55パン職人の修造 Auf Wiedersehen  江川

守破離を使って弟子っ子を一人前にしようとする修造とそれを乗り越える江川の話です。

千利休の訓をまとめた『利休道歌』に由来している守・破・離と言う言葉を皆さんは聞いたことがありますでしょうか。修造が昔空手の師範から教わった言葉を借りるならそれは師弟関係の有り様の事で、守(しゅ)は師範の流派や教えを守り基本を忠実に身に付けていく習い始めの基本の習得の道程です。破(は)は守で習った事を完璧に身につけた上で他の流派について学んだり自分なりの工夫が出来る様になる。離(り)は学んだ事を自分なりに解釈して新しい方法を作り出して価値観を見出す事です。

その言葉通り、師範の言葉は離れてみて初めて効力を発揮するものなのかも知れません。

1人で困った時、教えてもらった事を一生懸命思い出してみる。

そこで感謝の気持ちが生まれる。

茶道・武道、そしてパン職人の道も守破離の言葉は相通ずるものがあります。

江川Auf Wiedersehen

江川と気の合う友達小手川パン粉(本名瀬戸川愛莉)はパン好き情報通として時々雑誌にパンを紹介したり記事を書いたり、お昼の情報番組に出たりする仕事の傍らリーベンアンドブロートで販売の手伝いをしている。

今は江川と部屋をシェアして笹目マンション301号に住んでいる。

鈍感な修造よりも江川の繊細な心の機微に触れ、悩み事や疲れなども敏感に察知してアドバイスしてくれるありがたい存在だ。

明日は休みの日が2人重なったので夜更かしして「おうち映画」を楽しんでいた。

画面を見ながらパン粉が「私フランスに行くね」と言う一言に驚いて江川は食べかけたポテチをポロッと落とした。

「えっ旅行に行くの?いつから?」

「今契約しているテレビの仕事が終わったら」

「そ、そうなの?いつまで?」

「1年間なの。向こうでパンの勉強をしようと思って貯金もしていたし、パリのパン屋さんやケーキ屋さんを見て回りたいんだ。勿論向こうに着いたらオンラインで話せるしパンの感想なんかも卓ちゃんに知らせるね」

前々からパン粉の夢は聞いていたが、着々と準備をしていた行動力に驚きながら羨ましい気持ちもある。

「どんな所で1年間過ごすの?パリは危険な所もあるらしいから夜とか気をつけてね」

「うん、パリでは住まずに少し離れた所から通おうと思っているの」

それを聞いて江川はパン粉と話し合いながらどんな所なら住みやすいのかとか、そこはパリから電車でどのぐらいで買い物はしやすいのかとか2人寄り添ってパソコンを覗きながら夜通し調べた。

ーーーー

「瀬戸川さんフランスに行っちゃって寂しくなりましたね」リーブロのカフェ担当の中谷麻友が江川に話しかけてきた。

「そうなんだよ、僕初め一人暮らしだったのに愛莉ちゃんと住み始めたらやっぱ1人は寂しいな、愛莉ちゃん元気かな」

「1年なんてあっという間ですから、すぐに帰ってきます」岡田がドリップバッグを補充しながら言った。

「確かにそうだけど」

1年前の事を思うとこんなにすぐに12ヶ月も経ったのかと驚く。

「このお店も開店してもう2年になるね」

「早いですね」

なんて話してると事務員兼職人の塚田が呼びにきた。

「江川さん、修造さんが話があるそうですよ」

「そうなの?今行くね」

2階の事務所の扉を開け「はーい何ですか、修造さん」といつもの軽い感じでそう言った。

事務机の前に腕組みをして座っていた修造が江川の方を見て言った「江川、以前俺が『やって貰いたい事がある』と言っていた事を覚えてるか」

「あ、あの」修造にそう言われたのが4人組の襲撃の直前だったので事件の事を思い出して顔が引き攣った。

「お、覚えています」

「今日から一週間後、その日はお前1人、つまりワンオペで工房を回してもらう」

「えっ」想像もしていなかった様な内容で腰を抜かして後に転けた。

「知っての通り工房には常に5人程の職人がいて働いている。当日は皆に休みを取って貰う」

「そんな」腰が抜けたまま足がカクカク震え出した。

「心配しなくても販売と品出しの方は人がいるから」

「ひいぃ~」変な声が出た「5人分を僕一人でやるなんて無理ですよぅ」

修造は続けた「ちゃんと準備期間をやる。計画をしっかり立てろ。ワンオペの前の2日間は仕込みの日に当てる為に店は休むからその間にきちんと用意するんだ。その代わり2日分の休み明けだからかなりのお客さんが来るだろう」

江川は真っ赤な顔をして冷や汗を垂らしている。

「大丈夫だ江川、パン職人選手権の時だっていい線いってたじゃないか」

「あれは鷲羽君が1位でしたよぅ。分かりました、じゃあ1人分の仕事で良いって事ですね?売り切れ次第終了みたいな」

「5人分って言っただろ。江川、よく聞いてくれ。これから店を切り盛りしていくにあたっていつも順調とは限らない。今いてる皆もある日何等かの事情で全員いなくなるかも知れないんだ。そんな時泣きごと言っていられないのが主ってもんだ」

「はい」確かにそうだ、みんな一斉に辞めちゃったって話はたまに耳にする。

「例えるなら空手の黒帯試験なんて山に行って順にかかって来る相手を倒してやっと手にする厳しいのもあるんだ。師範に教わった事と己の精神力を最大限に出し切って戦うんだ」

「戦う」その言葉は江川にとって1番苦手な事の様に思えた。

「江川、俺は今までお前と一緒に様々な事を乗り超えて来た。俺が先輩に教わった事をお前に教えた事もあるだろう。教えると言うのはやり方を伝えるだけとは違う。できるようになるまで面倒を見る事だ」

江川は死ぬ前に脳裏に浮かぶ走馬灯の様にこれまでの修造と乗り越えて来たあれこれを垣間見た「うう」そしてまだ何もしていないのにギリギリ限界の様な唸り声をあげた。

「いい機会だ江川お前は俺がちゃんと教えられたかどうか、それを俺に見せてくれ」

「えー」

ーーーー

江川はある日突然職人が居なくなった所を想像してみた。焼成の大坂君や西森君、仕込みの立花さんや登野さん、いつも手伝ってくれる塚田君。そして修造さん。

みんないなくなって自分1人で出来るなんて思えない。

「それに修造さんは居なくなったりしないし」

布団に入り眠ろうとするもうなされて1人で山に登る夢をみる。

逃げても逃げても誰かが追いかけてきて戦いを挑んでくる。泣きながら一人目が覚めて「僕情けない」と鏡を見てつぶやく。

「僕、僕に出来るかな」

まだ6日ある

仕事中

みんなの動きをよーく見ておく。これの全てを自分がやるとなると見方も変わってくる。

大坂君と西森君、初めは仲が悪かったけど今じゃ修造さんの教えた通りタイミングを合わせて息ぴったりだ。

立花さん、仕事早いな。準備を怠らず段取り8割が大事なんだ。登野さん、発酵した焼成前の生地に素早くトッピングしてる、動きに無駄がないな。

修造さんは何でもできる、大型の重機みたいでもあり素早く動くドローンみたい。全部を見渡しながら仕事をしてるんだ。指示も的確だ。改めて思うけど修造さんって凄いパン職人だ。力も強いし羨ましいな。修造さんを超えるなんて僕には無理だ。

ところで

急にできた3連休だから「どこ行く?」なんてみんなレジャーの打ち合わせで話に花が咲いている。

キャンプに行くの?みんなで?

いいな。

本当に居なくなっちゃうんだ、僕1人になっちゃうんだ。

「1人でやらなくちゃいけないんだ」

今まで人が持っていた思い荷物を急に一人で持てと言われた心細さたるや。

ようやっと江川にもある日突然職人がいなくなった時の自分について考える事ができる様になってきた。

「江川さん、これ」大坂と西森がA4のノートを渡してきた。

「俺達修造さんの言ったことを2人でくまなくメモしてまとめた物がこれなんです」

江川が受け取ったノートは表紙が物凄く汚れていて中も油の指紋が付いていたが、これはパンの焼成中に見た時に鉄板のオイルが付いたりした物だ。

「俺達もう覚えたんで江川さんにあげます。良かったら参考にして下さい」

「ありがとう大坂君西森君。凄く嬉しいよ」

江川の周りの職人は皆修造からある程度説明を受けていて心中察するという感じだった。

ノートにはパンの種類毎にパンの名前が書いてあって焼き時間のタイミングや注意事項が書いてある。何がどこに書いてあるかだけでも覚えるのに時間が掛かるだろう。

江川がじっくりノートを見ていると「江川さん」と立花と登野が手招きした。

「ほらこれ貼っておきますね」2人は壁に並べているA 4の用紙を指し示した。

「あ」

2人の仕事の内容が書いてある紙が貼ってある、勿論江川も焼成や仕込みはするがその気持ちが嬉しい。

「ありがとう、僕いざとなったら細かい所がわからなくなると思うから助かるよ」

「2人で応援してますね」

「うん」そう言ってノートを胸に抱き膝を少し曲げながら壁のメモを端から順にじっくり見ていった。

ある程度目を通してあとは明日もう一度目に焼き付ける事にして計画表を作り始める。

作業台に向かい真剣な顔をして書き込む江川

それを見て修造はしたり顔をした。

ーーーー

パン粉とリモートで今日の事を話しながら食事をとる。

「ね、あと5日で何するの?」

「明日はいつもの様に仕事しながらみんなの様子を見ておこうと思って、それと計画表の細かいところをもう一度見直すよ」

「うん、準備は大切だもんね。その時は大変でも後になって考えるとさ、あの時に比べたら乗り越えられる気がするって事あるもんね」

「確かに、そうかも。そんな風に考えると気が楽かも」

「L’expérience est primordiale. 経験は最も重要です」とパン粉はフランス語のテキストを見ながら言った。

「愛莉ちゃんもフランス語の勉強頑張ってるんだもんね。僕も頑張るね」

「うん」2人はお互い画面にタッチした。

ーーーー

リーベンアンドブロート(生活とパン)は大忙しのパン屋さんだ。駐車場に入りきれない車が並んで空きを待っている。店の前でも少し並んで、中に入るとトレーに山のようにパンを選んでレジに向かう。そのパンは工房で作られていて、最小人数で5人多くて7人がひしめき合って製造に当たっている。

江川は店の様子を見てから工房の方に振り向いた。

今日も皆の様子を見ながら生地作りをする。

そうだ、今日からミキサー(生地作り)、成形、焼成、そしてまたミキサーを順に回ってそれを1日続けたら全ての工程を身体に覚えさせる事ができるぞ。僕今まで分業と言うか自分の仕事だけしてた気がするな。勿論誰か休みの時は交代で入るけどどこか人の仕事って感じだったな。

そんな風にして向き合ってみると皆さすが仕事も早いし技術も高い。

生地をミキサーから上げてケースに入れて蓋をしたら次の工程まで立花の作業を手伝う。各々のパン生地に乗せる物が違う、オーブン前では大坂がバヌトン(発酵カゴ)に入った生地をドンドン渡してくるそれを素早くピールという長い棒に乗せてカットしてオーブンに入れて行く。その後手袋をはめて冷ましたパンをカットして間に様々な具をサンドしていく。そしてまた戻って生地を分割して寝かせている間に次の生地をミキサーで捏ねる。

「ふう」

このローテーションを一人でなんて出来ないよ。

江川はまた意気消沈して家路についた。

こんなの修造さんだって出来ないよ。

そう思ったが布団の中でふと思い出す。

そうだ世界大会の前、修造さんは滝に打たれながら千本突きをして集中力を高めてた。

僕がいきなり滝に打たれてなんとかなるもんでも無いけど集中力は欲しいな。

ーーーー

あと4日でワンオペの日だ、江川は薄々修造に甘くして貰ってると思っていた。

準備期間が割とある事に気づく。

「本当なら準備期間なんてなくて突然みんな居なくなるものなのかも」

店と工房の間にあるカフエ部分で呟くと後でドリップバッグを補充していた岡田がそれに応えた「では明日やってみますか?」

「えっ」見透かされたと思い江川が振り向いた、驚いて大きな目がさらに大きくなっている。

「い、嫌だよ岡田君、僕全然自信ないもん」

「後 4日で何をしますか、ずっと泣き言を言い続けますか」

そんな自分はもっと嫌だ。

「僕そんなに泣き言を言ってるかな」

「それは江川さんが1番知ってるのでは」

「ぼ、僕昨日の様に皆んなを手伝ってくるね」

何となくバツが悪くなり江川は工房の方に逃げた。

「江川さん」大坂と西森が声を掛けて来た。

「今から俺達とパンを焼きましょう」

「うんわかったよ大坂君」

ところで『パンを焼く』って何をする事だと思いますか?

パンの成形の次の段階は然るべき湿度と温度で生地をいい感じに発酵させてカットを施したりトッピングなどをしていい感じに焼く事。

つまり食感を決定する大切な作業です。オーブンで加熱中「生地」は「パン」と呼ばれる様に変化するのです。加熱中生地の中の水分が蒸発して外はパリッと中はしっとりしてくる。オーブンの熱で生地内の温度が上昇すると発酵によってできた二酸化炭素が膨張して大きく膨らんでいく(オーブンスプリングと言います)この時生地内ではグルテン内の炭酸ガスが膨張してグルテンは骨格となって凝固し内層が出来上がります(パンをカットした後の気泡がそれです)そして約60度になると窯伸びは止まります。と同時に表面は焼き色が付き(メイラード反応)香ばしい(カラメル化反応)パンが焼き上がります。

いい感じの前は生焼け、後は焼き過ぎになります。

話は戻りますが、成形の次の段階を二次発酵と言って28℃で60分(お店によって違います)、始めより2倍程の大きさになり緩んだ生地が並べられたキャンパスを江川は大坂から受け取りオーブンの前に置かれたスリップピールに並べ表面をカットしてオーブンの中に入れて引っ掛けそれを引っ張るとパンはオーブンの中へ、スリップピールは外へ出てくる。

これを考えた人は天才だ、江川はそう思いながらまた次のキャンパスを受け取ってリズムよく並べては次のオーブンへ入れていく。

大坂と西森は重いものがあれば一緒に持ったりしていたが、徐々に手を抜いていく。そうしながら 4日後が心配でもある。

人気店の焼くパンの量は半端ない、次々と様々なパンを休みなく焼いていかなければならない。

「大丈夫かなあ江川さん」

「なあ」

2人の心配を背中に受けながら昨日と同じで焼成の後は生地の仕込み、その後は立花の仕事を代わりにする。

「ふう」

あっという間に今日という日は終わろうとしている。

しかし実感として隅々まで理解した気がするし、確実に素早くなった気がする。

「後3日だな」

疲れたが昨日より心は軽い。

ーーーー

3日前

この日は大量に注文が入っている日だった。近所の教会のパーテイーと市長宅で行われるホームパーテイー用のパンを用意して修造と配達する。修造は市長の母親に気に入られていて何かと注文が入って来る。

車を運転しながら「江川準備はできた?」と聞いて来たので江川はこの4日間の事を話した。

「そうか、明日から誰もいないからそこで起こったトラブルは全て自分で解決しないといけない」

「え~どうしましょう僕困っちゃいますよぅ」と言いかけて岡田の言葉を思い出して口をつぐんだ、心細いがもうやりきるしかない。

「どんなトラブルが起こるでしょう」

「そうだなあ、こんな時にかぎって想像もしない様な事ばかり起こるもんだよ。ひとつひとつ解決していくのが早道なんだ」

修造の言葉を聞きながら何事もない様に祈る。

ひきつった江川の表情を見て、大坂と西森は江川を応援するつもりでオーブンのガラスをピカピカにして、新しいウエスや手袋など周りの必要なものを全て揃え、他の者も材料の仕入れをチェックしたり掃除をして帰った。

さて、店を出て帰り道、大坂は明日から行くキャンプでのある計画を実行する事で頭がいっぱいになっていた。

江川には申し訳ないがキャンプに西森達3人を誘ったのは大坂だった。

「ああ、緊張する。テントに食料に毛布、忘れ物をしない様にしなくちゃな」

帰って持ち物チェックして、キャンプ場での行動をシュミレーションしてみる。

キャンプ場は山の上で、星の綺麗な所らしい「星空の下なんてロマンチックなんだろうな」リュックに大事な物を入れながら言った「雲ひとつない空を頼む」

ーーーー

後2日になって江川は驚いた。

店は珍しく2日間休みになり、誰もいない。

本当に自分だけになっている。

「修造さんもいないの」

しかし焦っている場合ではない。

「急いで準備しなくちゃ」

ノートや壁の工程表は覚えたし後は順にやっていく。

「まずは生地を作る」

江川は冷蔵用の生地と冷凍用の生地を作っていた、昼頃時計を見ると「12時か」ここまでは順調だ。できるだけ急いで前倒しで行いたい。

その時

プルルプルルと突然店に設置している電話がなってドキッとした。

「はい、リーベンアンドブロートです」

「あのね、後で行くからバゲットを5本と山の輝き1本置いておいて下さる?14時に着くわ」

「申し訳ございません、本日はお休みを頂いております。2日後でしたらご対応できます」と江川が言った途端、年配の女性っぽい声が激昂した。

「何ですって!今日休みなの?普段は休まないのに!今日必要だから電話したのにどうしてくれるのよ」

今日明日は休むと言うことは店頭やネットでもお知らせはしていたが、見ていない人も多いのだから仕方ない。結局駅前のパン屋ならあるのではないかと話し合って折り合いを付ける。

さて

急がなければやるべき事はまだあるのだ。

プルルプルル

何度となく電話が鳴るたびに店まで走っていくので誰かが電話に出てくれるのってありがたい事なんだって気がつく。

「はい、お電話ありがとうございますリーベンアンドブロートです」

「江川さん」女の人の泣き声が聞こえる。

「えっ?どちら様ですか」

「私、安芸川です」

「安芸川さん?どうしたの?何かあったの?」言われてみれば店で仕事している安芸川御世理の声だ。大人しくて優しい性格の子だ。

「すみません忙しいって分かってるのに。私田舎から一人で出て来て知り合いもいないし他に連絡できる人がいなくて」

「どうしたの?えっ笹目警察にいるの?どうして?」

聞けば店の同僚とも修造とも連絡がつかずここに電話してきたのだという。

大急ぎで片付けて笹目警察に行くとロビーの椅子で安芸川が目を腫らして泣いている。

「大丈夫?何があったの?」

「買い物に行ってマンションの自分の部屋に帰ったらベランダの前に男の人がいて、私玄関で気がついて大声を出したんです。そしたら私を壁にぶつけた後逃げて行ったんです」

「えーそんな事があったの、怪我はないの?まだ犯人は捕まってないんでしょう?」

「その時はぶつけた所が痛かったけど治りました。でもまだ犯人が捕まってなくて、私怖くて部屋に戻れなくて」

そこまで聞いて修造の言葉を思い出す『トラブルは解決しなくちゃいけない』

「って言ったってどんな犯人なの?」受付のお巡りさんに色々質問したが「今捜査中なので何かあったらすぐ連絡して下さい」とだけ言われる。

とりあえず近所の喫茶店に移動して2人で話してみる。

「安芸川さん、何か犯人に見覚えとか心当たりないの?」

「心当たり、、」少し落ち着いてきた様子の安芸川は考えだした。

「例えばね、人相とか変な靴履いてたとか変な走り方だったとか何でも良いんだよ。どんな男だった?」

「背は170センチぐらいで黒っぽい服だったって警察の人にも言いました。それに盗られたものが私の制服ぐらいだったんです」

「制服??!」

「はいお店の黒いエプロンとブラウスです。全部無くなっていました」

「制服フェチか何かかな?だとしたら他の店の子も被害に遭ってるんじゃない?」

「この事をもう一度担当のお巡りさんに言ってみよう」

江川は制服を盗む被害が他に無いかもう一度言いに行ったのだが、気持ちは焦るし安芸川は気の毒だしで必死の形相でしつこく食い下がり、おまけにうちのオーナーは市長のお母さんと仲良しなんだとかとにかく何でも思いつく限り言って、調べてみるとの約束を取り付ける。

車で安芸川をマンションに送り「一人で大丈夫?心配だけど僕もう戻らなくちゃ」

「ちょっと待ってて下さい」と言いマンションに上がったがすぐに身支度をして戻ってきた。

「私なんだか恐ろしいので明後日お店の人達が戻って来るまでお店にいて良いですか」

「僕は自分の事で手一杯だから、でもお店の方が安心かも。防犯カメラも沢山あるしね」

「じゃあお願いします、私お店で電話番とかシール張りや掃除とかしておきます」

電話番と聞いて江川の顔がパッと明るくなった「うん!頼むよ」

ーーーー

店に戻って生地作りを再開する「すんごい遅れたから頑張って取り戻さなきゃ」深夜安芸川を2階の事務所で寝かせ一人作業を続けた。

朝方

椅子で居眠りする江川は安芸川が洗い物をする物音で目が覚めた「あっごめんね、安芸川さん」

「私このぐらいしかできなくて、江川さん一体何故一人で頑張ってるんですか」

「それは、きっと僕が気がついてなかった事が沢山あるからなんだ。もっと沢山あるんだ。僕はそれを探して見つけて自分の物にしなくちゃ」随分色々な事が身に付いた気がする、それを自分のものにしてパン作りに現さなきゃ。

「岡田さんが言ってました、これを乗り越えたら江川さんについて行っても良い、でなきゃここを去らなきゃいけないって。何を乗り越えるんですか?」

「お、岡田君がそんな事を?あの人は僕に厳しいんだ」

「いつもきちんとした仕事をしたいので良い加減な人の元では働けないって言ってました。確かにとても真面目できちんとしています」

「修造さんに選ばれたからそんな事言ってるんだ、安芸川さん、僕明後日は一人で工場を回すんだ。その事だよ」

「そうなんですね、私はいつも通り自分の仕事だけするように修造さんから言われています」

「えっそうなの?」

「はい、でも何かあったらカバーしますから」

「ありがとう」

これまで愛莉ちゃん以外の店の人と話すのはあまりなかったな「岡田君の心中も初めて知ったよ」

夕方

今日は安芸川が電話番をしてくれたから助かった。

「江川さん、中谷さんと連絡がつきました。今晩はそちらに泊まらせて貰います。忙しい時にありがとうございました」安芸川は深々と頭を下げて帰った。

雨が降り出した

結構激しく降り出して遠くで雷が鳴っている。

その遠くの雷が鳴っている所

それは大坂達がキャンプをしている山に徐々に近づいていた。

大坂は西森と、立花は登野と別々のテントに入りもう休もうかと言う時間だ。

ドバーっとテントの上のターフに雨が打ちつける音が聞こえる、大雨だ。

本当ならリュックに隠した指輪を取り出して立花に結婚の申し込みをする筈だったが夕食後雨が降り出して早々にテントに戻る。

男2人でテントの中、侘しくLEDランタンに照らされながら「こんな事なら昨日の夜に決行すれば良かった」と言うと西森が「後で悔やむから後悔と言うんだ」なんて腹の立つ言い方をする。

「昨日は雲が多くて無理だと思ったんだ」

「天気予報は今日の方が悪かったんだぞ」

「わかったよ西森」大坂は煩がった。

その時ウーーーーーーっと警報音が鳴離響いた「何だなんだ」

驚いているとキャンプ地の警備のおじさんが声をかけて来た。

「この大雨で近くの川が氾濫しそうだ、誘導するから取り敢えず貴重品を持って急いで集合して下さい。同じグループ同士取り残されたものがいないかお互い確認をお願いします」

大坂と西森は驚いて顔を見合わせた後急いで荷物をまとめ、立花達のテントに向かい4人でみんなが集合している所に走った。

立花の手を引いて走りながら「俺が貴重なのはこの人だけだ」などと恋する頭で同行の者に若干失礼な事を考えた。

誘導に従って同じキャンプ場の全員で歩き、なだらかな坂を避難所まで急いで歩く。
レインコートに滝のような雨が打ち付ける。

大雨の中なので大声で言ってもみんなに聞こえないと思い「俺は何故こんなに立花さんが好きなんだ」と叫んだ。

手を繋いでる立花には聞こえたのか聞こえていないのか分からない。

地元の公民館の様な避難所に入り、玄関から上がろうとするが靴も靴下もずぶ濡れだ。
靴下を脱いで、リュックからタオルを出しているとそれぞれ毛布を渡され畳1枚分のスペースで休むように言われる。

4人は部屋の奥に荷物を置き、壁にもたれて疲れ果てた人々を見ていた。

「凄い雨ね」立花は鳴り止まない雷の光る窓を見ながら言った。

「テントとか流されたのかな」

「明日見に行ってみましょう。車も心配ね」

「本当だ、こんな事になるなんて俺がキャンプに誘ったから責任を感じるよ」

「晴れてたら星空の綺麗な所なんですってね。また来ればいいじゃない」

そこから二人は旅行するならどこがいいかとか住むならどこがいいかとか自分達にだけ聞こえるような小声で話し合った。

「お店を持つなら笹目市の隣はどう?大きな花壇と噴水のあるN山公園の見える所なんて素敵」という立花の言葉を聞いて『立花の店を俺が手伝うスタンスなのか、それともふ、夫婦になって二人でという意味なのか』が気になる。

「戻ったらすぐに物件を探しに行こう」

「そうね」

西森達がこの地域の災害情報をYouTube で見ていて手招きした。
「ちょっとこれ見て」と言ったので立花は包まっていた毛布を置いて隣を向こうとして振り向き、一瞬大坂の顔を見て「私もよ」と言ったあと登野と一緒にタブレットの画面を覗き込んだ。


その顔ははにかんだ表情に見て取れた。

「え」大坂はそれを聞いて何に対する『私もよ』なのか前向きに捉えようとした。

ーーーー

江川のいる笹目市もさっきより雨が激しく降ってきた。

雷の音は段々こちらにも近づいてきた。

深夜0時

店の中の灯りは消え、テラスと駐車場は何本かのポールライトだけが付いていて雨垂れを映し出している。
テラスから見た建物の中は電気のついている工房の部分だけがよく見えた。
時々江川が一人で動き回ってるのが隙間から見える。

その様子を修造は自宅のパソコンからクラウド型の防犯カメラを通して見ていた。

家族が寝静まった隣の部屋で「江川のやつ大丈夫かなあ」と呟く。
もう100回はこのセリフを言っているので律子に「また言ってる!そんなに心配なら見に行ってあげたら良いじゃない」と何度か叱られていた。
安芸川の件は本人と電話で話したが、早く犯人が捕まるのを祈るしかない。

画面には店の周りや駐車場など何箇所かに取り付けた防犯カメラの映像が映っている。

「うん?」その時テラスから店の中を覗き込んでいる人影が見えた。

「あっ」と言い掛けて口を塞いだ、そして後ろを振り向き妻子が寝ているのを確認する。
修造にはその人影が『ストーカーの様に付け回してくるあの女』だと分かった。背の低いその女は大雨の中レインコートを来てしばらく店の奥の工房を見ていたが、何分かすると諦めた様にまた駐車場を出て行った。
「きっと今までも何度も来てるんだろうが防犯カメラをつけるまでは気が付かなかっただけだ」
本人は決して危害は加えて来ないがいい気持ちはしない。
それに修造がこの店舗から遠く離れてしまうときっとここには来ないだろう「早く引っ越さないとな」修造はパソコンのデイスプレイを見ていたが、やがてごろっと横になり考え事をしていた。

ーーーー

リーベンアンドブロートにはさらに雨が激しく降り屋根に激しく打ち付けていた。

「今晩は一人か」ちょっと怖いがそんなどころでは無い、まだまだやる事がある。

生地は足りるのか、フイリングは足りるのか心配だ「計算した通りに行くのか分からないな」何んでも余裕があった方が良い。そう思って追加のものを作っていた時、急にパッと電気が消えた。

「えっ」と同時に回っていた機械のモーターが一斉に「ヒューーーン」と止まり様々な機械音が全て消えた。

「停電だ!真っ暗だ!」機械の音が無くなると工房はなんて静かなんだろう。

「どうしよう」今まで経験がない事で江川はパニックになりそうになった、すぐに修造に電話した。

「どうした江川何かあった?」

「停電になっちゃったんです。どうしましょう」

「実はこっちもなんだ。リーブロは古いレストランを改装したから非常用電源とかないんだ。そちらの地域の電力送配電のホームページを見てみるんだ。それと冷蔵庫や冷凍庫は開けるなよ、2~3時間は温度が保てるがそれがギリギリ限界だからな」

「わかりました、ホームページ見てみます」

江川は電話を切り送配電のホームページを見てみた。

「笹目市全域が停電、それしか分からないのかな?例えば何時ごろ復旧するとか」

倉庫から非常用のランタンを出してきて、そのあかりの中で作業を再開した。

「冷蔵庫が開けられないのか、それにオーブンが使えなかったらどうしよう」

色々と心配になってきたが冷蔵庫の限界まで後2時間だ。今度は電力会社のホームページを見てみる。

「復旧作業中。笹目市の電力供給再開は2時間後の3時予定だって」

よし、もう仕方ない!こうなったら2時間仮眠を取ってそれから作業再開だ。

江川はランタンを持って店のカフェの椅子に座って仮眠をとる事にした。

「電力会社の情報を信頼するぞ」

江川が机に突っ伏して寝ていると突然工房の電気がついて眩しい「うーん、あれ?僕こんなところで何してるの?」寝ぼけ眼で灯りを見てハッとした。

「3時だ」

「そうだ冷蔵庫と冷凍庫は」

慌てて見に行くとモーターの音がして動き出した!

「良かった」これでひと安心、急いで開店の準備をする。

「間に合うのかな」

江川は工房の真ん中で大きく深呼吸した。

発酵はゆっくり仕上げは素早く

全てを頭に入れて動く

「これが僕の集中の方法だ」

とうとう開店直前になった。

江川は作戦を立て、全ての工程をタイマーをつけて動く事にした。ベルリーナにクリームを詰めてサワー種のベーグルをカットして何種類かの具をサンドして分割を始めケースで休ませ、プレッツエルにラウゲン液を浸してオーブンに入れて焼けたロッゲンブレートヒェンをカゴに移した。

何十種類あるパンの工程を頭に叩き込み書いた計画通りに進めていた。始めは順調だったが2巡3巡と進めるうちにリズムが崩れ始め思い通りにならなくなってくる。

他の工程は若干ずれてもオーブンだけは発酵しすぎたり焼きすぎたり、ましてや生焼けは許されない。

今日は工房の方からタイマーの音が激しく聞こえる、店員たちも心配そうに見ている。

いつもの3倍早く動けば全体を回せる筈だ、江川は早送りの駒の様に動いた。

ミスをしてタイムロスを生むのはもっての他だ。

「集中集中」江川はそう繰り返した。

一方売り場の方は活気に溢れている。珍しく2日間休みだったので余計に人が多いのだ。

11時時頃客の入りがピークに達したが、それと共に焼成量も増え加工前の焼けたパンが溜まってきた。

「あれもカットして出さなきゃ」

生地を丸めながら横めで見ていると岡田が入ってきて手を洗い、手袋をつけた。

「岡田くん」

岡田はカイザーゼンメルに野菜とレバーケーゼをサンドした物やハムとオニオンをサンドした物、などサンドを中心としたものを作って店に出した。

「いいの?岡田くんありがとう」

「カフェも忙しいので少しだけ」と言いながら手際よくサンドして出していく。

「やった事ないのになんでできるの?」

「やり方はいつも見ていますから」

その後カフェも混んできたので岡田が中々来れなくなったがカフェの注文の時に沢山作って店にも出してくれるので助かる。

店の者もいつもと違う順番や不足にも柔軟に対応している。

特に安芸川は江川をカバーしようと客の対応でトラブルが起こらない様に注意を払っていた。

分割中オーブンがなり始めた、そちらへ走って行こうとした時「あっ」作業台の角に足が引っかかって転けた。

「イタタタ、、、」足を引き摺りながらパンを出して次のパンをオーブンに入れた。

痛いけど自分の痛みに構っていられない。

その様子を心配そうに見ていた修造は立ち上がってまた座った「我慢だ」

修造はあまりにも心配だったので裏口から2階の事務所に移動してまたしてもカメラで江川の様子を見ていた。

「ハラハラするな」手伝いに行こうかそれとも、、、

修造が迷っていると、一台のタクシーが前の道路に停まり1人の男が出てきた、そしてまっすぐ店に入りズカズカと工房に入ろうとした。

安芸川が「あっちょっと!?」と止めようとして岡田に「あの人、、、」と言われる。

その男は散らかった工房と山積みの加工前のパンを見て「何やってんだ!なんだこれは!」とキレた。

「あっ!鷲羽くん!」

江川は長年のライバル鷲羽を見て驚いた「どうしてここに」

「フランスから帰って荷物を駅に預けてここに来たんだ。修造さんはどこだ。なんでお前しかいない」

「修造さんはいないよ、僕一人だし」

「なに?」と言いながら鷲羽は理解した。

何らかの理由で職人がいなくなって江川一人か、、、よくある事だ。

そして上着を脱ぎ鞄を隅にドンと置いた。

「おい、俺はここの作業は分からん!だが発酵と焼成ならできる。だから他の事は早くやって店に出して来い!」

「今日はぼ、僕一人で」

「お前の事なんてどうだって良いんだ、お客さんを待たせるな」

「わ、分かったよ鷲羽くん」

鷲羽はホイロとドウコンの中とラックを一通り見てスリップピールにパンを並べて素早くカットし、オーブンに入れた「どんどん焼いていかんと間に合わん」

パンを焼いている鷲羽を見て江川は修造との約束は果たせなかったと情けなく思ったが、「とにかくパンを早く出さないと」と思い直す。

2人で作業を続け、江川は足を引き摺りながら店にパンを出し、生地を作り分割、成形を続けた。

鷲羽を見ていて『そうか、もし人がいなければ今日みたいに前日に準備して工房に誰か一人でもいれば僕やっていけるかもしれない。もし職人がいなくなってもこのやり方ならいけるかも』と考えた。

「だけど」

普段の皆の作業風景を思い出した。

活気に溢れ、皆自分の仕事をやりこなすプロばかりだ。皆の中で自分も専念してパン作りができて、そして皆の様子を見て健康や生活に気を配ったりできるんだ。

僕、そのことが今日分かったよ。

「おい手が止まってるぞ、さっさと動け!」鷲羽の怒鳴り声が工房に響いた。

「分かってるよ鷲羽くん」と言った江川の表情は少しの曇りもなかった。

15時頃

パン棚はガラガラだったが、とりあえず焼成は終了、江川は天板で焼いたプラムクーヘンをカットしていた。

「おい江川、修造さんがいないのなら俺はもう帰るからな」

「鷲羽くん、今日はごめんね、ありがとう」

それを聞いて鷲羽は照れて赤くなった顔を悟られない様に後ろを向いて「フン」と言った。

「そんなに照れなくても良いじゃないか」修造が2階から降りて来て鷲羽を見て言った。

2階で何度も椅子から立ち上がって降りるか迷い、座って我慢していたので、それだけで疲れた感じの修造だったが表情は晴れやかだ。

お客さんには迷惑をかけたが今日のことは今後のリーベンアンドブロートにとって大切な出来事だった。

やがて西の空は赤く染まり始めた。

夕方だ

「江川見てみろよ、盛況だぞ」と修造は手招きしてお店に行かせた。

江川は足を引き摺り汗みどろで店と工房の間に立って見てみた。

沢山の客がパンをてんこ盛りにトレーに乗せてレジに並んでいる。

しかし棚は既にガラガラだ。

「あぁ」

力なく立っていると岡田が冷えたおしぼりを渡してきた。

「これで顔をお拭きなさい」

「ありがとう岡田くん」

冷たくて気持ちいい。

「よく頑張りましたね」

江川はおしぼりで顔を拭きながら隙間から岡田の表情を伺った。

気のせいか少しだけメガネの奥から江川を見る目が柔らかい気がする。

工房に戻ると残りの仕上げをしている修造に思い切り取り入ろうとしている鷲羽の姿があった。

隣でニコニコして世界大会の事を色々聞いている。

「あっ鷲羽君!ズルい」

「はー?何言ってんだ江川!お前なんてここで働いてるんだからいつでも聞けるだろ、実際世界大会に出たんだし」

「うぅ」その通りなので黙ったがめちゃくちゃ悔しい。

「今日ずっと頑張ったのは僕なのに」

「お前ら何言ってるんだ!江川さっさと残りの仕上げをしろ、棚がガラガラだったろ?」

「あぁ!はい」

急いで仕上げをしている江川を見て「仕方ないなあ」と鷲羽も手伝い出した。

そんな2人の背中を見ていつもへの字の修造の口元が緩んだ「ふふ」

そこにキャンプ場から無事帰ってきた4人が戻ってきた。

大雨でテントは流されたが車は小高い所に置いていたので無事だった。

大坂はキャンプにいく前より立花との絆が深まったと感じて満足していた「江川さん、今度は江川さんも一緒にキャンプに行きましょう、今度は絶対晴れる日を念入りに調べます」大坂は今度こそ指輪を渡す決心をしていたが、それを見ていた西森に「俺たちだけでなく江川さんもダシに使うのか」と揶揄われていた。

笑い合うみんなの姿を見て江川はつぶやいた「やっぱり一人で作業するよりこの方がずっといい」

その日の夜

江川はフランスにいる愛莉にこの何日かの出来事と今日気が着いた事を興奮気味に話し「今度から多少の事は大丈夫」と言って息巻いていた。
「鷲羽さんが偶然来てくれて良かったね」
「そうなんだ、臨機応変に手伝ってくれたから、流石だと思ったよ」
「一週間色々あったな、安芸川さんの事件や停電なんかも」
「ねえ卓ちゃん、その制服を盗んだ犯人は捕まったのかな」
「まだだって、嫌だろうなぁ安芸川さん」
「早く捕まって欲しいね」
「僕にも何かできることはないかなあ」
「えっ犯人を捕まえるって事?男で中肉中背って事以外はわからないんでしょ」
「そうなんだけど、、明日安芸川さんにもう一度聞いてみるよ」
「聞くだけね、捕まえようとするとか危ないからダメだよ」愛莉は笑って言った。

一方その頃 

修造は東南駅の近くのいつもの居酒屋で

パンロンドの親方、藤岡、杉本と会っていた。

ここは以前よく来ていたお店でドイツビールを取り寄せてもらっている。
お店の親父はいつものようにビール瓶を3本持ってきて修造の前に置いた。

「あー美味い」ビールを注ぐ手が止まらない。

「美味そうに飲むっすね」と杉本が囃し立てた。

親方もそれを眺めながらグイッとビールを一口飲んで言った「そうか、いよいよ行ってしまうのか」

「親方、江川をよろしくお願いします」

「寂しくなるっす修造さん。俺お世話になりました」杉本は厳しかったり優しかったりするパンロンドでの修造を思い出し涙を浮かべた。

「ありがとうな杉本、今度製パン技術士2級の試験を受けるんだって?」

「はい、合格したらプロポーズしようと思って」

「ああ、ついに風花と」藤岡が冷静に杉本を見ながら言った。

「そうっす!藤岡さんは式はいつですか?」

さっきまで冷静だったのに藤岡はちょっとイラッとした口調で「それがうちの母親が由梨に無茶な事を言い出して※結婚が1年後になったんだ」

「なんだ無茶な事って」3人は興味ありげに藤岡を見た。

藤岡はその事について説明をした。それを聞いて「いつの世もお嫁さんには厳しいものなのかねえ」「それって何の為なんすかねえ」などと皆口々に言っている。

藤岡はまだイライラしながら「俺心配で」と由梨を気遣った様子だったので「まあ1年の辛抱なんだし!今日は飲もう!」と言って親方が慰めにかかった。

大らかな親方、明るい杉本、冷静な藤岡

今は別々に仕事しているが合うとすぐにパンロンド時代に戻れるこの雰囲気が修造は好きだった。

俺、パンロンドに入って良かったなあ。そう思っていると「そうだ、お前ら見たこと無いだろう!パンロンドに来た時修造は顎髭もなくてツルツルだったんだぞ」親方が酔っ払ってご陽気に言った。

「えーっ!見たかったっす!ツルツルの修造さん」杉本はそう言ったが選考会と世界大会の時は髭を剃っていた事を藤岡は思い出して同じことを考えているであろう修造に目配せした。

「修造!幾つになるんだ、19でドイツに行っただろ?えーと」親方が指折り数えた。

「はい、秋に30になります」

「えっ」3人は驚いた。失礼だが思ったより若かったからだ。

「そうだったっけ」

「もの凄い色んな事を経験してるのが滲み出てるんすね」

「苦労したもんな」

「うっ」それを聞いて自分は老けているんだと自覚する。

「修造、山の空気を吸ってのんびりやれよ。ずっと忙しかったんだから自分を労ってやれ。江川の事は俺も時々声をかけるようにするからな」

「はい、お願いします」

ーーーー

次の日

パン工房ではいつもの様に全員が持ち場について作業をしていた。

「修造さん」今日は遅番だった江川が声をかけた。
「江川、昨日はゆっくり休めたか?疲れは取れた?」
「はい、僕、この何日かでみんなの大切さに気が付きました。それと同時に少ない人数でもやっていける自信も付きました」
「そうか、良かった」
「それにみんなが満遍なくローテーションで作業できるのは大事な事なんだと思いました。なので誰かの休みの時には色んな人に交代して貰うようにして良いですか」
「だな、そうなるようにシフトを組むときに考えてみろよ」
「わかりました。それと、、、」
「うん?」
「安芸川さんの事件がまだ解決してなくて」
「そうなんだよなあ、とは言え犯人も分からないしなあ」
「それであのう、お願いがあって」
「お願い?」

ーーーー


笹目市の駅前には中心部らしく主要な施設が集まっている。

その近くにはビジネス街や小規模だが繁華街もあり商店街もある。

テナントビルの一階にあるカフエテラスで塩原正司は帽子を目深に被って腕を組み、通りを行き交う人を見ていた。テラスのその席は道路とは腰ほどの植え込みで仕切られており、コーヒーを飲んでは通行人を物色して、そうしながら口の中でさっきまでいたアルバイト先のコンビニの店長からの冷遇についての悪態をついていた。

「店長め、俺ばっかり注意しやがって。何がいつもの客の顔ぐらい覚えとけだよ、常連だろうがこっちは見てもねえんだよ。今時罵声浴びせんなよ」
塩原は店長から様々な種類の注意をされていたが、飲み込みも良い方ではなく、他の店員からもあまり良い印象を持たれていなかった。今日は常連客の「いつものやつ」という新聞とタバコのセット内容が分からず店長に叱責されたのだ。
「あんなコンビニやめてやる」スマホで転職情報を見ながらチラチラと道ゆく人を物色する。
塩原の趣味は可愛い制服の子を見かけたら後をつけ、住んでる所を突き止める。そして忍び込んでは制服を頂いて帰る、つまり制服を集める事だ。
もうお宝が随分溜まった。
クローゼットに収まりきれないので壁に室内用の物干しハンガーを取り付けてそこにも掛けていっている程だ。
「こないだの黒いエプロンとブラウスのは地味だった。なんであんな物に手を出したんだか」
と考えていたその時、ふわっと良い匂いが塩原の嗅覚を刺激した「なんだ」

ふとみると「あれは」とても可愛いユニフォームを着て歩いてる茶髪の子がいた。

シルバーのワンピースに白いフリルが付いているエプロン姿だ。
「メイド喫茶か?あんな可愛い制服の店が近所にあったのか」
どこの店の店員か気になるのですぐさま立ち上がり後を付けていく「ああいうのが欲しかったんだ」
店に帰るのかお使いの帰りなのか分からない「チラシを配り終わったのかもな」

その茶髪の子をしばらく付けていくと第一笹目マンションという6階建ての建物に入っていった。
塩原はどの部屋に入るのか廊下をじっと見ていた「5階か」
これだけではどこの店の店員かわからない「もう出てこないのか?ここに住んでるのかも知れんな」そう思って電信柱の影から見ていると、同じ部屋からさっきの茶髪が着替えて出てきた。フードを被っていて顔はよく見えないが背格好から見てさっきの茶髪に違いない。
「着替えて出てきたって事は、部屋の中に制服があるって事だな」
塩原はエレベーターを使って5階に上がって来た。
と言うのも仕草からして茶髪が鍵を閉めずに出て来たように見えたからだ。
「よし」ドアノブに手をかけると案の定鍵は掛かっていない、塩原はそっとドアを開けた。
玄関には靴を脱いだなどの形跡がないのを確認して入ってみると、右はキッチン、左は風呂のドアがある、その奥の部屋を目指した。
「誰もいないな」と部屋を見回すと「あったあった」部屋のソフアにさっきの制服が脱いである「これこれ」と抱きしめると「今日はついてる」とリュックに入れながらほくそ笑んだ。
こんなにサクサク物事が運ぶとは「こないだとは大違いだ」喜びながらさらに物色を続ける。他の制服と生活費も貰って帰るつもりだった。

隣の寝室に移動して違和感に気づく「男臭いな、それになんて地味な部屋なんだ」と見回してベッドの横のチェストの引き出しを開けていくと2番目に黒い財布があった「これこれ」と中身を確認しようとしたその時、クローゼットから大坂が飛び出して来た。
「俺の財布に触るな!」
「うわーーーーっ!?」
塩原は死ぬほど驚いた、逃げようと振り向き寝室の扉に半身をぶつけて転んだ。
「この野郎」大坂は右足を掴んだが、塩原は左足で抵抗して大坂の手を振り解き短い廊下の先の出口を目指したその時、バンっと風呂のドアが開きさらにデカくいかつい男が出てきて「逃さんぞ」と塩原を羽交締めにした。
「ううう〜」っと床に寝そべって塩原は喚き声をあげた。

一週間前の事


江川は修造に頼み事をした。
「えっお前が可愛いユニフオームを着て街をうろつく?」
「はい、なのでしばらくその時間は仕事を抜けさせて欲しいんです」
「でもなあ江川、もし上手くユニフオームを着こなせても犯人に見つけさせる事が出来るのかな?」
「それは分かっています。なので何日か僕にチャンスを下さい。なるべく目立つように歩きます」
「そうか、分かった。良い機会だ!さっきお前が言ってたみんなが満遍なくローテーシヨンで作業できるように俺とお前、それと、、そうだな!塚田と大坂が犯人が捕まるまで昼でも夜でも中抜けしてみよう。俺たちのポジションに上手く回れるようにお前がシフトを組んでみろ」
「はい!分かりました。塚田くんと大坂くんにも協力して貰えると助かります。安芸川さんが安心して眠れるように僕頑張ります」

「えっ」大坂は自分の名前が聞こえた気がして振り向いた。


ーーーー



江川は可愛い制服をネットで購入して毎日色んな時間帯を歩いてみた。駅前、市街地などなるべく広範囲にわたって良い香りをさせて目立つように歩いた。
塩原が江川を見つけたのはかれこれ7日後の事だった。
大坂は自分のマンションの5階の部屋を使うことにしましょう!と提案して、犯人が来たら自分はクローゼットに、修造は風呂場に待機して捕まえることにした。
塚田は毎日江川のずっと後を歩いて、もし江川を付けている人物が現れたら江川と修造にこっそり知らせる手筈になっていた。

江川と塚田が広範囲にわたって歩いてる間、他の二人が待ちくたびれておやつを食べたり交代で居眠りしていたのは内緒だ。

さて、塚田から連絡があった。なので江川が犯人を誘き出し、着替えて出ていったあと二人して息を潜めてじっと犯人が来るのを待っていた。

さて
そんな訳で

修造が灰原を床に押し付けていると江川がお巡りさんと飛び込んできた。
一部始終を仕込んでおいたカメラに映していたのを警察に提出した。


事情を話して警察からリーベンアンドブロートに4人が帰って来た時、安芸川をはじめ他のスタッフも並んで拍手で迎えた。

もちろんその中には岡田もいた。


「江川さん、私の為に毎日沢山歩いたり、犯人を捕まえてくれたりありがとうございました。でも無事でよかった。皆さんに何かあったらと思うとゾッとします」と安芸川が泣きながらお礼を言って来たので「犯人の部屋からは沢山のユニフオームの数々が押収されたそうだよ。世の中には変な趣味の人がいるね」と言いながら今になって考えるとゾッとする。

ーーーー

今日はリーベンアンドブロートのテラスでスタッフを労うバーベキューが行われていた。

スタッフの家族や修造の家族妻の律子、娘の緑(みどり)、息子の大地も来ている。

バーベキューの台を置き、修造と大坂、西森は3人で肉を焼いて江川がみんなに肉を配って振る舞っていた。

みな思い思いにテラス席に座り、楽しそうに話していた。

「修造さん」隣で肉を焼いている大阪が改まった感じで話しかけて来た。
「ん?」トングで肉の焼け具合を見ながら返事する。
「俺立花さんにプロポーズしたんです」改まった感じで大坂が話しかけてきた。
「えっそうなの?」驚いて大坂の顔を見た。
「はい、こないだキャンプに行った時に星空の下でやっとプロポーズしました」
「うん」と言いながらうまく行ったのか気になってちょっとピリッとする。

「それで、俺OKを貰ったんです」
「そうなのか」それを聞いてホッとして顔が緩む。
「いつか2人でお店を開く約束をしました」
「そうか、おめでとうな大坂」先のことを見届けたり気を配ってやれそうにない事に気がつく。
「だけど」
「だけど?」
「この間、前の職場の奴らが家に訪ねてきて俺なんかにここの仕事が務まるはずないって言われたんです。ましてや自立なんて大丈夫かって」
「何しに来てんだそいつら」修造は腹を立てて言った。

「そう言われると確かにって気になって来ますね」大坂は単純な男なので一喜一憂が顔に出る。
「大坂、誰かの噂を聞いて本当の事を確かめもせずに勝手に言ってる奴らの言う事なんてほっとけよ。俺はお前をずっと見てきたんだ。お前の頑張りを。お前は誰よりもやる気のある奴だ。それを信じてやれよ。お前が自分を信じてやれないでどうする」
「あいつら仕事が辛いばっか言ってました。それが嫌で辞めてここに転職したんです」
それを聞いて修造は突然とうとうと語り出した。

「志がないから辛いんだ。給料のために働いてると辛いんだ。職人の世界はある程度技術を身につけるまで耐える事もあるが、一度身に付いたら世界観ががらっと変わってくる。辛抱して身近なところで目標を立てる、例えば3年後になりたいとか近いところの目標を立てた方が良い。こうなるためにはまず何をしないといけないとかの出来る事からステップアップする事の積み重ねなんだ。雨が降ってる時は生地が柔らかくなるとか、乾燥してる時は生地が硬くなるなどは自分の調整次第で、イメージのないままやってると仕事にブレができるんだ、加水を増やすのは難しいし、ミキシング時間を調節するとか柔らかいなら柔らかいなりのいい生地にしないといけない。堅かろうが柔らかかろうが同じじゃ困る」

「はい」

返事は短かったが3年後なりたい自分という言葉とか近いところの目標を立てる自分を想像できた。
「自分を信じてみます」
2人話し込んでるので今や肉やらを西森一人が腕の立つ屋台の大将の様に焼き出した。
「そうだ」修造はまだまだ続けた。
「俺は最近江川に守破離の話をしたよ。それをパン職人で言うなら技術の習得、技術の向上、技術の創造ってところだ。江川は7日間でそれが分かったみたいだ」
大坂も空手をやっていたので守破離の意味は知っている。

成程、それを職人の世界に当てはめると得心がいく。

大坂の顔が明るくなった。


「俺もそれを目指してみます」
「うん」

さて

もう1人修造に話しかけたい女の子が後ろから見ていた。

娘の緑は、母律子にもうすぐここを離れて父修造の実家に引っ越すのだと言われていた。
「お父さん」
「緑、お肉は足りてるか?いっぱい食べろよ」
「もうすぐ4人でお父さんの実家に引っ越すの?」
「そうだよ、仲のいいお友達と離れ離れになってごめんね」
「引っ越したらここはどうなるの?」
「江川に任せるんだよ」
「お父さんのお城なのに?なんで自分の作った店を江川さんにあげてしまうの?」

「お父さんはね、江川にとても大きくて大切なものをもらったんだ。それは形や大きさでは表せられないものなんだよ」

「勿体無いから嫌だ。ここはお父さんのお店でしょう?」

緑はこのお城の様な店から離れたくなかった。

抵抗する緑の目線に座って肩に手をやった。

「お父さんとお母さんはこれから2人で一緒にパン屋さんをやるんだ。大地も行くよ。だから緑も一緒に来てくれる?」

「え〜。嫌だけど、お父さんやお母さんや大地と離れるのはもっと嫌」

修造は緑の頭を撫でて心から詫びた。

「ごめんね。緑の気持ちもわかるよ」

「緑」律子が緑の肩に手をかけた。
「お母さん」
「大地をみてて」
「うん」

夫婦2人で緑を見送りそれから椅子に腰かけて話をした。

「みんな楽しそう、今日集まって良かったわね」

「そうだね律子、今緑に引っ越すのは嫌だって言われたよ。説得したけど分かって貰えたかな」

「向こうは良い所よ、緑も大地も何度も行った事あるじゃない。住んだら気に入って貰えるわ」

「ごめんね、ここにいる間あまり家にも帰ってなかったし。向こうに行ったら償うよ」

律子は修造の瞳を見つめた。

修造はいつも私に謝ってばかり。

そうじゃないの修造。

もう離れたくない。

こうして一緒にいたいの。

必ず私のところに帰ってきて

あなたの瞳を見つめるわ。

あなたの瞳の白眼が透き通って

青みがかった所が好き。

真っ直ぐに私だけを見て。

「修造さん」ロマンチックな雰囲気に浸り見つめ合ってる夫婦に割って入って江川が話しかけて来た。

代表でまとめ役なので当たり前だが皆修造に話しかけたり相談したり指示を仰いだりする者は多く、夫はいつも忙しそうだ。

特に江川はこれまでの間、修造が家に帰ってる時以外はずっと一緒にいる。

律子は江川が交代して座っている時に横に来た。

「私は修造が何処に行っても一緒に行くわ。愛してるもの」と言われる。

律子に急に言われて「えっ」と驚いて立ち上がった。

い、挑んでるのかな?江川は顔を引き攣らせて「僕も修造さんに着いていきます」と言ったが律子の言葉の意味とは少し違う。

律子は明らかに嫌そうだった。

ーーーー

バーベキューも終わり、修造と事務員兼パン職人の塚田は2人で事務所にいた。

「NN司法書士事務所の書類を封筒に仕舞いながら塚田は言った。「修造さんの印鑑も押したし手続きは概ね終わりましたね、あとはこの鉛筆で丸してあるところに江川さんの印鑑を押して貰うだけです」

「ありがとうな塚田、これからもこの店をよろしく頼むよ」

「分かりました、お任せ下さい」

「塚田といい岡田といい、ここには頼りになるスタッフだらけだよ」

「これまで修造さんが皆を引っ張ってくれていたからですよ」

「みんながそれに応えてくれたんだ、感謝してるよ」

ーーーー

さて

とうとうこの日が来た

仕事終わり

修造は事務所で江川を呼びだし待っていた。

夜、部屋のライトが光り自分が窓ガラスに写し出されている姿を見ながら考える。

江川お前は人懐こくて気安い様に見えるがそんなに人に心を許してない。

頑固で気難しい奴なんだ。

俺にとって江川は、あいつは違うんだ。

いつも隣にいて気を配ってくれていた。

俺はお前のおかげで世界一と言う高みを見る事ができたんだ。2倍速並みに動き、全てに手を尽くしてくれたお前に感謝しても仕切れない。

だけどこのまま一緒にいたらいけない。

あいつと俺を切り離して俺から自立させなきゃならない。

「修造さん」

江川がいつもの調子で入って来た。

笑顔だ。

修造はそれを見て少し緊張した。

対面で座ったが、立ち上がってこう言った。

「江川、この店はお前にやる」

「え?」

江川は座って修造を見上げ、口をポカーンと開けて聞いていた。

何のことかわからなかった様だ。

コノミセハオマエニヤル

この店はオマエニヤル

この店はお前にやる

「えー」

「俺は山に行ってパン屋をやるよ」

「ぼ、僕も行きます」江川も立ち上がった。

「何言ってるんだ、この店を上手く切り盛りしていかないと。この店の借入金もまだあるんだぞ」と言ったが実は塚田からもう一括返済できると言われている、しかし責任を持たせる為わざと毎月の返済にして少し残しておいた。

「江川、上手くこの店を切り盛りしていくんだ、これハンコを押して塚田に渡せばちゃんとしてくれるから」と司法書士事務所の書類を机の上に置いた。

江川は首を横に振った。

今迄人が持っていた重い荷物を急に1人でもてと言われた心細さたるや。

「そんなの僕無理です。できません」

「なんでだ」

「だって僕経験も浅いし何もできません」

「お前はもう大丈夫だ江川」

「無理です」

「お前、俺が今まで教えてきた事を無駄にするのか」

「それは」

「だって」

「だって」

「ずっと一緒にいると思っていた修造さんが目の前からいなくなるなんて。そんなの無理です。僕できません。ここに残って下さい」

江川の瞳から大粒の涙が流れ続けた。

それを見て修造は思う。

喜んで貰えると思ってた。

江川、お前みたいによく泣くやつは初めて会ったよ。

俺はお前が泣く度にどうにかしてやらなきゃって気持ちになっていたんだ。

それは思いやりでもあり、友情でもあり、なんだろうなあこの気持ち。

どうする、このままここにいるかそれとも振り切って行くか。

これまで楽しいことも多かった、それは殆どが江川、お前のおかげだ。

修造はこのままここにいるかどうかっ迷った。

でも俺、行かなくちゃならないんだ。

俺は俺のためにやらなきゃならない事があるんだよ。

「わかってくれ江川」

そしてお前は俺から離れて独り立ちしなきゃならない。

「江川

流行りを追うな

気を衒うな

いつも誠実でいろ

パン職人に必要なものは

スピード

正確さ

センス

体力

チームワークだ」

修造はこの言葉を残し、リーベンアンドブロートの開店当初に作ったサワードゥを渡して「江川、これをこの店の為に守っていってくれよ。」と言った。

「元気でな、江川」

修造の瞳から涙が流れて、それが落ちる前に立ち上がってドアから出ていった。

「修造さん」

江川は修造が立ち去った店の事務所でソファに突っ伏して一晩中泣いて過ごした。

明け方まで修造の言葉を順に想い出していた。

お前はもう大丈夫だって言ってくれてた。

あの7日間の事もワンオペの事だって僕の為だった。

思えばこの店の土地探しの時からずっと。

ううん、もっともっとその前から。

「修造さんは僕の為に頑張ってくれたんだ、それなのに何も知らなくてずっと一緒に仕事できると思っていたんだ」

いつもはしゃいでいた自分を思い出して恨めしい気持ちになった。

「僕がこの店を守らなきゃ何もかも無くなってしまう。修造さんの気持ちも。この店の為と思っていた、あんなに頑張ってくれたのはみんな僕の為だったんだ」

修造が疲れて椅子に長く伸びて寝ているのを思い出した。

「僕がこの店を守らなきゃ。絶対無駄にしちゃいけない事ばかりだ」

修造さん、ありがとう。

江川は立ち上がってカーテンを開け、外を見た。

事務所の外は真っ暗だったが徐々に薄く明るくなってきた。

江川の瞳は泣き腫らしていたが1階の工房に降りてみた。

工場では職人達が仕事を始めた。

皆自分の位置に着いてそれぞれの作業を始め

入って来た新しいオーナーにおはようございますと挨拶した。

Auf Wiedersehen 江川 おわり

江川は自立してきっと修造を超えるパン職人を目指してくれる事でしょう。

お読み頂いてありがとうございました。

このお話「パン職人の修造」は修造が一生を通じてパン職人を続けるお話です。亡くなるまで続くのでとても長く、登場人物も初めから最後まで出続ける人はいません。それはどんな人の人生にも同じことが言えるのではないでしょうか。同居の人物でさえ人生の途中から現れ、ひょっとしたら途中で居なくなる事もあるかもしれません。

分かり辛い話ですが、パート毎に分かれてるのでそこだけ読むことも出来ます。

これからもよろしくお付き合い頂けるとありがたいです。

次回から「パン職人の修造山のパン屋編」が始まります。その前に智子と言ういとこについて描いていかなければいけません。何話かの間懐かしい白、黒、朱色だけで展開させて頂きます(内容はベタですがご了承下さい)

※お話の途中出てきた由梨の結婚1年前の出来事は修造の後のお話で展開予定です。由梨頑張れ。どうかお楽しみに。

※ベルリーナ ドイツの揚げパン。ラズベリーなどのジャムやチョコクリームなどを中に絞り、粉糖やチョコを表面に施したもの。カーニバルなどでは大量に店に並ぶ。

※プレッツエルのラウゲン液 プレッツエルを焼く前にラウゲン液という水酸化ナトリウムに浸して焼くと褐色の焼き色になりパツンとした食感や風味が出る。重曹でも良い。

※ロッゲンブレートヒェン ライ麦の比率が高い小型パン。ロッゲンはライ麦の事、ブロートヒェン、ブレートヒェンは小型パンの事。

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