
鷲羽秀明(わしゅうひであき)は東京NN製菓専門学校パンコースを首席で卒業した。
在学中は学科、実技ともに他を圧倒する実力でその名を学校中に轟かせた。
教室の中では何もせずとも楽にトップでいるそぶりだったが、心の中では絶対に誰にも自分の前を行かせまいと躍起になり、陰では人一倍パンに関する何事でも頭に入れようと努力していた。
にも関わらず、トップを走り続けていると自分は何かのエリートではないかと思える、そして自分より遥かに後ろを走ったり歩いたりしている同学年の生徒がなんだか小さな存在にしか見えず、段々不遜な性格が強く出て、小馬鹿にする態度を取ってくる鷲羽に話しかけるものは誰もいなくなった。
だが講師達はパンコンテストに出品させては賞を取ってくる鷲羽にとても目をかけていた。中には褒めそやして「君なら若手コンテストに出られるよ」と言う講師もいた。何度か言われているうちになんだかそれは未来に必ずやってくる出来事として鷲羽の心に刻み込まれていった。
ブーランジェリーホルツの入社試験に無事合格した。入社してからも野心家の鷲羽は先輩の真似をしては自分のものにしていった。
ある時ホルツのオーナー大木シェフに「今度からパンロンドの職人が奥の別室で特訓するから」と聞いてからは、やってくるであろう田所修造の事を調べて憧れを抱いた。修造の事をなんだか遠く手の届かない、ハイブランドな存在に感じていたのだ。
そしてその当日、修造と一緒に来た江川と言う若者は学校で見た誰よりも性格が頼りなく実力のない様に見えたので、一体何故こんな奴が大切にされるのか不思議で、踏みつけてやりたいと言う気持ちに駆られた。ところが足を引っ掛けて倒す様な事をやっても、いつの間にか起き上がって、なんなら自分よりも高いところから見下ろされている。
おまけに修造に凄く可愛がられていて、世界大会に出ようとしている。は?俺だよ俺だよ。お前じゃない。俺の予定を狂わせるなよ。
そう思って敵視していたその時、修造に言われた言葉がこうだった。
「美味いパンって言うのはいつも食べられる当たり前の存在であってほしいと俺は思ってる。だから天候や気温に合わせて種や生地の面倒を見て良い状態で焼成まで持っていく、そうすると美味いものができるんだ。お前は江川の事をライバルで、戦わなきゃならないと思ってるのかもしれないが、お前がこれから戦うのは自分自身なんだ。お前の作ったものを選んで食べてもらう為にな。それは必ず美味いものでないといけない。形だけ勝っても意味はないんだ」
ライバルに勝とうとしているのに、本当の戦いは自分自身と?俺が俺に打ち勝つのは一体どんな時なのか。
毎度大木が出してくる課題に誰よりも良いものを出す。そう言う事なのか?
鷲羽は頭をかかえた。
何度練習して結果を出しても、最後は江川が追い越していく。
そんな折
鷲羽と江川のパン作りはとうとう他人の手によって審査される時が来た。
「次来た時、一次審査のパンを送るから」
大木は皆の顔を見ながらそう言った。
締め切りから逆算して日にちを決めたのだ。
そう聞いた途端、なんだか身体の血の巡りが早くなり瞼が痙攣する。
鷲羽は仕事中も出品する事を心がけて命を込める気持ちだった。
今までこんなにまで打ち込んだ事はない、そのぐらい。

配送の日が来た。
自分達の作ったパンを焼けてすぐに良いと思ったものを選んでフリーザーで凍らせた。
完全に凍るまで工場で仕事を手伝う。パンロンドから来た二人にとってとても勉強になる時間だ。そしてついに梱包をする時間が来た。丁寧に梱包して、大木が手配した配送業者に渡す。
「工芸品の様に大事な物が入ってるんだ。頼むよ」どうやらこの時のために知り合いに頼んだ様だ。大木に馴染みの配送業者は丁寧に頷いて冷凍車に積み込んだ。
「緊張するな」「はい、僕心臓がドキドキします」配送業者がパンを持って行った後の修造と江川の会話だった。
園部は黙ったままだったが、一体どんな事を考えていたのか。
冷凍で配送されたパンは会場に並べられて審査される。
さて、審査が終わり、大木が選考会への切符を受け取る選手の名前を述べた。
まずは選考会には修造が選ばれていた。
それを聞いた時修造は「ふぅー」っと息を吐き、緊張を解きほぐす仕草をした。そして他の選手の名前を覗き込んだ。「あ、北麦パン!」パン王座決定戦で一緒だった北麦パンのチーフシェフ佐々木の名前があった。他にも有名店で働いている職人の名前が二人。
「北麦パンは凄い特訓をしてるよ」大木は何かと色々知ってる様だった。
次に大木は気になる若手コンテストの選手の名前を述べた。
「江川と鷲羽が選ばれたよ。園部、残念だったがこれを機に更に飛躍する様に」
「はい」
相変わらずポーカーフェイスの園部を見て、学校時代の自分なら気にもしない所だが、鷲羽はやっと、自分と同じ立場でさっき迄同じ心配をしていた園部の心中がわかる様になってきた。
「園部ごめんな、俺、お前の分も頑張るよ」
この言葉がこの場にあってるのかどうか鷲羽には分からなかったが、何か声をかけずにはいられなかった。
「俺、この場にいて良かったよ。勉強にもなったし。応援してるからね秀明」
「うん」
人に向かって何かしらの優しい言葉をかけたのは生まれて初めてだった。
江川が「鷲羽君、入選おめでとう。頑張ろうね」と言ってきた。
澄み切った水辺に輝く宝石の様に瞳がキラキラしている。
自分には全くキラキラした所が無い。思えば自分と江川のパン作りの違いもそんな所では無いのか。ふとそんな事に気づく。
白い鳥の羽の様な、青い空に浮かぶ白い雲の様な、鷲羽から見た江川はそんな風に見えた。
鷲羽は江川の言葉に対して斜に構え少しだけうなづいた。
大木が帰ろうとする鷲羽と江川を呼び止めた。「お前達には修行も兼ねてベーカリーベークウェルのヘルプに行ってもらう、江川が次に空いてる日に鷲羽も行ってきて良い。江川、決まったらメールくれよ」
「はい」

帰りの電車で江川は修造に質問した。
「ヘルプってどんな事をすれば良いんですか?」
「そうだな。ベークウェルって五店舗ある町のパン屋さんなんだけど、そのお店がイベントとかしたら沢山のお客さんに来てもらえるからその分沢山パンがいるだろ?だから手の足りなさそうな所を手伝ったりするんだよ。店の人にに頼まれた仕込みや成形をするんだ」
「へぇ〜僕初めてです。どんなのかなあ。。それに、、鷲羽君と一緒なんですよ」
江川は不安そうに少し涙目で言った。
「それは、、頑張ってね」そこに呼ばれていない修造はそう言うしかなかった。
さて、江川は空いてる日を大木にメールした。するとベークウェルの地図と持ち物、日時を書いて送り返してきた。
大木はホルツで仕事中の鷲羽に、この日に江川とベークウェルに行く様にと言ってきた。
なんで俺が江川と行かなきゃいけないんだ。
鷲羽は心の中で愚痴をこぼした。あのキラキラした江川をずっと見てなきゃいけないのか。うんざりだ。
ベークウェルはお洒落な設計で、敷地が四十坪、店と工場は半分ずつに分かれており、店部分の三分の一はイートインスペースだ。お店にいる三人の店員さんに挨拶して中に案内して貰う。
江川と鷲羽は別々に着いてその店の店長に挨拶した。
「店長の杉野です。来てくれて丁度良かったよ。明日から三日間、開店五周年の創業祭があるんだよ。今日は二人ともよろしくな、あそこにいる塚田って子が指示してくれるから」
二人は同時に塚田を見た。
細身の塚田の制服はうす汚れていてヨレヨレしている。それがなんだかやる気のない様子に見えた。表情もどこか頼りなげだ。
塚田はぺこっと頭を下げて二人にバゲットの成形を促した。
「おい!ちゃんとやっとけよ!」塚田に罵声とも言える言葉を残して店長がどこかへ行ってしまったので、工場の中には塚田と焼成のところに三田、仕込みのところに辻と言う従業員、そして江川と鷲羽の五人になった。

「塚田さんって幾つなんですか?」と気さくに江川が質問した。
「ニ十五です。元は本部にいたんです、、こちらに来て一年目になるんですがもう辞めようと思っていて」まだ話し出したばかりなのに塚田は何故かやめる事を言い出した。
「なんで?」なんだか自分が普段目指してるものと違いすぎて帰りたくなった鷲羽が聞いた。
「それは、、」塚田はチラッと店長が出て行った跡を見た。
「あの人が嫌なの?」江川もそちらを見て言った。
「はい」
パワハラかなんかか?もうさっさと仕事をやってしまって帰ろうと決めた鷲羽は「何が修行だよ、一日損した」と呟いて突然黙々と仕事をしだした。
鷲羽の険しい表情を見て、江川はそこからなるべく遠ざかって塚田と一緒に成形しながらしつこく質問した。
「何が嫌なの?」ホルツやパンロンドにはいないタイプの塚田が珍しかったのだ。
「ここにいても何も解決しない」
「例えば?」
「おい!江川。そんなやつほっといてさっさとやろうぜ。やる気のない奴は辞めたらいい」
「鷲羽君、そんな言い方しないで」江川はオロオロした。
修造ならこんな時なんて言うだろうと考えていると塚田が言った「やる気ないわけじゃないんです」
「ならなんで辞めるんだ」要領を得ない会話に鷲羽はイライラした。
「ここには問題が沢山あるんです」と突然後ろから声がした。
仕込みをしていた女性が話しかけて来たのだ。
「あ、急にごめんなさい。塚田さんもヘルプの人達に中途半端に言わないでよ」
「ごめん」
「ここは経営者は別にいるんです。店長は目が行き届かないのをいい事にサボってばかりいて」
「注意すればいいだろ?」
「無駄ですよそんなの」
もう一人の焼成の担当三田も話しかけて来た。
「店長はすぐにキレるんです、注意なんてしたら一日中機嫌悪いですよ、それに二言目にはお前達は効率が悪いってキレてます」
「えー!嫌だなあそんなの」
「だから辞めるのか」
「それもあります」
「問題を解決しないと次に入ってきた人も同じ事になるんじゃないかなあ」江川の言葉に乗せて、鷲羽は塚田に言った。「例えばお前が受験生だったとする。第一志望に受からなくて第二もダメでヂ第三なら受かった。こんなとこに入りたくなかったとずっと不満に思うか、自分がこの学校のトップを追い抜いて更に上を目指して学校の格を上げるか。要は気持ち次第だろ」
「ここって色々問題あるんだよ。例えばさ、それ、店長どうのこうのより袋の中のクリームは綺麗に使い切ろうよ。ほらこれを使うとすごい綺麗に使い切れるぞ」
鷲羽は窓拭き用の小さな四角いワイパーを持ってきて洗って搾り袋を持っている三田に渡した。
ワイパーの薄くなっている部分で搾り袋を押していくと袋の中のクリームが綺麗に使い切れた。
「スケッパーって使い込んでるうちに先が凸凹してくるけどこれなら密着する。さっきから気になってたんだよ」
「ほんとだ!」
三人はしぼり袋の中のクリームが綺麗に使いきれているのを見て「へぇ〜」っと言った。
「僕もちょっと良いですか?」江川も口を挟んだ
「ほら成形してるところとバゲットを乗せる板が離れすぎてて運んで置いてると形が悪くなっちゃう。近くに置いてやればいいのになんでわざわざ遠くに置くのかちょっと思っちゃいました」
「作業する時にさ、同じ事を繰り返す瞬間があるんだよ。その時に手は動かして頭の中では次にする事どころかその日の行程をすでに考えておく、するとえーととか言って次に何するかその時になって考えなくてもいいのさ、それが効率化だよ」調子に乗ってきた鷲羽の口が軽くなってきた。
「あとはこっちの仕事とこっちの仕事、どっちを優先させるか考えるのも大切だよね」
「店長が殆どサボってて私達何も聞いてないので我流が多くてお恥ずかしいです。貴方達みたいなのがうちにもいたらな」三人は顔を見合わせ頷いた。
「あの、実は。。」「えっ?なに何?」三人が言う事を江川が乗り出して、鷲羽も仕方なく聞いていた。
「鷲羽君、僕たちも協力してあげましょうよ」
「嫌だよ。俺に関係ねえし」
「怖いんでしょう」
「そんな訳ないに決まってるだろう」
「じゃあお願いね」
「フン」
鷲羽は嫌な顔をしたが、江川の前で怖そうにもしていられない。
「協力しても良いけど条件があるぞ。俺をパンロンドで一日勉強させてくれよ。インターンシップってやつだよ」
「えっ」鷲羽がまさかパンロンドに来るなんて想像もしてなかった江川はどうなるか想像して足が震えた。みんなの鷲羽に対する印象はあまり良くない「お、親方に聞いておくね」
「よし!やる気でてきたぞ!」
鷲羽は勢いで乗り切る決意をして、店長が戻って来る前に時間を組み立て全員で力を合わせて仕事を片付けた。
店長が戻ってきて誰かと電話で話している。「始まりますよ」塚田が言った。「うん」二人は返事して、江川は「塚田君、電話した?」と聞いた。「はい、すぐ来るって言ってます」
そのうち納品業者が来て、店長と外に出て行った。
「よし」鷲羽は江川と二人で静かに外に出た。店の横のレンガ調ののタイルを敷き詰めた階段が下へと続いている。店長達は倉庫のある地下一階のドアを開けて入っていった。

「江川、行くぞ」
「うん」
二人がそーっと小さな窓を覗くと業者と店長が話している。そして封筒を受け取ったところに鷲羽がドアを勢いよく開けた。
「見たぞ!ワイロ受け取るところ!」
店長が、ギクッとした。
「あんた横流ししてるだろ!」
「何言ってるんだ、納品書を受け取ったところだよ」
「嘘つけ」
「何が嘘だ」
「封筒の中を見せてみろ」
店長より背の高い鷲羽は上から封筒を取り上げた、店長が取り返そうと揉み合いになりそうになり、その隙に業者が慌てて帰ろうとしたので江川が「ちょっと待って!帰らないでね。どうせ会社の名前もわかってるんですよ」と引き留めた。
と、そこへ
「そこまでだ!」と社長と塚田が入って来た。
「あ!」店長が社長を見て叫んだ。
「在庫製品を倉庫から間引きして転売していただろう!俺はずっと塚田に頼んでお前の様子を見てもらってたのさ。お前には選ばせてやる。業務上横領で訴えられるか自ら辞めるかだ」
江川と鷲羽はそれを後ろで見ていた。
「鷲羽君あれ」
「うん」
塚田が急に顔つきと姿勢がが変わってしゃんとし出したのを。
「店長、あなたはこの職場に相応しくない、指揮が下がります」
「塚田!お前裏切ったな?」
「裏切ったのはお前だ!僕はずっと不正を暴くために詳細な在庫管理をしていたんだ、続きは社長と事務所でするんだな」
塚田が社長の代わりに強い口調で言ったので社長は転売業者に「お前もな、もうすぐお前の上司がここに来るってさ」
そんな顛末を見守ってから二人は階段を上がった。
「江川、片付けて帰ろうぜ」
「うん鷲羽君」
いつのまにか二人は元々二人で一組の様な感じになっていた。

「鷲羽君ってさ、リーダーシップあるんじゃない?今日カッコ良かったよ」
江川は、そう言われて照れる鷲羽の顔を覗き込んだ。
「何言ってんだよ!」
「うふふ」
二人が話していると塚田が追いかけて来た。
「変な役をやってもらってごめんね、おかげで助かったよ。月一回業者が来て商品を横流しする日が今日だったんだ。高額な物を仕入れるから怪しいって思って調べていたんだ。それに、、江川君が色々聞くからつい言っちゃったんだ」
「えっそうなの?ごめんねなんか」
「おかげで勢いでスピード解決したよ。ありがとう」
「お前辞めるなんて嘘だったのか?それとも社長のいてる本部か何かに戻るのか?」鷲羽が聞いた。
「僕、ここに残るって社長に言ってみるよ。今抜けたらみんな困るし。そうだ!まだ時間あるから今から工場を改善する方法をみんなで考えようよ」
三人は口々に色々案を出しながら工場に戻って行った。
おわり
このお話は2022年02月15日(火)にパン屋のグロワールのブログに投稿した物です。
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