
このお話は『赤い髪のストーカー』で4人組の男にボコられた修造が救急で搬送され一時危篤状態になっていたが、本来丈夫に生まれついた修造が徐々に回復してきた所から始まります。
I’m not a hero
修造の妻律子はNN病院の個室のベッドの横で心配そうに修造の顔を覗き込んでいた。
修造は時々目を覚まして律子の顔をじっと見ていたと思ったら、手を繋ぐジェスチャーをして差し出した右手を握ってまた安心したかの様に眠りについていた。
一週間もするとずいぶん体力が回復してきたのか点滴の袋も一つになり気力も戻ってきたなと瞳を見つめて分かるほどになっていた。

良くなって来たから安心したわ。後は日にち薬ってお医者様も言ってたし」
「ごめんね律子、心配かけて」
「子供達も心配して初めのうちは緑も大地もワーワー泣いてたわね。今は家でお父さんとお母さんが見てくれてる。みんなにも元気になってきたって教えておくわね」
「みんなに申し訳ないな」
「修造が悪いんじゃないわよ、警察も強盗未遂及び傷害事件って言ってたし。犯人は全然知らない人達なんでしょう?」
「そうなんだよ」
「修造が眠ってる間にね、江川さんはお店の周りや駐車場のあちこちに防犯カメラを付けたり警備会社と契約したりしたらしいわよ」
「江川には怖い思いをさせたから無理もないよ」
「江川さんも大変だったんですものね」
「抜けた分忙しくさせて申し訳ないな」
「後で電話してあげる?お店の人たちも安心するんじゃない?」
「そうだな」
修造がいつまでも手を握っているとそこに藤岡パンの御曹司藤岡恭介が入ってきた。
スーツの似合う爽やかイケメンだ。
「入って大丈夫ですか?」と言いながら静かに入ってきた。
律子は布団の影に握った手を隠してからそっと離した。
「藤岡さんこんにちは、すみませんお忙しいのに。私飲み物を買ってきますね」
「すみません奥さん」藤岡は笑顔を向けて律子が出ていくのを見送ってから修造の横に座った。
「大丈夫なんですか?修造さん、4人組に本当に覚えがないんですか?江川さんから強盗だったって聞いてます」
「強盗だったかは疑問だ、振り払ってもすごくしつこくて俺の事を狙ってるように思えたんだよ」
4人とも亡くなってしまってはもう何もわからない。あの時の自分はなんとかあの男達が逃げるか自分が逃げるかばかり考えていたが、4人があんな風に亡くなってしまうぐらいなら四肢を叩き割ってでも警察に突き出した方が良かったと修造は後悔していた。
「それで」藤岡は修造にやや体を近づけて言った。
「昨日うちの工場の方に鴨似田フーズの歩田がやってきて教えてくれたんですが、亡くなった4人の中の一番年配の男は常吉ホールデイングスの社長なんですよ」
「うん、そうなんだってな」それが何故リーベンアンドブロートに来たのかも分からないし自分となんの接点があるのかも分からない。常吉ホールデイングスの事は警察の事情聴取で聞いていたが本当に聞き覚えがない名前だった。
「歩田は常吉の経営する店舗の中にGlänzender Kuchen(光るケーキ)っていうドイツのお菓子とケーキの店があったので関係があるとしたらそれではないかと言っていました、それを聞いて俺も行ってみましたが休業中でした」

「Glänzender Kuchen、、、」修造はまだ本調子ではない頭で考えて、その名前にまつわる『ある女』の事が頭に浮かんだ。
その途端心底驚いた表情になり目を見開き急に黙り込んだ。
視線を落とし一点を見つめている険しい表情の修造を見て藤岡も驚いた。
「心当たりがあったんですか?」
「いや、、分からない」
「そのケーキ屋なんですね」顔が青ざめて来た修造を見て分からない様には思えないなと藤岡が思ったその時、律子が飲み物を買って戻って来た。
「修造さん、また何か分かったらお知らせします。入院中の修造さんに疲れさせる様なことを言ってすみませんでした」藤岡は立ち上がってドアの所に向かった。
「ありがとう藤岡、聞いて良かったよ」
藤岡は会釈をして病室をでた。
「もうお帰りなの?」
「うん」
さっきまで少し回復してきたと思ったのに疲れた表情の夫の顔を見て律子は「やっぱりそんなに早く治るわけないわよね、子供達は週末に連れてくるとして、今日はもうお見舞いは断っておくわね」と言って江川に電話をする為に部屋を出た。
修造はまるでおさらいをするかの様に事件の全てを思い出し、常吉の言動から見えない何かを探ろうとした。
いや、まさかそんなはずは無い、しかし偶然はもっと無いだろう。
その言葉を頭の中で繰り返し、それ以降修造は常吉の襲撃事件について自分からは口にせず、人から聞かれた時も分からないとしか言わなくなった。
次の日
あの男がやってきた。
午前中の回診が終わり修造はベッドに横になっていた。
突然病室のドアがバッと開き、見慣れた営業スマイルが飛び込んで来た。
「やあやあ修造シェフ、お加減はいかがですか?」
「あっ後藤さん」
「そう、私基嶋機械の後藤がお見舞いにやって参りました」と、後藤は両手を広げて大袈裟に言った。
「今はまだ面会時間じゃ無いですよ、それにどうやってここを知ったんです?」
実は修造は見舞客の対応が苦手なので江川に口止めしておいたのだが。
「江川さんが教えて下さらないのでご自宅にお電話したらお義父様が教えて下さいましたよ」
義父の巌が言ったのなら仕方ない、修造は身を起こした。
「シェフ、空手の大会で優勝なさるぐらいお強いのにどうなさったんですか、強盗なんてふわっと振り払って下さい」お見舞いの花を花瓶に入れながら後藤はニコッと笑い、以前よりも目尻のシワをクッキリとさせた。
「漫画のヒーローなら追い詰められて特別な力が突然芽生えたりするんでしょうがふわっとなんてそんな訳にいかないですよ」
「うふふ、シェフはパン界に必要不可欠な存在なんですから、はい、これ食べて元気もりもりになって下さいね」と言って駅で買ってきた豆狸のいなり寿司を差し出した。
余談だが修造は高校を卒業して初めて東京に来た時、駅でこのいなり寿司を買い「こんな美味いものが東京にはいっぱいあるのかと感動したとか。
「美味い、わさび入りが好きです」好物のいなりを口に運ぶ。
「他の味もありますよ、これは五目、これはアサリ入り」
「選ぶ楽しさがあって良いですよね」と手を伸ばしかけてハッと手を止めた。
後藤の事だ、ただの見舞いなわけが無い。
嫌な予感がして後藤の顔を見た、すると後藤はにっこり笑ってA 4サイズの紙を両手に持ってヒラヒラさせながら「修造シェフ、入院してらっしゃる時に言いにくいですが基嶋機械主催の講習会の日付が15日後に迫って来ました」と言った。

「15日後!」それは修造が講師として参加する飾りパン講習会の参加申し込み用紙だった。
「そういえばそうだった」ゴタゴタしていて忘れていた。
修造の顔写真とプロフィールが書いてあって下にあるQRコードから申し込む様になっている。パン屋や企業に配布して募集を募るのだが、実はすでに満員になっているらしい。
そもそもこの講習会も後藤のゴリ押しで引き受けたのだからなんとなくひと事感が抜けず「延期にできないんですか?今入院中だし」と言って点滴の針が刺さった左手を見せた。
「普段講習会に出ないシェフが講師をやって下さるんですから、皆さんこの日を楽しみに都合を合わせてますのでねぇー」
「分かりましたよ、でも準備が出来ないじゃないですか。俺もやる以上は半端な事は出来ないんですよ」
「あー困りましたね、こんな事になるなんて、ねぇ修造シェフ」と言って後藤は修造の返事を待つ為にそこだけ無言になった。
「あー」医者から言われている退院予定日は来週だ、半月後の講習会の日には一週間しかない。
「ねえ、修造シェフ」
仕方ない!修造は口をへの字に曲げて首をうんと縦に振った。
ーーーーー
一旦やると決めた瞬間からそのことが頭から離れないのが修造の悪い癖だ。
消灯後もベッドの中で細かく計画を練ったり、忙しい江川に頼んで必要な材料を頼んだり、デザイン画とか設計図みたいなものを描いたり、サポートスタッフとして江川、岡田、大坂、立花を呼んで打ち合わせをしたりと準備を万端にして退院日を迎えた。
久しぶりのリーベンアンドブロートには律子の言っていた通りあちこちに防犯カメラが付けられていた。
江川は両手を握りしめながら「もう大丈夫です!何かあったら警備会社に連絡が行くようになってますから!」と息巻いた。
こんなにカメラがあったらお客さんが怖がらないかなあと思ったが言わないでおいた。
修造は仕事を片付けたあと、講習会のための練習と飾りパンの作成に取り掛かっていった。当日はあらかじめ作ったものと現場で作るものとを用意するつもりでいたのだ。
だがそれと同じぐらい修造にはやらなければならない事があった。
次の日
久しぶりの上越妙高駅
修造は北陸新幹線はくたかから降りて上杉謙信の像を仰いだ。
広い敷地に重厚な建物のブーランジェリータカユキに着いた修造は「ほー」っとため息をついて店内の美しいデニッシュやクロワッサンの数々を眺めた。相変わらず客が長い行列を作り、店内に入って来たら勢いよくパンを選ぶ、ただしパリパリのデニッシュやクロワッサンを持つときはそーっとトングで挟んでトレイに乗せた。
修造がその様子を楽しそうに見ていると「久しぶりだね修造君」店主の那須田が奥から出て来て中に手招きをした。

「まあ座れよ修造君」早速美しい※パンスイスやバイカラークロワッサンとコーヒーなどを出して貰った。
「うーん美味い、そして美しい」
感動しながら食べていると「君、大丈夫なの?大怪我して入院してたって聞いたけど」那須田は隣に来てコーヒーを飲みながら修造の顔の傷跡を見て言った。
「色々あって寝ていられなくて」
「君も大変だなあ」
「シェフ、今日は全てを教えて下さい」
「君に頼られるなんて嬉しいなあ、なんでも聞いてよ」
「はい」
その後修造はエプロンを着けて、手伝いながら那須田の神業すぎる手捌きを見て全てを記憶に刻み込もうとした。
「懐かしいなあ、君がここを訪れるなんて選考会の前に修行に来て以来だね」※生地にバターを織り込みながら那須田が言った。
「はい、あの時も勉強になりました。その後も何度か会ってますが」
「その後お義父さんとは上手くいってるの?」
「はい、あの時はギクシャクしてましたが今は協力して貰ってます」
「そりゃ良かった」
夜
那須田は最新のペストリーの成形を夜通し修造に教えるために惜しみなく技術を見せた。
「那須田シェフ、イタリアの雑誌に紹介されてましたね、俺誇らしいです」
「そう?プロが撮った良い写真だったね」那須田は満足げに答えた。
「シェフはどんな先生にパン作りを習ったんですか?」
その質問を受けて那須田は何か考えてから言った。
「僕の先生はね、世界各国を巡ってパンを学び、そしてそれを生徒達に教える素晴らしい先生なんだよ。あの人の面白くて知識の詰まった話に夢中になったし技術を身につけて貰ったんだ」
「へー!そんな凄い人なら俺も会ってみたいですよ」
「、、、修造君、その先生は君に会ったらこう言うだろうね。全ての事を自分で乗り越えろってね」
「何故か俺にだけ厳しいんですか?」
「ははは、どちらにしろ外国を飛び回っていてどこにいるのやら」
修造はナイフで均一に生地をカットし続けながらある事を思い出した。

そうだ、今の話はパンロンドの親方に聞いた事がある。※バゲットジャンキーの話そのものだ。
「シェフ、バゲットジャンキーって聞いた事ありますか?」
「あるけどそれって都市伝説みたいなものじゃないの?」
「シェフの先生の名前ってなんですか?」
その時窯のブザーが3段とも一斉に鳴った。
「ほらブーブーなってるぞ!焦がしたら努力が水の泡だからな!」
「はい」
その後も修造は何度か同じ質問をしたが何故か上手い具合にはぐらかされて結局聞き出せず。

講習会の前日
修造と3人のスタッフは基嶋機械本社の会場に来ていた。
会場の奥には製パンの為の機械が並び、その前には講師と製造工程がよく見える
作業台がある。
そしてその前に受講者50人分の2人掛けの長テーブルと椅子がそれぞれ用意されている。
4人は打ち合わせをした後、前日準備を始めた。
「修造さん、体調大丈夫なんですか?」大坂が心配そうに聞いた。
「うん、完全に本調子って訳でも無いけど明日は頑張るよ」
「本当は修造さんなら4人ぐらい倒せるのにいざ実戦で戦うとなると抵抗ありますよね。俺ならどうだっただろうな」
「そうだな、すごく抵抗あったよ。試合でも寸止めなのに直当ても躊躇った」
「結局亡くなったんでそれもモヤモヤしますよね、でも修造さんが悪いわけじゃないんだし、今は身体を労って下さい。俺たちも上手くサポートできる様にもう一度打ち合わせをしておきます」
「うん、ありがとうな」
そこに後藤がやってきた。
「修造シェフ!お怪我の完治もそこそこにお越し頂いて誠にありがとうございます」
それを聞いてお前が呼んだんだろうがという目で後藤を見た、後藤は視線に気がついて目尻と頬の笑い皺をさらに増やして微笑み「明日は皆一丸となって頑張りましょう」と両手を挙げて言った。
「江川」
「はいなんですか」
「あれ、後藤さんと練習しといて」
修造に言われて江川は後藤と電気を消したり付けたり何度かやってみた。
「電気を消して下さい」
「はい江川さん」後藤はニコニコして会場の電気を消した。
「今度はつけて」
「はいはい」
はてさて、それが講習会となんの関係あるのか。
飾りパン講習会当日
会場にはバスに乗って講習会の勉強をしにくるパン職人、パン学校の生徒などが次々やって来て10時の開講前には会場は満杯になった。
始まりの合図までは作業台の上と天井に2箇所付けられているモニター画面に最新式の製パン機械が次々と映し出されている。
講習会の始まり、後藤がマイクを持って挨拶した「お集まりの皆さん、本日は基嶋機械の飾りパン講習会にお越し頂きありがとうございます。私営業の後藤でございます。皆さんもご存知の事とは思いますが先日田所修造シェフは強盗に襲われて瀕死の重傷を負われましたが、こうして無事回復してこの講習会に出られました。凄い体力!凄い精神力です。では修造シェフ、ご挨拶をお願いいたします」大袈裟な身振りで腕を上げて修造に話を振った。
修造は耳掛け型マイクをしていて、いつまで経っても装着感が苦手で慣れないまま、前にびっしり座っている来場者にペコっと頭を下げた。
当たり前だが皆こちらを向いている。
冷や汗が流れた。
「どうも、えー、ご心配をおかけしましたが日毎に調子が元に戻りつつあります。今回の事件は油断して誰が来たか確かめもせず裏口のドアを開けてしまったのがいけなかった。皆さんもどうかご注意下さい」辿々しく挨拶をしながら皆に配布した何枚かのA4の資料を手で持って1枚目を捲った。
修造は今日作るパンの説明を一通り行なって製造に取り掛かった。
手元は天井に取り付けられているモニターの画面に大写しにされていて、後に座っている人達にも見える様になっている。
生地は発酵時間の兼ね合いからあらかじめ出来た生地で、それを使って成形から始める。
作りながら話すのが修造にとって最も苦手な事なのでマイクを持って横に立っている江川に手順を説明して貰う。
「今作っているこちらは日本らしい古物のイメージで作られた物です、順に工程と配合を説明します」江川は工程を見ながら詳しく説明をしていった。
立花が材料を揃え、大坂がテキパキと焼いてそれを作業台の前に設置したテーブルの上に並べていった。

講習会の楽しみは試食が何度もある所だ。
序盤では、生地の伸展性を見たりする為に紙皿に乗せた生地を前から順番に回していって皆伸ばしたり薄さを確かめたり、使っている材料をテーブルの上に用意された試食用のスプーンで掬って味を確かめたりした後、いよいよ出来たパンがカットされて配られる。
受講者は皆香りを嗅いだり手でパンを伸ばして千切ったり味を舌の上で分析したりするのに余念がない。
お昼になるとカイザーゼンメルに立花と江川が生ハムとチーズを挟んだ物とクロワッサンが出てきた。試食で結構お腹いっぱいでもこれはペロリと食べられる。
食後、参加者のお腹も膨らんでいる事と、朝早く仕事を終わらせてきた職人も多く徐々に眠くなってくる。眠くないふりをしながらウトウトし続けるぐらいならちょっと伏せって眠った方がその後すっきりする。何人か船を漕いでる人が増えているのを見ながら修造はそんな事を考えていた。
さて、午後からはいよいよ飾りパンの製作。
飾りパンはパン・アーテイステイック、パンデコレ、デコリエテスブロートなどの呼び方があり、主に観賞用の芸術的なパンの事。コンテストによっては使う色の制限があるものもあったり、大きさの制限もある。このお話でも修造が飾りパンに挑戦していた。
パンでできたパーツを組み合わせて形を作る。紙や木の板で型紙を作りそれに沿って生地を切り取るものもあるが、わざわざ専用の型枠を作ってそれで抜き取るリッチでタイパの良いものもある。
焼けてきた生地を冷ましてそれぞれ小麦粉で作った糊や焼けたパーツを水飴などで付けていく。

誰も見たことがなく、ワクワクするものをと修造が考えたのは日本の国技「相撲」と「ロボット」を組み合わせた飾りパンで。ロボット関取と組み合わせるのに機械的な牡丹と椿、松を組み合わせた。
この様なコンテストによっては横幅が決められており、その幅からはみ出すことが出来ないものもあると江川に説明して貰った。
終盤
また別の飾りパンが組み立てられていく。
パーツを合わせ、段々形になっていくのが見ていて楽しい所。
修造は細かい部品のパネルの様な生地を組み合わせていった。
まるでプラモデルを素早い手捌きで作る様だ。
どうやら宇宙船らしいと気がつくと、皆近くに行って見たり写真を撮ったりした。
修造は講習会の終わりが近づいてきた事と、作業の手が空いてきた事もあって周りの人達に話し出した。
「これは自分の持つ宇宙船のイメージを形にした物です。内部には色をつけた飴がはりつけてある」そう言って中に仕掛けてある電球を付けると宇宙船のなかから光が漏れた。
「これは単体だと一つの物体ですがストーリーを意識して作ると見る人に分かりやすい。つまりイメージを連想して貰うんです。さっきの相撲ロボットは見ていて楽しいが動きはありません。こちらの」と宇宙船を指し「これだけではただの宇宙船だけどこれの角度を変えると」と言って修造は宇宙船の角度を変えてみた。
「こうすると素早く移動してる様に見える。そこに背景をつけてみます」そう言いながら合図すると江川と岡田が後ろに黒い衝立を立てて惑星を手前に置き、後ろの惑星は席に座ってる者から見ると浮いてる様に取り付けた。
そのあと皆が見守る中、先程組み立てた小型の宇宙船をセットした。
「これにも角度をつけてみます」と手首で角度を調節して上からライトで照らしながら修造が目を向けると、江川が後藤に「すみません、電気を消して下さい」と例の段取りで合図した。
練習通りパッと電気が消えると、大型の宇宙船とそれを追いかける小型宇宙船が素早く飛んでいる様に見えた。

「もう出尽くしたと思うかもしれないが普段過ごしていて日常のあちこちにヒントがあります」そう言ってそう言って作業台の前のパンが並んでいる前に立ち、上に和柄のステンシルが施されたカンパーニュを持ち上げた。
「例えばこのカンパーニュの柄は知り合いの着物屋に置いてあった帯にインスパイアされた物です。柄をそのまま使うのではなく、自分の中に沢山のものを取り込んで自分なりに記憶を形にする。これはこの講習会の為に作ったものです」修造は柄を見せた。
「自分たちは日本の国でパン作りをしてるのだから普段から日本の芸術や美術に触れてそれを沢山記憶に取り込んでいくと良い。それをデザイン画にして、実現する為の練習を始め、「形にする」作業をするんです。俺は修行時代に大木シェフに言われた言葉があります。それは『木を見て森を見ず』って言葉です。細かい技巧に囚われて全体像を想像してないって事です。遠くから見た自分の作品をイメージして、実際に作った所を何度も見てみたら良い。自分の作った作品をしばらくして見てみると改善点が分かるかもしれない。コンテストに出るなら審査員がどんな感想を抱くのか想像してみるのも良いと思います」
修造は普段あまり話さないがこんな時は口数多く話す。
「飾りパンにも色んなパターンがある。平面を組み立てるもの、織り込んで立体感を持たせるもの、固めて立体感を作るもの。より自分のイメージに近い素材を考えてパーツを決めていく。自分がどこまでこだわれるか、それが作品に投影される。そしてパンで様々な素材を作り出して使うとこの世で無二なものができる」
そのあと修造は2種類の編み込んだ生地の焼成後の物を見せた。一つは編み込んだ縦と横の紐状の生地同士が引っ付いてしまっている物。もう一つは縦と横がパキッと質感が表現出来ているものだ。

「一見簡単そうに見えますが、柔らかすぎて生地と生地が引っ付いてしまうとなんともダサい感じになってしまう。本物の質感を追い求めて何度もやってみて最適な固さと素早さを練習するんです」
そう言って修造が話してる間に江川と立花が用意した細長い生地を今度は布の様に編んでみせた。
「これは世界大会で使った編笠の枠を使っています。そこに生地を編み込んでいきます」
本物の編笠ほど細かい編み目ではないがサッサッとリズム良く生地を編み込んでいき、皆に見えやすい様に掲げた。
「これも何度か練習しました。自分の場合、助手の江川と一緒にベッカライホルツに通わせて貰って大木シェフに色々教えて頂きました。その時の経験があるから今の自分があるんです。この中にはパン屋のオーナーでなくてお勤めの人も沢山いると思います。何回も練習するのは仕事しながらとか、材料費などの金銭的な事、場所の事など様々な問題がありますが、オーナーと相談して協力してもらいながら自分の技術を育てていって下さい。そして技術を身につけて下さい。自分は空手の師範にこの様にいつも言われていました『誰がみても良い型をすると何人かの審判も旗を上げざるを得ない』つまり審査員も好みがある、しかし多くの人の胸を打つものができれば票は割れたりしません。是非それを見つけて下さい」
修造が一礼してそう言い終わると満場の拍手が起こった。
後藤は一際大きいリアクションで拍手しながら感動して泣いていた。
初めは嫌がっていた講師の立場だったがいざやってみるとまだまだ話し足りない事ばかりだ。最後の編笠は結局時間が足りず、終わってから大坂に焼成して貰う。
後片付けをしている修造の所に後藤がやってきた「修造シェフ、本当にお疲れ様でした。いやはや内容の濃い素晴らしい講習会でした」
「もう少し話したかった」
「そうなんですか、じゃあ来月にでも」
「それがそうもいかないんです。期限が迫っていて」
「なんですか期限とは」
「後藤さん、あなたには色々頼み事もされたけど陰に日向に世話になりました、感謝してます。俺が旅立った日には江川をよろしくお願いします」
「それは勿論、、もうすぐ行ってしまうんですか。そんな寂しい」
「意外と近いですよ、いつでも会えます」
そう言って修造は笑った。
I’m not a hero おわり
次回に続きます。
タイトルは 「Auf Wiedersehen(アウフ・ヴィーダーゼーエン)江川」です。
修造は江川に最後の修行をさせようとしますが、江川はそれを乗り越えられるのでしょうか、そしてその後に江川を待ち構えていたものとは。
読んで頂いてありがとうございました。
飾りパン、素敵ですね。
パン・アーテイステイックやパンデコレと言われる飾りパンは糖度の高い生地を様々に形作りインテリアとして飾ったり、コンテストに出品したりする物です。生地には酵母を使わず、焼く前に小麦粉を溶いた物を糊がわりにしてパンの上に飾りを取り付け形作ったり、焼成後のパーツを水飴などで取り付け、組み合わせたりするものです。コンテストでは素晴らしい芸術作品がパン職人さんの手によって組み立てられます。
この回では制約なく修造が好きに飾りパンを作りましたが、コンテストではテーマによってどの様なものが作られるのか決められる事もあり、例えば「音楽」というテーマではカエルがドラムの上で音楽を奏でていて本当に楽しそうで曲が聞こえてきそうなものなどワクワクするものが実際にありますが、色の規定や幅などの厳しい決まりを乗り越えて制作された物です(2020クープデュモンドドゥラブーランジュリーピエス・アーテイステイック作品)
「パン職人の修造」でもコンテストに優勝するまでの様々な事柄を想像して書いています、決められた時間や制限の中でパン職人は優勝目指して戦っている。
※パンスイス=最近のシャレオツパン。クロワッサンの生地にチョコやクリームを挟んで焼き上げたパン。様々な進化系がある。
※生地にバターを織り込む=クロワッサンの生地に油脂(バター)を挟んでパイローラー(生地を平らに伸ばす機械)で伸ばし、生地に層を作る作業。焼成時に油脂を蒸発させ、層を浮き上がらせたのがクロワッサンの綺麗な筋目。
※バゲットジャンキー=伝説の流れ職人、パン職人の修造バゲットジャンキーに出てくる。
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