューべ、私達とうとうパン屋さんを辞める日が来たわね」

平方がやって来て「会話の回路と身体の動きの回路が違うんですよ。だから話はできるんです。ですが、、言いにくいんですが、とうとうm3を連れて帰らないといけなくなりました」

「分かっています」

そう言いながら平方の前にも関わらず、利佳はリューべにすがりついた。

「リューべ、今までありがとう。大好きなリューべ」

来た時はツルツルだったリューべの肌は今やカサカサで破れかけのビニールの様だった。

「丁寧に使っていただいたからこんなに長持ちしたんですよ」

涙が溢れかえる利佳からリューべを引き離していいものかどうか平方は困ったが、パン屋を閉店したらリューべがいる理由は無くなる。

業者が来てリューべを車に乗せた。

その間も利佳はずっと泣いていた。

運転席で配送のものが言った。「あんなに泣くなんてよっぽど大事にしてたんですね。長いこと使ってると情も移りますよね。もらい泣きしそうになりました」

俺がミーテンリースに入社して以降、リットルパンには随分通った。初めて挨拶に行った時、あの奥さんは弾ける様な笑顔でよろしくねって言ったんだ。俺はずっとあの笑顔の為に生きて来たのに、あんなに泣かせるなんて。なんて因果な仕事なんだ。

今まで俺はこの会社の為にどれだけ頑張って来たか。それが最後はあんな風に泣かせる形で終わりになるとは。

このままで良いのか

このままで。

m3がたどり着いたのは廃品になったアンドロイドを置いておく安藤部品工場の倉庫だった。

そこはミーテンリースの委託の会社で、安置されたアンドロイド達は順にバラされて使える部品を海外に販売される。

社長の安藤に挨拶して「あのさ、頼みがあるんだけど」と言った。

「俺と社長の仲じゃんか」


リットルパンは閉店になり、周辺に住んでいるお客さん達は残念がった。

お客さんによって好みが違い、あのパンが良かった、このパンが良かったと様々に食べられなくなったパンの事を懐かしんだりした。

利佳はもう年なので、業者に頼んで中のものを整理して改装し、またお店を誰かに貸すことにした。

がらんとなった店の内部は綺麗に壁紙を貼り変えられ、以前の雰囲気はもうない。

以前工場の奥でリューべがいた場所も、機械は全て取り払われた。

終わりってこんな感じなのね。

利佳の胸に寂しさだけが残った。

竜平もリューべもいなくなったわ。

家に帰って塞ぎがちの毎日が始まった。

もうこれからはこうして1人静かに暮らすのね。

お茶を入れて机の前に1人座っていた時。

ピンポーン

と玄関のベルが鳴った。

平方が何か大きな荷物を背負ってやって来た。

「いや〜こんにちは立米さん」

「平方さん!こんにちは。それはなんですか?」

と言って布に包まれた荷物を指さした。

「これはね」

平方は荷物を縛っていた紐を解いた。

「あっ!」利佳は思わず叫んだ。

「リューべ!」

「そうなんです。廃品解体の社長に頼んで身体の中の部品以外をもらって来たんです」

そう言って首の後ろのボタンを操作した。

「残念ながら身体は動かせなくなったけど、話せるんですよ」

「ええ?」利佳は驚いてリューベと平方をかわるがわる見た。

赤いランプがしばらくして、緑に変わった。

平方はしばらく操作していたが、やがて

「これで大丈夫ですよ」と告げた。

「利佳、こんにちは。今日はいい天気ですね」

「リューべ、そうね、今日は本当にいい天気だわ。これでいっぱいお話ができるわね」利佳の瞳は涙でいっぱいになった。

「平方さん、なんと感謝していいか。本当にありがとうございます。私ずっと思ってました。あなたが私の誕生日や優しい言葉をリューべに入力してくれたんでしょう?」

「いやあ。あれはサービスですよ」

そう言いながら照くさそうに笑った。

「奥さん、僕も会社を退職する事になったんです。それでなんですが、僕も暇ができるので、こうしてリューべの様子を見に来てもいいですか?というかお茶しに来ても構いませんか?」

「はい、勿論」

ボディの部分が空になりすっかり軽くなったリューべに利佳は男物の服を着せて、食卓に座らせた。

もう休みの日とか日曜日とか関係なく、平方はしょっちゅう訪ねて来て、3人で仲良く会話をして楽しんだ。

おわり

パン職人の修造8 ペンショングロゼイユ

パン職人の修造 短編小説  ペンショングロゼイユ

このお話は「パン職人修造の第6部再び世界大会へ 前編」の、世界大会に出場する選手の江川拓也とそのコーチの田所修造の2人が大会の10ヶ月前に、出典作品のテーマである「祭」の芸術作品の案を考える為に、東北まで祭りを見に行った帰りの束の間の出来事です。


江川と修造は2人で東北と江川の店Leben und Brotとの通過地点にあるペンショングロゼイユ(赤スグリ)に泊まっていた。

ペンションは山間にあり静かな所で、洋館風の建物は古めかしいが雰囲気がとても良い。

周囲には花や果実のなった木もあり、手入れが行き届いていて眺めが癒される。

修造は昨晩、秋に出場するパンの世界大会の「パンで作る芸術作品」の原案を色々考えて眠れない夜を過ごした。

「おはようございます修造さん、大丈夫ですか?あんまり眠れませんでしたか?」

「うん」

無口な修造はあまり自分から話さないので、何か聞き出すのは容易ではなかったが、長い付き合いの修造の事なので江川は雰囲気で察するのが上手かった。

朝食の時間になり2人は1階の食堂へ移動した。自分達の他には客は夫婦らしいペアが2組しかいない。

江川はキョロキョロして、客室は8部屋中宿泊客は3組か。近所で有名な祭りをやっている時期なので宿泊客の多い時期のはずなのに。。と思っていた。

江川が運ばれてきた朝食を食べて驚いた。

うわ、目玉焼き焼き過ぎ、なんかありきたりなメニューだし、この丸パン、すごいイースト臭がする。寝坊したから間に合わせる為にイースト多めにしたのかな?それともわかってなくてやってるんだろうか?

修造さん、全然食べてないし。

江川はどんな人が作ってるのか厨房を見たその時。

「もうあなたとはやってられないわよ!」と怒鳴り声が聞こえた。

そして長い髪を後ろで束ねた細い背の高い女性がエプロンを外しながら厨房から出てきてそのまま外へ出て行った。

「うわ、喧嘩でしょうか?怒鳴ったのは今の厨房から出てきた女の人っぽいですね」

様子を見ていた修造が立ち上がって、厨房に1人で立っている男の人に言った。
「おい!早く追いかけて行け!何があったか知らないが謝ってこい!」

急に身長が180センチある、体格のいい修造に声をかけられ、驚いた男は慌てて出て行った。

「あの、あと2組が朝食を待ってますがどうしましょう?」

「え?」

見ると他の客はまだ何も食べてない様だった。

「あの調子じゃ2人ともいつ帰ってくるか分からないですよねぇ」

江川が修造に促す様に言った。

「仕方ないな」

修造は厨房に入ってさっきのメニューは無視してあるもので調理し出した。

食パンにハムと玉ねぎと粒マスタードを挟んだ砂糖抜きのフレンチトーストを焼いた後にチーズを乗せて、同じお皿に野菜、果物を美しく盛りつけた。

デザートはローテグリュッツェ(ベリーのフルーツソース)を作り、アイスに添えてコーヒーと出した。

2組の客は「うーん美味しい!」と感激して食べていた。
「美味しそう。修造さん僕もあれが良かったです。」と悔しがっていたら、さっきの男性が追いかけた女性と戻ってきた。

「先程はお騒がせしました。僕たち夫婦は2人でこのペンションを営んでいます。僕は初田紀夫、こちらは妻の美和子です」

「お料理をして下さったんですか?」

紀夫は他の客のお皿を見て言った。

皿の上の料理はよほど美味しかったのか、何が乗っていたのかわからないぐらい綺麗に食べられていた。

江川は「いつ戻ってくるか分からなかったから調理場に入らせて貰いましたよ」と、説明と言うか調理場に勝手に入った言い訳をした。

「すみません、ありがとうございました。コーヒーお出ししますのでおかけ下さい」
と美和子が頭を下げた。

そして4人で座って紀夫と美和子から話を聞いた。

修造が黙ったまま座っているので、江川が切り出した「さっきのは仲直りしましたか?夫婦喧嘩は犬も食わぬって言いますものね。僕たちが口出す事じゃ無いですし」

「私はこのペンションが心から好きで、建物の手入れも庭の草花の世話も手間を惜しみませんが、この人は本当にやる気が無いんです。初めは楽しそうに仕事してたのに、最近の手を抜いた朝食を見てると腹が立ってきて、、それで怒鳴ってしまったんです。全て1人でやるのは大変なので主人ももう少しやる気を出してほしくて」

江川は「あのぅ、僕からは言いにくいですがあまり美味しい朝食では無かったですよ。愛がないと言うか、やっつけ仕事と言うか」と言った。

「何でやる気が出ないんですか」修造が聞いた。

「僕は料理があまり得意で無いんです。簡単なやり方ならできるかと思って。それで7日分の料理を曜日ごとに出していて、その方が楽なので」

楽と聞いて修造の顔色が変わったのを江川は見逃さなかった。

「仕事に楽したいとかないだろ。食べる人の顔を思い浮かべてみろ、それが自分の作ったものでできた笑顔ならお前も嬉しいんじゃないのか」

「そうなんですが、、」

修造はこの男の意識から変えないと成り立たない話だと思った。

「数ある店の中からこのペンションを選んで来て貰ったお客さんに感謝の気持ちはないのか」

そして紀夫を厨房に連れて行った。

美和子が心配そうに見てるので、

江川は「大丈夫ですよ。あの人はドイツでパンの修行をして来たパンマイスターなんです。何が考えがあるんじゃ無いですか?」

「美和子さんは何故ご主人と結婚されたんですか?」

「私達は同じ会社で働いていて、同じ年に入社した同期なんです。付き合いだして将来は2人で何かやりたいねって言ってて、このペンションが売りに出されてたので相談して引き継ぐ事にしたんです。以前のここのご主人はこの方です」

美和子はファイルを取り出した。

ファイルには書類と写真が挟んであって、写真には赤い実の沢山なった背が低い木の前に60歳ぐらいの夫婦が立っていた。

「この夫婦が以前のオーナーです。このペンションの名前は以前は『ディ パンジオン ローテヨハネスレーベン』(ドイツ語でペンション赤スグリ)と言ったんですが、私たちの代になった時、ペンショングロゼイユに変えたんです。赤いスグリの事をグロゼイユともいうので。ペンションの前に何本か赤スグリがあって季節には小さな実が沢山できて真っ赤になるんです。この庭が気に入ってここを引き継ぐ事にしたんです。前のオーナーは奥様を亡くされてからがっくりきてペンションを売りに出されたんですって」

江川は「そうなんですね、今厨房にいる修造さんも奥様を亡くされて、それはそれは気落ちされていました。大切なものを無くすと辛いですね」

「江川さんはご結婚はまだ?」

「はい、まだなんです」

修造さんと亡くなった律子さんは僕の理想の夫婦だったんだ。

生活とパンと言う意味のパン屋Leben und Brot(リーベンアンドブロート)を修造さんが立ち上げた時、いつも2人の心が通い合ってたのを見ていて羨ましかった。

誰かと付き合ってるうちにあんな風になるのかと思ってたけど、未だにそんな人と巡り会えてない。

あんな風に目を見ただけで分かり合える仲なんて中々無いよ。僕には無理かな。

一方厨房では

修造は紀夫からまず興味を引き出さないとと考えていた。

しかしやる気のないやつから興味ってどうやったら引き出せるんだ。。

そうだ今日のパンの工程から見てみるか。

そして紀夫に「今日のパン作りの手順から教えて下さい。正直にね」と言った。

紀夫は紙に今日のパンの配合と工程を時系列で書いた。

紀夫の文字は、まるで揺れた所で書いた様なガタガタの読み辛い字だった。

「発酵時間が短いな。それを補う為かイーストを増やして、高温のホイロで無理矢理発酵させたな」

「はい、その通りです」紀夫は正直に言った。

「作り始める時間が短くて無理矢理やった感じです」

「手抜き、楽、それってその時は良くても続けると信用を失うよ。他人の信用って中々得られないじゃないですか」

「はい、それもその通りです」

紀夫の言い方は開き直ってる様にも聞こえた。

修造は前日に生地を作ってじっくり冷蔵庫で発酵させるレシピを書いて貼ったものの、これって実際にやってみないとなあ。でも明日は金曜日で麻弥の店の日だから今日中に帰らないと、、

「俺は今、そこに座ってる江川の店に在籍してるんですが、今度来て実際にこのやり方をやってみませんか?」とレシピを指差しながら聞いた。

「パン屋さんなんですか?行けたら行きます」紀夫は曖昧な返事をした。

「行けたら?今本気でやらないと、さっきみたいに愛想つかして奥さんが去って行ったらどうするんですか。このペンションも奥さんも失って初めて気がつく事になるんじゃないですか?」

「料理もパンも手間暇かけないと美味しいものは作れないんだ」

料理はどうなんだ、さっきこいつ料理が得意じゃないとか言ってたな。

そういえば冷蔵庫は出来合いのものばかりだったな。

「紀夫さん、あんたこのままでいいんですか?本当はこの仕事やりたかなかったんですか?」

「ずっと妻と2人で一緒にペンション経営をしていたかったです」

「していたかった?」

紀夫は近くにあった包丁を持って修造に見せた。

右手の付け根から伝わって、刃先が微かだが小刻みに震えている。

「ずっとじゃないんですが段々ひどくなってきて。身体を動かすと手が震えるんです」

「奥さんは知ってるんですか?」

「いえ、言ってません」

「医者は本態性振戦(ほんたいせいしんせん)と言ってます」

「初めて聞きましたが、、?」

「手、首、腕など人によって症状は様々なんですが、震えが出るんです。最近薬を飲み始めた所です。酷くなると手術になるそうですが怖くて」

「そうだったんですね、知らなかったとは言えキツめに言っちゃってすみません」

紀夫は修造を見た目はいかついのに心の優しい人だと思った。

「俺の亡くなった妻も初めは気にもしてなかった。何ともないって言ってたんです。どんどん悪化してそれが原因で亡くなった。止めようと思っても弱って、、細くなって、、もっと気をつけていれば良かったと後悔しかない」

「大切なものは守らないといけないですよ」

ーーーー

修造は江川を外に呼び出して事情を話した。

「え?手が震える?実際どうするんですかね?奥さんが作って旦那さんがサポートするとかが良いんじゃないですか?それか療養の為に旦那さんは休んで誰かを雇うとか?」

「そうだなあ。そうなっていくかもな」

2人が話してると1人のおじさんが庭を見て回っていた。
絡まった蔦(つた)を取ったり雑草を抜いたりしている。

江川はそのおじさんを見て気が付いた。

「あ!あなたは前のオーナーさんですよね?僕さっき写真見たばかりです」

おじさんは腰をとんとんと叩きながら伸ばして修造達を見た。
「ここのお客さんですか?そうなんですよ。ついつい気になってしまって、時々庭の手入れをしています」

「修造さん、こちらは以前ここのオーナーだったんですが、奥さんを亡くされてからここを売りに出されたそうなんです」

「神田清と言います」

「僕は江川拓也、こちらは田所修造さんです。僕たち2人ともパン職人なんですよ」

「パン職人。。私もここでよくパンを焼いたもんです。懐かしいなぁ。妻と2人で食事の用意やお客さんのお世話をしていました。妻はこの赤すぐりの木を気に入ってましてね。夏頃になると赤い実が一面に広がっていました」

「神田さんは今はもうお仕事はされてないんですか?」

「そうですね、思い出と共に生きてるようなものです。仕事をしてませんので結構暇ができて、たまにここに来ています」

「ここの料理やパンは何がお勧めだったんですか?」

「若い頃ドイツに少しだけ修行に行っていて、その時に覚えたものを出してました」

「ここで立ち話も何ですから中で話しましょう」神田を建物の中に入れて座らせた。

「俺と神田さんは境遇が似ています」修造は神田にシンパシィを感じていた。

江川が「修造さんも以前ドイツで修行されてたんですよ。奥さんが亡くなられて今はお店はやっておられませんが」と言った。

聞いてるうちに修造は段々落ち込んできた。
律子の事を思い出す言葉が多いせいだ。

表情を曇らせて窓の外を見出したので、内心余計な事を言ったと思いながらも江川は「以前はどんなパンや料理が人気だったんですか?」と神田に聞いた。

「ブロートヒェン(小型パン)やブレッツェル、カイザーゼンメルは人気でした。ミッシュブロートをサンドイッチにして出したりしてました。料理はグラーシュ(トマトベースの肉料理)、シュニッツェル(トンカツ)が人気でした」

「うわ!うまそうだなあ〜」

修造が向き直って「地元のものは何か使ってましたか?」と聞いた。

「はい、この辺はりんご農家が多いので季節には使っていました。アプフェルシュトウルーデル(りんごのお菓子)やフェアサンケナーアプフェルクーヘン(沈んだりんごのお菓子)を食後に出してましたね」

掃除をしながら聞いていた美和子が「凄い!うちもそんな料理やデザートが出せたらもっと賑わうと思います」

修造たちは紀夫を見た。

江川は、紀夫さん奥さんに病気の事言わないのかなあ、僕から言うのはお節介がすぎるし、、と思った。

紀夫は黙って立っている。

「俺はりんご農家が見たいんですが、案内して貰えませんか?紀夫さんも行きましょう」

紀夫は修造を見た。

何かまだ言いたい事があるんだろうか?

自分だってこのままではいけないのはわかってるんですよ修造さん。

「わかりました行きます」

修造、江川、神田、紀夫の4人は近くにあるりんご農家を訪れた。

「僕、りんご農家来たの初めてです修造さん」

「俺もだよ。南にはない空気感だなあ」

温度が低い冬場のせいもあって、空気は冷たく、澄んだりんごの木の香りが肺に入って来て心地よい。

修造と江川が始めてみたりんご農家のリンゴは、絵や写真で見るりんごの木のイメージとは違っていた。りんごの木一本一本はそんなに大きくなく、脚立に乗れば上まで手が届くように手入れされていて、わい下(わいか)と言って枝が下を向いていて、実が沢山なって収穫しやすい形になっている。そんなりんごの木が綺麗に整列した景色が広がっている。

神田の紹介してくれたりんごの農家の澤口さんが説明した。
「今は紅玉の季節は終わっていてここになってるのはジョナなんです。甘味や食感が人気ですよ。紅玉とゴールデンデリシャスを交配して作られたものなんです」

澤口さんが懐かしそうに言った。
「神田さんのりんごのケーキ、また食べてみたいです。ケーキ屋さんとかしないんですか?」

「もう新しく開業する元気はないですよ。妻もいないし、作ってみたい気持ちはありますが」

修造はジョナを指して「神田さんこれ、ペンションで何か作って貰えませんか?良いですか?紀夫さん」と言った。

「はい、勿論」2人が同時に返事をした。

農家のおじさんにりんごを少し分けて貰い、神田の知り合いのケーキ屋に立ち寄りアーモンドの粉末を譲って貰った。

修造達はペンションに戻り、修造と紀夫、神田が厨房に入った。

入りきれなかった江川は美和子と席に座ってりんご畑でのいきさつを説明した。

「今から神田さんが美味しいものを作ってくれるそうですよ」

「そうなんですか」

「美和子さんはご主人に変わって欲しいですか?以前はどうだったんですか?」

「そうですね、初めはもっとやる気だけはありました。さっき主人も言ってましたが、やり方がわからないのかもしれません。どなたか教えて下さればと思って料理教室に行ってくれるように頼んだんですが、行かないって、、」

「あの、奥さんその事なんですが、旦那さんは病気だそうですよ。さっき修造さんから聞きました。手が震えるそうなんですが気がついてませんでしたか?」

「え?そういえば最近良く物を落とします。それに朝起きるのも辛そうでした。でも全然知りませんでした。何故教えてくれなかったのかしら」

江川は修造に聞いた事を美和子に伝えた。

「心配かけたくなかったのかもしれませんね」

「それであんなに変わってしまったんだわ。何にも興味がないのかと思っていました。私紀夫に謝らなくちゃ」

2人は厨房を見た。

一方厨房では、神田がりんごのトルテを作ろうとしていた。さっきケーキ屋で手に入れたアーモンドプードル(粉末)とシナモンを効かせた生地を作って冷蔵庫で冷やした。

修造は「トルテの台ができたらひとつくださいよ」と言って冷凍庫の赤スグリを出してきた。

「これでおれもリンツァートルテを作りますよ」

神田は懐かしそうに「リンツァートルテもよく作りました。トルテに赤スグリのジャムを作って塗るんです」

「そうですね」

紀夫はそんな2人を見ながら、なんて楽しそうに作るんだ。自分はこんな気持ちで何かをつくった事があるだろうかと自問した。

「自分にも何か手伝わせて下さい」

「大丈夫ですか?じゃあグロゼイユ(赤スグリ)でジャムを、それとりんごでコンポートを作って下さい。ゆっくりで良いですよ。疲れたらいけないですからね」

修造は配合を紙に書いて紀夫が見やすいところに貼った。紀夫が困らないように時々説明して、自分も神田とトルテ作りをしていた。

「できたらすぐ冷まして下さい」

紀夫は言われた通りにジャムとコンポートをバットに広げて冷蔵庫で冷やした。

修造は形に敷いたトルテの生地を紀夫に渡した。

「今度は冷めたものを各々のトルテに広げて」

「はい」

「この生地を格子状に置いていって下さい」
修造は細長くカットした生地を渡そうとした。

「手が、、」紀夫の意思に反して手が小刻みに震えている。

神田もそれに気がついた。

「病気なんですか?」

「ええ、まぁ」

「大変じゃないですか」

「俺がやりますよ」修造は生地をトルテの上に貼り、周囲にも生地を張り付けてアーモンド散らばせてトルテをオーブンに入れた。

焼けるのを待つ間、修造と一緒に片付けをしながら神田が聞いてきた。

「手が震え出したのはいつからですか?」

「半年ぐらい前から徐々になんです。」

「何故奥さんに言わないんですか?」と修造が聞いた。

「自分は今、あまり妻との関係が良くないんです。失うのが早まるだけかなと考えていました。でもちゃんと話をしなかったから悪化してしまったんだなと今日悟りました。妻との関係もペンションの経営も」

「修造さんの言ってくれた言葉が全て刺さりました。心配してくれてありがとう」

修造は黙ったまま焼けたトルテをオーブンから出した。

あたりはトルテの良い香りが立ち込めた。

修造達は出来上がったトルテをカットして美和子の所に運んできた。

「奥さん食べてみて下さい」

2つともフルーツの甘酸っぱさとアーモンドクリームの優しい甘さが
口に広がり癒される。

「どちらも美味しいです」

「これをこのペンションの名物にしたらいい。夏の赤スグリの季節、そして冬のりんごの季節と分けるんです」

紀夫はびっくりした。

「自分がつくるんですか?」

「いや、作るのは神田さんです」

えっ!とみんな驚いて修造と神田を代わるがわる見た。

「神田さん、あなたここで調理をしないですか?このペンショングロゼイユの脆弱な部分を補ってあげて下さい」

神田はしばらく考えた、懐かしいこの場所で、亡くなった妻との思い出の場所でもう一度。

修造は紀夫と美和子にも「どうですか?」と聞いた。

「あなた、病気なのに何故隠したりしたの?私に1番に言わなくちゃいけない事なのに」

「すぐ直ると思っていたんだよ」

「それに美和子が頑張ってるのを見て、申し訳なくてどうしても言い出せなかったんだよ」紀夫は美和子を見つめて言った。

そして修造に言った。

「うちとしても勿論神田さんに来て欲しいけど、うちは今そんなに人を雇う収益が無いんですよ」

「そうじゃないんだよ。俺は金の事を言うのは好きじゃないが、神田さんが入る事で余裕ができる、夫婦2人でのもてなしに人が集まって来る、忙しくなる、それでお給料が払える。そう言う事だろう」

美和子は「本当にそうだわ。私も紀夫も大切な事を見失っていました。ギスギスしておもてなしの心を見失っていました。神田さん、我々と一緒にペンショングロゼイユで働いて頂けますか?」

神田は建物の中を見回した。

「妻を思い出して辛かった時期もありましたが、懐かしい思い出の方が多い。またここで働きますよ」と言った。

修造は朝作ったフルーツソースのあまりを冷蔵庫から出して持ってきた。

「それともう一つ、これも赤スグリで作ったローテグリュッツェというフルーツソースなんですが、甘酸っぱくてアイスにもヨーグルトにも合いますから夏になったらこれも出せば良いですよ」と配合を書いて渡した。

そして

「神田さん、2人はこれから頑張って行くでしょう。前のオーナーだし、色々気になるでしょうがあまり口出ししないようにね」とこっそり言った。

「わかりました。」神田が笑って言った。

「約束ですよ。」

以前のようでは無いけど、過去は戻ってこないけど、また新しく始めないといけないんだな。

俺は律子にもう一度会いたい、全然諦めがつかないんだ。

修造はマガジンラックのある雑誌を広げてしばらく眺めてから閉じた。

「そろそろ行くか江川」

「はい、荷物取ってきますね」

美和子が「修造さん、色々お心遣いありがとうございました。今日の事は忘れません。神田さんも協力してくれる事になりましたし、これから紀夫と2人で治療にも力を入れていきます」

修造は黙ってうなずいた。

そして外に出てスマホを開いた修造は「うっ!」と呻いた。

麻弥から100件ぐらいLINEが来ている。

どこにいるの?修造

早く帰ってきて修造

寂しい修造

愛してる修造

「うわ、凄いですね麻弥さん」

「江川、俺はもう麻弥に逆らわないようにしたんだよ。全てを受け入れてやりたいようにさせてやるんだ。はいはいはいってな。佐山も怖いし、麻弥は俺が隠れても地の果てまで追いかけて来そうだし」

「コンディトライマヤって凄い店ですね」

江川は修造を見つめた。

全てを受け入れる事にしたんだ。懐が深いな修造さん。

愛にも色々ありますからね。

「逃げたら困りますよ。世界大会もあるんですから」

「わかったよ、さあ、行こうか江川」

「はい、交代で運転ですよ」

「まだ少し時間があるから民芸館を見て帰ろう」

車で立ち去る2人を見送りながら美和子は考えていた。あの修造って人、どこかで見た事ある、、

と考えて思い出した。

あ!

さっき修造さんが見ていたパン好きの聖地2に載ってるあの人本人だわ。

全然雰囲気が違うから分からなかった。

美和子は走り去る車が見えなくなるまで外に立っていたがやがてペンションに入って行った。

過去は戻らず思い出が時に人を苦しめる。
だけど明日はやってきてまた新しく始まる事ばかり。

ペンショングロゼイユの中では3人が夕食の献立を考える話し合いを始めた。

おわり


このお話は2021年05月25日(火)グロワールのブログに投稿したものです。

パン職人の修造 第6部 再び世界大会へ 後編

パン職人の修造 第6部 再び世界大会へ 後編

パンの世界大会当日

「江川、緑! 今日は頑張ろう! 今までやって来たことを無駄にしないで悔いのない様挑むんだ!」

江川は、昨日ミヒャエルに何を言われたのかわからないけど修造さんが怒った所を久しぶりに見た。僕が一矢報いる様冷静に動かなきゃと思っていた。

「修造さん、頑張りますね! 今日は緑ちゃんを上手くリードします」

そう言いながら緊張で手が震えそうになるのを笑って紛らわせた。

各国の旗を持ち選手が次々に並び開会式が行われた。

隣のミヒャエルが「修造、よく眠れたか?」と嫌味っぽく言ってきた。

「ああ、よく眠れたよ。余裕たっぷりだからな!」

日本のチームも開始の音と共にブースに入った。

キッチンの配置は江川が作った試作室と同じで慣れた環境で動く事ができた。

練習通りに生地作りを始め素早く仕上げていった。

ヴィエノワズリー、タルティーヌ、カンパーニュなど様々なパンが素早く出来上がっていく。

種類ごとに同じ形で同じ大きさのものが綺麗に並べられて行った。

「いいぞ、予定時間通りに無理なく進行している」

出来たパンは次々にカットされ、ピールにのせられ並んで座っている審査員が試食して点数をつけていく。

修造とミヒャエルはお互いの作品をチェックして、正直僅差だと感じていた。

俺がエーベルトを独り占めしてると感じていたんだな。あの素晴らしいベッカライ、エーベルトベッカーがもう亡くなったなんて信じられない。

エーベルトを恨まないでくれミヒャエル。。。

修造は江川の次の作業がスムーズにいくように声を掛けていった。

江川と緑は土台の燃える花をモチーフにしたカンパーニュの上に薪を組み、その上に焦げ茶色の太鼓を取り付け、手に五穀豊穣祈願の棒を持った男を立たせた。

一番難しかったのは薄い炎の形の生地を外れず割らずに取り付ける所で、内側は固定してかなければならない。固定してるのに動きをつけるのは容易では無い事だが、そこは日本でも何度も練習した。

炎の形をいくつも作り、下から上へと色を変えながら取り付けていき、それは彩りも美しく、荘厳で炎が風に煽られて燃え上がる感じが上手く表現できていた。まるで火の粉が見えるようだった。

江川の勢いのある正確さと緑の素早い動きは絶妙なコンビとして人々の目に映った。

2人はパンを次々完成させて並べ、飾りパンを手前の台に置いた。片付けを済ませて終了の赤いカーテンを引いた。

並べられた作品を見比べてミヒャエルが「見てみろ我がドイツ国の美しい芸術作品を」と言ってきた。

「おいミヒャエル。お前の目は節穴か? 見てみろこの炎の芸術を」

手をかざすと作品の赤が手に映え、まるで炎が映ってるようだった。

選手たちは集まって集計を待った。

「お母さん、お父さんと私、頑張ったよ」

緑は祈った。

江川と緑は3位以内に入り、応援と拍手に迎えられ3か国が並んで知らせを待った。

日本、ドイツ、イタリアの3か国の選手が緊張の一瞬を迎えた。

その時世界大会の会長がマイクで告げた。

「JAPAN!」

江川は世界1位になった。

「ぅおおおおおお―――――っ! やったーーーっ!」

江川が柄になく大声を出した。

江川はペストリー部門、サンドイッチ部門、芸術作品部門の3冠に輝き、緑はベストアシスタント賞に選ばれた。

2位のドイツとは僅差での危ない優勝だった。

修造は感動して泣いている西畑の肩を叩いて、

「西畑ありがとう。緑を頼むよ」と言った。

「修造さん。僕途中で気が付きました。緑さんに実力で負けないように僕を育てて下さってたんですね」

「それはな、西畑。お前が頑張ったからだろう。頑張らなければ無かった事だ」

去り際に西畑の方を振りむき薄く笑いながら「急にドイツに一人で行くとか言ったら俺がボコボコにするからな」と言った。

「わわ、気を付けます!」

修造はミヒャエルを探し声を掛けた。

「お前は俺の事をどう思ってるか知らないが、エーベルトは俺の恩師なんだ。お前のお父さんには抱えられない程のものを貰ったよ、だからお前にも礼を言わせてくれ。ありがとうな、ミヒャエル。また会おう」

修造はミヒャエルの手を握り、ミヒャエルは少しだけ頷いて、

「修造、昨日は大会前でお前にかましたのさ。本当は都心部の近くの店舗での薪窯が段々規制が厳しくなって来たんだ。親父は改装を嫌がってたけど、親父も亡くなったから思い切ってイメージを一新したんだ。何も連絡しなくて悪かったな」

ミヒャエルは修造の手を握り返して去って行った。

ーーーー

帰国後、江川はますます人気シェフになりLeben und Brotは沢山のお客さんの大行列ができた。

江川と緑は取材の嵐で忙しかったので、修造は西畑や他の職人達と大量のパンを作った。

様々な人がSNSで店の事を知らせ、それを見た人達がまた押し寄せた。

修造は西畑と持って帰って来た炎の祭りの飾りパンをもう1度組み立てて店に飾った。

するとその写真を撮る為にまた人が押し寄せた。

これは当分忙しくなるな。

修造はテクニカルアドバイザーとして数件の企業に声を掛けられ条件のいい高額の提示をされていたが、どこにもまだ忙しいからと断っていた。何処にも、何にも修造の心を動かすものがなかった。

金曜日、修造は麻弥の店に来ていた。

「修造、優勝おめでとう、私も嬉しいわ」

麻弥は豪華な花束を用意していた。

「ありがとう麻弥」

世界大会が終わった、でも、もう帰る場所が無くなってしまったな。江川の店も忙しいし、大地の練習も見なくちゃならないから、しばらくこのままで、その後は、、

麻弥は修造の背中を見て思った。

「あなたは私がどんなに愛情を見せても寂しそうだわ」

「私の心はいつまでも届かないのね」

麻弥はいつも修造に負担をかけない様に努めて明るく振る舞った。

例え、いくら忙しくても修造の前でだけは余裕のあるフリをして。

そんな麻弥の心も限界が来ていた。

同じ頃

緑と西畑が大地のところに挨拶に来ていた。

「大地、西畑さんよ。私たち結婚するの」

「西畑さん、お姉ちゃんはファザコンですが、よろしくお願いします。姉ちゃんも結婚したらあんまりお父さんお父さん言わない方が良いよ」

西畑は苦笑いした。

「大丈夫です。僕はそこもひっくるめて緑さんと結婚させて貰います」

「もうなによ〜! 2人とも!」

「あのさ、ママさんって、、、麻弥さんって知ってる?」

「知ってるわ。お父さんにベッタリの人でしょう」

「あの人も式に呼ぶ?」

「お父さんとお母さんが仲良かった所がまだ記憶に新しいのに? 私達が彼女を呼ぶの?」

「呼んであげたら? このままでは良くないよ。新しいことに気持ちを切り替えさせないと。それにママさんはそんなに悪い人じゃないよ。ただ親父が好きなだけなんだと思うよ」

「なによママさんって! 少し気が早くない?」

「そういうあだ名の人なんだよ」

「お母さんのお仏壇の前でこんな話、、」

「ママさんはいつも綺麗に掃除してくれてるよ」

大地は律子の仏壇を見ながら言った。まるで公認だとでも言わんばかりに。

大地は普段なにも話さないのにこんな事を考えてたんだと緑は思った。

お父さんにとって過去は戻りたいけど戻れないとても辛い所なんだわ。

「わかった。麻弥さんも呼ぶわ」

待ちきれなかった西畑は緑と挨拶に来た。

「修造さん、改めてご挨拶に来ました。僕と緑さんはLeben und Brotで結婚式を挙げます。これ、麻弥さんの招待状もあります」

「お父さん、私たち2人でパン屋さんを開くのが夢なの。Leben und Brotみたいにお客さんがパンを楽しんで選んで笑顔で食べてる、そんなパン屋さん。」

「楽しみにしてるよ」

「麻弥さんも式に来てくださいね」

「素敵ね。2人でウェディングケーキを作らない?」

「そうだね」

式の当日、修造と麻弥は4段のケーキにマジパンの花と、バゲットを持った新郎新婦を飾った。

「良いのができたわね」

「そうだね」

結婚式は花が咲き乱れたLeben und Brotの庭で行われた。

律子の若い時にそっくりになったドレス姿の緑はとても美しかった。

「綺麗だな」

自分の若い時を思い出し、あの時式をあげて律子にドレスを着せてあげたら良かったと修造は後悔した。

大会の後、自分を責める寄せては返す波の感覚が随分空いて来ていたが、まだこんな時は辛さが勝つ。

遠くを見つめる修造に気が付いたが、」披露宴の間麻弥は修造の腕を組んで明るく振る舞った。

「2人で上手くやっていくんだよ。幸せにな」

「修造さん、お、お父さん。僕、緑さんを幸せにします。次はお二人の番ですね!」

腕を組む修造と麻弥を見てそう言ったが、修造は返事をしなかった。

ーーーー

雨が降っていたある日

修造は麻弥の店に呼び出された。

お店は定休日で、電気の消えた店に麻弥は一人で座っていた。

「私、、もう疲れたわ。私はきっと亡くなった奥さんに勝てない。あなたが私を愛する日は来ないのよ」

緑と西畑の姿を自分に重ね合わせて見ていた事を、麻弥に見透かされていた。

その時初めて修造は麻弥の顔を真っ直ぐ見つめた。

「なぜあなたは私の言いなり人形の様に振る舞うの? 私の事を馬鹿にしてるの?」

涙をいっぱい溜めている麻弥。

瞳から溢れ出る涙を見て初めて麻弥の事がわかった気がした。

「麻弥、心から謝るよ。こんなに無理させて、、俺は麻弥のことを誤解してたんだ」

「麻弥聞いて欲しい事があるんだ」

「俺はまだ心の中に穴があいたまま生きてるんだ」

修造は初めて律子が亡くなった夜の話をした。

その時抜け殻の様になってしまった事も。

寄せては返す後悔が自分を責め続けている事も。

麻弥は修造の隣に座って手を握り、泣いていた。

今日修造は初めて本心を明かした。

「もっと早くこの事を打ち上げれば良かったね」

「麻弥」

「俺は山の上であのソファに座りながら自分が死ぬのを待っていたんだよ。自分から死のうとしたわけじゃない、そうじゃないんだ。ただいつか自分が終わるのならその時をじっと待っていようと思ったんだ。俺は頑丈だったよ。。でも流石にもう少しで自分は終わる、、そう思っていたら、麻弥が俺を訪ねて来たんだ」

「そして何かが不思議な力で俺を立ち上がらせたんだ」

「麻弥が帰った後、俺は何日か座ったまま過ごしていた。そしたら凄い風が吹いて来てその時聞こえたんだ。確かに。怒った声で『立って!』っていう声が。我慢してたけどとうとう切れたって声だった」

「俺はその後何日か待ってた。もう一度声が聞こえるかもと思って探したよ。でも何も起こらなかった。今となっては空耳だったのかどうか」

「律子が子供達を叱る時あんな言い方だった。だからいつまでもじっとしてる俺をとうとうあの世から叱りつけたのかもしれないな。そう思ってこっちに来たんだ」修造は途切れ途切れ話した。

「その後、麻弥のシュニッテンが俺を救ってくれた。俺の次の生き方があの時から始まったんだ」

「俺は若い奴らに色んな事を教えなくちゃいけない。そういう事だったんだよ」

前を向いて行け。そう言いたかったのか。。

「麻弥」

修造は麻弥と向き合って言った。

「フラついていた俺のせいなんだ。俺達は間違った付き合い方をしてたんだよ」

「君をずっと傷つけていて悪かった。親友であり、懐かしい同僚であり、同じ体験をした仲間なんだ。大切な人なんだ。麻弥を失いたくないんだよ」

「もう明るい振りしなくていいんだよ。泣きたい時は泣いたり、疲れた時は疲れたと言ってくれ。本当の自分を見せながら一緒に生きていってくれないか」

ーーーー

麻弥はそれ以降顔を見せなくなった。

仕事場にも来ないし家にもおらず忙しい様だった。

店の窓から外を見ながら麻弥の事ばかり考えている事に気づいた。

麻弥は心の真ん中で真っ赤に燃えていた。

「バカだなあ俺は」

振りむいて仕事中の佐山に「俺は今、ちゃんとしてあげて下さいの意味がわかったよ」と言った。

「今ですか? 全く呆れますね」

佐山は軽蔑の眼差しで修造を見た。

「あなたは一本気過ぎるんですよ。一つの事が終わらないと次のことがわからない不器用な人ですね」

佐山はスケジュール帳を開いて指さした。

「麻弥さんが確実につかまる日がありますよ。ほら」

そしてスマホを素早く検索して「丁度隣が空いてるから取っといてあげますから今から準備したらどうです?」

走って去っていった修造に「鈍感な人だ。僕はただボスに幸せになって欲しいだけ、それが何故かあいつにはわからない」

修造は佐山に教わった時間に飛行場に来た。

「麻弥」

ドイツ行きのゲート前で修造は声をかけた。

「どうしたの? 私は仕入れに行くだけよ? 何かあったの?」

「俺も仕入れに付き合うよ。ノアに会いたいんだ。さっきメールして約束したよ」

麻弥は不思議な気持ちだった。

修造、雰囲気が変わったわ。表情がスッキリしてる。そういう私も前と違う。あれから修造を信頼してる。今までは何処かに行ってしまったらどうしようって不安だったけど、その不安はなぜか消え去ってしまったわ。

ドイツに着いた後、麻弥と仕入れを済ませ懐かしいヘフリンガーに出かけた。

お世話になったマイスターは髪が真っ白になっていたがまだまだ元気そうだった。

久しぶりだなあこの雰囲気。

なんて素晴らしい場所だったんだ。

ここでパン職人の自分は生まれた、そんな気持ちになった。

そして麻弥ともここで出会ったんだ。

その時修造は思い出した。

あの角から、あの店の中からいつも麻弥が修造に向かって手を振っている所を。

あの時から麻弥は俺の事をこんなに長い間想ってくれていたのか。

「忍者! 久しぶりだなあ!」親友のノアが待ち構えていた。

「久しぶりだねノア、忍者なんて、もうあの時みたいに機敏に動けないよ。おじさんになっちゃったからね」

「お前のことはずっとSNSで見てたよ。お前らが付き合ってるって知らなかったけどね」

パンとビールで話はいつまでも弾んだ。

楽し過ぎる時間だった。

修造は久しぶりに笑った。

そして帰り際にノアから紙袋を受け取った。

「親友のノア! ノアに頼んで良かったよ」

「うまくやれよ」ノアは笑って修造の背中をポンポンと叩いた。

ーーーー

「やっぱり寒いわね、この時期は」

麻弥はオレンジ色のコートに白い帽子を被っていた。

修造と麻弥はやっと心が通じた感覚を2人で感じ取っていた。

心の道が出来た、そんな感覚だった。

修造は麻弥のふとした表情に胸打たれる瞬間が増えた。

「俺は今から行きたいところがあるんだ。一緒に行ってくれる?」

「どこなの? それ」

それはクリスマスマーケットだった。

巨大な施設に屋台が沢山並んでいる。

各店々に沢山のクリスマスの飾りや置物、食べ物などが売っていて目移りする。

ホットワインと焼きソーセージを食べてゆっくり回った。

石畳みはヒールで歩きにくく、つまづきそうになった時、修造が麻弥の腰に手を当て支えた。

「ドイツ式の石畳は結構歩きにくいんだよ」

人混みの中を歩きながら麻弥は気づいた。

修造は私が誰かにぶつからない様にさりげなく避けてるんだわ。

ひょっとして私を守ってくれてるの?

「あれ見て、移動式の観覧車よ。こんな大きいものどうやって運ぶのかしら。凄い迫力ね」

「いいね、乗ろうよ」

キラキラと色を変えて輝きながらゆっくりと回る観覧車からはマーケットや川のイルミネーションが延々と続いてるのが見えた。

町中がクリスマス色に輝いている。

「綺麗ね」

外を向いている麻弥をこちらに向かせてノアが作ってくれたレープクーヘンを首にかけた。

Willst du mich heiraten? (結婚してくれないか?)

意外過ぎて麻弥は涙が止まらなくなった。

麻弥の頬の涙を指で拭いながら「麻弥、俺は熱くなる性分なんだ。これから麻弥の姿が見えないと追いかけ回すかもしれないぞ。それでも良いなら俺と結婚してくれ。」

「ふふ、怖いわね。今まで私が修造を追いかけ回してたのに、、」

麻弥は2人の冷たい手を摩り合わせて暖めた。

「ねえ、私は温かいでしょう?」

「うん」

「私は修造より長生きするわ。まだまだバリバリやらなきゃいけない事があるの」

「ねぇ、修造、私はこの半月程物件を探してたのよ。あなたと私の新しい店を」

「あなたがドイツのパンを作って私がドイツのお菓子を作るの」

「どう?」

「それはもうやってる事だろう? 君はまだお店を増やす気なの?」

「ええ、ドイツのパンとお菓子のお店よ。修造と麻弥のお店」

修造は驚いた。

麻弥の小さな身体からいったいどうやってこんなバイタリティが生まれてくるのか。

これから自分は麻弥を手伝って生きていくかもしれないと思ってはいたけど。

「これから一緒にどこにお店を開いたらなるべく沢山の人達が来てくれるか調べましょう。そしてみんなが知りたがっていて、みんなが食べたがっているパンとお菓子を考えましょう」

「俺たちはドイツのパンや文化に対して敬意を払っている立場で、一過性の流行りを作って売り出せって言うのかい? 流行りが終わったらそれは古いイメージになってしまう。それは俺のやるべき事じゃないだろう」

「あら、違うわよ。ドイツには何千種類のパンがあるのにほんの少ししか紹介できてないわ。その沢山ある中から知って欲しいパンやお菓子を選んでみんなに食べて欲しいのよ」

「ドイツのパンの中から」

「明日ノアの所に戻って色々話を聞いてみるか。他にも店を廻ってみよう」

「ミヒャエルの店にも行こうか。挨拶もしたいし。緑と西畑がワーホリを使ってフランクと交換留学をするらしいんだ。世界大会の時に約束したんだってさ」

「その店は凄い人気よ。行列ができてるらしいわ」

「好都合だよ。店内の様子をじっくり見よう。みんな何を選んでるかもわかるし」

ドイツのパンとお菓子か、、本当に奥が深い。案外麻弥の言ってることは難しいぞ。

ドイツから店一軒移すぐらいの気持ちでないと、、

それに今の麻弥の2軒の店と百貨店の売り場の商品は今は1号店で作ってるが手狭だし、いっそセントラルキッチンを作って俺が管理して、1号店と2号店は佐山に回させて麻耶は経営って感じになるだろう。

麻耶が一等地に店を出すんなら家賃が高いだろうから、セントラルキッチンは結局家賃の比較的安い1号店の近くに作らないと。。

あっという間に修造の頭の中はそれでいっぱいになってきた。

「帰ったら物件を見に行きましょ、良いところがあるの」

「麻弥、これから大変だぞ」

「あら、平気よ修造がいるんだもの」

そう言って2人はドイツの夜の街に消えていった。

おわり

パンと出会い、人を愛し熱く生きた修造の人生。読んで頂いてありがとうございました。修造はサクセスストーリーに興味はなかったと思いますが、読んでくださった方の中に、一人でも多くパン屋さんになりたい、修造の活躍に憧れるなどの職人さんが増えたら良いと思います。誰かに言われてやる仕事は辛いかもしれません。でも自分でやる仕事は楽しいものです。今回この話には自分の知っているパンに纏わるあらゆる事を盛り込みました。パン屋さんにも色々な店があり、製法も様々です。沢山の考え方があると思います。例え始まりが修造の様にやる気なく始まったとしても、興味が湧き、追求していける様になればいいと思います。

※尚、このお話はフィクションであり、実在する人物、団体とはなんら関係ありません。

パン職人の修造 第6部 再び世界大会へ 前篇

パン職人の修造  再び世界大会へ 前篇

高校生になった大地が修造と暮らし始めた。

「大地は何かやりたい事があるのかい?」と聞いたが大地もまた無口な方で
「うん」だけしか答えなかった。

こんな風に無口な自分の事を、律子はよく理解してくれていたな。

本当に感謝しかないよ。

修造はプライベートではまだまだぼんやりとしている事が多かった。

大地は先だっての父親への質問に何日か経って
「俺、空手の全国大会に出るのが目標なんだ」と答えた。

手足がすらりと長くて瞬発力がある大地は小さい頃から師範にも強くなるって言われてたな。
「楽しみにしてるよ。その時は応援に行くね」

修造は大地とスパーリングをしたり得意技の三日月蹴りや、太ももの裏など身体の中で当たると痛い所を教えた。

上段蹴りを狙ってると見せかけて脇が開いた瞬間に蹴りを入れると相手は悶え苦しむなどなど試合に役立つあれこれを2人で練習してるうちに楽しくなってきて、久しぶりに気分が上がった気がした。

「身体を動かすのは良いな。俺もジムにでも通って少し体型を戻さないと痩せて筋肉も落ちてしまった」

「2人で行く?」

「大地はあまり筋肉をつけちゃいけないよ、身体が重くなるからね。トレーナーに相談してみよう」

そう言って大地と2人でジムに通い始めた。

もともと打ち込むタイプの修造はみるみるうちに身体が仕上がっていった。

「空手の練習は毎日欠かさずしないと、今日はいいや明日やろうなんて言ってると結局やってる奴と格段に差がでるんだ」

そう言いながら修業全般に通ずる言葉だと江川の顔が浮かんだ。

あいつは頼りなく見えて努力家なんだ、なんとか大会で成功させてやりたい。

ーーーー

世界大会に向け、準備をしていかなければならない。

「江川、地方の祭りでコアでヘビーな祭りを見に行こう。なるべく凄い熱気で炎の燃え盛っている迫力のある祭りだ」修造はパンデコレのデザインを決めようとしていた。

「今回はそっち方面で攻めていく訳ですね?」

「うん」

2人は車を走らせ奥州の火祭りを見に行った。

燃え盛る炎の中を灯籠を持った褌姿の男達が五穀豊穣を願う。

勢いと迫力がある。

火の粉が飛んで辺りは熱気に包まれ祭りは夜通し続いた。

バイタリティ溢れる祭りだ。

「燃える薪の上に立つなんて、、本当に燃えてしまうんじゃないかと
ヒヤヒヤしますね」

「男の祭りだな」

修造は沢山写真を撮り、それをもとに早速江川と近所のカフエでデザイン画を描いてみた。

「炎のゆらめく感じが大事だろ?」

「何か祭りのモチーフみたいなものを追加したいですね。祭りのモチーフといえば祭りの衣装の柄とかですかね?」

「種類は少なそうだな。太鼓を真ん中にして灯篭を持った男を立たせるのはどうだろう?」

「行列の先頭に纏(まとい)を持った人がいましたがそれはどうですかね?」などまだまだ考える余地があった。

その夜は通りすがりの山道にあるペンションに泊まる。

大会の時の芸術作品部門のパンは横幅が限られているからあまり幅広くできない。縦に表現できればどうなるだろう。太鼓のサイズを小さくして他の飾りを高くするか、それは世界に通用するのか、修造は眠れず一晩中考えていた。

次の日は地元の民芸館や、現地ならではの建築様式の建物のある場所に行き、襖に取り付けられた組子細工を見学した。

頭の中で組子細工と祭りを組み合わせて、イラストを何枚か描いてみた。流れるフォルムや誰もみたことのない飾りパンを作らなくてはいけない。
出来上がった下絵を江川に見せた。

「うわー! これ難しそうですね、でも試作してみますか?」

2人は帰って祭に関する情報をなるべく細かく調べた。

顔色も良くなり、次第に熱中してきた修造を見て、江川と緑は目を合わせてニッコリした。どうにかして元の修造さんに戻って欲しい。

江川はそう思っていた。あの時の燃えるような熱い修造さんに!

「僕頑張るから修造さんも一緒に燃えて下さいね」

「わかったよ江川」

ーーーー

金曜日

麻弥は店に人が居ようがいまいがお構いなしに修造にべったりだった。

この何年間かの分を全て凝縮しているかの様に修造を構った。

佐山がまた嫌味っぽく言ってきた「修造さん。ボスとみんなの前でイチャイチャするのはやめたらどうです? 見るのも嫌なんですが」

「俺かよ?」

「俺じゃないなら何ですか? 嫌々付き合ってるのか? だとしたらほんとに無責任な人ですね」 

無責任か

麻弥に押しに押されたとは言え、交際を始めてしまった事を後悔している。

「佐山、麻弥を傷つけるのは嫌なんだよ。わかってくれ」

「わからないですね。ボスが気の毒です」

全てが佐山の言う通りだった。傷つけない様にすることが傷つける事になる。

麻弥、俺がここにいるのは世界大会が終わるまでだよ。

何度も言いかけてやめた。

愛が良くわからない。今1番遠ざかりたい言葉だった。

麻弥は律子と全く違うタイプだった。

また店舗を増やしバリバリに働いて、凄く忙しい女社長なのに合間を縫って休みの日を設け、カレンダーに「S」と書いた。修造の頭文字だ。

その時は修造を訪ね「もぅ!男所帯ってしょうがないわね」と言ってバタバタと掃除して、大地に「ママって呼んでね」と言ったので驚いた大地が(あの人彼女? 「ママ」になるの?)とこっそりメッセージを送ってきた。

これには答えに困った。

特に結婚という言葉には抵抗を感じていた。
自分が誰かを幸せにするとは到底思えない。

掃除のお礼に修造は夕食にシュニッツェル(トンカツ)とライべクーヘン(ジャガイモのパンケーキ)を作った。

食べながら麻弥は大地にドイツにいた時のお父さんがカッコ良かった話を聞かせた。

「素敵だったわ、ママの憧れの人だったのよ」

(またママって言ってるよ)大地が修造に目配せした。

修造は何も言わなかった。

後で大地は麻弥にこっそり言った。

「ママさん」

「父はちょっと前まで全然やる気がなかったんだ。そこから考えたら随分ましになったんだ」

麻弥は貴重な修造の情報をじっと聞いていた。

「誰にも相談せずに一人で抱えてるけど、夜になるとうなされててそれが聞こえてくるんだ」

「だから、少し待ってやってくれない?」

「わかったわ、いつまでも待ってるから」

夜うなされる

夢にいつも同じものが出てきて修造を苦しめた。

あのソファに修造が座っている。

何か大切なものを抱えているのに腕の中でふわふわと掻き消え追いかけると声がする。

「お前が悪いんだよ」

「お前のせいで全部なくなったんだ」

と声が修造を取り囲む。

押し寄せる波の様に引いては寄せて。

いつもそこで目が覚めた。

大会の前

江川、緑の為の応援講習会が開かれ、修造について西畑も同行した。

修造は全員のためのランチを西畑に並べさせた。
「気に入ってるのかい?」何人かのシェフが西畑を指して言った。
「そうですね、良い職人になりそうですよ。大会の時はフランスにも連れて行くつもりです。どうぞよろしくお願いします」

ーーーー

世界大会で競う項目は見た目も大事だが審査員がひとつひとつのパンを味見する所が思い出された。

「食感と味も気を抜けないな」

タルテイーヌについて色々試行錯誤を重ねた。

3種類のタルティーヌをそれぞれライ麦の配合を変え、そのうち3種類は焼いた牡蠣とチーズ、帆立とピンクペッパー、3色の海藻に和風の味付けを施して、野菜とハーブをそれぞれ2色ずつシャープにカットして飾った。4種類は鹿肉と無花果、ローストビーフとブルーベリー、ターキーとラズベリー、鶏のフリットとレモンなどの、肉と果物の取り合わせを。残りの4種はカブとオレンジとクリームチーズ、渋皮栗と茄子、干し柿とフェタ、ザリガニとナンチュアソースをそれぞれハーブやスパイスと共に美しく盛りつけた。

どれが1番美味いですかね?

「このザリガニは美味かったね」

「私もこれが美味しかった」

「このザリガニはレイクロブスターと言って僕の故郷から取り寄せた物なんです。肉厚で味も良いんです」

ザリガニの身のソテーとディルの組み合わせは、ナンチュアソースのザリガニの出汁と濃厚なバターと生クリームの香りが後口にいつまでも旨みを残した。

「よし! タルティーヌにレイクロブスターとブラウンマッシュルームのソテーとナンチュアソースを使ってみよう」

「パンの上にザリガニのステンシルを施したらどうでしょう?」と、3人でアイデアを出し合った。

「塩の代わりに塩麹を使って旨みを出し、仕上げにザリガニにパルメザンを絡めて黄味を振りかけてみるか」

「八つ橋の様な薄いパリッとした食感の生地を焼いて被せてザリガニのステンシルを施せばインパクトがあるぞ」

「どうですか? いかつくカッコいいじゃないですか!」

「ザリガニの形も捨てがたいな」

「これもインパクトありますね。触角の所は糸唐辛子で表現してみましょう。」「足はルッコラを使いましょうか?」

「となると、フタは和柄がいいか」

「どっちがいいか迷いますね」

3人はひとつひとつのパンに深く拘った。

「ペストリーには祭りのイメージのものを関連付けたい」

「太鼓の形とか?」」

「華やかな色合いが良いね」

「ピスタチオとかエスプレッソ、ヘーゼルナッツとか濃厚なラズベリーとか使いたいですね」

「祭りに関連付けて太鼓の形を真ん中で開けられる様にして下は濃厚なラズベリーソース、その上にまろやかな抹茶豆乳ソースを詰めてココアとラズベリーパウダーと粉糖の3色でステンシルを施そう」

「上蓋は内側にホワイトチョコをひとまわししてみましょう」

「試食も進んで飽きが来た頃に抹茶の風味が好印象をもたらさないでしょうかね?」

「ピスタチオのクリームを生地に詰めて外側に組子細工のプレートをのせたらどうでしょう。土台はエスプレッソの風味付けをした生地に和柄のステンシルを1周させましょう」

「これは美味いよ」修造はぶどう、ネクタリン、プルーンとイチゴをバターでソテーして洋酒をふりかけフランベしてフランボワーズとハチミツを入れて煮詰まったらパンにのせてバーナーで焼いた。

「うわ! 旨い!」表面は香ばしく生地に染み込んだフルーツのソースの味が旨みを出していた。

「問題は形だな」

「フルーツボックスみたいな?」

「太鼓によく描かれている模様は?」

「三つ巴の事かい?」

「こんな感じですかね?」

徐々に様々なパンが本決まりになり後は完成度を上げていくだけになった。

修造は緑に繊細なステンシル作りを教えた。

「柄は細かすぎてもよくわからない。端をいい加減にカットするとぼんやりした印象になるんだよ」

そしてカンパーニュの美しい模様のカットの仕方を徹底的に練習させた。

「シャープに同じ感覚でリズムよくカットしていくんだ。深さが違うと焼き上がりにはっきり出てくるからね」

「江川、タイム通りにできるか練習するんだよ、西畑にタイムスケジュールを見て貰って緑と2人で何度もやってみて、時間の感覚を掴んで行くんだ。」

「やってみます!」

修造は出来ることが増えるとタイムスケジュールの行を次々増やした。大会の制限時間の8時間と言う限界に挑戦して、しかも全てを完璧にしなければならない。

「試合と同じだよ、当日に向かって練習して当日は良いパフオーマンスが出来るように自分を調整していく。相手だって努力してるんだ。猛者ばっかりだぞ」

「2人の息があってきたら次は『お互い確かめ合わなくても次の動きを考えて動く』練習をするんだ。え~っと次は、、なんてやっていたら時間なんてあっという間だぞ。2人とも役割をはっきりと決めて動け」

「できるまでやるんだ」

江川は過去に修造と出た大会の事を思い出した。

「このタイムスケジュールは修造さんが世界大会で作った物より少し劣る気がする。修造さんの速さと正確さは本当にあの時世界1だったんだ」

「あの人はタイムロスを嫌がってタイムスケジュールを頭に叩き込んできていたんだ。あれだけのものを作りながら僕を動かしていた」

勝てるのか? 今の自分は? あんな事が、、

いや

やるんだ

僕は修造さんにではなく自分に勝たなくちゃ。

「もっともっと近づいて行くぞ!」

研修室は数人以外は立ち入りが禁止になった。
何日か続けてやっているうちに2人は時間の経過と作業の手順を掴んできた。
大会で焦らないための練習だった。心のゆとりがミスを防ぐと考えたからだ。

「あの、修造さん」西畑が廊下で話しかけてきた。

「僕大会が終わったら緑さんにプロポーズするつもりです」

「そうか、それはまた大会が終わったら新たに話そう。今の俺とお前は緑が集中して動きやすいようにしてやる、それが使命だと思って打ち込むんだ。他に心配事がないように、一緒に寄り添ってやれよ」

「心の拠り所になってやれ」

「はい! 修造さん」

そしてとうとうフランスに大会の用品を送る時が来た。

ーーーー

日本のチームが大会の開催国フランスへ到着した日

会場には世界各国の選手が入るキッチンブースが並んでいる。

前日の準備も終わりかけた頃、修造に話しかけてきたドイツ人がいた。

「久しぶりだね修造」

「?」修造は目の前の男の顔をよく見た。知っている顔だ。

「わからないのか? エーベルトの息子のミヒャエルだよ」

「あ! 久しぶりだなミヒャエル!」

ミヒャエルはエーベルトの店にはあまり顔を見せなかったので何度かしか会っていないが懐かしい。。

「エーベルトは? エーベルトは元気なのか?」

「親父は死んだよ。あの店は俺が改装して観光客も気軽に入れるカフェにした」

「エーベルトが?! どうして教えてくれなかったんだ!」

エーベルトが、あのエーベルトベッカーが亡くなった?!

「俺と親父はソリが合わなかったのさ。お前がうちに入り浸ってる間、親父はお前の事を随分可愛がっていたな。親父は全てをお前に教えていた」

ミヒャエルはハナをフンと鳴らしながら。

「俺はお前が嫌いだったよ」お睨みつけた後

「そうだ紹介するよ、うちの息子のフランクだ。今回はアシスタントとして参加するが、これから俺が上級の職人に育てて行く」と続けた「明日はお前のブースの横で勝負する事になりそうだ。勿論我々ドイツの勝利だ。せいぜい頑張るんだな修造」

江川と緑が心配して声を掛けてきた「修造さん、大丈夫ですか? 随分がっくりしてたけど」

「お父さん、隣のドイツのコーチとどんな話してたの?」

「エーベルトが、、、俺の恩人が亡くなったんだ」大切な人が次々と、、しかも大事な大会の前日にまたメンタルをやられるなんて。

「あのミヒャエルは技巧派なんですよ。その息子のフランクも大した腕だと聞いています。修造さんの知り合いだったとは分かりませんでしたね」

修造はこぶしを握って立ち上がった。

そして「明日は負けられない!」

「何があってもだ」と誓った。

久しぶりに心の中に熱いものが込み上げた瞬間だった。

おわり 後編へつづく

あとがき

今回は世界大会のパンについて色々書いてみました。4部門のパンを全て高水準で作るパンの世界大会はやはり凄いと思います。

江川は世界大会に出た頃の修造を追い抜こうと頑張りを見せます。緑と西畑は優しさを見せながら愛を育み、麻弥と修造は心がすれ違います、2人の架空の愛はこれからどうなっていくのでしょうか。

そして最愛の妻律子を失った修造のロストが産んだ悪夢からの脱却は出来るのでしょうか?

※この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

この作品は2021年05月01日(土)グロワールのブログに投稿したものです。

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