パン職人の修造 江川と修造シリーズバゲットジャンキー

「修造さん」
選考会が終わった後、北麦パンの佐々木が声をかけてきた。
「俺、絶対勝ちたかったんですよ」
「すみません、、あの、店を休んで特訓してたって聞きました」
「そこまでやって勝てなかったなんて悔しいな。先生にもついて貰ってたのに。ま、結局は俺の実力不足かな」
佐々木はやや自嘲気味な言い方をした。
「こんな事俺が言うことじゃないけど是非次回頑張って下さい」
2人は握手した。

「本当だね、修造さんが言うことじゃないよ」
そう言って佐々木は笑って去って行った。
ーーーー
「修造さん荷物を運んで帰りましょう」
「うん、江川良かったな」
「はい、修造さんもおめでとうございます」
「ありがとうな江川。いつか感謝を形に変えるよ」
「感謝なんて、テヘ。僕が勝手にやった事ですから」
そう言いながら2人は会場の裏にある駐車場に荷物を運びパンロンドの配達用の車に積み込んだ。
「控室に戻って大木シェフに挨拶して帰ろう」
「はい」
2人が駐車場から通用口に入り長い廊下を歩いている時、向かいから帰路につく沢山の会場スタッフが長い列を作って歩いてきた。
修造はぶつからない様にそれをよけて廊下の端を素早く行き過ぎた。
その時江川と少し距離ができた。

スタッフに紛れてオレンジ色の大きなスーツケースを押した背の高い男が歩いて来る。
そのトランクには沢山の国のものと思われるシールがベタベタと不規則に貼ってあり、中には剥がれたあとや、剥がれかけのものもある。
江川はそのトランクを見て、剥がれかけたシールなんて外せばいいのにと男の顔を嫌悪感のこもった目で見た。
男は立ち止まり「おめでとう、頑張ったね」と労をねぎらった。
江川が一瞬頭を下げて行きすぎようとした時、男がメモを渡してきた。
「これ、お兄さんに渡しておいて」
江川は、話したこともないのにお兄さんなんて言い方は軽すぎると思って苛立った。
不機嫌に黙ったままメモを受け取りそのまま遠ざかった江川をしばらく見ていたがやがて駐車場を通り、外に出てタクシーを捕まえようと歩道に立った。
ーーー
江川は控え室に戻り、大木と話している修造にメモを渡した。
「通路を歩いてたら渡されました」
珍しくイライラしている江川に「どうしたんだ?疲れたのか?何かあった?」
「別に、何もありません」
「そうか」そう言ってメモに書かれた文字を見た。
人生は数奇なり
己の運命に流されても己は流されるなかれ

あ!この字!本に挟んであったメモと同じ文字だ!
「江川!この人どっちに行った?」
「さっきの駐車場の方に行きました。小汚いオレンジ色の大型のスーツケースを押してました」
修造の慌て様に驚いて江川が言った。
修造はもう一度長い廊下を走って通用口を出た。
駐車場は搬出のスタッフでごった返している。車の一台一台を見て回ったがオレンジ色のトランクはもう車の中なのか全然わからない。
「もう帰ったのかな」
仕方ない、俺とその人がどこかで繋がってるならまたいつか出会えるだろう。と、次のチャンスを待つことにした。
でも気になる
なんだ
流されても流されるな
って
どういう意味だ。
俺は順調だ。
愛する妻と可愛い子供
数奇な事なんて何もない
なんだ名乗りもせずに
速足で廊下を歩きながら
修造は頭の中で文句を言っていた。
ーーーー
新名神高速道路に入った帰りの車の中
せっかく二人とも優勝したのに口数が少なかった。
しばらくすると江川は少し不機嫌が直ってきた。イライラがおさまってきた様だ。
「僕ホッとしました。これで二人で世界大会に出られるんですね。夢みたい」
「だな」

「僕、鷲羽君がトラブルがあって、なんて言っていいかわからなかったです」
「あんな事になるとは思わなくて園部も気の毒だったな」
「コンテストが終わるまで何も知りませんでした。僕なら泣き喚いてたな」
「他の選手に知れるとみんな動揺するだろうから知らなくて良かったよ。鷲羽は自分にも非があるからって犯人はお咎めなしになったんだ」
「へぇ〜。鷲羽君って本当はいい人なのかな」
「口は悪いけど悪いやつじゃないよ」
「帰り際声をかけた時フランスに行くって張り切ってました。僕達の事応援してくれるって」
「うん、大木シェフや佐久間シェフも協力してくれるって言ってたな」
「はい」
辺りは段々暗くなり、名古屋を過ぎた辺りで修造が言い出した。
「なあ江川!俺、男の子が生まれるんだよ。こないだ律子と産婦人科に行ってお医者さんにエコーを見せて貰ったんだ!どんな名前にしょうかなあ〜ウフフ」
「えっ?」
急にガラリとソフトムードになった修造に江川は驚いた。
ウフフだって、、いつもシブイ感じなのに、、
勝負みたいな事が終わるとホッとして家族に会いたくなるんだろうな。
「楽しみですね!」
「そうなんだ!どこかに寄ってお土産を買って帰ろう」
「はい。僕もみんなにお土産買いたいです。駿河湾沼津 のサービスエリアにのっぽってパンがあるの知ってます?それも買いたいなあ」
「寄ってみる?夜でも売ってるのかな?」
「いっぱい買っちゃお!桜海老のパイや卵の形のプリンもあるんですよ!」
「お前よく知ってんな、、」
ーーーー
夜中、パンロンドに車を返してアパートに帰り着いた修造は、荷物をいっぱい持ってみんなを起こさない様にそっと入って来た。
リビングの明かりが少しだけ差し込む寝室の、緑の可愛い寝顔を見つめて目を細めうっとりしていると、布団の中から律子が声をかけた。
「お帰り修造。おめでとう」
「律子、ただいま。大変な時に家を開けてごめんね」
そう言って急いでパジャマに着替えて布団に入り愛妻の手をそっと握った。
「私絶対勝つってわかってわ」と手を握り返した。
「どう?」と言ってお腹をさすり赤ちゃんのご機嫌を伺った。
「元気よ、すごく動いてる。ほら」修造はお腹に手を当てて手のひらに神経を集中した。
グニ
と手応えがあった気がする。
「あ!」わかったよと言う修造の嬉しそうな顔を見て律子も満足げにしていた。
修造はそのまま律子の顔を見つめながら目を瞑り寝てしまった。
修造の顔を見ながら「おかえり」と呟き、高い鼻頭をツンツンと触った。
ーーーー
次の朝早く自転車に乗ってパンロンドについた修造は工場に入った時何かしらの異変を感じていた。
「なんだろう?何かおかしい」
すでに来ていた親方と藤岡と杉本が修造を取り囲んで「優勝おめでとう!」と口々に言ってくれた。
「ありがとうございます。あの、、店の色が変わってますよね?」
「そうなんだよ!こっち来て!」
親方は修造に店の中を見せた。
「あ!!!改装してる」

「凄いだろ?修造と江川がいない間に大急ぎでリフォームしたんだ。ずっと藤岡と一緒に計画を練って。業者に頼んだり話し合ったりしてたのさ、な!藤岡」
「はい、修造さんに内緒で動いてたんです。内装は僕も勉強してあれこれ考えました」
「全然わからなかったな、、、」
「お前を驚かそうと思ってな!それにほら見て修造」
親方は商店街の道路に面したガラスの所を指差した。そこは出窓調になっていて何も置かれていない。
「ここにお前と江川のパンデコレを飾るんだ」
「えー!優勝しなかったらどうするつもりだったんですか?」
「どうもこうもねえよ。実際優勝したろうが」
と大声で笑い、入口の横のパン棚を太い腕で指した。
「ここはお前のドイツパンのスペースだ」
修造は親方の行動力にポカーンと口を開けながら感心していた。
「さ!もうすぐ新生パンロンドの開店だ!仕事に戻るぞ!」
「はい!」
その日は修造は親方と色々話し合ってドイツパンの種類を絞り込んだ。
商店街の人にも受け入れやすいドイツのパンか、、
パンロンドには自慢の山食『山の輝き』、『とろとろクリームパン』、『カレーパンロンド』その他人気の品が沢山ある。それと被らない様に構成を考えなきゃ。
修造はドイツで働いていたお店のヘフリンガーの人気のラインナップを思い出していた。

1番上の棚は※ロッゲンブロートとか※穀類を使ったメアコンブロート、ミッシュブロート、ラントブロートなどをずらりと。
2段目辺りはプレッツェルとカイザーゼンメル各種、ヘルンヒェン、オリーブバゲットなど。
3段目は※Schweineohr(豚の耳)やベルリナー、なんかの甘ーいパン。
その下は焼き菓子を置いて、冬になったらそこは山もりのシュトレンを置くか。。
午前中店内に満タンに作ったパンも夕方にはすっかり売り切れてまた明日の朝が来る。
東南商店街の道ゆく人達はパンデコレをガラスの向こうからシゲシゲ見て、写真を撮ったりしていたが、やがてそれは噂になりまた遠くからパンロンドのパンを買い求めにくる人が日々増えていく。
親方と奥さんは、シフト表をよくよく考えて書き、佐久山と梶沢、修造と江川、藤岡、杉本でローテーションで無理なく回していった。
次の休みの日
修造は一人でホルツに来ていた。
オレンジ色のトランクの男が渡してきたものを大木に見せた。
「この本とメモを書いた人について少しでも何かご存知なら教えて頂けませんか?」
「さあなあ」と言った後、大木はしばらく何か考えていたがやがて話しだした。
「修造、伝説の流れ職人って聞いたことあるか?」
「伝説の?いいえ」
「伝説のなんて大袈裟だし、少々盛ってると思うんだが」
「はい」
「昔山間部に住んでいて、造園を生業にしていた若者がいたんだ。そいつは客の意志を読み取るのか上手くて相手の望む通りの庭作りをする事ができた。その噂は広がって遠くまで呼ばれて庭の手入れに行ったりしていた。

ある日軽井沢に呼ばれて、金持ちの別荘の庭の手入れをしていた。その素晴らしい庭作りに客が喜んでお代以外にも礼をしようとそいつを懇意にしてる近所のフレンチレストランに連れて行った。
そこは剛気な性格のフランス帰りのシェフがやっている店で、食事が2品ほど出た時、シェフがテーブルに挨拶に来た。そして焼き立てのバゲットを持って来て包丁とまな板をテーブルに乗せパンをカットしだした。
「今窯から出たばかりだよ。このルヴァン種のバゲットは俺の自慢なんだ」
客に「美味いから食べてみなさい」と勧められてその造園業の若者はカットされたバゲットを口に入れた。

途端にルヴァンの風味と小麦の旨味が、クラストの歯応えとクラムの水分を含んだ食感が、そして窯の熱気を含んだエアが口に広がった。
大袈裟だが脳内で美味さが爆発したんだ。
出会ったことのない美味さに衝撃を受けてその場でシェフに弟子入りしたいと言い出した。シェフは驚いたが、男が自分の作ったバゲットを全部食っちまって本気で感動しているのが気になって、その男を弟子にしてやったんだ。
男には家庭があったんだが、突然パン職人になると言って、造園業を廃業して長野県に行ったまま帰らなくなった夫に愛想を尽かした奥さんは、男に離婚届を送りつけて実家に帰ったんだよ」
「ええ?随分衝動的な人ですね」
「お前だって突然ドイツに行きたいって言ったんだろう?」
「え?それは、まあ、あの、はい」
大木は笑いながら「人の事は言えないなあ」と言った。
「どうしても行かなきゃならなかったんだろう」
「あの、、俺ずっと不思議だったんです。大木シェフは俺たち部外者を弟子のようにして下さって色々教えて貰ってるのは何故なんですか?その伝説のなんとかと関係あるんですか?」
「運命ってのは不思議なもんだよ」
「運命?あのメモにもそんな事が書かれていました」
大木は思い出していた。

俺が若い頃、あいつとNNホテルのパン部門で働いていた。
佐久間と鳥井も一緒だった。
毎日が発見の連続で、俺はあいつに心酔したんだ。
江川を見てるとあの頃の俺を思い出す。
こんな日が永遠に続けばいいと思っていたが、あいつは職場を去った。
最後の日に俺にこう言った「これから若いものを育ててパン業界を盛り上げるのが俺たちの使命なんだ。約束だぞ」ってな。
その後俺と鳥井はドイツへ、佐久間はフランス。あいつは世界各地を回って何年も帰って来なかった。
おい!俺は約束を守ってるぞ。
急に、考え込んでいる修造に向かって大木が声を張った。
「これから色々大変だぞ!他の事は気にせずに江川と息を合わせて集中して練習しろ!優勝して貰わないとこうして教えてる意味がないだろ?わかったらどんなメニューにしたいのか考えて書いてこい!」
「はい」
帰りの電車で結局大木にはぐらかされたんだと思った。
「そいつその後どうなったんだ、、」
でも今日少しだけ分かった。
またそのバゲットジャンキーの事を少しずつ聞き出して点と線を繋げてやる!
修造は心の中で密かに決めていた。
パンロンドに戻り、仕込み中の親方に「伝説の流れ職人って聞いた事ありますか?」と聞いた。
「ああ、そういえば昔そんな噂を聞いた事あるな、色んな店を渡り歩いてヘルプに入って従業員を牛耳って技術を教え込み、店の格が上がると噂になってあっちこっちで呼ばれてるとかなんとか。でもそれ、俺が修行時代の事だから15年以上前のことでさ、その後世界各地に呼ばれるようになって殆ど日本にはいないから連絡もつかないって話さ」
「へぇ〜」
「会ったことあんのか?」
「多分」
「多分?」
「その人の作るバゲットが美味いんですか?」
「そうだな、日本の色んな店で修行して回った後フランスに渡ってからは各国を回って帰ってこなくなったとか聞いたことあるよ。そこでも延々と修行したんじゃない?」

そうかオレンジ色の大きなトランクであちこち回ってるのか。
世界中を自由に。
旅の楽しさと、行った先で出会った世界のパン職人。
勿論苦労もあると思うけどずっと続けてるのは
それでも構わない程夢中になれる事があるんだろう。
うわ、ちょっと憧れちゃうなあ。
「その人パンの世界に没頭したんですね」
「そうだな、他のものを全て捨てても欲しいものがあったんだろな」
パンの製法も概念も時とともに変わりつつある。それを追い求めて広めたい。
修造はまた少し分かった気がした。
ーーーー
家に帰って本に挟んである2枚の紙を見た。
まるで俺が数奇で運命に流されるみたいじゃないか。
これが予言めいたものでないことを祈るよ。
いつかまたどこかで出会うだろう。
その時に聞いてみたいこの言葉の意味を
バゲットジャンキーに
おわり
ロッゲンブロート ライ麦90%以上配合されたパン
メアコンブロート ライ麦100%使用 ひまわりの種、オートミール、胡麻、亜麻の実などの穀物をまぶしたパン
ミッシュブロート 小麦粉とライ麦粉を同量配合したパン
ラントブロート ドイツの代表的な 食事パン ライ麦70%配合
Schweineohr(豚の耳) パルミエの事 ドイツでは豚は幸運のシンボル
パンの流れ職人とは 昭和の時代 戦後からバブル期に至るまで、パン屋の忙しさは熾烈を極めました。戦後甘いものに飢えた人たちがあんぱん、クリームパン、ジャムパン、デニッシュなどを買い求めていましたし、それがバブル前どんどん購買熱が加速していきました。流れ職人斡旋を生業としている人たちが、手の足りないパン屋さんに職人さんを紹介するのですが、短期の人も多く、しばらくするとまた次の職場へ行くパターンが多かったのです。
当時はスーパーもコンビニも無かったのでパン職人、特に父ちゃん母ちゃんの店は毎日が超多忙でした。バブル前、パン業界だけでは無かった事ですが、なるべく世界中の食べ物を紹介する業者や、時間短縮の為の食品を考え出す会社が増えて行きました。
バブル以降はリストラと言う言葉が横行して、その後皆さんもご存じの職業斡旋業がどんどん出てきて流れ職人もそれを斡旋する人も少なくなっていったのです。
このお話に出て来る背の高い男は、どちらかと言うとヘルプ的要素が強いですし、長くやっていくうちに先生として呼ばれて赴く感じです。世界中のパンが見てみたかったのでしょうね。
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